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香 川 大 学 経 済 論 叢

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(1)

香 川 大 学 経 済 論 叢

80

巻 第

3

2007

12

211‑229

研究ノート

ヴェールト「この世で敵に噛みつくことほど 愉快なことはない」考

高 木 文 夫

ヴェールト

Georg Weerth (1822‑1856)

は ,

1848

年革命の最中に『新ライン新聞

Neue  Rheinische  Zeitung

』に長編の諷刺詩「この世で敵に噛みつくことほど愉快なこ とはない

Keinschoner Ding ist  auf der Welt,  als seine Feinde zu beij3en

」を掲載する。

この詩は複雑な構造を持ち, さらに様々な問題点を含んで興味深い作品である。本稿 はこの詩について分析し,それがどの様な意味を持つのかを明らかにしようとするも のである。

最初に

1848

年革命へと至るヴェールトの革命との関わりについて述べよう。

1848

2

24

日はパリで勃発した革命,所謂二月革命は全ヨーロッパ的に波及する。こ の革命はドイツヘ飛び火したのが

3

月であるので, ドイツでは「三月革翁 J と呼ばれ る。ドイツで革命の火の手が上がったのはベルリン,ウィーン,ドレスデンなど主立っ た都市だった。各地の革命に対し自ら銃を持って,バリケードに立てこもる者から,

外から喝采を送る者,現場で繰り広げられる流血騒ぎを嫌悪し,革命を忌避する等々 詩人たちの反応も様々であった。そのような状況の中ヴェールト自身は革命の知らせ

を受けると直ちにパリヘ急行し,現場を歩き回って,革命の実態を自らの目でしっか

(1) 

りと見る。ヴェールトにとっては,この時の革命は予期せぬことであるとはいえ,い ち早く成し遂げた産業革命によって大きな社会変革にさらされ,近代的な産業資本家 や労働者階級の誕生と成長によって,社会矛盾が拡大しつつあったイングランドの実

(1) 

ヴェールトの

1848

年革命,特にフランスの革命に対する姿勢と行動については拙稿

「ヴェールトと

1848

年革命」(日本独文学会中国四国支部編『ドイツ文学論集』第

31

号 ,

1998

年 ,

23 32

頁)および

Georg Weerth und Paris.  In : GrabbeJahrbuch 2000/ 

2001 S.413418

を参照されたい。

(2)

態 を 体 験 し , 次 に 革 命 が 起 こ る と す れ ば イ ン グ ラ ン ド で あ る と 複 数 の 書 簡 で 家 族 に 言 い 続 け て き た 以 上 , 民 衆 に よ る 革 命 は 待 ち 望 ん で い た こ と に 他 な ら な か っ た 。 従 っ て,彼が意気揚々と革命の現場に駆けつけたことは驚くに値しない。その後パリを去っ た 彼 は す ぐ に ブ リ ュ ッ セ ル か ら ケ ル ン に 本 拠 を 移 す 。 ケ ル ン は ラ イ ン 地 方 に お け る 革 命 の 拠 点 の 一 つ で あ っ た し , 盟 友 の マ ル ク ス

KarlMarx (1818‑1883)

や エ ン ゲ ル ス

Friedrich  Engels (1820‑1895)

が ケ ル ン に 移 っ た か ら で あ る 。 ケ ル ン は , か つ て そ こ

(2) 

で 働 い て い た ヴ ェ ー ル ト に と っ て は 馴 染 み の あ る , 彼 が 愛 し た 町 の 一 つ で あ る 。 ヴ ェ ー ル ト は こ の 町 で マ ル ク ス を 編 集 長 と す る 『 新 ラ イ ン 新 聞 』 の 編 集 部 に 関 わ り , 文 芸 欄 を 担 当 し て , 創 刊 号 か ら 自 ら の 作 品 を 掲 載 す る な ど , ペ ン を も っ て 活 発 に 活 動 す る 。 彼 の 革 命 へ の 関 わ り 方 は ペ ン に よ る も の で あ っ た の で あ る 。 ヴ ェ ー ル ト は 『 新 ラ イ ン 新 聞 』 に は 詩 や 散 文 を 取 り 混 ぜ , 署 名 人 り お よ び 無 署 名 の も の な ど 合 わ せ て 数 多

(3) 

くの文章を掲載している。

『新ライン新聞』は

1848

6

1

日 に 創 し , 革 命 の 終 結 と 前 後 し て

1849

5

19

日第

301

号 を も っ て 終 刊 と な る 。 最 後 の 第

301

号 が 全 紙 赤 イ ン ク で 印 刷 さ れ た こ と は よく知られている。「民主主義の機関紙

Organder Demokratie

」 の 副 題 を 持 つ 『 新 ラ イ

(2) 

ケルンはヴェールトが最初に詩を発表した『ケルン新間

Kolnische Zeitung

』が発刊さ れている町であり,その後も革命期まで詩や散文でケルンを讃える作品を同紙など様々 に多く書いているが,その作品群を読めば,彼がどれほどこの町に愛着を持っていたか が明瞭に見て取れる。

(3)  『新ライン新聞』創刊に際し,ヴェールトがまず掲載したのは以前『ケルン新聞』に 連載し,中断していた『ドイツ商業生活のユーモラスなスケッチ

Humonsllsche Skizzen  aus  dem deutschen  Handelsleben

』である(第

1

号〜第

4

号,第

16

号,第

18

号,第

28

号,第

36

号 ,

1848

6

1

4

日 ,

6

16

日 ,

18

日 ,

28

日 ,

7

6

日付け)。しか

し,この連載は『ケルン新間』に連載した部分,そして未発表に終わった部分を直接引 き継いだものではない。後で述べるように『新ライン新聞』に掲載した彼の文章はいず れも革命の動きに対応した内容であり,『ドイツ商業生活のユーモラスなスケッチ』も 全体の冒頭を繰り返すような書き出しで, しかも革命の勃発を背景に話が進められてい く。この他目立った作品としては『著名なる翡奇士シュナップハーンスキーの生涯と行い

Leben und Thaten des beriihmten Ritters Schnapphahnski

』がある。他にもカイザー版全 集

(GeorgWeerth Samtliche Werke in fiinf Banden. Hrsg. v.  Bruno Kaiser. Aufbau Verlag.  Berlin. 1956/57.)

には他に抒情詩

9

編,上記二つを除く散文

22

編が掲載されているが,

近年の研究の進展により,この他にも数多くの無署名のヴェールトの文章が同紙に掲 載されていることが判明している。

Vgl. Bernd Fiillner : GeorgWeerthChronik 

(1822‑

1856). Aisthesis Verlag. Bielefeld. 2006. 

(3)

509 

ヴェールト「この世で敵に噛みつくことほど

愉快なことはない」考

‑213‑

ン新間』は日刊紙として発行されたが,革命と深く関わり,革命派に与していたこと から,その発行は決して順調ではなかった。

1848

9

月には同月

27

日付けを最後に,

ケルンを占領し,町を戒厳令下においたプロイセン軍によって他の多くの新聞ととも に一旦発刊停止処分を受けている。抒情詩「この世で敵に噛みつくことほど愉快なこ とはない」が『新ライン新聞』に掲載されたのはこの発刊停止処分が解除され,発行

(4) 

を再開した最初の 3 号(第 114 号~第 116 号 1848 年 10 月 12 日 ~14 日付け)である。

従って,同紙の文芸欄が元々革命の成り行きと密接に関連を持ち,殆ど同紙にしか掲 載されなかったヴェールトの同時期の作品も革命時に身近で起こった事件と深い関わ りを持っている。「この世で敵に噛みつくことほど愉快なことはない」がリアルタイ ムの出来事と関わりがないということはおよそ考えられない。この詩はヴェールトの 他の詩文と同じく,出来事との同時性こそが生命である。この詩を読むことはまず第 ーにその点を考慮しなければならない。しかもその同時性に様々な技巧が凝らされて いる。この詩は全部で

8

344

行からなっているが,連載の内訳は同紙第

114

号に

I

(5) 

~N,

115

号に

V

VI,

そして第

116

号に

VII

VIII

が掲載されている。掲載された場 所は言うまでもなく,文芸欄が設けられていた,Unterdem S

trich', 

却ち,新聞第

1

面 の下部,引かれた「罫線の下」であり,一面に収まりきれない場合,続く第

2

面の,

やはり罫線下に続けられている。

344

行という長編の諷刺詩「この世で敵に噛みつくことほど愉快なことはない」は

4

行ごとに詩節を作るという叙事詩の形式に拠っている。これはヴェールトが直接最 も影響を受けたハイネ

Heinrich Heine (1797‑1856)

の二つの長編叙事詩『アッタ・

トロル

Atta Troll.  Ein  Sommernachtstraum

』 と 『 ド イ ツ 冬 物 語

Deutschland. Ein  Wintermarchen

』(ともに

1844)

に倣ったものである。

4

行 詩 節 と い う 叙 事 詩 形 式 だ

(4) 

この作品に関しては『新ライン新聞』復刻版

(Neue Rheinische  Zeitung.  Organ  der  Demokratie. Nachdruck. Bande. Verlag  Detlev  Auvermann  KG. Glashiitten  im Taunus. 

1973)

を主に参照し,その他にカイザー版全集第

1

巻および

2

巻本選集

GeorgWeerth  Vergessene  Texte.  Werkauswahl  in  zwei  Biinden. Hrsg. v.  W. Goette,  J. Hermand u. R.  Schloesser. Leske. Koln. 1975. 

なども併せて参照した。以下この詩からの引用については

『新ライン新間』復刻版を底本として,第

I

部第

1 4

行 ,

(I, 1 4)

のように部 と行を本文中に表示する。

(5) 

但し,その号では誤って「 V I 」と記載されている。

Vgl.

上記復刻版

573

ページ。

(4)

けでなく,「この世で敵に噛みつくことほど愉快なことはない」は隅々までハイネを 初めとする先人たちの文学作品を踏まえている。以下にその点について具体的に見る ことにしよう。詩全体の筋立ては上述のようにケルンがプロイセン軍に占領され,戒 厳令下におかれるとき,発刊停止となった『新ライン新聞』に関わる人々が指名手配 され,ケルンを逃れたという事実に基づいている。作者のヴェールト自身は何故か手 配はされなかったが,やはり身に危険を感じてケルンを離れ,プロイセンの手の及ば ないライン川上流のビンゲンに逃れている。「この世で敵に噛みつくことほど愉快な ことはない」はこのときの出来事を素材にしている。

さて,次に作品を細かく見ていくことにしよう。まず最初は高らかに響く,表題の

「この世に敵に噛み付くことほど愉快なことはない

Keinschoner Ding ist  auf der Welt,  /  Als seine Feinde zu beiBen

(I, 1‑2)

の二行から始まる。この発端からすでにこ の詩の特徴である,「パロデイ」が駆使されている。叫ち,この歌い出しからはまず は民謡「これ以上に美しい国はない

Keinschoner Land in  dieser Zeit

」や「戦闘の歌

Schlachtlied

」 を 思 い 出 さ ね ば な ら な い 。 前 者 は 「 辺 り 一 帯 で 我 々 の も の ほ ど 美 し い 国はこの時代にはない

Kein schoner Land in  dieser  Zeit,  als  bier  <las  unsre  weit  und 

(6) 

breit

」で始まり,後者の歌い出しは「この冊に敵の前で殴り殺される者ほど美しい死 はない

Keinschon'rer Tod ist  auf der Welt als  wer vor'm Feind erschlagen.

」という歌い

(7) 

出しであり,ヴェールトの詩との関わりは一目瞭然である。この意味は言うまでもな く,前者にあってはナショナリズムなり郷士愛に焦点を当て,後者にあっては「戦死

(6) 

作 詞

(2

番まで)・作由

AntonWilhelm Florentin von Zuccalmaglio  (18031869), 

但 し曲は古民謡

Ade, mein Schatz,  ich muJJ  nun fort

お よ び

Ichkann und mag frohlich sein 

に拠っている。

Vgl.  Detusche Volkslieder. 208 Ausgewahlte Liedertexte. Hrsg. v. Bernd  Pachnicke. Edition Peters. IO. Aufl. Leipzig.1981. S. 53. 及 び こ の 点 の 指 摘 に つ い て は Fiillner,  Bernd:  "Gottlob mit der Romantik ist  es aus" Romantik und Revolution in  Georg  Weerths  Werken.  In : Binger  Geschichtsblatter 22. Folge. Bingen  und Romantik. Bingen  am Rhein. 2003. S. 144 f. 

を参照されたい。また,ヴェールトがどれほどドイツロマン派

か ら 影 響 を 受 け て い る か に つ い て は

Turajew, Segei:  Georg  Weerth  und  die  Romantiktradition.  In:  Georg Weerth. Werk und Wirkung. AkademieVerlag. Berlin. 1974 

が有益である。この他この詩の分析については個別には指摘しないが,

Schweickert, Alexander: Heinrich Heines Einflusse auf die deutsche Lyrik 1830‑1900. Bouvier. Bonn.  1969. 

の第

3

HeinesBeziehungen zur politischen Lyrik des  ,,Vormarz". Seine Wirkung  auf die Lyriker Georg Herwegh und Georg Weerth

をも参照したことを記しておく。

(5)

5 1 1  

ヴェールト「この世で敵に喘みつくことはど

愉快なことはない」考

‑215‑

者 の 賛 美 」 で あ る 。 こ れ か ら 作 品 の 中 で 語 り 手 ( = ヴ ェ ー ル ト ) の 逃 避 行 と と も に 繰 り広げられるのは敵対する者たち,即ち革命を妨げる者たちへの諷刺,椰楡と非難で ある 。 同 時 代によく知られ,人口に 腑炎 して いた 民謡 をパ ロデ イに 利用 する こと は 読 み手あるいは聞き手に受け止められやすい利点を持っている。そしてその分だけ一層 パ ロ デ イ あ る い は 諷 刺 の 効 果 が 上 が る の で , こ の 手 法 は , い つ の 時 代 で も ど こ の 場 所

(8) 

でも利用されている。ヴェールトがこの手法を取っていることの意図は言うまでもな く,効果の増大をねらってのことである。『新ライン新間』第一面最下段のこの文言 を目にして,当時の多くの読者はすぐに詩人の意図を理解したはずである。この後

7 28

行からなる

I

は こ の 後 『 新 ラ イ ン 新 聞 』 休 刊 の 願 末 が 語 ら れ , 語 り 手 が 逃 げ 出 す旨が述べられる。

Da griff ich zum Stab,  und ich eilte fort, / Die Brust voller Kummer und Aerger. /  Zu Herrn Soherr nach Bingen floh ich ; 

(I, 17‑19)

そ こ で 私 は 杖 を 取 り , 先 へ 急 い だ / 胸 は 不 安 と 怒 り で い っ ば い で / ビ ン ゲ ン の ゾ ー ヘ ア 氏 の 元 へ と 私 は 逃 れ

「不安と怒りでいっぱい]だと言いながらも,逃亡先では楽しいことが待ち受けて いる。

(7)  Vgl. Alte  und Neue  Volkslieder. Leipzig. 1847. Nachdruck. Goldmann‑Taschenbuch. 

Mainz. 1981. S. 82

さらに

UrlikeKaiser

に拠れば,この標題及び冒頭の詩句は,このほか に兵士の歌やファラースレーベン

Hoffmann von  Fallersleben (17981874), 

さらには やはり若いヴェールトが愛読していたウーラント

Ludwig Uhland (1787 ‑1862)

の『古 代民謡集

Altehoch‑ und niederdeutsche  Volkslieder

(1844)

にいたるまで都合

6

網の詩 旬を踏まえている。このようなパロデイーの重層性により,相手を多方面からの諷刺批 判が可能な,一筋縄ではいかない解釈を可能にしている。

Vgl. Urlike  Kaiser : Die  zeitkritische Parodie in der Lyrik Georg Weerths. 

I n :  

Grabbe‑Jahrbuch 1982  1. Jg. S. 86  f. 

(8)  さらにその他の卑近な例としては「替え歌」があり,特に革命歌・労働歌から軍歌ま でにいたるまで盛んに行われている。相手の手法を利用することは,いわば逆手にとる ことは批判力がより一層強化されることは言うまでもなく,ヴェールトのとった手法も ここから遠くないことは一目瞭然である。なおこのような

I

替え歌」のあり方について

fかし

は,有馬敲『時代を生きる替歌者風刺・笑い・色気」人文書院, 2 0 0 3年,鳥越信『子

どもの替え歌傑作集』平凡社ライブラリー, 2005年などを参考にした。

(6)

dort trinkt / Man vorztiglichen Scharlachberger. (I , 19‑20)

そこで飲めるのは/

シャルラッハベルクのすばらしいワインだ。

語り手の逃亡先ビンゲンはライン・ワインの産地のひとつである。それ故語り手は旧 知のゾーヘア氏の元で美味しいワインを飲み,時勢談義にでも耽ろうとする。

II

では語り手である[私」はゾーヘア氏の元に辿り着き,歓迎を受ける。語り手は 現在の革命の情勢はどうか,政治に荷担しているのかと間かれ,「時代は衰れむべき

状態 erbarmlichsind die Zeiten

(II, 14)

だと答え,自分は政治には荷担していない,

「プロイセンのすばらしい兵士よりも,/美しいご婦人方と関わりたい

Mitschonen  Frau'n hab'ich zu thun / Als mit schonen preuB'schen Soldaten.

(II, 17)

と言って,は

ぐらかし,それまでの逃亡の行程を語る。

Und als  ich  am Lurlei  vortiberkam : Da war ich  verkauft  und verrathen. // Ich  sah sie  sitzen,  die nackte Fee I Und ich horte ihr ltisternesSingen ; Und mit Koffer  und Reisesack sank ich hinab,  / Ihren wonnigen Leib zu umschlingen  (II,  19‑24) 

そして)レアライのそばを通り過ぎたとき/私は売られ裏切られたのです//私は 彼女が,裸の妖精が座っているのをみました/そして彼女のみだらな歌を聴いた のです/そしてトランクと旅嚢とともに落下し/彼女の愛らしい身体に絡みつい たのです

(9) 

ここで言う,「ルアライ」とは「ローレライ

Loreley

」のことである。この一節につい ては多くのことを語ることができる。まず,「ルアライ(=ローレライ)」は言うまで もなく,ライン河にまつわる,伝説の主人公である。ケルンからライン河を遡ってビ ンゲンに行く途中によく知られたローレライ伝説にまつわる岩がある。その伝説の通

(9)  「ルアライ

Lurlei

」と「ローレライ

Loreley

」が同一のことを指しているのはこの伝説 に関わる様々な作品,例えばハイネに先立つ「ローレライ」作品である,ブレンターノ

Clemens  Brentano  (17781842)

の抒情詩「ライン河畔のバッハラッハで

ZuBacharach  am Rheine

(1801

年)等においても前者のような表記も散見されることから自明であ

る 。

(7)

513 

ヴェールト「この世で敵に喘みつくことほど

愉快なことはない」考

‑217‑

り に 語 り 手 は ロ ー レ ラ イ の 魔 の 手 を 逃 れ る こ と は で き ず , 彼 女 の 手 中 に 落 ち る 。 こ こ は 勿 論 比 瞼 で あ る 。 と い う の は こ の 詩 が 生 ま れ た の は 革 命 の 時 代 で あ っ て , ロ マ ン 派 の 時 代 で は な く な っ て い る か ら だ 。 「 魔 性 の 女 ロ ー レ ラ イ 」 は プ ロ イ セ ン 軍 を 陪 に 指 し て い る 。 し か し , こ こ で ま ず 重 要 な こ と は 「 パ ロ デ イ 」 の 問 題 で あ り , か つ 何 を 踏 ま え て い る か で あ る 。 「 ロ ー レ ラ イ 」 が 「 ロ ー レ ラ イ 伝 説 」 を 踏 ま え て い る こ と は 言 う ま で も な い が , こ こ で は さ ら に 後 で 出 て く る 詩 旬 で 明 ら か な よ う に , ハ イ ネ の 詩 を 元 に し て い る 。 諷 刺 詩 「 こ の 世 で 敵 に 噛 み 1 寸 く こ と ほ ど 愉 快 な こ と は な い 」 は そ の 多

(10) 

くをハイネに準拠しており,「ローレライ」はこの詩において最も重要な作品である。

先 の 第

4(N)

で も ハ イ ネ の 「 ロ ー レ ラ イ 」 を 元 に

Und ich  sang:  ,,Was mag es  bedeuten doch, / DaB ich,  oh,  so traurig  binne? /  Ein Madchen aus alten Zeiten,  ach,  / Das kommt mir nicht aus dem Sinne (N,  5 

‑ 8)

そ し て 私 は 歌 っ た , 「 ど ん な 意 味 だ ろ う / 私 が , あ あ , こ ん な に 悲 し い の

(10) 

周知の通りハイネの所謂「ローレライ

J

と名付けられる詩は初期の詩集『歌の本

Buch der  Lieder

(1827

年)の「帰郷

Die Heimkehr

」の

3

番目に収められたもので, もとも

と表題を持っていない。この詩が通常「ローレライ」と呼ばれるようになったのは,曲 がつけられて人口に腑灸してからであるだろう。文学作晶としては表題がないままで扱

うことが正しい。しかし,ここでは便宜上「ローレライ」を表題として扱いたい。

ヴェールトの詩「この戦で敵に噛みつくことはど愉快なことはない」とハイネの「ロ ーレライ」との関係に見られるような,両詩人の文学上の関わりについては拙稿「ヴェ ールトとハイネ」(高池久隆・裔木文夫蘊『ハイネと

Vormarz

の詩人たち一世代を超え た交流をめぐって』日本独文学会叢書

049

所収

2007

10

月)およびそこに記した 参考文献を参照されたい。

上掲拙稿でも触れていることだが,ハイネの詩集『歌の本』が同時代および後世の人々 に与えた影響は計り知れない。特にハイネより若い世代は多くの詩人が彼の影響下で作 品を書いている。ヴェールトもその中の一人であり,ハイネの他の作品ともども多くの 影響を受けている。文学以外でも,特に音楽において『歌の本』所収の詩に曲をつけた 作 曲 家 は 多 い が , そ の 中 で シ ュ ー マ ン

Robert Schumann  (1810‑1856 ; 

「詩人の恋

Dichterliebe

」および「リーダークライス作品

24Liederkreis op. 24

」)やシューベルト

Franz Schubert  (1797 ‑1828 ; 

「白烏の歌

Schwanengesang

」)の名を挙げるだけでも同時代にお

けるこの詩集の意味が理解できるだろう。従ってこの詩集の中でも特によく知られた詩

である「ローレライ」の一節との関連は『新ライン新間』読者でヴェールトのこの詩句

を見てすぐに理解されただろう。この詩の中でも語り手のささやかな[誤り」がゾーへ

ア氏に即座に訂正されるのもハイネの詩がよく知られていたことを象徴していると言え

よう。ゾーヘア氏は当時の人々の代表である。

(8)

は/昔の乙女が,ああ/忘れられない J

「私」が歌った詩句がハイネの「ローレライ」から来ていることは一瞬にして了舟角さ

(11) 

れる。そしてハイネに従えば,「昔話

M

rchen

」 と 言 う べ き と こ ろ を 語 り 手 は 平 然 と 故 意 に 「 乙 女

Madchen

」と言い換えている。

r

d

のわずか一文字の違いだが,「む しろ女性と関わりを持ちたい」と願う「私」の胸中を良く表現し,なおかつハイネの 詩句そのものを予想する読者を見事にはぐらかしている。しかし,詩においてはその 歌声を耳にした連れのゾーヘア氏がすばやく誤りを指摘し,「私」は現実に引き戻さ れる。ここで言う現実とは言うまでもなく革命のことであり,より具体的には「私」

が逃れてきたケルンでの出来事である。果たしてケルンはどのような状況であったの か。ヴェールトの詩では少し戻って I I I の 5 行目から語り手はゾーヘア氏に語り始める。

,,In Koln war wirklich ein arger Skandal‑" / ... ] ,,Barrikaden kamen in  Masse,  man wuBt'I Bei Gott nicht,  von wannen und woher. If  Sie wurden im Nu emporgebaut  Von Handen, energischen,  raschen, / Aus Dombausteinen und Kirchsttihl'n / Und aus  ausgetrunkenen Flaschen //  Es wehte die Fahne der Republik, / Und ein Tag war's ein  ftirchterlicher. / Steckbrieflich  werden die  Haupter verfolgt, / Kein ehrlicher  Mann ist  mehr  sicher. 

(皿

‑17)

「ケルンでは本当にひどいスキャンダルだった」/(中 略)/「バリケードが大量に登場した,神掛けて/いつから,どこからかは誰も知

( 1 1 )   ちなみにハイネの「ローレライ」の該当部分の原詩は

Ich  weiB nicht,  was soll  es  bedeuten, / DaB ich  so  trauri  bin ; Ein Marchen aus  alten  Zeiten, / Das  kornrnt  nicht  aus  dern  Sinn. 

(下線は引用者による)

Heinrich  Heine.  Historischkritische  Gesamtausgabe der Werke.  In  Verbindung rnit  dem HeinrichHeine Institut. herausgegeben von Manfred Windfuhr. Diisseldorf. 19 ff. 

(以下

DHA)

となっている。

ヴェールトの詩句とハイネのそれとは若干の違いがある。目につくことは本文中で指 摘した

Marchen

Madchen

の他には最初の話法の助動詞

sollen

rnogen

の違いであ る。文法的には

sollen

は「他者の意志」を強く感じさせるのに対し,

mogen

は「推量

J

なり,「可能性」なりを感じさせる。それ以外はヴェールトには感嘆詞

<loch,oh,  ach

加えられて,より強く感漑深さを表現し, binn~-Sinn~( 下線は引用者による)のように

アクセントのない母音 e を付け加えることにより,韻律に変化を加え,より柔らかさを

出している。

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