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真宗研究18号 004本多弘之「真実教の原理としての二廻向について」

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Academic year: 2021

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真実教の原理としての二廻向について

︵ 大 谷 大 学 ︶ ﹃教行信証﹄﹁教巻﹂の境頭に、親驚は﹁謹案浄土真宗有二種廻向一者往相二者還相﹂と掲げた。 教が真実たる ことの内容を述べるに先立って真実教成立の根拠とも言うべき原理を二廻向として出している。時機相応を理山に 出すとか、教相判釈の正当性を挙げるというようなことをせず、静かに二種廻向によって真実教の宣言を始めてい る乙との意味を少しく考察したい。 苦悩の群萌が、悪を転じて徳を成じ、疑を除いて証を獲ることができる道理、即ち凡小修し易き真教が成立しう るのは、二種の廻向にあるとされる。教のみならず教行信託という仏道体系の全体が回向成就によって成立してい るというのである。浄土真宗なる凡夫直入の仏道が成立する構造の中枢ともいうべきものを往還二廻向に見出した ところに親驚の仏教理解の基点がある。 この二廻向によって、凡夫の上に仏道を成立せしめることができる。 つ ま り教が真実たることを得る。真実教の内容はこのニ廻向を支柱にして建設せられた家の如く、 このこ廻向はその家 を支える二本の大黒柱の如きものであるといえよう。 往・還という動的な方向性を表わす言葉を教学の基本概念にするということは、教が真実たる乙との根底に、愚 真 実 教 の 原 理 と し て の こ 廻 向 に つ い て 二 五

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真 実 教 の 原 理 と し て の 二 廻 向 に つ い て 」 」 ノ 、 凡の衆生が如実修行相応して満足功徳の在在たることを得るという修道的な人間理解があることは言うまでもな ぃ。人間存在が万向性を完うするところに苦悩得脱の光明界が聞かれるとするは、聖道浄土を問わず仏道の基本的 態度である。従って真実教は、求道的存在としての人聞が、遇法によって満足成就しうるという道理を、二種廻向 によって明らかにしたのであるということができよう。木願と名号を以って衆生の志願を満足せんとする﹁大経﹄ の 根 底 に 、 ﹁ 回 向 ﹂ と い う 事 実 が あ り 、 それによって宗教心の成就があることを親驚は見抜き得た。普ねくもろとも に清浄仏国に生ぜんとの往生浄土の願心と、彼土に生じ巳って還来横圃して一切衆生と共に仏道を成就せんとの願 心が﹁廻向 L の 二 相 で あ る 。 これが真実教成立の根本原理であるというのである。 ニ相を以って教学の基礎的な原理とするというところには、仏道と菩薩道を以って人間の悲願を成就せんとする 求道心の歴史による仏教理解があろうと思われるが、更には、人間存在が満足成就しうる為には、 この二相を原則 に立てねばならないという求道心そのものの必然性があろうと拝察される。 苦悩の寄在たる我等が、真に苦悩からの解脱を願うとき、横身横土から彼岸の浄固に対して、 その関係を一方向 的に持とうとする。厭離心を背にした願生心がこれである。我等が苦悩の身心を実感する限り、 この一方向性への 志向から逃れることは殆ど不可能である。しかもこの志向は一方向的なるが故に、永久に満足することがない。横を 捨て浄を欣わざるを得ないにもかかわらず、煩悩具足の我等には、被を捨てるということは全く不可能である。自 力無効とはこの謂である。 しかれば一方向性の欠陥は、実は方向性の如く見えて、五︿の万向に成っていないことであろう。往相の如くみえ て、往生浄土の真相になっていない。願生心といっても欲生心の内なる雑心に気付いていないことである。方向性 あるところにはすでにして方向を与える道理がある。道のところに方向が成り立つ。道なきところには方向は到底

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ありえない。往相あるところに必ず還相がある。万向性が確立するところにはその反対方向の志向が存在せねばな らない。上求菩提・下化衆生と表現された志願も、実は、 乙の方向性が常に二相を持たねば止まないことを示して いる。しかもこれは二つの行為というのでなくどこまでも一事実の二相でなければならない。時を異にし、場所を 異にするものに、二相ということを言う必要は更にない。 一事実のうちに二相を具現せんとするところに大菩提心 の現行がある。菩提心を離れて二相を考えるから時と場所を異にして住相と還相を措くことになるのであろう。大 菩提心が一一事実の内に二つの万向性を満足することによって、真に衆生の方向性を満足せんとするのであろうと思 ぅ。脱苦の神万は、一二千大千世界を焼きつくす炎火の中にも、清涼の空気を呼吸せしむる大菩提心の事実にある。 往還というニ方向の相を人間存在の根源に見るということは、二つの世界と二つの時、浄土と横士、現在と未来 という二つの概念によって、無明の暗夜に流転する有情が、光明の広海に浮んで難度海を渡るという事実を表現し またそれを実現せんことを見据えているのであろう。 一事実のうちに二方向性を見出すというところには、時と所 を絶対に異にする如き領域の間にあって、 それを互に包摂せんとする宗教の悲願がある。すなわち、どこまでも背 反 す る も の が 、 一事実として関係するごとき宗教心の事実を二相として見出すことである。 つ ま り 往 還 二 相 と は 、 方向性によって存在の成就を一示さんとする願心の事実を表わす言葉である。 二つの世界、ニつの時の関係を実現せ るものが、二相として表現された廻向である。 つまり人間存在の満足が往還という両方向性において成立するので あ る 。 一方的な関係によって成就するのでなく、住くということが還るという面を何らかの意味で見出してくるこ とによって、方向性そのものの成就がある。関係ということは、存在の交互的な作用のあり方から起るものである。 所謂、縁起とか因縁という仏教独自の存在把握も、干仔在そのものが関係的に成立していることを示唆している。 こ の関係的存在をより動的に宗教的要求の実相に即して把握するものが、往還二廻向の了解なのではなかろうか。 真 実 教 の 原 理 と し て の 二 廻 向 に つ い て t:;

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真 実 教 の 原 理 と し て の 三 廻 向 に つ い て 入 願生心が真実たることを得るのは、往還二廻向の成就による。往還の願心を成就しないならば、人間存在を満足 せしむることはできない。十仔在の満足は真実の世界との交互的な動的関係の上に成立する。群萌救済の事業を法蔵 の名によって語らんとする釈尊の真意は、往還二廻向の成就こそが人間在在の成就たることを示すところにある。 言い換えれば、真に方向性を完うした人間存在の成就は、二廻向によって成立せる﹁浄土真宗 L にあるのだという のが、親鷺の﹃教行信証﹄作製の基点だったのではないかと思う。 住と還という方向性を示す言葉は、しかして、単に空間的に異なる場所の聞の方向性を示すものではない。もし 空間的表象を以って語るなら、超越的に次元を異にする世界への万向性であるから、内在から超越、超越から内在 という如き表現で語るしかないであろう。しかしここに注意すべきは、往還二廻向という事実が人間存在の根源的 満足を表わすというからには、空間的意味も勿論だがそれよりも、むしろ時間的意味の方向性を有たねばならない ということである。無誰代者の身心不﹄今現在に有して悩み苦しむ凡夫にとって、異なる場所として描かれた救済の 世界は、実は未来なる自己の希望的世界に写されて、凡夫をして願生心を惹起せしむるものとなる。空間的表象と しての彼岸は、願生心の創造的な内容となることを得るならばそのとき、純粋未来の象徴としての世界となる。住 還は而して時間的に次元の異なる場との関係性を示す方向概念であるといえよう。超越といい、次元というも、空 間的な性格を多分に有する言葉であり、方向という語は更に空間的意味あいが強い。而してこれを時間的意味に使 用する場合は、時闘を空間化して了解しかねないという危倶が存するが、人間存在における救済への意欲を表現せ んとする場合には、現在と未来という時間の範鴎を積極的に取り込む為に、敢えて空間的表象を用いざるを得な ぃ。現在の一念に至心信楽して欲生我国の勅命に乗托するという信念の絶対満足は、行の一念に事実として現前す る。その一念の事実とその一念歓喜慶所聞の内景を産み出す源泉を、空間的にも時間的にも充分に表現していかね

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以 な る ま い 。 しかして横土と浄土の聞を往還するということは、現在と未来との関係のニ相性を示している。 一 般 に 現 在 か ら 未来への一万向に時が流れる如く、宗教的世界へ一方向的に帰入せんとする厭離穣土の願生心は、現在の迷妄の情 に芽生えた微かな願いとしての欣求心に過ぎない。人間寄在にとっての未来は、単に現在の延長上にあるべきもの ではない。現在が本当の意味で未来と関係するときには、未来はむしろ現在を意味づけ、現在を変革せしめ、現在 を充実せしめる原動力となることができる。真に人聞にとって意味ある未来は、現在を支え現在を未来へと力付け て止まないものである。人聞を生かしめる大自然の悲願ともいうべき根本意欲としての法蔵菩薩は、現在の成就の 根元に願心の二相を見出した。ニ相の願心の成就こそ衆生救済の志願の成就であると。過去と現在を完うして未来 に無限の精進力を与える為には、未来と現在を重層的に成就せしめなければならない。現在から未来への関係が同 時に未来から現在への関係と成って来るような二相性を成就することによって、未来が現在を超越して、純粋未来 となって、却って現在の基底となることを得る。 煩悩具足の凡夫にとって永久に不可能なる度彼岸の、更に彼方に還来積国の時を描いて、愈々現在の我等の生死 罪濁なるを知らしめるのは、未来の更に未来なる還相が、実は従如来生せる如来の利他の正意であることを示さん が為である。即ち無上浬繋そのものの、現在の苦悩せる我等に対するはたらきを示さんが為である。しかれば、親 鷺 は ﹁ 証 巻 ﹂ に 、 ﹁然るに二仏の神力また斉等なるべし。但し釈迦如来己れが能を申べずして、 ことさらに彼の長ぜるを顕わした ま う こ と は 、 一切衆生をしてひとしく帰せざること莫らしめんと欲してなり。 乙の故に釈迦如来処々に嘆帰せし めだまえり。すべからく比意を知るべきなり。﹂ 真 実 教 の 原 理 と し て の 二 廻 向 に つ い て 二 九

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真 実 教 の 原 理 と し て の 二 廻 向 に つ い て

との﹃安楽集﹄の文を引用しているのである。無上浬繋を体として、 この苦悩の現実にそのはたらく形を示現せん とするところに、釈尊が弥陀の本願を顕説する意図がある。市して、真に苦悩の群萌を摂取しうるところに、往還 のニ廻向が成就する。我等の貧眠中に萌生せる願生心は、 どこまでも未来に浄国を措いて、しかも得生することを 得ず、また積身に抱いた度衆生心は、到底、名利の作心を超克しえない。しかるに凡小を摂して大浬繋を必定せし め 一切凡小をして適法の生命を歓ばしむるところに、往還のニ廻向を成就しうるとするのが、﹃大無量寿経﹄の真 意である。往還二廻向を欠くならば、浄土教は単なる未来教に堕する。真に現在を不退の確信に生かしめ、如来往 還の利益を歓喜せしめることにおいて、選択本願の成就がある。大浬駒栄なる純粋未来を企図的なる未来にのぞき見 ょうとする如きは、往還二廻向が真実教成立の原理たるを確認しえないからではないか。往還二廻向の成就以外に 大浬繋はない。二相として現在に関係する未来の外に純粋なる未来はない。親驚はこれを﹁大聖の真一一日口誠に知ぬ、 大浬繋を証することは、願力の回向によりてなり﹂︵証巻︶と表わしている。 我等の上に﹁聞其名号信心歓喜乃至一念至心回向願生彼国即得往生住不退転﹂という事実が成立する背景に往還 を具体化せんとする本願力が存する。彼岸と此岸の関係を、住相と還相によって成就せんとするところに、無上浬 繋を本願建立を通して衆生の上に具現せしめんとする教説の眼目がある。往還を成就するために、木願が選摂され る。而して、本願顕説の根源に柁還二相を成就せる無上浬繋がある。而して無上浬繋というも、刊還二相の成就以 外に独立して存するものではない。顕浄土真実の教法の一切は、机還二相の成就の内面的な意味の広聞にすぎな ぃ。法蔵菩薩の大悲心の根源は、住還ニ相から成る廻向の成就にある。 これを﹃浄土論 L には﹁廻向為首得成就大 悲心故﹂というのであると親驚は了解する。 それを﹁証巻﹂には﹁夫れ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲同 向の利益なり、故に若しは困、若しは果、 一一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまえるところにあらざ

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ることあることなし、因浄なるが故に果また浄なり、知るべしとなり L と い う 。 未来の国との関係をニ相性として成就することを、 二種廻向という。ニ相が共に廻向である。廻向とは﹃論註﹄ によれば﹁凡釈廻向名義謂以己所集一切功徳施与一切衆生共向仏道 L の 意 で あ る 。 一切衆生と共にというところに 往還の二相の課題がある。というよりも﹁普共諸衆生しという課題において、回向が往還に分れる必然性があるの である。おもうが如く助け遂ぐる乙と極めてありがたいからこそ、還相が開示されねばならぬのである。それを成 就せんとするところに回向の課題がある。 ﹃論註﹄が﹁若住岩還皆為抜衆生渡生死海是故言廻向為首得成就大悲心 故﹂と釈するのもその意である。 一切衆生をして共に仏道に向わしめんと願ずることを廻向と名づけるのである と。即ち廻向によって大悲心を成就するのであると。 市してそのはだらきは、 ﹁一切苦悩の衆生を捨てずして心常 に 作 願 す ﹂ ︵ 浄 土 論 ︶ と い う と こ ろ に あ る 。 つまり法蔵書薩の大菩提心そのものにある。 一切衆生の根源から一切衆 生自身を呼んで仏道に向わしめんとする願心そのものが廻向なのである。 未来と現在の関係が二相となっているのは、人間在在そのものに根がある。未来というも、単なる個人的な抽象 的時間としての未来ではなく、自己の成就が同時に他をも成就するような関係において、清浄なる純粋未来のはた らきが願われる限り、超越としての未来は、同時に真の内在としての現在への関係を具体化せんとするものであ る。その意味では、無上浬繋は、個人的安息の境界ではない。真の安心の世界は、 乙の現実の煩悩の林の中に自在 に遊ぶところにあると示される所以である。不住生死不著浬繋の中道、無住処浬繋の菩提心の成就は、自力型道の 菩提心にとっても、三大阿僧祇を貫く永遠の課題であろう。可大経﹄は、﹁こころもことばもおよばれ L ざるその大 難闘を、法蔵菩薩の願心の廻向成就によって完遂せんとする。凡夫自力の願作仏心、度衆生心は、 その一方さえも 絶対に成就することがない。しかもそのニ面が真に成就しないならば、菩提心は成就しない。法蔵が師仏の前に選 真 実 教 の 原 理 と し て の 二 廻 向 に つ い て

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真 実 教 の 原 理 と し て の 二 廻 向 に つ い て 択本願の大事業を決意したとき、願作仏心度衆生心を成就して﹁欲生我国﹂の願心となる乙とを発見した。欲生我 国の展開によって無疑の信楽が成立するところに、 大菩提心の成就を感得した。 凡 夫 自 力 の 願 生 心 は 、 一 自 力 の 回 向をすてはてしるところに、初めて真の大菩提心にふれうる。真の大菩提心のところに﹁廻向﹂の伝が成就する。 廻向の信の事実の外に、大浬繋というものはない。そこに往還の廻向が実現する。﹁欲生﹂が法蔵の悲心の勅命とし て凡夫の身に徹到するとき、願生彼国即得往生が信の一念の内面に聞かれる。前念後念の先後を分明にしつつ、不 断煩悩得浬繋の信念を完うする。そこにおいて現生が願心の与える正定家不退の安心の生活となる。凡夫の作心を 超えた大菩提心のはたらきに帰入するところに、往くことが還ることを成就してくる。保くことが真に還る故郷を 発見することになって、此世に生きる万向が判明する。往還二相によって、人間が人間的に生きることの積極性が 開示される。廻向せんとする大菩提心が、二相に展開することによって、凡夫に不退転の信念を付与することがで きる。杭相のみが求道ではない。往還の二相を一念に聞思し行くこと ζ そ、天親書降が一心を宣布する意味であ る。還相を未来に措いて自我の理想像としている限り、法蔵の悲心は衆生のものとはならない。法蔵の悲願は、 ﹁廻向﹂の事実によって住還の二相を衆生の上に具現せんとするのである。 住相が、衆生の上に真の願生心を発起 せしむるならば、還相こそが我等の正定策不退の信心を確立せしむる根拠ではないか。廻向の二相はともに木願力 の廻向であるからには、未来は我等が附く迷情の延長としての未来であってはならない。純粋未来は、現在の根底 となって現在を支持する大地でなければならない。杭還の二相は、共に衆生を摂取せんとする大悲心の現行として の﹁廻向しの二相でなければならない。不可思議なる仏方は、不可思議なるままに、我等の上に誓願を実現しつつ あ る 。 ﹁ 設 我 得 仏 L の 誓 願 に お い て 、 校還ニ相を実現せんと願ずることは、 未来を抽象的に止めることを許さない は ず で あ る 。

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たしかに往相の結果を基点として還相があるべきである。純粋未来の終局を以って、還相が始まる。それはしか し、未来の中に拙かれたる到達不能の理想的未来を一一百うものではあるまい。永久に尽きざる求道の課題を念々に っ我行精進忍終不悔﹂の意欲を以って遂行し行くものは、住相にも還相にも共に衆生を仏道に向わしめんとする法 蔵願心の具現以外の何ものでもない。廻向を所謂自力の疑心の中で了解せんとする限り、住相も還相も未来の夢中 に描く自我像であり、希望的人間像の投影にすぎない。 その廻向は、努力の彼方にあって努力を勧励する目標にす ぎない。すでにして廻向成就を確信せんとするからには、廻向は本願他力の現行でなければならない。無上浬繋の 徳をそのままにこの現実の苦悩の世間に持ち帰って来ることを、還一相というのであるから、還相他力は﹁証巻﹂に 示される如く﹁阿弥陀如来、如より来生して報応化種々の身を示現したまう﹂ことこそが、 その端的なるものであ る。無限なる悲心そのものが、報応化種々の身を示現するという事実の外に、真の還相なるものはありえない。し かれば、浬繋のありかを教説する一切の諸仏諸菩薩こそが、我等にとって我等を発達して止まざる惑悲心の還相成 就の形である。我等の拙なき利他教佑への作心など、所詮成就しうべくもない未来の幻想である。欲生心成就の果 として現われる還相への自由、願生心の果として与えられる遊煩悩林の自由とは、実は法蔵願心が我等を摂して若 不生者と誓う慈悲心に内包された報応化身への表現意欲である。 ニ相の成就によって、凡夫は徒らに煩悩に迷没するを是とせず、また彼岸に逃避するをも是とせず、 この身に願 作仏心をいただき、同時に本願力廻向の還相のはたらきとしての諸仏善知識との知遇に与る。得道の人ありと信じ て安んじて道を歩むことをうることができる。願生彼国即得往生の正定衆に住することは、 二相成就の現行であ る。静かに聞思して如来の廻向に帰入するところに、すでにして往還の大道が廻向せられであることが確信せられ て く る の で あ る と 思 う 。 真 実 教 の 原 理 と し て の 二 廻 向 に つ い て

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真 実 教 の 原 理 と し て の こ 廻 向 に つ い て 四 かくして﹃教行信証﹄において﹁教巻﹂にのみその原理となる本願を掲げず、文頭に二廻向を出した親驚の意図 は、これによって真実教成立の原理が本願全体を貫く根本思想としての廻向、大悲心の根源としての廻向心にある ことを一不すところにあることは明瞭である。守大経﹄が真実教たる所以としての﹁本願﹂の教示は、 特殊の一願の 中に見出さるべきものではない。教の成立は十七願によるのでも二十二願に依るのでもない。積土と浄土の往還の ところに、凡愚をして証大浬紫風光に与らしめんとする廻向心の成就、 二種の廻向の成就によって、﹁真実教﹂さ らには﹁教行信証﹂たる浄土真宗が成立しているのであると拝察されるのである。

参照

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