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島津龍伯書状の慶長地震津波記述について

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全文

(1)

島津龍伯書状の慶長地震津波記述について

著者

松岡 祐也

雑誌名

文化

83

3,4

ページ

13-27

発行年

2020-03-31

URL

http://hdl.handle.net/10097/00128848

(2)

文化   第八十三巻   第三 ・ 四号   ―秋・冬― 別刷 令和二年三月 三十一 日発行

島津龍伯書状

慶長地震津波記述

(3)

一三 慶 長 九 年 一 二 月 一 六 日︵ 一 六 〇 五 年 二 月 三 日 ︶、 日 本 列 島 の 太 平 洋 沿 岸 に 津 波 が 襲 来 し 、 各 所 で 被 害 が 生 じ て い る 。 こ の 津 波 は 、 か つ て ﹁ 慶 長 東 海 地 震 ﹂ と 呼 ば れ た 南 海 ト ラ フ 地 震 に よ る 津 波 と 考 え ら れ て い た 。 し か し 近 年 の 研 究 で は 、 南 海 ト ラ フ 地 震 が 由 来 で あ る と す る 主 張 は 後 退 し 、 房 総 半 島 沖 や 小 笠 原 諸 島 沖、 ま た 南 米 沖 等 と い っ た 、 由 来 に つ い て 様 々 な 説 が 出 て お り 、 い ま だ 定 説 を 見 て い な い 状 況 に あ る 。 歴 史 津 波 の 名 称 は 多 く が 発 生 源 に よ っ て い る が 、 由 来 の は っ き り と し な い こ の 津 波 に つ い て 本 稿 で は ﹁ 慶 長 地 震 津 波 ﹂ と 表記 す る こ と に す る 。 近 年 の 慶 長 地 震 津 波 に 関 す る 研 究 は 、 津 波 に よ る 各 地 の 被 害 を ま と め る こ と で 地 震・ 津 波 像 を 明 ら か に す る こ と よ り も 、 関 連 す る 史 料 の 検 討 か ら 慶 長 地 震 津 波 に よ る 各 地 の 被 害 の 実 像 を 検 討 す る こ と が 中 心 と な っ て い る 。 慶 長 九 年 津 波 に 関 す る 史 料 は 多 く 残 さ れ て い る が 、 そ の 多 く は 二 次 史 料 で あ り 、 信 頼 性 が 高 い と 考 え ら れ る 史 料 は 限 ら れ て い る 。 そ の よ う な 信 頼 性 の 高 い 史 料 の 一 つ に 、 島 津 龍 伯 書 状 が あ る 。 こ の 書 状 に は 島 津 領 を 大 波 が 襲 っ た と い う 記 述 が あ り 、 こ の 大 波 が 慶 長 地 震 津 波 で あ る と 考 え ら れ て い る 。 一 方 で 、 波 が 襲 っ た 場 所 の 記 述 に つ い て は 様 々 な 解 釈 が 提 示 さ れ て い る 。 本 稿 で は 、 島 津 龍 伯 書 状 の 災 害 記 述 に つ い て 検 討 を 行 う 。 特 に 解 釈 の 分 か れ て い る 被 害 地 に 関 す る 記 述 に 注目 し 、位置比定 を 行 う こ と と す る 。

 

はじめに

島津龍伯書状

慶長地震津波記述

(4)

一四

 

西

歴 史 上 広 域 的 な 被 害 を も た ら し た 地 震 や 津 波 に 関 す る 研 究 で は 、 各 地 の 被 害 状 況 を 明 ら か に し た 上 で 、 被 害 の 全 体 像 を ま と め て い く こ と が 重 要 と な る 。 そ の た め 、被害地 の 比定 は 重要 な 課題 と い え る 。 本 稿 で 検 討 対 象 と す る 島 津 龍 伯 書 状 は 、 島 津 家 当 主 で あ っ た 島 津 龍 伯︵ 義 久。 龍 伯 は 出 家 名 で あ る が 、 本 稿 で は 差 出 名 よ り 龍 伯 と す る ︶ よ り 慶 長 九 年 十 二 月 十 九 日 付 で 家 臣 の 樺 山 久 高︵ 権 左 衛 門 尉 ︶ へ 出 さ れ た も の で あ る 。 以 下 に 、 そ の 全 文 を 掲 げ る 。 な お 、 本 稿 で 引 用 し た 史 料 に 付 し た 返 り 点 及 び 傍 線 は 筆 者 に よ る も の で あ る 。 ︻史料1︼島津龍伯書状 追 而 上 洛 之 儀 付、 此 比 至 鹿 児 島 御 談 合 而 候 キ 、 其 時 分 我 等 越 あ ひ 様 子 承 候、 い か に し て も 父 子 上 洛 之 調 難 由 候、 爰 許 之 儀、 其 方 存 知 之 前 候、 乍 公 儀 者 か へ か た く 候、 間 成 々 も 可 之 歟、 何 と し て も 、 我 等 四 月 者 可 意 候、 畢 竟 三 月 之 御 祝 義 御 礼 申 遅 候 而 者、 咲 止 之 由 出 合、 父 子 上 洛 者 有 之 事 候、 願 者 駿 州   公 儀 を 被 う に 候 者、 三 月 よ り ハ 暖 気 も 成 候 ハ ん 間、 三 月 爰 許 を 打 立 候 す る 、 左 候 ハ ヽ 、 四 月 者 可 上 着 候 条、 愚 老 罷 上 御 礼 等 も 相 済 や う に 有 度 候、 殊 更 当 国 覚 外 之 儀 候、 去 十 六 日、 東 目 よ り 西 目 之 海 浜 大 浪 よ せ き た り 、 屋 之 事 者 不 レ 及 レ申、 人 も 多 々 う ち 取 候、 誠 不 思 議 之 災 難 候、 如 候 間、 題 目 者 加 子 有 ま し き と 聞 候、 父 子 一 人 罷 上 候 共、 例 の こ と く 加 子 有 ま し き 由 候、 況 父 子 上 洛 候 者、 加 子 一 圓 調 ま し き 由 候、 云 恰、 父 子 之 上 洛 難 調 候、 何 と そ 駿 州 へ 被 然 候、 将 又 少 将 殿 在 洛 の う ち 、 竹 屋 へ 刀 と か せ 度 之 由 候 て 差 上 候、 則 被 る 由 候、 然 共 其 已 後 音 な し 候、 無 候、 其 方 前 よ り 被 相 理 、 出 来 候 ハ 、 可 候、 次 此 一 紙 公 界 に 被 出 ま し く 候、恐々謹言、      十 長 九 年 二月 十九日      龍伯︵花押︶      樺山権左衛門尉殿 書 状 中 に は 大 波 の 襲 来 地 に つ い て ﹁ 東 目 ﹂﹁ 西 目 ﹂ と の 記 載 が あ る 。 こ の 襲 来 地 が ど こ を 指 す の か に つ い て 、 こ れ ま で い く つ か の 解 釈 が 示 さ れ て い る 。 本 稿 で も 、 ま ず は 襲来地 の 比定 を 行 お う と 思 う 。 な お 、 本 稿 で は ﹁ 東 目 ﹂﹁ 西 目 ﹂ の よ う に 方 角 と ﹁ 目 ﹂ が 組 み 合 わ さ っ た 地 名 を ﹁ 方 角 + 目 ﹂ 地 名 と 呼 ぶ こ と と す る 。

(5)

一五

西

こ れ ま で の 慶 長 地 震 津 波 研 究 で は 、﹁ 東 目 ﹂﹁ 西 目 ﹂ を ど の よ う に 解 釈 し て き た の だ ろ う か 。 先 行 研 究 で の 解釈 を 整理 し て み よ う 。 も っ と も 古 い ﹁ 東 目 ﹂﹁ 西 目 ﹂ 解 釈 は 、 東 京 帝 国 大 学 史 料 編 纂 掛︵ 現 在 の 東 京 大 学 史 料 編 纂 所 ︶ の 編 纂 員 で あ っ た 田 山 實 に よ る も の で あ る 。 田 山 は 震 災 予 防 調 査 会 よ り 地 震 史 料 集 の 編 纂 を 嘱 託 さ れ て お り 、 そ の 成 果 は ﹁ 大 日 本 地 震 史 料 ﹂ と し て ま と め ら れ て い る 。 こ の 史 料 集 の 甲 巻 に は 慶 長 地 震 津 波 に 関 す る 史 料 が 収 録 さ れ て お り 、 そ の 一 つ と し て 、 島 津 龍 伯 書 状 が 撰 述 さ れ て い る 。 田 山 は 文 書 中 の ﹁ 東 目 ﹂﹁ 西 目 ﹂ に つ い て 、﹁ 東 目 西 目 由 来 記、 舊 典 類 聚 ニ ア リ 、 今 之 ヲ 検 ス ル ニ 、 東 西 分 界 ノ 處、 分 明 ナ ラ ズ ト 雖 モ 、 大 抵 鹿 児 島 ヲ 以 テ 中 心 ト シ 、 薩 摩 地 方 ヲ 西 目 ト シ 、 大 隅 地 方 ヲ 東 目 ト 為 ス モ ノ ニ 似 タ リ ﹂ と の 割 注 を 付 し て い る 。﹃ 旧 典 類 聚 ﹄ に 収 録 さ れ て い る ﹃ 東 目 西 目 由 来 記 ﹄ に は 、 薩 摩 国・ 大 隅 国 に 含 ま れ る 各 郡 の 歴 史 や 由 緒 が 記 さ れ て お り 、 地 誌 と 類 似 の 史 料 と い う こ と が で き る 。 田 山 は 東 と 西 の 境 が は っ き り し な い と し つ つ も 、 大 隅 地 方・ 薩 摩 地 方 を 東 目︵ 地 方 ︶・ 西 目︵ 地 方 ︶ と 呼 ぶ こ と に 似 て い る と し て い る 。 田 山 は 文 書 中 の ﹁ 東 目 ﹂﹁ 西 目 ﹂ を 大 隅地方 ・ 薩摩地方 と 解釈 し て い る と い う こ と が 分 か る 。 田 山 に よ る ﹁ 東 目 ﹂﹁ 西 目 ﹂ 解 釈 は 、﹁ 大 日 本 地 震 史 料 ﹂ の 増 補 改 訂 版 で あ る ﹃ 増 訂 大 日 本 地 震 史 料 ﹄ に そ の ま ま 引 き 継 が れ た こ と か ら 、 地 震 史 料 集 を 利 用 し て 慶 長 地 震 津 波 を 研 究 す る 理 系 研 究 者 が 島 津 龍 伯 書 状 を 使 用 す る 際、 田 山 の 解 釈 を そ の ま ま 引 用 し た 。 こ の よ う に し て 、田山 の 解釈 は 定説 と な っ て い っ た 。 定 説 化 し て い た 田 山 の 解 釈 に 対 し て 、 山 本 武 夫 と 萩 原 尊 禮 は 疑 義 を 呈 し て い る 。 山 本 ら は 、 先 行 研 究 で 出 典 と さ れ て い た ﹃ 増 訂 大 日 本 地 震 史 料 ﹄ 掲 載 の ︵ す な わ ち 田 山 が ﹁ 大 日 本 地 震 史 料 ﹂ で 撰 述 の ︶ 島 津 龍 伯 書 状 に は 翻 刻 の 誤 り が あ る こ と を 指 摘 し 、 さ ら に 編 者 の 割 注︵ 田 山 に よ る 解 釈 ︶ は ﹁ 不 可 解 の 説 明 ﹂ で あ り ﹁ 珍 解 釈 ﹂ で あ る と 批 判 し た 。 田 山 の 解 釈 を 否 定 し た 上 で 、 山 本 ら は 吉 田 東 伍 の ﹃ 大 日 本 地 名 辞 書 ﹄ お よ び ﹃ 伊 集 院 町 史 ﹄ を 根 拠 と し て 、﹁ 東 目 ﹂﹁ 西 目 ﹂ は 東 目 街道 ・ 西目街道 を 指 し 、﹁東目 よ り 西目之海浜﹂ と は 鹿 児 島 県 姶 良 市 の 加 治 木︵ 東 目 街 道 ︶ か ら 鹿 児 島 市 の 鴨 池 付 近︵ 西 目 街 道 ︶ の 間 の 浜 辺 の こ と で あ る と 解 釈 し た 。 鹿 児 島 湾 内 の 一 部 が 津 波 被 害 地 で あ る と 考 え た の で あ る 。 山 本 ら の 提 示 し た 解 釈 は 、 鹿 児 島 湾 内 に お け る 異 常 潮 位 を 示 す も の と し て 注 目 さ れ た 。 相 田 勇 は こ の 解 釈

(6)

一六 が 成 り 立 ち う る 津 波 の メ カ ニ ズ ム を 数 値 計 算 に よ っ て 検 討 し よ う と 試 み て お り 、 ま た 日 本 に お け る 歴 史 地 震 の カ タ ロ グ を ま と め て い る 宇 佐 美 龍 夫 は 慶 長 地 震 津 波 に つ い て 、 二 〇 〇 三 年 に 刊 行 し た 改 訂 版 の カ タ ロ グ で そ れ ま で の 記述 を 改 め て 、﹁東目 よ り 西目 の 浜︵鹿児 島 湾 内 ︶﹂ と し た 10 。 な お 、 筆 者 も 都 司 嘉 宣・ 今 村 文 彦 と の 共 同 研 究 に お い て 、 山 本 ら の 解 釈 を 引 用 し た こ と が あ る 11 。 一 方 で 、 石 橋 克 彦 は 山 本 ら の 解 釈 に 対 す る 反 論 を 示 し て い る 12 。 石 橋 は 鹿 児 島 湾 の 一 区 域 に の み 大 波 が 寄 せ る と い う の は 不 自 然 で あ り 、 数 値 計 算 に よ る 津 波 の 再 現 も で き な か っ た と し た 。 そ の 上 で 、 平 凡 社﹃ 世 界 大百科事典﹄ の 記述 を 根拠 と し て ﹁東目﹂ ﹁西目﹂ は 大 隅 半 島・ 薩 摩 半 島 を 指 す と 解 釈 し た 。 こ の 石 橋 に よ る 解 釈 は 、 田 山 の 解 釈 に つ な が る も の 、 あ る い は 発 展 さ せ た も の と し て 評価 で き る だ ろ う 。 こ の よ う に ﹁ 東 目 ﹂﹁ 西 目 ﹂ の 解 釈 は 、 田 山 に よ る 大 隅・ 薩 摩 地 方 と す る 解 釈 と 、 山 本 ら に よ る 東 目・ 西 目 街 道 と す る 解 釈 が 並 立 し て お り 、 こ れ ま で に 提 示 さ れ て き た 解 釈 も 両 者 の い ず れ か に つ な が る も の で あ っ た 。 そ し て 、 両 解 釈 の い ず れ が 妥 当 で あ る の か 、 あ る い は 別 の 解 釈 が 成 り 立 ち う る の か に つ い て は 、 ま だ 結 論 に 至 っ て い な い 13 。 こ れ ま で に 提 示 さ れ た 解 釈 に は 、 大 き な 問 題 が 存 在 し て い る 。 そ れ は 、 解 釈 の 根 拠 と し た も の の 妥 当 性 で あ る 。 田 山 は ﹃ 東 目 西 目 由 来 記 ﹄ と い う 史 料 を 根 拠 と し て 解 釈 し た が 、 田 山 以 降 に 示 さ れ た 解 釈 で は 辞 典・ 事 典 や 自 治 体 史 の 記 述 を 引 用 し た だ け で 、 史 料 に は 当 た っ て い な い 。 引 用 元 が 明 ら か に さ れ て い な い 文 献 の 記 述 を ど こ ま で 信 用 す る の か は 当 然 問 題 と な る が 、 田 山 の よ う に 地 震 後 二 百 年 以 上 が 経 過 し て 成 立 し た と 考 図 1 島津領周辺における「東目」「西目」関係図

(7)

一七 え ら れ る 史 料 が 根 拠 と し て 妥 当 な の か も ま た 、 大 き な 疑問 で あ る 。 本 稿 で は 、 島 津 龍 伯 の 生 き た 時 代、 具 体 的 に は 天 正 年 間 か ら 慶 長 年 間︵ 一 五 七 三 ∼ 一 六 一 五 年 ︶ の 史 料 か ら ﹁ 方 角 + 目 ﹂ 地 名 を 抽 出 し 、 ど の よ う な 意 味 で 使 用 し て い た の か を 考 察 す る こ と と し た 。 当 時 の 史 料 の 中 か ら ﹁ 方 角 + 目 ﹂ 地 名 の 使 用 事 例 を 示 す こ と で 、 島 津 龍伯書状中 の ﹁東目﹂ ﹁西目﹂ が ど こ に 当 た る の か を 明 ら か に す る 。

西

天 正 年 間 か ら 慶 長 年 間 の 史 料 を 確 認 し た と こ ろ 、 い く つ か の 史 料 で ﹁ 方 角 + 目 ﹂ 地 名 を 見 出 す こ と が で き た 。 各 記 述 内 容 を 確 認 し 、 ど の よ う な 意 味 で 使 用 さ れ て い る の か を 考察 し て み よ う 。 a. 『上井覚兼日記』中の西目 島 津 龍 伯 書 状 と 同 じ 年 期 を 持 つ 寺 沢 広 忠 書 状 14 に は 、﹁ 西 目 阿 久 根 よ り 御 出 舩 之 由 ﹂ と い う 記 述 が あ る ︵ 後 述、 資 料 6 を 参 照 ︶。 こ こ で の ﹁ 西 目 ﹂ は 阿 久 根 ︵ 鹿 児 島 県 阿 久 根 市 ︶ を 含 み こ む 地 域 と 読 む こ と が で き そ う だ が 、 阿 久 根 は 山 本 ら の 解 釈 す る 西 目 街 道 に も 含 ま れ て お り 、 ど ち ら と も 読 み 取 る こ と が 可 能 で あ る 。 寺 沢 広 忠 書 状 と 同 様 の 意 味 で 使 用 し て い る と 考 え ら れ る 西 目 の 記 述 を 持 つ の が 、 島 津 家 の 老 中 と し て 活 躍 し た 上 井 覚 兼 に よ っ て 記 さ れ た ﹃ 上 井 覚 兼 日 記 ﹄ 15 で あ る 。 こ の 日 記 の 天 正 十 一 年︵ 一 五 八 三 ︶ 九 月 二 日 条 を 見 る と 、次 の よ う な 記述 が あ る 。 ︻史料2︼上井覚兼日記   天正十一年九月二日条 一、 二 日 、 山 よ り 帰 候 て 、 軈 而 打 立 、 佐 敷 へ 着 候 、 亭 主 御 酒 振 舞 候、 税 所 新 介 殿 被 来 候 間、 参 会 候 て 給 候、 忠 棟 よ り 書 状、 税 新 被 持 来 候、 即 披 見 候、 趣、 此 方 に て 拙 者 相 待 可 有 候 へ 共、 先 々 順 風 次 第 如 八 城 出 船 候、 儅 者 吾 等 事、 今 少 当 所 へ 逗留申、 西目之舟廻来次第 、軍衆渡海之儀見廻 候 て 肝 要 之 由 承 候 也、 彼 書 状 見 候 処 ニ 、 当 所 地 頭 宮 原 筑 州 被 来 候、 隈 城 衆 召 ‒ 烈 新 納 越 州 高 江 衆 召 ‒ 烈 川 上 十 郎 左 衛 門 尉 殿 宮 里 衆 米 良 殿、松山市来小四郎殿、右之衆拙者着候 と て 御座 候 也、 折 節 別 当 酒 持 来 候 間、 各 へ 参 会 候 也、 此 晩、宮原紀伊守御酒持 せ 被 来候也、 上 井 覚 兼 ら は ﹁ 西 目 之 舟 ﹂ が 廻 っ て く る ま で 佐 敷 ︵ 熊 本 県 葦 北 郡 芦 北 町 ︶ に 逗 留 す る と あ る 。 こ こ で

(8)

一八 記 述 さ れ て い る ﹁ 西 目 之 舟 ﹂ と い う 記 述 だ け な ら ば 、 特 定 の 地 名 を 指 す よ う に 読 め る 。 九 月 四 日 条 に は 九 月 二 日 条 に 関 連 す る 記 述 が あ り 、 そ の 中 の ﹁ 併 今 一 艘 も 諸 浦 よ り 廻 船 無 之 候 ﹂ と 書 か れ た 箇 所 が ﹁ 西 目 之 舟 廻 来 次 第 ﹂ と 対 応 す る も の と 考 え ら れ る 。 こ こ か ら は 、 ﹁ 西 目 ﹂ が 特 定 の 地 名 で は な く 、 諸 浦 を 含 み こ む 広 範 囲 を 示 し て い る と 解釈 す る こ と が で き る 。 ﹃上井覚兼日記﹄ で は 、他 に ﹁北目﹂ と い う ﹁方角+ 目 ﹂ 地 名 も 確 認 す る こ と が で き る 16 。 本 稿 で は 詳 し く 内容 を 検討 す る こ と は 避 け る が 、﹁北目﹂ も ﹁西目﹂ の よ う に 広 い 地 域 を 指 す 語 と し て 使 用 さ れ て い る と 考 え ら れ る 。﹃ 上 井 覚 兼 日 記 ﹄ で は 、﹁ 方 角 + 目 ﹂ 地 名 を 広 い 範 囲 を 意 味 す る も の と し て 使 用 し て い る と い う こ と が で き る だ ろ う 。 b.肥前国での西目 寺 沢 広 忠 書 状 や ﹃ 上 井 覚 兼 日 記 ﹄ に 記 述 さ れ た 西 目 は 、 広 範 囲 の 地 点 を 含 み こ む 意 味 で 使 用 さ れ て い た 。 こ れ は 島 津 家 と 関 係 す る 史 料 だ が 、 そ の ほ か の 家 の 史 料 に も ﹁ 方 角 + 目 ﹂ 地 名 の 使 用 例 を 見 出 す こ と が で き る 。 次 に 掲 げ る の は 、 天 正 十 五 年︵ 一 五 八 七 ︶ 十 二 月 二 七 日 付 の 豊 臣 秀 吉 の 直 書 で あ る 17 。 少 々 長 い が 、 全 文 を 示 そ う 。 ︻史料3︼豊臣秀吉直書   去六日書状、昨日廿六日、於 大坂 披見 候、 一 和 仁、 邊 春 事、 一 人 も 不 遁 可 首 旨、 被 候 處、 即 時 討 果、 彼 等 一 類 四 人 首 差 上 候、 誠 粉 骨 段、 感 悦 不 浅 候、 殊 其 方 精 入 付 而 一 着 儀、 為 向後 尤之儀候事、 一 於 宇 土 忠 節 之 族、 申 越 候 通、 被 聞 召 候 、 追 而 可 御意 候事、 一 有 動 事 者 、 今 度 一 揆 張 本 人 儀 候 間 、 悉 可 条 、 一 人 も 不 候 様 可 、 然 者 、 肥 後 国 人 科 之 軽 重 、 其 外 知 行 方 、 為 糺 明 人 数 二 万 余 、 正 月 廿 日 可 罷 立 旨 、 早 最 前 被 候 、 今 以 同 事 候 、 相 - 越 上 使 第 、 遂 相 談 有 動 可 候 、 但 百 姓 と し て 、 有 動 一 類 首 を き り 出 候 ニ 付 て ハ 、 百 姓 之 儀 者 可 歟 、 猶 御 上 使 ニ 可 事 、 一 阿 蘇 事、 神 主 若 輩 候 間、 下 々 猥 可 候、 是 又 上 使 相 談、 遂 糺 明 一 揆 張 本 人 成 敗 候 者、 を の つ か ら 不 異儀 候事、 一 肥 前 西 目 者 共 事 、 申 越 候 通、 具 被 候、 被 御 糺 明 間、 成 其 意 龍 造 寺 申 談、 弥 不 候、 是 も 今 度 被 候 も の 申 談 糺 明 そ れ 〳〵 ニ 可

(9)

一九 事、肝要候事、 一 龍 造 寺 同 鍋 島 精 入 由、 神 妙 被 候、 則 被   御 朱 印 候、 立 花、 筑 紫、 高 橋 か た へ も 被   御朱印 候事、 一 猶 以、 逆 意 之 族 尋 捜、 悉 可 成 敗 、 国 郡 荒 候 て も 不 候 之 間、 逆 徒 之 儀 者 不 申、 今 度 精 を も 不 入、 出 陣 を も 不 仕、 世 間 之 体 見 合 候 族 共、 悉 為 御 成 敗 御 人 数 被 遣 候 間、 被 上 使 遂 候、 寒 天 之 刻、 辛 労 痛 入 候、 併 先 手 ニ も 被 居 候 へ ハ 、 難 遁 儀 候 之 間、 弥 可 精 事 専 一 候 也、      十 天正十五年 二月 廿七日︵秀吉花押︶      小早川左衛門佐 と の へ 秀 吉 に よ る 九 州 平 定 後 に 肥 後 国 で 発 生 し た 一 揆 に 関 係 す る の が こ の 文 書 で あ る 。 こ の 秀 吉 直 書 に は ﹁ 肥 前 西 目 者 共 ﹂ と い う 記 述 が あ る 。 肥 前 国 の ﹁ 西 目 ﹂ に 勢 力 を 持 つ 大 名・ 国 人 の こ と を 指 し て い る と 考 え ら れ る が 、 こ の 点 に つ い て も う 少 し 詳 し く 検 討 し て み よ う 。 ﹁ 肥 前 西 目 者 共 ﹂ に は 具 体 的 な 大 名・ 国 人 の 名 は 出 て い な い が 、 次 の 条 文 に は 龍 造 寺 氏 を は じ め と し た 肥 前 国 東 部 か ら 筑 前 国 に 勢 力 を 持 つ 大 名・ 国 人 の 名 が 挙 が っ て い る 。﹁ 肥 前 西 目 者 共 ﹂ は 肥 前 国 東 部 の 龍 造 寺 氏 ら に 対 す る も の で あ る と 推 測 で き る こ と か ら 、﹁ 西 目 ﹂ は 肥 前 国 西 部 を 指 し 、 松 浦 氏 や 有 馬 氏 ら を ま と め て ﹁ 肥 前 西 目 者 共 ﹂ と 呼 ん で い る と 考 え ら れ る 。 こ こ か ら は 、 あ る 領 域 の 西 部 と い っ た 広 範 囲 を 示 す 意 味 で ﹁方角+目﹂地名 は 使用 さ れ て い る と い え る だ ろ う 。 秀 吉 直 書 に あ る ﹁ 西 目 ﹂ は 肥 前 国 を 対 象 と し た も の で あ る た め 、 九 州 全 域 で 同 様 の 意 味 で 使 用 し て い た の か は 分 か ら な い 。 し か し 、﹃上井覚兼日記﹄ で 見 ら れ た ﹁ 方 角 + 目 ﹂ 地 名 と 類 似 す る 意 味 で あ る 点 か ら は 、 少 な く と も 九 州 の 一 部 地 域 に 限 定 さ れ た 使 用 法 で は な い 図 2 肥前国の主な大名・国人

(10)

二〇 と 考 え る こ と が で き る だ ろ う 。 c.慶長の役での東目・西目 も う 一 つ 、﹁ 方 角 + 目 ﹂ 地 名 を 確 認 す る こ と の で き る 史 料 を 見 て み よ う 。 次 に 掲 げ た の は 、 慶 長 三 年 ︵ 一 五 九 八 ︶ 十 月 三 十 日 付 の 島 津 義 弘 ら 四 名 に よ る 連 署条書 18 で あ る 。 ︻史料4︼島津義弘他三名連書条書        覚 一 東 目 之 衆 引 □ 取 候 以 後 、 各 申 談、 日 限 相 定、 順 天・ 南海・泗川・固城四 ケ 所、唐嶋迄可 引取 事、 □ 一 順 天 ・ 泗 川 両 口 申 拵 御 無 事 之 儀 、 両 方 も 相 澄 候 へ ハ 、 一 段 可 然 候、 一 方 ニ 相 究 事 者、 一 日 成 共 は や き か た ニ 人質請取、可 相澄 事、 □ 一 い つ れ の 道 ニ も 引 取 刻 ハ 、 先 手 よ り 次 第 〳 〵 ニ 可 引取 事、      付 、 泗 川 ・ 固 城 之 舟 、 順 天 ヘ 差 遣 、 可 引 取 候、 泗 川 之 舟 ハ 南 海 迄 固 城 の 舟 唐 嶋 瀬 戸 迄 送届可 申事、     以上      十 慶長三年 月 晦日    小西 摂 長 津 守︵花押︶        羽 立花親成 ︿宗茂﹀ 柴左近 ︵花押︶        羽 宗義智 柴 対馬守︵花押︶        羽 津 義 弘 柴兵 庫頭︵花押︶ こ れ は 秀 吉 に よ る 朝 鮮 出 兵︵ 慶 長 の 役・ 丁 酉 倭 乱 ︶ の 末 期 に 当 た る 時 期 に 発 給 さ れ た 文 書 で 、 朝 鮮 半 島 か ら の 撤 兵 に 当 た っ て の 取 り 決 め を 記 し て い る 。 一 条 目 に ﹁ 東 目 之 衆 ﹂ と あ る の は 、 慶 尚 南 道 東 岸 の 蔚 山 や 釜 山 等 に 在 陣 し て い た 加 藤 清 正・ 浅 野 幸 長・ 黒 田 長 政・ 図 3  慶長の役(丁酉倭乱)末期における在陣大名の主 な所在地

(11)

二一 鍋 島 直 茂 ら の こ と で あ る 。 同 じ 一 条 目 に あ る 順 天 か ら 固 城 ま で の 四 カ 所 は 慶 尚 南 道 西 岸 に 位 置 し て お り 、 こ の 四 カ 所 に 在 陣 し た の が 島 津 義 弘 ら 連 署 者 四 名 で あ る 。 そ し て 、 こ の 四 名 は ﹁ 東 目 之 衆 ﹂ に 対 し て 西 目 衆 と 呼 ば れ た 19 。 慶 尚 南 道 に 在 陣 す る 諸 大 名 を 東 岸 と 西 岸 で 分 け て お り 、 そ れ ぞ れ を ﹁東目之衆﹂ ・ 西目衆 と 呼 ん で い る こ と か ら 、 こ こ で の ﹁ 方 角 + 目 ﹂ 地 名 は 東 岸・ 西 岸 と い う ま と ま り を 示 し て い る こ と が 分 か る 。 こ の 連 署 条 書 で は 在 陣 の 大 名 を ﹁ 東 目 之 衆 ﹂ と 表 記 し て い る が 、 西 岸 の 城︵ 順 天 や 南 海 ︶ を ﹁ 西 目 城 々﹂ と 表 記 し た 史 料 も あ り 20 、 複 数 の 地 点︵ 城 ︶ が 含 ま れ る 広 い 地 域 を ﹁ 方 角 + 目 ﹂ 地 名 で 示 し て い る 。 慶 尚 南 道 の 東岸 ・ 西岸 を ﹁東目﹂ ﹁西目﹂ と 表記 す る の は 、 こ こ ま で に 見 て き た 事 例 と 比 較 す る と 、 類 似 の 意 味 で 使 用 し て い る と い う こ と が で き る だ ろ う 。

西

以 上、 島 津 龍 伯 の 生 き た 時 代 に 使 用 さ れ た ﹁ 方 角 + 目﹂地名 の 意味 を 確認 し て き た 。 こ こ か ら は 、﹁方角+ 目 ﹂ 地 名 が 面 的 な 範 囲 を 示 し て い る こ と 、 特 定 の 地 域 や 街 道 の 名 称 で は な い こ と が 分 か っ た 。 以 上 よ り 、 本 稿 が 検 討 対 象 と し て い る 島 津 龍 伯 書 状 の ﹁ 東 目 よ り 西 目 之 海 浜 ﹂ は 、 島 津 領 内 の 東 部 か ら 西 部 の 沿 岸 部 と い う 意 味 で の 表 記 で あ り 、 地 域 名 や 街 道 名 を 指 し て い る わ け で は な い と 考 え ら れ る 。 ﹃ 上 井 覚 兼 日 記 ﹄ に は 島 津 龍 伯 書 状 の ﹁ 東 目 ﹂﹁ 西 目﹂ と 類似 す る と 思 わ れ る 語 と し て 、﹁西浦﹂ を 確認 す る こ と が で き る 。 ︻史料5︼上井覚兼日記   天正十二年五月二日条 21 一、 二 日、 長 崎 へ 先 日 為 使 遣 候 飫 肥 衆 玉 泉 坊 ・ 湯 之 浦 衆 早 水 方 帰 参 候、 先 日 嶋 原 へ 籠 城 候 大 村 衆 よ り 、 我 々 前 よ り こ そ 、 身 命 を 御 助 被 成 候 御 一 礼 ニ 人 を も 進 上 申 候 す る を 、 大 村 へ ハ 理 泉 入 道 被 打 入 候 間、 妻 子 等 家 内 を も 打 捨、 長 崎 之 こ と く 来 候、 然 者 当 時 夫 の 一 人 も 不 心 候 条、 御 無 沙 汰 背 本 意 処 預 御 使 ニ 候、 過 分 至 極 之 由 也、 南蛮僧万天連 よ り も 、西浦廿 ケ 処計之質人召 取候而、向後御入魂所仰候由也 、質人銘々書記被 持 せ 也、 長 崎 地 下 衆 者、 有 馬 殿 彼 方 ハ 進 退 た る へ き 様 ニ 存 候 由、 使 僧 物 語 也、 是 非 以 従 鹿 児 島 御 直 領 に て 候 ハ て ハ と 、 是 も 被 申 候 也、 彼方 へ 浮地 な と の 候 を も 、悉皆南蛮僧分別 に て 領 置 候 由 也、 此 日、 従 八 城 忠 棟 廿 七 日 付 之 書

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二二 状到来候、有馬玄蕃 と 哉 ら ん 申鹿児島町之者持来 候 也、 趣、 先 日 伊 越・ 和 玄 に て 申 候 条 々、 送 届 候、 此 方 談 合 衆 分 別 共 被 聞 せ 候 て 、 彼 方 之 衆 も 御同前候間、御神慮 も 入間敷候、兎角番盛 な と 最 中 候、 追 而 巨 細 可 由 也、 兼 又 鹿 児 島 衆 之 事、 去 年 御 出 勢 ニ 不 罷 立 衆 者 暫 居 留 に て 候、其内 も 、御諏方御頭懸者帰宅之由也、 肥 前 国 の 宣 教 師 よ り ﹁ 西 浦 廿 ケ 処 計 ﹂ の 質 人 を 取 っ た 旨 が 記 さ れ て い る 。 こ の ﹁ 西 浦 廿 ケ 処 計 ﹂ は 二 十 カ 所程 の 地点 の 集合 で あ る と 考 え ら れ る こ と か ら 、﹁方角 + 目 ﹂ 地 名 と 同 様 に 広 範 囲 を 示 す 意 味 で 使 用 さ れ て い る と い え る 22 。 で は 、﹁ 西 浦 ﹂ の よ う な ﹁ 方 角 + 浦 ﹂ 地 名 は ﹁ 方 角 + 目 ﹂ 地 名 の 同 義 語 と 理 解 す る こ と が で き る の だ ろ う か 。 こ れ ま で に 見 て き た ﹁ 方 角 + 目 ﹂ 地 名 は 、 そ の 多 く が 沿 岸 部 の 複 数 地 点 を 含 み こ ん だ も の と 理 解 す る こ と が で き 、﹁方角+浦﹂地名 と 同義語 と 考 え て も 問題 な い よ う に 思 わ れ る 。 し か し 、 肥 前 国 の 事 例 や 本 稿 の 検 討 対 象 で あ る 島 津 龍 伯 書 状 の よ う に 、 国 や 領 域 と い っ た よ り 広 い 範囲 を 指 す 場合 も あ り 、﹁方角+目﹂地名 は 必 ず し も 沿岸部 の み を 指 す わ け で は な い 。﹁方角+目﹂地 名 と ﹁ 方 角 + 浦 ﹂ 地 名 は 同 義 語 と は 言 い が た い の で は な い だ ろ う か 。 目 は ﹁ べ ﹂ と 読 む こ と が で き る た め 、 辺︵ べ ︶ の 当 て 字 で あ る 可 能 性 も あ る 。 も し か す る と 、﹁ 方 角 + 目 ﹂ 地 名 は ﹁ 方 角 + 辺 ﹂ 地 名 と 同 義 語 で あ る と 考 え る こ と が で き そ う だ が 、 残 念 な が ら 今 回 は ﹁ 方 角 + 辺 ﹂ 地 名 を 見 出 す こ と が で き な か っ た 。 こ の 点 は 、今後 の 課題 で あ る 。

 

島 津 龍 伯 書 状 に 記 さ れ た ﹁ 東 目 ﹂﹁ 西 目 ﹂ は 、 島 津 領 の 東 部 か ら 西 部 の こ と を 指 す こ と を 確 認 し た 。 こ こ か ら 、島津領︵九州南部︶ で は 慶長地震津波 に よ っ て 広範 囲 に 津波被害 が 生 じ て い た こ と が 分 か る 。 で は 、島津領 で は ど の よ う な 被害 が あ っ た の か 、 こ の 書状 で は ど こ ま で 具体的 な こ と が 分 か る の か を 確認 す る こ と と し よ う 。

本 稿 で 検 討 し て い る 島 津 龍 伯 書 状 は 、 島 津 龍 伯 と 当 時 の 島 津 家 当 主・ 家 久 の 上 洛 に 関 わ る 史 料 の 一 つ で あ る 。 島 津 龍 伯 の 上 洛 問 題 は 、 慶 長 五 年︵ 一 六 〇 〇 ︶ の 関 ヶ 原 合 戦 後 に お け る 政 治 課 題 と な っ て い た こ と が 知 ら れ て い る 23 。 つ ま り 、 こ の 書 状 は 家 臣 に 津 波 被 害 を

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二三 伝 え る こ と が 主 目 的 で は な く 、 上 洛 問 題 に 関 す る こ と を 伝 え る な か で 偶 然 津 波 災 害 に 関 し て も 記 述 し て い た こ と か ら 、 災 害 史 料 と し て 知 ら れ る よ う に な っ た と い え る の で あ る 。 津 波 被 害 に つ い て 記 録 す る こ と が 目 的 で は な い 史 料 で あ る た め 、 こ の 書 状 か ら は 詳 細 な 被 害 状 況 を 知 る こ と は で き な い 。 こ れ ま で の 研 究 で ﹁ 大 波 寄 せ 死 者 あ り ﹂ と い う よ う に 書 状 の 記 述 を そ の ま ま 引 用 す る に と ど ま っ て い る 24 の は 、 死 者 数 等 の 詳 細 な 被 害 状 況 に 関 す る 記 述 が な く 、 検 討 の し よ う が な か っ た と い う こ と だ ろ う 。 先 行 研 究 の な か で も 山 本 ら は 、 そ れ ま で の 研 究 で 見 落 と さ れ て い た ﹁ 題 目 者 加 子 有 ま し き と 聞 候 ﹂ の 箇 所 を 解 釈 し た 点 で 注 目 さ れ る 25 。 山 本 ら は ﹁ 加 子 ﹂ を ﹁ か ね ︵金︶ ﹂ で あ る と 解釈 し て ﹁上洛費用 の 調達困難 を 理 由 に ﹂ 上 洛 時 期 の 引 き 延 ば し 工 作 を 命 じ て い る と し た 。 し か し 、 こ の ﹁ 加 子 ﹂ を 金 と 解 釈 す る 点 に は 疑 問 が あ る 。﹁ 加 子 ﹂ は ﹁ か こ ︵ 水 主 ︶﹂ と 読 む こ と も で き 、山本 ら の 解釈 と 異 な る 可能性 が あ る 。 で は 、 金 と 水 主 の ど ち ら で 解 釈 す る の が 妥 当 な の だ ろ う か 。 こ の 点 に つ い て 、 島 津 龍 伯 上 洛 問 題 に 関 係 す る 慶 長 九 年 四 月 二 日 付 の 寺 沢 広 忠 書 状 に 重 要 な 記 述 が あ る 26 。 ︻史料6︼寺沢広忠書状 去 月 六 日 之 御 状、 拝 見 申 候、 度 々 如 日 向 通 以 使 存 候 内、 龍 伯 筋 気 御 煩 付 而 御 上 成 不 申、 西 目 阿 久 根 ゟ 御 出 舩 之 由 承 及 、 延 引 仕 候 処、 預 御 使 札 候、 拙 者 も の 差 下 可 申 旨 申 候 共、 先 は や き を 申 付 候 ハ 同 前 之 儀 候 間、 只 今 之 御 使 者 可 旨 被 申 候 条、 其 分 仕 候、 此 状 も 於 途中 御覧 候程 有之旨、御使者口上 候、御 上 着 程 有 間 敷 候 条、 以 候、 猶 申 入 義 御 座 候 者、 重 而 之 使 者 我 等 者 を 指 下 可 候、 恐 惶 謹言、        寺 沢 志 摩守      卯 慶長九年 月 二日     広忠︵花押︶        羽 島津忠恒 ︿家久﹀ 奥州様        御報 寺 沢 広 忠 書 状 に は 、 島 津 龍 伯 が ﹁ 西 目 阿 久 根 ﹂ よ り 出 船 し 上 洛 す る 予 定 で あ っ た と 記 さ れ て い る 。 島 津 龍 伯 書 状 に ﹁ 東 目 ﹂ か ら ﹁ 西 目 ﹂ の 被 害 に よ っ て 上 洛 が 困 難 で あ る と し て い る の は 、 こ の 寺 沢 広 忠 書 状 の 出 船 予 定 と 対 応 し て い る と 考 え る こ と が で き る 。 そ う で あ れ ば 、﹁ 加 子 ﹂ は 水 主 と 読 む 方 が 妥 当 で あ り 、 山 本 ら

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二四 が 金︵ 上 洛 費 用 ︶ と 解 釈 し た の は 誤 り で あ る と い う こ と が で き そ う で あ る 。 水 主 を 調 え ら れ な い と い う 状 況 は 、﹁人 も 多々 う ち 取候﹂ に よ る と 考 え ら れ 、 ま た 船 で 上 洛 す る 予 定 で あ る か ら こ そ 、 島 津 領 の 沿 岸 部 の 被 害 は 上 洛 を 困 難 と す る 理 由 と し て 適 当 だ っ た と い う こ と な の だ ろ う 。 山 本 ら は 津 波 被 害 が 鹿 児 島 湾 内 の 一 部 に 限 定 さ れ た た め に ﹁ 誠 不 思 議 之 災 難 ﹂ と 記 述 さ れ た の だ と 考 察 し て い る が 、﹁加子﹂ を 水主 と 読 む な ら ば 、 こ の 考察 も 否 定 さ れ る 。﹁誠不思議之災難﹂ は 、島津龍伯書状 に 地震 の 揺 れ の 記 述 が な い 点 か ら 考 え る と 、 大 波 が 発 生 し た 原 因︵ 地 震 に よ る 揺 れ や 大 風 等 ︶ も な く 突 然 襲 来 し た こ と に 対 す る 感想 だ っ た の で は な い だ ろ う か 。

)『

島 津 龍 伯 書 状 は 、 慶 長 地 震 津 波 に よ る 九 州 地 方 の 被 害 状 況 を 示 し て い る 唯 一 の 史 料 で あ り 、 慶 長 地 震 津 波 の 実 像 を 考 え る 上 で 重 要 な 位 置 づ け が 与 え ら れ て い る 。 た だ し 西 日 本 全 域 に 関 す る も の と し て は 、﹃ 当 代 記﹄ の 次 の よ う な 記述 が あ る 27 。 ︻史料7︼当代記   慶長九年十二月十六日条 同 慶 長 九 年 十 二 月 十 六 日 戌 刻、 丑 寅 之 方 魂 打 三 度 同 地 震、 其 夜 自 関 東 上 者 今 切 之 東 舞 坂 泊、 右 之 魂 打 ト 聞 ケ レ ハ 、 俄 大 波 来 橋 本 家 百 間 程 有 所 ニ 八 十 間 計 潮 引 行、 纔 仁 十 間 計 残 、 人 多 死、 折 節 舟 乗 合 、 荷 物 ハ 子、 舟 ハ 山 際 打 上 ケ ル 、 其 時 釣 舟、 廿 艘 計 行 末 不 知、 此 時 伊 勢 国 浦 々 潮 数 町 干 タ リ ケ ル コ ト 一 時 計 也、 漁 人 共 魚 蚫 已 下 心 取 処、 潮俄 、大石共浦々 打上 ケル 間、生 帰者 ナ シ 、其 内 年 老 之 者 、 如 何 様 不 審 思、 急 陸 上 者 、 少 々 生 、 石 ノ 波 ノ 打 上 ケ ル 石 共 ニ 、 蚫 已 下 或 ハ 五 十、 或 ハ 五 十 或 卅 有 、 嶋 々 人 屋 又 兵 糧 ノ 蔵 以 下 舩 網 無 残 所 流 行、 々 衛 不 知、 関 東 モ 此 波 同 前 云 々、 二 百 四 十 四 年 先、 康 安 元 辛 丑 七 日 廿 四 日 摂州難波浦 斯之儀有 ケ ル 由、太平記 ニ 在 之、 右 之 大 波 之 比 、 伊 勢 山 田 岡 本 町 七 百 間 余 焼 失 、 人 馬 多 死、 依 之 暫 神 前 之 社 参 を 被 留、 紀 伊 国 四 国 西 国 何 も 此 波 同 前、 地 震 は 所 に よ り 大 小 あ り 、 関 東 も 同 前、 上 総 国 小 喜 田 領 海 辺 取 分 大 波 来 て 、 人 馬 数 百 死、 中 に も 七 村 跡 な し と 云 々、 諸 国 内 の 海 は 不 苦、 摂 州 兵 庫 の 浦 は 一 円 不 苦、 是 は 先 年 丙 申 の 地 震、他所 に 超過 し け る 故 か と 、所 の 者申候、

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二五 ﹃当代記﹄ は 日記史料 で は な く 、成立時期 ・ 編者 が 不 明 の 編 纂 史 料 で あ る 28 が 、 記 述 内 容 の 信 頼 で き る 史 料 と し て 多 く の 研究者 に 利用 さ れ て い る 。﹃当代記﹄ の 慶 長 九 年 十 二 月 十 六 日 条 に は 慶 長 地 震 津 波 に つ い て の 詳 細 な 記 述 が あ る 。 そ の 多 く は 東 海 地 方︵ 遠 江 国・ 伊 勢 国 ︶ の 状 況 で あ り 、 そ の ほ か の 地 方 に つ い て は 極 め て 簡単 な 記述 に と ど ま っ て い る 。 こ こ で の ﹁ 西 国 ﹂ は 、﹁ 紀 伊 国 ﹂ や ﹁ 四 国 ﹂ と は 区 別 さ れ て い る こ と 、 ま た 瀬 戸 内 海 沿 岸 の 山 陽 地 方 で は 大 き な 津 波 被 害 が 生 じ て い な か っ た と 考 え ら れ る こ と か ら 、 九 州 を 指 す と 考 え ら れ る 。﹁ 西 国 ﹂ に つ い て は ﹁紀伊国﹂ ﹁四国﹂ と と も に ﹁何 も 此波同前﹂ で あ っ た と あ り 、 伊 勢 で の 津 波 被 害 同 様 に 死 者 等 が 生 じ て い た こ と が 分 か る 。 ま た 地 震 動 は 場 所 に よ っ て 違 っ て い た と も 記 さ れ て い る 。 西 日 本 に 関 す る こ の 記 述 は 、 伝 聞 に よ る 情 報 を ま と め た 記 録 や 年 代 記 等 の 史 料 が 基 に な っ て い る と 考 え ら れ る 。 当 然 だ が 島 津 龍 伯 書 状 を 引 用 し て い る わ け で は な い 。 引 用 関 係 に な い 史 料 同 士 で 、 津 波 に よ る 被 害 が 生 じ て い る と 書 か れ て い る 点 に 共 通 性 を 見 る こ と が で き 、 島 津 龍 伯 書 状 以 外 に も 、 現 在 ま で 残 る こ と が な か っ た ︵ あ る い は 未 知 の ︶ 九 州 で の 被 害 に 関 す る 史 料 の 存在 も 想像 さ れ る 。

慶 長 地 震 津 波 に 関 す る 従 来 の 研 究 で な さ れ て こ な か っ た 、 同 時 代 史 料 を 用 い た 地 名 の 比 定 を 試 み た 。 そ の 結 果、 島 津 龍 伯 書 状 中 の ﹁ 方 角 + 目 ﹂ 地 名 は 島 津 領 の 東 部 か ら 西 部 を 指 し て い る と の 結 論 に 至 っ た 。 田 山 や 石橋 が 解釈 し た よ う に 、大隅地方︵大隅半島︶ ・ 薩摩 地方︵薩摩半島︶ を ﹁東目﹂ ﹁西目﹂ と 呼 ぶ こ と が あ る が 、 こ れ は 広 範 な 地 域 を 示 す ﹁ 方 角 + 目 ﹂ 地 名 に 由 来 す る の だ と い え る だ ろ う 。 ま た 、 慶 長 地 震 津 波 に よ る 島 津 領 の 被 害 に つ い て 確 認 し た が 、 極 め て 簡 潔 な 記 述 し か 残 さ れ て お ら ず 、詳 し い 被害 は 分 か ら な か っ た 。 島 津 龍 伯 書 状 中 の 被 害 記 述 に つ い て 、 地 震 や 火 山 噴 火 と い っ た 津 波 の 発 生 源 の 記 述 が な い こ と か ら 、 こ の 被 害 は 本 当 に 津 波 に よ る も の な の か と い う 問 題 も 出 て く る と 思 う 。 例 え ば 暴 風 に よ る 高 波・ 高 潮 も 想 定 さ れ 、 そ の 場 合 水 主 を 調 え ら れ な い と い う 記 述 を 暴 風 に よ り 船 出 で き な い こ と を 意 味 す る と 考 え る こ と が で き る だ ろ う 。 た だ し 、 こ の 時 期 の 九 州 地 方 で 暴 風 等 が 発 生 し た こ と を 示 す 史 料 は 知 ら れ て お ら ず 29 、 大 波 の 襲 来 し た 時 期 か ら 考 え て も 、 現 在 の と こ ろ 、 こ の 災 害 記 述 は 慶 長 地 震 津 波 を 指 し て い る と 考 え る し か な い だ ろ う 。 津 波 以 外 の 解 釈 は 果 た し て 可 能 な の か 、 気 象 に 関

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二六 す る 史料 の 収集 も 重要 な 課題 と い え る 。 最 後 に 、 東 北 地 方 に 残 る ﹁ 方 角 + 目 ﹂ 地 名 に 触 れ て お き た い 。 宮 城 県 仙 台 市 の 北 目 町 や 秋 田 県 由 利 本 荘 市 の 西 目︵ 旧 西 目 町 ︶ の よ う な 地 名 が 各 地 に 残 っ て い る が 、 こ の よ う な 東 北 地 方 の ﹁ 方 角 + 目 ﹂ 地 名 の 由 来 は 何 な の だ ろ う か 。 島 津 龍 伯 書 状 等 で 見 ら れ た 意 味 と 共 通 す る の か を 明 ら か に す る 必 要 も あ る 。 日 本 の 東 西 で の ﹁ 方 角 + 目 ﹂ 地 名 由 来 の 違 い を 考 察 す る こ と も ま た 、今後 の 大 き な 課題 で あ る 。 1 例 え ば 、 羽 鳥 徳 太 郎 ﹁ 明 応 7 年 ・ 慶 長 9 年 の 房 総 お よ び 東 海 南 海 道 大 津 波 の 波 源 ﹂︵ ﹃ 地 震 研 究 所 彙 報 ﹄ 第 五 〇 巻、 一九七五年︶ 。 2 房 総 半 島 に つ い て は 伊 藤 純 一 ・ 都 司 嘉 宣 ・ 行 谷 佑 一 に よ る 研 究︵ ﹁ 慶 長 九 年 十 二 月 十 六 日︵ 1 6 0 5. 2. 3︶ の 津 波 の 房 総 に お け る 被 害 の 検 証 ﹂﹃ 歴 史 地 震 ﹄ 第 二 〇 号、 二 〇 〇 五 年 ︶ を は じ め 、 多 く の 研 究 成 果 が 発 表 さ れ て い る 。 ま た 近 年、 四 国 を 事 例 と し た 研 究 と し て 、 石 橋 克 彦 が 土 佐 国 で の 津 波 被 害 を 示 す 史 料 の 検 討 を 行 っ て い る ︵﹁ 1 6 0 5 年 慶 長 津 波 を 記 す ﹁ 阿 闍 梨 暁 印 置 文 ﹂ の 史 料 批 判 ﹂﹃ 歴 史 地 震 ﹄ 第 三四号、二〇一九年︶ 。 3 鹿 児 島 県 維 新 史 料 編 さ ん 所 編 ﹃ 鹿 児 島 県 史 料   旧 記 雑 録 後 編 三 ﹄︵ 鹿 児 島 県、 一 五 八 二 年 ︶ 一 九 七 八 号。 ﹁ 樺 山 家 文 書 ﹂ ︵﹁ 伝 家 亀 鏡   十 五   十 代 久 高 文 書 ﹂ 東 京 大 学 史 料 編 纂 所 蔵︶二九七号。 4 震 災 予 防 調 査 会 ﹁ 大 日 本 地 震 史 料   甲 巻 ﹂︵ ﹃ 震 災 予 防 調 査 会 報 告 ﹄ 第 四 六 号︵ 甲 ︶、 一 九 〇 四 年 ︶。 田 山 に よ る ﹁ 大 日 本 地 震 史 料 ﹂ 編 纂 に つ い て は 、 福 田 敬 子﹁ ﹃ 大 日 本 地 震 史 料 ﹄ と 田 山 實︵ ﹃ 神 戸 市 立 工 業 高 等 専 門 学 校   研 究 紀 要 ﹄ 第 三 五 号、一九九七年︶ を 参照。 5 ﹃ 東 目 西 目 由 来 記 ﹄ は 成 立 年 が 不 明 だ が 、 文 治 二 年 ︵ 一 一 八 六 ︶ か ら 延 享 二 年︵ 一 七 四 六 ︶ ま で の 記 述 を 持 つ こ と か ら 、延享二年以降 に ま と め ら れ た も の だ と 考 え ら れ る 。 6 武 者 金 吉 編 ﹃ 増 訂 大 日 本 地 震 史 料   第 一 巻 ﹄︵ 文 部 省 震 災 予 防評議会、一九四一年︶ 。 7 例 え ば 、 今 村 明 恒 は 慶 長 地 震 津 波 を 概 説 す る な か で ﹁ 其 の 餘 波、 東 は 九 十 九 里 濱 に 、 西 は 薩 摩 大 隅 に 及 べ り ﹂ と し て お り ︵﹁ 慶 長 九 年 の 東 海 南 海 両 道 の 地 震 津 浪 に 就 い て ﹂﹃ 地 震   第 一 輯 ﹄ 第 一 五 巻、 一 九 〇 一 年 ︶、 ま た 羽 鳥 徳 太 郎 は ﹃ 増 訂 大 日 本 地 震 史 料 ﹄ を 利 用 し た 結 果 と し て 、 薩 摩・ 大 隅 へ 一 ∼ 二 メ ー ト ル の ﹁大波寄 せ 死者 あ り ﹂ と し て い る ︵前掲注1︶ 。 8 山 本 武 夫 ・ 萩 原 尊 禮 ﹁ 慶 長 九 年 ︵ 一 六 〇 五 ︶ 十 二 月 十 六 日 地 震 に つ い て ﹂︵ 萩 原 尊 禮 編 著﹃ 古 地 震 探 究 ︱ 海 洋 地 震 へ の ア プ ロ ー チ ﹄東京大学出版会、一九九五年︶ 。 9 相 田 勇 ﹁ 1 6 0 5 年 慶 長 津 波 の 鹿 児 島 湾 に お け る 異 常 潮 位 の 一解釈﹂ ︵﹃歴史地震﹄第一三号、一九九七年︶ 。 10 宇 佐 美 龍 夫 ﹃ 最 新 版   日 本 被 害 地 震 総 覧 [ 4 1 6 ] ︱ 2 0 0 1 ﹄ ︵東京大学出版会、二〇〇三年︶ 。 11 松 岡 祐 也 ・ 都 司 嘉 宣 ・ 今 村 文 彦 ﹁ 歴 史 津 波 研 究 に お け る 誤 解 さ れ や す い 地 名 に つ い て ﹂︵ ﹃ 津 波 工 学 研 究 報 告 ﹄ 第 二 九 号、 二〇一二年︶ 。 12 石橋克彦﹃南海 ト ラ フ 巨大地震﹄岩波書店、二〇一四年。

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二七 13 筆 者 は 前 掲 注 11を 発 表 し た 後、 都 司 嘉 宣 ら と と も に 発 表 し た 論 文 で 、 新 た な 解 釈 を 提 示 し た ︵ 松 岡 祐 也・ 都 司 嘉 宣・ 今 井 健 太 郎・ 今 村 文 彦﹁ 歴 史 津 波 研 究 に お け る 誤 解 さ れ や す い 地 名 に つ い て ︱ そ の 2﹂ ﹃ 津 波 工 学 研 究 報 告 ﹄ 第 三 一 号、 二 〇 一 四 年 ︶。 こ の 論 文 で は 、 江 戸 時 代 後 期 に 成 立 し た ﹃ 旅 行 細 見 記 ﹄ と い う 史 料 を 根 拠 と し て 、 鹿 児 島 を 起 点 と し て 九 州 東 部 を 北 上 す る 街 道︵ 東 目 筋 ︶、 天 草・ 長 崎 を 経 由 し 北 上 す る 道 中︵ 西 目 筋 ︶ が ﹁ 東 目 ﹂﹁ 西 目 ﹂ で あ る と の 見 解 を 示 し た 。 こ の 解 釈 は 山 本 ら の 亜 流 と 評 価 で き る も の だ っ た 。 し か し こ の 論 考 は 、﹃ 旅 行 細 見 記 ﹄ と い う 地 震 後 二 百 年 ほ ど 経 過 し て 成 立 し た 史 料 を 根 拠 と し て お り 、 そ の 妥 当 性 に 難 が あ る 等、 い く つ か の 問 題 点 を 抱 え て い た 。 改 め て 振 り 返 る と 、 こ の 論考 は 甚 だ し く 検討 の 不十分 な も の で あ っ た と 思 う 。 14 大 日 本 古 文 書 ﹃ 島 津 家 文 書 ﹄ 二 〇 一 七 号 。 以 下 ﹁ 大 日 本 古 文 書﹂ に つ い て は 文書名 の み 記 す 。 15 大 日 本 古 記 録 ﹃ 上 井 覚 兼 日 記 ﹄ 天 正 十 一 年 九 月 二 日 条 。 以 下 ﹁大日本古記録﹂ に つ い て は 記録名 の み 記 す 。 16 ﹃ 上 井 覚 兼 日 記 ﹄ 天 正 十 年 十 二 月 二 七 日 条 、 天 正 十 一 年 十 月一日条・同二日条。 17 ﹃小早川家文書﹄四八八号。 18 ﹃島津家文書﹄一四九九号。 19 北 島 万 次 編 ﹃ 豊 臣 秀 吉 朝 鮮 侵 略 関 係 史 料 集 成   3   一 五 九 六 ∼一五九八年﹄ ︵平凡社、二〇一七年︶ 。 20 例 え ば ﹃浅野家文書﹄二五七︱八五号。 21 ﹃上井覚兼日記﹄天正十二年五月二日条。 22 ﹃ 上 井 覚 兼 日 記 ﹄ で は も う 一 カ 所 、﹁ 西 浦 ﹂ の 記 述 を 確 認 す る こ と が で き る ︵ 天 正 二 年 十 一 月 九 日 条 ︶。 こ ち ら は 大 隅 国 姶 良 郡︵ 鹿 児 島 県 姶 良 市 等 ︶ の 地 名 であると 理 解 でき 、 本 稿 で 問 題 と し て い る よ う な 広域的 な 範囲 を 示 す 語 と は 異 な る 。 23 例 え ば 、 小 宮 木 代 良 ﹁ 慶 長 期 島 津 氏 の 動 向 ︱ 幕 藩 体 制 の 成 立 過 程 に お け る 地 方 と 中 央 ︱﹂ ︵ 丸 山 雍 成 編﹃ 幕 藩 制 下 の 政 治 と 社会﹄文献出版、一九八三年︶ 。 24 前掲注1。 25 前掲注8。 26 前 掲 注 14。 27 史 籍 雑 纂 ﹃ 当 代 記 ・ 駿 府 記 ﹄ 慶 長 九 年 十 二 月 十 六 日 条 、 内 閣 文庫本﹃当代記﹄ ︵九巻九冊本︶ 。 28 太 向 義 明 ﹁﹃ 当 代 記 ﹄ 研 究 ノ ー ト ︱ 時 間 的 文 言 の 分 析 ︵ 巻 一 ・ 二 ︶ ︱﹂ ︵ 磯 貝 正 義 先 生 追 悼 論 文 集 刊 行 会 編﹃ 戦 国 大 名 武 田氏 と 甲斐 の 中世﹄岩田書院、二〇一一年︶ 。 29 藤 木 久 志 は 、 中 世 に お け る 気 象 災 害 に 関 す る 史 料 を ま と め て い る ︵ 藤 木 久 志 編﹃ 日 本 中 世 気 象 災 害 史 年 表 稿 ﹄ 高 志 書 院、 二 〇 〇 七 年 ︶。 藤 木 の 成 果 を 利 用 し て 慶 長 九 年 の 暴 風 に 関 す る 史 料 を 確 認 し て み る と 、 八 月 に 美 濃 国 や 伊 勢 国 で 暴 風 雨 に よ る 被 害 が 生 じ て い る が 、 十 二 月 の 九 州 で の 状 況 は 分 か ら な い 。

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Description of the Keicho Earthquake Tsunami in

Shimazu Ryuhaku’s letter

Yuya MATSUOKA

The purpose of this article is to consider the historical document "Shimazu Ryuhaku's Letter" on the Keicho Earthquake Tsunami in 1605 (Keicho 9). Ryuhaku wrote that the damage occurred from "Higashi-me" to "Nishi-me" in the letter. Previous studies have presented various explanations about the damaged places. This study picked out "Higashi-me" and "Nishi-me" from historical materials written in the same era as his letter and examined how these words were used. As a result, it was found that these words was used to describe a widely area containing multiple places. From this result, it concluded that the sentence in the Ryuhaku's letter means "the east-west (coast) of the Shimazu territory." The Keicho Earthquake Tsunami has hit a wide area of southern Kyushu. At the time, it was an important political issue that letting Ryuhaku go to Kyoto to thank Tokugawa Ieyasu. He seems to have planned to go by ship. However, he have written in the letter; "I hope to postpone to the plan because of the inability to secure a boatman by the tsunami. So, I order to negotiate with Tokugawa Shogunate." Ryuhaku also have said "a mysterious disaster." This paper discovered that the sentence means that the tsunami hit the territory without warning and that a widely area of the territory was damaged.

参照

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