19 世紀中葉までの近代都市ケルンの人口増加:人口の自然動態と社会動態に関する統計資料の分析
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(2) 52. 棚橋 信明. 増加の優劣と両者の比重の変化については,都市によってさまざまな特徴がみられたことが,H・マッツェ ラートにより指摘されている 5)。いずれにせよ,こうした人口史研究の流れのなかで,研究の関心が集中 したのは工業化の時代の,取り分け統計資料が豊富に提供される帝制期の人口移動の問題であった。 本稿では,帝制期よりも前のケルンの人口増加の特徴を,その要因となった人口の自然動態と社会動態 の問題にまで掘り下げてみていくことにする。ただし,この時代については利用できる統計資料が限られ ており,こうした人口動態に関する考察も限定的とならざるを得ない。それでも,上記のような 19 世紀 中葉までの社会構造的な変化を解き明かすための前提的作業として,また,これまで手薄であった帝国創 設以前の都市史研究の新たな道を探る試みとして,利用できる限りの資料の分析を進めることにした。以 下の各章では,人口増加のテンポと郊外の発展,人口の自然増加と社会増加,人口の自然動態,人口の社 会動態,軍事人口の 5 つのテーマを取り上げ,関係する統計資料をおもに表として整理したうえで考察を 進めることにする。なお,最後に軍事人口の問題を取り上げるが,これまでの都市の人口史研究では,軍 隊を都市人口に含めながらもその存在に十分な注意が払われてこなかった。本稿では,ケルンに駐屯する 軍隊の規模とそのプレゼンスの政治史的意味を考慮して,人口増加の過程における軍事人口の位置づけに ついても検討を加えることにした。また,ケルンの特徴を浮かび上がらせるため,各章の表では王都ベル リンやルール地方の新興工業都市であるエッセンやバルメンの数値も示し,本文中でも適宜,ケルンとの 比較・考察を行うことにする。. 1.人口増加のテンポと郊外の発展 表 1 − 1 は,1828 ∼ 1871 年の間のおよそ 3 年ごとの人口調査年について,ケルンを始めとする 4 都市 の人口の推移と期間ごとの年平均増加率を示したものである。ここでは,次章以下でケルンの人口動態の 問題に関して検討を進める前に,人口増加のテンポの基本的特徴についてまず確認をしておきたい。 この表をみて最初にいえることは,ケルンの人口増加のスピードは,ベルリンやルールの新興工業都市 に比べて,それほど急激ではなかったことである。1828 ∼ 1871 年の 43 年間に,ケルンの人口はおよそ 2.1 倍(年平均増加率 2.69%)になったが,ベルリンは 3.5 倍(同 5.79%)になっている。また,1828 年に人 口わずか 5,325 人であったエッセンの人口は,1849 年以降の増加がとくに急激であり,1871 年に 51,513 人と 9.7 倍(同 20.17%)にもなっている。 つぎに気がつくのが,どの都市についても人口増加が一定のテンポで順調に進展したわけではなかった ことである。3 年ごとの人口増加率には,比較的大きな変動を見て取ることができる。そして,こうした 各都市の人口増加率の上下の動きは必ずしも同調しておらず,都市によって特徴をもったウェーブを描 いていることがわかる。たしかに,48 年革命を挟んだ 1846 ∼ 1849 年に 4 都市すべてで人口増加率の落 ち込みがみられたが,このような変動の同調よりもズレのほうが目立つ。たとえば,ケルンでは革命前の 1840 ∼ 1846 年の期間に人口増加率の盛り上がりがみられたが,ベルリンとバルメンではこの時期,30 年 代に盛り上がった人口増加率の大きな後退がみられる。また,ケルンの特徴として 60 年代の人口増加の 沈滞を指摘できる。それに対して,他の 3 都市ではこの時期,人口増加がハイペースで進展していること がわかる。 ただし,このようなケルンに特徴的な人口増加率の推移は,ケルン単独の現象としてではなく,郊外の 人口動態との関連で理解する必要がある。表 1 − 2 は, ケルンの郊外にあったドイツ (Deutz) ,エーレンフェ ルト(Ehrenfeld) ,カルク(Kalk)の 3 つの地区について,人口の推移と増加率を整理したものである。 そして表 1 − 3 は,1883 年∼ 1910 年までに実施された計 3 回のゲマインデ合併により,ケルンの市域に 編入された郊外全体の人口の推移と増加率を示したものである。ドイツとエーレンフェルトは第 2 回(1888 年 4 月)の,カルクは第 3 回(1910 年 4 月)のゲマインデ合併の時に,それぞれ他の多くのゲマインデ.
(3) 19 世紀中葉までの近代都市ケルンの人口増加. 53. 表1-1 各都市の人口増加と増加率※1, 2 ケルン. 年. 人口. ベルリン. 増加率. 1828. 61,059. 1831. 65,953. 1834. 67,302. 1837. 72,237. 1840. 75,858. 1843. 83,418. 1846. 90,246. 1849. 94,789. 1852. 101,091. 1855. 106,852. 1858. 114,477. 1861. 120,568. 1864. 122,162. 1867. 125,172. 1871. 129,233. } } } } } } } } } } } } } }. 人口 236,830. 2.67. 248,632. 0.68. 265,122. 2.44. 283,722. 1.67. 330,230. 3.32. 353,149. 2.73. 408,502. 1.68. 423,902. 2.22. 438,958. 1.90. 447,483. 2.38. 458,637. 1.77. ※4. 547,571. 0.44. 632,749. 0.82. 702,437. 0.81. 826,341. 増加率. } } } } } } } } } } } } } }. エッセン※3. バルメン 人口 25,090. 2.20. 24,288. 2.34. 25,158. 5.46. 27,611. 5.46. 30,847. 2.31. 32,984. 5.22. 34,924. 1.26. 35,989. 1.18. 39,223. 0.65. 41,463. 0.83. 44,698. 6.46. 49,787. 5.19. 59,544. 3.67. 64,945. 4.41. 75,074. 増加率. 人口. 増加率. 5,325. } ▲ 1.07 } 1.19 } 3.25 } 3.91 } 2.31 } 1.96 } 1.02 } 3.00 } 1.90 } 2.60 } 3.80 } 6.53 } 3.02 } 3.65. } } 5,660 } 6,112 } 5,464. 6,672. 9,012 10,475 17,165. 0.65 1.79 2.66 3.05. }. 3.51. }. 8.12. } 10.64. } 6.99 } 17.01 31,366 } 9.91 40,695 } 6.65 20,766. 51,513. 註:※ 1 人口には,軍事人口(現役軍人とその家族等)が含まれる。 註 :※1 人口には,軍事人口(現役軍人とその家族等)が含まれる。 ※ 2 増加率は,前年度の人口に対する年平均の増加率(%)を示す。▲は減少を意味する。 ※2 増加率は,前年度の人口に対する年平均の増加率(%)を示す。▲は減少を意味する。 ※ 3 1843 年,1846 年,1855 年の人口は,統計資料の不備により欠落。同様の理由により 1831 年は 1832 年の, ※3 1843年,1846年,1855年の人口は,統計資料の不備により欠落。同様の理由により1831年は 1849 年は 1850 年の人口を採用している。 1832年の,1849年は1850年の人口を採用している。 ※ 4 1861 年 1 月の大規模なゲマインデ合併による人口増加が含まれる。合併時に編入された人口は約 ※4 1861年1月の大規模なゲマインデ合併による人口増加が含まれる。合併時に編入された人口は約 35,500 人であった。 35,500人であった。 , S. 3; Gemeindestatistik des Landes 出典:Statistisches Jahrbuch der Stadt Cöln für 1911(以下 StJBStC 1911 のように略記) Jahrbuch der Stadt Cöln für 1911 (以下 Düsseldorf StJBStC 1911 S. 3; Gemeindestatistik 出典 :Statistisches Nordrhein-Westfalen: Bevölkerungsentwicklung 1816-1871, 1966,のように略記), S. 16-19; Erich Keyser (Hrsg.), Rheinisches des Landes Nordrhein-Westfalen: Bevölkerungsentwicklung 1816-1871 , Düsseldorf 1966, S. 16-19; Erich Köllmann Keyser Städtebuch (Deutsches Städtebuch: Handbuch städtischer Geschichte, Bd. 3-3), Stuttgart 1956, S. 158; Wolfgang (Hrsg.),Rheinisches Städtebuch Sozial(Deutsches Städtebuch: Handbuch städtischer Geschichte Bd. 3-3),am Stuttgart (Hrsg.), Quellen zur Bevölkerungs-, und Wirtschaftsstatistik Deutschlands 1815-1875, Bd. 1,, Boppard Rhein 1980, S. 190; ders., Sozialgeschichte der Stadt Barmen imQ19. Jahrhundert, Tübingen 1960, S. 287-288. 1956, S. 158; Wolfgang Köllmann (Hrsg.), uellen zur Bevölkerungs-, Sozialund Wirtschaftsstatistik. Deutschlands 1815-1875, Bd. 1, Boppard am Rhein 1980, S. 190; ders.,Sozialgeschichte der Stadt Barmen im 19. Jahrhundert, Tübingen 1960, S. 287-288.. 表1-2 ケルンの近隣地区の人口増加と増加率※1, 2 年. ドイツ 人口. 1828. 2,524. 1831. 2,556. 1837. 2,872. 1843. 3,095. 1852. 4,682. 1855. 5,036. 1858. 5,742. 1861. 6,483. 1867. 10,488. 1871. 11,776. エーレンフェルト. 増加率. } } } } } } } } }. 0.42 2.06 1.29 5.70 2.52 4.67 4.30 10.30 3.07. 人口 839 837 784 888 1,424 1,416 1,715 2,774 4,362 6,671. 増加率. } ▲ 0.08 } ▲ 1.06 } 2.21 } 6.71 } ▲ 0.19 } 7.04 } 20.58 } 9.54 } 13.23. カルク 人口 67 64 85 96 511 496 721 1,750 3,951 5,142. 増加率. } ▲ 1.49 } 5.47 } 2.16 } 48.03 } ▲ 0.98 } 15.12 } 47.57 } 20.96 } 7.54. 註:※1 人口に軍事人口(現役軍人とその家族等)は含まれない。 註 :※1 人口に軍事人口(現役軍人とその家族等)は含まれない。 ※2 増加率は,前年度の人口に対する年平均の増加率(%)を示す。▲は ※2 増加率は,前年度の人口に対する年平均の増加率(%)を示す。 ▲は 減少を意味する。 減少を意味する。 出典 :Gemeindestatistikdes desLandes LandesNordrhein-Westfalen, Nordrhein-Westfalen ,S.S.133; 133;StJBStC StJBStC1911, 1911 ,S.S.4.4. 出典:Gemeindestatistik. 表1-3 ケルン郊外の 人口増加と増加率※1, 2 ,3 年. 人口. 1831. 7,578. 1846. 9,679. 1855. 14,422. 1861. 21,725. 1871. 44,738. 増加率 }. 1.85. }. 5.44. }. 8.44. } 10.59. 註 :※1 郊外とは1883年,1888 註:※ 1 郊外とは1883年,1888 年,1910年 の 3 回 の ゲ マ 年,1910年の3回のゲマイ インデ合併によりケルン ンデ合併によりケルン市 に編入された地域。 市に編入された地域。 ※2 人口には,軍事人口 ※ 2 人口には,軍事人口(現 (現役軍人とその家族 役軍人とその家族等)が 等)が含まれる。 含まれる。 ※3 増加率は,前年度の人 ※ 3 増加率は,前年度の人 口に対する年平均の増加 口に対する年平均の増加 率(%)を示す。 率(%)を示す。 出典 :StJBStC 1912, 1912 , S. S. 4. 4. 出典:StJBStC.
(4) 54. 棚橋 信明. とともにケルン市に編入されている 6)。 これら 3 地区は,ケルンに対してそれぞれ異なる位置関係にあった。まずドイツは,ライン河の対岸に 位置するゲマインデで,中世以来,ケルンの防衛上の「支城」としての役割を担っており,1815 年に開 始されたケルンの要塞化にともなって,その周囲も近代的な堡塁施設で固められることになった。また, 1822 年以降はライン河に設置された浮橋によってケルンと直接的な連絡をもつことになる。つぎに,エー レンフェルトはケルンの北西に隣接する地区であったが,煉瓦の製造所を中心とするその集落は家屋を 建てることが一切禁止された「射程区域(Rayon)」によってケルンの市街地とは大きく隔てられていた。 この「射程区域」とは,ケルンを取り囲む堡塁施設を砲撃から防衛するために設置されたもので,市壁の 前方およそ 1 km の範囲に及んでおり,市の境界線から 600 ∼ 700 m 先の近隣ゲマインデの領域にも食い 込んでいた。そして,カルクはライン河右岸のドイツを隔ててさらに西に位置する地区で,1828 年に人 口わずか 67 人のその小集落はドイツ側にも設定された「射程区域」の外側にあった 7)。 最初にドイツについて指摘できるのは,表 1 − 1 との対比により,1850 年代までの人口増加率の変動 にケルンとの同調がみられる点である。30 年代,40 年代,50 年代にみられる人口増加率の上昇が,多少 のズレをともないながらもケルンとドイツでおおよそ重なっていることがわかる。上下の変動幅は人口規 模の小さなドイツでより大きく出ているが,このような同調はケルンの人口動態に作用するのと同じ要因 が,ドイツにも同時に働いていたことを推察させる。ところが,60 年代についてはドイツとケルンの人 口増加率の変動は大きな相違をみせている。前述のようなケルンの人口増加の沈滞に対して,ドイツでは 50 年代の後半から人口増加率が急上昇し,その直後に急下降していることが特徴として指摘できる。 また,エーレンフェルトとカルクでも,ドイツと同様に 50 年代の後半から人口増加のペースが急激に 上がっていることがわかる。このような 3 地区に共通にみられる現象は,この時期に急激に進んだケルン 市街地の人口飽和により説明ができる。ケルン市と隣接ゲマインデとの境界線は,市壁から 253 ∼ 855 m の外側にあった「司教の道(Bischofsweg)」にあり,ケルンの市域面積は堡塁などの軍事施設を含めて約 770 ha あった。ところが,前述のように,ケルンでは市壁外に広がる市域はすべて「射程区域」とされ, そのため一般住民の居住できる市街地は市壁内の約 405 ha に限定されていた。こうしたなかで 40 年代ま で市壁内に広がっていた野菜畑や果樹園は住宅建設に利用され次第に姿を消していき,50 年代の終わり ごろから住宅用地の不足が深刻となっていった 8)。表 1 − 1 でみたようなケルンの 60 年代の人口増加率 の沈滞は,このような土地不足を最大の原因としていたのである。そこで,土地不足によりケルンから溢 れ出た人口が,近隣の郊外に流れ込んだとみることができる。ただし,前述のように,ドイツもケルンと 同様に周囲を堡塁で固められ,堡塁施設の外には「射程区域」が広がっていた。ドイツで 60 年代の終わ りに人口増加率が落ち込んだのも,住宅用地の枯渇がその原因として考えられる。 他方で,こうした郊外の人口増加が,40 年代以降の郊外の工業化により推進された事実も見逃しては ならない。このころより,ケルン郊外での大規模工場の設立が目につくようになる。比較的早期の事例 としては,1845 年にドイツで設立されたベルギーの企業家ツィーパン(Ferdinand van der Zypan)らに よる車輌製造工場があげられる。また,カルクでは 1856 年にボンの企業家ジーファース(Hermann D. Sievers)によって鉱山用機械工場が設立されている。そして,60 年代になると市内にあった工場の郊外 への移転もみられるようになる。上記のような土地不足により,市内では工場の拡張が次第に困難となっ たからである。1869 年には内燃機関の発明者オットー(Nicolaus A. Otto)とランゲン(Eugen Lnagen)が, ガス発動機の工場を市内からドイツに移転させている。エーレンフェルトにも,それより前の 60 年代初 めに,ホスペルト(Wilhelm A. Hospelt)が合成染料の工場を移転させている 9)。 ここで,郊外全般の人口増加の様子を確認しておこう。表 1 − 3 では,人口増加率の細かな変動を知る ことはできないが,40 年代後半から人口増加率が大きく伸びていっていることがわかる。1910 年のケル ンの市域で人口増加率を計算し直すと,1861 ∼ 1871 年の年平均増加率は 2.23%となる。郊外を含めても.
(5) 19 世紀中葉までの近代都市ケルンの人口増加. 55. 同時期のベルリンやバルメンの人口増加率には確かに及ばないが,60 年代以降,ケルンは人口増加の勢 いを経済圏としてケルンと一体化しつつあった郊外に次第に移していったとみることができる。. 2.人口の自然増加と社会増加 表 2 − 1 は,ケルンとベルリンについて自然増加と社会増加の実数を,表 1 − 1 の統計年を区切りとす る期間別に示すとともに,人口増加全体に占めるそれぞれの割合を併記したものである。さらに,表 2 − 2 は,ケルン,ベルリン,バルメンの各都市とプロイセン王国全体について,同様の期間別に対人口 1,000 人当たりの自然増加率と社会増加率の年平均値を整理したものである。以下では,都市の人口増加の 2 つ の構成要素である自然増加と社会増加の比重のあり方について検討を進める。 ここでまず指摘すべきは,表 2 − 1 の合計欄に示されるように,ケルンでは自然増加が社会増加よりも 若干優位にあったことである。1828 ∼ 1871 年の 43 年間で,ケルンにおける社会増加は人口増加全体の 45.7%を占めたが,ベルリンにおいては 79.2%までを占め,社会増加が自然増加に対して圧倒的に優位に あった。人口増加が急激であった都市ほど社会増加の割合が大きくなる傾向があり,ルールの新興工業都 市バルメンでも同時期の社会増加の割合は 52.8%になった。他方で,この表では,ケルンとベルリンにつ いて,自然増加と社会増加の比重のあり方に時期によって大きな相違のあったことも確認できる。全体と して自然増加が優位にあったケルンにおいても, 1829 ∼ 1831 年や 1841 ∼ 1843 年の期間でみられるように, 社会増加数が自然増加数を大きく上回り,社会増加が人口増加の決定的なファクターとなる時期もあった のである。逆にベルリンにおいては,1850 ∼ 1852 年や 1856 ∼ 1858 年の期間に,自然増加の圧倒的優位 を見て取ることができる。 表2-1 ケルンとベルリンの人口の自然増加と社会増加※1, 2, 3 期 間. ケルン 自然増加数. 1829 ~ 1831 年. 218 ( 4.5). 1832 ~ 1834 年 1835 ~ 1837 年. 社会増加数. ベルリン 全体. 自然増加数. 社会増加数. 全体. 4,676 (95.5). 4,894. 1,726 (14.6). 10,126 (85.4). 11,852. 1,421 ( - ). ▲ 72 ( - ). 1,349. 2,009 (12.2). 14,431 (87.8). 16,440. 2,043 (41.4). 2,892 (58.6). 4,935. 2,921 (15.7). 15,679 (84.3). 18,600. 1838 ~ 1840 年. 2,132 (58.9). 1,489 (41.1). 3,621. 4,423 ( 9.5). 42,085 (90.5). 46,508. 1841 ~ 1843 年. 2,180 (28.8). 5,380 (71.2). 7,560. 6,886 (30.0). 16,033 (70.0). 22,919. 1844 ~ 1846 年. 3,001 (44.0). 3,827 (56.0). 6,828. 10,042 (18.1). 45,311 (81.9). 55,353. 1847 ~ 1849 年. 2,442 (53.8). 2,101 (46.2). 4,543. 3,308 (21.5). 12,092 (78.5). 15,400. 1850 ~ 1852 年. 4,650 (73.8). 1,652 (26.2). 6,302. 11,762 (78.1). 3,294 (21.9). 15,056. 1853 ~ 1855 年. 3,163 (54.9). 2,598 (45.1). 5,761. 9,161 ( - ). ▲ 636 ( - ). 8,525. 1856 ~ 1858 年. 3,163 (41.5). 4,462 (58.5). 7,625. 10,528 (94.4). 626 ( 5.6). 11,154. 1859 ~ 1861 年. 3,784 (62.1). 2,307 (37.9). 6,091. 15,957 (17.9). 72,977 (82.1). 88,934. 1862 ~ 1864 年. 3,760 ( - ). ▲ 2,166 ( - ). 1,594. 16,323 (19.2). 68,855 (80.8). 85,178. 1865 ~ 1867 年. 2,270 (75.4). 740 (24.6). 3,010. 12,122 (17.4). 57,506 (82.6). 69,628. ※4. 1868 ~ 1871 年. 2,788 (68.7). 1,273 (31.3). 4,061. 15,308 (12.4). 108,596 (87.6). 123,904. 合計. 37,015 (54.3). 31,159 (45.7). 68,174. 122,476 (20.8). 466,975 (79.2). 589,451. 1 ここで示される社会増加の数は,転入者数と転出者数の差し引きの結果によるものではなく,人口全体の増加数か 註:※ 註 :※1 ここで示される社会増加の数は,転入者数と転出者数の差し引きの結果によるものではなく,人口全体の増加数から ら自然増加数を除して得られた値である。 自然増加数を除して得られた値である。 ※2 表中の( )内の数値は,人口増加全体に占める割合の百分率。 ※2 表中の( )内の数値は,人口増加全体に占める割合の百分率。 ※3 ▲は減少を意味する。 ※3 ▲は減少を意味する。 ※4 1861 年11月の大規模なゲマインデ合併による人口増加が含まれる。 月の大規模なゲマインデ合併による人口増加が含まれる。 ※4 1861年 Zimmermann, undGesundheitswesen GesundheitswesenininCöln: Cöln:Festschrift Festschriftfür fürTeilnehmer Teilnehmerananderder 出典 :Karl Die Bevölkerung Bevölkerung Cölns, Cölns, in: in:NNaturwissenschaft aturwissenschaft und 出典 :Karl Zimmermann, Die 80. der Gesellschaft GesellschaftDeutscher DeutscherNaturforscher Naturforscher Ärzte in, Cöln Cöln,1908, CölnS.1908, S. 91; Köllmann (Hrsg.),zur Quellen zur 80. Versammlung Versammlung der undund Ärzte in Cöln 91; Köllmann (Hrsg.),Quellen BevölkeBevölkerungs-, Sozialund Wirtschaftsstatistik, rungs-, Sozial- und Wirtschaftsstatistik , Bd. 1, S.Bd. 191.1, S. 191..
(6) 棚橋 信明. 56. 表2-2 各都市とプロイセン王国の人口の自然増加率と社会増加率(対人口1,000人) b) 社会増加率※1. a) 自然増加率 期間. ケルン. ベルリン バルメン. プロイセ ン王国. ケルン. ベルリン バルメン. プロイセ ン王国. 1829 ~ 1831 年. 1.1. 2.4. 7.5. 6.7. 25.6. 14.2. ▲ 18.2. 1.5. 1832 ~ 1834 年. 7.1. 2.7. 12.7. 6.8. ▲ 0.3. 19.4. ▲ 0.8. 5.3. 1835 ~ 1837 年. 9.8. 3.7. 15.2. 11.2. 14.6. 19.7. 17.3. 3.3. 1838 ~ 1840 年. 9.6. 5.0. 12.0. 11.2. 7.1. 49.7. 27.0. 8.5. 1841 ~ 1843 年. 9.1. 6.7. 13.6. 11.3. 24.1. 16.4. 9.5. 0.8. 1844 ~ 1846 年. 11.5. 9.0. 9.7. 12.4. 15.8. 43.3. 9.9. 1.5. 1847 ~ 1849 年. 8.9. 2.7. 7.9. 5.0. 7.9. 9.9. 2.2. ▲ 0.5. 1850 ~ 1852 年. 15.8. 9.1. 13.8. 12.2. 6.4. 2.8. 16.1. 0.1. 1853 ~ 1855 年. 10.2. 6.7. 13.6. 8.1. 8.8. ▲ 0.3. 5.5. ▲ 2.8. 1856 ~ 1858 年. 9.5. 7.8. 13.8. 8.7. 14.3. 0.5. 12.2. 3.7. 1859 ~ 1861 年. 10.7. 10.7. 15.6. 14.3. 7.0. 54.0. 22.3. ▲ 2.1. 1862 ~ 1864 年. 10.3. 9.2. 15.6. 14.2. ▲ 5.9. 42.7. 49.7. 1865 ~ 1867 年. 6.1. 6.0. 9.8. 10.3. 2.1. 30.7. 20.4. 1868 ~ 1871 年. 5.5. 5.1. 14.5. 10.1. 2.6. 39.0. 24.5. ※2. ▲ 0.5 ※3. 71.4. ▲ 3.2. 註 :※1 ▲は減少を意味する。 ※2 1861年 1 月のゲマインデ合併による人口増加を含む増加率。 ※3 対オーストリア戦争後の領土併合による人口増加を含む増加率。 出典 :StJBStC 1911, S. 13-14; Köllmann (Hrsg.),Quellen zur Bevölkerungs-, Sozial- und Wirtschaftsstatistik, Bd. 1, S. 190, 226; ders., Sozialgeschichte der Stadt Barmen, S. 287-288.. また,表 2 − 2 では,都市によって自然増加率と社会増加率には異なる変動のリズムがあり,さらに各 都市の 2 つの増加率の変動は相互に独立的に生じていることがわかる。上記のような自然増加と社会増加 の優劣の時期による変化も,また,表 1 − 1 で確認したような各都市の人口増加のテンポも,2 つの増加 率の変動が別々に描くウェーブの重なり具合により決まっていたのである。たとえば,ケルンで 1829 ∼ 1831 年や 1841 ∼ 1843 年の社会増加の圧倒的な優位は,自然増加率の落ち込みと社会増加率の上昇の重 なりによってもたらされたのである。また,人口増加のプロセスとの関連では,1850 ∼ 1852 年にケルン では,自然増加率の上昇と社会増加率の落ち込みが重なったが,この時には前者の上昇分が後者の下降分 を埋め合わせて余りあり, 表 1 − 1 でみるように全体の人口増加率は 2.22%と比較的好調な数値を示した。 他方で,1865 ∼ 1871 年には両者の落ち込みが中期的に重なることになったが,このような場合には当然, 全体の人口増加の勢いは大きく後退した。 このように人口増加の過程には,自然増加と社会増加が多様なかたちで作用を及ぼしたが,社会増加率 の変動のほうが急激で大きかったことも確かである。表 2 − 2 でケルン,ベルリン,バルメンの各都市 で,社会増加率がマイナスに,すなわち人口の流出による社会減が生じた時期があったこともそれを示し ている。社会増加の全体の人口増加に対する貢献度については,時期によって大きな動揺があったのであ る。そして,表 1 − 1 との対比により,このような社会増加の変動が人口増加のテンポに大きな影響を与 えた事実も浮かび上がる。ベルリンやバルメンと比較すると,ケルンの社会増加率の変動はそれほど激し いものではなかった。それでも,前章で指摘したような 40 年代の人口増加率の好調と 60 年代の沈滞に, 社会増加の変動が決定的に関係していたことが確認できる。まず,1841 ∼ 1846 年にケルンでは年平均で 1,500 人を上回る社会増加(増加率 25.0‰)があり, これが人口増加率を強力に押し上げたといえる。また, 1862 ∼ 1871 年の 10 年間の社会増加の年平均はマイナス 722 人(増加率 -5.9‰)であった。ここでは,前 述のような市壁内の人口飽和による社会増加の完全停止が,人口増加に決定的なブレーキとなったのであ.
(7) 19 世紀中葉までの近代都市ケルンの人口増加. 57. る。 このように時にはマイナス側に振れることもあった変動の激しい社会増加率に対して,出生率と死亡率 を基本因子とする自然増加率の動きはそれほど大きくなく,したがって自然増加が都市の人口増加の安定 的な基底部を形成したとみることもできる。しかしながら,すでに指摘したように自然増加率にも無視し えない独自のリズムの変動があったのは事実であり,次章ではその変動の要因を含めた自然動態の問題に ついて検討を進めたい。. 3.人口の自然動態 表 3 − 1 は,ケルン,ベルリン,バルメンの 3 都市とプロイセン王国全体の出生率と死亡率の年平均値 を期間別に整理したものである。ここでは,この表によりケルンの出生率と死亡率のとくに中長期的な変 動についてみていきたい。 まず, 出生率に関して指摘できるのは, 都市によって大きな格差のあったことである。 ケルンの出生率(全 期間の平均値 36.4‰)は,きわめて高い水準で推移したバルメン(同 40.7‰)を大きく下回りながらもベ ルリン(同 34.6‰)をやや上回り,プロイセン全体(同 37.9‰)をやや下回る水準にあった。他方で,死 亡率については 3 都市に大きな格差はみられなかった。バルメンの死亡率がやや高い傾向にあった(全期 間の平均値 28.1‰)が,ケルン(同 27.6‰)とベルリン(同 27.8‰)はプロイセン全体(同 27.7‰)と同 程度の水準にあった。 大都市の死亡率については,とくに貧困層の劣悪な住宅環境をもって一般的に高かっ たと考えられがちであるが,必ずしもそうではなかったのである。 先にみた表 2 − 2 に示された自然増加率は,この表 3 − 1 の出生率と死亡率の差によるものである。上 記のようにケルン,ベルリン,バルメンの 3 都市について,死亡率に大きな相違がなかったということは, 各都市の出生率の水準が自然増加率を規定したことになる。ケルンについていえば,上記のようにバルメ 表3-1 各都市とプロイセン王国の出生率と死亡率(対人口1,000人) a) 出生率 期間. ケルン. b) 死亡率 ベルリン. バルメン. プロイセン 王国. ケルン. ベルリン バルメン. プロイセン 王国. 1829 ~ 1831 年. 31.9. 34.0. 39.2. 37.4. 30.7. 31.6. 31.6. 30.6. 1832 ~ 1834 年. 33.5. 33.7. 42.6. 36.9. 26.4. 31.0. 29.8. 30.1. 1835 ~ 1837 年. 36.6. 33.5. 42.3. 38.4. 26.8. 29.8. 27.1. 27.1. 1838 ~ 1840 年. 37.1. 32.4. 41.8. 37.9. 27.5. 27.5. 29.7. 26.8. 1841 ~ 1843 年. 37.7. 31.6. 40.7. 38.2. 28.6. 24.9. 27.2. 26.9. 1844 ~ 1846 年. 39.3. 32.5. 39.7. 38.2. 27.8. 23.6. 30.0. 25.8. 1847 ~ 1849 年. 39.7. 30.4. 37.9. 35.5. 30.8. 27.7. 29.9. 30.4. 1850 ~ 1852 年. 40.4. 33.0. 41.5. 39.7. 24.6. 24.0. 27.6. 27.5. 1853 ~ 1855 年. 36.2. 32.6. 37.9. 37.2. 26.0. 25.9. 24.4. 29.1. 1856 ~ 1858 年. 36.0. 34.1. 38.4. 35.9. 26.5. 26.3. 24.6. 27.2. 1859 ~ 1861 年. 34.9. 35.5. 40.7. 39.1. 24.2. 24.8. 25.1. 24.8. 1862 ~ 1864 年. 35.2. 36.1. 40.9. 39.7. 24.9. 26.9. 25.3. 25.5. 1865 ~ 1867 年. 35.3. 38.6. 42.2. 39.3. 29.1. 32.6. 32.4. 29.0. 1868 ~ 1871 年. 36.2. 37.1. 42.8. 37.4. 30.7. 32.0. 28.3. 27.3. 出典 :StJBStC 1911, S. 13-14; Köllmann (Hrsg.), Quellen zur Bevölkerungs-, Sozial- und Wirtschaftsstatistik, Bd. 1, S. 190, 226; ders., Sozialgeschichte der Stadt Barmen, S. 287-288..
(8) 棚橋 信明. 58. 図3-1 ケルンの出生率・死亡率と自然増加率 (人口1,000人に対する比率) (. ‰ 50.0. 出生率 死亡率 自然増加率. 40.0. 30.0. 20.0. 10.0. 0.0. -10.0 1830. 1835. 1840. 1845. 1850. 1855. 1860. 1865. 1870. (年). 註:出生率,死亡率,自然増加率の色の薄い線は,プロイセン王国全体のそれぞれの値を示す。 出典:StJBStC 1911, S. 13-14; Köllmann (Hrsg.), Quellen zur Bevölkerungs-, Sozial- und Wirtschaftsstatistik, Bd. 1, S. 226.. 図3-2 ベルリンの出生率・死亡率と自然増加率 (人口1,000人に対する比率) (. ‰ 50.0. 出生率 死亡率 自然増加率. 40.0. 30.0. 20.0. 10.0. 0.0. -10.0 1830. 1835. 1840. 1845. 1850. 1855. 1860. 1865. 1870. (年). 註:出生率,死亡率,自然増加率の色の薄い線は,プロイセン王国全体のそれぞれの値を示す。 出典:Köllmann (Hrsg.),Quellen zur Bevölkerungs-, Sozial- und Wirtschaftsstatistik, Bd. 1, S. 190, 226..
(9) 19 世紀中葉までの近代都市ケルンの人口増加. 59. ンを大きく下回り,ベルリンを若干上回る出生率の水準が,そのまま表 2 − 1 の自然増加率の水準に反映 されていることがわかる。 それではつぎに,出生率と死亡率の期間別の変動の様子についてみてみよう。各都市の出生率と死亡率 には, それぞれ異なるリズムをもった中長期的な上下動を確認することができる。 要するに,自然増加率は, 出生率と死亡率が描く 2 つの波の「うねり」の重なり具合によって変動していたのである。まずケルンの 出生率の「うねり」について,全期間の平均値である 36.4‰をおよその基準として整理すると,以下のよ うな 3 つの時期区分をもって理解できる。最初に① 1829 ∼ 1834 年の 36‰を大きく下回る「谷間」の時 期,つぎに② 1835 ∼ 1855 年の 36‰から次第に上昇し 40‰を最高点とする「隆起」の時期,そして,③ 1856 ∼ 1871 年のおおよそ 35 ∼ 36‰を推移する「谷間」の時期である。他方で,死亡率の「うねり」に ついても平均値 27.6‰を基準として整理すると, 最初に① 1829 ∼ 1831 年の 30‰を超える「隆起」の時期, つぎに② 1832 ∼ 1840 年の 28‰を下回る「谷間」の時期,そして③ 1841 ∼ 1849 年の 28 ∼ 30‰を推移す る「隆起」の時期,さらに④ 1850 ∼ 1864 年のおおよそ 24 ∼ 26‰の間を推移する「谷間」の時期,最後 に⑤ 1865 ∼ 1871 年の 29 ∼ 30‰の「隆起」の時期とやや細かく区分ができる。 ここで気がつくのは,出生率と死亡率の「うねり」が若干のズレをともないながら同調する傾向にあっ たことである。すなわち,出生率と死亡率の「隆起」と「谷間」それぞれに比較的長期にわたる一致がみ られることである。このようなケルンで確認される出生率と死亡率の中長期的な上下動の同調は,ベルリ ンやバルメンにおいても同様に観察される。その理由として考えられるのが,当時の乳幼児死亡率の高 さである。1 歳未満の乳児についてみると,1861 年にケルンの全死亡者は 3,055 人であったが,そのうち 乳児は 891 人で全体の 27.9%までを占めた。また,この年の全出生数は 4,105 人であり,出生数 1,000 に 対する乳児死亡率は 199.5‰で,人口全体の死亡率 25.5‰の 7.8 倍にもなった。出生した子どもの 5 人に 1 人は 1 歳の誕生日をむかえることができなかったことになる 10)。要するに,中長期的に出生率の高調が 続けば,乳幼児の死亡数の増加により全体の死亡率が引き上げられたのであり,逆に出生率が低調となれ ば, 乳幼児の死亡数の減少によって死亡率は下がったのである 11)。自然増加率の中長期的変動においては, このように出生率が指導的な因子として働いたのである。 出生率と死亡率については,統計資料により 1 年ごとの短期的な変動についても知ることができる。図 3 − 1 と図 3 − 2 はケルンとベルリンそれぞれにおける出生率,死亡率,そして自然増加率の 1 年ごとの 推移を折れ線グラフとして表したものである。 両図をみて,まず共通する特徴として指摘できるのは,出生率と死亡率について,鋸の歯を描くような 細かな上下の振動がみられることである。両図ではプロイセン王国全体との比較も可能であるが,プロイ セン全体では地域的な振動が「平均化」されるため,個別の都市ほど振動が激しくなっていないことがわ かる。こうした出生率と死亡率の「急騰」や「急落」は,戦争,天災や天候不順による飢餓,疫病の流行 などを原因とする前近代の現象と考えられがちであるが,19 世紀にも完全に消滅することはなかったの であり,以下で確認するように,個別の都市の人口増加のテンポに大きな影響を与えたのである。 ここでは,図 3 − 1 のケルンのグラフに注目して出生率と死亡率を比較してみると,死亡率のほうがよ り急激で大きな幅をもって上下に変動していたことがわかる。そして,注目すべきは両者の上下動が,し ばしば逆方向の対応をもったことである。出生率の「急落」と死亡率の「急騰」,逆に出生率の「急騰」 と死亡率の「急落」との対応である。ケルンで目立つのは,1830 年,1867 年,1871 年の出生率の「急落」 と死亡率の「急騰」である。また,図 3 − 2 のグラフからは,ベルリンについても同様の対応を幾つか確 認することができる。 そして,同じような逆方向の対応は,死亡率と自然増加率についても認めることができる。ケルンでは 1830 年,1849 年,1867 年,1871 年の各年に顕著にみられるが,死亡率のすべての「急騰」に自然増加率 の「急落」が対応しているといってよい。また,上下の変動幅は,死亡率よりも自然増加率でやや大きく.
(10) 60. 棚橋 信明. 出ているが,それは上記のような死亡率の「急騰」と出生率の「急落」の一致により,自然増加率の落ち 込みが増幅されたからである。いずれにせよ,ケルンでは死亡率の変動幅が出生率に対して圧倒的に大き かったことから,短期的には死亡率が自然増加率を左右する決定的ファクターとしての意味をもったこと が,グラフで一目瞭然となっている。人口の自然増加に対して,時おり強力なブレーキをかけたのは死亡 率の「急騰」であったのである。これと同じことは,図 3 − 2 でベルリンについても認めることができる。 それでは, 出生率と死亡率の短期的変動の原因は何であったろうか。死亡率の「急騰」の原因としては, 疫病の流行があげられる。図 3 − 1 のグラフで, ケルンで死亡率の「急騰」が認められる 1830 年, 1849 年, 1867 年,1871 年には,いずれも大規模な疫病の流行が発生している。とりわけ 1849 年には死亡率が前年 の 26.1‰から 43.7‰へ跳ね上がり,出生率 42.1‰を上回ったが,その原因は 6 月∼ 11 月に猛威をふるっ たコレラの大流行にあった。2,761 人がこれに感染し, そのうち 1,274 人が死亡した。この年の死亡者数は, 前年の 2,248 人から 3,755 人に急増したが,前年からの増加分のほとんどがコレラによるもので,コレラ による犠牲者はこの年の全死亡者の 33.9%までを占めたのである。他の年でも,1830 年にはチフスの大 流行があり,1867 年にはケルンで最後のコレラの大流行に天然痘の流行が重なった。そして,1871 年に も再び天然痘の大流行が発生している 12)。 そして,上記の年に疫病による犠牲者を増幅させる作用を及ぼしたと考えられるのが,食糧価格の高騰 である。コレラが猛威をふるった 1849 年には,1847 年をピークとする食糧価格の高騰期は幸い過ぎ去っ ていたが,1867 年と 1871 年の疫病の流行は,1866 年に始まり 1875 年まで続いた食糧価格の高騰期に発 生していた 13)。19 世紀において小麦,ライ麦,ジャガイモなどの価格の高騰は,餓死者を出すほどの重 大な飢饉に至ることはもはやなかったが,とくに貧困層に栄養状態の悪化や体力の減退をもたらし,結果 として疫病のみでなく他の病気による死亡率の上昇をまねいたと考えられる。 他方で,死亡率を引き上げたのと同じ要因により,出生率の低下が引き起こされていたことも確かであ る。疫病は免疫力の弱った母体にきわめて危険であり,また食糧価格の高騰は母体に栄養不足をもたら し,どちらも死産数を増加させる作用をもったと考えられる。死産数の増加は当然,出生率の降下につな がった。この作用がケルンで最も顕著にみられたのが 1849 年であり,出産数 1,000 対する死産率がこの 年,前年の 43.0‰から 52.7‰に跳ね上がっている。そのほか,疫病の流行した年である 1830 年と 1867 年 に 50‰を上回る死産率の急上昇が確認される 14)。 また,食糧価格の高騰は人びとの妊娠・出産行動を抑制する作用をもったと考えられる。すなわち,青 年期から壮年期にあった夫婦に先行きについての経済的不安を抱かせ,子どもをつくることを躊躇させた のである。こうした先行き不安は,そもそも経済的に不安定な状態にあった結婚適齢期の若者たちの婚姻 行動をも抑制したと考えられる。婚姻率と出生率ははっきりと連動しており,婚姻率の下降は婚姻後の第 1 子の出産数の減少を意味し,およそ 1 年後に出生率の下降を引き起こすことになった 15)。 図 3 − 2 のベルリンのグラフに目を移すと,出生率と死亡率の短期的な上下の振動にはケルンとの同調 もみられ,ケルンと同じ要因が同時的に作用していたものと考えることができる。疫病の流行は鉄道網の 整備などにより短期間でプロイセン全土に広がることが多くなり,食糧価格の高騰も市場の広域化によっ て局地的なものでなく全国的なものとして発生するようになっていた。両図でプロイセン王国全体との対 比からも,この時代,出生率と死亡率の短期的な上下動は全国的に同時的に発生しており,各都市の孤立 的現象ではなかったことがわかる。 以上みたように,ケルンにおいて社会増加に対して優位にあり,また安定的にみえた自然増加の背後で は,出生率と死亡率を基本因子とする独自のメカニズムが働いており,その結果として自然増加率は中長 期的,また短期的に上下に変動することになったのである。ここで 2 つの基本因子のうち出生率は,前述 のように結婚適齢期の若者たちの婚姻行動や,また既婚女性たちの妊娠・出産行動により大きな影響を受 けていた。したがって,もう一方の社会増加に関係する若者たちの流入,それによる青年期や壮年期の人.
(11) 19 世紀中葉までの近代都市ケルンの人口増加. 61. 口の増大は婚姻率とともに出生率を押し上げる効果をもったはずである。次章では,こうした人口の社会 動態に関して,とくに 60 年代の動向を中心に検討を進めることにしたい。. 4.人口の社会動態 都市ケルンの人口の社会動態に関してまとまった公刊資料が利用できるのは,帝制期の 80 年代以降で ある。したがって,世紀中葉までを考察対象とする本稿では,断片的な資料を使って社会動態の実態に迫 るしかなく,ここではおもに 60 年代に公刊されたケルン市の行政報告書を手がかりに考察を進めること にする。 まず問題としたいのは,ケルンを出入りする移動人口の規模である。表 2 − 1 で示された期間別の社会 増加数は,実際の転入者数と転出者数の差し引きによって得られた数字ではなく,人口全体の増加数から 出生超過による自然増加数を除して得られた結果によるものである。したがって,実際にどれぐらいの転 入者と転出者があったのか,すなわち移動人口の規模はこの表では示されていない。帝国創設以前では 1859 ∼ 1861 年について, 正確な移動人口の規模をケルン市がまとめた統計資料 16)から知ることができる。 この資料によると,上記の期間に 4,146 人が定住許可を得てケルンに移住し,他方で以前の居住ゲマイ ンデの要請によって 1,018 名がケルンを退去させられた。そのほかに,居住地の登録変更をすることなく, 30,066 人が転入し,24,598 人が転出したとされる 17)。以上のことから,この期間に年平均で約 11,400 人 が転入し,約 8,500 人が転出したことになる。ケルンを出入りする移動人口の規模は年間 19,900 人に達し たのであり,これは同時期のケルンの人口の 16.5 ∼ 17.4%の規模に相当した。この期間の社会増加は年 平均で 769 人にすぎなかったが, その背後にはこれだけの規模の転出入者があったのである。人口移動は, 帝制期に本格的な都市化の時代をむかえてその規模をさらに拡大していくことになるが,それ以前の 19 世紀中葉においても,かなりの規模で人口移動が起こっていたのである 18)。 ここで注意を要するのは,転入者全体において定住許可 表4-1 ケルンの定住許可取得状況※1, 2. 取得者がわずかであった点である。上記のように,1859. 年. 許可取得者. 不許可者. ∼ 1861 年の転入者の合計は 34,212 人であったが,定住許. 1855. 277. (26). -. 可を取得したのはそのうちの 12.1%に相当する 4,146 人に. 1856. 356. (27). 33. (12). すぎなかった。こうした定住者が, 人口の社会増加の 「実質」. 1857. 712. (31). 35. (11). であったと考えられる。他方で,圧倒的大多数の転入者は,. 1858. 804. (38). 35. ( 8). 1859. 509. (28). 28. ( 9). 一時的滞在者として居住地の登録変更を行わなかったので. 1860. 568. (43). 17. ( 7). 1861. 556. (58). 26. (14). 1862. 513. (35). -. 1863. 705. (46). -. 註:※ 1 家長による許可申請についての数であり, 註 :※1 家長による許可申請についての数で 家族の数は含まれない。 あり,家族の数は含まれない。 ※ 2 表中の( )内の数値は,外国人の内数。 ※2 表中の( )内の数値は,外国人の 内数。 出典:Verwaltungs-Bericht( 以 下 VerwBer と 略 記 ) :Verwaltungs-Bericht(以下 VerwBer と略 出典1856, in: Verhandlungen der Stadtverordneten-. 記)1856, in: der StadtverordVersammlung zuVerhandlungen Köln( 以 下 VhStVerK と略記) neten-Versammlung zu 1857, Köln (以下 VhStVerK と 1856, S. 292; Ver wBer in: VhStVerK 1857, S. 略記)1856, 244; VerwBer in: VhStVerK S. 292; S. 1858, 292; VerwBer 1857, 1858, VhStVerK VerwBer in: VhStVerK 1859, S. 280; 1858, VerwBer 1857, S.1859, 244; VerwBer 1858, VhStVerK S. 1860, VhStVerK 1860, S. 436; VerwBer 1862, in: 292;in: VerwBer 1859, VhStVerK 1859, S. 280; VhStVerK 22; VerwBer 1864, in: VhStVerK VerwBer1862, 1860,S.VhStVerK 1860, S. 436; VerwBer 1864, S. VhStVerK I; Verw Ber1862, 1865,S.in: 1862, 22;VhStVerK VerwBer1865, 1864,S. 2.. VhStVerK 1864, S. I; VerBer 1865, VhStVerK 1865, S. 2.. あり,彼らは何年かのちには転出者としてケルンを去って いったと考えられる。そして,彼らのなかには定住許可の 申請を却下され,一時的滞在者にならざるを得なかった者 も含まれた。表 4 − 1 は,ケルン市の行政報告書に基づ き 1855 ∼ 1863 年について家長による滞在許可の取得状況 を整理したものである。これによると,1859 ∼ 1861 年の 3 年間に 71 名の家長が定住許可の申請を却下されている。 そのほかに,上記のように出身ゲマインデの要請によって ケルンを強制的に退去させられる者がこの間に 1,018 名も いたことも,転入者の社会的素性に関して重要な示唆を与 えてくれる。 いずれにせよ,転入者すべてについて社会的構成を明ら かにすることは困難である。ここでは取りあえず,定住許.
(12) 棚橋 信明. 62. 表4-2 ケルンの定住許可取得者の職業 1863年. 職業 a). 人数. 割合(%). 人数. 1868年. 割合(%). 人数. 1870年. 割合(%). 人数. 割合(%). 134. 19.0. 145. 21.2. 391. 32.3. 143. 20.6. 親方. 62. 8.8. 44. 6.4. 155. 12.8. 170. 24.5. 職人. 191. 27.1. 153. 22.4. 87. 7.2. 51. 7.3. 149. 21.1. 105. 15.4. 145. 12.0. 144. 20.7. 日雇労働者. b) 手工業者. 1866年. c) 商人 d). 飲食店経営者. 34. 4.8. 43. 6.3. 32. 2.6. 20. 2.9. e). 鉄道会社職員. 37. 5.2. 35. 5.1. 107. 8.9. 25. 3.6. f). 金利生活者. 18. 2.6. 16. 2.3. 74. 6.1. 39. 5.6. g). その他. 80. 11.3. 142. 20.8. 218. 18.0. 102. 14.7. 705. 100.0. 683. 100.0. 1,209. 100.0. 694. 100.0. 合計. 出典 :VerwBer 1865, in: VhStVerK, 1865, S. I; VerwBer 1867, in: VhStVerK, 1867, S. 5; VerwBer 1869, in: VhStVerk , 1869, S. 4; VerwBer 1871, in: VhStVerK, 1871, S. 7.. 表4-3 ケルンの定住許可取得者の階級別所得税の納税額※. 等級. 納税額. 年間所得額. Thlr. Sgr.. 人数. 1. 12. 100. 2. 25. 101 ~. 20. 3. 1. 1866年. 1868年. 割合(%). 人数. 1870年. 割合(%). 人数. 割合(%). 129. 37.4. 284. 36.2. 95. 19.6. 149. 72. 20.9. 181. 23.1. 129. 26.6. 150 ~. 199. 28. 8.1. 86. 11.0. 55. 11.3. 249. 33. 13.8. 4. 2. 20. 200 ~. 9.6. 73. 9.3. 67. 5. 3. 20. 250 ~. 299. 15. 4.3. 34. 4.3. 39. 8.0. 6. 5. 20. 300 ~. 399. 24. 7.0. 53. 6.8. 32. 6.6. 7. 8. 15. 400 ~. 499. 16. 4.6. 31. 4.0. 22. 4.5. 8. 12. 500 ~. 599. 9. 2.6. 9. 1.1. 7. 1.4. 9. 15. 10. 20. 600 ~. 699. 6. 1.7. 9. 1.1. 9. 1.9. 700 ~. 799. 3. 0.9. 2. 0.3. 4. 0.8. 11. 22. 800 ~. 899. 3. 0.9. 10. 1.3. 9. 1.9. 12. 25. 900 ~. 899. 1. 0.3. 1. 0.1. 1. 0.2. 13. 28. 1,000 ~ 1,099. 1. 0.3. 3. 0.4. 3. 0.6. 14. 31. 1,100 ~ 1,199. 0. 0.0. 0. 0.0. 1. 0.2. 15. 34. 1,200 ~ 1,399. 4. 1.2. 2. 0.3. 3. 0.6. 16. 40. 1,400 ~ 1,599. 1. 0.3. 0. 0.0. 2. 0.4. 17. 45. 1,600 ~ 1,799. 0. 0.0. 1. 0.1. 2. 0.4. 18. 51. 1,800 ~ 1,999. 0. 0.0. 0. 0.0. 0. 0.0. 57 ~. 2,000 ~. 19~. 20 15. 合計. 0. 0.0. 5. 0.6. 5. 1.0. 345. 100.0. 784. 100.0. 485. 100.0. 註 :※ すでに課税済みの者と,所得額の査定が 100 ターラー未満の免除者は含まれない。各年の定 住許可取得者は,1866 年 819 人,1868 年 1,209人,1870 年 694 人であった。 出典 :VerwBer 1867, in: VhStVerK, 1867, S. 5; VerwBer 1869, in: VhStVerK, 1869, S. 4; VerwBer 1871, in: VhStVerK, 1871, S. 7..
(13) 19 世紀中葉までの近代都市ケルンの人口増加. 63. 可を取得した家長に関して利用可能な資料に基づいて検討を加えておきたい。表 4 − 1 で確認できるよう に,1859 ∼ 1861 年の 3 年間に定住許可を取得したのは 1,633 人の家長であった。他方で,前述のように, この間の定住許可取得者の総数は 4,146 人であり,したがって彼らの多くは既婚者であり,平均して 2 ∼ 3 人の家族をともなって定住者になったことがわかる。一時的滞在者として転入した男女が結婚し,子ど もを儲けたのちに定住許可を取得するケースも多かったものと考えられる。また,定住許可を取得した家 長 1,633 人のうち 7.9%に相当する 129 人は国外からの転入者であり,かなり広範囲から転入者がやって 来ていたことがわかる。 こうした定住許可取得者の職業構成を 1863 ∼ 1870 年について整理したのが表 4 − 2 である。この表の 分類による職業グループでみた場合,最も数が多かったのが手労働者を主体とする日雇労働者であり,年 によって変動がみられるが,全体の 20 ∼ 30%を占めていたことがわかる。それに続くのが親方と職人を 合わせた手工業者で平均 30%ほどであった。ただし,手工業者のなかで当初は職人が数の上で優勢であっ たが,1868 年以降は独立営業者である親方が多数を占めるようになっている。いずれにせよ,定住許可 を取得した者のなかで日雇労働者と手工業の雇職人がかなりの割合を占めていたことは注目に値する。両 者を合わせた割合は次第に小さくなる傾向にあったが,1863 年に 46.1%であり,1870 年にも 27.9%であっ た。このような人びとに対する定住許可は,産業の発展のため安定的な労働力を確保する意味があったと 考えられる。 つぎに表 4 − 3 は,1866 年,1868 年,1870 年について,階級別所得税の等級分類にしたがって定住許 可取得者の年間所得額を示したものである。注意すべきは,この表には定住許可取得者のなかで,すでに 課税済みの者と所得額の査定が 100 ターラー未満の者が含まれていない点である。たとえば,1866 年に は全部で 683 名が定住許可を得ていることから, この表にはその約半数の 338 名の記載がないことになる。 こうした表に含まれない者の大部分は,100 ターラー未満の所得額で所得税を免除された者であったと考 えられる。このことは,記載される所得税納税者のうち年間所得額が 300 ターラー未満の者が,80%の大 多数を占めていることから推察される。 1861 年ごろ,成人男性の労働者と手工業の雇職人は,1 日当たり 18 ∼ 25 銀グロッシェンの賃金を得る ことができたといわれる。祝祭日を除く年間の労働日を 300 日として,年間 180 ∼ 300 ターラーを稼ぐこ とが計算上は可能であった。ただし,現実には年間 300 日をフルに働くことはできなかったはずである。 また,労働者や雇職人の平均的な賃金は 15 年ほど前に比べて 2 倍に上がっていたが,他方で食料品など の生活必需品の値段や家賃もかなり上昇しており,彼らの生活状態にはこの間それほど改善がみられな かったようである。当時のケルン市の警察長官ガイガー(Wilhelm A. Geiger)の試算によると,子ども 4 人の労働者家族の平均的な家計で,年間 410 ターラーの支出が必要とされた。すなわち,職場に恵まれた 熟練労働者が年間 300 ターラーを稼いだとしても,子どもの人数によっては家計を遣り繰りするのがかな り困難であったのである 19)。要するに,当時の年間所得額 300 ターラーは社会的下層と中間層を区切る 一つの基準と見なすことができ,これを表 4 − 3 に当てはめると,所得税の課税を免除された者も含める と定住許可取得者の恐らく 90%に近い人びとが,年間所得額が 300 ターラーに満たない下層の低所得者 であったことになる。 また当時,ケルンの市議会議員の選挙権は年間所得額が 400 ターラー以上の者に,おおよそ都市中間層 の上層以上に制限されていた。表 4 − 3 でみると,その資格が得られた者は定住許可取得者全体のわずか 6 ∼ 10%程度であったことがわかる。他方で,1861 年のケルン市議会選挙の全有権者は 5,088 人であった が,この中には家屋の所有のみによって選挙権を得た者が 1,567 人含まれたことから,年間所得額が 400 ターラー以上の成人男性は 3,521 人であったことになる。当時,ケルンで自立的な男性の就労者は 26,000 人ほどと推計されることから,年間所得額 400 ターラー以上の者はその 13.5%となる 20)。すなわち,定 住許可取得者のなかで年間所得額が 400 ターラー以上になる者の割合は,ケルン住民におけるその割合を.
(14) 棚橋 信明. 64. 表4-4 各都市とプロイセン王国の年齢別人口(1861年) ケルン 年齢区分. 男 人数. ベルリン. 女 割合(%). 人数. 男. 全体 割合(%). 人数. 人数. 割合(%). 女 割合(%). 人数. 全体 割合(%). 人数. 割合(%). 0. ~. 4. 7,439. 13.4. 7,331. 12.7. 14,770. 13.1. 34,158. 13.1. 33,872. 12.9. 68,030. 5. ~. 13. 10,319. 18.6. 9,913. 17.2. 20,232. 17.9. 42,224. 16.2. 41,289. 15.7. 83,513. 15.9. 14. ~. 29. 18,535. 33.4. 19,996. 34.7. 38,531. 34.1. 88,652. 33.9. 88,644. 33.6. 177,296. 33.8. 30. ~. 49. 12,620. 22.7. 12,821. 22.3. 25,441. 22.5. 71,197. 27.2. 67,832. 25.7. 139,029. 26.5. 50. 13.0. ~. 6,623. 11.9. 7,484. 13.0. 14,107. 12.5. 25,154. 9.6. 31,923. 12.1. 57,077. 10.9. 合計. 55,536. 100.0. 57,545. 100.0. 113,081. 100.0. 261,385. 100.0. 263,560. 100.0. 524,945. 100.0. エッセン 年齢区分. 男 人数. プロイセン王国. 女 割合(%). 人数. 男. 全体 割合(%). 人数. 人数. 割合(%). 女 割合(%). 人数. 全体 割合(%). 人数. 割合(%). 0. ~. 4. 1,933. 16.9. 1,952. 20.9. 3,885. 18.7. 1,387,296. 15.5. 1,371,886. 14.8. 2,759,182. 15.1. 5. ~. 13. 1,817. 15.9. 1,629. 17.4. 3,446. 16.6. 1,800,799. 20.1. 1,771,091. 19.2. 3,571,890. 19.6. 14. ~. 29. 4,003. 35.0. 2,839. 30.4. 6,842. 32.9. 2,439,529. 27.2. 2,696,674. 29.2. 5,136,203. 28.2. 30. ~. 49. 2,842. 24.9. 2,073. 22.2. 4,915. 23.7. 2,188,351. 24.4. 2,178,274. 23.6. 4,366,625. 24.0. 50. ~. 832. 7.3. 846. 9.1. 1,678. 8.1. 1,161,371. 12.9. 1,227,442. 13.3. 2,388,813. 13.1. 11,427. 100.0. 9,339. 100.0. 20,766. 100.0. 8,977,346. 100.0. 9,245,367. 100.0 18,222,713. 100.0. 合計. 出典 :Statistische Dartstellung des Stadtkreises Köln, für das Jahre 1859, 1860 und 1861, Köln 1864, S. 4; Preußische Statistik, Bd. 5, 1864, S. 2, 146-147.. 表4-5 ケルンにおける婚姻者の出身地別割合※ (単位:%) 出生地. 1835年 男. 1845年 女. 男. 女. ケルン市内. 51. 54. 44. 59. ケルン県内のケルン市外の地域. 17. 26. 20. 17. ライン州内の他の県. 15. 14. 19. 16. プロイセン王国内の他の州及び外国. 17. 6. 16. 7. 註 :※ 男女それぞれの婚姻者数における百分率。 出典 :Piere Ayçoberry, Köln zwischen Napoleon und Bismarck: Das Wachstum einer rheinischen Stadt, Köln 1996, S. 24, 167. はっきり下回ったのである。もちろん,表 4 − 3 により,かなりの高額所得者も定住許可を取得してケル ンへ移住してきていることがわかる。1868 年と 1870 年の定住許可取得者には, 年間所得額が 2,000 ターラー 以上の者が 5 人ずつ含まれている。また,市の行政報告書には移住者によってケルンに持ち込まれた資産 総額が記載されることもあった。転出者と転入者による資産の持ち出しと持ち込みは,ケルン市の行政当 局にとっても大きな関心事であったからである。たとえば,1859 ∼ 1861 年の 3 年間に 121 名の転入者に 市議会選挙権が付与されたが,彼らの資産総額は 172,500 ターラーであったとされる。すなわち,1 人当 たり 1,426 ターラーの資産をもって転入してきたことになる 21)。 いずれにせよ,19 世紀半ばに,定住許可を取得したケルンの転入者は,都市の中・上層の人びとより も下層の労働者や雇職人を大きく増加させたといえる。さらに,ケルンには定住許可取得者の 7 倍を上回 る, 膨大な数の一時的滞在者の転入があった。こうした人びとの職業構成を正確に知ることはできないが, そのほとんどが未婚の青年たちであり,男性では日雇の工場労働者や建築業の職人が,女性では紡績工場 の女工や家事奉公人が大多数を占めたと考えられる。1861 年にケルンの労働者と雇職人の数は男女合わ せて 13,500 人ほどであり,金利生活者などを含む自立的就労人口 49,000 人のおよそ 28%に相当した 22)。.
(15) 19 世紀中葉までの近代都市ケルンの人口増加. 65. こうした労働力と市民の家庭における家事奉公人を必要に応じて補充したのが,取り分け一時的滞在者と してやってくる転入者たちであったのである。 転入者の年齢や性別を直接的に知ることはできないが,1861 年の住民の年齢別・性別人口の構成によ り推察することが可能である。表 4 − 4 は,この年の各都市とプロイセン王国全体の人口の年齢別・性別 構成をまとめたものである。まず年齢別構成をみると,都市では 14 ∼ 29 歳の年齢層がかなり膨らんでい ることがわかる。プロイセン王国全体ではこの年齢層の割合は, 男女の全体で 28.2%であったのに対して, ケルン,ベルリン,エッセンではそれぞれで 34.1%,33.8%,32.9%であった。このことは,この年齢層の, すなわち青年期にあった若者たちの転入が多かったことを意味している。また,ケルンではこの年齢層の 割合が大きく突出する分だけ,それに続く 30 ∼ 49 歳の人口割合が小さくなっているが,ベルリンでは後 者の年齢層の人口割合もプロイセン王国全体と比べてはっきり高くなっていることがわかる。これは,表 2 − 1 に示されるように,40 年代にベルリンの社会増加が好調であったことから,この時期に盛んに転入 してきた若者たちが 1861 年には定住しつつあったことを示すものと考えられる。それに対してケルンで は,40 ∼ 50 年代の社会増加はそれほど大きくなく,したがって 1861 年の青年層の割合の突出は,直前 の 50 年代後半の転入者,とくに一時的滞在者によるものであったと考えられる。 つぎに,表 4 − 4 で男女別の人口構成についてみると,都市によって性別の人口構成に時おり不均衡が みられることがわかる。エッセンでは 14 ∼ 29 歳の年齢層で,男性が 35.0%に対して女性は 30.4%と顕著 な相違がみられ,人数においても男性は女性の 1.4 倍にもなっている。つづく 30 ∼ 49 歳の年齢層でも男 性の優位ははっきりしている。これは,エッセンにおける重工業の発展が,肉体労働者としての青年男性 を引きつけた結果と考えられる。それに対して,ケルンでは 14 ∼ 29 歳における女性の優位が特徴として 指摘される。1861 年以前についてケルンでは,女性の転入者のほうが多かったのである。その後 60 年代 後半にはケルンでも,この年齢層で男性人口の優位が確認できる 23)。産業の発展状況に応じて,すなわ ち必要とする労働力の種類に応じて,転入する男女の割合も変化したのである。 それでは,こうした転入者はどこからやって来たのであろうか。転入者の出身地域を正確に把握するこ とは,帝国創設以前についてはかなり困難である。表 4 − 5 は戸籍の抽出調査を行った P・エソベリーに より作成された表を転載したもので,1835 年と 1845 年にケルンで結婚した男女の出身地別の割合を示し ている 24)。この表でまず目につくのは,1835 ∼ 1845 年の間に,ケルン市内を出生地とする男性の割合が 顕著に後退していることである。他方で,ケルン県内及びライン州内からの転入者の割合が大きくなって いることがわかる。それに対して,女性については逆に市内を出生地とする者の割合がやや増加し,ケル ン県内の他地域の出身者が大きく後退していることが目立つ。この間に,結婚適齢期の女性の転入者はそ れほど多くなかったことが推察される。また,この表からケルンでは,転入者の出身地が比較的近隣の地 域に集中しており,そして,男女で比較した場合,男性のほうがより遠隔地から転入してきていることが わかる。 また,住民の出生地別人口に関する統計資料が帝制期になって利用可能であり,こうした資料により, 時代はやや下ることになるが,各都市の転入者の出身地を間接的に知ることができる。これにより帝制期 までにベルリンやエッセンがプロイセン王国内のかなり広域から転入者を集めたのに対して,ケルンがラ イン州内の近隣地域から転入者を重点的に集める傾向にあったことが明らかになる。たとえば,1885 年 の統計資料によると,ベルリンで市外出身者の 66.8%がブランデンブルク州外の出身であったのに対して, ケルンでライン州外の出身者は市外出身者全体の 31.3%にすぎなかった 25)。 ここで最後に,人びとの転出入の要因について簡単にまとめておきたい。まず 1829 ∼ 1831 年の社会増 加が大きかった時期については,飢饉の発生により近隣地域の困窮した人びとが,就労の機会と公的及び 私的な救貧扶助を期待してケルンに大量に流入した。そして,1830 年代後半以降の社会増加が好調であっ た時期については,ケルンにおける経済的な発展が,具体的には鉄道建設,建築ブーム,そして工場の設.
(16) 棚橋 信明. 66. 立にともなう就労機会の増大が近隣地域から多くの人びとを引き寄せた。ところが,40 年代後半の食糧 価格の高騰とそれに続く政情不安は,人びとをケルンから遠ざけることになり,社会増加の後退を引き起 こした 26)。さらに,60 年代については,前述のように市壁内の人口の過密化による住宅不足や家賃の高 騰が,転入者の激減の原因となった。このように人口の転出入については,近隣地域の住民をケルンへと 駆り立てる要因,ケルンが彼らを引き寄せる要因,逆に人びとをケルンにから遠ざける要因など,多様な 要因がケルンと近隣地域の双方向から同時的に作用したのである。. 5.軍事人口 前述のようにケルンは,プロイセン王国に編入後,フランスに対するライン地域の重要な防衛拠点とし て要塞化が進められ,大規模な軍隊の駐屯地となった。表 5 − 1 は,ケルンに在住する現役軍人と,それ に軍人の家族等を加えた軍事人口(Militärbevölkerung)を全人口と対比して示したものである。 プロイセン王国に編入された直後の 1816 年,ケルンに駐屯した軍隊の規模は,現役軍人数で 2,786 人 であった 27)。表 5 − 1 により,その後,駐屯軍の規模は増減を繰り返しながら次第に拡大していった様 子がわかる。帝国創設以前については,1861 年に 6,707 人の最大規模の現役軍人を数え,軍事人口も最大 の 7,485 人に達した。表 5 − 2 は,1846 年と 1860 年について,現役軍人の内訳と軍人家族に含まれる者 の数を示したものである。この表から,現役軍人のなかで圧倒的大多数を占めたのは未婚の下士官や兵卒 たちであり, 家族をともなったのは将校と軍務官のなかの一部の既婚者であったと考えられる。それでも, 表 5 − 1 と 合 わ せ て, 現 役 軍 人 数 の 10 ∼. 表5-1 ケルンの人口増加と軍事人口※. 30%の人数の軍人家族が軍事人口に加わった 年. 全人口. 現役軍人. 軍事人口. 軍事人口 の割合 (%). ことがわかる。 そして,表 5 − 1 では,ケルンの軍事人口. 1828. 61,059. 2,828. 3,794. 6.2. 1831. 65,953. 5,049. 6,074. 9.2. 1834. 67,302. 3,964. 4,748. 7.1. 1837. 72,237. 4,601. 5,499. 7.6. 1840. 75,858. 3,913. 4,859. 6.4. 年の 9.2%が最高値であったことがわかる。. 1843. 83,418. 3,959. 4,905. 5.9. そこで表 5 − 3 は,他都市との比較のため. 1846. 90,246. 3,840. 4,804. 5.3. 1843 年,1855 年,1861 年について,ライン. 1849. 94,789. 5,650. 6,433. 6.8. 1852. 101,091. 3,647. 州の主要都市とベルリンの軍事人口を示した. 1855. 106,852. 5,474. 6,384. 6.0. 1858. 114,477. 4,941. 5,735. 5.0. 1861. 120,568. 6,707. 7,485. 6.2. ルンのおよそ 3 倍の規模であったことがわか. 1864. 122,162. 4,580. 6,160. 5.0. る。ところが,全人口に占めるその割合は. 1867. 125,172. 5,930. 6,637. 5.3. 4.1%であり,ケルンを下回った。. 1871. 129,233. 5,240. -. -. -. -. 註:※ 軍事人口には,現役人とその家族及び家事奉公人等が含ま 註 :※ 軍事人口には,現役軍人とその家族及び家事奉公人等 れる。 が含まれる。 (1815-1875),, 出典:P. Aycoberry,Histoire Histoiresociale socialededelala ville ville de de Cologne Cologne (1815-1875) 出典 :P.Aycoberry, T.T.II, Paris, 1977, p. 5; Karl Zimmermann, Die Bevölkerung II, Paris, 1977, p. 5; Karl Zimmermann, Die Bevölkerung derder Stadt Köln in inhygienischer hygienischerBeziehung: Beziehung: Festschrift Stadt Cöln, Cöln, in: in: Köln Festschrift fürfür diedie Teilnehmer an der XXIII. Versammlung des Deutschen Vereins Teilnehmer an der XXIII. Versammlung des Deutschen Vereins fürfür öffentliche öffentlicheGesundheitspflege Gesundheitspflegezur zurFeier Feierdes desXXV XXVjährigen jährigenBestehens Bestehensdes Vereins, hrsg. von Eduard Lent, Köln 1898, S. 18. そのほか各年の des Vereins , hrsg. von Eduard Lent, Köln 1898, S. 18. そのほか各 Adreßbuchder Stadt Stadt Köln(以下 ABStK と略記)に掲載される文民 年のAdreßbuchder Köln (以下ABStK と略記)に掲載され 人口及び軍事人口を参照して作成した。 る文民人口及び軍事人口を参照して作成した。. が 最大となった 1861 年にその全人口に占め る割合は 6.2%であったが,この軍事人口の 割合はとくに 30 年代に高い値を示し,1831. ものである。この表でみると,1861 年にベ ルリンの軍事人口は 22,626 人にも達し,ケ. 他方で,ライン州で最大の要塞都市コー ブ レ ン ツ で は 軍 事 人 口 の 割 合 が 1861 年 に 20.4%にもなり,ライン河対岸の要塞都市ド イツでは 1843 年に 34.3%と際立って高かっ たことがわかる。こうしたライン州の要塞都 市と比較してケルンの軍事人口の割合はかな り小さかったといえるが,商工業の発展した 伝統的大都市のなかでケルンは,軍事人口の.
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