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「生活」するということ ――安吾の「青春論」論―― 利用統計を見る

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「生活」するということ ――安吾の「青春論」論

――

著者

小池 陽

著者別名

KOIKE Akira

雑誌名

東洋大学大学院紀要

53

ページ

157-170

発行年

2016

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00008809/

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  はじめに   「青春論」 (文学界、 昭一七) は、 坂口安吾が 「日本文化私観」 (現代文学、 昭 一 七 ) に 続 い て 世 に 送 り 出 し た 作 品 で あ る。 こ の 作 品 は「 日 本 文 化私観」と同様、単なる文学の枠を超えている。一見すると、安吾 の「青春論」はただ若者の私的感情を述べた、非文学的な作品にも 思える。だが、冒頭に「気負って言えば、文学の精神は永遠に青春 であるべきものだ、と力みかえってみたくなるが、文学文学と念仏 のように唸ったところで我が身の愚かさが帳消しになるものでもな い ① 」とあるように、この作品によって、安吾は自己の文学論を展開 しようとしたのではない。結論からいえば、安吾の関心は、自己の 「生 活 ② 」を いかに生きるか 4 4 4 4 4 4 4 に向けられていたのである。というのも、 安吾自身がこの作品の末尾を「要するに、生きることが全部だとい うより外に仕方がない」 (同右) とまとめているからだ。   こうした安吾の関心は、文学的というよりは明らかに 哲学的 4 4 4 であ る。 そ れ は、 後 の「 堕 落 論 」 ( 新 潮、 昭 二 一 ) と も 通 底 し て い る こ と からも明らかである。例えば、戦後「堕落論」によって名声を得た 安 吾 に は、 次 の よ う な エ ピ ソ ー ド が あ る。 「 近 頃 私 の と こ ろ へ 時 々 訪ねてくる二人の青年がいる。二十二だ。彼等は昔は右翼団体に属 していたこちこちの国粋主義者だが、今は人間の本当の生き方とい うことを考えているようである。この青年達は私の「堕落論」とか 「 淪 落 論 」 が な ん と な く 本 当 の 言 葉 で あ る よ う に も 感 じ て い る ら し いが、 その激しさについてこれないのである」 (「風と光と二十の私と」 文 芸、 昭 二 二 ) 。 こ の「 青 年 達 」 も「 人 間 の 本 当 の 生 き 方 」 と い う 哲 学的な問いについて考えた時、安吾の「堕落論」や「淪落論」 (「青 春論」 )という哲学的資源を発掘するに至ったのだろ う 。要するに、 安 吾 の「 哲 学 」 を 理 解 す る 上 で、 「 青 春 論 」 は 極 め て 重 要 な の で あ る。それをよく読めば、そこにすでに明確にされていた安吾の「哲 学」の原点を読み取ることができるはずである。

「生活」するということ

 

――

安吾の「青春論」論

――

文学研究科国文学専攻博士後期課程満期退学

 

小池

  

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  「生活」の外にいる大人たち   安吾にとって、父は「大人」であった。父・坂口仁一郎は憲政本 党所属の衆議院議員であり、新潟新聞社社長、新潟米穀株式取引会 社 理 事 長 な ど を 歴 任 し た、 い わ ゆ る 名 士 で あ っ た。 安 吾 の 実 家 は、 当時の日本社会ヒエラルヒーを支える地方名家であったにもかかわ らず、祖父の代から傾きかけていた家運は、父の代で凋落の一途を たどっていった。   安吾はその父について、次のように述懐している。   私は父に対して今もって他人を感じており、したがって敵意 や反撥はもっていない。そして、敵意とは別の意味で、私は子 供のときから、父が嫌いであった如く、父のこの悲しみに因縁 のない事務的な大人らしさが嫌いであり、なべてかかる大人ら しさが根柢的に嫌いであった。   私が今日人を一目で判断して好悪を決し、信用不信用を決す るには、ただこの悲しみの所在によって行うので、これは甚だ 危険千万な方法で、そのために人を見間違うことは多々あるの だが、どうせ一長一短は人の習いで、完全というものはないの だから、標準などはどこへ置いてもどうせたかが標準にすぎな いではないか。私はただ、私のこの標準が父の姿から今日に伝 流している反感の一つであることを思い知って、人間の生きて いる周囲の狭さに就て考え、そして、人間は、生れてから今日 までの小さな周囲を精密に思いだして考え直すことが必要だと 痛感する。私は今日、政治家、事業家タイプの人、人の子の悲 しみの翳をもたない人に対しては本能的な反撥を感じ一歩も譲 らぬ気持になるが、悲しみの翳に憑かれた人の子に対しては全 然不用心に開け放して言いなり放題に垣を持つことを知らない のである (「石の思い」光   LACLARTE 、昭二一) 。   安 吾 は、 「 悲 し み の 翳 に 憑 か れ た 人 の 子 」 に つ い て は 受 け 入 れ る ことができた。だが、父については「敵意や反撥」を持っているわ けではないといっているにもかかわらず、子供の頃から「父のこの 悲しみに因縁のない事務的な大人らしさ」に不満を感じていた。で は、なぜ安吾はこうした不満を持ったのか。それは、安吾のように 「悲しみの翳に憑かれた人の子」は「大人」の身振りや口振りから、 「 事 務 的 」 な も の を 感 じ 取 る か ら で あ る。 つ ま り、 物 事 を 悟 り き っ たような、あるいは世故に長けたような「政治家、事業家タイプの 人、人の子の悲しみの翳をもたない人」の観照的な人生態度を「事 務的」と見るのである。   安吾の、 この 「悲しみの翳」 自体は素直で素朴な内省の結果である。 そのために「生れてから今日までの小さな周囲を精密に思いだして 考え直すこと」は重要である。しかし、 「大人」は自己の内省( 「悲 しみの翳」 ) よりも (自己の外の) 世間の 「道徳 ( ルール ) 」 に従う。 そうすれば、 「悲しみの翳」 に悩む必要もない。それで 「大人」 は、 「事

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務的」に見えるのである。例えば、安吾の父が「大人らしさ」特有 の「事務的」な人生態度を感じさせるのも、そのためである。そし て、その父の「生活」は 自己に従っている 4 4 4 4 4 4 4 4 ものなのではなく、世間 の「道徳」に服従しているように見えるのだ。少なくとも、安吾に はそのように 見えた 4 4 4 のである。   「大人」 は 「道徳」 的正しさを横目に見ながら、 世間を渡っていく。 おそらく、安吾の父もそうした「生活」自体に何らの疑いも持って いなかったに違いない。確かに、それは世間では正しいことだと見 なされる。なぜなら、 世間一般から見て 「政治家、 事業家タイプの人、 人 の 子 の 悲 し み の 翳 を も た な い 人 」 は 良 い 4 4 「 大 人 4 4 」 で あ り、 「 悲 し みの翳に憑かれた人の子」は 悪い 4 4 「 子 4 」であるという前提が支配し ているからである。世間の「道徳」という価値基準に従えば、世間 はむしろ名士であった安吾の父のような人物を欲していることに気 づくだろう。だが、良い「大人」が世間の「道徳」に従う時、そこ には必ず世間の発する視線への意識が存在している。安吾の「父は 私利、栄達をはからなかったとき、自分を突き放して、実は世間の 思 惑 に 身 売 り し て い た 」 ( 同 右 ) 。 世 間 の「 道 徳 」 か ら 見 れ ば、 安 吾 の父は立派で良識のある人物である。ところが、その父が世間から 見れば良い「大人」であるからこそ、彼は必然的に「世間の思惑に 身売り」せざるを得なくなってしまったのだ。われわれの中にも子 供 の 頃、 「 大 人 」 が「 世 間 の 思 惑 に 身 売 り 」 し て い る の を 見 て、 あ る種の寒気を感じたことがある人がいるかもしれない。それはまさ に、世間の 真 ホントウ 実 の顔を見てしまったという感覚である。われわれの 中に、こうした感覚があれば、安吾の格闘―彼は一体何と闘わざる を得なかったのか、 あるいは彼の 「哲学」 が何を問わざるを得なかっ たのかを理解することができるだろう。   「大人」は真に自己の「生活」を生きられていないのではないか。 こうした問いに対して、 「大人」はこう答えるだろう。 「道徳」的に 正しい 4 4 4 「生活」こそが、真の「生活」である、と。だが、真の「生 活」には、世間の「道徳」的正しさと本質的に矛盾することが存在 す る。 安 吾 は む し ろ、 そ う し た こ と を 積 極 的 に 認 め る。 「 本 当 に 可 愛いい子供は悪い子供の中にいる。 子供はみんな可愛いいものだが、 本当の美しい魂は悪い子供がもっているので、あたたかい思いや郷 愁をもっている。こういう子供に無理に頭の痛くなる勉強を強いる ことはないので、その温い心や郷愁の念を心棒に強く生きさせるよ う な 性 格 を 育 て て や る 方 が い い 」 (「 風 と 光 と 二 十 の 私 と 」) 。 こ こ で 安 吾が強調しているのは、 「本当の美しい魂は悪い子供がもっている」 と い う 点 で あ る。 「 悪 い 子 供 」 は な ぜ「 悪 い 」 こ と を す る の か。 そ れは、彼らが自己の「生活」に、その意義を見出すことができない からである。あるいは、 「悪い子供」 は 「悪い」 ことをすることで、 「生 活」が面白くなり、そこに「生活」の意義を見出すからである。む ろん、 こうしたことは 「道徳」 的に正しいこととはいえない。 だが、 「悪 い子供」 は「悪い」 ことをすることによって、 以前よりも自己の 「生活」 の内に、 その意義を見出すことができたのである。 いい換えれば、 「悪

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い」ことが「生活」することについて深い納得をさせてくれたので ある。   「悪い子供」にとって、 「道徳」な正しさは絶対的なものではなく、 相対的な一つのイデオロギーであるに過ぎない。彼らは「道徳」が 時に「大人」に都合の良い口実になることを、骨身にしみて知って いるのだ。例えば、彼らから見れば「小学校の先生には道徳観の奇 怪な顛倒がある」 。「小学校の先生」は「世間の人はもっと悪いこと をしている、俺のやるのは大したことではないと思いこんでいるの だが、実は世間の人にはとてもやれないような悪どい事をやるので あ る 」 ( 同 右 ) 。 他 者 の た め に、 あ る い は 世 間 の た め に な る こ と が 正 しい「生活」であるとする「大人」の「道徳」は、実は倒錯してい る の で は な い か、 こ れ が「 悪 い 子 供 」 の、 「 大 人 」 へ の 問 い な の で あ る。 安 吾 に よ れ ば、 「 大 人 」 は 純 粋 に 他 者 の た め、 あ る い は 世 間 のために「道徳」に従っているのではない。彼らの「道徳」意識に は、 倒 錯 し た「 エ ゴ イ ズ ム 」 が 含 ま れ て い る の で あ る。 「 自 ら の 行 うところは人にも之を許せというと、ひどく博愛にきこえるが、事 実はさにあらず、 これほどひねくれたエゴイズムはある筈がないし、 自分にとって不利な批判的精神というものを完全に取りさろうとい うのだから、 これほど素朴であり唾棄すべき生き方は他にない」 (「枯 淡 の 風 格 を 排 す 」 作 品、 昭 和 一 〇 ) 。 こ れ は、 単 な る「 道 徳 」 批 判 で は な い。 重 要 な の は、 「 道 徳 」 に 従 う「 大 人 」 に は 自 己 欺 瞞 的 な 利 他 4 4 4 4 4 4 4 4 の意識 4 4 4 があったのではないかという点に、安吾( 「悪い子供」 )が注 目していることである。   例えば、安吾はそのような「大人」として、河上徹太郎、正宗白 鳥、徳田秋声の名を挙げている。彼らの人生態度について批判を展 開する安吾は、 この文脈においては徹底的な道徳主義者である。 「悪 い 子 供 」 が「 大 人 」 の 自 己 欺 瞞 的 な 利 他 の 意 識 の 構 造 を 見 抜 い て い く よ う に、 安 吾 は こ こ で、 「 大 人 」 の「 道 徳 」 に お け る 蒙 昧 を 明 らかにしていくのである。まず、河上徹太郎については「峻烈な自 己批判から完全に目を掩うたところで「人間ができた」ということ に な 」 る が、 「 根 底 に 於 て こ れ ほ ど 相 対 的 な 功 利 的 計 算 を は た ら か したものは珍らしい」 。「他人に許されるために他を許そうとする」 、 「 馴 れ 合 い の よ う な 無 邪 気 な 道 徳 律 が、 恰 も 人 生 の 最 深 処 の 盛 観 を 呈 し て 横 行 し て い る の が 阿 呆 ら し い 」。 そ の よ う な 河 上 の 人 生 態 度 は「実は逆に最も功利的な毒々しい計算がつくされている」 。次に、 正宗白鳥については「正宗氏は所謂政治家実業家の「腹のできた人 間」ほど莫迦になりきるにしては聡明すぎる頭を持ち、峻烈な理知 をもっているから、自分の逃避的な人生態度に時々自ら批判者の側 に立ち、せめて思弁の中でなりと逃避的ならざる素裸となり景気を つ け て み よ う と す る。 然 し 所 詮 思 弁 家 は 行 う 人 で あ り 得 な い 」。 そ して、徳田秋声については「悩まざるがゆえの、救われない毒々し さ が、 私 を 悩 ま す の で あ っ た 」。 徳 田 は「 自 分 の 行 為 を 全 て 当 然 と して肯定し、同様に他人のものをも肯定し、もって他人にも自分の 姿をそのまま肯定せしめようとする、肯定という巧みな約束を暗に

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強いることによって、傷や痛みを持ちまいとする、揚句には内省や 批判さえ一途に若々しい未熟なものと思わしめようとする」 (同右) 。   こ う し た「 大 人 」 の 自 己 欺 瞞 を 告 発 す る「 悪 い 子 供 」 の 視 点 は、 一 体 何 に 由 来 す る の だ ろ う か。 「 悪 い 子 供 」 の 価 値 に も、 自 己 欺 瞞 が含まれていないのか。安吾の真に優れた点は、このような内省を 行っているところにある。   すでに見てきたように、 安吾 (「悪い子供」 ) の視点は、 実は父 (「大 人」 )の「道徳」に由来していることを、彼は認めている。   父は誠実であった。約をまもり、嘘をつかなかった。父は人 のために財を傾け、自分の利得をはからなかった、父は人に道 をゆずり、 自分の栄達をあとまわしにした。 それは全て父の行っ た事実である。 そしてそれは私に於てその逆が真実である如く、 父に於ても、その逆が本当の父の心であったと思う。父は悪事 のできない男であった。なぜなら、人に賞揚せられたかったか らである。そしてそのために自分を犠牲にする人であったと私 は 思 う。 私 自 身 か ら 割 り だ し て、 そ う 思 っ た の で あ る (「 石 の 思 い」 ) 。   生涯他者のため、 世間のために生きた父の「道徳」が、 「悪い子供」 (安吾)の視点を育てた。 「誠実」な父の「約をまもり、嘘をつかな かった」こと、そして「人のために財を傾け、自分の利得をはから なかった」 、「人に道をゆずり、自分の栄達をあとまわしにした」こ と は、 結 局「 人 に 賞 揚 せ ら れ た か っ た か ら 」 で あ っ た。 と こ ろ が、 生み出された「悪い子供」の視点が、生み出した父の「道徳」にお ける自己欺瞞性を暴き出したのである。それは、生まれ育った基盤 そのものを破壊したことを意味する。   さらに安吾は、やがて「私自身から割りだして」自己の内を掘り 崩し、 「子供」の ずるさ 4 4 4 をも掘り崩していく。 「子供は大人と同じよ うに、ずるい。牛乳屋の落第生なども、とてもずるいにはずるいけ れども、同時に人のために甘んじて犠牲になるような正しい勇気も 一緒に住んでいるので、つまり大人と違うのは、正しい勇気の分量 が多いという点だけだ。ずるさは仕方がない。ずるさが悪徳ではな い の で、 同 時 に 存 し て い る 正 し い 勇 気 を 失 う こ と が い け な い の だ 」 (「 風 と 光 と 二 十 の 私 と 」) 。 こ の よ う に「 子 供 は 大 人 と 同 じ よ う に、 ず る い 」 こ と を、 安 吾 は 認 め て い る。 だ が、 「 子 供 」 の ず る さ は「 大 人」の「悪徳」とは根本的に異なる。彼らのずるさは「人に賞揚せ ら れ た か っ た か ら 」 生 じ た 行 為 な の で は な く、 た だ 自 己 の「 生 活 」 の 意 義 を 見 出 し た か っ た た め に 生 じ た 行 為 な の で あ る。 そ れ ゆ え、 「人のために甘んじて犠牲になるような正しい勇気」は、 「大人」の それより「分量が多い」のである。そのような「子供」の、 「生活」 の意義が世間の 「道徳」 に押し潰されてしまわないように、 彼らは 「正 しい勇気」を失ってはいけないのだ。というのも、 もし「悪い子供」 に「 人 の た め に 甘 ん じ て 犠 牲 に な る よ う な 正 し い 勇 気 」 が あ れ ば、

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自己の「生活」の意義と世間の「道徳」との折り合いをつけ、より 良い関係を築く方法が必ずあるはずだからである。ただし、 もし 「悪 い子供」が世間の「道徳」と相容れなかった場合でも、自己の「生 活」の中から意義を見出すことができる視点、それが安吾 独 オリジナル 自 の視 点なのである。むろん、この場合、自己の「生活」の意義は「徹底 的なエゴイズムを土台にしたもの」 (「枯淡の風格を排す」 ) であるため、 世間の 「道徳」 という普遍的価値がほとんど否定されることになる。 要するに、自己の「生活」の意義を見出そうとすることは、究極的 には世間の「道徳」に反する行為なのである。そうしたことができ ない「大人」は、 「生活」の外にいるほかないのである。   このように安吾の「道徳」批判とは、いい換えれば、 「悪い子供」 と「大人」との闘いである。安吾( 「悪い子供」 )には、いかなる恐 ろしい真実からも眼を背けない、そして世間の「道徳」に従う「大 人」 たちの批判をものともしない 「真剣な情熱」 があった。この 「真 剣 な 情 熱 と い う も の は、 必 然 的 に 最 も 利 己 的 」 な も の な の で あ る。 それで「日本人の如く、軽々しく他人の立場を計量し思惑を働かせ て、同情し、寛大となり、諦らめ、いい加減のところでヒラリと利 他 的 な 安 手 な 悟 り へ 身 を 飜 す べ き 不 誠 実 さ は 許 さ る べ き 」 (「 無 題 」 紀 元、 昭 九 ) で は な い の だ。 そ し て、 「 必 ず 一 応 は 利 己 一 点 ば り に 追 求の極地へまで追いつめ、その底に行きどまったとき」 、「道徳を確 立し、 風景を眺め、 而して出発」 (同右) することができるのである。 要するに、 「悪い子供」 (安吾)の「哲学」にとって重要なのは知性 だけでなく、 「真剣な情熱」なのであった。   「哲学」の可能性   「 哲 学 」 を す る と い う こ と は、 自 己 の「 生 活 」 に い か な る 意 義 を 見 出 す か と い う こ と で あ る。 「 生 活 」 に 何 ら か の 意 義 を 見 出 し、 深 い悦びを感じ、そして深い納得が得られる、そのために「哲学」が あるのだ。人間の「生活」は、そこに意義を見出すことなく、ただ 漠然と過ごしていれば、 時間の経過とともに消えてしまう。 だが、 「生 活」の意義が見出されることで、一つの意味あるかたちとなり、そ れ は 消 滅 か ら 救 わ れ る。 「 生 活 」 の 意 義 を 見 出 す た め に は、 わ れ わ れはまず「哲学」することを始めなければならない。   大正一〇年、 東洋大学教授となった出隆は『哲学以前』 (大村書店、 大 一 一 ) を 書 い た。 当 時 の 哲 学 青 年 の 愛 読 書 と な っ た こ の 書 の 中 で、 出は「哲学的思惟の動機は生活と思想の根本仮定と根本矛盾を発見 することであり、哲学の途はこれらを疑い揺らぎつつ進む批判的統 一の過程である。すべての偉大な哲学的思想家は、常に深刻に自他 の生活と思想の根底に踏み入り、そこに懐疑によって前提・仮想の 不都合を発見し、その批判によって自らに問題を課し た ④ 」といって いた。これは、西田哲学への傾倒によるものである。例えば、西田 幾 多 郎 は『 善 の 研 究 』 ( 弘 道 館、 明 四 四 ) を 書 い た 理 由 に つ い て、 西 田は「哲学的研究がその前半を占め居るにも拘らず、人生の問題が 中心であり、終結であると考えた 故 ⑤ 」と書いていたが、それは「哲

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学以前」 たるものを、 「生活」 (「人生の問題」 ) と考えていた出の 「哲 学 」 の 動 機 と 同 じ で あ る。 そ れ ゆ え、 出 は「 哲 学 」 に お い て、 「 自 他の生活と思想の根底」 に 「踏み入り」 、そこにある 「不都合」 を 「批 判」することが重要だと強調したのである。   しかし、その後、東京帝国大学教授の時に書かれた「哲学を殺す も の 」 (「 改 造 」、 昭 一 六 ) の 中 で、 出 は ア テ ナ ィ の「 政 治 」 が「 哲 学 」 を追求したソクラテスを殺し、 「哲学」を衰退させたと指摘する。   「 哲 学 」 は そ の 最 初 の 人 ソ ク ラ テ ス 一 代 で、 ア テ ナ ィ 政 界 と 絶 縁 し た。 ア テ ナ ィ は ソ ク ラ テ ス と 共 に そ の「 哲 学 」 を 殺 し、 よってその後の哲学を骨抜きにした。或いは、哲学は、その政 治を嫌いこれを顧みない哲学へと変質した。その直言者を許さ なかった政界は、直言者から敬遠された。そして直言者を殺し 遠ざけた無定見の政界は、やがて自らの国を亡ぼした。だが哲 学は、その政界を敬遠し或いは顧みて他を言っているうちにこ れに直言することを忘れた。こうして哲学と政治とはお互いに 遠ざけ遠ざかって、 遂に「カイザルのものはカイザルのものに、 神のものは神に」となっていったのである。   しかしながら、哲学と政治とは、いつまでも無縁のものであ ることは許されない。哲学の政治性と共に政治の哲学性が切に 要望される。我々の政治はソクラテスを殺しプラトンの直言を 封じたようなアテナィのそれであってはならない。同時に我々 の哲学は現実への直視と直言を避ける無理論的で無気力な個人 倫理に止まっていてはいけな い ⑥ 。   ソクラテスは 「哲学」 によって、 アテナィ全体と対話しようとした。 特にアテナィ政界に「直言」することで、アテナィの正義を守ろう としたのである。つまり、 ここでの「哲学」者とは、 つねに「政治」 という現実に対峙する「直言者」のことなのである。ところが、ア テ ナ ィ で は、 「 哲 学 」 者 が「 哲 学 」 よ っ て、 独 立 し た 地 位 を 獲 得 す る こ と は 困 難 で あ っ た。 そ れ だ け で な く、 「 哲 学 」 を 人 生 に お い て 価値あるものと見なすことも困難であった。というのも、アテナィ に お い て は、 あ ら ゆ る 学 術 が 真 理 の 追 究 の た め に あ る の で は な く、 「政治」 のためにあったからである。アテナィの人々にとっては 「生 活 」 の 意 義 の 追 求( 「 哲 学 」) よ り も、 「 政 治 」 的 功 利 4 4 の 追 求 の 方 が 重要なのであった。そこで、出は「哲学の政治性と共に政治の哲学 性が切に要望される」というのである   だ が、 「 哲 学 」 者 が「 政 治 」 を 批 判 す る こ と と、 「 政 治 」 を 重 視 し、それに身を投じることとは別のことである。 「哲学」が「政治」 に 対 し て 独 立 し て い る と す れ ば、 「 哲 学 」 者 が 直 接 的 に「 政 治 」 に 参 加 し な け れ ば な ら な い 必 然 性 は な い。 「 政 治 」 家 は「 哲 学 」 者 で ある必要もないが、逆にソクラテスのような偉大な「哲学」の追求 者 で あ っ て も 構 わ な い。 そ れ ゆ え、 「 哲 学 」 者 の「 政 治 」 に 対 す る 批判は自由であり、いかに関わるかも自由であるはずだ。そうした

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意味において、 「哲学」は「政治」を超越していなければならない。 そ れ は、 た と え「 哲 学 」 が「 政 治 」 と 衝 突 し た と し て も、 「 哲 学 」 者は世論に左右されたり、あるいは「政治」の圧力を恐れたりして はならないということを意味する。なぜなら「哲学」者は、 「生活」 の 意 義 を 純 粋 に 4 4 4 追 求 す る こ と が 要 求 さ れ る か ら で あ る。 「 生 活 」 の 意義こそ人生の最も重要な価値であり、自己形成の最も重要な基盤 なのである。それを追求する「哲学」は「政治」よりも貴い。にも か か わ ら ず、 「 我 々 の 政 治 は ソ ク ラ テ ス を 殺 し プ ラ ト ン の 直 言 を 封 じたようなアテナィのそれであってはならない」ということにこだ わった出は昭和二三年、日本共産党に入党し、昭和二六年に東大を 辞して、東京都知事選に挑戦した。しかし、現実には、自らが描い た ソ ク ラ テ ス と 同 じ よ う に、 「 政 治 」 の 前 に 挫 折 す る こ と と な っ た のである。   こうした「哲学」観があることを知っておくことは、安吾が「生 活」をいかに見ていたかを理解する上で非常に重要なことなのであ る。なぜなら、安吾はかつて「政治による救いなどは上皮だけの愚 にもつかない物である」 (「堕落論」 ) といっていたからだ。   安吾の「生活」の見方をよく表している言葉がある。それは「咢 堂小論」 (「堕落論」銀座出版社、昭二二) の末尾にある次のような言葉 である。   何故にかかる愚が幾度も繰返さるるかと云えば、先ず「人間 は生活すべし」という根本の生活意識、態度が確立せられてお らぬからだ。政党などに走る前に、先ず生活し、自我というも のを見つめ、自分が何を欲し、何を愛し、何を悲しむか、よく 見究めることが必要だ。政治は生活の道具にすぎないので、古 い道具はいつでも取変え、より良い道具を選ぶことが必要なだ けである。政治の主体はただ自らの生活あるのみ (「咢堂小論」 ) 。   日本の 「政治」 も、 われわれの 「生活」 から遊離している。例えば、 丸 山 真 男 は こ う 指 摘 し て い る。 「 日 本 で は 私 た ち 国 民 が 自 分 の 生 活 と実践のなかから制度づくりをしていった経験に乏しい。歴史的に いっても、たいていの近代的な制度はあらかじめでき上ったものと して持ち込まれ、そのワクにしたがって私たちの生活が規制されて きたわけです。それでおのずから、まず先に法律や制度の建て前が あ っ て そ れ が 生 活 の な か に 降 り て く る と い う 実 感 が 強 く 根 を 張 っ て 」いる。この指摘の通り、われわれ日本人は「生活と実践」から 「ワク」 (「制度」 )を生み出してきたのではない。そうではなく、 「あ らかじめでき上ったもの」 として 「ワク」 が与えられてきたのである。 それゆえ、 「生活のなかに降りてくる」 というように考えるのである。 先に引いた安吾の「政党などに走る前に、先ず生活し、自我という ものを見つめ、自分が何を欲し、何を愛し、何を悲しむか、よく見 究めることが必要だ」という言葉に、すでに「生活意識、態度」に 対する彼の関心の深さが示されている。 この言葉は明らかに、 「ワク」

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によって 「生活が規制され」 る習慣への批判である。安吾の眼には、 「 生 活 」 か ら 遊 離 し た 思 考 様 式 の た め に、 歴 史 的 に「 愚 が 幾 度 も 繰 返さ」れてきたと映っていたのである。したがって、 安吾は、 「生活」 から遊離したこの思考様式こそ日本人の思考様式を蝕んでいる病で あり、それが日本人に「愚」を「幾度も繰返さ」せていると批判し たのである。そして、 安吾はこうした「ワク」への依存とは異なる、 「先ず「人間は生活すべし」 」という「生活」の見方を提起したので ある。   こ の 批 判 は 安 吾 自 身 の 経 験 か ら 得 た も の で あ る。 そ の 経 験 と は、 すでに見てきたように「大人」への反抗のことである。そのことに ついて、 安吾は独自の宮本武蔵論で説明している。 「僕の青春論には、 どうしても宮本武蔵が現れなくては納まりがつかないという定めが ある」 。「剣術は所詮「青春」のものだ。特に武蔵の剣術は青春その ものの剣術であった。一か八かの絶対面で賭博している淪落の術で あり、 奇蹟の術であったのだ」 。だが、 晩年『五輪書』を書いた「彼 は世の大人たちに負けてしまった。柳生派の大人たちに負け、もっ とつまらぬ武芸のあらゆる大人たちに負けてしまった。彼自身が大 人 に な ろ う と し な け れ ば、 負 け る こ と は な か っ た の だ 」 (「 青 春 論 」) 。 「柳生派の大人たち」は「形式主義」 (同右) に陥り、 「生活」の外側 か ら「 生 活 」 を 捉 え よ う と し た。 し か し、 そ れ は あ く ま で「 形 式 」 で あ っ て、 生 き て い る「 生 活 」 で は な か っ た。 「 生 活 」 し て い る 者 が「 生 活 」 に 対 し て 距 離 を と っ て い る 限 り、 「 一 か 八 か の 絶 対 面 で 賭博している」武蔵のような「生活」を理解することは不可能であ る。そうした意味において、安吾の「大人」への反抗は、実態から 遊離している「形式主義」への批判なのである。ただし、これは単 なる「形式主義」への批判ではない。安吾は「大人」への反抗から 生まれる「青春」=「淪落」の世界に立っているのだ。   「 青 春 」 =「 淪 落 」 の 世 界 に 立 っ て「 生 活 」 を 捉 え る 安 吾 の ス タ ン ス は、 「 中 味 と 形 式 」 (『 朝 日 講 演 集 』、 明 四 四 ) の 中 で 述 べ ら れ て い る漱石のスタンスと似ている。例えば、漱石は次のようにいってい る。 「 現 今 日 本 の 社 会 状 態 と い う も の は ど う か と 考 え て み る と 目 下 非常な勢いで変化しつつある。それに伴れて我々の内面生活という ものもまた、刻々と非常な勢いで変りつつある」 。「すでに内面生活 が違っているとすれば、それを統一する形式というものも、自然ズ レて来なければならない。もしその形式をズラさないで、元のまま に据えて置いて、そうして何処までもその中に我々のこの変化しつ つある生活の内容を押込めようとするならば失敗するのは眼に見え ている」 。「要するにかくの如き社会を総べる形式というものはどう しても変えなければ社会が動いて行かない。乱れる、纏まらないと いうことに帰着するだろうと思う」 。「内容の変化に注意もなく頓着 もなく、一定不変の型を立てて、そうしてその型は唯だ在来あるか らという意味で、またその型を自分が好いているというだけで、そ うして傍観者たる学者のような態度をもって、相手の生活の内容に 自 分 が 触 れ る こ と な し に 推 し て い っ た な ら ば 危 な い ⑧ 」。 わ れ わ れ の

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「生活」は、 「刻々と非常な勢いで変りつつある。瞬時の休息なく運 転しつつ進んでいる」 。変化し続ける「生活」を、 「形式」に「押込 め よ う と す る な ら ば 失 敗 す る の は 眼 に 見 え て い る 」。 に も か か わ ら ず、 「傍観者たる学者のような態度」によって、 「型はただ在来ある から」 、「型を自分が好いているというだけで」 、「一定不変の型」で 自己の 「生活」 を捉えるのは危険であることを、 漱石は警告している。   安 吾 の「 生 活 」 へ の 思 考 は 漱 石 と 同 じ 方 向 に 向 い て い る。 「 剣 法 には固定した型というものはない、 というのが武蔵の考えであった。 相手に応じて常に変化するというのが武蔵の考えで、だから武蔵は 型にとらわれた柳生流を非難していた」 (同右) という安吾の言葉に、 そ の よ う な 思 考 が 表 さ れ て い る。 そ れ は「 形 式 」 に よ っ て「 生 活 」 を捉えるというスタンスではなく、あくまで「生活」の中に踏み留 まり、その意義を問う思考なのであり、生きている「生活」から始 めるという思考なのである。   だが、その安吾の思考と、静謐な明晰さから「生活」を俯瞰して いく漱石の思考とを比べてみれば、それぞれの思考の底にある経験 の 質 の 違 い は 明 ら か で あ る。 漱 石 は「 自 己 本 位 」 か ら「 則 天 去 私 」 へと 昇華 4 4 に向かった。一方、安吾は漱石のような 超越的な参照 4 4 4 4 4 4 を見 出すことができなかった。こうして安吾は、何ものも昇華すること が で き ず、 再 び「 生 活 」 の 渦 に 戻 っ て い く し か な か っ た の で あ る。 安 吾 は こ う い っ て い る。 「 空 虚 な 実 の な い 生 活 を し て い な が ら、 そ れ で い て 生 き て い る の が 精 一 杯 で、 祈 り も し た い、 酔 い も し た い、 忘れもしたい、叫びもしたい、走りもしたい。僕には余裕がないの である。生きることが、ただ、全部なのだ」 (同右) 。   こ こ で、 安 吾 の「 形 式 主 義 」 へ の 批 判 =「 大 人 」 へ の 反 抗 を 誤 解 し な い た め に、 「 魔 の 退 屈 」 (「 太 平   第 二 巻 第 一 〇 号 」 時 事 通 信 社、 昭 二一) から重要な言葉を見ておくことにしよう。   完 全 な 秩 序 、 犯 罪 に 関 す る 限 り ほ ぼ 完 全 な 秩 序 が 保 れ て い た 。 愛 国の 情 熱 が た か ま り 、 わ い て い る よ う だ っ た 。な ん と い う 虚 し い 美 で あ ろ う か 。 自 分 の 家 が 焼 け た 。 何 万 何 十 万 の 家 が 焼 け 、 さ し て 悲 し み も せ ず 、 焼 跡 を ほ じ く っ て い る 。 横 に 人 間 が 死 ん で い る 、 も う 、 振 り む き も し な い 。 鼠 の 屍 体 に 対 す る と 同 様 の 心 し か 有 り 得 な く な っ て い た 。 かよ う に 心 が 痲 痺 し て 悪 魔 の 親 類 の よ う に 落 ぶ れ た 時 が き て い て も 、 食 う こ とが で き て 、 そ し て と り わ け 欲 し い 物 も な い と きに は 、 人 は 泥 棒 も オ イ ハ ギ も し な い の だ 。 欲 し い も の は せ いぜ い シ ャ ツ か 浴 衣 ぐ ら い で 、 ま る で 自 分 の 物 と同 じ 気 持 で ち ょ っ と 風 呂 屋 で 着 か え て 出 て く る く ら い の こ とは す る が 、 本 心 は 犯 罪 に 痲 痺 し 落 ち ぶ れ き っ て い な が ら 、 泥 棒 も オ イ ハ ギ も や ら な い 。 単 な る 秩 序 道 徳 の 平 静 の み す ぼ ら し さ 、 虚 し さ 、 つ ま ら な さ 。 人 間 の 幸 福 は そ こ に は な い 。 人 間 の 生 活 が そ こ に な い 。 人 間 自 体 が な い の で あ る (「 同 右 」) 。   安吾は、 「完全な秩序」や「秩序道徳」が「みすぼらしさ、 虚しさ、

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つまらなさ」に満ちているとはっきりと書いている。また、安吾は 憤 然 と し て、 「 戦 争 中 の 日 本 人 は 最 も 平 和 な、 恐 ら く 日 本 二 千 何 百 年 か の 歴 史 の う ち で 最 も 平 穏 」 で あ っ た に も か か わ ら ず、 「 虚 し く 食って生きている平和な阿呆」 (同右) であったと書いている。それ は、つまり、自己の「生活」の意義を見出すことなく、ただ生きて い る だ け な ら ば、 「 人 間 の 幸 福 は そ こ に は な い。 人 間 の 生 活 が そ こ にない。人間自体がない」からである。安吾のいう「生活」は「完 全な秩序」や「秩序道徳」の正反対にあり、自己の生を正面から引 き受ける態度をも意味している。安吾はそうした態度を「淪落」と 呼んだ。   「 淪 落 」 に つ い て、 安 吾 は「 青 春 論 」 の 中 で 次 の よ う な エ ピ ソ ー ド を 書 い て い る。 正 月 に 近 い 頃、 安 吾 は 満 員 状 態 の バ ス に 乗 っ た。 安吾の隣には、学習院の制服を着た「小学生」が立っていた。しば ら く し て、 安 吾 の 前 の 席 が 空 席 に な っ た の で、 彼 は そ の「 小 学 生 」 に 席 を 勧 め た が、 「 小 学 生 」 は た だ お 辞 儀 を し た だ け で、 座 る こ と がなかった。それだけでなく、 他に席が空いた時でも、 その 「小学生」 は結局、席に座らなかったのである。その時、安吾は「この少年の 躾 け の 良 さ に こ と ご と く 感 服 し た 」 (「 青 春 論 」) と い う。 こ の「 小 学 生」は、ただの小学生ではない。いわば「大人」なのである。ただ し、 安 吾 に よ れ ば、 こ の「 小 学 生 」( 「 大 人 」) の「 貴 族 的 性 格 」 は 「毅然たる外見のみ」であって、 「外見と精神に何の脈絡」もないの で あ る。 そ し て、 安 吾 は こ の よ う に 問 う。 「 小 学 生 」 は「 た だ 他 人 との一応の接触に於て、礼儀を知っているけれども、実際の利害関 係が起った場合に、自己を犠牲にすることが出来るか。甘んじて人 に席を譲るか。むしろ他人を傷つけて自らは何の悔いもない底の性 格 を つ く り 易 い 」 ( 同 右 ) の で は な い か、 と。 「 完 全 な 秩 序 」 や「 秩 序道徳」 、そして「礼儀」…これらは、 ほとんど疑われることのない、 無意識的な思考の習慣によって成り立っている。こうしたものに対 して、 安吾は強い反感を抱いていた。それらに従う思考の根底には、 既存の思考の習慣に対する安全感がある。その安全感は自己保身の 本 能 に よ っ て、 「 実 際 の 利 害 関 係 が 起 っ た 場 合 に、 自 己 を 犠 牲 に す る こ と が 出 来 」 な い、 「 他 人 を 傷 つ け て 自 ら は 何 の 悔 い も な い 底 の 性格をつくり易い」のである。自己を守るために、より安全で、よ り 安 定 し た「 生 活 」 を 送 ろ う と す る。 安 吾 の 眼 に は「 完 全 な 秩 序 」 や「 秩 序 道 徳 」、 そ し て「 礼 儀 」 が ニ セ モ ノ 4 4 4 4 に 見 え、 む し ろ そ う で な い も の の 方 こ そ ホ ン モ ノ 4 4 4 4 で あ る と 見 え た。 安 吾 は い う。 「 犠 牲 と か互譲とかいたわりとか、そういうものが礼儀でなしに生活として 育 っ て い る の は 淪 落 の 世 界 な の で あ る 」 ( 同 右 ) 。 確 か に、 ニ セ モ ノ に 従 っ て い れ ば、 わ れ わ れ は あ る 種 の 安 全 感 を 得 る こ と が で き る。 むろん、安吾がいうように、そうしたものから「淪落」してしまえ ば、われわれは安全感を失うばかりでなく、自己の居場所さえ失う こ と に な る か も し れ な い。 だ が、 「 淪 落 」 す る こ と に よ っ て、 逆 に 得られるものがある。それは、われわれの「生活」をより開かれた ものへと解放するのだ。

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  安吾の 「青春論は同時に淪落論」 でもあった。安吾にとっての 「青 春」 とは 「老成せざる者の愚行が青春のしるし」 (同右) であるとす れ ば、 「 老 成 」 し た 者( 「 大 人 」) と は「 個 人 は つ ね に 否 応 な く 伝 統 のほんとうの発見に近づくように成熟す る ⑨ 」という、例えば小林秀 雄のような人物のことである。 小林は 「故郷を失った文学」 (文藝春秋、 昭 八 ) の 中 で、 「 成 熟 」 す る こ と を 肯 定 し た。 「 私 達 が 故 郷 を 失 っ た 文学を抱いた、青春を失った青年達である事に間違いないが、又私 達はこういう代償を払って、今日やっと西洋文学の伝統的性格を歪 曲 す る 事 な く 理 解 し は じ め た の だ ⑩ 」。 日 本 人 が「 西 洋 文 学 の 伝 統 的 性格を歪曲する事なく理解しはじめた」 ことを、 小林は 「青春を失っ た」 、「成熟」として理解したのである。   一方、 安吾は 「成熟」 した 「大人」 に反抗する。 「教祖の流儀には型、 つまり公式とか約束というものが必要で、死んだ奴とか歴史はもう 足をすべらすことがないので型の中で料理ができるけれども、生き てる奴はいつ約束を破るか見当がつかないので、こういう奴は鑑賞 に堪えん」 (「教祖の文学」新潮、 昭二二) 。安吾の反抗は小林( 「大人」 ) が「型」を利用して、人間の「生活」を批評していたというところ に向けられている。この反抗によって、安吾は「型」に依存して批 評を行う小林の態度への対抗理論( 「淪落」 )を立てなければならな いという課題に直面した。安吾が明らかにしているように、小林は 「 型、 つ ま り 公 式 と か 約 束 」 を 利 用 し て、 人 間 の「 生 活 」 を 正 し く 認識していると考えていた。しかし、小林の認識は「生活」の 現 リ ア ル 実 に つ い て の 認 識 で は な く、 た だ の「 死 ん だ 奴 と か 歴 史 」 の「 鑑 賞 」 でしかなかった。また、小林は自分の利用する「型」が「生活」の 産物であることを自覚していなかっただけでなく、それを絶対視し て い た。 そ れ だ け で は な い。 小 林 に は、 「 型 」 が 生 ま れ た「 生 活 」 の背景についての考察が欠けていただけでなく、ある「型」によっ て「 生 活 」 を「 鑑 賞 」 す る 際 に、 「 生 き て る 奴 は い つ 約 束 を 破 る か 見当がつかない」という「型」の限界についての考察も欠けていた のである。安吾の小林批判の底には、小林の「生きてる奴」に関す る思慮が不十分だったことを暴露する意図がある。小林は「型」の 中で現れてくる「生活」については、極めて饒舌に語ることができ るが、 その外にある 「生活」 ― 「自分でも何をしでかすか分らない」 、 「せっぱつまれば全く何をやらかすか」 、「まったく悪戦苦闘」 (同右) に対しては、まったく口を閉ざす以外なかったのだ。だが、安吾は むしろそこにこそ 「生きてる奴」 の「生活」 があると考えたのである。   おわりに   こ れ ま で 見 て き た よ う に、 「 大 人 」 こ そ、 日 本 の 哲 学 を 堕 落 さ せ た張本人なのだ。安吾は「大人」による哲学の転倒、 つまり「形式」 (「 型 」、 「 ワ ク 」) に よ る「 生 活 」 へ の 認 識 を 真 の 認 識 と す る 欺 瞞 を 乗 り 越 え よ う と し た。 そ れ ゆ え、 安 吾 は「 こ う い う 僕 に と っ て は、 所 詮 一 生 が 毒 々 し い 青 春 で あ る の は や む を 得 ぬ 」 (「 青 春 論 」) と い う のである。安吾にとって、 「大人」は「形式」によって、 自己の「生

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活」を既定する思考様式の象徴であった。その「大人」に反抗する ための理論( 「淪落」 )は、 「青春」期の「悪い子供」 (安吾)が試み ようとする「哲学」にかかっている。その「哲学」によって、安吾 は「形式」では適切に処理ができない「生活」の問題、いい換えれ ば、 「 形 式 」 に よ っ て「 生 活 」 の 問 題 が 覆 い 隠 さ れ る と い う 危 険 性 について、特に警戒し、常に徹底した省察を続けていただけではな く、 「生活」への理解や思考を深めようとし、 「生活」に対する有効 で正しい認識を追求しようと試みたのである。 ①   安吾の著作からの引用は 『坂口安吾全集』 全一八巻 (ちくま文庫版、 平元―平三)に拠る。 ②   安吾の 「生活」 に関する先行研究は、 拙論 「「 「生活」 の本義―安吾の 「日 本文化私観」論」 (『東洋大学大学院紀要 五一』平二六年)を参照。 ③   他 に も、 柄 谷 行 人 に よ る 次 の よ う な 指 摘 も あ る。 「『 堕 落 論 』 で い わ れていることは、 実はすでに 『青春論』 (昭和一七年) に書かれている。 ただ、そこでは「堕落」ではなくて「淪落」という言葉が使われて いるが。むろん「もっと堕ちよ」という安吾の言葉が直接的に人の 耳を打ったのは、それまでの道徳からみればまさに堕落でしかない よ う な 生 活 の な か に 人 が 追 い 込 ま れ て い た か ら だ 」( 柄 谷 行 人『 坂 口安吾と中上健次』講談社文芸文庫、平一八年、七八頁) 。 ④   出 隆「 哲 学 以 前 」( 『 出 隆 著 作 集・ 一 』 勁 草 書 房、 昭 三 八 年 に 所 収 ) 二九頁 ⑤   西 田 幾 多 郎『 善 の 研 究 』( 『 西 田 幾 多 郎 全 集   第 一 巻 』 岩 波 書 店、 昭 五三年に所収)四頁 ⑥   出 隆「 哲 学 を 殺 す も の 」( 『 出 隆 著 作 集・ 二 』 勁 草 書 房、 昭 三 八 年 に 所収)一〇九―一一〇頁 ⑦   丸 山 真 男「 「 で あ る 」 こ と と「 す る 」 こ と 」( 『 丸 山 真 男 集   第 八 巻 』 岩波書店、平八年に所収)三七頁 ⑧   夏 目 漱 石「 中 味 と 形 式 」( 『 漱 石 全 集   第 一 一 巻 』 岩 波 書 店、 昭 六 〇 年に所収)三六二―三六三頁 ⑨   小 林 秀 雄「 故 郷 を 失 っ た 文 学 」( 井 上 靖( 編 )『 昭 和 文 学 全 集 九 』 小学館、昭六二年所収)四六頁 ⑩   同右

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This is “life”

KOIKE, Akira

 “Seishunron" was written by Ango Sakaguchi. It was the work which Ango wrote after "NihonBunkaShikan". It transcend a limit of the literature as “NihonBunkaShikan ". At first glance, “Seishunron" is the non-literal work which was written the personal feelings of the youth. But Ango didn’t write his literary essay. He was interested, how should we live our "life"? His interest is truly philosophical rather than literary. If we understand his philosophy, “Seishunron" is one of the most important works in understanding it.

参照

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