家庭小説の背景 : 明治二十年代前半期『女学雑誌
』の周辺
著者 河北 瑞穂
雑誌名 三重大学日本語学文学
巻 2
ページ 83‑97
発行年 1991‑06‑02
URL http://hdl.handle.net/10076/6442
家庭小説の背景
・1明治二十年代前半期『女学雑誌』の周辺i
はじめに
明治二五年四月一七日、『国民新聞』に、「女学生のホーム
論」と題された次のような記事が載った。
ホームとは日本のものなるか、西洋のものなるか、吾人未
だ執れの産なるやを知らず…ホームとは何物ぞや…吾人は
未だ何物なるやを知らざるなり。ホームの系統原ぬべから
ざる也。ホームは実に怪物なる哉。…怪物なるが故に怪力
を有す。一たび其の触る〜所となるや、猛き虎も描の如く
に眠り、大なる象も犬の如くに使はれ、獅子も其鍵き爪を
失ひ、鷲も其強き翼を折る。
右の文章は、『女学雑誌』に載せられた巌本書拾の旅行記を
とりあげ、日頃「常にホームを説き愛を説く女学記者」が、「
軟弱」であるといった主旨の反駁をくわえたものである。その
旅行記の中で、巌本は、四十日間の旅行出途の際に妻にたいし 河北瑞穂
て抱いた思慕の情をセンチメンタルに粉飾しながら、夫婦の高
尚な精神的結合の場としての「ホーム」の意味をそれとなく匂
わせたのである。それに対して、先の『国民新聞』の筆者は、
「青年たるものホームを語るなかれ、愛を語るなかれ」と論を
しめくくり、「ホーム」の幻想の呪縛を解こうとするのである。
早速、川合信水が、四日後の「国民新聞Jで、「余は確信す、 憤慨悲歌、大言壮語する者、必ずしも真の愛国者にあらず二屑
を聾し腕を転する者、必ずしも真の勇者にあらず、言を慎しま
ずんば、世の幾多の青年を誤らんと、余輩が現今の日本に望む
所は、外見強く腹に実の無き人物にあらずして、湛大、沈勇、
寛弘、仁愛の人物なり…」 (「女学子のホーム論と題せし投書
を読みて」)と、「軟弱」説に対する反駁をくわえた。
「ホーム」論の是非はともかくとして、ここで注目したいの は、明治二十年代一型†期において、「ホーム」という新しい概
念をめぐっで真剣な論議が交わされていたという出来事の意味
であり、その背景である。
ー83‑
これまでの近代文学史では、「明治期家庭小説」といえば、
一般には明治三十年前後に登場し、流行した、一群の家腐生活
を素材とした小説をさすものだとされてきた(注①)。この小
論では、明治l一十年代前半期の「女学雑誌』を舞台に展開され
た「ホーム」論を軸とし、可能なかぎり考察の範囲を周辺の新
聞、雑誌等にも拡げることで、.「家庭小説」発生の背景を探っ
てみようと思う。それは、「家庭(ホーム)」という「観念」
が、文学的主題の一つとして認識されるにいたる過程を示tて いる。また、その背景を探る作業は、「女学整璧と当時の文
壇状況との関わりを明らかにすることにもつながるはずである。
一
「家庭」という語について
新村出氏ほ、「家庭」と、いう語について次のように述べてい
る。
あいにく明治二十年代の英和辞書が手元にそろつてゐない から今直に確言することを侍るが、吏庭と.いふ語はその二
十年代からホームの訳語として辞書に現はれたのではなか
らうか。国語の辞書では、明治以前のものには断じて存在
しないと言へる(注②)。
右の新村氏の説を追捕するかたちで、『和英語林集成』
(慶
應三年⊥八六七年)以下の、明治期の辞書によって、「家庭」
の語について調べてみようと思う。ヘボンの『和英語林集成し
には、「家庭」という項目は見当たらない。第二部の英和の方 にほ、bQme■が登録されており、それに相当する訳語として は、「i
dOkO
r
O.S
uma i‑dO胃O
r
O,Suml
i
ka‑∽▲6ma
i一ie●uCbi■yやdO,taku・j仁ひbO」などがあげられているが、ここにも「家庭」とい う語は見られない。さらに、明治十一年の物集高見の「日本小
辞典』の場合には、「家」、「家族」、「家庭」などに類する
項目はいっさい見出だせない。二」年の『湊英対照いろは辞典し
には、1 「家庭」の項目はなく、hOmeの訳語として「いへ」
が当てられている。その他に、FOuⅧe・re・∽iden‑
ceなどめ訳語として、「いへゐ」、「いへどころ」などが挙
げられている。つづいて、二二年の大槻文彦旬二言海』にも、
「家庭」という語は載っていない。類語で見出だせるのは、「
家族」であって、「一家の族」とある。また、古来からある「
庭訓」という語も収録されており、「ニ<ノヲシヘ」とまず、
字義を直訳し、「父ヨリ子二対スル教訓」と記されている。二
六年の山田美妙の『日本大辞壱』にもまた、「家庭」の項目は
なく、「家族」が載せられて料り、「一家一門」とある。
以上の例からも、「家庭」という語は明治二十年代までの辞
書にははとんど現れていない、ということができそケである。
三十年代になると、明治三二年に発行された落合直文の rこと
ばの泉Lにおいて「家庭」の語が点じめて登場してくる。そこ
には、・「【名】一家の内。家族の居るところ[句】家庭の軟か
ていけういく(家庭教育)に同じ」と記されている。
ところで、辞書以外のものにも少し日をひろげてみると、【
明治文化全集し第十八巻(雑誌篇)の巻末に付いている「明治
雑誌年表」によれば、明治九年に、『家庭叢談』という名前の
雑誌があらわれていることがわかる。明治元年から十年までの
間では、「家庭」という字の付された雑誌は他には見当たらな
い。当家庭叢談』は、明治九年九月から翌年三月に至る問、箕
浦勝人1藤田茂吉を発行人に、慶應義塾から週刊で出版され、
その論稿の多くは福沢諭吉が執筆、また立案に係わるものとさ
れている。雑誌名の由来について、編者は緒言の中で次のよう
に述べている。
近来諸方二雑誌新聞ノ類出版多ケレドモ中二就テ雑報雑記
ナド云フ箇条ヲ見レバ身投欠落裏店ノ或ハ尚之ヨリ甚シキ
陰事ヲ記シ、其文面如何ニモキクナクシテ、家族頼子ノ問
ニテ読二苦シキモノナキニ非ズ、之ガ為メ家風正シキ家ノ
主人ハ新聞・紙ヲバ好メドモ、之ヲ家二人ルゝニ忍ビザルモ
ノアリト云フ。…コノ冊子‑〓全ク斯ル醜憧ヲ脱シ、家内
朝夕親子物語ノ種ニモナルべキ事柄ヲ記サントスルノ故ヲ
以テ斯ハ名ケクルナリ。
右によれば、「家庭叢談」とは、「家内朝夕親子物語ノ種ニ
モナルベキ事柄ヲ記サントスル」といった意味で使われている
ことがわかる。つまり、家内で親子が語り合える話題を提供す
ることがこの雑誌の発行主旨であるというわけである。しかし
実際、記事の中で、「家庭」という言葉がどのように用いられ
ているのかを見てみると、その用例がはとんど見当たらない。
第二号には、「世帯ノ事」と題された次のような文章が載って いる。
世帯ノ要ハ家族ノ心ヲ楽シマシムルニアリト云ヘリ。…事
ノー定不変ハ世帯二欠ク可ラザル約束ナレドモ、時アリテ
此調子ヲ破ルノ手段ナカル可ラズ。即チ花見ナリ、月見ナ
リ、市中ノ見物ナリ、野邁ノ遊山ナリ、祭頑式日ナリ、誕
生祝儀ナリ
っまり、非日常的な行事をくわえることが、「終歳連綿タル
世帯ノ関節」になり、「一定不変ノ調子ヲ破り又コレヲ調和シ、
世帯ノ眼ヲ驚カシテ之二新鮮ノ活力を附与スル」ことになるわ
けだが、ここでは「世帯」という言葉がときには「家族」を意
味したり、或いは「家庭生活」を意味したりで、概念規定が非
常に曖昧である。またこの号っに、家族に関する内容が書かれ
た文章の中においても、「家庭」の概念はでてきていないので
ある。
さらに、『家庭叢談』第十一号(明九、十)には、「女子教
育ノ事」と題された次のような記事がでてくる。
西洋ノ婦人二附テ稽古スルモノゝ有様ヲ見ヨ。…此流儀ノ
教育ニテ詰り出来上りクル其時ハ何等ノ婦人ヲ出ス、多分
世帯持テズノヲ天馬娘ヲ生ズルコトナラン。…斯ノ如クニ シテ成就シタル婦人ハ所詮世帯ヲ持ツコト叶ハミ
ここでも、もっぱら用いられているのはやはり「世帯」とい
う言葉であって、「家庭」という概念はあらわれてきていない。
同雑誌の他の箇所にも目をひろげて、文脈上現在使われている
「家庭」に相当する意味をもつとおもわれる表現をいくつか拾
ー85‑
い出してみると、「世帯」、「一家内」、「家」などが多く使
用されている。ただ、「家庭」の用例が全く無いわけではない。
第三三号(明九、十二)の「女子教育ノ利害ヲ論ズ」には、「
女子クル者ハ次代二於テ.其子ノ母トナリ家庭教育ヲ司ル可キ教
師タル、ナリ」とある。しかしこれは、むしろ例外的であり、や
はり「世帯」の例が圧倒的である。
この時期、明六社同人たちによって、いくつかの女性論、家
族論が誌上で発表されている。森有礼の「妻妾論」 (『明六雑
誌』第八〜二七号、明八、五〜九、二)をはじめとして、津田
真道「夫婦有別論」 (『明六雑誌』二二号)、一福沢諭吉「男女
同数論」 (同誌、三一号)、加藤弘之「夫婦同権ノ流弊論」
(
同誌、三一号)、中村正直「善良ナル母ヲ造ル説」 (同誌、三
三号)などである(注③)。しかし、「蓋婦ハ室内二閉居シテ
曽テ外人二接セザルナリ。是夫婦男女ノ別ヲ厳ニスル所以ナリ。
・一・・・抑聖人ノ此ノ如ク夫婦内外ノ別ヲ正シ分界ヲ厳ニスル所以奈
何」
(「夫婦有別論」)、「内二居テハ親子愛敬ノ情義二通セ
ズ、外二処シテハ世交快楽ノ美味ヲ知ラス」 (「妻妾論」)と
いった例にあるように、「家庭」は、「内」という概念で語ら
れたり、より一般的には、「家」という言葉が用いられること
が多かったようである。やはりこれらの詩論の中にも、「家庭」
の語は出て.こない。
次いで女性論に関連して、明治十一年、深間内基の『男女同
権論』が刊行されている。これほ、ジョン・スチュアート:、、
ルの 『婦人の隷従』 (】 →h
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wOヨenI‑∞の爪この訳書である。ミルのこの書ほ、日本
の婦人問題が社会運動として進められる問、連動の理想の書の
一つとしてみられ、精神的に大きな力を与えたものであるらし
いのだが、この訳書のなかに、「家庭」に関係する記述がでて
くる。比較対顔のために、やはり同書の翻訳である、岩波文庫
版『女性の解放』 (大内兵衛・大内節子訳、一九五七、三)と
ならべて、次に挙げてみたいと思う。なお、括弧内の訳は岩波
文庫版である。
㈱且ツ家族ノ制度ヲ能ケ設立スレハ、真ノ自由ノ徳ヲ寧プ
ベキ学校卜為ルベク、其他善良ノ徳ヲ撃プベキ所卜為ル
ヤ疑ヒナシ。(家庭は、これを正しくつくれば自由の徳
の真の学校となるであろう。それはまた、あらゆる徳の
学校とも十分なりうるのである)
㈲一家ハ各人交際ヲ為スニ当リテ、採用セント希望スル所
ノ道徳ヲ習練スル所トナリ(家庭はめいめいが他のすべ
ての結合関係のために備えておかなければならない、こ
れらの徳の修練の蟻となるであろう)
脚諺二日ク善良ナル家族ハ憐愛ヲ養フベキ学校ナルト
(家庭というものが、その最上の形においては同情や親切
や愛にみちた自己犠牲などの養成所である)
このように、深間内は、「家族ノ制度」 「一家」 「家族」な
どに訳し分けているが、とりわけ、「一家」の例が最も多い。
とくに、㈲のぎこちない訳文の例では、現在の「家庭」に相当
する訳語がみつからなくて、苦心している跡が見受けられよう。
明治十八年には、福沢諭吉の 「日本婦人論」 (注④)が発表
されている。「前編」は明治十八年六月四日から十二日まで八
回にわたり、「後編」は同年七月七日から十七日まで十回にわ
たって、いずれも自らが主宰する『時事新報』社説として掲載
されたものである。福沢はその記事の中で、「若者も世帯でも
持たせたらば少しは取締まることならんと云ふは、居家の責任
を負担せしめて其心身の活溌を促がすの意ならん」、「其居家
並.に社会交際上の大体を視察するときは西洋の婦人は概して責
任の重きものと云はぎるを得ず」といったように、現在で云う
ところの「家庭」という意味をあらわすのに、「居家」という
概念を比較的多く用いている。福沢は、「日本婦人論」の申で、
「居家」のほかに「世帯」 「内」 「家」 「家族」 「一家内」
「
家の内」 「一家」など、さまざまに云い分けているが、「家庭」
という言葉は一度も出てこないのである。このことは、この時
期、「家庭」という概念がまだ定着していなかったということ
なのだろう。
最後に、明治初期女子教育史的資料、たとえば、女学校の学
科内容などのなかには、「家庭」に関することが、どのような
かたちで登場しているかを見てみたいと思う。明治五年、文部
省によって開設された東京女学校、及び同年の京都府の新英女
学校では、「裁縫」 「手芸」 「雑工」等が女子必須の実科とし
て重視されている。『明治の女子教育』 (注⑤) によれば、明
治初年に出された学制の「之(女子‑葦者注) ヲ学ハシムル事
ツトメテ男子卜並行セシメンヲ期ス」という主旨は、多くの面 で現実と抵触したらしく、「大多数の庶民にとって女子に期待 し、そのために準鳳したのは、まず将来の嫁としての女の役割 の自覚であり、それに伴う家庭的技術の指導であった。しかる に学校は女子を女としつけることもせず、また女に必要な技術 を与えることを無視しているという印象をもたれた」 (注⑥)
ということである。例えば明治九年、文部省大書記宮西村茂樹
は、地方巡視の報告の付録として改善意見を提出し、「女子ハ
将来ノ事業男子卜異ナレバ其教育ハ男子卜異ナラザルヲ得ズ下
等小学ハ男女同様ニモ差支ナカルベケレドモ上等ヨリハ其教育
ヲ異ニスルヲ宜シトスベシ即チ女子ニハ裁縫卜治家術トヲ教へ
地理歴史等ノ内幾分カヲ略スベシ」 (文部省第四年報)と述べ
ている。つまり、当時の庶民の実情からすれば、女子の家庭教
育に関して云えば、抽象的な理念よりも、「裁縫」 「手芸」と
いったような実際的な「拾家術」が求められていたということ
であろう。「家庭」という言葉は、むしろ当時にすれば、紺象
性のたかい概念として響いたのではないだろうか。
このような保守的な空気のなかで、明治十六年に出た、東京
女子師範学校付属高等女学校の通則は「倫道徳を本として高等
の普通学科を授け有料なる婦女を養成す」ることを目的とし、
学科は修身・読書・作文・習字・算術・地理・日本史博物・物
理科学.図画・裁縫・礼節・家政・音楽・体操となっている。
明治五年に創設されたかつての東京女学校と比較すると、新た
に「礼節」、「家政」等の理念が加わっている。
明治十九年、東京女子師範学校は付属であることをやめて文
‑87‑
部省の所轄に移され、再び東京女学校と称した。同年に通達さ
れた生徒指導方要領では、
(前略)先ヅ女子生涯ノ職分ノ基トナルベキ普通学科ヲ教
へ尋テ一家ノ責任ヲ負担スルニ切要ナル学科及芸能ヲ習ハ
メ、最後凡一年間ハ、夫婦ノ関係、舅姑二対スル心得、育
児汝、家事整理法、韓僕二対スル心得、朋友親戚二接スル
心得及交際動作ノ心得等ヲ講究セシムル事
のように「家庭教育」に関するいくつかの新たな課題が挙げ
られているが、ここにも「家庭」という概念はまだ登場しない。
以上、手元にある資料に限って可能な限りしらべてみたが、
「家庭」は、明治二十年以前にはほとんど登場しない語であっ
たということが言えそうである。
二
「家庭」の発見
明哲二年二月十一日、巌本善治は『女学雑誌』誌上に、「 日本の家族⊥家の団欒」と題した記事を発表し、「ホーム」
の概念を世に問うた。それほ、次のような書き出しである。
李白の詩を吟ずるものありて云く、
床前者月光。疑是地上霜。挙頭望山月。低頭恩故郷。
又たスヰートホーム(懐故郷)の英詩を唱ふるものあり熟
つら其義を味ハうに
たのしみつくしさすらへば、まづしきいえにまさりなし。 てんのめぐみやきよむらん。わが家はほかにたぐひなし。
巌本は、イギリス人ヘンリ1・ビシmップ(一七八六‑一八
五五)の「楽しきわが家」 (‑〓Om2 S宅22t エ。l
me‑)の曲を耳にし、感傷的な気分になり、李白の有名な詩
を連想したのであろう、原詩の題を「懐故郷」と訳した。厳木
は、「ホーム」という語を心弾む語感を込めて受けとめ、日本
語に置換えようとして出来ないことに思い到り、次のように述
べる。
英国の国語にホームと云る文字あり人之を仏国語に訳せん とするに適当の文字なしと云へり吾人之を我国の覇ばに適
訳せんとするにまた同様の遺憾なきを得ず
巌本はまた、同文章の中で、日本の絵の画題について、「家
族団欒の実況写したるもの甚だ少き」点にふれ、当時の人々が
家族というものにたいして十分な価値を認識していないと次の
ように指摘する。
本邦の絵画は多く隠遁したる仙人を現はして和楽の人を画
かず多く男子を画いて女性を出さず況んや親子団欒夫婦和
楽するが如きの実況に至ってほほとんど絶て軸画に賞美せ
らるる所にあらずと云も可なり、其一事則ち以て日本人民
が家族をみるの思想を代表すべきか
ここで云う「家族団欒の実況写したる」西欧の絵画というの
は、たとえばラファエロの「聖家族」及び一連の母子像などを
暗に指すのであろうか。ラファエロの名は『女学雑誌』上に散
見される。しかも、明治二十年代前半期にはすでに、ラファエ
ロの「聖母」の写真画像が日本に入ってきていた。『国民之友』
第一〇三号(明治二三、十二、十三)一には、「ラファエロ油絵
聖母、及び耶蘇基骨の写真画像」という広告が掲載されており、
それによると、「我邦美術の振作を企図する某貴紳此の写真を
携へて欧州より帰朝せり乞ふて之を縮写し…フォトタイプとな
し」て、宗教家及び美術家などに売られていたという事実がわ
かる。また、「全国新旧基背教会及び学校へは見本進呈」され
ていた。明治女学校の教頭であり、宗教家とのつながりの深かっ
た厳木が目にしたであろうことは、想像に難く庵い。彼がラファ
エロに触発され、「聖家族」的イメージを、「ホーム」に見出
だしていったとも考えられよう。
もちろん、画題の論議はひとり巌本のものだったのではない。
明治二三年四月二七日、外山正一が、明治美術会第二回大会に
おいて、「絵画の未来」という一場の演説を試みたということ
は、周知の事実である。論の主旨は、「今後は勉めて思想的段
階に登らずんばあるべからずるなりこれをなすにあらずんば蓄
邦の絵画をして新面目を顕ほさしむることは出来ざるなり予の
所謂る思想画とハ則ち錯雑なる思想を含有したるものゝ謂ひな
り」
(明治二三、五、二五『いらつめ』五四号に転載)という、
『新体詩抄』以来の啓蒙的進歩観に根ざした一節に尽きている
といえるだろう。外山もまた、その演説の中で、西欧における
「思想画」の画題について、「美人を画かく者あり天使を画か
く者あり童貞摩利亜を画かく者ありアダムイブを画かく者あり」
といったような、いくつかの例を挙げている。ラファエロの撃 母子像の画題に関しては、とくに葦を費やしている。そして、 日本の「美術」が近代の美術として発展していくためには、従 来のような、「花鳥山水、禽獣」等を画題として選択するので はなく、「人軍世相」を描く「思想画」に向かうぺきだと主 張したのセある。こうしてみると、外山正一が「日本絵画の未 来」を語る姿勢は、先の厳木の主張とよく似た基盤に立脚して いるように思われる。「ホーム」の「思想」を絵画の上に表出 せしめようとする巌本の主張を、二年後に発表された外山の画 題論と並べてみると、従来も指摘されてきたように、たしかにl 啓蒙家とし七の相貌が色濃く現れてくる。しかし、それ以上に 興味深いのは、この時期「ホーム」が、「思想」の問題として 問われはじめたという事実である。
ところで、巌本の「日本の家族」連載第二回目の記事には、
「之を幸福にするの策」という副題がつけられ、家族団欒をテ ーマにした挿し絵が添えられた。居間で、母親が生まれたばか
りの赤ん坊を抱いている傍らで、父親が百人一首を詠み上げ、
二人の子どもと祖母がカルタとりに興じているという光景のも
のである。稚拙とはいうものの、家長を交えた一家団欒の様子
が描かれている。いうまでもなく、これは当時としては目新し
い題材であった(注⑦)。もちろん、この家族団欒図は、当時
の生活の実体を描いたものではないだろう。きわめて観念的で、
啓蒙的な意味を含んだ、外山正一の言葉でいうところの「思想
画」にはかならなかったということは云うまでもない。
また、「思想画」に関連していえば、明治二三年五月、植村
ー89‑
正久が「詩人論」 (冒本評論』、這代文学評論大系』笛二
巻所収、昭四六・十、角川書店)で述べる次の文章ほ、巌本の
考えをふまえたものといえるかもしれない。
日本流の詩画は自然界の範囲を出るもの稀なり。時に仙人
の画釈教の画、無きに非るも、此は自然と人類との中間に
立つもの〜みQ未だ人類に切なるものと謂ふを得ざるべし。
況いて神聖の性質に至りては敢て其の企て及ぶところに非
るなり
さらに、同じ時期の『国民新聞』に、「絵画‑高尚なる有形
の詩‑をして、平民世界より離れて、宮禁、貴族、寺院の中に
蟄居せしめ、絵画家を以て、一種の権門出入看たらしむること
は、決して容易に見のがすべきことにあらず」 (「平民の絵画」
明二三、二、一九)とあるのも、同じ発想に拠るものだといえ
よう。
続いて明治二一年二月二五日、『女学雑誌』第九八号の「日
本の家族(第三回)」では、「ホーム」は次のような文脈の中
で語られる。
掃天地ハ即はち砂漠中の楽園と称し彼の地旅行者の日夜に
怨望して止まざる所のものなり、恩ふにホーム家族の人世
に存する正に如此くなるべき…旅客は砧の音に家天を望み
遊子原頭の月に郷関の母を懐ふ而して其の楽園たる家内に
任するとき精神反って困しみ辛苦寧ろ大に増すあるが如き
ハ大不可思議のことにはあらざるか、然れども致し方なし
我国現今の実際にハ日本に真正の幸福ある家族殆んど.ある なしと云ふも差支へなきにほあらずや。
右でほ、「家天」と書いて「くにのそら」とルビが掘られて
いる。ここで、「ホーム」は、「旅」と対比的に捉えられ、父
母の住む「故郷」への思慕と結合しているのである。「郷関」
の「家」は、帰りゆく「楽園」としてイメージされている。舶
来の新しい概念である「ホーム」は、西欧の「精神」・生活様
式を象徴するとともに、「無始の昔以来人類をそこの産土に繋
いでいた」 (柳田国男)根源的感情と微妙に結びついて回帰志
向をかりたてそ.という複雑なニュアンスを秘めていたのでは
ないだろうか。いずれに⊥ろ、「ホ!ム」に魅かれる心は、惰
性的で型通りめ生活習慣を見つめかえす視座となったのである。
明治二二年七月二七日、巌本は、「犠牲献身
八
真正のホ
ームを論ず」 (『女学雑誌』第一七二号)において、次のよう
に云う。
近く二三年来に至りて西洋のホームなるもの大いに日本人
に愛せられ、未だ英語を知らざるものもスヰートホームな
る外国語の和楽円満なる家族の主義なることを悟了するに
至れり。吾人が前年大いに「日本の家族」を非難したる当
時に在りては未だ如此くあらざりし、然れども今や日本の
家制を不満足として只管らに西洋のホームを蓑ふもの甚は
だ多くなれり
このように、この時期「ホーム」という言葉は、「和楽円満
なる家族の主義」として受けとめられ、伝統的な「日本め家制」
を批判的に対象化するための「観念」として機能しはじめてい
た。『女学雑誌』琴三六号(明二三、八)に、「女学子に与
ふ」という題で掲載された次の一読者の投書は、そのことを如
実に示している。
鳴呼ホ・・・ム、余をして、活発ならしむる者は、汝なり、余
をして、正道を踏ましむる者は汝なり、汝は外に対して、
勇気となり、博愛となり、内にあっては、愛情となり、親
和となる…鳴呼、美なるホ一・ムよ、余に来れ、人に行け、
汝行て、此腐敗を去れ、此汚淘を洗へ、此不正を矯めよ、
汝の行かざる虞、臭気粉々、卑猥世を蓋ふ
たしかに、巌本の「日本の家族」は、大きな反響を呼んだよ
ぅである。明治ニー年三月、「国民之友し第一七号掲載の「以
良都女と女学雑誌」という批評文には、「殊に近来冒本の家
族』と題する社説の如きは、誠に何人もこれを読んで関心せざ
る者あらざるべし」と記されている。また、明治二三年八月二
日、『女学雑誌』第二二四号において、巌本は「ホーム」の誇
の流行現象に触れると同時に、自らのプライオリティ1につい
て次のように述べる。
近頃ろホームと云へる語は普通の如くなり行たり。数年前
吾人が「日本の家蔵」数篇を論出し、初めて「ホーム」と
云へる語を高く吹聴せしより、年月は其の微なる種を発育
して、今や到る虞に其声反響せり…ホーム・スヰート・ホ
ーム、(室家、団欒せる好き室家)と云へる言辞切りに流
行し、女子教育者もまた之を口にして教育の理念は然なり
と云ふもの多し ・右の中で、巌本は自らが「ホーム」論の最初の撞唱看である と斡持している。ここで参考までに、石井研望の『明治事物起 源』
(春陽堂、大正一五・十)で「家庭の執学」という箇所を
見てみると、「家庭」という熟語が「近来殊に口にするに至れ
る」要因として、先に引用した鹿本の文章が例示されている。
また、「明治事物起源年表」の明治二三年八月の偶には、「家
庭とホームの声甘同し」と記されている。さらに、『明治文学全
集別巻索引』においては、「ホーム」の語の最も早い使用例と
して、巌本の文章が挙げられている。
以上見てきたように、厳木を「ホーム」という語の最初の便
用者であると断じることはできないにしても、彼自身が言って
いるように、きわめて早い時期に、「ホーム」を一つ.の精神的
価値として吹聴し始めたということが言えそうである。そして、
明治二三年前後の時期には、「ホーム」は一つの「思想」
「理
念」の形をとって、広範な普及力を発揮するに到ったのである。
三
「家庭小説」発生の背景‑一・「想実」論をめぐって
明治二三年八月四日、坪内追遥は、「今年初半文学界(小説
界)の風潮」 (言璧冗新聞』)において、当時の文学状況を次
のように書き記した(注⑧)。
今年は大小説大詩篇大著述大覚悟大観念の世とも見えし(
略)此一二年の中に大観念の傑れたる作を見んこと難かる
べきは勿論ならずや今年は明治文学子が.はじめて修行門に
‑91‑
入りし時なり(略)何れにもせよ目は称や形無きものに向
へること実生なり
邁遥は「文学界の風潮」を、「大小説大詩篇大著述大覚悟大
観念の世」と見徹し、その傾向を「形無きものに向′へる」と捉
えた。同文は、さらにつづけて次のように言う。
去年の暮までは其道の人の外は著作を評するに大かたは文
章の好醜をもて上下し又ほ漠然と人情を写したり写さぬな
どのゝしるのみにて其評の作者の観念に及べるを聞かざり
き(略)今は趨勢大に改まり普通の読者だに称や限あるは
文章とはいはずして着眼といふさるはいちじるしき進歩に
あらずや
右によれば、追遥の言う「形無きもの」というのが、小説家
の「観念」 「着眼」を指すのだということがわかる。追遥ほさ
らに、明治二五年二月、鴎外とのあいだに展開させた「投理想
論争」の第七回目の論稿においても、当時の文学状況を集約的
にあらわして、「衆理想の戦場」 (注⑨)と呼び、文壇の混沌
状態から浮かびあがる一つの基本的な標題として、史学におけ
る→理想」の問題を抽出している。このように、明治二十年代
前半、文学界においては、人々が「大理想」 「大観念」といっ
た「形無きもの」を求め、さまざまに複合した価値観が「潮模
様」
(北村透谷、『女学雑誌』明二三、一)となって渦をまい
ていた。
「女学雑誌Jの展開もまた、こうした文壇の問題意識と微妙
にからみあっていた。明治二二年三月、巌本善治は、「文章上 の理想」と題する次のような小説論を、『女学雑誌』第一五二 号に載せた。
女性が其の仁愛清潔なる思想に激されて筆を握り、涙を水、
とし熱血を墨とし、・直ちに本心最も烈諌なるの感じを綴り
也し、以て人の至情に訴たへなば、極めて清潔なる愛情は
之よりして世に知らるべく、極めて温たかなる慈善心は之
よりして世に現はるべし、彼は一家を和らむるの心、l家
を清くし辛にするの情を以て、則はち日本の天下を和らめ
清くし辛はいにすることを得べし
巌本にとって「文章上の理想」とは、「本心最も烈腰なるの
感じを綴り出し以て人の至情に訴たへ」ることによって、「清
潔なる愛情」 「温たかなる慈善心」 「一家を和らむるの心」
「
一家を清くし辛にするの情」などを世に促進していくことでな
ければならなかった。そして、こうした文脈の.中ではじめて、
女性が「文学」の担い手として登場するのである。巌太は同文
申で、「密に室家関房に在りとも尚は能く之を草することを得
て而して其の脱落するものは一章成る毎に即はち一章の功を世
上に布くを得ペし」と述べ、女性が「室家閑房」にありながら
広く社会に関わっていく方法を啓示している。つまり、彼自身
の言葉でいえば、「坤道女粋隠徳和性の一門よめして放て大天
魔を見る」 (『女学雑誌』第〓ハ0号、明二二、七)という道
である。
この点を最も明瞭にす渇のは、「女流小説家の本色」 (『女
学雑誌』第一五三号、明二二、三)である。巌本は、次のよう
に説く。 、抑そも今の男性小説家が悉とく見違す所ろにして、而して
彼の優切なる女性小説家が目に尤も早く目附らるべき所ろ
のものは見よ現今の日本の社会表面に星の如く散在せり、
先.↑尤も精はしく今の婦人歎を歎じ得るものは誰なるべき
ぞ、又尤も切に今の監獄の状態に歎じ得るものは誰なるべ
きぞ、又尤も切に不義を恵み善を慕ひ此の美なる富士山琵
琶湖に尤も切に吟じ、此の静かなる日の出の国の美術に尤
も切に歌ひ得るものは果して誰なるぺきぞ
「優切なる」女性小説家が、「社会表面に星の如く散在」し
ているにもかかわらず、これまで見落とされてきた事象に「着
眼」し、「精はしく今の婦人歎」を歎じる必要がある、という
のが厳木の主張するところである。しかし、「優切なる」とい
うステレオタイプ化された形容詞がすでに物語っているように、
そこにはあらかじめ期待された役割があった。「今や天下の字
義、外の字義の異なりし如く内なるものも亦た変はり行く也、
太古は八重垣の内なりし、中古は関門の内なりし、近古は四本
柱の内なりし、当世は鹿鳴館の内慈善会の内赤十字社の内学校
病院育児院等の内となれり、而して之より又遥々に変はり行く
べし」 (『女学雑誌』第一五七号、明二二、四)という言葉が
示すように、女性が生きるにふさわしい場所は目にみえない境
界線で仕切られていた。巌本は、「衣服論」 (『女学雑誌』第
一六二号、明二二、五) に云う。
古来云く女は内を守るもの也と、余も亦た今に至るまで之 を確信す、然れども余の所去る内なるものは極めて大ひな るの内なり。願くは外を望む勿れ、、外飾を望む勿れ、衣服 を望む勿れ、諸君の尤も望むべき所ろは実に内にあり、粋 にあり、精にあり
巌本の論理によれば、一「内」とは「仁愛清潔なる思想」 「一
家を和らむるの心」といったような内容を意味するのであろう。
彼の求める「文学」は、すなわちこうした「内」面のあり方を
促進するのに有効な感化をあたえるものでならなかった。彼は
実学尊重の伝統に対抗して、「内」の意味に「高大」な価値を
あたえようと努力はするのであるが、自らの「内」部を凝視す
るもう一つの方向は見出しえなかった。・「若し宇苗に坤道あり
社会に女粋あり文学に隠徳あり交際に和性ありと云はゞ女学雑
誌は此の坤道女粋陰徳和佐の一門よりして敢て大天地を見るの
み」
(『女学雑誌』第〓ハ0号、明二二、五)という巌本の言
葉が示すように、従来の実学尊重の流れの中で、「軟弱」と目
されがちだった側面からの発想を棲諭し、「小説有用」論をか
かげているとはいえ、経世済民を志す伝統意識が絶ち切られた
わけではなかった。
ところで、『女学雑誌』にみられる「小説上の理想」をめぐ
る発言と、かなり意識の面で適い合っていると思われるのが、
明治二二年九月十日、植村正久によって発表された「実際と理
想」
(『日本評論』)という題の「文学」論である。
一日公務を執り、爽より世間に奔走し辛漸く果てゝ、友に
会ひ家庭の団座に入る。鬱積廿る心情の関門を排ひ、親愛
一9金一
の和気春の如七。思ふがまゝに言ひ、感じるがま、に芙ひ、
互に好む所を知り、情緒相結んでまさに此れ異体同体なり。
恰も大海に風浪を凌ぎ、辛うじて静かなる港門に入りたる
に異らず。空漠として廣かなる交親の砂原を出でゝ、此の
鬱蒼たる家庭め緑地に帰る。何の快楽か之に過ぐるものあ .らん。
ここでは、「情緒相結んでまさに此れ異体同体なり」とある
ように、「家庭の団座」は血縁共同体の「親愛の和気」の象徴
として認識され、乾いた「砂原」とは対比的な、潤いのある「
緑地」としての象徴的な意味が見出だされているのである。植
村正久は同論文を、「流行の.変遷」 「文学と宗教」 「美術の本
領」
「愛情につきて」の四つの項目に分けている。そのうちの
「美術の本領」において、「人生は陳腐なり、善美秀妙なる理
想界を現出し、恰も闇夜に燈光を望むが如き想を懐かしむるほ
美術の本領にてあるなり」と述べている。さらには、「古人の
所謂忍耐の保障、簾恥節義の師伝とも称せらるべき家庭の尊貴
を保ち其の清潔を維持し、其の安全を助け成すことを得ば、設
令醜随なる事に捗るもまた何の妨かあらん。ダンテの『インフェ
ルノ』は、書中の人物悪なるもの多きにも関らず、読者をして
楽園の清潔を嘱望せしむること最も切なり」と述べているが、
彼が「家庭の緑地」を、文学上の「善美秀妙なる理想界」の一
丁として意識していたということは明らかである。
ところで、こうした傾向と呼応するように、明治二四年頃か
ら㍉家庭」小説を求める声が聞かれるようになる。明治二四年 三月七日の『国民新聞』には、「一種の新小説」と題する記事 が載っている。葦者は次のように説く。
今や小説は文学世界に盗る〜はど〜なれり、等にて掃きす
つる程となれり、一夜づくりの小説家は泉の如くに湧き来
れり、されども吾人ナホ一種の小説及び作家の少なきを思
ふ、一種の新小説とは何ぞや、我が豪庭を作るの小義なり
右打引用に明らかなように、記者は「一層の新小説」として
「乳鰐号作るの小説」を提唱しているのである。しかし、具体
的にはどうい二った小説を意味するのであろうか。筆者は先の文
章につづけて次のように述べる。
新小説とは何ぞや(中略)患然たる人間の品性を開発する
に足るもの、少年は之を読んで楽しむぺく、長者は之によ
り教訓の種を得べきものにし七、英米の家庭に於て各々一
種の家庭小説を有するが如きもの是なり つまり葦者によれば、「宕毎を作るの小説」とは、「温然た
る人間の品性を開発するに足るもの、少年は之を読んで楽しむ
べく、長者は之により教訓の種を得べきもの」を意味している。
この意味からすれば、『女学雑誌』記者が主張する、「一家を
和らむるの心、一家を清くし事にするの情を以て、則ほち日本
の天下を和らめ清くし幸はいにする」小説の跨線ときわめて類
似しているといえよう。
さらに、明治二四年八月六日の『国民新聞』には、「文学界
の欠点」と題する次のような記事が載っている。
文学者は一世の潮流を書かざるべからず、一世の潮流たる
固より一二に止まらざるべし、然れども文学者が最も先づ
踏み込むべきは「人民」てふ大運動にぞある也、一世の赴
くべきの道固より少からざるべし、然れども其必らず行か
ざるべからざるは『人民大道』にてある也、而して之を道
義の運動としては人民となるの源は、実に義理人情、自由、
平等を理想として建設せられたる小国民即ち家庭にてある
也。
筆者はさらにつづけて、.「新原野は家庭にあり、新原泉は人
民にありと、翻って吾文学世界を顧みるごとに、此点に於ては
常に寂々蓼々たるを覚ゆ」と述べ、「文学者が最も先づ踏み込
むべき」新分野として「家庭」を提唱している。かくして、「
家庭」という「観念」が、新しい文学的主題として認識されは
じめていたのである。
こういう観点からすれば、明治二三年八月、『女学雑誌』第
二二七号から、二五年一月、琴元九号まで延べ四五回にわたっ
て連載され、大好評を得た「小公子」は、まさ▼に先に述べたよ
ぅな傾向を先取りするものであったといえよう。あるいは、「 家庭小学待望の気運を生み出す大きなきっかけとなったのか
もしれない。衆知のように、末娘の愛を根底とするあたたかい
家庭に育ち、天使のような性質をもつ主人公セドリックが、「
身は育と華美とに囲まれてこそ居れ」、「疾病に恵み、痢頼は
ます募り、世に忌み、忌まる々」 (第三回)ようになっていた
高慢で無情な老僕の心をとかし、「愛敬するものとては一人も
なき淋しき」生活から救い出していく、というのがこの物語の 大筋である。この若松綾子著訳「小公子」は、「卑猥なる小説 界の蓮花天使」 (明治二四、十一、十七日付、冒央新聞』、『
女学雑誌』第二九八号に転載)とまで絶賛され、「不如帰」と 比肩するはどのベストセラーとなった。冒央新堅の同評文
はさらにつづけて、「訳者は幼子達を昏ばしめんとするに此書
ほ寧ろ下宿屋の二階に家庭を作り出し荒くれ書生を泣かしむる
の分子多ければなり(略)此書は読み聴かさるゝ幼子より寧ろ
読み聴かす母親に感動を与ふる分子多ければなり」と述べてい
る。ま美相馬黒光は「小公子」の印象について、「特に少年文 学などと考える読者はなく、明治女学校を背景に妄学雑誌』 を璧口にあらわれた小室女流文学のすぐれたものとして歓迎
した」 (覇拾初期の三女性』昭一五、九)と語っている。坪 内追遥は冒稲田文学』第四号(妄学雑整第三三〇号、明
二五、十に転載)において、「原書の精神は無邪気なる小公子
を主人に利己にのみ傾ける老貴族を複主公にして『無邪気』の
周囲に及ぼせる感化並に居囲のr無邪気」に及ぼせる影響を写
さんと力めたるものの如し(中略)斯く純潔無垢の良小説を紹
介したるは女学雑誌平素の主義よりいふも誠に能く撰みたりと いふべし」と述べ、「小公子」が貢学雑誌』の「平素の主義」 に撃っものであると指摘している。たしかに「小公子」は、「
女性が其の仁愛清潔なる偲想に赦されて筆を握り」、「一家を
和らむるの心、一家を清くし辛にするの情を以て、則はち日本 の天下を和らめ清くし辛はいにする」という、貢学雑誌』の
平常の「主義」 「理念」を、文学的に形象化したものといえそ
‑95‑
ケである。「小公子」の訳者自身、その序文の中で、「南世の
蓮花、家廷の天使とも推すべき彼の幼子の天職は、いとも軽か
らぬことで御座り升(中略)ホームの教導者を先づ教へ導き、
其清素爛漫の容姿を発揮させ、其ミッションを全ふさせるのは、
亦両親始め其同胞の務めです」 (妄学雑誌』第二八八号、明 二四、十に転載)と述べている。このように、妄学雑誌』記 者にとって「ホ・ム(家庭)」の「理想」は同時に、小詠にお
ける「理想」をも意味していたのである。
明治二三年三月に「想実論」 (琵湖新聞卑)を発表し、当
時の文学状況の混沌を「想」と「実」の概念を用いて集約的に
あらわした石橋忍月は、「小公子」について次のような批評を
寄せた。
見渡すに女学雑誌主筆巌本善治妾訳述小公子に関する諸家
の評総て上評ならぬはなし女学雑誌の面目若松女史の満足
如何ならん(中略)最早文学界は華飾を除けて質実を尊び
外形を忌みて内血を噂むの域に達したりと謂ふべし当年感
念論を唱へて貝屏風を嘲りし人、小説家責任論を州して悲 憤せし人等の満足想ふべし(妄学雑誌』第三〇〇号、明
二五、二)
このような忍月.の「小公子」の捉え方が、「現象以外に無形
の真理を発揮し若くは現象よりもー等進歩したる世界を反照す
るは詩人の妙技なり」といった、彼の「想実論」的思考にもと
づいていることは明らかである。宮崎湖底子の、「小公子は明
らかに理想的の小説なり、何となれば一個天使の性質を以て此 小公子に擬人したるものなればなりプレトーが所謂る上帝坐連 の霊魂が地に降りて人となれるものゝ裡最も完全無垢なる性質 を顕はしたるものなればなり」 (妄学雑誌』第二九八号、明
二五、一)という批評もまた、「想」と「実」という批評基準
を背景とした上で、「小公子」を「理想小説」と見撤している
ことはいうまでもない。
こういう観点からすれば、現在では児童文学として定着して
いる「小公子」もまた、『女学雑誌』の「平常の主義」あるい
は「理念」を代表する「理想小説」の一つとして、異常な成功
を収めた作品であるということができよう。このことは、「家
庭(ホーム)」という「観念」が、文学的主題の一つとして広
く認識されるきっかけを生んだといえるかもしれない。そして、
さらに言えば、『女学雑誌』の「家庭(ホーム)」論の展開も また、文学における「理想」とは何かーという当時の文壇の
問題意識とアクチュアルに交差するものであったということが
できるのである。
(注)
①瀬沼茂樹氏「家庭小説の展開」⊥三明治文学全集干第九三巻、
「明治家庭小説集」解説、筑摩書房、一九六九年六月)参照。
②新村出氏「家庭といふ語」 (宗村出全集』第四巻所彗筑
摩書房、一九七一年九月)
③湯沢薙彦氏編三日本婦人問題資料集成』第五巻(ドメス出版、
一九七六年一月) による。
④山口美代子氏儀宣資料明治啓蒙期の婦人問題論争の周辺』
(
ドメス出版、一九八九年一月) による。
⑤日本女子大学教育研究所編r明治の女子教育』一(女子教育研
究双書2、国土社、一九六七年二月)
⑥同右書 ⑦扇治メディア考(対談)』 ■(中公文庫、一九八三年十一月)
参照。前田愛氏は、対談の申で、「祖母が一家をとりしきり、
その下に母親がいて子供たちがいる。家族の団欒があるとす
れば、だいたい女性中心の団欒図でしょうね。そこへ家長が
入り込むということは、明治でほあまり考えられないような
気がします」と述べている。
⑧r近代文学評論大系』第一巻(角川書店、一九七一年十月)
による。
⑨坪内追遥「烏有先生に答ふ」、『早稲田文学』、明二五、二
(「近代文学評論大系』第一巻所収) による。
[広島大学大学院院生・一九八九年三月卒業]
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