いわゆる「大陸制度」<Continental System>の歴史 的意義(2)
その他のタイトル The Historical Significance of the Continental System (2)
著者 吉田 静一
雑誌名 關西大學經済論集
巻 10
号 6
ページ 613‑645
発行年 1961‑02‑20
URL http://hdl.handle.net/10112/15533
613
│﹁大陸封鎖﹂ーの完成ーー
﹁大 陸封 鎖﹂
9の自壊︹以上本号︺
﹁大陸制度﹂の歴史的意義
いわゆる﹁大陸制度﹂
A
C o n t i , n e n t a l
System
•
の歴史的意義︵吉田︶
︹ 四 ︺ ︹
I V
︺
︹ 皿 ︺ ︹
I I
︺関税制度の再編と推移
ベルリンおよびミラノ勅令
︹ 三 ︺
︒ ︹
I
︺︹ 皿 ︺
l I
︹︺ ︹
I
︺︹ 二 ︺ ︹ 一 ︺
﹁大陸制度﹂成立の歴史的前提
フランス革命における保護制度の形成
保護 制度 と︐
﹁産 業の 自由
﹂
﹁大陸制度﹂への展望
﹁大陸制度﹂の形成と展開
イギリス・フランスの産業・市場競争 問題視角
︹以 上前 号︺
の
吉田
歴 史 的 意 義
いわゆる﹁大陸制度﹂^
C o
n t
i n
e n
t a
l
System
•
静
( 二 )
五
も と
よ り
︑
い る
よ う
に ︑
そ れ
を ﹁
ベ ル
リ ン
な い
し ︑
ラ ノ
勅 令
﹂
︹ 三 ︺
﹁ 大 陸 制 度
﹂
形 成 と 展 開
﹁大陸制度﹂が︑普通︑イギリス製品にたいする禁止的関税︑
イギリス商品の没収および焼却︑ そしてまた占領ないし併合地域の果しなき拡大といった︑
レオンの政策にたいしてあたえられている名称であることは︑さきに指摘しておいたとおりである︒ところで︑す
でにここにしめされているように︑
であり︑したがつてその完整形態をどこでおさえるかによって﹁大陸制度﹂の歴史的意義もまた異なつてくるとい
える︒もつとも︑
り︑このばあいには︑ この﹁大陸制度﹂は︑みずからのうちにさまざまな側面と要素とをふくむもの
ナボレオンの軍事力を背景とする海上ないし大陸封鎖︑
いった面が前面におしだされることとなり︑
一 八
0
六年以降のという時間的限定がすでに明らかにして
イギリス性商品の没収ないし焼却と
それにはせいぜいイギリスにたいするナポレオンの報復的政策として
の地位があたえられるにすぎなくなる︒
﹁大陸制度﹂がこうした面をもつていたことを否むことはできない︒だがそれにもかかわらず︑ のなかにみるのが普通である︒ ﹁大陸制度﹂の完整形態については︑
の む す び
︹
I l
︺ —「大陸制度」の「フランス的視角」ー
﹁ 工
業 生
産 の
温 室
的 育
成 ﹂
︹
I
︺ いわゆる「大陸制度」A~ontinental
System
•
の 歴
史 的
意 義
︵ 吉
田 ︶
﹁ 帝
国 の
大 陸
植 民
地 ﹂
フランスの海運および産業にあたえられた特恵︑
し た
が つ
て ︑
そ こ
のちにみるとお
一 八
0
六年以降のナポ
五四6111
︹
I
︺との関連のなかで追つていくこととなるはずである︒ に﹁大陸制度﹂の完整形態をみ︑
五 五
これによって執政政府が成立 それにもとづいて﹁大陸制度﹂の歴史的意義をかたることには︑直ちに同ずるこ
﹁大陸制度﹂を︑フランス革命においてその成立をみた保護制度とナポレオン没落後
( 1 )
にも再出する保護制度とを結ぶ線上に置いてみるならば︑おのずから明らかとなるはずである︒すでにあたえてお
いたわれわれの問題視角にとつては︑. ﹁大陸制度﹂を︑その歴史的前提から継承しみずからのなかで拡充しつつ後
代に残すこととなった遺産のもとでとらえることがもとめられるのであって︑したがつてそのばあいにはむしろ︑
﹁大陸制度﹂の︑通常とは異なった側面を浮彫りにすることが必要となつてくるであろう︒以下の︑
の 軌 跡 の 追 行 は ︑ こうした観点にもとづいておこなわれるが︑そこではまずこの過程全体の基底にはイギリス・フ
ランスの産業
1 1
市場競争が横たわっていたことを確認したうえで︑関税制度の再編と推移を︑いわゆる﹁大陸封鎖﹂
し ︑
( 1 )
したがつて︑ここではひとまず︑﹁大陸制度﹂^
C o n t i n e n t a l
system
•
と﹁大陸封鎖﹂^
Co
nt 甘
e n t a l
blockade
•
とを
切り離しておくこととしたい︒両者の同視は︑前者の歴史的意義と位置とを曇らす恐れをふくむからである︒
イ ギ リ ス
・ フ ラ ン ス の 産 業
・ 市 場 競 争
ナポレオンが︑イクリア︑
﹁ 大
陸 制
度 ﹂
オーストリアにおける戦勝とそれを可能にした軍事力とを背景にして︑動揺のなかに
あった総裁政府にクーデクをかけたのは︑ 一七九九年︱一月九日のことであった︒
︱二月一四日︑憲法制定とともにナポレオンは第一執政に就いて︑政治権力を掌握するにいたった︒
ところで︑すでにわれわれの知つているように︑この執政政府は︑一八
0四年ナポレオンの帝位就任によって︑
いわゆる F
第 一
. 帝
政 ﹂
l e pr em ie
に引き継がれることとなるが、•この間フランスは、たえずイギリスの制
rEmpire
い わ
ゆ る
﹁ 大
陸 制
度
J^ Co nt in en霊1
System
•
の 歴
史 的
意 義
︵ 吉
田 ︶
とはできない︒このことは︑
つねとしていたといわれるナポレオンが︑ イギリスにたいして大陸の沿岸と︑ 海権に悩まされつづけた︒と<に地中海東部沿岸地域ヽ西インド諸島をイギリスにおさえられ︑フランス貿易圏の 再建と拡大とを妨げられたことは︑フランスにとつて影響するところ大きかったといえよう︒ナボレオンが︑政権 掌握ご︑貿易圏の回復と拡大とを目的として︑ナポリ王国(‑八
00
年 三
月 一
八 日
︶ ︑
ス ペ
イ ン
︵ 一
八
0
一 年
三 月
ニ ー
日 ︶
︑
ポルトガル(‑八 0 一年九月二九日︶︑との条約締結を推進したのは︑
で
1八
0二 年 六 月 二 五 日 ︑
10
月 八
日 に
︑
れた外交政策が︑
こ の
︑
トルコとの︑旧条約の更新によつて︑黒海航行の自由を獲得し︑
.一七八七年の条約を更新したのも︑同じ意図に沿うものであった︒だが︑もとより︑
また同時に︑
は︑いまさら言うまでないであろう︒ナポレオンのいわゆる
︑ ︑
︑ ︑
かしそれは︑アミアン条約によってひとまず終結せしめられた︒
いわゆる﹁アミアンの平和﹂ h
国i x
d
̀A m i
g s
がイギリスとの間に結ばれたのは︑一八
0二年三月二五日 そうしてその市場とを閉すことにもなること
( 1 )
﹁ 沿
岸 制
度 ﹂
A C R
s tsystem
•
がこれであるが︑し
のことであったが︑イギリスにとつて︑それは︑たんに政治面における平和の回復にとどまらず︑フランスの禁止
( 2 )
的関税の廃止と︑したがつて通商関係の再建でもなければならなかった︒とくにイギリスの貿易商人は︑
年の通商条約にそのまま立返ることを望んだといわれる︒しかし︑この一七八六年の︑いわゆる﹁イーデン条約﹂
がフランス産業に手痛い打撃をあたえたことの記憶は︑まだフラン・ス製造業者の間にうすれておらず︑そればかり
か彼らがこのときほど外国との競争にたいする保護をもとめたことはなかったとさえいわれるのであるから︑この
条約の復活は望むべくもないことであった︒みずからの経済政策を定めるにあたつて産業家たちの意見をきくのを
﹁イーデン条約﹂復活にたいするイギリスの努力にすすんでこたえよう
ー い
わ ゆ
る ﹁
大 陸
制 度
﹂ ^
c g t
日
e Qt a l
$ystefll
•
~
歴
史 的
意 義
︵ 吉
田 ︶
一 七
八 六
このことの自覚にもとづくものであり︑
ロシアとは一八
0一 年
ここにあらわ
五 六
つ い
617
意しなければならないであろう︒ としなかったのは︑ こ の た め で あ る ︒
こ の
よ う
に ︑
なかった︒当時のフランスの産業家たちの間には︑あらゆる通商条約にたいする敵意さえみられた︑といわれる︒ ﹁アミアンの平和﹂は︑必ずしもイギリス・フランス間の通商関係を直ちに回復せしめるものでは
しかし︑たしかにかりそめの平和であったとはいえ︑
むしろ︑われわれの問題視角とそれにともなう時間的前後の関係からみるならば︑
五 七
それをこの敵意のみでおおうことは必ずしも妥当ではない︒
( 4 )
つぎのシャプクルのことばに注
﹁
H︑製造業者が自己の産業のあらゆる原料を望むがままに買付けることは︑自
由たるぺきこと︒口︑政府はこれら原料にたいする関税をごく軽微にとどめ︑製造業者にたいする課税はひかえる
( 5 )
べきこと︒国︑製造品は︑輸出にさいしてこれと同じ恩典をう<べきこと︒﹂言うまでもなく︑ここにしめされて
い る
も の
は ︑
フランス産業の保談と育成との意図であり︑ そこにフランス革命における保護政策体系との継承関係
がふくまれていることは明らかであろう︒そうしてこのばあい︑もとめられていたものは︑
とはいえ︑もとよりイギリスとの︶競争力を獲得させることであり︑そのためには通商関係の全面的断絶は必ずし
・
( 6 )
も得策ではないとされていたことには充分われわれの注意をひくものがある︒ナポレオンもまた︑その後●農業・
( 7 )
技術・商業会議が﹁イギリス・フランス両国の産業が戦争状態にあるかぎり︑両国間の平和を保持すること﹂は不
可能であると宣言するにおよんで︑ アンドレオシィをロンドンに派し︑ フランス産業に対外︵
イギリスとの商議に入った︒だがそれは︑
難航をきわめた︒イギリス政府が︑かつて﹁イーデン条約﹂でえたあらゆる便益の回復に固執したからである︒そ
うしてこの固執の背後には︑当時ルュネヴィル条約によって規定された国境をこえて拡延しつつあったフランスの
勢威と︑その急速な経済復興とにたいするイギリスの不安があったことは︑われわれの容易に推察しうるところで
いわゆる「大陸制度」^
~ontinental
System
•
の歴史的意義︵吉田︶
年 ︑ さ
て ︑
これらの努力と商議とにもかかわらず︑ これに対応するものであろう︒
﹁わが国の製造業の急速な
そ れ
シィのつぎのことばは︑ ﹁大陸におけるフランスの行動︹諸国家の樹立・再組織︺ のにしていたのと同じ精神が︑
いわゆる﹁大陸制度﹂^
Co nt in en ta l
System
•
の歴史的意義︵吉田︶
ある︒それについてイギリス下院の一演説は︑
月一三日︶︑
れたその結果が︑
つぎのガール県知事の声明は︑ つぎのようにのべている︒
そ う
し て
︑
アンドレオ ﹁戦時中フランスをきわめて恐るべきも
( 8 )
平和のいまもなおフランスを恐るべきものにしている︒﹂
は︑平和の事業をいわば物質的手段によって固めるためのものである︒ここで物質的手段とは︑あらゆる併合ない
( 9
)
し属国においてフランス産業がイギリス産業にとつて代ることを意味するのだ︒﹂
﹁アミアンの平和﹂はついにイギリス・フランス間の通商関係を
復活せしめるにはいたらず︑却つてイギリスのマルタ島撤退拒絶を契機にして両国間の戦端は開かれ(‑八0
三年五ここに通商関係回復の希望は完全に失われた︒すでにのべたところが明らかにしているように︑
は︑かりそめの﹁平和﹂がふくまざるをえなかった政治的・経済的緊張の結果であったといつてよい︒
﹁アミアンの平和﹂後のイギリスの輸出は前年比一五ないし二三形の伸びがあったにもかかわらず︑一八
0三
(10)
年には減額に転じたが︑それはフランスの輸入制限政策と海上における競争のためであった︑といわれる︒﹁平和﹂
は経済的緊張関係をいつこうにほぐさず︑却つてそれを目立たせたのである︒そうして︑開戦にともなつてあらわ
イギリス側の海上捕獲および封鎖の復活であり︑
( 1 1
リス商品の没収とへの回帰であった︒
︐ )ところで︑以上のようにして生じた﹁平和﹂の決裂を︑時人はいかなる原因にもとづくものとみなしていたか︒
この間の事情をその一端においてしめすものであろう︒
進展とわが商業の再生とが︑明らかに︑
一 八
0ニ
フランス側の沿岸封鎖と大陸諸国におけるイギ
イギリス政府があえてわが国に宣するにいたった不正な戦いの真の動機で
五 八
619
五 九
ある︒イギリス政府は︑平和が信用を回復させ︑わが国の資本が豊富に産業に投下され︑労働を容易にする機械が
したがつて︑
⁝⁝この貪欲で倣慢な島国は︑やがてフランス産業の競争にたえる
わ が 国 の 産 業 な の
ことができなくなるであろう︒
( 1 2 )
だ︒⁝⁝﹂同じくリヨンの商業会議所もまた︑イギリスは何よりもまずフランス産業の発展を妨げようとしている
ことを︑確信していた︒﹁商業は︑オリーヴの木の蔭で再生しはじめた︒わが国の成功を妬む︑競争相手の国家︹イ
ギリス︺は︑フランス産業に必要な安寧をかきみだすことによって︑あなた︹ナポレオン︺の善行を軽きものにしよ
( 1 3 )
うとしている︒⁝⁝﹂他方イギリスにおいても︑ナポレオンは︑イギリス産業との押えがたい競争にたいする恐怖
から平和を決裂させた︑という判断があり︑またナボレオンは︑産業上の優越を自国に確保するために︑その政治
( U )
的勝利を利用しようとしたという論議があった︑といわれている︒
﹁アミアンの平和﹂をなかにはさむ前後の時期に︑ イギリスとフランスは︑産業の成長と市場の拡
大とをめぐる競争の只中にあったといつてよい︒もとより︑史上︑この時期におけるフランス産業の︑イギリスに
たいする生産力的立ち遅れは︑もはや明らかなことであり︑そうしてまた時人︵とくにフランスの︶にとつても︑
そのことは深く自覚されていたところであったから︑
たいするフランスの挑戦としてあらわれたことは言うまでもない︒そうしてその挑戦は︑以後︑あるいは関税障壁
( 1
)
この﹁沿岸制度﹂の直接の契機をなすのは︑一八0
一年六月五ー一七日におけるイギリス・ロツア航海協定であるが︑これにたいしてナポ>オンは︑何らかの形態で沿岸支配権を掌握し︑イギリスを大陸から閉め出そうとしたのである︒
いわゆる﹁大陸制度﹂^
Co nt in en ta l
SY.stem
•
の歴史的意義︵吉田︶
の布設として︑あるいは﹁大陸封鎖﹂としてあらわれたのである︒
こ の
よ う
に ︑
改良され︑日々増加することに︑気づいた︒
さきの産業
11
市場競争が︑ イギリスによるその主導とそれに われわれが守りとおさなければならないのは︑
いわゆる﹁大陸制度﹂^
Co nt in en ta l S y s t e m ; ; , ,
の歴史的意義︵吉田︶
( 2 )
イギリスの貿易商人は︑平和条約が調印されるや直ちに積荷をフランス諸港に送ったといわれる︒ただしこれは税関の 拒否にあい︑そのため彼らの希望は達せられなかった︒
c f . , L ev as se ur , H i st o i re du co mm er ce e d la Fr an ce ,
t.
、I•
p .
71
.
(3)
Cf••
He ck sc he r, T he C on ti ne nt al system,
p .
79 ,
E . T ar l e , L' un io n ec on om iq ue u d continent
eu ro pe en s ou s Na po le on , d an s R ev ue i s h t or i q ue , t .
16 6, p p
2.
43 , 25 1.
•
4)
C ha p t al , E s s ai sur
e l pe rf ec ti on ne me nt e d s a r ts ch im 1q ue s e n F ra nc e.
( 5 )
C it e par e L va ss eu r,0
p . c i t . , p .
72
(6)
「わが国のエ湯~os
fa br iq ue s n at i o na l e s
1 !
利益をあたえるであろうものは︑一般に信じられているのとは異なって︑.外国製品の輸入を禁ずることにはない︒なぜなら︑この輸入禁止は︑それとともに三つの不便をもたらすからである︒そ の一.つは関税収入を国家から奪うことであり︑第二は密輸に好餌をあたえることであり︑第三はわが国の製造業者の競争 心に刺戟をあたえないことである︒﹂
c i t e pa r L ev as se ua r, i b i d . ・ : : . ャプタルはナポレオンの内務大臣であり︑保護主義者 であって︑あのフリードリヒ・リストは重商主義の歴史と政策論とを学ぷにあたって︑彼の著作をも播いたあとがあると
. い わ れ る
︒ 小 林 昇
﹃ フ リ ー ド リ ヒ
・ リ ス ト 研 究
﹄ 一 四
0
頁参照︒ (7 )・
(
8 )
Cf••
Le va ss eu r, o p c i t . . , p .
73 .
• ( 9 )
T ar l e , o p . c i t . , p .
24 2.
( 1 0 ) C f . , He ck sc he r, op . c i t . , p .
80 .
( 1 1 ) イギリス側は︑一八
O l l i
年五月一七日に︑自国港湾内のフランス︑オランダ船を捕獲︑六月二四日には敵国植民地との
︐中立貿易を規制︑六月二八日1
七 月 二 六 日 に は エ ル ベ
︑ ヴ ェ ー ゼ ル 河 口 を 封 鎮
︑ 一 八
0
四年八月九日には︑イギリス海 映︑北海沿岸のフランス海港にたいする封鎖声明︒フランス側は︑開戦直後ハノーヴァを占拠し︑ハンプルク︑プレーメ ンをおさえて︑イギリス商品︑船舶の大陸への進入を遮断するとともに︑オランダその他の地域でイギリズ商品を没収︒
( 1 2 ) f
r g
ビ
ln at i o n im pr im ee . Le p r e fe t d u d ep ar te me nt u d Gard,
Co mm is sa ir e de le gu e du
gouvernement
…••••
au ma ir e d e l a v i l l e de Be au ca ir e (N is me s, l e
1 0
me ss id or de l' a n X I‑ 29 j u i n
18 03 ),
c i t
. p ar a r T l e, o p . c i t
・ , p .
24 3.
(13) Arc
h. de la Ch am br e d e c om me rc e d e L yo n, P ro ce s‑ ve rb au x de s d e li b e ra t i on s
, 14
( se a n ce du
13
p r a i r i a l a n ,
x r , )
c i t e par a r T l e, ib id em
••
六 〇
62 I
そのもつとも明らかな表現を綿製品にたいする関税賦課ー綿帆布カンタール当り五
0フ ラ
ン︑生地綿布八
00
フラン︑晒綿布一︑
00
0
フランーのなかにみいだしたといえる︒言うまでもなく︑綿製品
は当時その大部分をイギリスが供給していたのであったから︑それにたいする高関税賦課は︑もっぱらイギリス綿
業を対象としたものであり︑それにたいしフランス市場を閉すことによって︑間接的にフランス綿業を保護するこ
ととなるものであったといわなければならない︒なおこれとともに︑同じとぎフランスがこれまたイギリスからの
輸入品であった砂糖の関税を︑七フラン五
0から三
0フランに引き上げたことは︑この一八
0三年の関税率が︑イ
いわゆる﹁大陸制度﹂
A
C o n t
i n e n
t a l
System
•
の歴史的意義︵吉田︶
ま ︑
a
p r
o t
e c
t i
o n
m s
t e
̲
こ と
は ︑
さ て
︑
と い
わ れ
る ︒
Picret
ただ一人であり、•それにたいして政府側は、立法府
っ た
が ︑
革命前後の時代におけるフランス︵初期︶産業資本が︑イギリス産業との競争を恐れ︑たえず保護主義をもとめ
ていたことは︑すでにわれわれのくり返しのべてきたところであった︒
施行した関税率もまた︑ この基本線を一そう強めつつ堅持するものであったといつてよい︒
( 1 )
この一八
0三年の関税率は︑革命戦争のためほとんど実施をみなかった一七九一年の関税率を更改したものであ
その案が法制委員会
﹁関税を国庫収入の観点からのみみるべきではなく︑産業の維持確立として考えるべきであるという
( 2 )
いくらくり返しても過ぎることはない︒﹂
︹I
︺T r
i b
u n
a t
関 税 制 度 の
(14)
C f . , T a r l e ,
O J
> .
c i t
. , pp .
2 4 3 ‑ 4 .
再 編 と 推 移
六
ここに端的にしめされている保護主義精神
! ' e s
p r i t
にかけられたさい︑ 自由貿易の立場からそれに反対したのは︑
C o
r p
s l
e g i s
l a t i
f
においてつぎのような反論を加えた
ビクレ一 八
0
三年四月二八日︑ナポレオンが更改
品の関税をさらに引き上げることによって︑ それを補完することとなった︵二月六日︶︒ そうしてそれについで︑
一 八
0
五年には植民地物産と綿製
いわゆる﹁大陸制度﹂^
Co nt in en ta l
System
•
の歴史的意義︵吉田︶
( 3 )
ギリスにたいして経済的圧迫をもたらすためのものであったことをしめすであろう︒この関税率が︑しばしば﹁平
和﹂決裂の一原因にされるのは︑ このためである︒
この﹁平和﹂決裂は︑さきにわれわれが知ったように︑
フ ラ
ン ス
は ︑
イギリス本国およびその植民地から直接・間接にもたらされる工業製品および植民地物産にたいしそ
の輸入を禁ずるとともに︑ イギリスの海港を出た中立船舶にたいしフランスヘの入港を禁じた︵一八 0
三 年
六 月
二
0
日 ︑
一 八
0
四 年
三 月
一 三
日 ︶
︒ だ
が ︑
このうち後者はその実効をみなかったため︑
一 八
0
六年二月二三日および三月四日の法令は︑すでにここにしめされた傾向にいつそう激しい表現をあたえるこ
ととなった︒この両者は︑同じ年四月三
0日の帝国関税法
C u
s t
o m
s l
a w
s o
f t
h e
E m
p i
r e
のなかに統合されるこ
と と な る が ︑ それは主として植民地物産と綿製品とを対象とするものであった︒
まず二月二二日の法令は︑イギリス製綿布の輸入をいっさい禁じ︑原棉にたいしてもカンタールあたり六
0フ ラ
( 4 )
ンの関税を課した︒この︑原棉にたいする関税の引き上げには︑輸出綿製品にたいする戻税制度の条件が付された
が︑しかしそれは製造業者の間に不満をいだかせることとなった︒それは︑
つとなるであろう︒
ついで三月四日の法令は︑植民地物産の関税を︑
カンタール当り一
00
フ ラ
ン ︑
コ コ
ア ︑
のちにナポレオンの政策の矛盾のひと
ほとんど禁止的といえる額にまで引き上げた︒たとえば砂糖は
カンタール当り二
00
フラン︑コーヒー︑カンタール当り一五
0フランな
( 5 )
どがそれであって︑それらは一八
0ニー三年のニー三倍にあたる額であった︒そうしてこれは︑トラファルガルの
一 八
0
三年五月二二日にはじまるが︑ それにともなって
六
623
敗 戦
後 ︑
フランスが︑植民地との通商を失い︑植民地貿易はますますイギリスの手中におち入りつつあったという
この二つの法令をみずからのうちに統合した匹月三
0日の帝国関税法は︑幾多の改訂をうけながらも一八八一年
までフランス一般関税率の基本をなすこととなるものであるが︑ いかなる国の製品であれ︑モスリン︑
( 6 )
晒綿布および色綿布︑綿毛布︑撚糸などの綿製品の輸入が禁止され︑単糸の関税が引きあげられた︒明らかにここ
で意図されているものは︑綿業を波頭にして進むィギリス産業にたいして打撃をあたえることであるが︑しかしそ
れは同時にフランス産業にたいして有利な条件をあたこることとなるはずであった︒この関税法について政府側が
は実さいにはない︒なぜなら︑もはや外国製織物との競争を恐れる必要がないからだ︒それは消費者にたいしても
余り影響をあたえないであろう︒なぜなら︑それによって織物の値段はごく僅かの比率でしかあがらないであろう
( 7 )
か ら
だ ︒
﹂
さて︑以上にその推移を瞥見した関税制度は︑禁止関税ないし輸入禁止制度と結びつき︑また武力行動と補完関
( 8 )
係にたったため︑その意義にたいして︑しばしば否定的評価があたえられてきた︒そうしてそれにはかなりの根拠
が あ
る こ
と は
︑
え る
よ う
に ︑
そ こ
で は
︑
のちにみるとおりである︒だがそれにもかかわらず︑
いわゆる﹁大陸制度﹂^
Co nt in en ta l
System
•
の歴史的意義︵吉田︶
立法府でつぎのように弁明していることは︑注意されよう︒
六
いままでのべてきたところからその一端が窺
この関税制度が﹁イギリスの経済的優越にたいするナポレオンの挑戦﹂と︑いかなる犠牲をはらって
( 9 )
でもフランス産業の自由な展開を促そうとする意図とを︑みずからのうちにふくむものであることもまた︑否むこ
とはできないであろう︒それが︑貿易商人の間での保留的態度にもかかわらず︑産業家たちの間で賛意と歓迎とを ﹁この法が織物製造業者にたいして支障をきたすこと 事実にもとづくものであった︒
意義において︑ え
た の
は ︑
いわゆる﹁大陸制度﹂^Co nt in en ta l
System
•
の歴史的意義︵吉田︶
( 1 0 )
このためである︒
し か
し 他
方 ︑
それにともなって保護主義としての限界をふみこえるとともに︑みずからのうちに矛盾を累積しはじめたことに
も︑注意しておく必要があろう︒この劇変は︑もとより︑ フランスの海外植民地の喪失︑トラファルガル海戦ご
i L
( 1 1 )
おけるイギリスの制海権の確立︑大陸におけるナポレオンの制覇に応ずるものであるが︑それらの条件はいずれ
も ︑
以 後
︑
この関税制度については︑それが一八
0六年にはいるにおよんで︑きわめて激しい形態に劇変し︑
﹁大陸制度﹂の形質を外的に制約することとなる︒いわば︑この関税制度の推移は︑
﹁ベルリン勅令﹂と﹁大陸封鎖﹂とを準備するものであったのである︒ その形質と歴史的
( 1 )
一七九一年の関税率については︑前掲拙稿﹁フランス革命に苓ける保護主義﹂を参照︒
( 2
)
C it e par E . L ev器
s eu r , o p.
cit••
p . 72
. •
(3)~eckscher,
̲ o p .
cit••
p . 8 3 . Go de ch ot , o p , c i t . , p .5 8 8 .
~e
o p. c i t . p . 8 2 .なお︑細H
民地商品については︑一八
0
二年七月二二日にそれにたいする関税率が定められ︑外国の植民地からくる商品は︑フランス植民地からくる同じ商品よりも︑
低とんどすぺての規定商品については五
0%
︑非規定商品については一
00%
︑高い関税が課せられた︒この差別は︑の ち一八
0
六年にはほとんどなくなる︒(4)この原棉にたいする関税は、かつてはカンタール当り一—三フランにすぎなかったのであるから、それの六0フランヘ の引き上げは︑まさにおどろV
べきである︒ただしそれは低く見積つて︑価格の一〇彩である
9
(5 ) Le va ss eu r o p .
cit••
p . 7 5 .
さきにみたように︑一八
0
二年には︑フランス植民地からくる商品との間には︑差別が設け られていたが︑この法令ではその差が大きく縮められた
0
cf••
Heckscher•
o p. c i t .
︑p .
8 5 .
( 6
)
ナポ>オン自身は︑単糸の輸入を全面的に禁止することをのぞんだといわれる︒しかしそれを敢てしなかったのは︑フ ランスの紡績業者がまだ細番手の糸を供給できなかったためである︒c f . , Le va
器e u
r , o p
cit••
.p . 7 5 , H ec i c sc h e r, o p. c i t . , p .
8 6
.
六 四
62.5
さ れ
︑
できあがつていたのである︒したがつて︑
政策との集成としてとらえることには充分の根拠があるといつてよい︒
いわゆる﹁大陸制度﹂^
c g
巳
nen ta l Syst
e
1 3 >
の歴史的意義︵吉田︶
まえに指摘しておいたように︑ここで﹁ベルリン勅令﹂を準備した地盤といわれているものは︑ひとつにはヨー ロッパ大陸におけるナポレオンの軍事的制覇のことであったが︑さらにそれに加えそのネガティヴな動因として︑ トラファルガル海戦敗北後におけるフランスの制海権の喪失︑そうしてそれにともなったフランス海外植民地の失
六 五
た に
す ぎ
な い
︒
さ て
︑
いわゆる﹁大陸封鎖﹂を宣言した﹁ベルリン勅令﹂が発せられたのは︑
あ っ
た が
︑
その直接のきつかけをなしたのは︑イギリスの︑北海ならびに海峡沿岸の大陸海港にたいする封鎖宣言
bl oc ka de de cl ar at io n
( 一
八
0 六年五月一六日︶であったといわれる︒だが︑
︹ 直 ︺
67 ) C it e par e L va器 e ur , o p.
cit••
p p. 7 5‑ 6
. この綿製品の輸入禁止を決定するにあたつて︑ナポ>オンは︑プリソト業者オ
ーベルカン
Ob er ka mp f
! . ! 質問をし︑つぎのような返答をえている︒﹁それは︑疑いもなく動揺をひきおこすでありまし よう︒しかし︑一︑二年ののちには確実に克服し︑それによってわれわれは限りない利益をえることとなりましよう︒﹂
(8 )
Cf••
Le
va 器
e g o p. c i t . , p .
・ 76 .
'
( 9 ) T ad e, o p .
cit••
p .
2 4 5 .
(10) L
ev
器a
e i . t r , o p. c i t . , p . 7 5 . Ta de , o p ;
cit••
p p.
2 4 0 , 2 4 5 , 2 5 1
・ ( 1 1 ) Heckscher,
op . c i t . , p . 8 5 , H. Se e , o p
cit••
.p . 8 2 .
﹁大陸封鎖﹂
の完成ー—
も と
よ り
︑ .
﹁ベルリン勅令﹂の発令とそれによる﹁大陸封鎖﹂の形成とを可能ならしめた地盤は︑すでに用意
この﹁ベルリン勅令﹂と﹁大陸封鎖﹂とを︑それに先立つ思想と
ベ ル リ ン お よ び
︑
︑
︑ ラ ノ 勅 令
それはたんなる口実であっ
一 八
0
六年︱一月ニ︱日のことで
﹁大陸封鎖﹂が大陸におけるナポレオンの軍事的勝利と支配とを前提にしてはじめて可能であったこと
( 2 )
は︑いままでくり返し確認されてきたところであった︒ナポレオン自身︑のちに︑イェナの戦勝が﹁大陸制度﹂実
( 3 )
行の前提であったことを指摘していたといわれる︒もつともこのことは︑
て︑これら諸国におけるイギリスの通鹿に﹁最大の打撃﹂をあたえるのに必要な手段をとること︑同時にイクリア
共和国にあるすべての商品を没収すること︑
ハ ノ
ー ヴ
ァ ︑
( 4 )
拗に﹂に妨げることなどを勧告することができたし︑一八〇六年に入ってからは︑イクリア︑ナポリ︑スイスをし
て帝国関税法と同じ体制に入らしめ︑繊維製品をはじめとするイギリス商品の輸入禁止︑イギリス財産の没収を強
制することができた︒だが︑
らぴにバルチック海沿岸をおさえることができたことであろう︒
ロイセン・ロシア戦役にしたがい︑
を撃破したのであったが︑ その月の一四日には︑イェナおよびアウエルシュテットにおいてプロイセン軍
それによって彼は︑ヴェーゼル︑エルベ︑トラヴェ︑オーデルの諸河川およびヴィスト
ゥラ川にいたるまでの沿岸を制御するにいたったのである︒すでに知られているように︑ 義とを決定的ならしめたものは︑ い︒すでに一八
0三 年
︑
他 方
︑
墜をあげることができよう︒もとより︑
ど も ︑ し か し ︑
い う
事 実
は ︑
一 八
0
六
年 一
0
月︑対プ ﹁ベルリン勅令﹂による﹁大陸封鎖﹂の形成とその意 エルベ川︑ヴェーゼル川へのイギリス商船の進入を﹁執 ﹁ベルリン勅令﹂に限られたことではな この後者については︑ナボレオンの決して承認せざるところであったけれ
﹁ベルリン勅令﹂以降における﹁大陸封鎖﹂の強化が︑ フランスの海外植民地の喪失と並行したと
このネガティヴな動因を決してないがしろにしえないことを語っているといえるであろう︒
﹁アミアンの平和﹂決裂にさいしても︑ナポレオンは︑イクリアおよびオランダにたいし
これらの事実にもかかわらず︑
一 八
0
六年の︑プロイセンにたいする軍事的勝利によって︑ナポレオンが北海な
つ ま
り ︑
ナ ポ
レ オ
ン は
︑
イギリスの大陸諸国との
いわゆる﹁大陸制度﹂^をn 庄
n e n t a l
System
•
の歴史的意義︵吉田︶
六 六
627
にあった従属国も︑ ることが前提とされていたのである︒ それによってアドリア海東岸に﹁沿岸制度﹂を拡延していた︒したがつて︑ ナボレオンはすでに︑
六 七
貿易において北海ないしバルチック海沿岸の諸港がもつ比重は大きかったのであるから︑ この︑ナポレオンによる
北海およびバルチック海沿岸の軍事的制圧は︑もっぱらイギリスを対象とした﹁大陸封鎖﹂において︑ほとんど決
定的ともいえるほどの重要性をもつものであったといえる︒
一 八
0
五年八月にイギリス・オーストリア・ロシアの間で結
10
月一八日にはウルムでオーストリア軍を降し︑ ついで︱二月二日には
アウステルリッツにおいてオーストリア・ロシア軍を破つて︑オーストリアをしてプレスプルクの和を請わしめ︑
バルチック海からアドリア海にいたる沿岸と内陸の大部分とを軍事的に制圧していたのであ
﹁ベルリン勅令﹂は︑以上のような前提のうえにたつてはじめて可能であった︒そうしてそれは︑ただたんにフ
ランスのみに適用されるべきものではなく︑ ばれた第三次対フランス同盟にたいし︑
スペイン︑イタリア︑スイス︑オランダ︑デンマーク︑ドイツ︑
いわゆる﹁大陸制度﹂^
C~mtinental
Syst~m
•
の歴史的意義︵吉田︶
る ︒ ところでそれに加えて︑ これより先ナポレオンは︑
そ う し
て一八
0七年七月のティルジットの和約ののちにはロシアなどの同盟国ないし占領国にも適用されるべきものであ
﹁ベルリン勅令﹂の意義はここにあったといわなければならないであろう︒
ただし︑念のために言っておけば︑ここにみたところからさらにすすんで︑
圧によってのみ与えられていたとすることには︑必ずしも全面的に同ずるべきではない︒ナポレオンの制圧のもと ﹁大陸封鎖﹂がナポレオンの軍事的制
﹁ベルリン勅令﹂がイギリス商品の競争の排除を結果する限りにおいては︑それにみずからす
すんで追従したことを見逃してはならないからである。ティルジットの平和ご、ザクセンの製造業者—|親方と労. ﹁ベルリン勅令﹂が発せられたとき︑
商業および工業を育成しようとする意図にほかならないこと︒ その全力をもつてしても封鎖しえない場所︑全海岸線︑帝国さえをも封鎖状態におくと宣言していること︒ 五︑この封鎖権のおそるぺき弊害は︑諸民族間の交通を妨げ︑大陸の工業および商業の痘墟のうえにイギリスの
六︑イギリスの意図は明らかにかくのごときものであるから︑大陸においてイギリス商品の取引をおこなうもの もたない地域の封鎖宣言をおこなっていること︒ 四︑あらゆる文明国民の理性と習慣とによれば︑要塞にのみ適用されるはずの封鎖権
d r o i t
d e
b l o c
u s
を︑無防
備の商業都市および商港︑海港︑河口にも拡大していること︒ある地域が封鎖されるのは︑そこに近づけば直ぐ危
険がせまるように施設がほどこされているばあいにのみ限られているにもかかわらず︑ただのひとつも軍事施設を に拡大していること︒ 働者ーは︑
いわゆる﹁大陸制度﹂^
Co nt in en ta l
System
•
の歴史的意義︵吉田︶
( 5 )
この意味において占領を熱烈に歓迎したといわれる︒
さてそれでは︑以上の前提と地盤のうえに発令された﹁ベルリン勅令﹂とは︑いかなる内容をふくむものであっ
( 6 )
たか︒.それは︑前文と基本規定とにわかれるが︑おおよそつぎの内容のものであった︒
﹁フランス皇帝︑イクリア国王等々たる余は︑
一︑イギリスが︑あらゆる文明国民のおのずから遵奉すぺき国際法を認めざること︒
二︑イギリスが敵国に属するあらゆる個人を敵とみなし︑そうしてその結果︑戦時武装商船乗組員のみならず︑
商船乗組員︑さらに貿易代理人︑貿易事務のため旅行する貿易商人までも戦時捕剪とすること︒
三︑イギリスが︑もともと敵国に所属するもののみに適用されるはずの征服権を︑商業建造物︑商品︑個人財産
六 八
629
一.︑イギリス諸島を封鎖状態におくことを宣言する︒ は誰でも︑それによってイギリスの計画を助け︑共謀者となること︒
七︑イギリスのこの行為は︑初期の野蛮時代にまったくふさわしいものであり︑他のあらゆる国家を儀
i牲にして
この国のみを利するものであること︒
六 九
八︑敵国が︑人間のあいだの文明の結果であるあらゆる正義の観念と自由主義的感情を無視するとき︑それの使
用する武器をそれに対抗せしめ︑それの戦闘様式をもつてそれと戦うことは︑自然法に属するものであること
9以上のことをかんがえて︑余は︑海事法にゆるされた慣習をイギリスにたいして適用することを決意した︒
本勅令の規定は︑イギリスが︑戦争権は陸上においても海上においても同一であり︑いかなるものであれ個人財
産︑軍職に関係なき個人の身体に拡張されるべきものではなく︑また封鎖権は十分な武力によって実際に攻囲され
た要塞に限定されるべきことを認識するにいたるまで︑帝国の基本原則と終始考えられるものである︒
二︑イギリス諸島とのあらゆる貿易︑通信は禁止される︒したがつて︑イギリス宛︑イギリス人宛の︑もしくは
英語で書かれた書簡あるいは郵便は郵送されず︑差押えられる︒
三︑わが軍隊もしくは同盟国軍隊の占領地域に見出されるイギリス臣民は︑いかなる身分︑境遇のものでも︑戦
争捕虜とされる︒イギリス臣民に属するあらゆる倉庫およびいかなる性質のものであれあらゆる商品は︑正当拿捕
と宣せられる︒⁝⁝
五︑⁝・・・イギリス商品の取引はいつさい禁止される︒イギリスに属するか︑あるいはその工場ないしは植民地か
らもたらされる商品はいつさい︑正当拿捕を宣せられる︒⁝⁝
いわゆる﹁大陸制度﹂
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の歴史的意義︵吉田︶l System►