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演劇性と自己構築

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3 1  

演劇性と自己構築

中 村 英 男

自己構築からの逃避

ヘンリー・ジェイムズ (H 四 yJam 田)の『ある婦人の肖像画 J ( T h e  P o r t r a i t  o J   aLa 砂)が自己構築をめぐる物語であるという点については、恐らく言を待た ないだろう。イザベ J レ(r s a b e t)は繰り返し、自分が自己という問題にとらわれ ていることを公言する。彼女は「他の何ものも、私というものを表現できない 事を知っている J ( n r   know n o t h i n g  e l s e  e x p r e s s e s  me 1 ・ ) ( 3 9 8 )と言い放ち、同時に

また、自分が自己という問題に取り付かれていることについて批判的でもある。

l ' m a b s o r b e d  i n  myself‑I l o o k  a t  l i f e  t o o  much a s  a  d o c t o r ' s  p r 田 c r i p t i o n .Wh y  i n d e e d  s h o u l d  we  p e r p e t u a l l y  be t h i n k i n g  w h e t h e r  t h i n g s  a r e  good f o r  u s

, 拙

ifwe were p a t i e n t s  l y i n g  i n  a  h o s p i t a l ?   Wh y  s h o u l d  1  b e  5 0  a 世 ' a i do f  n o t  d o i n g  r i g h t ?  As  i f i t  m a t t e r e d  t o  t h e  w o r l d  w h e t h e r  1  do r i g h t  o r  w r o n g !  ( 4 1 9 )  

意識的に構築されるべきものとしての人生。自分を作るという事について、彼 女の強いられている緊張の度合いがどのようなものかは、次の引用が明らかに する。

I 仕 yt o  c a r e  more a b o u t  t h e  w o r l d 出 岨 a b o u tm y s e l ι ー h u t1  a l w a y s  come b a c k  t o  

m y s e l f .   I t ' s   b e c a u s e  1 1 m  a 世 ' a i d 沼田,l' m a 世 a i d ;1  c a n ' t  t e l l  y o u .  A 1 a r g e  f o r t u o e  

means 仕 ' e e r l o m , and  l ' m a f r a i d  o f 出 a . t I t ' s   5 u c h  a  f i n e 出面 g , and o n e  s h o u l d  make 

5 u c h  a  good u s e  of i t .   I f  one s h o u l d n ' t  one would be a s h a m e d .  And one must 

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3 2   液劇性と自己精華

k e e p  t h i n k i n g ;  i t ' s   a  c o n s t a n t  e 宜 b r t .rm  n o t  s u r e  i t ' s  n o t  a  g r e a t e r  h a p p i n e s s  t o  be  p o w e r l e 田. ( 4 1 9 )  

考え続けなくてはならないー穫の圧力でもあるような自由とは、イザベルが 持つ自己への関心と結びつけて考えるべきものであることは明白であるう。自 分をどのような存在として構築していくか。自由の増大は即ち自己構築に求め られる努力の不可避的増大を意味する。このイザベルの姿はアンソニー・ギデ ンズ(An t h o n y G i d 由 n s ) の言葉を借りれば、再帰的課題としての自己に意識的 にとらわれた人物が描かれた、恐らく文学史上最初の例と考えて良いのだろう

と思われる。

自らが意識的に構築していくものとして自己が存在していることは、 2 1 世 紀を生きる多くの人々にとって陳腐にも響く事実であろう。そのような自己が 本質的に変化の可能性にさらされたものであって、根本的な確信を得ることが 困難な、常なる修整を強いられる不安定なものであることも、身にしみて感じ る瞬間を持つかも知れない。いずれにせよ、自分が自分であることが[不断の 努力」の対象となる苦しさが初めて描かれたこの小説において、結局起こった のはその努力からの逃避であったように見える。

「自らの人生を一個の芸術にするべきだ J( " one o u g h t  t o  make on 出 l 治 awork 

of a r t " )   ( 5 0 7 ) と曝くオズモンド (Osmond) をイザベJ レは結婚の相手として選

ぶ。彼女の耳には、オズモンドの言葉が彼女が求める自覚的な自己構築を約束

するように響いたのかも知れない。しかしより決定的な魅力は、不断の努力と

修整を強いられる自己構築からの脱却の可能性をオズモンドが示していたよ

うに見えた点にあったのではないか。この男が提示した、自己構築の不断の

努力の与える圧力を回避する方法とは、伝統という大きな流れの中に自らを

流し込むことというものであった。「私はしきたりそのものなのです J ( " 1   am 

conve 呂 田 ni t s e 1 f ' )   ( 5 1 1 ) と言い放つて伝統を盲目的に信じ、伝統が近代社会に

おいて根本的には不安定化している事を無視して、それが持つ仮の確からしさ

に自らを委ねることで、自己の探求の「不断の努力」から解放されていると、自

分にもそしてイザベルにも思いこませることにオズモンドは成功する。自分の

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演劇性と自己構築 3 3  

娘や、妻となったイザベルの自由を徹底的に奪うという点で、その伝統への帰 依が客観的にはどれだけ噌癖的反復に酷似しているように見えようとも。

しかし、オズモンドとの結婚を選択することでイザベルが手に入れた不断の 自己構築の努力の回避は、結局彼女自身がそもそも無意識に望んでいたことで もあったようにも見える。イザベ J レはこの推測を補強するように、こう述べる。

「暗い夜に、よく見えない道を疾駆する四頭立ての馬車。それが私の幸福のあり 方なのよ J ("Aswi 宜 c a r r i a g e , o f  a  d a r k  n i g h t , 阻 t t 1 i n gw i t h  f o u r  h <i四国 o v e rr o a d s 由 a t o n e  c a n ' t  s e e ‑ t h a t ' s  my  i d e a  o f h a p p i n e s s . " )  ( 3 6 1)自分を構築せねばならないこと、

そしてその構築した自己が、呆たして根本的な真実を持つものなのか、という ことについての絶え間ない不安と常なる修正の可能性。そういった近代社会に おける本質的に不安定な、終わりのない自己探求から逃れ出る方途を、彼女は 求めていたのかもしれない。

アイデンティテイの外部への依存とも言えるこのような態度は、後期の著作

『密林の野削 ( T h eB e a s t  i n  t h e  J u n g l e )においてマーチャー (M 町 c h e r)が見せた 態度にもうかがえる。彼は、いつか何か特別な事が自分の身に起こることを信 じて待っている。物語の結末は、結局自分には何も起こらないという事を彼が 思い知らされるというものだが、この作品で描かれている、自己構築への意識 的努力の放棄とも言える態度は、オズモンド的な伝統への盲信との関連におい て考えるべき事柄である。意識的な自己構築という観点から言えば、マーチャー はオズモンドよりさらに墜落した変奏に過ぎない。オズモンドが幾分かは自覚 的に伝統への埋没を行っているのに対して、マーチャーは決定的で本質的な何 かが、外部から与えられると決めつけて、主体的自己構築の努力を放棄してし まっており、それが具体的にどのようなものであるのかすら、想像も探求もし ようとしていない語、らである。

受動的な外部依存的な自己構築という観念は『大使達j( T h e A m b a s s a d o r s )に おいても存在する。ストレザー ( s

' e t h e r )が思い摘し型の中に流し込まれる

「無力なゼリー J ( " h e 1 p 1 e s s  j e l l y " )   ( 1 3 2 )としての自分という意識のあり方は、

外部依存性においてマーチャーやオズモンドのあり方につながっていると言え

るだろう。

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34 宜劇性と自己構築

自己構築からの逃避と回心

ジェイムズの描く、このような意識的な自己構築からの逃避とも言える外部 依存的なあり方は、実のところより古い、伝統的とも言える自己構築のあり方 と関連づけて理解することが有効であるように思われる。トロッター ( T r o t t e r ) が述べているように ( 2 0 ) 、西洋文学における自己構築の伝統の一つは、読むこ とを通して、正しい権戚に対して回心をする行為によって達成されるもので あった。すなわち自己は伝統的には、外部の権威によって自らを意味づけるも のであった。

その伝統は、実は 1 9 世紀に至っても存続している。トロッターがあげるのは オーステイン ( A u s t e n ) の『自負と偏見j( p

' d ea n d  P r e j u d i c e ) における例である。

主人公エリザベス ( E l i z a b e 由)は聖アウグスティヌス ( S t . A u g u s t i n e ) がそうした のと同様、ダーシー ( D a r c y )から渡された手紙を読むという行為によって自己 が本来あるべき姿に立ち戻る。「この瞬間まで私は自分というものが判ってい なかった」と。 ( " T i 1 1 也i smoment 1  n e v e r  knew m y s e l f ' )   ( 2 0 2 )   自己満足してい た状態から恥辱の感覚と共に、見失われていた真理とそれを保証する権威が再 認識される。エリザベスは、それまで軽侮し牌脱していた他者を含む世界との 間に、より持続可能な正しい関係を取り戻し、その他者の作る世界の一員とし ての自分を再発見するのである。

もちろん、読むという行為自体は必ず L も回心という自己構築の過程の核心 ではない。自分が間違っていたこと、逸脱していたことを認識し正しい権戚を 再発見すること、そこに回心の経験の本質があるのだろう。グリーンプラット (  Gr e e n b l a t t )が描くトマス・モア(百四回拙 More)の、自らをロンドン塔へ送る ことになったカトリックへの帰依は、その歴史的事例であると言えるかも知れ ない。ある種の確信を伴って正しい自己が見いだされたと感じることが重要な のだが、その判断は個人が敬意を払う他者の存在の発見によって可能となる。

個人の判断や思いを越えたより上位の、そして広く他者から是認されるような

真理を見いだし、その真理が支配する共同体に、ある意味で誤った思いから蛇

立していた自己を溶解させること。このような古い型の自己構築は、その意味

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i

l 宙劇性と自己構築 3 5  

で自己の消失を、一部伴ったものとしての自己生成である。自己が事実上不在 となる事によって、その存在の適否についての不安は広く解消されるのである。

従って逆から言えば、既に見たような、 1 9 世紀末から 20 世紀初頭にかけて ジェイムズが複数の小説に描いている自己構築に関わる不安と困難は、自己の 存在がある程度の可塑性を持ちそれによって個人化されていることが、ある程 度当然視されるような近代社会において、その要請に十分適応しきれないで苦 闘する個人が経験するものだと言える。自己を適切に構築し得ない為に、自己 消失を伴う、いわば伝統的な形での自己構築へと回帰せざるを得なかったので ある。

演劇性と可塑性

1 9 世紀末に至って、イザベルのような人物に自己構築の不断の努力を強いる ことになった自己生成の近代的起源は、 1 6 世紀における演劇性にあった。英 国ルネッサンス期の演劇空間が、欺鵬と偽装に取り付かれていたというトリリ ング ( T r i l l i n g ) の指摘を恐らく念頭において、グリーンプラットはオ J レトマン ( A l 岡田)の著作を基礎とし、その偽装に魅了された状態の持つ意味を解き明か した。彼は自己が伝統的な社会における固定化された状態から、自由に塑形可 能な近代的な自己へと変貌を遂げる瞬間を、シェイクスピア ( S h 池 田 p e 町 ' e )の

『オセロウ J ( O t h e l l o )の中に見いだした。現在のデイベートの技術にも残る「全 く相反する立場を同じような説得力をもって論じられる能力 J ( " p o w e r  1 0 叩阻 k e q u a l l y  p e

四 国

s i v e l yf o r  d i a m e t r i c a l l y  o p p o s e d  p o s i l i o n s " )   ( 2 3 1)。ルネッサンスの 教育課程を通して社会に導入され、演劇というメディアを通して広く浸透して いったと考えられる雄弁術に起因するこの能力こそが、近代社会が伝統的社会 に対して優越的に保持する能力であるとグリーンプラットは言う。

その典型的な優越を示す例としてあげられるのは、近代人の原型でもあるス

ペイン入植民者と接触した伝統的な社会の典型であるルケイア ( L u c a y a )とい

う島に暮らしていた人々の運命である。彼らの内面に存在する死後の天国とい

う宗教的イデオロギ}を利用し、スペイン人植民者逮は自分たちの都合にあわ

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3 6 寅削惟と自己構築

せて彼らを奴隷労働へと駆り立てることを企てる。他者の内面にある素材を利 用して即興的に演技する行為、その同じ力が自己に向けられた時、イアーゴウ ( I a g o ) の言う状態ー私は私が実際にそうであるものとは違うのだーが生まれ る 。

ルネッサンスの教育と共に浸透し、演劇にその具体的な表現を見た自己の可 塑性は、固定化され、それ故安定していた自己しか知らなかった伝統的な社会 に、甚大な不安と懐疑をもたらしたであろう。集団としての他者からの視線に よって定まっていたはずの自分。伝統という権威によって是認されることで明 瞭な形を取っていた自己が、欲望と意志によって形を変えうるものとして認識 されるようになる。可塑性が、自分自身と他人も含む現実を不確かで不安定な ものへと変じる。確かな反復によって成り立っていた世界を根底から覆すよう な状態が生まれ、変容の可能性に常に晒されたものとして、近代的現実が即興 演技と共に立ち現れてくるのである。ルネッサンスの時代に於ける、偽装と欺 鵬への魅了と同時に引き起こされた自己の存在への根本的不安。その不安を慰 撫するものとしての強い信仰への熱狂の結果として起こった清教徒草命。歴史 は演劇性がそれぞれの自己のあり方にもたらした影響を抜きにして適切に理解 することは難しいように見える。

演劇性は 4 0 0 年に渡ってイギリス文学においてフィクションを作り上げる際 の重要な要因であり続けた。自己の可塑性への疑念は 1 9 世紀の初頭における オースティンの作品、さらには既に見た 2 0 世紀初頭のジェイムズの作品にも見 ることが出来る。またジェイムズに影響を受けた同時代の作家、ジョゼフ・コ ンラッド(J o s 叩 hC o n r a d ) の作品にもこの演劇性の問題が深い影を落としてい る。コンラッドにおいて自己の構築が問題になるとき、それはあるべき理想に 対しての現実の不適切さの問題が中心として描かれる場合が多いが、 I 西欧人 の目から見れば J ( ωl d e r  Westem  Ey 田)においては、イアーゴウ以来の歴史を持 つ即興演技的な自己生成の過程が典型的な形で描かれている。

重大な犯罪を犯した後、盲目的な信頼を抱いて助けを求めてきた革命家ハル デイン ( H a 1 d i n ) 。主人公ラズーモ 7 (R 田 u m o v ) は最初彼を助けようとするが、

逃亡の帯助をするはずの御者ジミーアニッチ ( Z i e m i a n i t c h ) が泥酔してしまっ

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演劇性と自己勝第 37 

ていたために、最終的には裏切ってしまう。逃亡失敗への自責の念から自殺し てしまうというジミーアニッチのあり方と、ハルデインを裏切った後、体制側 のスパイとして働くというラズーモフのあり方。この二人の姿はそれぞれ近代 と伝統の二つの自己生成の典型である。

ラズーモ 7の見せた変容は、グリーンプラットの語るスペイン人入植者の行 為と通底する側面を持つ。自分の家に突然革命遂行者が現れたという事実を素 材として、最初に求められた救出者としての自分という役割を現実の展開にあ わせて放棄し、新しい演出を行って、歴史的事実の解釈を変えてしまうことに よりラズーモフは別の自己を構築することに成功する。犯罪者を確保すること に成功した存在として、自らを再定義するのである。事実が演技によって変貌 を遂げ、その演技が新しい現実を生み出す。

この演劇性による変貌によってラズーモフは、ロシア民衆の一人、御者 ジミーアニッチにも、そしてあの J レケイアの島の人びとにも恐らく想像もでき ない、しかしイァーゴウはよく知っている領域へと足を踏み入れる事になる。

ラズーモフは新しい現実をさらに巧妙に受け入れて、ついには自ら政府側のス パイとなってジュネープに乗り込むに至る。彼は確立されているように見える ものを、自分の都合にあわせて把握することに成功し、固定化されていた自己 象から離れていく自由を得る。彼の周辺にいた帝国ロシアの伝統的な世界を生 きている人々には未習得の近代的な能力を会得し始めた存在、それがラズーモ フであった。ロシアの典型的民衆の一人ジミーアニッチが自殺という結末しか 選択できなかったのは、彼が自分の犯した行為を再解釈する能力を持たなかっ た事の当然の帰結であった。

可塑性と欲望

演劇性は、集団から個人を切り分けていく欲望と深く関わった問題である。

演劇性のもたらす自己の可塑性と欲望の関係については、オースティンの作品

が興味深い。可塑性はJ レネッサンスにおいて一般的に偽装や欺縞として受け止

められ強い魅力と共に強烈な不安を産み出す源泉となったが、この自己の可塑

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3 8   摘劇性と自己構築

性に対しての不安と疑念は 1 9 世紀初頭に至っても強く残存している σ

オースティンの『マンスフィー Y レドパーク J ( M a n s f i e l d  P a r k )の家庭内で行わ れる素人演劇の本来の機能が、実は欲望の偽装に過ぎないことを主人公の 7ア ニー ( F a n n y )は見抜いているが、それは演劇的なものと自己の生成との本質的 な関係を措いている。ブアニーは芝居に取り組む人々を本当に動機づけている ものは何かを明確に言い当てている。

F 町 田 y l o o k e d  a n d  l i s t 田 . e d , n o t  u n a r n u s e d  t o  o b s e r v e  t h e  s e 1 f i s h n e s s  w h i c h ,  m o r e  o r   l e s s  d i s g u i 阻 止 s e e m e dt o  govem t h e m   a 1 1 , 阻 dw o n d e r i n g  how i t  w o u l d  e n d .  ( 9 3 )  

利己心という欲望に基づいて変容を求め、演劇性によってそれを達成しよ うとする人々

o

固定化された役割から自らを解き放ち欲望を充足させること を、制度化された演劇の中でしか行えない上記のような多くの登場人物達に比 べて、この小説の中で即興演技の十分な力を示すのはヘンリー・クロフォード (He 町 C 四 時 r d )である。彼が自由自在に自己を変貌させる力を持っており、

そじてそれが即興演技的なものである事が最も印象的に描かれるのはシェイク スピアの朗読の場面だが、その同じ力が物語の後半で、ファニーへの求婚の過 程における彼の自己変容に使用される。

7 ァニーは結局、ヘンリーの見せた変容に対して全面的に信頼を寄せること はないが、彼の変容は欲望と自己の生成の関係、そして規律的自己と即興演技 的自己との関係を幾分戯画的に示していると言えるかもしれない。彼は、ファ ニーの兄への思慕を知ると、自分がその兄のような海軍士宮であることを夢想 する。欲望の対象が欲望するものへと、自らを変容することを願うのである。

結局は欲望を表現するだけに過ぎなかった彼の却興演技は破綻に終わるが、

その欲望に基づく変容は、ダーシーが『自負と偏見』において見せた変容と構

造的には同じものであることを見ておく必要がある。彼らの柔軟性は、『分別と

感受性 J ( S .

s eand S e n s i b i l i t y ) や『マンスフィー J レドパーク』において中心的な

役割を果たすエドワード (Edw 田 d )やエドマンド ( E d m n n d )の見せるぎこちな

さと対照的である。職業選択から求婚に至る様々な側面での彼らのぎこちなさ

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演劇性と自己構築 3 9  

は、彼らの自己の可塑性が如何に低いかという事の証左である。彼らは精神の 固定性において、あのもったいぶったコリンズ ( C o l l i n s ) 氏と同種の人物と見 なすべきである。

共同体や伝統から適切とは認められてはいないが、自己にとって切迫する欲 望に基づいて、共同体や権威からの批判にもかかわらず作り上げられるような 自己。これこそが近代的な意味での自己だとしたら、『自負と偏見 J においてダー シ}が行ったような自己改革は自らのセクシユアリティに基づいた、まさに欲 望を充足させることができるものとして近代的な自己の模範と言うことが出来 る 。

ダーシーは家父長として機能するよう、他者をある意味で蔑視する視線を持 つよう教育され、その教育に基づいて自己を作り上げてきた。最初エリザベス を妻にすることを我慢しようとしたのは、亡父により与えられ是認されていた 自己像への固着があったためであった。彼はエリザベスに対して抱いた欲望を、

彼が規範に従って構築した自己像故に断念しようとした。しかし結局「あきら めようとしたが、無駄だった J ( " I n   v a i n  h a v e  1  s 出 回 l e d . " )( 1 8 5 ) ことを認め、自 己の欲望に基づいて自己の改造に着手する。軽蔑するように教え込まれてきた エリザベスの叔父夫婦らと親しく交わろうとするのは、その手始めに過ぎない。

近代社会における自己の構築は欲望との関わりを無視できない。なぜなら是 認された物事の反復である伝統的社会での自己構築が、固定化された規範の修 得であるのに対して、近代社会における自己構築はそのような規範に対しての マキャベリ ( M a c h i a v e l l i ) 的超克を伴うことが当然視されるからである。そこは 欲望が新しい現実としての未来を生み出すような世界である。そのような社会 においては、共同体での他者からの是認は必ずしも絶対的な基準とはなり得な い。個人の欲望が新しい世界を作り上げ、新しい規範を生み出していくのであ る 。

ダーシーが見せた変容は自己の欲望に基づいた変容であったが、その変容は

ヘンリー‑クロフォード的な即興演技的能力を発揮する『自負と偏見』の悪漢

ウイカム ( W i c k h a m ) を模倣するという側面を持っていたことに注目すべきで

ある。ダ』シーの実父を欺いていたのと同じカを、ウィカムはエリザベスに対

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4 0 寅劇性と自己構築

して行使する。エリザベスの心に既に存在していた偏見を素材としてダーシー への反感をさらに強化させるのに成功する。後にダーシー自身の手紙によって 迷妄が晴らされるまでエリザベスは、ルケイアの島の人々と同様、自らが最初

に信じたものの存在をさらに強固に信じ続けることになったのである。

ウイカムと幼い頃から相知っていたダーシーは、その陰日向のあるを知る故 にうとましく思っていた。後に妹を誘惑されるに及びウイカムへの嫌悪の情は 決定的なものとなる。従ってエリザベスの妹とウイカムとの駆け落ちを知った ダーシー由主蛇掲の如く嫌っていたこの男と直談判の末ある種の取引をまとめ あげるという展開には、重要な意味が読み込まれる必要がある。表面的には、

それは己にとって極端に不快なものすらエリザベスへの愛故に乗り越えるとい う恋愛物語の要請に応えるものだ。それは同時に、欲望と演劇性のもたらす可 塑性という視点から見れば、ダーシーにおいてウイカム的なもの(即ちへンリー 的なもの)との聞に和解が生じた事を暗示していると見るべきである。ウイカ ムがダーシーに見せつけてきた危険な力、最初は妹を次にエリザベスを魅惑し た力である偽装と現実操作の力、これ無しに欲望の充足はあり得ないことを恐

らくダ}シーは知ったのである。

回心と規律的自己

演劇性はその可塑性によってこのような近代社会における自己構築の可能性

を産み出すものだが、それは同時に大きな不安をもたらすものでもあった。自

己の可塑性は 1 6 世紀の世界において引き起こしたのと同質の不安を、 20 世紀

の初頭においても引き起こし続けている。ジェイムズの作品で典型的なのは『鳩

の翼j ( T h e   W i n g s  o f  t h e  D o v e ) においてミリー (M i l 1 y ) のデンシャー (D 田 s h e r )

への思いを、そして「大使達』においてストレザーのヴイオネ ( V i o n n e t ) 夫人

への思いをそれぞれ利用して他者を操作しようとするケイト ( K a t e ) とチャド

( C h a d ) の姿である。ケイトやチャドの具現する即興演技的悪がもたらす奥行

き無しに、これらの作品が重要な作品となり得たとは思われない。しかしこれ

らの即興演技の重要性にもかかわらず、最終的に小説空間を決定づけているの

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演劇性と自己構築 4 1  

はむしろ回心の論理であったように見える。

ミリーのデンシャーへの思いを素材として始められたケイトによる即興演 技にデンシャーが加わった際、彼を動かしていたのは死にゆく大金持ちの娘ミ

リーでなく恋人ケイトへの欲望であった。貧乏故に叶わない結婚という欲望の 充足を目指して、彼のミリーへの即興演技が開始される。デンシャーはケイト に相手にされない哀れな男という、ミリーにとって望ましい現実を演じ始める が、卑劣な裏切りの事実が暴露された後にミリーの見せた、自分を責めようと もしない態度を見て、デンシャーは自分の卑劣な行為が許されたのだと感じ、

ミリーへの思慕を深める。欲望に基づいてあるべき自己の姿から逸脱してい たデンシャーが、最後に「許され捧げられ祝福された J ( l I f o r g i v e n ,  d e d i c a t e d  a n d   b l 田 s e d " )( 3 7 0 ) という受け入れ可能な自己像を手に入れて物語は終わる。

いったんは即興演技的自己の可塑性が達成された『西欧人の目から見れば J

も回心の枠組みに収飲している。ラズーモフはハ J レディンの妹に抱いた恋愛心 から裏切りを告白し、処罰を受け追放されていく。この展開は可塑性によって 新たに構築した自己を維持できず、他者からの是認に基づいた自己像へと回帰 する様を描いていると言える。ラズーモ 7 が選択するのは偽装によって魅力的 な女性と結ぼれる事でなく、その女性との恋愛物語における自己の適切さの方 である。恋人を深く愛する人聞はどのように振る舞うべきかという基準によっ て、ラズーモフは事実を暴露し、演劇性によっていったんは手に入れたものす べてを失う。しかし最終的にはその自己懲罰によって、共同体での是認された 地位を取り戻すのである。

自己の可塑性が、一過性のものとして最終的に否認されてしまう上記のよう な傾向を念頭において 2 0 世紀初頭の小説における自己の問題を考える際、演 劇性と恐らく表裏一体をなすと思われる、近代社会におけるもう一つの自己 生成のメカニズムを考慮に入れる必要があるかも知れない。それはフーコー

( F o u c a u l t ) の言う規律的な自己である。

規律的な自己は、オナニーを我慢するよう期待される中産階級の子弟の自ら

のセクシュアリティへの関わり方を一個の典型として、様々な意味での他者の

判断を付度し、あるべき自己の行動を律しようとする力によって成立していく。

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4 2   演劇性と自己構築

それは個別化され切り込まれた自己の欲望に対する探査を伴っている。いわゆ るパノプテイコン的な監視の下で他人の視線を内面化し、その視線に合致する ように自己の行動を律しでいく自己のあり方である。

規律的な自己の構築は、近代社会における回心という言い方をすることも可 能である。伝統的な自己構築である回心が、言わは放任によって個人に自由と 過ちを許し、しかる後にエピファニ」的覚醒と共に正道に立ち戻る過程である のに対して、近代的規律的自己の生成においては、初めから逸脱が起こらぬよ う個々人は不断の注意を払って規範を参照し続けることが求められている。規 律的自己には、したがって、劇的な転向の場面は通常存在しない。あるべき規 範への準拠という観点から見れば、これら回心と規律による二つの自己の差異 は時間的なずれに過ぎない。それらは、ある程の合意をもって正しさを定めて いる(近代においてはメディアを通して作り上げられる想像上の)共同体への 所属の確認という意味で通底する。規律的自己においては、パノプテイコンの 監視者の視線を取り入れることで、自己の適切性が回心の場合よりも効率的に 達成される。しかし、どちらの場合も他者が作り上げた基準に適合するような 自己が作り上げられているのである。従って 20 世紀初頭におけるデンシャーや ラズーモフによる回心とも見える劇的転向は、遅れて来た規律への服従と表現 する事が出来る。自己が、欲望によって創造的に作り上げられる代わりに、他 者から認められるであろう適切な型へ流し込まれて成立していくのである。

演劇性と同感

演劇性が自己の構築において持つ真の重要性は、それが欲望と可塑性の観点 から、新しい自己を産み出しているだけではないという点にあると考えられる。

演劇性は近代化された回心、即ち規律的自己の生成にも深く関与していると理 解されるべきである。この点について考える際にも、やはりグリーンプラット の即興演技という概念が有効である。

他者内部のイデオロギーを素材として利用し操作するためには、そもそも利

用すべき素材をあらかじめ知っておくことが必須となる。グリーンプラット

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演劇性と自己精華 4 3  

は社会学者ラーナー ( L

即 時

r )が他者への感情移入 ( e m p a t h y ) と呼んだものを 即興演技 u m p r o v i s a t i o n )と名付けたが、それはラーナーが言う所の「自分を他 の人間の状況においてみる能力J('噛ec a p a c i t y  t o  s e e  o n e s e l f   i n  t h e  o t h e r  f e l l o w ' s   s i t u a t i o n " )   ( 2 2 5 ) が「全面的に無私で善意に基づいたものであったことはなかっ たJ("田町田l ye v e r  w h o l l y  d i s i n t e r e s t e d  a n d  b e n i g n " )   ( 2 2 8 )ことを知っていた為で あった。しかし我々は、この他者の利用と操作に深く関わる力が、グリ」ンプ ラットの強調する負の側面にも関わらず、伝統的社会に比してよりダイナミッ クな発展を近代社会に可能にさせた、いわば特異的に近代的な能力であったと いう事実を意識すべきであろう。

この他者の内面をあらかじめ知る能力なしに、近代社会において個人とし て適切な振舞いをすることはほとんど不可能であった。アダム・スミス (Adam Smi 血)が思い描く近代社会での道徳感情は、他者への同感 ( s y m p a t h y )を基盤 にしたものであった。アダム スミスによる、その能力の基礎となる想像力に ついての次の説明は、ほとんどラーナーの他者への共感や、グリーンプラット の即興演技の基礎となる他者への洞察力の説明としても通用するものであるよ うに見える。

By t h e  i m a g i n a t i o n  we p l a c e  o u r s e l v e s  i n  h i s  s i t u a t i o n ,  we c o n c e i v e  o u r s e l v e s   e n d u r i n g  a 1 l   t h e  same t o n n e n t s ,  we e n t e r  a s  i t   w e r e  i n t o  h i s  body ,  a n d  become  i n  some m e a s u r e  t h e  same p e r s o n  w i t h  him , a n d  t h e n c e  f o n n  some i d e a  o f  h i s   s e n s a t i o n s ,  and e v e n  f e e l  s o m e t h i n g  which ,  t h o u g h  weaker i n  d e g r e e ,  i s   n o t   a l t o g e t h e r  n n l i k e  t h e m .  ( 3 )  

アグニュー (Agnew)の見るところによればアダム・スミス的な同感は、必ず 目撃者或いは観客の存在を伴っていた。他人の感じ方を想像する際に必要とな るこの観客こそ、自らを監視する監視者である。人は自己を他者の(想像上の) 視線に叶うように構築していく。パノプテイコン的自己生成の問題を考えてい

るベンダー ( B e n d e r )と演劇性の問題を考えているアグニューが等しくアダム・

スミスによる道徳感情の起源について頁を割いているのは偶然ではない。近代

(14)

44 蹟劇性と自己構築

社会における規範の生成において他者の存在を観客として想像し内面化する力 は、即興演技(~感情移入)を可能にするのと基本的に同じ能力と見るべきで ある。演劇性はその可塑性の前提として他者の内面への洞察を要請する点にお) いて、それ自体、規範の生成にも関わるものと考えることが出来る。すなわち 規律と演劇性は事実上一体となって、近代社会における自己を生み出す装置と して機能していると見ることが出来る。無数の他者が求める基準を内面化する 能力が、同時に可塑性によって他者の求める基準にかなった自己像を産み出し ていく。「他の何ものによっても表現出来ない」ような自己を生み出す事それ自 体が一個の基準として、それぞれの個人がそれを果たすべき基準となっていく。

この小論の冒頭において見た、ジェイムズの複数の登場人物の経験した自己を 巡る緊張状態は、そのような自己吟味が常態化されるに至った有様を描いたも のと言えよう。従って演劇性を即興演技という観点から見る限り、それは近代 性に対置するものではなく、むしろ近代性そのものを作り上げる装置として考

えることが出来るように思われる。

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参照

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