新旧論争におけるフォントネルと
シャルル・ペロー『古代人近代人比較論』
中 島 潤
Fontenelle et « Parallèle » de Charles Perrault
Jun N
AKAJIMAシャルル・ペローCharles Perrault (1628‒1703)が、1687年に始まる新旧論争において、ギリ シャ・ローマという古代に対する近代、とりわけフランスの優越性の証明として、様々な論拠 を「対話」という形式を使用し書き上げた『古代人近代人比較論』Parallèle des Anciens et des
Modernes(以下、『比較論』)は、1688年から1697年の十年間にわたり全四巻が出版された。 全巻で千四百ページにも及ぶ膨大な著作であり、文芸だけに留まらず、彼自身がコルベールの もとで王用建築物監督官としてフランス国内の設計・施工を監督する立場となった建築という 分野をはじめ、造形芸術一般から天文学や医学などの自然科学、地理学、航海術、兵法、哲学、 音楽に至るまでさまざまなジャンルにおいてフランスの優越を論証するという壮大な構想を持 つ著作である。本論において、『比較論』において完成するといっていい、近代派=ペローの 思想において、十七世紀と十八世紀の架け橋たる思想家フォントネル Bernard Fontenelle(1657‒ 1757)がどのような関与を示したかの一端を論じたいと思う。 ※ そもそも、新旧論争の端緒となった『ルイ大王の世紀』(1687)への反応として特筆すべき ものは、近代派にあったと思われる。中でも、『比較論』に先だって発表されたフォントネル の『古代人近代人についての枝葉の議論』Digression sur les anciens et les modernes(1688)は注 目に値する。近代が古代に対して優越しているという命題を、動植物学などの知識を用い証明 しようとした試みはペローを大いに勇気づけたようである。『天才』Le Génie という書簡体詩 をフォントネルに献じたことはこれを裏付ける。『天才』はもともと、1688年7月12日、ラ・シャ ペルのアカデミー入会式のおりに朗読されたものである。のちに、『比較論』「第一巻」の巻末 に付されることとなるが、ボンヌフォンをはじめさまざまな批評家によってペローの最高傑作 の一つとして捉えられているものである。 コルネイユの甥であるとともに、科学知識の普及につとめ、十七世紀後半及び十八世紀前半 のちょうど百年を生き、ペローとボワローによる第一次新旧論争と共に、第二次新旧論争にも
関与したフォントネルは、自らの叔父と同様に劇作家で地位を得ようと志したが、詩人として の才能は薄かった。演劇への情熱を生涯持ち続けたというが、文学史における彼の本領はむし ろ科学知識の大衆化に尽力したことであろう。不本意ながらも最初に文学的な名声を得たのは 『新死者との対話』Nouveaux dialogues des morts(1683)であり、ここで人間精神を曇らせる「偏
見」を告発した。
1686年に出版された『世界の複数性についての対話』Entretiens sur la pluralité des mondes は、 コペルニクスの天文学を社交界の夫人に理解できるようサン・テヴルモン風の軽快な文体に よって解説したものであった。1674年に初めてパリに出て以来、サロンに出入りし、女性た ちに科学や思想の問題を、対話風の簡便な文体で呈示したという意味において、十八世紀の啓 蒙思想家の先駆けであるという評価も成り立つ。社交界においてベストセラーになった本作は、 あくまでもルネサンスの文人には備わっていたギリシャ・ローマの教養を持たない女性向けに 書かれたものであった。フュマロリは、「フォントネルの読者は、モンテーニュの知恵の科学 的背景に存在したプラトンやアリストテレス、プトレマイオスの宇宙論を知らなかった」(1)と、 これらサロンの女性達を評し、ルネサンス的な教養の枠組みが十七世紀末に至って変質をはじ めていたことを指摘している。
1686年の『神話の起源』および翌年の『神託の歴史』Histoire des oracles は、古代人の残し たこれらの物事が妄想に基づくものであると主張することにより、キリスト教をも同様のもの として非難しようとする姿勢を見せており、十七世紀的なリヴェルタンから十八世紀的な啓蒙 思想へ至る上で過渡的な態度であると考えることが出来よう。『神託の起源』における「金の歯」 の挿話は、フォントネルの批判精神を表したものとして有名である。十六世紀ドイツにおいて、 ある子供の歯が金の歯に生え替わった。これを診た学者連中が神から与えられた奇跡であると 主張し、様々な著作が現れた。金銀細工師が見てみると巧妙に金箔が張られたものであったと いう挿話であるが、フォントネルはこれを、「存在しないがその理由がわかるものよりも、存 在するがその理由がわからないものによってわれわれの無知が確信されるということはない。 つまりこれは、真実に導く原理を持たないばかりか、いとも容易く誤謬に順応してしまうとい う性格を持っていることを意味している」(2)と批判し、人間が誤謬に陥りやすいこと、これを 防ぐにはデカルト的な方法を使用しなければならないことの一例として引用している。 いずれにしても、1687年に新旧論争が起こるや、フォントネルは近代派に組み込まれるこ とになった。翌年に『古代人近代人についての枝葉の議論』Digression sur les Anciens et les
Modernes を発表、ペローのものと一見よく似た思想を表明するものの、フォントネル自身の
独自性を保ち得た。新旧論争の最中の1691年、四度落選した末にアカデミー・フランセーズ 会員に選ばれ、97年には科学アカデミー会員となると共にその翌々年には同会の終身書記と なる。科学知識の普及に努め両世紀の橋渡しをしたと評価すべきフォントネルであるが、実際 に科学研究を行ったわけではなかった。十八世紀に入ってからの著作、『科学アカデミー史』
Histoire de l’Académie royale des sciences(1702, 1733) や『 ア カ デ ミ ー 会 員 頌 』Éloges des Académiciens(1708, 1719)のように様々な科学および科学者に通暁することによってその新
知識を、彼が生涯通い続けたサロンを通して伝搬することにより、その一般化に貢献したとい う評価が妥当であろう。 フォントネルの『古代人近代人についての枝葉の議論』は小品ながら注目に値すべき作品で ある。近代が古代に対して優越しているという主張においてペローとフォントネルのあいだに は多くの差異があるわけではないが、近代派にはそれなりの賛同者が存在していたのは事実で あるにもかかわらず、『ルイ大王の世紀』以降ペローと同様に近代派の優越性をはっきりと主 張したまとまった著作を書いたのは、おそらくフォントネルただ一人であるからだ。フォント ネルの主張は、得意分野であった科学知識を駆使し世の中の盲信を解こうとしている。 古代人と近代人の間における優越性の問題は一方できわめて広範であるが、かつて野山 にあった木々が今日の物よりも大きいのかどうかを知るということに帰結する。それが大 きいのであれば、ホメロスやプラトン、デモステネスは近年において匹敵されるというこ とはない。しかし、かつてと同じくらいわれわれの木々が大きいのであれば、われわれは ホメロスやプラトンやデモステネスに匹敵することができる。(3) 植物の成長と人間の歴史の対比は、『ルイ大王の世紀』においてペローがすでに行っている ことであるが、古代人が近代人よりもより才能があるのであれば古代人の頭脳がより強固で繊 細な繊維で作られ、動物精気に満たされており、木々もより大きく美しかったであろうという のである。ところが、フォントネルはそのような事実は認められないという。古代賞賛者は、 古代人が良趣味や理性の源泉であり、これらを生み出すために自然は枯渇してしまったという が、自然学に依ってみればこのような論理は認めることができないという。 自然は常に同一な生地のようなものを手中にしており、様々な方法でこれを絶えずこね くり回して、人間や動物や植物を生み出すのである。もちろん、今日の哲学者や演説者、 詩人よりもより繊細な粘土で、プラトンやデモステネスやホメロスをよりよく作ったので はない。物質的な性質を持たないわれわれの精神の中には、それが脳との間に持っている 物質的連関しか見いだせないし、それがさまざまな配置によってその間にあるあらゆる差 異を作り出すのである。(4) 木々の大きさが時代によって同一であるとしても、国や地域すなわちその気候によってこれ が変化するということはあり得る。フランスの土地はエジプト人の行った推論には適していな いだろうし、オレンジの木はイタリアほどよく育つということはあるまい。この変化は人間の 頭脳にまで拡大できるものである。しかし、技術や文化は、土地とは異なり簡単に移植するこ とができる、とフォントネルはいう。このように人間を物体=延長としてとらえることは、『ル イ大王の世紀』において「だから、当時の生まれつつある樫の若木は/老成した樫の木と比較 することができない/広大な日陰を地上に投げかけ/枝枝は空と隣り合っているのであるか
ら」(5)と歌われるようにペローにも共通の考えであった。ギリシャ語の本を読むことは、ギリ シャ人と結婚するのと同じ効果をもたらすとフォントネルはいう。隣り合うほど近い国家の差 異は、書物が交流することによって容易く消え去るが、これらが離れすぎてしまうとこれは不 可能である。印刷術の発明による知識の蓄積・伝搬が近代の繁栄の一因であるという考えは、 『比較論』の「第一巻」に引き継がれる。私見であると断りながらも、熱帯や寒帯は科学には 適しておらず、実際にエジプトやマウレタニア、スウェーデンでこれらが生まれた例がないと まで断言する。このように理論付けをして、次のような結論をフォントネルは導き出す。 時代は人間の間にいかなる自然的な差異をもたらさないが、ギリシャの気候やイタリア の気候、フランスの気候はあまりに似通っているので、ギリシャ人やローマ人やわれわれ に感じうる差異をもたらすことができない。何らかの差異があったにしても、それは簡単 に消し去られてしまう。近代人も古代人も、ギリシャ人もローマ人もフランス人もつまり はまったく完璧に等しいのである。(6) ほかの芸術に比べて、雄弁や詩歌はある一定数のごく限られた「見解」vue だけが必要であり、 主に想像力の活発さに依存している。ところが、人間はわずかの時代ではごく少数の見解しか 集めることができない。想像力の活発さは長い経験の連続を必要とせず、それがなしえる完成 を得るために多くの法則をも必要としない。しかし、自然学や医学、数学は無限の「見解」で 構成されており、推論の正確さに依存し、常に完成されている。フォントネルは、近代が古代 に優越していると認めるものの、ペローのように科学技術の蓄積による進歩を、雄弁や詩歌に 適用することには若干の躊躇いを見せる。学問を「著者たちの書いたことを知ること以外に目 的をもたない」学問と「理性のみ」が司る学問に分け、前者を歴史、地理、法律、外国語や特 に神学、後者を幾何学、算術、音楽、自然学、医学、建築学などに振り分けた、『真空論序言』
Préface pour un traité du vide(1651)におけるパスカルの思想に近似している。
ここで、ペローと同様に、フォントネルは「推論の正確さ」の根拠としてデカルトの存在を 挙げる。 デカルト氏の前は、もっと安易に推論をしていた。過去の時代はこの人がいなくてきわ めて幸せであった。思うに、彼が教えてくれた法則によれば、その大部分は誤りでありき わめて不正確な彼の哲学自体よりも評価すべき推論する方法を取り入れたのが彼なのであ る。ついに、彼はわれわれの自然学や形而上学の良書を支配しただけでなく、宗教や倫理、 批評など正確性が今まで知られていなかった書物においても同様になった。(7) フォントネルはデカルト主義者であったことは間違いないが、神の存在証明や「コギト」に 関しては顧みなかった(8)。しかし、彼が『方法序説』などでうち立てた「方法」に関しては高 く評価する。デカルトによる神の存在証明や自動機械の思想について、ペローは「第四巻」で
批判しながらも、その「方法」についてはフォントネルと同様に「第三は、古代人にはほとん ど知られていなかった方法の使用であります。これは今日話したり書いたりする人には、ごく 親しまれているもので、申し上げましたとおり、教え喜ばせ説得するという雄弁の主要な三目 的に至るために有益なものであります」(9)と「第二巻」の末尾において、近代の進歩の根拠と している。 雄弁や詩歌について古代派と近代派の主要な争点となっているが、それ自体はそれほど 重要でないにしても古代人は完成点に到達したと思われる。すでに述べたように、少しの 期間でここに到達することができるのであり、正確にはこれにどれほどかかるかはわから ないのである。(10) ペローにとって『比較論』執筆の目的は、主に「雄弁」と「詩歌」の優越性を証明するため であった。当初の構想に依れば、「第一巻」に進歩の根拠および造形芸術、「第二巻」に科学技 術が論じられたのち雄弁と詩歌の進歩を証明する予定であった。しかしフォントネルは、新旧 論争において文芸の論争をそれほど重要視しない。雄弁についてのデモステネスやキケロが完 成点に達したと認め、詩に関してはウェルギリウスが世界で最も美しいと述べる。また、「わ たし個人の趣味によれば、キケロはデモステネスに勝り、ウェルギリウスはテオクリトスやホ メロスに、ホラチウスはピンダロスに、ティトゥス・リウィウスとタキトゥスはギリシャ人の 歴史家すべてに勝ると思われる」(11)とローマの優越を認めている。ギリシャがローマに劣るの は、時間という進歩の要素から論じられたものでこの思想はペローにも共通している。フォン トネルがいうのは、十七世紀で言えば自由思想家、十八世紀で言えば啓蒙主義者が求めたよう な、批判精神の重要さである。「方法」に従い是々非々で「偏見」なく検討・評価すべきと言 う主張はペローのものと同様であるが、ホメロスよりもシャプランが優越し、ラファエロより もル=ブランが卓越しているというように結論ありきでほとんど全ての分野において近代が優 越すると主張したペローの導いた答えとは大きく異なると言わねばならない。 わたしの意図は批評の細かい詳細にそれほど立ち入ろうとするものではない。彼らが到 達したかどうかを検討すると、ある種のものについて古代人が最終的な完成に到達するこ とができたり、できなかったりしたのであるから、偉大な名前については惜しまずに尊敬 するべきであるし、彼らの過ちについては容赦せずに、近代人のように扱うべきであるこ とがおわかりいただきたいのである。ホメロスやピンダロスの中に無礼なものがあること を容赦なく言うことができ、言われることが可能でなければならない。デモステネスやキ ケロがフランス人の名前を持つものに比較されることを容認しなければならない。(12) フォントネルはこのような自由検討への障害として、ペローが「第一巻」で検討するように 「偏見」の問題であるとする。
彼らに有利なこの偏見には根拠があるであろう。近代人に与するものの根拠とは逆に何 であろう? それがギリシャ語やラテン語であるから、彼らの名前がわれわれには心地よ く聞こえる。その時代の第一級の人であったという評判、これらは彼らの時代にしか真実 ではない。彼ら賞賛者の数が膨大に上ること、これは長い年月の間に大きくなると言う余 裕があったからである。これら考慮すると、近代人に偏見を持っているというほうがまだ よいであろう。偏見のために理性を放棄することに満足せずに、その人々はしばしばもっ とも理にかなわないものを選択しようとするのである。(13) ここで、フォントネルは次のように提案する。 古代人が何らかにおいて完成点に達したと言うことが見いだされても、それを超すこと ができないと言うことで満足しよう。しかし、彼らは同等になることができないと言うの はやめよう。彼らの賞賛者に対してきわめてなれなれしい言い方である。どうしてわれわ れは彼らに匹敵することがないのだろうか? 人間の資質として、われわれはこれを主張 する権利がある。(14) フォントネルにとっては、近代人の優越や天動説に纏わる迷信などを自由に検討する「権利」 が重要であった。老境に差し掛かったペローが『ルイ大王の世紀』でボワローに対して起死回 生を企図したような、進歩の「事実」が重要ではなかったのである。フォントネルはこのよう な、進歩に纏わる主張を展開した上で、近代人の文芸のいくつかについては明白に古代人の同 種のものを凌駕していることを主張する。 わたしはこの予言をもう少し進めることさえできる。ある時代にはローマ人が近代人で あったし、そのときには古代人であったギリシャ人に持たれている頑固さを彼らは嘆いて いた。それぞれにある時代の違いが、われわれから大いに隔たっていることによって消滅 している。われわれにとっては、彼らはすべて古代人であり、普通にギリシャ人よりもロー マ人を好むことを渋るということはしない。古代人と古代人の間には、片方が片方に勝る ということに不当さはないからである。しかし、古代人と近代人の間であると、近代人が 勝ってしまうということは大きな混乱になるであろう。我慢をするしかなく、長い世紀を 経てから、われわれはギリシャ人やローマ人の同時代人になるのである。多くのことではっ きりと彼らよりもわれわれが好まれるというが躊躇われないことを予想するのは簡単であ る。ソフォクレスやエウリピデス、アリストファネスの最良の作品も、『シンナ』や『オラー ス』、『アリアーヌ』や『人間嫌い』やよき時代のその他大勢の悲劇や喜劇に太刀打ちでき ないであろう。だから、正直に同意すべきであるし、このよき時代が過ぎてから数年が経っ ているのである。『テオゲネイアとカリクレイア』や『レウキッペとクレイトポン』が、『シ リュス』や『アストレ』、『ザイード』や『クレーヴの奥方』に比較されようとは思わない。
新しいジャンルさえあるのであり、これらは優れた作家を生み出しており、古代人にはこ れに対抗するものを持たないし、後代もおそらく追い抜くことはないであろう。雅な書簡 や、コント、オペラなどそれぞれに素晴らしい作者がでている新しいジャンルさえあり、 古代はこれに対抗することができないし、明らかに後代も追い抜くことはできないであろ う。(15) 『シンナ』、『オラース』などコルネイユの作品や、トマ・コルネイユによる『アリアーヌ』 は古代人の悲劇よりも優れたものであり、『シリュス』や『アストレ』は古代人の物語よりも 優れている。フォントネルが出した結論自体は、ペローが『比較論』で論じたのと近いもので あったからこそ、後代の進歩については根本的に立場が異なるものの、ペローは力強く感じ『天 才』を送ったのであろう。是々非々で検討する姿勢ながらも、近縁者コルネイユの作品を挙げ ているのはともかく、トマ・コルネイユの作品を挙げていること、『比較論』や『ルイ大王の 世紀』でペローがラシーヌについて一言も言及しなかったように、古代派作家への意図的な沈 黙が感じられる。 いずれにしても、『古代人近代人についての枝葉の議論』は、『比較論』に先立つ近代派の考 察でありペローがのちに主張する論点の多くが見いだされる。フォントネルが古代人への偏見 を暴き出し近代人に正当な評価を求めていることはペローと同じ考えであるが、フォントネル はさらに未来の進歩をも前提としていることを指摘しなければならない。 しかし、われわれもいつかは古代人になるのである。とりわけ、例外的な科学でありもっ とも困難でもっとも開発されていない推論する方法について、われわれの子孫がわれわれ を訂正し追い越すというのは当然のことではなかろうか。(16) 『比較論』(とりわけ進歩の根拠を扱った「第一巻」「第一対話」)において、ペローは信仰と 王権の名の下に「ルイ大王の世紀」を頂点として考え後代の進歩を認めることがなかった。フォ ントネルが十八世紀啓蒙思想の先駆者とされるのに対して、ペローの保守性をここに見いだす ことができる。 わたくしはある種完成の極みにたどり着いたわが世紀を見て喜んでおります。昼間が夏 至や冬至にいたって長くならないように、数年来、その進歩はより遅くなっていて、感じ 取れないもののようです。わたくしは、おそらくわれらの後代の人を羨むことがそれほど 多くないと考え喜んでいます。(17) ※ ペローが「ルイ大王の世紀」を進歩の頂点と考えその後の衰退を予言したことには、第一に
ヴェルサイユの歓心を買おうとする政治的意図があったと思われる。『比較論』を通じて科学 技術・学芸の進歩を根拠に近代フランスの優越を論じてきたペローであったが、とりわけ「信 仰」は優越性の根拠となるものの、自由思想家のように直接の検討課題とすることはしてこな かった。この意味で、フォントネルを先駆者とする十八世紀的な自由検討を重視する啓蒙思想 家とは異なり、保守的な思想を持っていたことが分かるだろう。「第一巻」において、進歩し ないものとして「信仰=キリスト教」と「法令=王政」を挙げたように、「時間の要素」に例 外を設けてしまった点は、後代の論者、たとえば本論で取り上げたフォントネルなどと最も相 違する所であった。ロックに起源を持つ帰納的合理主義は、「ひとつの信仰、ひとつの法、ひ とりの王」を頑なに守ろうとしたルイ十四世やペローと異なり、現実の多様性をあるがままに 認識しようとする十八世紀の思想家にとって例外を設けさせることはなかった。 注
⑴ La querelle des anciens et des modernes, précédé d’un essai de Marc FUMAROLI, Gallimard (Folio classique), 2001, p. 18.
⑵ « Je ne suis pas si convaincu de notre ignorance par les choses qui sont, et dont la raison nous est inconnue, que par celles qui ne sont point, et dont nous trouvons la raison. Cela veut dire que non seulement nous n’avons pas les principes qui mènent au vrai, mais que nous en avons d’autres qui s’accommodent très bien avec le faux. » (Œuvres de Fontenelle, Didier, 1852, p. 162.).
⑶ « Toute la question de la prééminence entre les anciens et les modernes étant une fois bien entendue, se réduit à savoir si les arbres qui étaient autrefois dans nos campagnes étaient plus grands que ceux d’aujourd’hui. En cas qu’ils l’aient été, Homère, Platon, Démosthène, ne peuvent être égalés dans ces derniers siècles, mais si nos arbres sont aussi grands que ceux d’autrefois, nous pouvons égaler Homère, Platon et Démosthène. » (Fontenelle, Œuvres complètes, tome 2, Fayard, 1989, p. 413.).
⑷ « La nature a entre les mains une certaine pâte qui est toujours la même, qu’elle tourne et retourne sans cesse en mille façons et dont elle forme les hommes, les animaux, les plantes; et certainement elle n’a point formé Platon, Démosthène ni Homère d’une argile plus fine ni mieux préparée que nos philosophes, nos orateurs et nos poètes d’aujourd’hui. Je ne regarde ici dans nos esprits qui ne sont pas d’une nature matérielle, que la liaison qu’ils ont avec le cerveau qui est matériel, et qui par ses différentes dispositions produit toutes les différences qui sont entre eux. » (Ibid., p. 414.).
⑸ « Ainsi le jeune chêne en son âge naissant, / Ne peut se comparer au chêne vieillissant, / Qui, jetant sur la terre un spacieux ombrage, / Avoisine le ciel de son vaste branchage. » (Siècle de Louis le Grand, vers 431‒434.).
⑹ « Les siècles ne mettent aucune différence naturelle entre les hommes. Le climat de la Grèce ou de l’Italie et celui de la France sont trop voisins pour mettre quelque différence sensible entre les Grecs ou les Latins et nous. Quand ils y en mettaient quelqu’une, elle serait fort aisée à effacer, et enfin elle ne serait pas plus à leur avantage qu’au nôtre. Nous voilà donc tous parfaitement égaux, Anciens et Modernes, Grecs, Latins et Français. » (Fontenelle, Œuvres complètes, tome 2, p. 416.).
⑺ « Avant M. Descartes on raisonnait plus commodément; les siècles passés sont bienheureux de n’avoir pas eu cet homme-là. C’est lui, à ce qu’il me semble, qui a amené cette nouvelle méthode de raisonner, beaucoup plus estimable que sa philosophie même, dont une bonne partie se trouve fausse, ou fort
incertaine, selon les propres règles qu’il nous a apprises. Enfin il règne non seulement dans nos bons ouvrages de physique et de métaphysique, mais dans ceux de religion, de morale, de critique, une précision et une justesse qui jusqu’à présent n’avaient été guère connues. » (Ibid., p. 420.).
⑻ 赤木昭三訳『世界の複数性についての対話』、工作舎、1992、p. 199. を参照。
⑼ « La troisième, l’usage de la méthode presque inconnue aux Anciens, et si familière aujourd’hui à tous ceux qui parlent ou qui écrivent et qui sert si utilement à parvenir aux trois fins principales de l’Éloquence qui sont, comme nous l’avons dit, d’instruire, de plaire et de persuader. » (Parallèle, II, p. 294.).
⑽ « Pour ce qui est de l’éloquence et de la poésie, qui font le sujet de la principale contestation entre les anciens et les modernes, quoiqu’elles ne soient pas en elles-mêmes fort importantes, je crois que les anciens en ont pu atteindre la perfection, parce que, comme j’ai dit, on la peut atteindre en peu de siècles, et je ne sais pas précisément combien il en faut pour cela. » (Fontenelle, Œuvres complètes, tome 2, p. 421.).
⑾ « Selon mon goût particulier, Cicéron l’emporte sur Démosthène, Virgile sur Théocrite et sur Homère, Horace sur Pindare, Tite-Live sur tous les historiens grecs. » (Ibid., p. 422.).
⑿ « Mon dessein n’est pas d’entrer dans un plus grand détail de critique; je veux seulement faire voir que puisque les anciens ont pu parvenir sur de certaines choses à la dernière perfection, et n’y pas parvenir, on doit, en examinant s’ils y sont parvenus, ne conserver aucun respect pour leurs grands noms, n’avoir aucune indulgence pour leurs fautes, les traiter enfin comme des modernes. Il faut être capable de dire ou d’entendre dire sans adoucissement, qu’il y a une impertinence dans Homère ou dans Pindare, il faut avoir la hardiesse de croire que des yeux mortels peuvent apercevoir des défauts dans ces grands génies, il faut pouvoir digérer que l’on compare Démosthène et Cicéron à un homme qui aura un nom français, (…). » (Ibid., p. 423.).
⒀ « Quels sont au contraire les fondements de celle où l’on est pour les anciens? Leurs noms qui sonnent mieux dans nos oreilles, parce qu’ils sont grecs ou latins; la réputation qu’ils ont eue d’être les premiers hommes de leur siècle, ce qui n’était vrai que pour leur siècle; le nombre de leurs admirateurs qui est fort grand, parce qu’il a eu le loisir de grossir pendant une longue suite d’années. Il vaudrait encore mieux que nous fussions prévenus pour les modernes; mais les hommes non contents d’abandonner la raison pour les préjuges, vont quelquefois choisir ceux qui sont les plus déraisonnables. » (Ibid., pp. 423‒424.). ⒁ « Quand nous aurons trouvé que les anciens ont atteint sur quelque chose le point de la perfection,
contentons-nous de dire qu’ils ne peuvent être surpassés, mais ne disons pas qu’ils ne peuvent être égalés, manière de parler très familière à leurs admirateurs. Pourquoi ne les égalerions-nous pas? En qualité d’hommes nous avons toujours droit d’y prétendre. » (Ibid., p. 424.).
⒂ « Je puis même pousser la prédiction encore plus loin. Un temps a été que les Latins étaient modernes, et alors ils se plaignaient de l’entêtement que l’on avait pour les Grecs qui étaient les anciens. La différence de temps qui est entre les uns et les autres disparaît à notre égard, à cause du grand éloignement où nous sommes; ils sont tous anciens pour nous, et nous ne faisons pas de difficulté de préférer ordinairement les Latins aux Grecs parce qu’entre anciens et anciens, il n’y a pas de mal que les uns l’emportent sur les autres; mais entre anciens et modernes ce serait un grand désordre que les modernes l’emportassent. Il ne faut qu’avoir patience, et par une longue suite de siècles nous deviendrons les contemporains des Grecs et des Latins; alors il est aisé de prévoir qu’on ne fera aucun scrupule de nous préférer hautement à eux sur beaucoup de choses. Les meilleurs ouvrages de Sophocle, d’Euripide, d’Aristophane, ne tiendront guère devant Cinna, Ariane, Andromaque, le Misanthrope, et un grand nombre d’autres tragédies et comédies du bon temps, car il en faut convenir de bonne foi, il y a environ dix ans que ce
bon temps est passé. Je ne crois pas que Théagène et Chariclée, Clitophon et Leucippe, soient jamais comparés à Cyrus, à l’Astrée, à Zayde, à la Princesse de Clèves. Il y a même des espèces nouvelles comme les lettres galantes, les contes, les opéras, dont chacune nous a fourni un auteur excellent, auquel l’antiquité n’a rien à opposer, et qu’apparemment la postérité ne surpassera pas. » (Ibid., pp. 428‒429.). ⒃ « (…) mais nous serons quelque jour anciens, et ne sera-t-il pas bien juste que notre postérité à son tour
nous redresse et nous surpasse, principalement sur la manière de raisonner, qui est une science à part, et la plus difficile, et la moins cultiver de toutes? »(Ibid., p. 421.).
⒄ « Je me réjouis de voir notre siècle parvenu en quelque sorte au sommet de la perfection. Et comme depuis quelques années le progrès marche d’un pas beaucoup plus lent, et paraît presque imperceptible, de même que les jours semblent ne croître plus lorsqu’ils approchent du solstice; j’ai encore la joie de penser que vraisemblance nous n’avons pas beaucoup de choses à envier à ceux qui viendront après nous. » (Parallèle, I, pp. 98‒99.).