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研究の現状と今後の課題
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R. ノーマン著山崎守一訳
「ノ fーリ」語 「ノマーリ J (Pãli)よばれる言語に言及した最初の西洋人はシモン・ ドゥ・ ラ ・ ルベール (Simond
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(1)であると長い間考えられていた。 彼は国王ルイ 14世 (KingL
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XN) の'持使として 1687年から 88年にシャム (Siam) を訪問した後、 その国の記述を書き、それは1691年にフランスで 出版された。 2 年後にその本の英訳が世に現われたとき、イングランドの 読者たちはその言語「パーリ J を聞いた (2)。ラ・ルベールはシャムとシャム 人の文化の多くの而について興味深い記述をした。そしてそれらはまた、 シャムの宗教一仏教ーとシャムの聖典語の記述を含んでいた。彼は彼が “ Balie" と呼ぶ言語とシャム諾との相違について記しており、 “ Balie" と サンスクリ ッ ト語 (Sanskrit) との関連性についても正確に記述していた。 彼の書物の中で彼は多数の仏教徒の聖典のフランス諾訳をしていた。 しかしながら、最近の研究は、ラ ・ ルベール以前にもシャムにおいてフ ランス人宣教師たちが、シャム人たちの聖典語の名称、を記していたことを 示している。彼らはその聖典諾を “ Balie" あるいは “ Balye" とJ1乎んでい た。現時点で知られる|浪りでは問、パーリ語を研究した最初の西洋人はラノ ー (Laneau) という名のフランス人宣教師である。 1680年の日付けのある 報告書によると、彼は1672年にパーリ語を研究し、今では失われてしまったが、 パーリ語とタイ語の両方の文法書と辞典を著した。 彼はまた、聖ル カによる福音書 (St.
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ospeI) のタイ語への翻訳に対する 「はしが き」と「あとがき」をパーリ語で書いた。 これは1685年に完成し、未だに パリ にある「外国伝道団 J(
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étrang色res) の公文書の中に見出され る。 1680年以降、フランスの公文書はパーリ語聖典に関する数多くの言及を 含んでいる。 1686年にタシヤール (Tachard) は仏教を理解するためにはパ ー リ語を理解することが重要であるとして注意を促した。 ショーモン (Chaumont) はノマーリ語が大変美しく語句が明瞭であり、そしてラテン語 と同様に動詞活用を有していること を述べている。ゲルヴ、ェス (Gervause) は次のことを報告している。 すなわちタイの国王がパーリ語の研究がすた れていることを懸念して、 パーリ聖典を読請できないこれらの僧侶たちを 強制的に還俗させることを布告した。そして彼は沙弥たちが一人の博識の 僧侶によって教授される方法についての情報を与えていた。 この博識の僧 侶は彼らにパーリ文学と文法を教えた。 ゲルヴェスはまた、パーリ語が東 洋の言語の中で格変化、動詞活用、そして時制をもっIIfg- の言語であるこ とを記していた。 「パーリJ (Pãli)という語誌は初期仏教文献において使用されるが、一つ の言語の名称ではないということが、 しばしば指摘されてきた。 そのよう な文献において「パーリJ は聖典を意味し、 その聖典の註釈書、 Iアッタカ タ-J
(atthakathã) と対比して、特に「註釈されている聖典(根本聖典)J
のことをいうのである。 上座部 (Theravãda) の諸聖典は「パーリ」と言 われた (íパーリ」 は、 それ故、われわれの語読“ canon" とおよそ同様な 意味をもっ) (叫。 そして聖典の言語は Pãli-bhãsã (聖典、あるいは canon の言語)と呼ばれた。 しかしながら「パーリ j という語誌はまた、聖典以(
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ノマーリ研究の現状と今後の課題 外のテキスト(蔵外文献)にも用いられる例があり、このことは「パーリ」 と“ canon" が全くの同義語でないことを示している問。 この語は l侍として どのテキス トにも用いられる(則。 一つの言語の名称としてのその語の現代の慣用は、「パーリ語」の意味に 受け取られる複合語 pãli-bhãsã の誤解ーから生じたように思われる。ラ・ル ベールの著述と彼の同時代の雑誌は17世紀後半のシャムにおいて「パーリ」 という名称がすでに上座部聖典の言語に使用されていたことを示している。 それ故、その誤解がその時代に、シャム人たちの聞ですでに普及していた ことは確かである。しかしながら、その間違いはフランス人宣教師たちの 側にあったといえる。彼らは彼らの情報提供者たちよって告げられたこと を誤解したのである。 チルダース (Childers) は、彼のパーリ語辞典(ア)の中で、「パー リ」 とい う名称の英語の慣用が、閉じようにその語を使用したシンハラ人(8)から提供 されたことを述べている。宣教師べンジャミン・クラフ (Benjamin
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が1824年に文法書を出版するとき問、その名称を採用したのは、恐らくシン ハラ語からの慣用であったことがわかる。ビュルヌフ (Burnouf) とラッセ ン (Lassen) もまた、 1826年に出版されたパーリ語に関する彼らの論文に おいてその名称を使用した (10)。 1861年にビルマで・書かれた『サーサナヴァンサ j (Sãsanavamsa教義の歴 史)は、一つの言語の名称であるように思われる文脈のなかで「パーリ」 という語を用いている (11)0 r サーサナウ、、アンサ』は初期ビルマのテキストに 基づいているので(1 2)、ビル?においてこのよっにその名称が使われたのは、 恐らく出版されるよりももっと早い時期である。複合語、亙li-bhãsã" がi(根 本)聖典の言語」よりむしろ「パーリ語」を意味すると理解された過ちは、(
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三つの国すべておいて別々に生じたとは思われない。上座部伝統の言語の 名称として語葉“ Pãli" の現代での慣用は、それ故少なくとも数世紀も古い ように思われるが、しかし、どこにおいて誤解が最初に起こったかをわれ われが決定することのできる有用な証拠が十分で、ない。 西洋におけるパーリ学 初期のフランス人宣教師たちの仕事はパーリ語を西洋に知らしめること を手助けした。そして1739年までにフランスの図書館に諸々のパーリ写本 があったが(川、しかし、それらの写本が盛んに研究されたという証拠はな い。ちょうどタイにおいててフランス人宣教師たちが、パーリ語を勉強し 始めたように、ほとんど 1 世紀半後に、セイロンにおいてイギリス人宣教 師たちもまた、シンハラ人の仏教徒の聖典語を理解するのが不可欠である ことに気づいていた。そしてクラフ (Clough) は 1824年にパーリ語の文法 を出版した川。もし19世紀初頭において、インド・ヨーロ ッパ語の比較言 語の新しい学問における関心が高まっていなかったとするなら、パーリ研 究は宣教師の範囲のみにとどまっていたであろう。デンマーク人言語学者 ラスムス・ラスク (RasmusRask) は南アジアを訪問し、そして 1823年に セイロンからすぐれたパーリ写本群を持ち帰り、コペンハーゲンにある王 立図書館にそれらを保管した (15)。 それ以来ノマーリ研究は進歩し始めた。シ ュピーゲル (SpiegeI)は 1841年に 『カンマヴアークヤ j
(Kammav緻yam
潟磨説) (16) を、 1845年に『パーリ逸話集j(
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(1 7) を出版し た。ファウスペル (Fausbø l1)はラスクの写本に基づいて 『夕、ンマパグ] (Dhammapada 法句経)の刊本を1855年に出版したが(1 8)、それには註釈 からの長い引用文が含まれていた。 チル夕、、ースが 1875年にパーリ語辞典(19) を出版するのに十分なパーリ原典テスキトは 1870年までに出版されていた。 そしてセイロンの民政庁に勤めていた T.W. リス・デヴ、イッツ (RhysD
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マーリ研究の現状と今後の課題 は、パーリに対する関心が増大する中、 1881年にパーリ文献協会 (Pali
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(20) を設立した。 ノ fーリ文献協会1
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ノマーリ文献協会が設立されて最初の100年間に、全ノfーリ聖典がローマ字 で出版された。 そしてその大部分は英語に翻訳された。主要な註釈書 (atthakathãs) もすべて出版されたが、翻訳されたものは少ない。『アッタ カター』に対する註釈である復註(ロkãs) を出版する仕事も開始された。 そして 『デ、ィーヵーニカーヤッタカタ-j
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galavilãsinJ)に対する復註が世に出た (2 九聖典と註釈の原典テキストに加 えて、聖典以降の多くの原典テキス トは編纂され、翻訳された。 パーリ文 献協会は 『パ・英辞典.J (22)、 『英・パ辞典』側、約半分の『パーリ三蔵用語 索引.1 (川、を出版した。 そして多くの補助的な作品を出版したが、その中 にはパーリ語を独学で学びたいと望んでいる人たちに対するパーリ語文法 の入門書として、また、パーリ原典テキストから長い引用文を含んでいる が故に、読本として使用することのできる 『パーリ語入門』附が含まれて いる。 ノマーリ文献協会1981-94
1981年の設立 100 周年記念日以来、パ リ文献協会は設立以来基礎が置か れている仕事を継続し続けた。 U ナーラダ (Nãrada) の『パッターナ』 (Pat血ãna 発趣論) の翻訳の第 2 巻が世に現われ(問、そしてピッ ク・ニャ ーナモーリ (Bhikkhu Ñ盈1amoli)によって未だ翻訳されていない『パティ サンビダーマッカ(.1(Patisambhidãmagga無碍解道)の翻訳が出版された (27)。 『スッタ・ニパータ.1 (Sutta-nipãta 経集)の新しい翻訳聞は、 E.M. へア(Hare) による初期の訳{叫にとって代わり、さらに該博な註記の付された 『スッタ・ニパータ』の改訂訳が最近現われた (3ヘ E.A.A.へーゼルウッ ド (Hazelwood) 夫人は『サマンタクータゥーアンナナーj
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nã サマンタ山称賛)の翻訳をしたし(31)、またパーリ文献協会は、 尊者H. サッダーティ ッサ (Saddhãtissa) 博士による復註(ロkã) 付きの『アビ夕、 ンマッタサンガハJ (Abhidhammatthasañgaha 摂阿見達磨義論)の新しい 刊本を出版した(問。佐々木現順による『サーラサンカッ、.1 (Sãrasañgaha精 要綱要)の刊本もまた出版された{問。 加えて、数多くの比較的短いパーリ原典テキス トの刊本と翻訳は協会の 学術誌(JPTS) に掲載された。そしてその学術誌は 100周年記念の年に復 刊されたのである。『パラマッタヴィニッチャヤJ(
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のA.P.ブッダダッタ (Buddhadatta) の刊本は1985年刊のJPTS第10巻(
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.155-226) に公表され、『サッダビン ドゥ j (Saddabindu) と 『サッダ ビン ドゥヴイニッチャヤJ (Saddabinduvinicchaya) の刊本はF ロ ッター モーザー (Lottermoser) によって1987年刊の JPTS第11巻 (pp.79-109) に公表された。『ナーマチャーラディーパカ.1 (Nãmacãradïpaka) の刊本 は H サッダーティッサ (Saddhãtissa) によって 1990年刊の JPTS 第 15巻 (pp.1-28) に掲載された。 H.サッダーティッサによる 『ナーマールーパサ マーサ J (Nãmãr口pasamãsa) の英訳は1986年刊の JPTSの第11巻 (pp.5
-31) に掲載され、そして E.A.A. へーゼルウッドによる 『パンチャ Yゲティ ディーパニー J (Pañcagatidïpanï)と『サッダンモーパーヤナ J(
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mmopãyana) の翻訳は、 1987年刊のJPTS第11巻 (pp, 133-59) と1988年 刊の JPTS 第 12巻 (pp.65-168) にそれぞれ掲載された。R. エクセル (ExelI) の『ルーパールーパヴ、イパ一方'j (Rupãrupavibhãga) の翻訳、 すなわち、 『色と無色の分類j は 1992年刊の JPTS 第 16巻 (pp.1-12) に掲載された。ノマーリ研究の現状と今後の課題 諸々の註釈書 (atthakathãs) の翻訳の出版もまた、前向きになされた。 ピーター・マゼフィールド (PeterMazefield) の『ヴィマーナヴ、アッ ト ゥ・ アッタカタ一 J (Vimãnavatthu-atthakathã 天宮事の註釈)の翻訳は、 UBa
Kyaw と共に、すでに出版した『ベータヴァッ ト ゥ・アッタカタ-.J (Petavatthu司
atthakathã 餓鬼事の註釈)の翻訳 (Peta Stories) に対応するものとして
出版された (3九また、彼(マゼフィールルド)の 『ウターナ・アッタカタ
ー.J (Udãna-atthakathã 自説の註釈)の翻訳は準備中である (35)。ピック・ ニャーナモーリ (Bhikkhu Ñ 盈1amoli)が1960年に亡くなった後、彼の諸論 文の中に見つけられた作品の中には、わたしがすでに述べた『パティ サン ビダーマッカゴ (Patisambhidãmagga 無碍解道)の翻訳ばかりでなく、『ヴ イパンガ・アッタカタ-
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(VibhaÌJga-atthathã 分別論の註釈)の翻訳が含 まれていた。ス リ ランカとイングランドの編纂者たちよって多くの作業が なされた後、これは二巻本で出版された (36)。 その他の出版物 1881年以来、パーリ に関するすべての仕事がパーリ文献協会によってな されたという印象を与えることは、誤解を招くことになるだろう。すべて のパーリ出版物のうちで最も重要なものはディネス・アンデルセン (Dines Andersen) とへルマー・スミット (HelmerSmith) の編集指導のもとで、 1924年にコペンハーゲンにおいて分冊で出版きれ始めた『批判的パーリ語 辞典j(
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Dictionary) である (3九 『ウゃイ ナヤJ (Vinaya 律蔵) (38)、『ジャータカ J (J ãtaka 本生話)(39)、『ミ リ ンダパンハ J (Milindapañha ミ リ ンダ王の聞い) (40)、 そして『マハーパ ンサ J (大史 Extended Mahãvamsa) 州、 の諸刊本、 『ジャータヵ』の翻 訳(42)、『ダンマパダ・アッタカタ-j (Dhammapada-atthal王 athã 法句経註釈)の翻訳州、『ダンマサンガニ j (DhammasalÌgani 法集論)の翻訳(州、さ らに『パーリ固有名詞辞典j
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(州、の よ うな大冊でかつはかり知れない程価値のある諸作品は、もともとパーリ 文献協会以外で、出版された。そしてそれら諸作品を再刷する必要性が生じ、 また、版権をもっ出版社がそれらの再刷を望まなかった り、再刷すること が不可能であったときにのみ、協会の保護のもとになされた。 ここ近年にへルマー・スミ ッ ト (HelmerSmith) の不朽の刊本である 『サ ッダニーティ J(
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(46) とデニス (Denis) の『ローカ・パンニャツ ティ J (Loka-paññatti) の刊本川が世に出た。一方、ジャク リーヌ ・フィ リオザ(Ja
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(Filliozat)) は 『シーハラヴァッ ト ゥッパ カラナj (Slhalavatthuppakarana) の刊本とフランス語訳(48)、さらに『夕、 サヴ、アツ トゥ ッパカラナJ(Dasavatthuppakarana) の刊本とフランス語訳{叫を出版した。カーター (Carter) とノ引j ハワダナ (Palihawadana) は、私 がすで、に述べたパーリンゲーム (Burlingame) による翻訳から省かれた『ダ ンマパダ・アッタカター j (Dhammapada-atthakatha) の(主として文法
的な)部分の翻訳を出版した(問。 比較的短いパーリ原典テキストの刊本と
翻訳もまた、数多く世に出た。例えば、ジナダサ・リヤナラ ト ゥネー(Jinadasa
Liyanaratne) による『ジナボーダーウボア リーJ (Jinabodhãvan)の刊本で
ある。その『ジナボーダーヴ‘ァ リー』は14世紀にデーゥーァラッキタ ・ ジャ ヤパーフ ・ ダンマキッティ (DevaI叫<khita
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Dhammakitti) に よって書かれたものであるが、この刊本はフランス語訳を伴って BEFEO(
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,1983
, pp.49-90) に掲載された。将来の仕事
ノマーリ研究の現状と今後の謀題 でに多くのことがなされたが、そのすべてがよくなされたわけではない。 それ故、われわれは過去の誤りを修正しなければならない。 (2)われわれは、 これまでほとんど無視されていた分野に広げ、ることによって、 存在する溝 を埋めなければならない。 (3) これらの仕事を、われわれが適切に成就する ことができるように、現在存在する補助的な道具を修正したり改善したり しなければならないし、それら(道具)が欠けている分野においては新し い道具を形づくらなければならない。 これら三つの領域は大いに相互扶助 的である。 したがって、構を埋めることは過去の誤りを修正するのに役立 つであろう。 また、このことは逆も真なりである。そして補助的な作品、 例えば文法書や辞典類は修正された過去の資料と、有効となるべき将来の 新しい資料に基づかなければならない。 (1) ある雑誌に掲載された論文で..(51)、わたしはパーリ原典テキス トの多く の刊本が編纂された方法についての情報を与えた。いくつかの場合、編纂 者は一つあるいは二つ以上の東洋での印刷本の読みを再生することに満足 し、しばしばそのような印刷本の底本となったものを確かめようとするこ とがなかった。 例えば、 『フゃツダウーアンサ・アッタカタ-
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atthakatha イム種姓経註釈)のパーリ文献協会版(聞は、一つの印刷本に基づ いているのであり、それは SimonHewavitarne B
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Series の中のシ ンハラ文字での出版本の事実上の複写である。それは時としてその出版本から異読 (variant readings) を復元している。『マッジマニカーヤ j
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manikãya 中阿含)に対する註釈である 『パパンチャスーダニーJ
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casüdanJ)のパーリ文献協会版の第 l巻附は、二つのシンハラ(セイロン) 文字の写本、 二つのシンハラ文字の印刷本、そして 『パパンチャスーダニ -J に関する復註(ロkã) のビルマ文字写本に基づいている。 この復註はせ いぜい見出し語に引用きれるすべの語葉の理解を手助けすることができる にすぎない。第 2 巻からは、刊本の底本になったものは三つの印刷本である。一つは第 1 巻に使用されたシンハラ文字の刊本の一つであり、他の二 つはビルマ文字とタイ文字の刊本である。これら東洋版 (oriental
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の底本になったものについてのどんな情報もないし、それから引用された 異読もない。パーリ文献協会版の原典テキストを確立する当たって従うべ き原則について何の情報も与えられていないので、異なった東洋版を、そ れぞれの巻の編纂者が、それぞれによいと,思った読みを気のむくままに選 んだのではないか、とわれわれは想像する。 他の諸刊本は部分的に、あるいは全体的に校正されることなく印刷され た。再刷される時、その状況を改正する試みがなされた。資金が不十分だ ったり、あるいは従事者がいなかったとき、その時、 パーリ文献協会の編 集長は時々一人で、読み分け記号と句読点を加えたり除いたりすることに よって、イ ンクや漂白剤を用いて、できる限りの訂正を加えた。再刷する 作品を準備するのに私はこの方法で、個人的に多くの時間を費やした。 H寺 として一人の人の計画が善意の人々によって、ひっくりかえされることが ある。私はかつて再刷のためにある特定の作品の出版本を訂正するのに多 くの時間を費やした。私がその再刷された書物を受け取った時、 ただ次の ことに気づくだけたcった。写真を撮るために送られた書物に手書きの訂正 が余りに多かったため、それにび‘っくりした熱心過ぎる編集次長が、「きれ いな J すなわち訂正きれていない書物を獲得するためにすべての階層の人 たちを捜し出し、私がとても熱心に仕事をした書物の代わりに、その訂正 されていない書物を印刷業者に送ってしまったのであった。 そのような事実が、上座部 (Theravãda) 仏教について書いている多く の人たちゃ、このようにして編纂された原典テキス 卜 と、そのような原典 テキストを底本としてなされた翻訳に基づいて仕事をしている多くの人た ちに、知られているかどっかは疑わしい。 そのょっな不備にしばしば気づマーリ研究の現状と今後の課題 いている人たちでさえ、彼らに時聞がないという理由や、あるいはその問 題を直すだけのパー リ語の能力が十分で、ないという理由で、それについて 何もしないのである。パーリ原典テキストの刊本や翻訳に残ったままにな っている種々の誤りが本当に問題なのかどうか、またそれらが結果的に仏 教の基本的かつ最も重要な要素を誤解させることになってしまうのかどう かが、当然問われるかも知れない。 私の単純な答は、私は知らないという ことである。 しかも、もしそれらがパーリ文献協会によって出版されたパ ーリ原典テキストの刊本における誤りから起こったとするなら、主義とし て、私はパーリ文献協会の会長としてどんなに些細で、あっても、いかなる 事実の誤りも、あるいはそのような事実からおこる誤った解釈をも悔いる であろう。 ノマーリ文献協会が協会出版の刊本の多くの不備と、 必然的にそれらの刊 本に基づいた翻訳の不備に気づいており、その状況を改正するために緊急 に考慮しなければならないことを、 私は明確にしなければならない。不幸 なことに、誤りのある刊本は単なる希望的観測だけではそれらを正すこと はできないし、パー リ原典テキス 卜の満足し、〈刊本を作成する十分な能力 をもち、かつ比較的初期の編纂者の作品を喜んで正そうとする人たちの絶 望的な不足がある。全くしばしは‘古い刊本に必要とされる訂正の量が余り にも多いので、訂正された刊本よりもむしろ新しい刊本が必要とされる。 しかし、パーリ研究の分野を志望する若い研究者は、しばしば‘すでに編纂 された原典テキストを研究することを嫌がり、未だ編纂されていない原典 テキストを編纂することを好んでいる。たといそれらの真正価値がそう高 くなくとも。 それもかかわらず、この問題に関してスター ト は切られている。多くの 不満足な刊本はとって代わられた。そして N.Aジャヤヴ、イクラマ(Jayhawick
rama) 教授は、 『ヴ、イナヤ ・ピタヵ j (Vinaya-pitaka) の註釈の序言の部 分(54) と、 『 トゥーパパンサj (Thüpavarnsa舎利塔史)(聞の新しい刊本が、 その翻訳を添えて刊行されたと同じように、『フ会ッ夕、ヴ、アンサ j
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sa 仏種姓経)と『チャリヤー・ピタカ j(
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pi匂 ka 所行蔵)の新しい 刊本(問、『ヴ、イマーナウ、、アッ ト ゥ.1 (Vimãnavatthu天宮事)と『ベータヴ アッ ト ゥ j (Petavatthu 餓鬼事)の新しい刊本(57)、さらに『カターヴアツ ト ゥ j (Kathãvatthu論事)の註釈書の新しい刊本(聞を発刊したが、これは この分野では特別に行動的な仕事であった。 ホーナー (Horner) 女史は、 『ブッダゥーアンサ』と『チャ リヤーピタカ j (問、『ウω イマーナヴァッ ト ゥ』 の新しい翻訳側、を出版した。ピーター・マセウイールド(PeterMasefie
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は『ウダーナ j (Udãna 自説)の新訳を出版した (61)。私はすでに『スッタ・ ニパータj (Sutta-nipãta経集)の新訳に言及した(臼)。 も し、 この状況が改善されるべきであるなら、その時パー リ研究の分野、 あるいはむしろ中期インド ・ ア リ アン語 (MiddleI
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Aryan) 研究の分 野に従事する言語学者 (Philologists) の数の増大を計らなければならない。 パーリ語の原典テキストは、サンクスリット語で書かれた小乗(H1nayãna) 経典のテキス ト と同じほどの数があり、中期インド ・ ア リアン語に属する ノマーリ語以外の方言から翻訳されたものである。そして、パーリ語やサン スク リ ッ ト語で書かれた仏教聖典が、どのようにしてわれわれが今日手に 入れている形態になったのかを理解するために、できるだけ多く 中期イン ド・アリアン語のパーリ語以外の方言をわれわれは知らなければならない。 小乗仏教を専門に扱おうとする人たちは、したがってサンスク リ ッ ト語ば かりでなく、 中期イン ド・ ア リ アン語の十分な能力をもたなければならな い。私が中期インド ・ アリアン語というのは、パー リ語のみを意味してい るのではなく、その表題の範鳴に入るすべての範囲の方言であり、碑銘の 目的のために利用された方言と同様に、ジャイナ教の聖典と註釈書のテキノマーリ研究の現状と今後の課題 ス トに、 ジャイナ教徒によって使用された方言を含んでいる。われわれが 中期インド・アリアン語の分野に研究志願者をひきつけなければ、その時、 必要な知識をもっ人たちの供給は乾ききるだろう。そして、上座部 (Thera vãda) 仏教についての論文や書物は、パーリ語を論ずることのできない人 たちによって書き続けられるであろうし、また、いくつかの注目に値する 例外があったとしても、現在われわれが手にしている不満足なテキス トと 翻訳に、結果的に必ず依存するであろう。この分野に研究志願者をひきつ ける試みと して、 パーリ文献協会はパーリ研究を続けることができるよう に、大学院生たちに奨学金を与えており、彼らがする仕事は協会がそのま ま出版することができるような刊本や翻訳になることを期待しているので ある。 (2)パーリ文献協会の出版目録は、経蔵 (Sutta-pitaka) の『ニッデーサ』 (Niddesa 義釈)と『アパダーナ j (Apadãna嘗 Ilií<<)、それに論蔵
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Abhidhamma
-pitaka) の 『ヤマカ j (Yamaka壁論)を除いてすべての聖典テキス ト の翻訳を含んでいる。『パッターナ.Jl (Patthãna発趣論)の翻 訳は不完全で、ある。しかしながら、西洋においてパーリ出版物の最も大き な不備は、復註(百kãs) と東南アジアで書かれたパーリ原典テキス トの刊 本である。前者の範暗において協会は、私がすでに述べた『スマン方、ラヴ ィラーシニー』の復註のみを出版した。 他の諸復註の刊本について仕事が 始まり、これらのいくつかが出版できる状態にもたらされることが望まれ る。後者の分野において協会は、ハインツ・ベッ ヒェル卜 (Heinz
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とハインツ・ブラウン (Heinz Braun) によって編纂された『ビルマのパーリ処世書.Jl
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Burma) を出版した(問。また、ピルマからの『パンニャーサ・ジャータヵ.Jl
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Jãtaka五十本生)の P.S.ジャイニ(J aini) による刊本の二巻を出版した(判。 1981年にホーナ一女史
いた。これは P.s. ジャイニによって完成され(刷、彼は第 2 巻の翻訳を続行
した(刷。彼はまた、東南アジアからのもう一つのパーリ原典テキストも刊
行した。それは『ローカネーヤ ・ パカラナ.1 (Lokaneyya-ppakarana) で
ある (6η。パーリ文献協会は、最近協会の学術誌に、聖典として、あるいは
あたかも聖典かのように種々述べられた南アジアと東南アジアからの典型
的なテキストの見本を掲載した (68)。そしてデニス (Denis) による『マーレ
ーヤデーヴ、アッテーラヴ、アッ 卜 ゥ.J (Mãleyyadevattheravatthu) の刊本も
掲載した (69)。 他の出版業者はマルティニス (Martinis) 夫妻によってなさ れた作品 (70) とジャイニ(J aini)によってなされた作品 (71) を出版した。 しか し、タイ (72)や他の国の図書館(73) にある写本の目録は依然として出版される べき多くのパーリ原典テキス トが存在することを示している。 北部タイの図書館から入った情報から、次のこともまた明らかとなる。 西洋においてすでになされたことの多くがタイ写本を参照して再検討され る必要があり、そのタイ写本は以前われわれに利用できた写本の読みより も、 よりよい読みを保持しているょっに時々思われる。 われわれはそれ故、 これらのすぐれた読みを取り入れながら、すでに出版されたすべての聖典 や註釈のテキストの新版、あるいは改訂版を期待することができょう。そ の時、これらの新しい刊本に基づいた新しい翻訳を作成することが必要と なるだろう し、また可古色であろう。 われわれがタイ写本について得た多くの情報は、オスカル・ フォン ・ ヒ
ニューパー (Oskar
von
Hinüber) によるものである。彼は多くの論文を公表し、その中で写本目録を掲載したり、それら写本が含むいくつかのす
ぐれた読みを指摘している (7九そして学者たちはすでにこの新しい資料を
利用している。 1914年にパーリ文献協会が発刊した不満足な『ダンマパ夕、』
の刊本にとって代わるべく、オスカル ・ フォン ・ヒニューパーと私が最近
々ーリ研究の現状と今後の諜題 出版した『夕、ンマパ夕、、j の新版において (75)、われわれは『カ、、ンダーラ語・ ダルマパダJl
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Dharmapada) と所謂『パトナ・タツレマパタ'J](
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Dharmapada) の読み、それに新しく 利用できるこれらタイ写本のいくつか を考慮したので、 満足いく結果になったことと思う。この資料が知られる ようにな り、 もっと容易に入手可能になるとき、 他の学者たちがわれわれ の例に追随することを希望する。 われわれは、シンハラとビルマの伝統が正確で、ない読みをしているとき、 この新しい資料を利用しなければならないばか りでなく、疑いもなく正し いこれらの読みがどのようにしてタイ(そし他の国)において保持された のかという問題をも、解決しようとしなければならない。かなり韻律にか なった読みの場合、写字生が写本を正すことができるのは単に韻律の知識 であろうが、しかしそのことはあらゆることを説明していない。 手込が思う に、われわれは、 イン ド本土から(ベン方、ルを経由して (76)) 恐らくやって きて、セイロンやビルマを迂回した一つの伝統を想像しなければならない。 そしてその伝統は正し くない読みが暗唱され、 註釈がそれらに関して書か れ、そのようにして誤りを一層大きく している結集によって影響を受けな かったことを想イ象しなければならない。 (3) もし改訂版が作られ、これまで出版されなかったテキス ト の刊本が刊 行されるなら、そのH守それらの翻訳を作成することが可能で、あろう。それ は広範囲に E って註記が添えられ、 その翻訳が基づいたテキストを議論し ており、そして採用された翻訳の理由を示している。改訂された(そして 改善された) 刊本の出現は、新しいすぐれた辞典と文法、韻律の研究等が 出版されることを可能にするだろう。特に東南アジアのパーリ聖典に関し てもっ と仕事がなされた時、 われわれは、 これらの地域において使用され たパーリ語の形態が聖典やその註釈警のノマーリ語とは語葉的に、また文法的に異なるということを確かめるために、われわれの辞典と文法蓄を書き 直したり、あるいは少なくとも補遣を作らなければならないだろう。 『批判的パーリ語辞典.1
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Dictionary) の第 3 巻の第 l 分冊 が出版された (7η。われわれは一定の期間を経て、それに続く分冊が出版さ れることを期待している。それが出版される u寺、それはもちろん、そのま うな新しくかっ訂正された資料を考慮するであろう。 しかし、第 1 巻の巻 末に掲載された Epilegomena の本質は、訂正することと増広することが可 能であることを示しているが、すでに出版された分冊を改訂することはほ とんど期待することができない。 ノマーリ文献協会の『パ・英辞典.J(
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Dictionary) の改訂版は、 これは『新パ・英辞典』と呼ばれることになっているが、準備されてお り (78)、 ここ 5 年以内、あるいはそれ位のうちに出版されるであろう。 それはワー ド・プロセッサーで作成されおり、いつでも最新版を出版することが可能 であることを意味している。そして笑際にわれわれは、改良や訂正や増広 が、出版に回った第 2 版の写真搬影用校了紙 (camera-ready copy) をす ぐに始めるであろうという状況を予見している。カ、、イガー (Geiger) の『パーリ文献と文法j
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の改訂版は、『パーリ文法』とタイトルをつけて、最近出版された (7ヘ新し い名称は、パーリ語を取り扱っている部分のみを含んでいるという事実か ら、名付けられた。なぜなら 1916年以来、世に出たパーリ文献に関する種々 の作品は(刷、カ、、イガーの作品の最初の部分と大いに重複してしまった。書 籍の体裁の広範囲に及ぶ変化の他に、 yゲイガーの、文字が近接して並んだ テキストは、人のやる気をなくさせると気づいている人たちの反論に対処 するために、カ、、イガーによって取り扱われなかった数多くの特徴、例えば、
(
1
6
)
マーリ研究の現状と今後の課題 重複アオリ スト形や未来能動分詞の説明を含めることが試みられた。この 改訂版もまた、ワード・フロセッサーで作成されており、それ故、これに 続く改訂版は、必要とされるときはいつでも出版することができる。 最近出版された有用な補助作品は『パーリ註釈対照表 J
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Table) である (81)。 これはパーリ註釈書の印刷本聞のペー ジ対照を表わした一覧表である。言主釈書の種々の刊本を比較することを必 要と しているが、しかし、種々の註釈の印刷本は、困難なく見出し語を見 つけることができるように出版されていても、種々の東洋文字で書いてあ るために、それに十分熟練していない人たちを援助しようとするものであ る。もし、見出し語が何かの刊本に位置しているなら、その時、その表は それが他の刊本に見出すことができるページ数を示している。 OCR と CD-ROM 計画 コンパクト・ディスクーリード・ オンリー・メモ リー (CD-ROM) 形の 出版物を手に入れることの可能性について、 パーリ文献協会の受け取る質 問の数が増え続けてることは、われわれが電子時代に生きていることの徴 候である。協会がパーリ原典テキストをコンビューターに入力することの 可能性を最初に検討し始めてから 20年以上になる。しかし、手作業で入力 する費用はその当H寺余りにも高かった。そのl時以来、光学文字認識 (OCR) 使用の発明がなされ、いくつかの試みがそれらの使用を評価するためにな された。これまで達成された正確さの最善の精度は約 95パーセン ト であり、 それは十分満足のいくものではない。なぜなら、それは耐えられない量の 校正と訂正を強要するからである。たといそのような困難が克服されると しても、読者たちが CD プレーヤーを利用することが必ずしも可能で・ないし、 また、相互参照事項や並行節をチェックするために、どんな場合でも前後(
1
7
)
に移し替える必要を避けられないコンビュータ画面でテキス 卜 を読もうと することは、多くの人たちにとって、 パーリテキストを操作することの実 際的方法でないことを意味する。パーリ文献協会は協会の出版物のいくつ かの CD-ROM版を作成する計画をもつが、本の寿命は未だ終わっていな いし、 印刷された作品の必要性は残っていると信じる。 協会の書物が再刷されるとき、もし最初の刊本に索号|が欠けていたり、 あるいは不十分であるなら、例えば『アッタサーリニー.1 (AtthasãlinI法集 論註) (問、 『チャリヤーピタカ・アッタカター.1
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所行蔵註) (聞やそして『ベータコーパデーサ J (Petakopadesa 蔵論釈) (刊 であるが、それらの書物に索引を与えるのが協会の慣例で、あった。これら 後の二つの再刷は H. コップ (Kopp) によって索号|が与えられ、他の PTS 本の彼の索ヲI (例えば『マノーラタプーラニーj (Manorathapüraru増支部註)と『テーラがーター・アッタカタ-.1 (Theragãthã-atthakathã長老偽
註)は、 それら書物の価値を大いに増した。協会はまた、日本入学者たち
による 『カターヴ、ア ッ ト ゥ J (Kathãvatthu 論事) (85)や『夕、ンマサンガニ』
(Dhammasarigæ:ü法集論) (86)の単独の索引も出版した。また、『サマンタ ノマーサーディカ-.1 (Sammatapãsãdikã律蔵の註釈) (87) と 『イティヴッタ
カ ・ アッタカタ-.1 (It ivuttaka-atthakathã 如是語註) (聞の単独の索引を 出版した。コンビューターは語葉目録と用語索引を作成するのに非常に有 用である。そして索引を付されずに出版された他のパーリ テキス 卜に、コ ンビューターによって広範囲に及ぶ語葉目録、あるいは索引を作成するこ とが計画されている。コンビューターによって作成された『マハーニッデ ーサ.1 (Mahãniddesa 大義釈)の索引がすでに準備中である (89)。 パーリ文献協会は 1952年に『パーリ 三歳用語索引.1
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Concordance) を出版し始めた。 iBJ で始まる語設に対する大変に多くの(
1
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々ーリ研究の現状と今後の課題 見落としが気づかれなかったか、何もなされなかったことが発見された 1984 年、 fBJ という文字の半ばで出版は休止となった。その休止は OCR アプ リケーションの使用が、その見落と しの空所を容易に満たすことができる かどうか調べるために、 OCR アプリケーションの使用が評価される間だけ の一時的なものであることが希望された。聖典の CD-ROM 版が利用でき るようになったとき、コンビューターによって用語索引を完成したほうが よいのであるが、しかし、 それを出版する形態について不確定要素性があ ることが明らかになった。すでに出版された分冊の書籍体裁を採用して、 われわれは本と同じ形でこれをすることを計画した。『パーリ三蔵用語索引j を使用したあらゆる人が、しかしながら、これまでに出版された分冊には 重大な誤りと脱落があることに気づいているだろう し、 また、これまでに 出されたものを捨てて、すべの聖典の新しい用語索引を作成したほうが恐 らくよいであろうということに気づいているだろう。しかしながら、その ような途方もなく巨大な作品は、普通の学者が卓上で便利に使用すること ができるよりも、分厚い印刷物に帰着するであろっ。 一方、費用は必然的 に高くなる。結果として協会は今、 CD-ROM の形で用語索引を出版する ことを考えている。これが用語索引の新しい版を、それを走らせるために 必要なハードウェアをもたない人たちを近づ、きがたいものしているという ことがわかっているけれども。 私はパーリ研究の現状と、しなければならない仕事を要約することを求 められるとき、私は次のように言う。すなわち、 「今までやっていないこと はやる必要があり、そしてこれまでにやってきたことは、再びやる必要が ある」と。尼大な量の仕事がパーリ研究の分野においてなされたが、たく さんのことがなされるべきこととして依然として残っており、一方、もっ とたくさんのより良い写本の利用と、すぐれた文法的かつ辞書編集上の援 助物の存在により、すでに出版された刊本と翻訳に大いなる改善が今、加
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