• 検索結果がありません。

権利主体と私法上の能力 利用統計を見る

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "権利主体と私法上の能力 利用統計を見る"

Copied!
40
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

権利主体と私法上の能力

著者

三野 陽治

著者別名

Y. Mino

雑誌名

東洋法学

13

2

ページ

29-67

発行年

1970-01

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00006124/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

︿研  究﹀

  権利

主体

私法上の

能力

三 野 陽 治

八七六五四三二一

  霞  次 序  論 権利能力の概念の発生と発展史 権利能力の相対化 人間の類型化された権利能力 権利行使と行為能力 行為能力の相対化 法律行為能力 不法行為能力 権利主体と私法上の能力 二九

(3)

東洋法学

三〇 脚 序 払、 酬肇  現在の法体系は権利主体を権利義務の可能的主体として把握するから.権利主体性を権利能力をもつという特質と 同一視する.如何なる者が権利能力をもつか.すなわち権利能力ある人といわれうるためには如何なる前提要件を充 足すべぎかは聞題となる法規によ鯵探究されねばならない、これらのことが論理性と取引の安全のために、使用され る概念に確定的な内容を与えなければならない。  特に権利能力の概念にはごのことがあてはまる、︸般に権利義務をもつ膿とのできる権利能力があるとい、賢ことは どういう意味であろうか、もう一度この概念が意味していないものは何か.この対立を形成するものは何かを間題と しよう、通常、権利能力には自己の法律行為により権利義務を発生させる特質として行為能力が対比される、  この概念も特別の私法上の概念であり.私法において決定的な私的自治の結果である、法律は基本的には如何なる 権利義務が創造されるかを私人の意思に委している、これに反し私法上の法律関係の設定の権能を誰がそして如何な る要件の下にもつべぎかを組織的規定により決定している。この法律行為により法規を設定する私人の権能は私人露 身を超越して存在する裁判所に由来するということは論理的必然性をもって明らかになる。何故ならば一方において は人は如何に行為すべきか  すなわち権利か義務か  他方においては誰がこの行為規則を拘束力をもって設定す るかが決定されなければならないからである。後の閲題は論理的な関係である。それは拘束力たる行為規則は、誰が

(4)

この行為規則を創造する権能をもつかが確定された後にはじめて探知される.、  すなわち私人が法を設定することができる以前に法規により私人が法の設定ができることが決定されていなければ ならないからである。この権能は私人が自身で法律行為により与えることができるのではない、むしろ、これは私人 が法律行為によってのみ行為しうることの必然的な前提要件である。一方では権利能力、他方では行為能力という二 つの特質の比較の場合、何らその交点は生じない。行為能力の中には一度発生した権利義務を保持する能力は思考上 当然には含まれないし、単なる保持の中には自己の行為により新しい権利義務を発生させる特質は添付されてはいな い。このような二つの概念の説明においてはこれらの概念が関係する権利または義務は同一なものではない。すなわ ち権利能力は既存の権利と義務に関係する一方︵何故なら既存のもののみを人が持ちうるからである︶行為能力は新       ︵王︶ しい権利義務の発生に奉仕するものである。  私的自治の原則は個人による法律関係の形成を認めるすべての私法法規の明瞭な基本原理であり、私的自治は自己 の意思による法律関係の形成と呼ばれている。自律がなされる範囲では他律は存在しない。意欲されそして個人の意 思自身が尊重されるから、意思による決定が効力を有するのである。私的自治による形成はそれが法により承認され る範囲で個人が意欲すること以外に何らの行為の正当化を必要としない。このような私的自治の本質そこで特に契約 自由が強調されるとぎにのみ如何なる範囲でそして如何なる要件の下に私的自治の法規が適用されるかの認識に至る    ︵2︶ のである。  契約は規制なき範囲において当事者の自律による人間関係の法的規割に奉仕するものである。このように一般的な    権利主体と私法上の能力       三一

(5)

   東洋法学      

三二 形式は発見原理のみを有し、その有効性はわれわれの法的生活の多様な諸現象に面してはじめて表われうるのである。 これらのことは前以って説明され.明らかにされねばならない。  すべての法は法的社会における人間の共同生活を規律する責務をもつ。法は.この社会の中にある人問を社会的人 として認め.このような人聞に種々の生活分野における地位を与え、その権力範囲を法定し相互に限界を設け.秩序 ある権力範囲としての職務と権限を基礎づけ.利益を帰属し、諸関係を創設し変更し解消し.そしてすべてのこのよ うに決定された法的地位と法律関係を必要な場合には法的強制を以って保護することにより、責務を果すのである. ここで鵜のすべてを述べることは無用であるが.まず第一にパγデクテγ体系を一見すると、社会秩序としヅ、の法は 個人に対する命令禁止と許可、個人の自懸能力利益の承認.個人の権能の付与、行為の当不当に尽きるものではない ことが重要である。むしろすべての法規と法制度においては物的利益の支配の承認と帰属の範囲でも同僚、法的仲聞 との関係が間題である.私法も権利体系としてよりも人間関係として解される法律関係と法的地位の体系として発展 すべきであり.法律行為の意昧も私的行為により法的地位と法律関係の発生.変更、消滅の機能に向けられるべきで  ︵3︶ ある。  しかしこの意味では行為能力︵麟§伽算餐難壽一︽魯︶は非常に狭く述べられている。すなわち行為能力は権利義務を発 生させる一般的権能のみを意味するのみならず、その他に既存の権利義務の変更と消滅、その実行.例えば単なる行使 にも必要である。このように一般的にはスイス民法は行為能力を規定していない。この亜種のみすなわち法律行為能 力︵スィス民法一二条︶と不法行為能力︵同一九条三項︶のみを規定する。これに反しスイス民法には︵ドィッ民法も同様︶

(6)

法律行為に入らないような適法行為の効力の要件に関する決定は存在していない。しかも権利実現の枠内で行為能力 が必要であることは権利行使自身の概念からひき出される。  通説・判例は権利能力と行為能力の区別を認めている。学説においてはむしろ、何故この二概念は一致しなくても よいのか、何故権利能力は同時に行為能力を前提としないのか、そしてその逆ではないのかという問題が提起され取      ︵4︶ 扱われている。  権利能力と行為能力の関係について研究する場合にはこの能力は共に人間の法律上の能力であり、これは自然人の みならず法人も有するものであり、特に行為能力は自然人においてはその自然の能力を前提とし、法人においては目 的を有する活動体であることを前提とする。自然人にあってはその年令、精神的健康、精神的成長と形成性は一方 では行為能力の内容と範囲の決定要素であり、他方権利能力の決定要素であるときは、当然相互の関係が更に理解さ れる。法学上この間題は統一するところがない。権利能力の本質を有効な行為の能力の中に見る旧来の通説に対し、 前世紀の中頃ω零蒔葛により権利を保有する能力として権利能力を意味し、権利を取得する能力としての行為能力 と鋭く区別されて以来その共通性についての問題が提起されてぎた。二つの能力の共通性を強調することに賛同する 論者が数多く現われた。最近になってドイッにおいて権利能力と行為能力を密接な関係で見る研究があり、法的人格 の概念を定めるにあたりこの概念を目的的に広く拡大し、権利能力を行為能力も包含することを要素とし、権利能力 は法的人格の最少限にすぎないとすると、完全な法的人格は有効に行為する能力と自己の不法行為上の責任を含むこ とになる。    権利主体と私法上の能力      三三

(7)

   東洋法学      

三四  法人の場合は法律または定款に定めている固的の範囲外の法律行為を機関がなしたときは、法的に効力を生じない ことになる。法人は権利主体であり意思主体である、法人がそのR的の範囲外で有効に行為し得ぬときは、この範囲 で権利能力も有せず、このことは権利能力と行為能力は共通であり、相互に依存する関係にあることになる。法人に これを認めるとぎ自然の意思主体である人間の場合はこの関係は如何になるか。人格発展の手段となる意思活動の承 認を主体に撃える権利を行為し得ぬ主体に帰属させることが重要なことであろうか。また権利能力ぱ行為能力によ紗        ︵5︶ 制限され.それにより相対化されるであろうか。  権利能力はすべての主体に平等であるとの意見が主張されるが、これは権利能力を固定的にして完全な価値を有し. 憔質上何の制限にも服しないし、当然すべての種類の法的関係に拡大していく普遍の法的能力と見る、しかし法人に はこの見解は正しく適合するとはいえない。法人は家族法の範囲では本質的に権利能力を有しないからである。人間 の権利能力にとっても幼児は自然の条件と実体法規により有効に行為しえぬ場合があり、これは権利能力の制限とな りその根拠は行為能力の中にある。これは行為能力の条件は権利能力の出発点を構成しこの場合には権利能力は完全 な意味の普遍的能力でなく段階に服するという結果に至ることになる。 ︵i︶ ︵2︶ ︵3︶ ︵4︶ 知9づ窪○麟塗辞αげ巽餌撤寄。誓霧舞環伽簿○①欝Φぎω。訂含N段σQ①磐纂窪 9饗の島誘σQ①。 。o湿淀駕群伽膨急惹欝葺08一鉱ρお①ρω﹃置押 [&≦蒔知巴。 。①びく鍵霞簿αQ。 。盆巳aOφ蕪劉く禽嘗お。 9坤亀おぎるΦρψ回9格 濁03銀5鷺艮属”餌鋤Q︶O o’δ臨¢ 嬢碧&︸おOρG o’ΦP

(8)

︵5︶守一欝頴ぴ誉霧︸菊。一㊤馨一愛留鷹欝。ぼω鍵話訂Fお舞¢∼3

二 権利能力の概念の発生と発展史

 ○○漠盆が述べたように、 閑き酔は権利能力の概念を使用しないとしても、市民社会の中でまず人間の一般的権利 能力の思想を宣言したのである。麟餌9はこの地位を人聞の価値を創る自由、人間の平等の自然の権利を以って基礎   ︵エ︶ づけた。倫理上の自己責任の哲学にとり、この一般的権利能力は、疑もなく、行為能力、理性的意思活動の能力と密 接に結合するものである。すなわち、倫理的決定の自由が人間に人、主体としての地位を与える場合には、自己の行 為を倫理上の責任に基づけるもののみが人である。自己の行為に責任の能力のあるような主体が人である。  囚節簿の思想過程は、権利能力の概念をドイッ法学に導入した8露ぴきけの学説を決定づけたようである。8窯訂暮 は自然上と民法上の権利能力の区別をしだ。彼は、自然上の権利能力をもつ主体として見られるものは理性と意思を もたねばならないが、一方、自然的権利能力を前提とする民法上の権利能力は一部排除しまたは全く排除されること ができる。円露訂暮は、理性と意思そして特に今日の意昧の行為能力を権利能力の特質のために要求することを認め る。すなわち、生きた生存能力ある人間も、そのものが理性の使用の自由のある限りでのみ、権利義務の主体として 見られうる。それ故に、理性が不発展的に滅亡しているか、または病気によりその使用が奪れている人間は、その限        ︵2︶ りで、権利を持ち、義務を負うと見ることはできない。    権利主体と私法上の能力      三五

(9)

   東  洋  法  滋子        コエハ  そこで日窪び黛静の場合には、権利能力、行為能力の区別はなく、行為能力の概念を包含する権利能力の概念のみ があった。後にB窪げ鴛醇は鐵己の見解をもちろん変更し、人間の身体をもつすべてのものを自然的権利能力のある 主体と認めた。そこで彼は公然と子供と病人の権利能力の思想を支持しようとした。しかし.↓田び黛酔は非理性的人 間の権利能力の構成の根拠づけに関してはそれ以上は述べていない。  彼は権利能力の前提としてもはや理性を要求しないことにより.行為の薩慮を創琴出し.それ故に適法な行為者と しては理性が前提とされるという点には何ら変更のない競の権利の内容に関する自己の見解とは矛盾するものであ

 この矛盾は原則として.次の世紀において.   一世紀以上もながくと言いうるがー法学が従事し.今もなお従 事している人格概念の批判点を示している。すなわち.いわゆる権利としては.今矯全く一致している意見によ2−、 も.f特殊の構成方法のものは別として  意思力.法的力ないし人間の利益の満足の承認ということを包含する 法概念に面して、未成年者.精神病者と法人を権利能力の概念に理論的に組み入れる点である。  このように示される矛盾の解決の可能佳をo っ零蒔罐が発展させた。彼は↓獣訂露と同様に.倫理的人概念に従い、 権利は人に帰属する力であり.自己の意思が支配し、そして自己の決定を以って支配する範囲であるということから    ︵4︶ 出発する。この力の行使のための心理的特徴を示すものが、それ故に行為能力あるものが人であるというこの概念決 定により明らかになる結論はG っ慧蒔昌は言っていない。彼は上述の矛盾を、権利能力を権利の可能的取得または行 為能力に対して.権利の可能的保持としてのみ構成することにより.解決した。

(10)

 権利のこの可能的取得を以って自己の行為自身で権利を取得する行為を考えた。しかしこの自己で取得しうること の中には当然に権利保持能力が伴う。それ故に行為能力の概念は権利能力の概念をその中に包蔵している。このこと はもちろんω薯蒔ξの行為能力の概念の中には表わされない。単に脚註の中でこの概念の相互関係の間題にしばし ば立ち入り、この場合、行為能力の概念を権利能力の概念に依存させた。すなわちこの二つの概念相互の関係は、権        ︵5︶ 利無能力者はこのような範囲では行為無能力者でもあらねばならないというような関係である。換言すると権利能力 は行為能力を前提とする。  権利帰属を権利取得や権利行使とも区別するω零蒔塁の見解はドイッ法において通説として貫徹された。このよう な区別はパンデクテン法学やドイッ民法の教科書や註釈書の中で、権利能力と行為能力は鋭く区別されるべきである       ︵6︶ という結論に至った。  ω碧齪ξの区別論が実現されたとしても、更にそれに対して疑が起され、権利能力の概念に自然的行為能力の要素 を採り入れる研究がなされた。  鵠αこ象と田&震は更に、権利能力と行為能力の関係に従事し、全く異った出発点から出発したとしても、この 二人は権利能力と行為能力は同一視しうるという結果に達した。それ故に行為無能力者と法人は権利能力をもたない ものである。  しかしながら国α鼠巽とωぎ伽霞の説は共感をもたれず、技工的なものと思われた。それは現行法に反するという 理由で排斥された。鵠α匡段と由&段の説の弱点は未成年者と法人の権利能力を権利能力の概念に構成することが    権利主体と私法上の能力      三七

(11)

   東洋法学      

三八 前者にも後者にも成功しない点にある。  も o署蒔昌の説の拾頭後⋮ー認めうる限りではー最初のものとして再び権利能力と行為能力を機能的に結合させた       ︵7︶ ¢ご 憎ぎ麟は権利能力は単なる保持能力ではなく或る行為能力であると述べる.権利の行使は潜在的な行為能力と呼ばれ        ︵8︶ る行為者の法的力なしには不可能である。しかし.導 ご凱欝はも っ零蒔蔓の説を克服するに適した結果には至らなかった。 しかも彼は権利能力の概念の内容を明瞭には決めていないという理由からである.そのために権利能力は或る行為能 力であり、または潜在的な法的力であるという結論は十分なものではない.どこに.偏の或る行為能力または潜在的な ものが存するのかは不明瞭のま康である.  び鍵韓憲は麟ビ章鷺圃に基づく具体的.一般的概念  こ.︸では詳論の要はないがーの理論の枠内で彼の権利能力の 概念を発展させた。権利能力と行為能力の関係の間題にとっては、ピ錠霧錬によると法的倫理的人格は.人格は有責 的であることによって表われることが重要である。それ故に行為能力.帰責能力、責任能力は人格概念のモメソトで ある。この特質をもつもののみが義務を負い、彼に委された形成力を活動させる地位にありうるし.権利義務の主体 でありうるし、更に社会において義務と権利に結合する法的地位を取得する。したがって、この法的地位の保持の能 力.狭義の権利能力は人格概念の他のモメントすなわち自然的な行為能力.責任能力に関係するのは意味深い。  寓器欝の説によるとこの内的関連性は弁証法的であり.したがって一つのモメソトは他のモメントをその固有の 意味で要求する。それ故に萄諾薫の意味の権利能力の概念は自然的の行為能力を要求する。このことは特に、権利 能力によって包括される財産能力は権利の保持という中に十分尽されるものではなく、経済的な自己決定力の承認と

(12)

なるべきであるということにより明瞭になる。更に公職に就く能力と婚姻能力は、霊器醤によると共に自然的行為 能力を要求し、権利能力に属する。そこで必然的に権利能力と自然的行為能力は共に全体の一部をなすから、例えば 未成年者は総括的な権利能力をもたず、縮減された権利能力のみをもつ。しかし、総括的な権利能力ということは法 的仲間は直ちに権利能力をもつということのみを意味するものではない。彼は特定の権利能力をもつ、それ故に権利       ︵9︶ 能力は特定の能力により段階づけられそこで具体化されるのである。  も っ貰角は、国ΦσQ㊤の弁証法に固執することはないがい霞①目と類似の結論になる。彼によると、法理念から出発 して法は社会生活の法理念︵正義、公共の利益︶の可能な範囲の具体化である。ω磐Rはこの具体化の思想を他の関 係において形式化するようで、この個別化の見解の見地からは、権利能力はたとえ代理人によっても法的に有効に行 為し、義務を負う抽象的、潜在的能力であり、訴訟において、当事者能力は訴訟遂行の抽象的、訴訟能力は具体的能    ︵⑳︶ 力である。これに反し具体的行為能力は法律行為特に契約能力と不法行為能力を包含する。したがってω習興の説 は具体的意味の権利能力と行為能力の同一視ということは含まない。行為能力︵切鋤&ぎ夷ω笹窪︽魯︶は単に本来の抽 象であり、権利能力︵短。募墜話訂δは生命力と価値増大を発展させるべき標準にしたがって、段階を認める二次 的の抽象と考えられる。  霞箪一貧−津巴窪塗ωは実際上はωき段の説に賛成し、権利能力と行為能力を明確に分離するという要求を、この二        ︵U︶ つの能力は組織的法的分野の協同として表わさしめる組織的機能であるとの理由で否定する。

 匡きぼはじ

O冨注鑛と類①一ω窪の説によるが、結局たとえ代理人によるとしても行為能力を与えられないときはそ    権利主体と私法上の能力       三九

(13)

   東洋法学      四〇

れのみでは考えられない思考上の便宜としてのみ権利能力を考えた。彼は権利能力といわず行為能力と並んで間接的 行為能力ということを提案した。  権利能力の概念の歴史的概観は、その基礎は主体の有責的行為能力の中にあり、法学における権利能力の概念は本 来有責的に行為する主体の能力として発展したことを示す。G 毒磐蒔蔓が権利能力の概念の中にある欝然的行為能力の 特徴から遠ざかウた後も.有名な法律学者は益々権利能力の概念の中に行為能力の特徴を採り入れる企図がなされた し.それは今腿もなお力説されている見解である。しかし、この概観は更に.現行法が明瞭に要求しているように. 権利能力の概念の決定はたとえ自然的行為能力が大変制限されているか一般的にもっていないとしても.子供と社会 的単一体が権利能力あるものと認められている事実を考慮しなければならないということを明瞭にしている、.﹂のよ うな見地を考慮するならば、たとえそれを是認する重要な理由があるとしても.行為可能性ということをその中に取       ︵篇︶ り入れる研究を権利能力の概念の基礎にすることができるであろう。 ︵王︶ ︵2︶ ︵3︶ ︵4︶ ︵5︶ ︵6︶  Oo篤匙︶ぎ無蕊象3窯難○①蓉巴霧畠緯轡讐脅触汐ぞ象ωo議髪護伽窃一Q o煤&竃鴨疑冨&霧るい智︸属欝猛霧疹罎誤︸も a’ 詑一”  男慧窟頃鱒ぼ一鼠轟︾鱒の欝爲く搾警鉱霧鱒魯ぼも 。甑籠β蒔圏搾︸霧も ゆ“G っ曾し 08  男甑憲畷帥嘗陣o欝ρ餌鈴○;ω“ωQ o︾  ω碧蒔爵ざ9蔭①彰脅ωぽ馨蒔象如α導塗9①嵩菊Φoぼω︶幹膨穿一G o駆ρω8●ω。ψ  麟霧角︶ごΩ 。。 陰a簿冨oゲ①︾鉱く鶏冨9罫お議︶ψ詑Gov  ご⑦議ダ堪α競︸℃弩留即⑦P俳艶焦一ゆ一G o霧ψ寡ジ

(14)

︵7︶ ︵8︶ ︵9︶ ︵憩︶ ︵難︶ ︵皿︶ ω鉱欝ΨUΦ年ぴ仁3号ω娼働&簿8漢Φ3葺ω。︾象ど一〇 。o 。合ω’犠伊 膨蔓演岱働○こψ⑳8捨 い錠Φ養︾驚o。簿ε①訟9μ弩α雲9簿瓢<Φω園①o浮︸おo 。Pψ器︶ イ<●ω震9と蒔①露Φ一幕汐ONΦ器審魯昆oぼρお㎝いψ一お 冒窪属−孚魚窪置ω︸臼び①・ユ①餌段く段畦の寡添σq︾ω.Ho 。一︶ 司鉱震男餌ぼ一〇一裡尋聾蝉ρ︾ψ春ρ

三 権利能力の相対化

 自然的行為能力の特徴を採り入れる権利能力の概念はその発展史から認められ、これは歴史的、精神的な権利能力 の基礎および哲学的人格概念に通説的見解よりも近い状態にある。しかし自然的行為能力の要素を採用する概念は通 説が考えるように、寂器震が正しく非難する権利能力の概念の不明確性を除去し、そして更に主体の行為能力に従 って権利能力を相対的にしうる決定的な利点を示している。  この概念により人間の同一の性質が権利能力のためにも行為能力のためにも出発点として示されることから生ずる 矛盾が除去される。  更に権利能力を普遍的な法律上の能力と見るときは可能となるように幼児はすでに婚姻能力または選挙能力をもつ というような結論をさけ、更に他の理由から妥当でない結論をさけることができる。主体の自然的行為能力という要    権利主体と私法上の能力      四一

(15)

   東洋法学      

四二 素により決定される概念の研究が最近通説の概念から発展することを認めうるという理由からもその正当性を欠くも のではない。更に法の統一への努力が一国の限界を越えて特に望ーpッパ諸国の下で一九世紀には益々強くなった。 これらの諸国において法的人の権利能力は多かれ少かれ行為能力に依存されている。それ故に将来権利能力の自然的 行為能力に依存する概念を考察することは有用であるかもしれない。       ︵三︶  したがって権利能力の麟然的行為能力の要素により決定される概念決定は適当なものであろう、  現行法が子供と組織体に権利能力を認めるという注縫すべぎ事実は冨叢罵囑羅欝織驚・ ・とも 穏鯨器触の概念決定により 考慮される、それは代理人による行為者という要素を採り入れるからである。そしてこの概念決定を更に一層鋭く理 解することがでぎる、も 毒節器噂の定義は.代理人による行為者という特徴により拡張される具体的行為能力の概念の基 礎をなす。しかし具体的行為能力は法律行為特に契約能力と不法行為能力のみを意味するならば.この概念により法 律上重要な行為のすべての場合を理解でぎるものではない。それ故に法律上有効な行為への能力というのがよい。更 に、漁然人は代理人でなく使者によっても行為することと法人は通説によると機関により行為することを区別すべき である。  依存説によると権利能力は人間または権利主体として認められる社会的単一体が自身でたとえ代理人.使者.機関 によっても法的に有効に行為しうる能力、簡単にいうならば権利主体の法律上の行為能力であるということを考える。  権利主体として認められる人間と社会的単一体は権利義務の主体または帰属主体である。権利主体としての承認は ドイッ法においては人問のための前提である。組織体にとって特に権利能力があると宣言されるにより、権利主体と

(16)

しての承認が生ずる。宮庁の裁量において立てられる行政行為によりまたは直接法律により権利能力が取得されると ぎは、例外である。このことは特に公法上の団体の場合はそうである。また法人の範囲を拡大する努力がなされている。  法的に有効に自ら行為しうる能力は、主体が法規の条件を充す状態にあることを前提とする。そのように見ると権 利能力は権利行使能力である。この場合法規は法規範であり制文法か慣習法に基くかまたは類推または法発見の方法 により探及したかには関係しない。  権利能力の概念は特別の能力の中に具体化される。第一に本質的な権利能力としての固有の人格的行為能力を、代       ︵2︶ 理人による法技術的行為能力と区別し、作用能力︵≦算毒αq経ビざδという。この作用能力は多くの特別の能力に分 かれ、その中で自己の行為により権利を取得し義務を負う能力が特に重要である。権利能力の右に述べた決定によると 代理人、使者、機関による行為も代理される権利主体の行為と評価される。このことは使者の行為と法人の機関によ る行為については通説によっても考えられるが、代理行為については代理人のみが行為し代理人によりなされる法律 行為はその効果の面のみ本人である人に帰属することであると考える。この理論は本人の名における代理人の表示に とって代理人の意思のみが原因となり、それ故に彼の行為と見られねばならないという観念に基いている。しかし代 理行為も機関の場合も帰責間題が重要であるから、代理人の行為を本人の行為として評価し、本人に帰するという観 念は実現不可能なものではない。そこで代理行為に関する論争からも右に述べた権利能力の概念決定に対する疑は引 き出されえない。それ故にこのように発展した権利能力の概念決定は現行法にも調和して使用できるものであろう。  権利能力の概念決定に際して、従来田魯の注意した権利能力には多くの場合特別の面が置かれること、人間の心    権利主体と私法上の能力       四三

(17)

   東洋法学       四四

理的平等は程度に従ってなされる権利能力のあらゆる段階化を排斥し、それ故に普遍的権利能力となることは注員さ れなかった。もちろんこのような権利能力の概念をもつ思想は権利能力は主体の自然的行為能力により相対化される という範囲では一致しない。しかしながら現行法が制限的または部分的権利能力を認めるか否かの間題はこのことと       ︵3︶ は関係はない。それ故に権利能力の普遍的能力としての思想の根本には従わなければならない。 ︵蓋︶ ︵驚︶ ︵も 瀞︶ 囲謝瞬 欝畷魯覧鉱戴避濁鉱鯨瞬鼠難轡象醜灘糞貯欝雛剛闘蒔ぎ謬搭霧“ 譲賠蒙腕麟δ圃貧く麟一捲岡欝難蟹Q焦 。璽糞瓢押も 搬器弔<4 喫繊欝驚鯉欝搾貯碧欝蜘欝版難 り即躰麟眺じ も藻 俳餐許

四 入間の類型化された権利能力

 人間の権利能力は法定代理人の想定により拡大されることになる。この拡大は類型化として表わされる。具体的権 利能力並びに法律行為能力、遺言能力.婚姻能力等は通常の類型を基礎とする。例えば経験的価値に基き通常すべて の人問は二〇才の完了により、このような成熱はそれ以前にまたはその後にはじめて生ずるかもしれないが、このこ とは法的には意味をもたずに、法律行為を締結し権利を処分する等に必要な認識能力、判断能力をもつことより出発 する。このいわゆる能力は類型化される。

(18)

 この通常類型のために規定された種々の法律行為の法規は法律行為能力のない人間にも一部は適用される。例えば 幼児の自然の能力は法規の中の法律行為の前提となる能力には適しない。しかし法定代理の制度により権利能力があ る如く取扱われる。何故ならこれにより二〇才を完了していない人間を法律行為能力のあるときの如く一般の法律行 為的取引に参加することを可能とする。それにより人問の具体的権利能力が法技術的に形式化され、統一化され、類       ︵−︶ 型化として表われる過程である。私法上の法人の場合も権利能力の類型化を確定すべきである。たしかにその権利能 力は機関に基く代表との関係で法技術上の想定に基く。しかし権利能力がたしかに心理的に基本的には利益能力に結 合するとしても  何故なら利益が行為の志向であり、行為の動機であるから1法人にとっては法理論的見地から それには欠けている利益能力に代りまずその定款の中に含まれる利益秩序が間題となり、すなわち個々的であり類型 的ではない定款が問題となる。通常目的に統括された利益秩序が法人の外見上の主たる利益である。しかし第三老の 利益に関し法規により法定の類型制限または類型の自由な選択という類型強制の下に一定の組織利益が自由に委され るのではなく、法律上の結合体の権利能力も定款の中でこの一定の組織のため確定された目的を越えて、たとえ私的 自治に適さないことが明らかであっても統一化され、類型化される。それ故に法人の場合も権利能力の類型化の概念 は注意すべきである。この場合、類型化は統一化、通常の類型による同類化と同様である。  この権利能力の類型化、統一化は平等の事実の平等の評価のみを要求する一般的平等原理から引き出すべき結果で はない。そして権利能力の統一化は平等原理に反しないか否かの問題が提出される。何故なら判断能力なき人問が法 律行為的取引において、権利を取得するのみではなく、たとえ法定代理人のみがなした法律効果の判断に法定被代理    権利主体と私法上の能ガ      四五

(19)

   東洋法学      

四六 人としての本人が排除されるとしても義務を負担するからである。しかし消極的負担という消極面は積極財産の帰属        ︵2︶ の可能性の中にその相当性を見出すから平等原理の違反は存しない。 ︵1︶ ︵2︶ 鴨瓢霞鳴善甑9器︸鱒鉱鯨ぞ蹄警︵囲驚灘の畠窃臓獣αQぎ搾お密サ 瑠慧態腰魯雛⇔贈伊齢欝⇔毒臨 撒“鵬Φ o艶 ら⇔ .欝v

五 権利行使と行為能力

 権測能力にあっては権利義務は単に存在において表わされ、その実行に関するものではない、しかしその規定は静 止の状態にあるのではなく活動の中にあるのである。権利義務は実行されることを欲する。むしろ法規はこの臓的の ために権利義務を発生させるのである。  権利の実現は権利または義務の内容に相応する状態の発生に基く。したがってすべての権利行使は人間の行為によ って実行される。このことは右に述べたことより直接生ずる。何故なら権利行使を︵私法奮たは公法の︶法規の内容 に相応する行為と解するならば、その行為の内容は法規の内容と異りえないからである。更に法規の中に包含される ものを間題にするなら、人間の行為が法規の内容すなわち法規範の内容を形成していることが明確にされるにほかな らない。

(20)

 このことは基本的に自明なものと考えられ、しかも法は共同生活の秩序とこの秩序の確保のために人間によりそし て人間のために創られるものである。この目的のために命令が発せられる。何故なら法が常に達せんとするものを法 は命令的力の使用により達成するからである。法規は命令力の合目的的挿入以外の可能性を使用することはしない。 しかし諸法規の中に含まれる命令禁止は当然目に見えぬ因果的過程にではなく行為にのみ適用される。  自然科学が関係する因果的現象は自然法則に従うが、しかしながら人間はその過程を賢明な方法で形成し、支配す ることがでぎる。それ故に行為することを専ら意思に基く合目的的活動による行動と解するときは人聞のみが行為す ることができる。この結果権利の行使も義務の履行も人間によってのみ行なわれうることになる。  他方すべての人間の意思が法規上重要であるというものではない。法が人問の共同生活の合理的秩序を確保せんと するならば、法は理性の示唆に従う意思のみを目的とすることができる。しかしこのような意思が行為者にあるか否 かは、取引の安全のために、各々の場合によってのみ法的重要性の前提とされるものではない。したがって法律は人 間をその意思活動の法的重要性に関して一定のカテゴリ⋮にすなわち行為能力者︵スイス民法コ棊︶と行為無能力者 ︵同法一七条︶に分けている。 この場合行為無能力者は更に完全な行為無能力者︵同法一八条︶と制限的行為無能力者 ︵同法一九条︶と最後に制限的行為能力者︵同法三九五条︶とに分けられている。  すべての権利行使が人間の行為によりなされるが、他方においてはすべての人間が法的に行為する能力をもつとい うのではないならば、処分権もすべての人に帰属しうるものではなく、一般に権利の存在を前提とする。何故なら処 分権は権利を行使することすなわち一定の方法で法的に行為することができることを意味しているにすぎない。しか    権利主体と私法上の能力      四七

(21)

   東洋法学       四八

し基本的にはこのことは行為能力者にのみ当てはまり、このような者のみが権利を行使することができ、このような 者のみに処分権が帰属するのである。  例外的に判断能力ある未成年者または禁治産者も人格のために自己に存する権利を行使する能力はある︵スイス民 法一九条三項︶。このような権利には通常次のものがあげられる。すなわち重大な理由による婚姻予約の解除︵同法九二 条︶.人格的関係の侵審による賠償請求︵スイス債務法騰九条、熟イス民法九三条︶、婚姻無効または離婚の訴︵隅民法一二 三条︶.非嫡出子の認難    一δ三条︶.認知講求の訴︵同民法三〇七条二項︶等である、このような場合に法律が意思 能力者であることを強く要求しない理由はこの種の権利はその挫質上またはその趣旨を定める規定に基いザ、︵例.光ば スイ久民法九三条三環︶鯛外的に権利の発生している人のみにより行使されうることにある、権利主体と処分権嚢は同 一であるべぎである。しかしながら元来すべての代理が問題とならないならば.このような権利の主体にとって少く とも判断能力が絶体的要件に高められる限りで行使の可能性が拡大される。  この結果重要な例外を除いて行為能力ある者のみが法律上権利と義務を実現する地位にある。基本的には特定の既        ︵圭︶ 存の権利義務の行使または履行の能力としての処分権は行為能力をもつ者のみに帰属するのである。  処分行為には行為能力の外に権利を処分する法的権限が必要要件である。権利行使と処分行為とは概念上区別され ないことが多いが、処分行為の中には人の意思に基き、権利を失い.または権利の変更を生ずる権利行使行為のみが 含まれる。普通の契約の如き法律行為の中でも義務負担行為は新たな法律関係を創設するもので、既在の権利義務に 関する処分行為とは異るので単に行為能力のみを前提とするが.権利行使行為の一種である処分行為は処分権を前提

(22)

とする。処分権は行為能力と混同されてはならない。行為能力は人の特質そのものであるが、処分権はその処分に服        ︵2︶ する権利との関係であり、一つの権能である。通常は処分権は特別の制限のある場合を除いて権利者に帰属する。  処分権者︵処分権限の主体︶のみが特定の権利義務を実現しうる権能をもつということは権利行使行為ないし履行 行為として表わされる法律行為的、並びに事実的行為にあてばまる。法律行為または訴訟行為においてその実現がな されるときのみ行為能力が必要である理由を考えるべぎではない。事実的な法的行為︵例えば道具の使用︶も行為で あり、そして法の意味において行為能力あるもののみが行為しうる。  もちろんこのことは処分権者自身が、権利がその主体に認める規範の内容に適する行為をしなければならないとい うことを意味するのではない。他人の井戸に通交権と扱水権とをもつ農夫は他人の土地の上を家畜を追って行き、家 畜が井戸から水を飲むことにより井戸を利用する。農夫は自己の権利を行使し、それにより家畜を飼育するのである。 農夫のみが行為することができ、このような権利の処分権限をもつのである。その行為を展開する者の意識的な意 思によりなされる身体の動作のみではなく、それが原因となり、人間の認識に基き事物の因果的過程により最終的に 決定されるすなわち一定の結果に向けられた外部的出来事も法的意味の行為と解すべきである。目的性が一定の範囲 で因果的関係の結果を予見し、それにより故意に目的到達に向って制御する意思能力に基いてから、目的を意識し因 果的出来事を支配する意思が目的的行為の支柱である。右の例では家畜が井戸へ行き帰りすることとそこで水を飲む ことが因果的出来事への意識的作用の終局的に決定される効果である。この因果的過程が行為であり従って権利行使 であるという理由で、農夫は権利を主張しうるから、自己もその雇人も他人の土地に立入らないが、このことには関    権利主体と私法上の能力      四九

(23)

   東洋法学       五〇

       ︵3︶ 係なく、毎日地役権を行使するのである、このことは例えば権利行使の妨害に現実的な意味をもつのである。  処分の概念はドイッ民法の中には確定されてはいない。ドイッ民法の各規定の中にも処分の概念の説明は存在しな い。一九世紀の普通法の文献の中にはp⋮マ法に拠り一般に譲渡の言葉を用いるが、しかしこの場合この概念は同時 に放棄と権利の負担のためにも用いられている。  処分の概念は抽象的なものである、      、 貫い.変更し、消滅するよう な法律行為を考えるのである、処分行為はそれによ参権利が処分される法律行為である.この場合処分の概念はそれ        、 ..負担を負い.      権利の移転.負握.変更.ミ2ーー する権利の従来の主体の法的地位の変更が処分である。例えば所有権移転は移転に関してのみ処分であるが、所有権 取得に関する処分ではないし.譲渡人のみが所有権移転の処分をなし.取得者がするのではない。処分行為の概念は       ︵4︶ 一般に義務負担行為の概念に対して使用される。  権利能力と権利帰属との概念上の区別と現実に非常に重要な行為能力と処分権︵権利行使権限︶の区別が平行して 行なわれる、権利能力と同様に行為能力も人の属性である。行為能力が人に承認されるような一定の精神的な特質を 前提とし、法律行為の有効性のための行為巻の前提要件をなし、むしろ法的に重要な行為の一般的な要件をなす。  権利帰属と同様に処分権は行為能力ある主体と既存の権利義務との更に詳しく説明すべき関係を意味している。処 分権と行為能力は共に法的可能性を示すことは共通である。しかし行為能力は抽象的であり処分権は具体的である。 すなわち特定の権利義務の関係である。したがって人が行為能力を有するか否かを一般に問題とすることができる。

(24)

この問題は、現実の意味をもつので重要である。これに反し人に処分権が帰属しているか否かは答えられていない。 この間題はほとんど内容がない。既存の如何なる権利義務に関して人の処分権が間題となるかを知らなければならな いQ  処分権または処分能力は特定の既存の権利義務に関する行為能力である。すべての権利すべての義務は人間の行為 を内容としている。行為能力者のみが法的に重要な行為をすることができる。むしろこの特質に関してこの概念が定 義づけられている。この結果処分権は行為能力を前提とするがしかしその逆ではないということになる。何故なら処 分権は更に権利義務の存在をも必要とし、そこではじめてその行使を可能とするからである。したがって権利帰属が 権利能力と無関係ではないと同様に処分権は行為能力と無関係ではない。処分権も権利帰属もその時々に適応した行 為能力または権利能力の概念の上に構成されるが、処分権や権利帰属は右に述べた概念の中に抽象的に叙述されてい る特質を特定のそこで既存の権利義務を現実化する範囲でそれを凌駕している。  処分権者のみが権利を行使し、行為能力者のみが処分権者でありうるならば、例えば行為無能力者はー重要な例 外を除いて⋮自己の権利を実行することができない。法規は行為無能力者の意思を意思とは認めないから、このよ うなものの行為は法規に関係のない因果的過程である。むしろその者に属する処分権限を行使するものは通常その両 親である法定代理人である。  それ故に権利行使が事実的行為である範囲では、権利行使は非処分権者によってもなされうるということは問題で ある。たしかに他人の物の占有は取得時効に至るがしかしこれは所有権の行使ではない。処分権をもつもののみが権    権利主体と私法上の能力      五一

(25)

   東洋法学      五二

利を行使しうるのである。しかし処分権を保持するということは現実の世界の中で事実的ではなく観念的︵法的︶に 基礎づけられる特質である。処分権の保持は非権利者には属しない。  法律が事実上の行為に例えば一定期間の物の占有に.その場合権利行使が問題となっていなくても如何なる効果を        ︵5︶ 結合させるかは別の問題である。  権利行使権限.処分能力、処分権は同義語である。したがって権利行使と権利の処分の概念はしばしば区別されて いない.しかし新しい法ドグマは処分という、書葉に全く特殊の一層狭い意味を与えているから、そこで権利行使は上 部概念として考えられる、それは專ら人の明瞭な意思に従って法律行為に基き、そして権利の喪失かまたは少くとも 当該権利の拡張か内容の強化にならないならば権利の変更を生じさせる権利行使行為のみを処分概念の下に総括する、 このため元来.例えば利用権の行使.対象物の変更.破壊のような事実の世界で行なわれるすべての権利行使行為は 処分の概念から区別された。それが権利行使行為をなし.既存の権利義務に関するものであるという二つの過程はな お共通である。  しかし法学が処分の概念を狭い法技術的意味でたてるならば.事実上の権利行使と法律行為的権利行使の対立に目 を向けてはいない。すなわちこの右に述べた区別が示されるのではなく.全く別の処分的法律行為と義務負担的法律 行為の区別を示すのである。この区別は私法全体の構成に重要なものである。義務負担行為と処分行為は法技術的に スイス民法よりも一層明瞭にドイッ民法で区別され、現実に区別して排列されている。  権利行使の種類として処分は処分権を前提とするがこれに反し義務負担的法律行為ぽ、ク新じ糖法律関係を設定し、

(26)

処分行為のように既存の権利義務に関するものではないから、        ︵6︶ 単に行為能力のみを前提とする。 ︵1︶ ︵2︶ ︵3︶ ︵4︶ ︵5︶ ︵6︶ 菊。欝窪。区§辞9簿簿襯。募器露ズζ○Φ暴謬3簿§一縁αQ馨艮Φp堅H婁一し8G 。︾ω﹂£h︾ 国馨①08密し 。国一薯≦○蔭︾いΦξび琴プα霧び鋒鴨葺。︸姦回切o。び酔ω︾嶺︾亀一‘一霧ραα・ザω’o 。o 。鈎 菊○旨弩o図Ω路N︾鶴知○;ψ器銃 ≦①考象葱仁導ρU器幻8訂αqのω魯経びお9︾ψ窓ρ 男o導き○国蘇褻”顛餌○こω畢這許 菊o欝き○区ζ⇒N︾餌餌Oこω●濾出■︸

六 行為能力の相対性

 ご駐蔚3窪国き島跨αqの場合区別して考えるべきである。すなわち意思表示は法律行為能力を要求する。法的行 為︵葬9諄き象琶αQ︶のときは次のようになる。法律行為類似の行為は通常は意思表示と同様に行為能力を前提とす る。  これに反し事実的行為は通常法的効果の結合した行為をなす事実上の能力を要求する。例えば物を加工により新な 物に変形し、埋蔵物を発見し、歌を作曲するようなものである。埋蔵物を発見しまたは歌を作曲する精神障害者は疑 もなく発見者に帰する埋蔵物の半分と著作権を取得する。    権利主体と私法上の能力      五三

(27)

   東洋法学       五四

 損害賠償の義務ある合法行為は行為能力も責任能力も前提としない。それ故に事実行為と同様起取扱われる。例え ばドイッ民法九〇四条による損害賠償義務はこのようなものである。違法行為の場合には過失的違法行為と、不法行 為と債権侵害が問題となるが、無過失的違法行為を区別すべきである。前者は責任能力を要求し.後者は要求しない。        ︵三︶  法律行為能力は法律行為の要件のときに.不法行為能力は不法行為のとぎに詳細に論ぜられる。  行為能力の規定は直接には法律行為または意思表示に関する、この規定が法的行為︵響塾艸隆懲黛錨薦︶にも効力があ るか否かはその性質に従う.多くの場合文献でこの間題を論ずる際に.その著者が行為能力の規定の効力をある一定 の法的行為に否定するときは.法的行為の問題であり法律行為または意思表示の間題ではないことを理由とする、.  の論は体系的には誤である.むしろ当該の種類の法的行為に関して行為能力の規定が正しいかどうかその時々によウ 検討すべぎである、それはこのような種類の法的行為にとって行為能力に関する問題点は法律行為の行為者と同一か          ︵2︶ 類似であるからである。  わが民法は行為無能力者の行為は取消しうるとするが.意思能力のない者の行為は無効で、あり.如何なる場合に意 思能力を欠くかは各場合により類型的に決めなければならない。  絶体的な判断能力のある人聞は稀にしか存在しない。その時の反省と感情的な自己抑制が人に生命を与える困難な そして求める処の多い状態にたえるような優れた習慣となった精神能力の類型がこのようなものである。それ故にこ のような人は複雑な事情があっても懲己の行為の結果に関し熟慮ある思考を失わず、そうでなくても人間の反省的抑 制を完全に動揺させる状態において強い感情的な心の平静の変動にかかわらずなお常に或る程度用心しそれ故に理性

(28)

に応じて行為しうる。このような人問は、もし一般に存在するならば、超人的なものそのものを有していることは明 らかである。この極端な反対はわずかな精神能力をも欠けている全く判断能力のない人間である。例えば、全く本能 的に、しばしば閉鎖的な自動現象によってのみ生活し、そして周囲の刺激には思慮なき本能的感動を以ってのみ応ず るような底い精神薄弱者の場合がそうである。  このような人間の極端な類型の説明より、その精神能力がたしかに完全に永続的に低下しているものではないが、 しかし自己の重要な事項の大部分にはもはや理性的にはたえることができないような障害のある人間達を研究するこ とが一層大事なことである。それ故にこのような人間は通常心理的障害のために後見に付されている︵スイス民法三六 九条︶。このような人はたしかに自己の生活の多数のそして重要な利害関係については判断能力を欠くがしかし全く欠 いているものではない。それ故に、このような人の場合には完全な行為無能力ではなく、制限的行為無能力という。 しかしながら、このような人の場合には、このような一般的評価は極度に種々な生活の状態とそれ故に非常に変化す る判断能力の要求を考慮しないから、如何にしばしば不十分であるかが明らかとなる。このような被後見人が種々の 仕事に適するか否か、このものに一定の大なり小なり仕事を委せうるか否か、後見人はこのものに婚姻の同意を与え ることが許されるか否か等を考慮するためには、制限的行為能力という一般的評価は当然には十分ではなく、個々の その時の生活上の地位のための被後見人の判断能力と観察し、別々に調査しなければならない。しかし後見に付され ていない一般的に行為能力のある人間に関しては、一つの法律行為または不法行為の場合にその判断能力を論議する ときは、当該個人の精神作用の理性的な自由使用は如何なる知的感情的要求をするかが特に問題であり、具体的個別    権利主体と私法上の能力       五五

(29)

   東洋法学      

五六 的地位のみが間題である。人問のその当時存在する精神能力がこの個々的な地位の特別の要求を充すか否かに従って、 この人問はこの地位に答える行為にとって判断能力があるか否かとなるのである。スイス民法におけるスイスの法的 見解もこの心理学的並びに現実的に同様の観察方法に初めから一致して従っている。標準的な註釈書の中には一致し て.法学的に単純に判断能力というものが存在するのではなく、この概念は常に一定の法的に問題になっている行為 に関係しているのであることを力説している.常に全く具体的に如何なる事項についてのすなわち個別的行為に関し て判断能力または判断無能力を問題とすべぎである.これがスイス法において一般的に、認められる判断能力の相対性 の理論である.刑法上の寅任能力も常に一定の不法行為のみに関係するのが相当である、判断能力または責任能力輿        ︵3︶ 身は存在しない。判断能力と責任能力は同一の心理的基礎に還元されることがこの点に示される、 ︵i︶ ︵2︶ ︵3︶ 鱒き①・8触器置管℃≦○罷︶び①ぼぴ霧び伽霧顕醜鷺簿畠窪鱒①魯鋒一㎝︾鉱ど︸霧ρご ご輿押麓o 。↓ρ ≦①霞g鷺¢羅ρO霧欝①畠総αq霧畠雛詳お⑰伊o 心,曽ω 譲帥漢¢ ごぎ号おOδご博亀ω裁露翻の搾欝譲︾δぎびαq溢魯①び謹︾δ窯鶏嘆冨魯鶏§︵一恥遜鯨富簿窪腔。ぼ︾ お黛v堕8諏こ

七 法律行為能力

判断能力のない者はスイス民法一八条により自己の行為によっては法律上の効果を生じさせることはできない。そ

(30)

こで一当事者に心理的障害のために判断無能力の状態があるときは法律行為は無効となる。その場合には他の当事者 はその結果生ずる法律行為上の損失を自己自身で負担しなければならない。このよろこばしからぬ効果を減少させる ために、最近は、精神的障害を日常直接には知りえないような心理的異常の状態の者と善意で法律行為を締結する正 常の当事者を出来るかぎり損害から保護しようとする法の目的を益々前面に出して来た。スイス民法一八条の厳格な 適用は善意であり通常の状態にある相手方に不当な損害を加え、それ故に取引の安全を或る程度害する性質をもつこ とが容易に観察されうる。  商取引の異常な発展と近代の隔地取引の場合には、取引当事者はほとんど相手方の判断能力を知る状態にはないの が常である。このためには簡単な個人的な出会では十分ではなく、その心理的障害は立ち入った交際の場合にはじめ て次第に明らかになるのがしばしばである。それ故に善意の保護とそのために取引の安全が判断無能力の想定によっ てなるべく侵害されないように注意することは今日では法規と判例の重要な緊急な責務となった。取引的法律行為の 場合には近代の法規は判断無能力者が第三者に損害を与えるような行為から社会を保護することに重点を置く傾向に ある。このための最も重要な手段は判断無能力の想定を差控え、そして判断無能力者がその責に任じなければならな いことが不当と考えられるような法律行為の場合にのみ出来る限り判断無能力を許されたものとして認めることにあ る。  この目的にはすでにあまり広範囲ではないが種々の訴訟上の措置が奉仕している。一つには判断無能力の立証につ いては比較的高い要求がなされている。更に常に取引の安全が要求されるとの理由から、スイス民法一六条と一・八条    権利主体と私法上の能力      五七

(31)

   東 洋 法学      五八 の援用はできる限り制限されるということを強よく考慮しなければならないことが強調されている。初めから判断能 力を推定すべきである。判断無能力ということは、それを援用し.そこから自己のために権利を引き出そうとする者 が立証しなければならない。このごとは比較的明瞭な精神障害の場合にも変るものではない。すべての重要な事項と 広範囲の障害のために判断無能力が立証されるときのみ.諸事情により.その時点にもそうであったという結果が明 らかとなり.そこで相手方がその当時は一時的な判断能力があウたとの主張のための立証責任を負うのである.法的 には明瞭に具体的な法的行為のために判断無能力の厳格な立証が要求されるとしても、しかしながら当然.この責任 には多くの場合において.すべての重要な疑が排除される程度の高い禦実性のみが証明されうるし.このようなこと は充されなければならないというごとが存するのである、判断無能力の援用という甚々しく不公平な結果を避ける可 能性は.無価値の膜的のために一法規の適用を求めるときに存在する権利濫用︵スィス民法二条︶によるこのような援 吊を拒絶する点に存する。自己霞身の利益を得て相手方に損害を加えるためにのみ人が判断無能力を援用することは 疑もなく権利濫用を意味する。種々の判決は、判断無能力者と締結した法律行為をその能力を相手方が知りうるとき のみ無効と見ようとしてきた。この解決はイター法とイギリス法には適するであろう。しかしスイス民法の中には何 の根拠も見出さない。それ故に連邦裁判所は相手方が一当事者の判断無能力を知ることがでぎなかったときも法律行 為は無効となるとの立場に立った。  しかしながら、取引の安全を有効に保護しようとするときには判断能力の相対性の原理を以ってそれを行なうこと が個々の判決の中でこのような試みを行なうより一層効果的なものである。判断能力の援用の場合には.常に個々の

(32)

具体的法律行為のために、行為の当時にはらわれる行為者の思慮能力が当該の法律行為の要求には全く不十分なもの であったことが証明されねばならないから、精神的障害者のすべての行為に初めからこのようなことがあてはまると いうことはできない。むしろ精神的に誤れる人間の場合にも多くの法律行為のためにはなお精神能力があり、これは 常に経験が示している如くであり、そしてこのような人の相手方になる第三者に損害を与えるようなすべての法的行 為を無効と宣言することは問題になるものではない。むしろその精神的障害がその具体的行為の場合に問題になる生 活分野に、殊に当該の行為の当時に強く表われていなければならない。一連の聯邦裁判所やその他の判決から明らか な如く、この判決を従来用いられていた心理学的術語になおすと、主観的精神能力がその当時当該の法律行為の客観 的要求に対し広範囲に亘り機能を果さないような決定的な方法で侵害されるにちがいない。それ故にその精神能力の 障害はこの場合には具体的地位において多少とも意識ある予め考慮ある意思を以って本質上決められる行為を成立さ せるに十分には最少限をももはや保持しない程重大なものにちがいない。問題となる法律行為の客観的要求に対する 主観的精神能力がそのように広範囲には低下していない場合にはすべての場合に取引安全のために判断能力は保持さ れていると見られなければならない。  そこで取引的法律行為の際の判断能力の精神病医の鑑定の法的評価の場合にも裁判所を支配しなければならない重 要な、スイスの法的社会で広く認められる原理に遭遇する。聯邦裁判所がかつて示したように、何故に、各個の場合 に、その異常の影響が温々の理性と意識的な意欲がその当時にもはや何の役割をも果しえない程に強いかどうかを確 定しなければならないかという尺度の問題が重要である。このことが正しいか否かを確定するために、固有の法的行    権利主体と私法上の能力      五九

(33)

   東洋法学       六〇

為でさえも心理学的に分析する必要がある。何故なら、当該行為が精神能力という表現が妥当ではない稀なそして容 易に知りうる場合は別として、現実の法的行為の分析でさえ他の資料から取得される精神能力に関する判断の確証と そして、とぎには精密化を許容するものである。さらに精神病医の鑑定人には当然心理的現実性をもつ事実である法 的行為をも探求することが適当である。通常.このような法的行為は全く自己の能動性と自己決定により造られ.意 識され.思慮あるそして企図された意思行為であり.本能的動機は全く後退しているのである、しかし.習慣的なそし て当該行為に間接に先行する行為様式の探求からその当時判断能力が一寸減少していた馳︶とが判明した場合には.そ の法的行為の実現のとぎは本能的性質が過剰的に明らかなのが常である、それでもなお思慮と意思がその過程を支配 している。この精神能力の多少の不足と本能の多少過剰な要素は裁判官の判断の際には看過されそして精神能力が決 定的に機能を失っているとはいいえないから.判断能力が簡単に認められる瀕﹂とになる。判断能力の中閥的な減少の 場合にはその法的行為における意思的要素と本能的要素は平均を保っている。如何なる場合でもいづれかの優位を確 定するのは困難であり不確定である。このような場合の経験は.二者択一的解決をしなければならない裁判官がこの 場合にも判断能力を単純に認めるときは通常事実上の関係に適し正当と感じられる解決がなされる厨︸とを示す。実際 に心理学的に判断能力が中程度に減少していると評価されるにちがいないような人間の場合にも.もはや主としてそ の法的行為に関与したのではないにしても、企図的意思がその行為には本質的であり.それ故に事情によっては大い に本能的に経過したとしても、なお幾分は思慮あるものである。多くの場合精神能力の障害は、すべての事項につい て判断無能力を裁判官が認定するのが正しいというような広範囲なものではない。裁判官の.﹂のような判断のために

(34)

は通常、その法律行為はもはや本質的には思慮と意思により決定ざれず、その思慮と意思はごくわずかな事項におい てのみ極めて優位な本能性に対立す蕎ことが明らかであるという理由で心理学的に判断能力の強い減少が認められね ばならないときのみ、その前提が与えられる。このような事項も欠けるようなときは、精神病医も裁特官も完全な判 断無能力の認定に至らなければならない。  習慣的な更にその法律行為に直接先行し、結局当該行為自身の中に現実化する行為者の行為様式から精神病医が当 時の精神能力を評価し、そしてそれを具体的な法的地位の意識の客観的要求と比較するときには、彼は自己の鑑定の 中で裁判官に、裁判官が自己の観点からもう一度全く具体的関係についての独立の熟慮がでぎるための多様なそして 完全な基礎を示すのである。裁判官は取引的法律行為の際にしなければならない判断能力者か判断無能力者かという 二者択一的決定をまずこのような熟慮に基いてするであろう。取引の安全に関しては法律家は潜在的ど現実的な精神 能力はもはや何らかの本質的な重要な役割を何ら果さない場合にのみ判断無能力を認定するであろうゆしたがって裁 判官は、今日なお多くの鑑定人がするのだが、減少した判断能力という中問的段階の考慮と観念を放棄するときは精 神病医がするよりも一層少なくその二者択一の方法を判断無能力の意味で解決するであろう。このような放棄の場合 には精神病医はー彼は心理的現実性を頼らなければならず、裁判官のようにそれに固有の標準をもちきたることは できないから  その当時の状態と過程において本能性が思慮を凌駕するようであるや否や直ちに完全な判断無能力 を認定しなければならない。しかしそれにもかかわらず、そのような場合でも思慮ば全く本質的役割を果しうるから、 そこで裁判官は判断無能力の認定に賛成することはできない。それ故にこのように判断能力者となるか判断無能力者    権利主体と私法上の能力      六一

(35)

   東洋法学      

六二 となるかという二者択一についての精神病医と裁判官の決定の間には差異が明らかとなり、これは異った観察方法に 基因し、この場合精神病医の淡定はなおしばしば不安定なものであろう。このような過程に際し.経験も判断能力が あるか判断無能力であるかの二者択一的な精神病医と裁判官の解決の間に時々煩わしい不一致が生ずることを示す。 このような不確定性はしばしば重大な論議の原因となる。それはこのような不確定性は精神病医と裁判官の標準の差 異により生じなければならないことが明瞭にわからないからである、そこで精神病医が判断能力があるか判断無能力 であるかという二考択一を一般的に制限するのではなく.その間に減少した判断能力の種々の尺度を認め.具体的場 合に応じて評価する樵とは全く合購的的である.精神病医がこの評価を現実に即し包括的に区別をして基礎づけるな らば.裁判嘗によりよい基礎を提供するであろう。そのときは裁判官は聯邦裁判所の判決により確立された標準を以 って判断能力か判断無能力かの二者択一を当該取引的法律行為のために決定することができるであろう。更に精神病 医が心理的事実を一層精密に慮己に適した概念を以って分析し評価するならば裁判官はその精神病医の鑑定を判決の       ︵王︶ 理由づけの多くの詳細な点の論議にもますます利用しうるのである.  法規の枠内において種々の懇的が追及されることができ.その中の一つは他の犠牲によってのみ実現される。その 場合立法者は他の隣的のためになることの実現は一定の方法で制限されるような方法で相互に羅的を決定しなければ ならない。ドイッ民法一〇七条の行為能力の規定の目的は未成年者︵その他の制限行為能力者︶を自己の法律行為に より恐らく自己に不利益となるであろう結果から防止することであり、これは制限行為能力者と法律行為を締結した ことを知らない善意の相手方の犠牲によってのみ実現されるものである、そこで善意の場合の法律行為は有効になる

参照

関連したドキュメント

特許権は,権利発生要件として行政庁(特許庁)の審査が必要不可欠であ

今回のわが国の臓器移植法制定の国会論議をふるかぎり,只,脳死体から

第2期および第3期の法規部時代lこ至って日米問の時間的・空間的な隔りIま

の急激な変化は,従来のような政府の規制から自由でなくなり,従来のレツ

歯國撫旧馬僑i蒻扉 アシスタント カウンセル ゼネラル。 アシスタント カウンセル ゼネラル。 アシスタント カウンセル ゼネラル. アシスタント カウンセル

1アメリカにおける経営法学成立の基盤前述したように,経営法学の

法制史研究の立場から古代法と近代法とを比較する場合には,幾多の特徴

ヘーゲル「法の哲学」 における刑罰理論の基礎