Author(s)
平良, 勝保
Citation
沖縄大学紀要 = OKINAWA DAIGAKU KIYO(7): 37-41
Issue Date
1990-03-31
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/5736
島尻勝太郎先生の思い出
平良勝保 出会い 島尻勝太郎先生とはじめてお会いしたのは、沖大へ入学してからである。わ たしは、1978年4月、沖大の2部法学科に入学した。23歳のときであった。 1年次のときは島尻先生に出会う機会はなかったが、2年次になって先生の 「沖縄史」および「古文書読解」の講義を受講して、はじめて先生と出会った。 「沖縄史」の講義は、受講者が多く、先生と直接お話する機会はなかったが、 「古文書読解」の講義は受講者も少なく、まるでゼミのようなかたちであった。 受講者が少ないために、先生と身近に接することができ、講義の中身だけでな く島尻先生の人となりにふれることができたのは、わたしにとって幸いであっ た。 「古文書読解」受講の動機は、沖縄の歴史を学びたいということからではな い。たまたま新聞で2部の学生や社会人にも解放した講座「古文書読解」があ るということを知って、歴史全般の古文書の解読の講座でおもしろそうという 程度で受講したのである。もちろんわたし自身は多少は沖縄の歴史に関心は持 ってはいたのだが、「古文書読解」という講座が沖縄の歴史と直接かかわると は思ってもみなかった。いま一つ、受講してみたいと思った動機がある。「古 文書読解」は安良城盛昭先生と島尻先生が担当する予定であった。安良城先生 については、タイムス紙上の西里喜行先生との論争や「沖縄思潮」という雑誌 などで、名前だけは知っていたので、沖大に入ったら安良城先生の講義を受け てみたいと思ったのがもう一つの動機であった。当時、安良城先生の業績につ いてよく知っていたわけではなかったが、マスコミを賑わしていたのでそう思 ったのである。しかし、安良城先生は、学長になられて!忙しくなったので、結局 最後まで島尻先生が一人で行った。すなわち、単位取得に迫られて登録したわけで もなく、かといって特に関心があったわけでもないのである。したがって、途 中で受講しなくてもよいように、一般教養の単位は、それ以外でもとれるよう -37-に登録してあった。 ちなみに、島尻先生については、全く知らなかった。 そのようなキヅカケで、島尻先生とは出会ったのであるが、先生との出会い は、わたしに大きなインパクトを与え、人生を変えた。 「古文書読解」 「古文書読解」は基本的には1部の講義で、土曜日の午後であった。受講者 は、最初の頃は、10名に近かった。しかし、しばらくすると、数名になってい た。それはおそらく、テキスト(古文書)の難解さに恐れをなして、脱落して いったのではないかと思う。わたしもその-人で、途中から受講をやめようと 何度も考えた。あの、ミミズのような文字を読める先生は、特殊な存在にみえ た。しかし、やめるタイミングを失っているうち、気が付いたら数名になって おり、レギュラーは3名ほどになっていた。そうなると、わたしがやめたらこ の講座は成立しなくなるのではないかと、余計な心配をしたりした。と同時に、 島尻先生の人となりがわかるようになり、その人柄に意かれるようになった。 人数が少ないと、先生は時々喫茶店で授業をした。私達は、喫茶店という気楽 さもあって、歴史のはなしだけでなく、雑談も多くやった。 講義のテキストは、最初は「御教条」で後半は辞令書や手形などであった。 そして、テストはなかった。ただでさへ古文書の難解さにおびえていたわたし が先生に、「テストはどんなものが出ますか」と尋ねたところ、先生は「ない」と 答えた。「では、どう評価されるのですか」とまた尋ねたら、「わたしにはわか る」というのが答えであった。 先生は、講義が終わった後、時々わたしと下地敏雄君を誘って喫茶店に入っ た(下地君も僕も2部の学生で講義の後は暇だった)。そこで先生がわたしと 同じ宮古の城辺町の出身であることを知った。先生が何くれとなく親しくして 下さったのは、同郷のよしみということがあったのかも知れない。 そのようにして、やがて一年にもなろうとするとき、交換留学生の制度の存 在を知り、先生に相談した。先生は、チャンスは大いに生かした方がよい、と すすめてくれた。すでに、定職についているわたしにとって、島尻先生の助言 -38-
'よ、大きな力となった。意を決して職場の上司に相談したところ、休職できる よう配慮しよう、と理解を示して下さったので交換留学生の申込をしたところ、 運よくパスし、法政大学に交換留学生として行くことになった。東京に出発す る前、先生のお宅へ伺ったところ、先生は賎別を下さり、しっかり勉強してく るよう励まして下さった。そしてその際、「法政大学の大学院に息子の克美が いるので、行ったら連絡を取りなさい」といわれた。わたしは、先生の言葉に あまえて、御子息の克美さんに連絡を取ったところ、寄宿舎として沖英寮を紹 介していただき、そのうえ寮で毎週行われている法政大学の院生を中心にした 古文書読書会に参加させてもらうことになった。ある意味で、東京でも島尻先 生のお世話になったのである。 卒業後 わたしは、卒業と同時に、宮古支店に転勤となった。そこで、島尻先生のす すめもあり、宮古郷土史研究会に参加した。島尻先生は、当時城辺町史編さん 委員長であり、平良市史編集委員でもあったので、時々宮古へ来られた゜その たびに宿泊の丸勝ホテルをたずねていろいろな御教示をうけた。また、たのし い雑談もあった。わたしは、その当時宮古に住んでいるということもあり、ま た宮古出身であるということもあって、宮古の歴史のことばかりを質問した。 先生は、厭わずおはなしをしてくださったが、いつもかならず、もっと広い視 野で考えるよう諭された。 2年の宮古支店勤務のあと、那覇の本店に転勤した。転勤後は、わたしの親 しい人数名をあつめて先生のお宅で勉強会を行った。その勉強会は、宮古の近 世史料の読み合わせで、先生が刊行を予定されている宮古の近世史料集の仕事 をお手伝いする意味もあった。勉強会は、わたしの仕事の忙しさや怠慢もあっ て、継続できなくなり、史料集のお手伝いもなかなか進まないままになってい た。そことを、ずっと気にしていたのだが、昨年(88年)12月、突如として先 生の計報に接することになってしまった。わたしは、その仕事をぜひ完成させ たいと思っている。 -39-
島尻先生は、昨年の5月には、わたしを城辺町史の編さん委員に推して下さ った。編さん委員会のたびに一緒に宮古へ行けるのは、楽しみであった。委員 会が終わった後、たしか7月頃だったと思うが、「たまには宮古を巡ってみよ う」とおっしゃったので、わたしが「では伊良部はいかがですか」と提案した ところ、先生は「伊良部には会いたい人がいるのでぜひ行こう」と同意された。 比屋地御嶽や伊安氏本宗の家、乗瀬御嶽などを案内し、長浜のわたしの妻の実 家で昼食をとった。そこで先生が訪ねたいと話していた「タルシュウ」(洲鎌 さんという方であったように思う)の家を聞くと、隣近所であった。その方は、 先生の親戚であるらしいのだが、数十年会っていないということでお二人とも 大変懐かしがっておられた。その方は、先生より年上で、小さい頃に可愛がっ てもらったということであった。今にして思えば、そのことのみが、先生への 孝行である。 島尻先生には、わたしの結婚式の媒酌人もつとめていただいた。その意味で は、今のわたしの家庭があるのも先生のおかげである。 終わりに 島尻先生は、わたしにとって学問上の師であると同時に、心の師、よりどこ ろであった。悩みごとなどを相談すると、先生はいつもやさしくつつむように 励まして下さった。わたしは、先生のお宅から帰るときは、いつも元気印であ った。そのように、多くのことを教わり、多くのお世話になった。しかし不消 の弟子のわたしは、殆ど身に付いたものがない。それだけでなく、生前何の御 恩返しもできなかった。それだけにまた、なおさら悔いが残るのである。恩返 しといっても、何ができるわけでもないが、先生が残された仕事のうち、宮古 関係について一生懸命頑張っていきたいと思う。 先生は、煙草と甘いものが好きで、酒を殆ど嗜まなかった。わたしの父も同 じであった。父を早くなくしたわたしは、その姿に父のイメージをダブらせて いたのかも知れない。今でも島尻先生のことを思い出すと、涙が出てしまう。 語りたいことはまだあるが、これ以上書けそうにない。 -40-
先生、うけた大きな御恩は、決して忘れません。やすらかIとおやすみくださ
い◎