リバプール綿花市場の形成と企業者の機能
その他のタイトル The Formation of Liverpool Cotton Market and the Entrepreneur's Function
著者 原田 聖二
雑誌名 關西大學經済論集
巻 12
号 3
ページ 236‑264
発行年 1962‑09‑20
URL http://hdl.handle.net/10112/15471
236
イギリス産業革命期の代表的企業者のもっとも特徴的な性格を︑
( 1 )
た市場機会センス﹂と定義したのは︑チャールズ・ウィルソン
てこそ︑工業の発展が︑急速に行なわれるであろうことはいうまでもない︒したがって︑産業革命以降︑急速な成
長をとげたイギリス綿工業は︑それをめぐる市場組織の十分な形成なくしては︑ありえなかったことは当然である︒
すなわち︑織布業の大規模経営が︑紡績業の大規模経営があってはじめて可能であったように︑綿工業それ自体の
発達は︑綿花市場の十分な形成があってこそ︑はじめて可能であったのである︒なぜならば︑大量の綿花を︑規則
的に︑安定した価格で提供できる機構をもった市場が存在するのでなければ︑巨額の資本を大規模経営の工業に投
( 2 )
下しえないであろうからである︒
以上のように︑イギリス綿工業の重要な一環としての地位を占めるにいたった綿花流通機構︑とくにリバプール 論
文
・ ︑
4
{9‑
ま え が き
C h
a r
l e
s W
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n
﹁市場機会を開発するに必要なオ幹と結びつい
原
である︒活澄な市場活動を通じ
田
リバプール綿花市場の形成と企業者の機能
聖 二
六
237
が あ
る ︒
9
.
ハ プ
ー ル
綿 花
市 場
の 形
成 と
企 業
者 の
機 能
︵ 原
田 ︶
二 七
マッコネル・ケネディ商会
A︑c C o n n e l an d K en
慈
dy
マンチェスター綿花売捌商人は中小紡績業者に信 綿花市場の問題を︑本稿においてとりあげてみたいと思うのである︒しかし︑ ここに注意しなければならないこと
は︑種々の市場現象が︑市場構造・市場組織といった客体的要因のみからは︑必ずしも十分に解明できるとはいえ
ないということである︒これを他面からいえば︑個々の市場の価格の動きは︑ヨリ多く当該市場に活動する商人の
主体的な行動如何に依存し︑しかもまた︑個々の商人は必ずしも経済法則の命ずるままに行動しないということで
ある︒したがって︑われわれは︑その研究の対象を市場構造・企業形態といったような︑経済的・社会的制度ない
し機構のみに求めるのでは︑問題の十分な解明はえられないのであって︑そうした諸制度ないし機構に対応して発
展するところのさまざまな意志決定の自由をもつ企業者の主体的な機能そのものをも研究対象として追求する必要
そこで本稿では︑まずリバプール綿花市場の形成という問題を中心点に据え︑そこに活動する
mi dd le me n
の 役
割を追求しようと思うのであるが︑この点に関する従来の見解は︑ランカシャー紡績業地帯を背景にしたマンチェ
スクー綿花売捌商人
M a n c h e s t e r C o t t o n d e a l e r
の役割を過大視して︑一方の綿花仲買人のはたした役割を軽
視し︑わずかに一八三 0 年のリバプール・マンチェスター鉄道の開通による綿花売捌商人の消失によってはじめて
( 3 )
綿花仲買人の機能を注目しようとするものであった︒すなわち︑
用を与えることによって︑彼らの産業資本蓄積を可能ならしめ︑イギリス綿工業発展に寄与するところ大であった
.と考えられたからである︒こうした見解についてここでは︑
( 4 )
を取扱った研究によって考察していきたいと思う︒
なるほど︑イギリス産業革命期において︑重要な役割をはたした綿工業における生産構造と`いう視点からするな
238
らば︑基幹的生産部門担当者たる紡績業者に長期の信用を与えて︑産業資本を育成した綿花売捌商人の役割は重要
なものであったかも知れない︒しかし︑同様に︑前に述べた市場組織の発展という視点からするならば︑輸入業者
に信用を与えて︑綿工業の飛躍的な発展に必要な綿花を大量に輸入することを可能にし︑その専門的な知識と高度
の経営能力でもって一八世紀未に起った怒濤のごとき綿花の流入を充分に捌くことができ︑全世界に比類のないと
いわれるリバプール綿花市場の基礎を築いた綿花仲買人の企業者的機能を無視することはできないのである︒
このような視点から︑ したがって︑われわれは︑
( 5 )
書を分析した研究によるて︑リバプール綿花市場形成期における綿花取引の中心的アククーとしての綿花仲買人に
( 6 )
スポット・ライトをあて︑ダービイのストラット家
W.G .
an d f .
St ru tt C o.
及びダーリイ・アビイのエバンズ
( 7 )
家
Wa lt er Ev an s a nd o S ns
.
を取扱った諸研究から︑以上のような綿花仲買人の近代的機能をフルに活用して︑
綿工業発展に重要な役割をはたした紡績業者の市場組織者としての機能をあとづけたいと思うのである︒
関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第三号ウォーターハウス家
Ni ch ol as Wa te rh ou se
・a nd Co .
の営業文
註
(1 ) Ch ar le s W il o s n, T he En tr ep re ne ur n i th e I n du s t ri a l R ev ol ut io n i n B r i ta i n ( H i st o r y, Vol•
XL
I I, No .1 45 ) p . 1 0 3 . (2 ) S ch u l ze ‑ G ae v e rn i t z, Th e C o tt o Tn ra de in En gl an ad nd on h e t C o n ti n e nt . 1 8 9 5. p . 7 3 .
山崎覚次郎訳﹃大工業論﹂
七三ベージ参照︒
(3 ) hT om as El l i so n T, he Co t t on Tr ad e o f G re at B r i ta i n : i nc l u di n g a Hi st or y of h e t
Liverp 0
o l C ot t o n M ar ke t a nd of h e t L i v er p o ol C ot t o n Br ok er
s ︑
A ss o c ia t i on . 1 88 6 , S yd ne y
J.
Ch ap ma n, T he La nc as hi re Co t t on I nd u s tr y 1 9 . 0 4.
上記二文献に依拠した中川敬一郎﹁リヴァプール棉花市湯の発達﹂︵﹃経済学論集﹄第ニ︱巻第六号︶及び佐藤明﹃イ
ギリス産業革命の構造﹄二六ページ以下参照︒
(4 ) G. W. Da n i el s , Th e Ea rl y Re co rd s o f
a
Gr ea t Ma nc he st er C ot to n Sp in ni ng i F rm . (E co no mi c J o ur n a l, V ol . XX V, No . 9 8 . 1 91 5 . )
中川敬一郎﹁イギリス綿業
おける綿糸・綿布市湯組織の発達﹂︵﹁経済学論集﹄第二三巻第四i 1
号︶参照︒
ニ八
239
リ.ハプール綿花市場の形成と企業者の機能︵原田︶
綿花輸入港となったのは︑後述するように︑ 通常いわれているように︑リバプールの発展は︑
二 九
マンチェスター︑ランカシャーといった産業的後背地を控えて
て も
︑
﹁ リ バ プ ー ル の 歴 史 は ︑ ほとんど一八世紀全般にわ
リ パ プ ー ル と マ ン チ ェ ス タ ー 綿 花 売 捌 商 人
(5)F•E•
Hy de , B. B. P ar ki ns on a nd S h e il a Marriner,
Th e C ot to n Br ok er an d t he Rise f o th e Liverpool
Co tt on Ma rk et (Eco
no mi c H is to ry R e v ie w . V o l .
v m ,
No . 1 ) , St an le y D um be ll , T he Co tt on Ma rk et in 17 99 (Econ
om ic Hi st or y N o. 1) (6 ) F it t o n a nd Wad sw or th , Th e S t ru t t s an d t h e Ar kw ri gh ts 17 58 |ROO30•
1 95 8 . (7 ) Je an Li nd sa y,
An
Ea rl y I n du s t ri a l C om mu ni ty (B us in ess
Hi st or y R ev i e w, V ol . X XX IV , N o. 3)
リバプールは︑われわれが本稿で対象としている綿花市場として有名になる以前に︑経済史上すでに︑港として
( 1 )
のその姿を現わしていたのであった︒港としてのリバプールの発展は︑いわゆる後背地産業︑なかんづく︑イギリ ス産業革命の推進者といわれるランカシャー綿工業の発展にさきがけて︑しかもヨリ早いテンポでもってなしとげ られたのである︒それは︑イギリスのあらゆる産業と結びつき︑
それらと対応して︑もっとも顕著な︑そしてもっ
とも堅実な歩調をもって︑発展したように思われるのである︒
( 2 )
たって︑イギリス産業の歴史を説明する﹂とまでいわれている︒そして︑
工場制度の発祥地の一っと考えられるラ
ンカシャーの成長は︑まず第一にリバプールの発展とその貿易によって︑なしとげられたものなのである︒といっ
これは必ずしも綿花の輸入が始まったということを意味しないということに注意しなければならない︒
いたからでもなく︑まして︑綿工業の要請によるものでもなかった︒なぜならば︑リパプールが︑イギリス最大の
一七九五年だからである︒更にランカシャーの成長の原因をリバプー
240
バプールとアフリカ及び西インドとを結ぶ三角貿易の結果であったか︑或いは直接西インドから輸入されたもので
あ っ
た か
︑
そのいずれかは明らかでないが︑綿花はたしかにリバプールに輸入され︑販売された︑ということが︑ リバプールヘ綿花が輸入され始めたのは︑記録的には︑
一 七
0 二年まで遡ることができる︒これらの綿花が︑リ
追 い
越 し
︑
一 七
九 0 年から三年間はロンドンを
さ て
︑
た︑という点である︒ 考察をすすめてゆかねばならない︒すなわち︑ 一七九五年以来︑イギリスにおける支配的な綿花市場となったリバ
関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第三号ルヘの綿花輸入に求めることも︑また同様に誤りといわねばならないのであって︑港としてのリバプールの発展に
( 3 )
こそ求められるべきなのである︒そして︑リバプールの町そのものの繁栄は︑早くも一七紀未に開始されていたと
( 4 )
いわれる奴隷貿易に起因しているのである︒
しかし︑以上のような事情はあるにせよ︑われわれは︑
プールがわれわれの考察の中心である︒しかしこの場合にも忘れてはならないことは︑そのマンチェスクーとの近
接︑その国内航路︑西インドやアメリカとの貿易上の有利な地位及びそのドッグならびに倉庫の設備など︑すべて
がアメリカ合衆国における大規模な綿花栽培の発達以前に︑議論の余地のないほどにまで確立した地位を占めてい
一七八一年から一七九一年までの間にイギリスヘの綿花輸入は︑著しく増大した︒`なかんづく︑リバプー
ルヘの輸入は特に顕著であって︑ ここではリバプールを当面の問題である綿花市場として
そのライバルのグラスゴウ︑ ホワイトハーベン︑ランカスクー及びプリストルを
凌駕して︑当時イギリスで最大の綿花輸入港であったロンドンにさえ肉迫し︑
一七九三年︑一七九四年の二年間は一時的に首位をゆずったが︑
( 6 )
入港となったのである︒ 一七九五年以来イギリス最大の綿花輸
1 0
241
リパプール綿花市場の形成と企業者の機能︵原田︶
エリソンによれば﹁
d e a l e r
の 幾 人
c o t t o n d e a l e r
とも称せられていたのである︒すなわ
( 7 )
当時の商人の間で交わされた手紙の断片から推測できるのである︒しかし︑なんといっても︑綿花市場らしい様相
一八世紀中葉以降のことであって︑一八世紀初期における綿花の流通機構は︑種々な絡みあった人
( 8 )
︵9)
的要素のために非常に複雑であるので︑エリソンやチャップマンが説明したように︑簡単に論ずることはできない
( 1 0 )
の で
あ る
︒ いずれにしても︑リバプールに輸入された綿花は︑最終的には︑紡績業者の手に渡ることになるわけであるが︑
その中間に介在する
mi dd le me n
層は実に複雑な構成をもっており︑彼らが実際に行っていた機能も種々雑多で︑
まず︑われわれは︑輸入業者について触れておかねばならない︒当時︑
この港で輸入業務に従事した人々は一般
に
L i v e r p o o l i m p o r t e r , L i v e r p o o l m er ch an t
或いは
c o t t o n m er ch an t
と称せられるのであるが︑彼らが時に
は︑小規模紡績業者に綿花を小売りしていた故であろうか ち
﹁
c o t t o n m er ch an tとして述べられるべき︑最初の業者は⁝⁝一七七
0 年より前に現われていた︒しかし︑新
聞に掲載された綿花輸入業者名簿に︑彼らの名前が見られなかったが故に︑多分ヨリ正確には
c o t t o n d e a l e r
と
( 1 1 )
みなすべきであろう︒﹂したがって︑チャップマンも︑﹁綿花は⁝⁝
L i v e r p o o d e l a l e r
によって輸入された︒⁝⁝
( 1 2 )
d e a l e r
の中のいくらかは︑彼ら自身輸入業者であった﹂と述べている︒更に︑
かは︑非常に大規模な業務を行っていた︒そして︑彼らの多くは︑彼ら自身のために非常に多く輸入していたので
( 1 3 )
ある︒彼らは事実上︑
me rc ha nt
で あ っ た ︒ ﹂ その地位を明確に決定づけることは仲々困難である︒ を 現 わ す の は ︑
242
が故に︑何かと束縛をうけることとなったのであるが︑ ﹁工場の規模が大きくなり︑紡績業者が資本に対するョリ 一七五一年には︑すでに明確な姿を現わし始めていたのであって︑ ﹁リバプールやランカス リバプールに直接やって来たのであるが︑その旅行は四輪馬車をもってしてさえ九時間かかったのであるから︑
( 1 5 )
第三日目にマンチェスクーヘ帰るのが普通であった︒こうし
た︑地理的・時間的な不便さと︑
花売捌商人といった︑いわゆる
mi dd le me n
層がその活躍の場を見出したのは当然であったろう︒
さて︑綿花仲買人については︑次節にゆずり︑
捌商人は︑リバプールにも存在したが︑
J
その数は少く︑しかも一時的で︑むしろいわゆるランカシャー綿業地帯を
背景にした第二の綿花市場ともいうべきマンチェスクーに多く存在していたのであった︒彼らはマンチェスクー綿
花売捌商人と呼ばれ︑
クーに赴き︑綿花を買付け︑それをわずかな利潤でもって︑製造業者に直接売渡した︒⁝⁝そして毎週リバプール
( 1 6 )
へ行き綿花を買付け︑それを売っていたのである︒﹂
従来の代表的見解によれば︑ マンチェスクー綿花売捌商人は、綿花を長期の信用貸ー—.ニヶ月から、時には八ケ
月'—|で紡績業者に売渡していた。したがって、比較的小規模の紡績業者は、彼らによって信用が与えられている
大きな支配を得ることになれば︑売捌商人から受けている信用による束縛から解放され︑自らリバプールで綿花を
(18)
買うことができるようになる﹂わけである︒ 日目は旅行のために費し︑ 以上の点からするならば︑
関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第三号一八世紀初期においては︑輸入された綿花は︑輸入業者から直接ファスチャン製造業
( U )
者に売るというのが通例の方法であったと考えることができるであろう︒すなわち︑マンチェスター製造業者達は︑
次の日に綿花を仕入れ︑
一方における綿工業の技術的発展からくる要請などが相侯って︑綿花仲買人︑綿
ここでは綿花売捌商人について考察してみよう︒もちろん綿花売
2/J3
リハプール綿花市場の形成と企業者の機能︵原田︶
に満足しなければならなかった︒しかし︑
﹁ こ
の 時
ま で
︑ に
マッコネル・ケネディ商会は︑非常に多くの資本蓄積 であった︒第三期は︑ られるということは︑ 一八世紀未までの時期であって︑当時は︑取引の日からニヶ月目にニヶ月の
手形で支払うという
t w a o n d t w o m o n t h s
の 条
件 で
︑
量づつを買い入れた︒第二期は︑ 一梱から十梱という少
一九世紀の五︑六年頃にあたり︑購入量も五十梱から六十梱と多くなり︑それと
共に︑信用期間も延長され︑四ヶ月から時には八ヶ月以上にわたることがあった︒
この商会の増大した資本力を信頼してのことであり︑更に︑
をしていたので︑信用機関を無視することができたのである︒明らかに︑ このように︑長期の信用が与え それ以上の資本蓄積を促すもの
一八︱二年頃であって︑リバプール綿花市場で︑綿花仲買人を通じて買い入れたのであるが︑
その信用期間は︑以前よりはるかに短期の﹁十日の信用貸で︑三ヶ月の手形による支払﹂という﹁リバプール条件﹂
マンチェスター綿花売捌商人を素通りし マンチェスター綿花売捌商人から︑ それにしたがえば︑まず第一期は︑ て︑原料
1
綿花購入方法を三段階に区分している︒
1マッコネル・ケネディ商会の経験は﹁多分︑
で あ
っ た
︒
んど不可能であったということは明白である︒自由にし得る資本を少額しかもたない商社の発展にとっては長期の
信用で綿花を買い入れるということが本質的に重要なことであった︒このような状態は︑
典型的であったし︑ 一九世紀の商社にとって
(17)'
一般的な経験であったと考えてよいだろう﹂とし
pa ym en t b
y a
th re e mo nt hs 'b il l)
こうした信用期間では︑ 当時行われた綿工業の急速な発展は︑
ほ と
捌商人の役割を高く評価しようとする
Cマッコネル・ケネディ商会の営業記録の分析から得た研究の中で︑売
は︑通常現金払い
(c as h pa ym en t)
といわれる﹁+日の信用貸で三ヶ月の手形による支払﹂
( te n da ys 'c re di t an d
それによると︑綿花がリバプールの仲買人を通じて買い入れられた場合 以上の見解にもとづいて︑ダニエルズは︑
244
関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第三号
( 1 9 )
て︑仲買人に手数料として通例の二分の一︒ハーセントを支払う方が︑ずっと有利であった﹂が故であろうと推論す
る の
で あ
る ︒
して︑更に長期の信用が与えられた︑と説明されているけれども︑ 以上の例示によって考えられる点は︑従来の見解は︑マッコネル・ケネディ商会の綿花購入方法の第一期のみ に︑あてはまるということである︒なぜならば︑第二期に関していえば取引量の増大と共に︑商会の資本力を信頼
これは︑売捌商人の紡績業者支配どころか︑す
が増大したかというと︑ でに︑売捌商人の役割が︑信用授与そのものよりも︑リバプール・マンチェスター間の距離を埋める単に便宜的な 存在となったにすぎないことを示しているからである︒つまり︑すでに︑売捌商人が受動的なものになりつつあっ たと考兄られるのである︒すなわち︑売捌商人にとっては︑長期の掛売という不利な条件をおしてさえ︑紡績業者 と取引しなければならなかったわけである︒そうした状態にも拘らず︑なぜ︑一九世紀の初頭に綿花売捌商人の数
( 2 0 )
それは﹁綿花取引量が増大した﹂からにほかならない︒つまり︑紡績業者が大量の綿花を
取扱うために︑リバプール・マンチェスクー両市場間の隔たりを埋めるものとして︑売捌商人がその存在の余地を
見出したにすぎないのである︒以上のような観点によってこそ︑
人が消失してしまった点も十分納得できるのである︒したがって普通︑
なものであって︑ いわれている綿花売捌商人の役割は一時的
﹁実際︑学者の中には︑当時︑小規模なその日暮し的買い入れ
(h an d‑ to
‑m ou th bu yi ng )
が行われ
ており︑また或る程度までは︑それは不可避であったと主張する人々もあるが︑
( 2 1 )
はほとんどない﹂といわれるのである︒ それを裏付けるような一般的証拠
一 八
年の鉄道の開通という理由だけで売捌商 三 0
︳ 四
245
リパプール綿花市湯の形成と企業者の機能︵原田︶
(2 ) M a n t o u x , op
・Cit••
p .
1 1 0 .
(3 )
﹁今日においては︑リパプールの重要性は︑その背後にあるランカッャー内の工業密集地域に大いに負っているので
ある︒一八世紀においては︑その重要性は正に逆であった︒リパプールはランカッャーの大部分が︑まだ人口稀薄で︑一
やせた荒蕪地であった頃に︑繁栄し︑そして急速に発展した町であった︒そして︑一九世紀のアメリカ合衆国におけ るが如く︑外国貿易において︑蓄積された資本は国内を豊かにするよう使用され︑なお遅れた産業的後背地を発展せ
しめたのであった︒﹂ リパプール港出入船舶
年 1710 1730 1770 as, ooo 1100,000 I 140, ooo
1750 1760
総トンI21,000 I a1,ooo
以下
リパプールの人口増加
年 1700 1720 1740 1760 1773
人 5,000 10,000 15,000 26,000 34,407
Paul Mantoux, T. 加 IndustrialRevolution in the Eighteenth Century, p.109
rP
﹂
I A ロ 入 船
1760年の出船入船(単位艘)
I
9バプール港I
プリストル港ィ宣ニ 二
Anderson, Origin of Commけce, VI, p. 97. より作成
E
65計 803
795 70
計 865
五
註
( 1
)
一八世紀も中葉となると︑当時ロンドンを凌いで︑イギリスで最も重要な港であったプリストルは︑その地位をリ.^
プールに譲った︒
匿
Jg[‑+(帥『進妬儘線
J諏
+11都諜
111血
111KA.P. Wadsworth. and J. De Lacy Mann, The Cotton Trade and Industrial Lancashire 1600‑1780 p. 224.
,0 . (‑.io)
姦盤賦唸 Qi!:! 淀廷器菩旦撼裳や玲
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-R~'°玲 ('.f,!Q や栂
,q°F.E.Hyde, B.B. Parkinson and S. Marriner, The Nature and Profitability of the Liverpool Slave Trade. (Eco加micHistory Review, Vol.V, No.3) p. 368.
(U'l) 留 布 茫含舘窃苫目器笛筵呂巨ぷ
,,̲ 0 <0'0 cY) 0 N ‑.i, 0 <O <O吋〇,,̲ 吾器思器呂臣呂お史与
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~ ~~-翁甜ば翁否 母•
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('°) cf. Ellis
四,
op.cit., pp. 170f, pp.165186 and pp. 272296, Fitton and Wadsworth, op. cit., p. 272, S. T. Chap‑man,T. 加
LancashireCotton Industry, p.113, S. Dumbell, Organisation of the Cotton Market in the EighteenthCentury (Economic Journal, Vol. XXXIII, No. 131) p. 364. Jean Lindsay, op. cit., p. 282 etc.
(t‑‑‑) Stanley Dumbell, The Beginnings of the Liverpool Cotton Trade. (Economic Journal Vol. XXXIV, No. 134.) p. 279.
(co) Ellison, op. cit., pp. 155f.
(a,) Chapman, op. cit., pp. 113f
(~) Dumbell, Organisation of the Cotton Market in the Eighteenth Century (Economic Journal Vol. XXXIII, No.
131) p. 364, Id., The Cotton Market in 1799 (Economic History, No. 1) p. 145.
(:::::) Dumbell, Organisation of the Cotton Market・in・the Eighteenth Century (Economic Journal Vol, XXXIII, No. 131) p. 366.
(~) Chapman, op. cit., p. 113,
ユ
117リバ・プール綿花市湯の形成と企業者の機能︵原田︶
︳ 七
( 1 3 ) E l l is o n , o p . cit••
p . 1 7 5 . ( 1 4 )
Dumbell•
Th e C ot to n M ar ke t i n 1 79 9 (E co no mi c History•
No . 1 ) p . 1 4 5 . この点については︑ワーズワースも﹁大
規模製造業者は︑常にこのリパプール市湯と直接の接触を保っていた﹂と述ぺている︒Wadsworth
an d Ma nn , o p .
込 . ,
p . 2 32 . ( 1 5 )
Dumbell•
Th e Big gi nn in gs f o th e Liverpool
Co tt on Tr ad e (Econ
om ic
] o z
̀ rn
al Vo l . XXXIV•
No . 1 3 4 . ) p . 2 8 0 .
(16)
H. of . C Re ps . i i p .2 9 4 q uo te d b y W ad sw or th an d M an n, op . c i t . , p . 2 32 . ( 1 7 ) C ha pm an , o p . cit••
p . 1 1 4 . ( 1 8 ) G.W•
D an i e ls , h T e E ar ly e R co rd s o
f a
Gr ea t Ma nc he st er Cot to n S pi nn in g F ir m. (Economic
] o z
I ̀ r ミ0
V ol . X XV , No . 9 8 , ) p. 17 9. ( 1 9 ) I b i d . , p . 1 8 0 .
( 2 0 )
当然︑仲買人の役割に対する認識不足に基づく誤解のあった点を考慮に入れなければならない︒リパプールの例であ
るけれども︑﹁売捌商人の数が増大した⁝⁝一八0七年の仲買人と売捌商人の数は半々位であった︒この点における︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑名簿の証拠は︑ある湯合には︑混乱しているということは事実である︒しかし︑仲買人の役割についての明確な認識︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑が徐々にしかなされなかったが故に︑おどろくにあたらない﹂︵傍点筆者︶といわれるのである︒Dumbell̀
Organi•
s at i o n o f th e Co tt on M ar ke t i n th e Ei gh te en th Ce nt ur y (P co no mi c Jo ur na l V ol . XX XI II , N o. 13 1 ) . P : 3 6 9 .
尚︑チャップマンによれば﹁一八一五年において︑マンチェスターには一
00
人以上の綿花売捌商人がいた﹂のであ
った
︒( Ib id ., p . 114)︒ちなみに︑綿花輸入量をみると︑一八0六年の五八︑一七六︑二八三封度から一八0七年には 七四へ九二五︑三
0
六封度に増加︑一八一四年の六
0︑0六0︑二三九封度から一八一五年には九九0︑三0六︑三
四三 封度 に増 加し てい る︒ (B ai ne s, o p . cit••
p . 34 7 a n ! l E ll i s on o p . cit••
p . 1 79 ) (21)F•E•
Hy de , B. B. P ar ki ns on a nd S.Marriner,
Th e Co tt on B ro ke r a nd t he Ri 器o fthe
Li ve rp oo l Co tt on Ma rk et (E co no mi c H is to ry e R vi ew , V o l. V II I N, o. 4) p . 7 7 .
2鼻・a
はたしていた初期の綿花仲買人の大部分が︑ そしてこれを得るということは︑ この港における業者にとって絶対不可欠なことであった︒ ダンベルが指摘したように︑リバプールでの綿花取引の記録は︑ と考えることができるであろう︒すなわち︑
し か
一 七
0 二年まで遡ることができるのであるが︑
( 1 )
綿花仲買人の機能の発揮は︑綿花輸入港として注目されはじめた一八世紀の未まで待たねばならなかった︒われわ
れがすでに指摘したように︑港としてのリバプールは︑早くから発達していたのであって︑主として煙草︑砂糖そ
の他の植民地商品を取扱っていた輸入港であった︒したがって︑リバプールにおける仲買人は︑専門的な綿花仲買
︑ ︑
︑
人がその姿を現わす以前には︑よろず仲買人
g e n e r a l b r o k e r
としてその機能を発揮していたことは当然であった︒
︑ ︑
︑
このよろず仲買人は︑綿花取引に従事する限りでは︑﹁販売代理人として活動し︑買入代理人としては活動しなか
( 2 )
った﹂のである︒したがって︑綿花仲買人としての機能に関しては︑販売仲買人は︑かなり早くから存在していた
この港に輸入された綿花の大部分は︑売り急いだ場合には競売によっ
︑ ︑
︑
て︑そうでない時には︑個人取引によって︑よろず仲買人を通じて売られたのであった︒
一八世紀未になると︑輸入綿花は︑ほとんど専門的綿花仲買人を通じて販売されるにいたったのである︒
ここに︑注意しなければならないことは﹁綿花仲買人の機能はよろず仲買人による専門化を通じて徐々に発展した
( 3 )
のではなかった﹂ということである︒﹁この市場においては︑経験と供給された原料についての知識をもった人々
が 要
請 さ
れ た
︒
し︑同様に重要なことは︑産業的後背地域の技術化に基づく要請を理解することであった︒だから︑重要な役割を
マンチェスクー及びその他製造業地域からリバプールヘ移住した人々
し か
し ︑
リ バ プ ー ル 綿 花 仲 買 人 の 機 能
関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第三号
八
249
( 4 )
であったということは︑何ら驚くにあたらないのである︒﹂
エ リ
ソ ン
は ︑
その著書の中で︑九名の綿花仲買人を挙げて︑
一 九
ハ イ
そのうち五名までは以前にマンチェスターその他の
一八四一年四月二日に発行された最初の綿花仲買人組合の名簿によると︑ 製造業地帯で働いていた人々であったとし︑他の四名のうちでも︑少くとも一名は紡績業者の下で︑徒弟奉公を終
( 5 )
えた人であったと述べている︒そして︑
掲載されている九 0 名の中で八 0 名は︑最初の九名の下で徒弟奉公を終えた人々の後裔であった︒
初期にリバプールに移住して︑綿花仲買人となった人達は︑すでに技術的要請に応ずる或る程度の知識をもって
いたが︑更にそのことが︑彼らと港との密接な関係や︑組織的能力や︑かなりの先見の明と誠実性及びたえずこの
事業へ投資しようとする心構えなどと結びついて︑世界的に有名な綿花市場の基礎を築くにいたらしめたのである︒
以上のような︑仲買人階級の勃興と︑ その勢力の拡張は︑リバプールの代表的綿花仲買業者︑ ニコラス・ウォー
クーハウス商会
Zi c h o
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W a
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C o .
の歴史から説明することができる︒ウォーターハウスは︑ボオルトン
のファスチャン製造業者の下で徒弟奉公を終え︑しばらくの間マンチェスターの綿業ウェアハウスで働いた後︑リ
バープルにやって来て︑一七八二年に綿花仲買人として事業を開始した︒彼のリバプール綿花市場における名声は︑
まず︑当時の有力な輸入業者の﹁販売仲買人﹂として活動することによって確立された︒しかしそれとともに︑買
( 6 )
入仲買人として活躍したことも︑一七八四年の記録に見られるのであって︑その顧客の中には︑アークライト家︑
( 7 )
ス ト ラ ッ ト 家 を 始 め 多 く の 有 名 な 紡 績 業 者 を 含 ん で い る の で あ る
︒
﹃
もちろん︑残存記録は限られた一商会に関したものであるにすぎないけれども︑それがリバプール綿花市場形成
期の数年間にわたるものである点からみて︑かなり重要視してよいのではないかと考えられる︒したがって︑
リパプール綿花市場の形成と企業者の機能︵原田︶