• 検索結果がありません。

「わがひとに与ふる哀歌」論-その悲劇性の追求-

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "「わがひとに与ふる哀歌」論-その悲劇性の追求-"

Copied!
8
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

てくる。不満や憤り、怖れ、憎しみなとの感情を歌った作品が多く なってくるのである 。 し か し 、 全歌集をみた時、や は り自然詠の占める数は大きい。 ﹃ 往 還 集 ﹄ 後 の 自 然 詠 が 生 活 の においがす る に し て も 、 その根底を 変る乙となく流 れているのは、やはり﹃ ふ ゆ く さ ﹄ の清純さやみず みずしさなのではなかろうか。そして、それは文明氏の自然への親し み 、 自然に対する素直な感動からくるものであると思われる 。 ﹃ 往 注 9 還集﹄や﹃山谷集﹄の冷酷 、 非情と思えるほどのリアルな題材、感 情 の 作 品 は 時 代 が 、 文明氏にそうさせたのであり、それはひ と つ の 虚勢とも 考えら れ るのである。文 明氏の本賀的なものは、﹃ふゆく さ ﹄ の 山 川 純 き で あ り、そう いう気分を 表 山 するところ に 文明氏の行 情の質の特色があ る のではあるまいか 。

.

,

$

:

,

.

」乙 」

序 詩人 、 伊 東静雄 |彼の詩におけ る悲劇性は 、 彼向身 の心の悲劇 俳 と 同時に時代の制約 からくる悲劇性もあわせてもってい る 。 伊 山 の 詩 は 、 彼 の ζ と ば を借りれば﹁いろんな事実をか くして﹂バいであ る の で﹁悲惨な で き ご と ﹂という程 度 に し かいえない 。しかし 引 引 に ︵国︶文明とリアリズム ︵ 紙 面 の 都 合 上 省 略 ︶ ︵ 注 ︶ ー 、 文明歌集。古今書院 o 大正川出版 2 、 晶 子歌集 。 岩 波 文 庫 o 明治幻 出版

3

、 岡 山 巌著﹃現代歌人論﹄より引用

4

、 文 明歌集 。 角 川 書店。昭和 初出版

5

、文明歌論 o 角川書店 。 昭和れ出版

6

、正岡子規歌論 。 改 造 社 。 昭 和

3

出版

7

、 子 規 著 ﹁ 俳 人 蕪 村 ﹂ o 改造 社 o 昭 和

3

出版 の中より 引 用

8

、 ﹃ 現 代 短 歌 全 集 ﹄ 例 元 社。昭和お出版の中より引用 ? 、 文 明歌集。角 川 書店。昭和初出版

間 は隠されて いても伊 東におい ては﹁ついでがあったら君 は新聞にか う書 いてくれ給ヘ/あの男は円 記と替信の外はヴエルケを信 じ て な いって﹂日記と書信の外は信じないとす る態度 、 つまり あ っ た 乙 と 、出実しか 作品 と みない態皮、﹁客観 的な手法的なその作曲態度 は 私 には縁が速いの で す 。 ﹂ 作曲者シヤル パンティエを評する ζ と ば にみられる挑 物的な態度で は なく、主観を器としたものでなけれ

(2)

ばならないとする態度があるので、その作品の背後に潜む事物をと らえ、彼の詩における悲劇性をさぐってみたい。そしてその作品に 悲劇性をもたらす伊東自身の心の悲劇性と、それを陪ったものが何 であるかを解明していきだい。参考資料としては﹁伊東静雄全集﹂ ︷ 資 一 ︶ ︵全一巻︶を用いて﹁わがひとに与ふる哀歌﹂が、昭和十年十月に 出版されたことからして昭和十年十月までに書かれた詩、七八編 ︵﹁わがひとに与ふる哀歌﹂二八編、拾遺詩五十編︶と同じ時期ま での散文、書簡を中心として論を進めていきだい。 一 、 詩 作 品 上 で の 悲 劇 性 ー、詩の表層上での悲劇性 ﹁わがひとに与ふる哀歌﹂に収められている詩と、拾遺詩編にで てくる﹁わがひと﹂に関するととばを書き抜いてみると、 ﹁私の放浪する半身、愛される人﹂﹁命ぜられである人、私の放 浪する半身﹂︵﹁晴れた尽に﹂︶、﹁昔の私の恋人﹂︵﹁私は強 ひ と ひられる﹂︶、﹁死んだ女﹂︵﹁田舎道にて﹂︶、﹁私が愛しその た め 私 に つ ら い ひ と ﹂ ︵ ﹁ 冷 め た い 場 所 で ﹂ ﹀ 、 ﹁ わ が ひ と ﹂ ︵ ﹁ わ がひとに与ふる哀歌﹂﹀、﹁月光の窓の恋人﹂︵﹁有明海の恩ひ 出﹂︶、﹁かの味気なき微笑のひと﹂︵﹁かの微笑のひとを呼ば む ﹂ ︶ 、 ﹁ わ が 去 ら し め し ひ と ﹂ ﹁ わ が ひ と の か な し き 声 ﹂ ︵ ﹁ 行 っ てお前のその憂愁の深さのほどに﹂︶︿以上﹁わがひとに与ふる 哀歌﹂より﹀ ﹁ あ の 女 が 私 の 曽 て / 雲 の 様 に 去 ら せ た 女 ﹂ ︵ ﹁ 健 ﹂ ︶ 、 ︵ ﹁ 四 月 ﹂ ﹀

A

以 上 ﹁ 拾 遺 詩 編 ﹂ よ り ﹀ で あ る 。 ここにでてくることば、それは時間的には、﹁背の﹂ ﹁ 彼 女 ﹂ ﹁ 曽 て の ﹂ ﹁死んだ﹂という﹁わがひと﹂であり作中の私にとっては、﹁放浪 する半身﹂であり﹁わがひと﹂﹁彼女﹂であっても、その人は﹁私 につらい﹂﹁味気ない微笑﹂をする﹁雲の様に去らせた女﹂なので ある。乙乙で﹁わがひと﹂を現在の時点で歌わない ζ と、過去に葬 ってしまった乙とに正常の恋ではないものを感じると共に、作中の 私にはつれなかった恋人らしいことがわかってくる。いうなれば、 一 方 的 に 終 っ た 悲 恋 ら し い ζ とが感じられる。叉、目頭の詩、﹁晴 れた日に﹂が、哀歌の所以を表明しているとみると、そこにも片恋 に 終 っ た 青 春 の 恋 が 読 み と ら れ る 。 こうみれば﹁わがひとに与ふる哀歌﹂には、片恋故の悲劇感が流 れているととれないこともない。片恋に終った恋であったので、 詩、﹁わがひとに与ふる哀歌﹂において﹁私たち﹂と﹁他﹂を区別 している認識が、詩、﹁田舎道にて﹂にみられる﹁私たち﹂も個々 に分離していると歌うに至るのである。叉、﹁わがひと﹂を荒々し い 現 実 界 の 場 所 に 霞 く に 至 る の で あ る 。 ﹁わがひとに与ふる哀歌﹂は一種の恋愛詩集でもあるので、以上 述べたような片恋故の悲劇性をもっていることは否定できない。し かしそれは詩の表層の部分にのみ表われた、外見的な悲劇性でしか なく、彼の詩における悲劇性は片恋という、いわば現実的事実のみ を描出した乙とにあるのではない。そのことを第二節において述べ る こ と と す る 。

2

、詩に潜む悲劇性 ﹁全く純粋に客観的な叙景詠物詩の如く見えても、その奥には深 き主観の裏付けがある。﹂とその卒業論文において述べた伊東は持 情詩人であった。﹁主観の裏付けのある詩﹂には、詩を書かせた何

- 2

1

(3)

らかの衝動があるものである。伊東の場合、その書かせた衝動の一 つ に ﹁ 故 郷 ﹂ に 対 す る 意 識 が あ る こ と は い な め な い 。 伊東の詩には一連の﹁故郷﹂に対する詩がある。﹁瞬野の歌﹂ ﹁帰郷者﹂﹁有明海の恩ひ出﹂等がそうである。故郷、長崎県、諌 早町にあって伊東の家は家宅数軒をもつもめん問屋であった。父惣 士 口 は 、 ﹁ 友 人 と い ふ も の は 、 あ れ は 私 の 生 き て い る 父 だ / あ そ 乙 に は計爾だけがあって/訓練が欠けてゐた﹂︵﹁病院の患者の歌﹂︶ と歌われているように、計画性ばかりがあってそれをとりしきる才 覚がなかった。つまり経営の才がなかった為に彼の生家は没落した のである。没落と同時に背負い込んだ英大な伯財を彼は律義にも一 生かかって返済することになる。長男でもない、同列にすぎない彼 が で あ る 。 との﹁故郷﹂を彼は一つは現実界のものとしてとらえる u ﹁町はずれの並樹の松に/お前の切な願ひに初かれて/まっ黙に 穂どもが集り/糞を放ち落し/お前にののしり川ぷのを﹂︵﹁追 放と誘ひ﹂︶、﹁自然は限りなく美しく永久に作氏は貧窮してゐ た﹁︵まったく!いまは故郷に美しいものはない︶﹂︵﹁帰郷 者 ﹂ U と、伊東自らの体験に基く伊東の現実的故郷を歌う。その故郷 み か 、 ﹁美しい故郷は/それが彼らの実に虚しい宿題である乙とを f 似 数な古来の詩の讃美が証明する﹂︵﹁帰郷者﹂︶ と現実の故郷をみつめた所に、故郷のむなしさを知ることしんな 石 。 そ し て ﹁ 誰 も が そ の 願 ふ と こ ろ に / 住 む と と が 許 さ れ る の で な い ﹂ ︵ ﹁ 川 れ た 日 に ﹂ ︶ と 故 郷 に 対 す る 断 念 を 歌 う 一 方 、 ﹁田舎を逃げた私が都会よ/どうしてお前に敢て安んじよう﹂ ︵ ﹁ 帰 郷 者 ﹂ 反 歌 ︶ 、 ﹁ 汝 恥 知 ら ず の 詩 人 よ ! / あ の 時 あ の 土 地 を 去 る に は 何 が お 前 に 欠 け て ゐ た か / 私 は よ う く 知 っ て ゐ る ﹂ ︵ ﹁ 追 放 と 誘 ひ ﹂ ︶ と 、 故郷に対する憧れも捨てきれないのであ 7 0 ζ の現実の故郷を断念しながら、希求するという一見矛盾した ﹁ 故 郷 感 ﹂ が 解 決 す る の が ﹁ 噺 野 の 歌 ﹂ で あ る 。 ζ の 詩 に 歌 わ れ て いる自然は﹁木の実照り、泉はわらひ・:﹂という明るい風景であ り、その明るい故郷に詩人は帰るととができるというのである。し ル ﹄ 込 e ”ν ノ 、 かしその故郷には﹁時非の木の実﹂が熟れていたのである。自分が 種をまいた花が、そのま h 自分の屍骸を曳く馬の道標となる風景を 見たのである。こ ζ では﹁故郷﹂はもう現実の世界ではない。非時 と は の世界である。非時の世界の故郷に帰るととが﹁永久の帰郷﹂であ り、﹁わが痛き夢よとの時ぞ遂に/休らはむもの!﹂だというので あ る 。 現実の故郷を断念しつつ希求した伊東は、非時の放郷をあつらえ ているのである。﹁痛き夢﹂が休らう非時の故郷。もうそとには時 間もないかわりに自分自身の現実の故郷での体験も、思いでも全て 洗いおとされてしまっている。故郷というものが、そういう個人的 情越のベlルをはいでしまった時、故郷は普遍的故郷の存在そのも の と な る の で あ る ロ ﹁故郷﹂が現実的具象でなくなった時、それは詩人の思念や思考 の形象となるのである。伊東の内部における思念や志向として﹁故 η 4

(4)

郷﹂を希求していることになるのである。 しかし伊東においては事物を普遍的なものに高めようとする態度 は、故郷においてのみではない。伊東の詩に点在する﹁太陽﹂にし て も そ う で あ る し 、 他 の 詩 語 も ほ と ん ど と い っ て い い 位 、 事 物 の 山 中 日 ︵ 酔 民 一 一 ︸ 遍体である。伊東の詩に風景描写の皆無なのは、桑原武夫の指摘の とおりである。又、彼の詩語はほとんど修飾語を伴わずその詩の欣 われている場所、季節、時刻も判然とはしない。伊東臼らの生活の 体験が普遍的に還元されている所以である。 伊東が﹁太陽﹂﹁故郷﹂そのものを希求するのは現実のそれらを 知っていたからである。現実の事物を凝視してその底に潜むものを 知っていたからである。私はそこに、覚めている者の目、透徹者の 日を感じる。その日が冴えてどとまでも行き渡っているのを感じる 時、私はその見えすぎる目に痛ましさを覚えるのである。余りに事 物が見えすきる乙とは、余りに透徹した目で書いてある詩には、そ の 厳 し さ 故 の 悲 劇 感 が た だ よ う も の で あ る 。 透徹者としての認識は、彼の詩におけるイロニ l 的表現からも苅 う ζ とができる。﹁行ってお前のその憂愁の深さのほとに/明る くかし処を彩れ﹂︵﹁行ってお前のその憂愁の深さのほどに﹂︶。 こ の 決 然 た る イ ロ ニ l は 、 ﹁ 寧 ろ 彼 ら が 私 の け ふ の 日 を 歌 ふ ﹂ に 一 広 さ れ る ζ と に な る 。 ﹁耀かしかった短い日のことを/ひとびとは歌ふ/ひとびとの忠 な か ず る ひ出の中で/それらの日は波く/いい時と場所とを選んだのだ/ .・私はうたはないノ短かかった耀かしい日のことを/寧ろ彼らが 私 の け ふ の 日 を 歌 ふ ﹂ 思い出を拒絶しなければならなかった伊東の鋭い目を感じると同 時 に 、 ィ ロ ニ l 的表現しかできない伊東に傑然とさせられる詩であ る 。 物が見えすぎて、イロニ l 的表現しかできない時、自分自身にし かクセニエを寄せる乙とができない時、陥る所は孤独である。伊東 は詩人として自らの孤独性を高らかに歌い上げている。それは秩鶏 は飛ばずに全路を歩いてくる﹂に見られる、飛ばないで全行程をと っこつ歩いて帰らねばならない秩鶏に警−輸されている、伊東の孤独 なる詩精神である。乙の詩精神が、すさまじいほどに歌いあげられ ているのが、第二詩集﹁夏花﹂中の詩である。 きだめ ﹁ 運 命 p さなり/あ h われら自ら孤寂なる発光体なり﹂︵八月 の 石 に す が り で ﹂ ︶ 自らの運命を﹁さなり﹂いうことばで断定している激しさ、その運 まな 命は、ひっそりと孤独に、自分から光を発つ生き物にすぎないとい う 自 覚 。 ζ の孤独なる詩精神は透徹者としての態度が一生を通じて 変化しなかったのと相応じて変化しない。それは伊東が生誌でいる 問中、透徹者としての目を持ち続け、孤独の世界に生きていたとと を 立 証 す る も の で あ る 。 そ の 孤 独 の 中 で 伊 東 は ﹁ 詩 作 を 覚 え た 私 が 、 行 為 よ / ど う し て お 前 に あ こ が れ な い こ と が あ ろ う 。 ﹂ ︵ ﹁ 帰 郷 者 ﹂ 反歌︶とひたすら詩を創ることによってのみ自らの世界を確立す る。詩作という行為は彼においては、﹁太陽﹂に象徴される生のあ かしともいえるものであったが、その﹁太陽﹂を希求の世界に輝か す作業は、まさに﹁わが痛き夢﹂であったろう。この消そうとして も消すことのできぬ﹁痛き夢﹂がただよっているが故に、私は﹁わ がひとに与ふる哀歌﹂に悲劇性を感じるのである。﹁噴野の歌﹂に おける普遍的故郷に滞りつく乙とが、実に厳しい発想を支える現実 η 〆 ム

(5)

司 , 界を凝視する目がなくなる乙とをな味する乙とに川心い主ると、変り う乙とのない 、 死 に よ ってしかもたらされることのない﹁痛き夢﹂ を持ち続けた伊東が、悲劇的運命感の持ち主であった ζ とが、わか っ て く る 。 ではとのような詩を書いた、詩を ι脅かざるをえなかった伊東の似 独の意識はどうして生れ、どのようにして確 ﹃h 比 さ れ た の で あ る か 。 それは第二立以下に述べるように時代としての 制 約を最も多く 受 け て い る 。 と 同時に似点 の生米の対質も多分に影響 している 。 まず時代の子としての伊点静雄を眺めてみる乙とにしよ う 。 二 、 精神高での悲劇性

2

、 孤独の芯識による悲劇性 昭 和 初

4

代 | それは激励の時代であった 。 近 代 の け 水 の 脈 山 火 に あ って政治的社会的そして

a

X

学的にもめまぐる しい時代であっ た 。 火 学の面からのみ、乙れをとらえていえば 、大正時代の終り頃 か ら 社 会主義巡助が勃興し、昭和初年にはジヤナ l リ ズムを風隣し、昭和 七、八作凶 以必の失業状態を 経験した時 、 ζ の 運 動 は 料 一 端 に 類 応 化 し た の で あ っ た 。 平野謙 は﹁昭和二十年間の文 学をつらぬく特質は ど ζ に あるか。﹃政治と文学﹄ という問題を廻転軸 と し て 、 た だ ひ とすぢに民間せられてゐる乙と、 ヲ て ζ に明治文学にも大正文 学にも みる乙とのできぬ最大のメルクマールがある 。 そのやうな昭和 文 川 f 史 は ち ょ うど昭和 十一年 ごろを境としてハッキリと前則と後期とに ︵間同月三 一 ︸ 区分できる 。 ﹂と述べている。 伊東の京都市国大学入学が大正十五年四月で あ り 、 仙 似 の 処 化 1 川相官 ﹁ わ が ひ と に与ふる哀歌﹂の出版が昭和十年で あることをたゴ ヌ る と 、 ζ の激動の十年間と詩業の匹胎期の十年間が重っているととが わ か る 。 昭和初年代における知識人の苦悩を如 実 に 示 す 事件は、昭和二年 の 芥 川 竜之介の自殺である。激しい社会的現実の胎動の外に自らの 芸術を構え、芸術至上主義の頂点を極めよろとしながらもその近代 的知性のめざめをうながそうとする返しい時代の流れに抗しきれ ず 、 懐惨な苦悶と敗北感の巾にその一小を閉じた芥川冶之介。彼の 死については吉本隆明のよう に徹頭徹尾自己の出身コンブレ y ク ス か ら とらえ、﹁ 時代思惣的な死では なかった。﹂と、とらえるいき か たもあるが、彼の死が与えた影響 は 、 は るかに芥 川 例 人号越えて い る の で あ る 。 三好行雄のいうと ζ ろの﹁彼の死はとりわけ若い知 識者階級 に 大 き な 衝 撃 を 与 え た 。 ﹂ の は 当 時 二 一 才 だ っ た 井 上 良 雄 、 宮本顕 治の芥 川の死のとらえ方をみて みればよくわかる 。 井上も宮 本も芥 川の自殺を﹁自分のもの﹂としてと ら え 、 芥川の到述点を自 己 の 出発点としているので ある。明治三九作爪れ 、 w l 川 町 二 三才の伊 京も彼ら二人 と 同 世 代に凶し、同じな脚点にた つ も の で あ る 。 伊東は芥川を師であ った頴原退成を通じて問銭的に知って い た 。 芥 川は穎原の著﹁蕪村 全集﹂に序文を冴せているのである 。 そ れ だ けに伊東の芥川に関する関心は強かった も の と 川 町 わ れ る 。 京都常国 大学卒業の年、昭和四年に帥に宛てた手紙で伊ぃ収は芥川 を読みな が ら自然主義的な個人 主義の根強さに驚いて、過去の大正的な教養主 義が役にたたな いとなげいている。そしてそういう自分にある﹁芥 川的傾向﹂を克服しようとする態度は、井上良雄、宮本顕治と悶じ く 時代意識を反映したものであった 。この﹁芥川的制向﹂とは﹁本 から現実へ﹂︵﹁大将寺伝輔の半 牛﹂︶つま り 間 念 よ り 行 動 が 万 円 座

- 2

4

(6)

-であることを知りつつ、それが常に憧れの段階にとどまっているこ とを示すが、それは伊東においても井上、宮本においてもいちよう に い え る ζ とであり、それが彼らの出発点であった。 では、社会主義運動へ身を呈することもなかった芥川を出発点と した伊東の、乙の運動への態度はどうであったろうか。 伊東の最も古い社会主義運動への関心を諮る書簡は、大正十五年 一月十五円に治安維持法が最初に適用された京大事件について述べ たものである。これにはまだ社会主義運動全体の意義を深く究めよ うとする態度はみられない。ところが昭和二年になると次のような 意 味 深 長 な 手 紙 が で て く る 。 ﹁世の中がひどく退くつになるようです。淋しさはどうやら返却 しましたけど、一層惑い退くつという魔物が私の胸に這いよって 来たらしうございます。青年らしい自のかがやきも自然と曇って 行くのが自分でもわかる織です。大変危険な思惣の変転期に立っ て ゐ る の で す ね 。 ﹂ 伊東の乙こでいう﹁大変な恩恕の変転期﹂とは、大正的個人主義 から時代の要求に従って出現した社会主義運動ヘ真剣に目を向けざ るを得なかった ζ とである。それは、伊東がとの書簡の前後に親驚 や法然の他力の教えに苦しみの解脱を求め﹁自然に参入するとと﹂、 つまり、社会主義運動への行動と観念の相克に悩んでいたことから も 想 像 で き る . 昭和四年住吉中学に就職後ほどなく彼には、略物史観に真剣に唱と りくむ態度がみえてくる。大阪一のブルジョア中学で伊東は﹁乞 食﹂とのニックネームにも平然としていたそうであるが、ブルジョ ア的気風の満ちていたとの学校で決して上層階級出身とはいえぬ伊 東が、社会主義思想に強力にひかれていったととは当然の ζ と で あ る。そして更には小高根二郎のいう如く、伊東の生家の没落も一一層 彼を社会主義の研究ヘ赴かせたのである。就職した年の六月には ﹁ 戦 旗 ﹂ を 読 み だ し ﹁ 朝 に タ ル マ ル ク ス 、 7 ルクスと考えてゐ﹂ ﹁私の目下の仕事は、ともすると私の上におひかぶさりさうになる 虚無的な影を追ひ払って社会的熱情ヘ一途になろうと努力するとと で す 。 ﹂ と ま で 言 っ て い る 。 小 高 根 二 郎 に よ る と 伊 取 は 、 7 ル ク ス の ﹁ ド イ ツ ・ イ デ オ ロ ギ ー ﹂ か ら ﹁ 共 産 党 官 一 士 一 こ さ ら に ﹁ 資 本 論 ﹂ の 剰余価値学説まで読破していたらしいし、凡庸な共践党員など及び もつかぬ知識を蓄積していたそうである。だが伊東は社会主義の勉 強をし、その理解力は人並みはずれた位であったとしても結局は観 念としてしかとらえるととができなかったのである Q 行動には彼は 遂に走れなかったのである。そのことは昭和四年の親友宮本新治宛 ての書簡で暴露する。頭では唯物史観を信じても熱情なしに理解し た時、慮純一を感じるというのである。伊東における﹁パザlロフの 亡霊﹂即生来のニヒリズムと懐疑主義の傾向の依に伊東は﹁芥川的 傾向﹂からぬけ出して、社会主義理論に基く行動にはついにおもむ かなかったのである。彼においては、﹁芥川的傾向﹂を徹底的に克 服することはできなかったのである。その証拠に彼はこの手紙の出 される十日前に﹁私はしばらく芥川をよしてチエホフの研究を続け たいと思います。﹂と宣言しているのである。 伊東が社会主義運動への実践と観念の相克に悩んでいた時、時を 同じくして彼には悲恋という体験があワだ。これは小高根二郎が詳 しく説いているが、相手ほ酒井ゆり子。伊東と郷里を同じくし佐 高の教授でもあった酒井小太郎の二女である。大学時代下宿住いを

(7)

-25-していた伊東は姫路の酒井家で正月を迎えたり、精神の疲れを感じ たりすると酒井家に赴いて安代、ゆり子の姉妹と時を過ごしたので あった。﹁わがひとににつふる哀歌﹂の﹁わがひと﹂もゆり子に仰な ら芯いのであるが、当のゆり子の方は伊東の親友、宮本新治に心を 傾けていたことは小高根二郎の﹁伊東静雄の悲恋と実証﹂に詳し t v 乙の大学入学以来彼の結婚に及ぶまでの︵大正十五年より昭和七 年まで︶長い悲恋は、恋愛においても実践と観念の分離をきたし、 終始片思いであった ζ とにより観念の世界の恋涯に終ったのであ る 。 時代的な運動であった社会主義迷動にも観念の上での興味にとと まり実生活における恋変も相愛というよりハ思いに終った時、伊東 に残されていたのは瓜独の世界であったのである。時代の流れその ものは肯定できても社会主義運動にも参加できずのう/\と教はぺ一 活 を し て い る 伊 東 。 対 社 会 的 に も 隔 絶 さ れ 、 心 に 出 U v つ人からも慰蒋さ れなかった時、伊東が孤独に陥らなかったとは誰も断言はできない。 但し、伊収はそういったいわば後天的ともいえる孤独の忠誠の外 に生来的ともいえる孤独感を身につけていた節がうかがわれる。制止 庭孝男は﹁彼は幼少の時に、世界内存在としての自己の孤独を深く 体験している。彼がそれを﹃煉獄﹄という呼び方で語っている ζ と は、その原体験の深さを何よりもよく物語るものであろう。﹂?と述 べ、﹁山料の馬場﹂を引証として引いている。とこに夫われてい・心 のは存在の恐怖であり、恐ろしい程の狐独感である。 前記した井上は、閉塞された時代の中でキリスト教の刊界に入っ た。叉、宮本は﹁敗北の文学﹂発表後﹁ヂロレタリア 3 父 化 辿 臼 ﹂ で 活躍したり、小林多喜二と共に地下に潜入したりして直接社会主義 運動の中に身を投じた。主義主張の世界にも入れず、恋変にも破 れ、幼い頃、孤独の﹁練獄﹂を体験した伊東は孤独という世界に身 を置くより他はなかったのである。その孤独の特性は、 ﹁相変わらずの懐疑的精神で脅しんでいます。懐疑主義者の悲劇 は然し、彼が信じ込みゃすい点にあるのですな。﹂ という懐疑的精神から事物をとらえ、認識が実践に至らないとい う悲劇の忠誠が常に伊東の内部にはねかえってくるものであったの である。一般の人においても行動と観念の分維はあるものである が、伊東の場合は余りにまともに行動を希求した結果としての分離 であったので、その孤独の深さも相当なものであったといえる。 詩人、伊東静雄の悲劇

l

それは孤独性故のものであったし、昭和 初年代という激動の世代を生き抜いた人の悲劇でもあった。

2

、物の見方による悲劇性 伊東が孤独に陥りその孤独性放の悲劇があることを前述した。し かし彼の﹁わがひとに与ふる哀歌﹂が出版されるまでの悲劇性といっ たものは勿論時代の影響も多くうけ悲恋などの影響も v つ け て い る け れ ど 、 そ の 根 本 に あ る の は 自 分 が 痛 み 、 傷 つ け Jられたと思わねばなら なかった事物への熊度があるのではなかろうか。事物への接し方が 悲劇的であったところに悲劇的詩が生れ、悲劇的民方ヰふ 9 る が 故 に 彼のイロニーとしての行情はあり、彼が詩人であった所以もあるの ではなかろうか。伊東が孤独の中で外界との接触一而をイロニーで表 現している ζ とは前に述べたが、イロニーとい弓表現形熊 J T 取 っ た 事実、それは時代性を地えて人間性にまでかかわるものではなかろ う か 。

- 2

6

(8)

-伊 東 の 物 の 見 方 を 如 実 に 一 不 す 書 簡 は 次 に か か げ る も の で あ る 。 ﹁百合子さん、安代さん。ほんたうに、さう思ひますね、自分の 境遇から︵それが楽しいもの広せよ、苦しいものにせよ︶新しい 生 命 と 力 と を 拾 ひ あ げ 得 な い 人 は 不 幸 で す ね 。 あ き 広 め よ と は 一 ぷ はない。只その境遇に光をもたらす様に努力し得ない人は不幸で す 。 ﹂ と述べた同じ書簡で国木田独歩の詩﹁はたけのある所には人が住 む/人の住む所には恋がある。﹂︵独歩吟所収︶そあげ﹁私は叉そ の後の所に﹃そ乙には又必ず悲劇がある﹄とつけ加えたい。﹂と抗 っ て い る の は そ の と と を は っ き り と 示 し て い る の で あ る 。 伊東には時代が暗ければ暗い程明るくしようという意志があっ た。しかし意志はあっても入生の底に流れている悲劇が心から離れ な か っ た の で あ る 。 こ の 書 簡 は 彼 が ま だ 悲 恋 の 体 験 も し な い 時 に 世 間 かれていることからして、彼の心底には常に悲劇的物の見方があっ た と し て も い い だ ろ う 。 ﹁近頃の私の内的生活に大きな象徴となっている言葉はパルザツ ク の ﹃ 人 間 喜 劇 ﹄ と い う 有 名 な 表 題 。 ﹂ 人生の悲劇性を知ワていた伊東は自らの悲劇的ものの見方を転じ させるために﹁人間悲劇﹂を﹁人間喜劇﹂に転化させようとはかっ たのではなかろうかロ自らの理性の力により悲劇的見方を喜劇にし よ う と し た の で は な か ろ う か 。 ﹁わがひとに与ふる哀歌﹂の悲劇性は、透徹者としての悲劇検で あったが、この悲劇性ば、前述した孤独の意識紋の悲劇性と伊東日日一 d 身の物の見方からくる悲劇性が、相まって成立したものである。 結 ぴ 伊東の詩は勿論、昭和詩史においても厳然とした足跡を残すもの で あ る 。 ﹁ 現 代 詩 の 系 譜 は 藤 村 に 発 し 朔 太 郎 を 経 て 静 雄 に 出 る の で あ る 。 ﹂ 小高根二郎は確信を以てこう述べている。井上靖も叉﹁伊東の詩集 はいずれも日本の現代詩の中に不滅の光も放つもので既に古典とし ての価値をもっている﹂と述べている。私も勿論それに異論はない が私はそういった詩、そのものだけを評価するよりももっと﹁人 閥、伊東静雄﹂をとらえるととに興味を感じている。その意味では ﹁わがひとに与ふる哀歌﹂を悲劇性という限られた観点からのみと ら え た 乙 と に 大 き な 不 満 を 感 じ て い る 私 で あ る 。 ︿卒業論文﹁わがひとに与ふる哀歌論﹂より ーで

2

7

;

:

'

-

=

資 資 資 明 伊 東 静 雄 全 集 ﹂ ︵ 全 一 巻 ︶ ﹁ 伊 東 静 雄 詩 集 ﹂ ︵ 解 説 ︶ 桑 原 武 夫 ﹁戦後文芸評論﹂平野謙 人 文 書 院 新潮文庫 青木書店

参照

関連したドキュメント

ポケットの なかには ビスケットが ひとつ ポケットを たたくと ビスケットは ふたつ.

共通点が多い 2 。そのようなことを考えあわせ ると、リードの因果論は結局、・ヒュームの因果

の総体と言える。事例の客観的な情報とは、事例に関わる人の感性によって多様な色付けが行われ

と言っても、事例ごとに意味がかなり異なるのは、子どもの性格が異なることと同じである。その

したがって,一般的に請求項に係る発明の進歩性を 論じる際には,

光を完全に吸収する理論上の黒が 明度0,光を完全に反射する理論上の 白を 10

2020年東京オリンピック・パラリンピックのライフガードに、全国のライフセーバーが携わることになります。そ

SST を活用し、ひとり ひとりの個 性に合 わせた