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―立正大学開校140周年記念 今昔蔵書展資料選―

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(1)

蔵 書 の は な し シ リ ー ズ

タ ラ ク シ ア 2 ・ ア

蔵書のはなし

―立正大学開校140周年記念 今昔蔵書展資料選―

(2)

   【目 次】

はじめに

3

第1章   四季のいとなみ

5

第2章   学問へのしるべ

13

第3章   貴重書へのいざない

21

第4章   日蓮をたずねて

29

第5章   和本紐解

41

第6章   江戸遊

49

第7章   十二支彩彩

57

第8章   開国一望

65

書誌事項

・ 参考文献

73

おわりに

82

蔵書のはなし

―立正大学開校140周年記念 今昔蔵書展資料選―

(3)

▲「今昔蔵書展」ポスター

(4)

は じ め に

  天正八年(一五八〇)に開かれた飯高檀林を淵源とする立正大学は、平成二十四年(二〇一二)に開校百四十周年

を迎えました。立正大学情報メディアセンター(大崎図書館)では、百四十年の歩みを貴重書

本収集の視点から ・ 善

捉え、平成二十四年度、「今昔蔵書展」と題した展示を企画

・ 開催しました。

  「今

昔蔵書展」は全八回シリーズで、館内で一年間に亘り実施しました。各回に「四季のいとなみ」「学問へのしる

べ」「貴重書へのいざない」「日蓮をたずねて」「和本紐 ひもとき」「江戸遊 ずさみ」「十二支彩々」「開国一望」のテーマ(副題)

を設け、それぞれのテーマに沿った蔵書を紹介し、出展資料は百五十六点、来場者数の合計は約五千四百人にものぼ

りました。展示を通して、開校百四十年の歴史と蔵書に注目していただくことができたと感じると共に、多くの方々

にご来場いただきましたことに深く感謝しております。

  本書では「今昔蔵書展」に出展した貴重書

・ 善本の中から、

さらに二十六点を選りすぐり、ご紹介します。また、

資料を所蔵するに至った経緯や関連資料等についても掲載しています。

  当館の蔵書は、一つ一つの資料を大切に保存し、築き上げられてきたものです。図書館における保存とは、ただ単

に資料を書庫に眠らせておくことではありません。「いつでも」「だれにでも」「いつまでも」利用できるようにして

おくこと。そして、あらゆる資料を現在と将来に保証し、今まで以上に利用の可能性を高めていくことを意味します。

  保存と利用という、ともすれば相反する命題を抱えながら、貴重書や古書をご覧いただくことができるような機会

や方法について、私たちは常に思いを巡らせています。

  本書が立正大学の蔵書について知っていただく一助となれば幸いです。

(5)
(6)

第一章 四季のいとなみ

江戸名所絵

絵本 四季の画空事

江戸名所図会

〈新収貴重書1〉関原戦乱之図

(7)

▲桜の名所 御殿山で花見を楽しむ人々

名所絵の流行

  人々の往来が活発になった結果、近世には 数多くの紀行や地誌、名所案内等が刊行され るようになった。絵画界においても名所絵が 重要な画題の一つとなった。

江戸の名所

  本書は折本形態の名所絵で、 「 隅

すみ

」「 御

殿

てん

やま

」「 日

ほん

ばし

」「 吉

よし

ほん

づつみ

」「 両

りょう

ごく

」「 州

さき

」「 上

うえ

」「 金

きん

りゅう

さん

せん

そう

」「 王

おう

いな

」「 志

の ば ず ノ 池

いけ

」 と い う 十 箇 所 の 江 戸 名 所 が 、 人々 の姿と共に描かれている。菊模様の可愛らし い板表紙と 合

かっ

りによる独特な彩色が特長 だ。本書をひもとくことで、私たちは今でも 江戸の名所の雰囲気と、活気に満ちた季節感 あふれる人々の生活の一端を味わうことがで きる。

江戸名所絵

出版年不明 1冊

(8)

▲両国の花火を舟上から見物する人々

 本書の彩色には、図や文字を切り抜い た渋紙等の型紙を紙にのせ、刷で絵の 具を塗って形を刷り出す技法である、合羽 刷りが用いられている。

 合羽刷りは主に上かみがた(現在の大阪や京 都等の近畿地方一帯)でおこなわれた彩さいしょく

すり

さつ

ほう

である。出版地は明らかになっ ていないが、江戸に想いをめぐらせなが ら、本書にまつわる物語をあれこれ想像し てみるのは楽しい。

江戸を想う

▲彩色菊模様の板表紙 裏(左)と表

(9)

絵本 四季の画空事

藤千山画 天保5年(1834) 1冊

大切にされてきた四季の行事

  日 本 に お い て 、 四 季 や 暦 と 連 動 し た 様々 な行事がいかに大切にされたかは、浮世 絵や歳時記、季語等から、今も窺い知る ことができる。

  本書も四季を題材とした江戸期の絵入 り本であるが、その内容は一風変わって いる。序文には、本書が、空の上に暮ら す 天 人 た ち の 季 節 の 暮 ら し ぶ り に つ い て 、 嘘 八 百 を 並 べ て 書 き 連 ね た、 「 四 季 の 空 事」である旨が記されている。

本書と漆山又四郎

  本書に関する情報は少ない。多くの事 典類に独立した項目立てがないものの、 『 国

こく

しょ

そう

もく

ろく

』 よ り、 幸

こう

はん

の 弟 子 で あ った 漆

うるし

やま

また

ろう

が 本 書 と 同 様 の 書 (版 本)を所有していたことがわかる。

▲冬 地上に初雪を降らせる天人たち

(10)

  又四郎は明治時代の漢文学者、国文学者、書誌学 者 で、 多 数 の 漢 詩 文 の 訳 注、 『 露

はん

ぜん

しゅう

』 の 編 集 等 を手がけたことで知られる。自筆稿本『 日

ほん

もく

はん

さし

ぼん

ねん

だい

じゅん

もく

ろく

』 の 中 の 「絵 本 年 表」 に は 、 本 書 に ついての記載があり、彼が確かに『 絵

ほん

  四

の 画

そら

ごと

』を手にしていたことが確認できる。

『Illustaration of Japanese Life』1冊 高島捨太著 小川一真撮影

明治29年(1986)

 本書は、食事風景や職業の紹介のほか、花見や 祭り等、四季と共に生きる当時の日本人の様子を写 真によって鮮明に表現している。撮影したのは、明 治中期を代表する写真家、小がわいっしんである。小川 は明治15年(1882)渡米し、最新の写真技術を習 得。同21年(1888)宮内省の委嘱により全国の社 寺を巡回し宝物を撮影、美術雑誌『国こっ』の創刊 に多大な貢献

を果たしたこと でも知られて いる。

当館所蔵の関連資料

▲8月15夜 桂かつらの木(中国で「月の中にある高い理想」を表す木)の下でもちをつく兎

(11)

江戸時代における江戸の地誌

  本資料『江戸名所図会』は、江戸後期に刊 行された江戸の地誌で、この時代を知ること の で き る 一 級 の 資 料 で あ る 。 天 保 五

七 年 (一 八三四

一八三六)に 斉

さい

とう

げっ

しん

が七巻二十冊 を刊行した。

  神 田 の 町 名 主 で あ った 、 斉

さい

とう

ちょう

しゅう

(幸 雄)

あがた

麿

まろ

(幸 孝)

・ 月

げっ

しん

(幸 成) の 三 代 に 亘って 書 き継がれた文章は丹念に地名の由来を追いか けており、興味深い。挿画は 長

せっ

たん

が景 勝地や神社仏閣を 俯

かん

にして詳細に描き、 江戸の町を身近に感じることができる。

日本橋

  日本橋は、南北へ渡す長さおよそ二十八間 の橋で、万治元年(一六五八)九月に造立さ れた。本書には日本橋の風景がいきいきと描 かれている。   日本橋は江戸の中央で、諸方への行程もこ こより定められており、橋上は人や馬が絶え 間なく行き交っていた。橋下を漕ぎ伝う漁船 の出入りも明朝より夕暮れに至るまで絶える ことがなかったという。

江戸名所図会

斉藤長秋著、長谷川雪旦画 天保5-7年(1834-1836) 7巻20冊

▲日本橋図

(12)

 

  品川は江戸の出入り口で、東海道五十三次 のはじめである。日本橋より二里、 東

とう

かい

の 南 に 沿って 貴

ぶね

みょう

じん

の 側 を 流 れ る 川 を 境 と す る。

  本資料には、品川の鎮守神の一つ、 牛

てん

のう

しゃ

( 品

しな

みょう

じん

、 洲

さき

みょう

じん

ともいわれる) で毎年六月に行われた、活気あふれる祭礼の 様子が描かれている。

▲牛頭天王社の祭礼の様子

 本資料『江戸名所図会』

には、当館の所在地である

「品川」の地名の由来がいくつ か記されている。

 品川氏という豪族の所領で あったからという説や、鎧よろいに用 いる品しながわを生産していたという 説、下しもなしがわが略されて「品 川」と名づけられたという説な どである。

品川の地名の由来

(13)

新収貴重書1 関ヶ原の戦いの様子を

つぶさに描いた絵巻

関原戦乱之図 

2軸

狩野探幽原画 春木南溟写 江戸後期

(14)

第二章 学問へのしるべ

Japanische Dramen: Terakoya und Asagao

筆のしおり

和漢三才図会

〈新収貴重書2〉春日版 妙法蓮華経

(15)

長谷川武次郎と「ちりめん本」

  黒船が来航した六年後の安政六年(一八五 九) 、 港 が 開 か れ る と 多 く の 外 国 人 が 日 本 に 滞 在するようになる。その数は明治時代に本格 的に増えて西洋文化が開花した。

  この頃、 長

たけ

ろう

の生家は食材やワイ ンなどを輸入する貿易商を営んでいた。西洋 文化に囲まれて育った武次郎はミッションス ク ー ル で 英 語 を 学 び 、 更 に 国 際 感 覚 を 養った 。

  明治十七年(一八八四)には出版社「 長

こう

ぶん

しゃ

」 を 興 し 、「 桃

もも

ろう

」 や 「 猿

さる

かに

がっ

せん

」 な ど の 昔 話 を 在 留 外 国 人 が 翻 訳 し た 「 日

ほん

むかし

ばなし

シ リ ー ズ」 を 出 版 す る 。 こ の シ リ ー ズ に は 平

へい

の茶色表紙本と「ちりめん本」の二種類 があった。当初は英語

・ 独語

・ 仏語

・ オラン

ダ語版が刊行され、後にスペイン語

・ ロシア

・ デンマーク語版が追加された。

  「ち

り め ん 本」 は 木 版 多 色 刷 り し た 和 紙 を 圧

Japanische Dramen:Terakoya und Asagao

KarlFlorenz明治33年(1900) 1冊

JapanischeDramen:Terakoya undAsagaoの表紙

縮してちりめん状に加工した絵入りの和装本 のことで、柔らかくちりめんの布に似た風合 いを持つ。その人気は高く、外国向けのお土 産として重宝された。

パリ万博への出品

  長谷川弘文社は、外国向けのお土産として 定着した「ちりめん本」を世界に広め、知ら せるために明治三十三年(一九〇〇)に開催 されたパリ万博に出品した。

(16)

『Les contes du vieux Japon』20冊 Joseph Dautremer ほか訳

 長谷川弘文社が手掛けた「日本昔噺シ リーズ」の仏語版ちりめん本。翻訳には主に フランス大使館員の Joseph Dautremer

(J.ドウトルメル)があたり、挿絵は小ばやしえいたく

らが描いた。「桃太郎」や「かちかち山」な どの全

20冊の シリー ズから なる。

当館所蔵の関連資料

Terakoyaより

  ( 日 本 の 芝 居 寺 子 屋

てら

  『

Japanische Dramen : Terakoya und Asagao

観 と 観 客 が 集 ま っ て く る 様 子 が 描 か れ て い る 。 さ れ た 一 冊 で あ る 。 表 紙 に は 夜 の 歌 舞 伎 座 の 外 顔 )』 は そ の 時 に 出 品 ・ 朝

あさがお

  中 に は 東 京 帝 国 大 学 教 授 の

Karl Florenz

(カ ー ル

ロ ー レ ン ツ) が 翻 訳 し た 『 菅 原 伝 ・ フ

すがでん

授 手 習 鑑 』 の 「寺 子 屋」 の 段 と 『 生 写 朝 顔

じゅならいかがみしょううつしあさがお

ばなし

』 の 「 宿

やど

」 の 段 が 収 め ら れ て い る 。 本 書 を含む出品した「ちりめん本」は、高い評価 を受けて金賞を受賞した。後に「寺子屋」は オペラなどに翻案されて上演もされている。

  明治時代に海を越えた「ちりめん本」は日 本の文化を欧米に伝え、影響を与えた。その ことを本書は教えてくれる。

(17)

筆のしおり

天明7年(1787) 1冊

江戸中期の女子手習い本

  本書は、江戸中期の女筆手本である。前付 け に は ま ず 「 折

おり

かた

の 図

」「 七

たな

ばた

ま つ り の 図

」 が 掲載されている。そこには、女子が幼い頃か ら手習いすることの大切さについて次のよう に記されている。

  「 女 子 は 十 二 ・ 三 才 頃 に な る と 、縫 い 物 の

稽 古 が 忙 し く な り 、手 習 い が 疎 か に な る の

で 、幼 い 時 か ら 手 習 い ・ 読 み 方 を 教 え る こ

と が 大 切

で あ る 。」

  次に「 書

かき

ぞめ

の 詩

しい

」が掲 載され、美し く文字を書く には習い続け ることが重要 であると記さ

▲「書初めの詩歌」

れ て い る 。 前 付 け は 、続 く 「 女

じょ

ちゅう

あい

しょう

づ く し」 で終わる。

  本 文 に は 散 ら し 書 き

通 と 和 歌 四首 が 収 録 さ れ て い る 。巻 末 に は 、正 れ た 新 年 祝 儀 状 か ら 端 午 の 節 句 ま で の 手 紙 十 四 べ 書 き の 両 方 で 書 か ・ 並

▲「七夕まつりの図」「折形の図」

(18)

『絵本女今川』 1冊 葛飾北斎画 文政年間頃

(1818-1830)

 本書は文政年間頃(1818-1830)に刊行 された手習い本で、教訓書や習字の手本と して広く使用された。「今いまがわになぞらえて女じょをいましむる制せいの条じょうじょう

25条があり、見開き毎に挿 絵と文が交互に記載されて いる。葛かつしかほくさいによる挿絵 によって庶民の生活や風俗 が、いきいきと描かれている。

当館所蔵の関連資料

▲散らし書き

月 か ら 十 二 月 ま で の 異

みょう

等 が 掲 載 さ れ て い る 。

散らし書き

  散らし書きとは、文字の美しさだけではな く、配置、空間、行間等を考慮し、文面の総 合的な美しさを表した書き方のことをいう。 本書の文中には花模様も添えられ、さらなる 美しさを演出している。

(19)

江戸中期の絵入り百科事典

容を短くまとめ、日本の自然 中国の 王 圻 による『 三 才 図 会 』の内

おうさんさい

  『 和 漢 三 才 図 会 』は、 寺 島 良 安 が

かんさんさいてらしまりょうあん

・ 文物

に関する説明を追加し作成した、江 戸中期における絵入り百科事典であ る。 内 容 は、 「 天

てん

」「 人

じん

りん

るい

」「 地

」に分けられ、全体で、百五巻八 十冊になる。

自鳴鐘   本書では様々な事柄が紹介されているが、 例 え ば 「人 倫 類」 の 「藝 器」 の 部 分 で は 、「 自

けい

鐘」について、次のような内容が記されて いる。

「西洋の僧が、自鳴鐘を持って来たが、

これは中に機械が設けてあって時間が来

るたびに鳴る。時刻に少しのあやまりも

な く 神 の よ う で あ る 。 天 智 十 年 (六 七 一)

に初めて 漏

ろう

こく

(漏れた水をはかって時刻

を知るもの)を作り、時の鐘がつかれた

が、自鳴鐘が出現して以来これに勝るも

の は な い 。 俗 に 時 計 と も よ ば れ て い る 。」

和漢三才図会

寺島良晏著 正徳2-正徳5年(1712-1715) 105巻80冊

▲自鳴鐘

▲和漢三才図会表紙

(20)

▲天部

▲羽民

『新刻本草綱目』52巻首1巻附1巻 李時珍編

 『本ほんぞうこうもく』は『和漢三才図会』と同時代 の絵入り事典のひとつである。明の萬歴24年

(1596)、中国の医師で本草学者でもある李ちんが、従来の本草書を集成・増補し出版し た。慶長9年(1604)には日本にも伝来した。

動植物の産地・性質・効能等が総合的に記 載されている。本書は何度

も版を重ねており、当館所 蔵のものはいくつか版があ るうちの新刻版にあたる。

当館所蔵の関連資料

 

  同じく「人倫類」の「外夷人」の部分に は 、「 羽

みん

」 と い う ユ ニ ー ク な 項 目 が 設 け ら れており、次のように紹介されている。 「羽民国は、海の東南の険しい山の間に あ り 、 羽 民 国 の 人 は 頬 が 長 く 鳥 の 嘴

くちばし

を 持

ち毛羽が生えて飛ぶことができる。 」

(21)

新収貴重書2 漆黒の墨と

太い文字が特徴  

春日版 妙法蓮華経

 8軸

鎌倉後期

(22)

第三章 貴重書へのいざない

奈良絵本 太しょくかん

解体新書

長崎和蘭陀屋舖図

〈新収貴重書3〉蒙古入寇図

(23)

「大織冠」藤原鎌足

  中

なか

とみの

( 藤 原 ) 鎌

かま

たり

は 推 古 二 十 二 年( 六 一 四)に大和高市郡の藤原の邸に生まれ、皇極 四 年 (六 四 五) に 中

なかの

おお

えの

おう

ら と と も に 蘇

氏打倒をはかり、乙巳の変を引き起こした。 その後の大化の改新によって、 内

うちつ

おみ

に任ぜら れた鎌足は、 天

てん

てん

のう

(中大兄皇子)を補佐 して律令制への改革に邁進していく。

た。 けられたのは、後にも先にも鎌足のみであっ の 姓 を 天 智 天 皇 か ら 授 か った 。「太 織 冠」 を 授 鎌 足 は 死 の 直 前 に こ の 冠 と 大 臣 の 位、 「 藤 原 」

ふじ

色 十 三 階 冠」 の 最 上 の 冠 位 と し て 制 定 さ れ た 。   「 大 織 冠 」は、大化三年(六四七)に「七

たいしょくかん

『太しょくかん』

  本 書 は 、「大 織 冠」 鎌 足 を 主 人 公 と し た 幸

こう

まい

の一作品を大型の奈良絵本に仕立てたもの

奈良絵本  太しょくかん

寛文 ・ 延宝頃(1661-1681)写 3冊

である。幸若舞とは室町時代に流行した語り を伴う 曲

くせ

まい

の一種で、能や歌舞伎の原型とも いわれている。

▲奈良絵本『太しょくかん』

(24)

 鎌足の娘は、唐の太たいそうこうてい の后となり、藤原家の氏うじでらであ る興福寺に宝ほうじゅを寄進しようと する。しかし、日本へ運ぶ途中 で海中の竜王に宝珠を奪われて しまう。鎌足は、宝珠を取り戻 そうと海女と契りを結ぶ。3年 後、子を生んだ海女は鎌足の願 いを叶えるために竜王の元に赴 く。宝珠を奪い返した海女は、

それを鎌足に手渡して絶命した。

『太しょくかん』 その物語

  「大

織 冠」 は 浄 瑠 璃

本 く流布した挿絵入りの 御 伽 草 子 である奈良絵

とぎぞう

ているが、室町時代から江戸時代にかけて広 舞 伎 の 演 目 に も 残っ ・ 歌

・ 絵巻の題材にも取り入れられた。そのた

め、今も『 太

たい

しょくかん』を書名に持つ資料 が数多く残っている。

  当 館 に は 、 二 つ の 『太 し ょく か ん』 が あ る 。 一つは大型の奈良絵本で、もう一つは小絵の 奈良絵巻である。比較しながら見てみると細 かい表現の違いに気付くだろう。

▲奈良絵巻『太しょくかん』

(25)

解体新書

杉田玄白 ・ 中川淳庵 ・ 石川玄常 ・ 桂川甫周 安永3年(1774) 5冊

本格的な西洋解剖書の翻訳書

KuLmus

(ヨ ハ ン   『

Johnn Adam

解 体 新 書 』 は ド イ ツ 人

かいたいしんしょ

ダ ム ・ ア

のオランダ語訳の医学書『ターヘル ル ム ス) 原 著 ・ ク

・ アナ

ト ミ ア ( 解

かい

たい

)』 を 杉

すぎ

げん

ぱく

ら が 、 和 訳 し、出版した全五冊の木版本である。図や 学説は『ターヘル

・ アナトミア』からだけ

ではなく、他の数種の解剖書を参考とした ことが記されている。図を模写したのは玄 白の知人で秋田藩の絵師、 小

なお

たけ

であ る。

『解体新書』出版の経緯

  杉田玄白

川 淳 庵 ・ 中

なかじゅんあん

見 学 し た。 そ の 際、 『 タ ー ヘ ル 荒川区南千住)で行われた刑死人の解剖を 八 年 (一 七 七 一) 、 江 戸 千 住 骨 が 原 (現 在 の 野 良 沢 は、 明和 ・ 前

まえりょうたく

ア』 の 図 と 見 比 べ 、 あ ま り の 正 確 さ に 驚 き 、 ナ ト ミ ・ ア

▲扉絵

(26)

 当館所蔵の『解体新書』は初版本で、昭 和初年(1926)、当時の図書館長小ばやし林是きょう恭 仏教学部教授の労により、新潟の村上藩医の 子孫藤井家から購入した。

 本書には、「藤ふじとうみん」、「藤とうとうぞうしょ」の印 がある。また、

陶民によると 思われる朱の 書き入れが多 数見受けられ る。

解体新書購入の経路

つ い て は、 玄 白 が 晩 年 に 著 し た『 蘭 学 事

らんがくこと

  本書刊行のいきさつや語学を学ぶ苦労に 『解体新書』五冊を完成させた。 同書の翻訳を決意、三年半の歳月をかけ、

はじめ

』に書かれている。

▲旧蔵者の朱の書き入れ

(27)

田中啓爾文庫

  田

なか

けい

教授は立正大学の地理学の発展に 貢献し、昭和四十八年(一九七三)に多くの 資料を一括して本学に寄贈された。その内容 は江戸期の和装本、戦前の地理学関係図書、 古地図等およそ一万点に及ぶ。出島を描いた 本資料はその中の一点で、原本は本学熊谷図 書 館 内 の 「 田

なか

けい

ぶん

」 に 所 蔵 さ れ て い る 。

 

  出島は海に築かれた人口の島で、面積は約 三千九百六十九坪あった。キリスト教の根絶 と貿易の継続の方針のもと、ポルトガル人を 一箇所に集めて管理する目的で、寛永十一年 (一 六 三 四) 幕 府 の 命 令 を 受 け た 長 崎 町 人 が 請 け負い、建設が始まった。

  出 島 を 囲 ん だ 石 垣 の 上 に は 塀 が め ぐ ら さ れ 、 塀の上には先の尖った忍び返しが付けられて

長崎和蘭陀屋舖図

天明6-寛政10年(1786-1798)頃 手書彩色 1幅

いた。何度も火災、台風等で建替えが行われ た。塀の中には、商館長

・ 商館員

・ 医師等の

部屋、倉庫等の他、家畜小屋や菜園、花畑も 作られていた。

  寛 永 十 三 年 (一 六 三 六) 、 ポ ル ト ガ ル 人 を 収 容 し た が 、 寛 永 十 六 年 (一 六 三 九) に は 追 放、 寛永十八年(一六四一)にはかわりにオラン ダ人が移された。これ以降、来航する西洋船 はオランダ船のみとなった。

表門の橋

  出島と長崎の町をつなぐのは、表門に架か る一本の橋だった。橋のたもとには、遊女以 外 の 女 性、 山

やま

ぶし

関 す る も の 、 の 二 枚 の 制 札 が 掛 け ら れ て い た 。

せいさつ

りの禁止等について書かれたものと密貿易に 囲への船の乗り入れ、オランダ人の無断出入 侶 の 立 ち 入 り、 出 島 の 周 ・ 僧

(28)

長崎和蘭陀屋舖図

  本資料には、天明六年(一七八六)頃に壊 されたと推測されている 脇

ぐら

が描かれてい ない。また、景観が多くの建物が焼失した寛 政十年(一七九八)の大火以前のものである ことから、天明六年から寛政十年頃までの出 島を描いた図だと考えられる。

 Engelbert Kaempfer(エンゲルベルト ・ ケンペル)は元禄3年(1690)にオランダ 商館付の医師として来日し、2年間日本に 滞在した。若い時から、哲学 ・ 歴史 ・ 言 語 ・ 自然科学等について各国を遍歴しな がら学び続けた。

 日本滞在中には、日本に関する多くの 事柄ついて、調査・研究し、『De beschryv- ing van japan(日本誌)』を著した。本書 は、ヨーロッパでベストセラーとなり、日 本についての情報源として利用された。

オランダ商館付医師 ケンペル

▲長崎和蘭陀屋舗図

(29)

新収貴重書3 元

げん

こう

の様子を

絵と詞

ことばがき

書で克明に記録

蒙古入寇図

 1軸

江戸後期写

(30)

第四章 日蓮をたずねて

高祖御一代略図

日蓮聖人御一生記

日蓮大士真実伝

東西一天四海

蒙古 舟退治之図

〈新収貴重書4〉親師御難所

(31)

高祖御一代略図

歌川国芳画 大正15年(1926) 10枚

歌川国芳が描いた錦絵

世絵師だが、戯画 国芳は「武者絵の国芳」でよく知られた浮 日 蓮 の生涯を十場面に分けて描いている。

にちれん

年 (一 八 三 一) に 手 掛 け た と さ れ る 摺 物 で 、

すりもの

  『 高 祖 御 一 代 略 図 』は 歌 川 国 芳 が天保二

こういちだいりゃくうたくによし

・ 名所絵(風景画)も得

意 と し た 。 風 景 画 の 中 で は 、『高 祖 御 一 代 略 図 』 の う ち の 一 枚「 佐

しゅう

つか

はら

せっ

ちゅう

」 が 傑 出して名高い。

報恩供養

  天保二年(一八三一)は、日蓮の五百五 十遠忌にあたる。各地で報恩供養が執り行 われ、日蓮が入滅した十月十三日にその盛 大さは最高潮に達した。

  国芳は日蓮宗徒であったので、五百五十 遠忌に合わせて『高祖御一代略図』を描い たのだろう。十枚揃のうちの五枚には、日

▲「佐州塚原雪中」

(32)

蓮宗の紋章である井桁に橘にちなみ、自ら の 落

らっ

かん

の下に井筒に歌川派の年玉の印を用 いている。

  本資料は、 国芳の日蓮宗 徒 と し て の 一 面 を 窺 え る 貴 重 な 作 品 で あ る 。 国芳は文久元年(一八六一)にその生涯を 閉じた。法号は深修院法山信士で、浅草八 軒町日蓮宗大仙寺に葬られた。戦後の大仙 寺 の 移 転 に 伴 い 、 今 は 小 平 市 に 眠って い る 。

▲「佐州流刑角田波題目」

▲「文永八鎌倉霊山ヶ崎雨祈」

▲「相州竜之口御難」

▲「建治三年九月身延山七面神示現」

 当館では大正15年(1926)

に刊行された覆刻版『高祖御 一代略図』を所蔵していた。

しかし、図書館に覆刻版しか ないのは寂しいので、平成19 年(2007)から初版の収集 を始めた。現在、所蔵してい るのは10枚揃のうちの上記4 点である。10枚全てが揃うの は、いつのことになるのだろう か。待ち遠しい。

『高祖御一代略図』の収集

【初版の4枚】

(33)

 

  江戸中期以降、日蓮宗信仰は文化

・ 芸術と

相まって民衆の間に急激に広まっていく。浄 瑠璃

・ 歌舞伎に錦絵。そして、

さん

もその一 つに挙げることができるだろう。

  和 讃 は 仏 教 賛 歌 の 一 種 で あ る 。 内 容 は 、 仏

菩薩の 功

どく

や教法、 祖師

・ 高僧等の

ぎょう

せき

をほ めたたえたものが多い。その中で日蓮宗の和 讃は、日蓮の一代ものが多くを占める。

日蓮一代記の和讃

  享保六年(一七二一) 、江戸で『 日

にち

れん

しょう

にん

いっ

しょう

』 が 刊 行 さ れ た 。 著 者 は 、 当 時 の 売 れっ子の浮世絵師であった 石

いし

とも

のぶ

である。 『日蓮聖人御一生記』は別に『 日

にち

れん

しょう

にんうた

だい

もく

』という名を持っている。

  和讃は、当時流行していた節に七五調の句 をのせて朗唱するものが多い。本書もそれを

日蓮聖人御一生記

石川流宣著 文化2年(1805) 3冊

踏襲し、七五調の和讃形式を踏んだ日蓮一代 記に仕立てられている。それに流宣自らが画 を添えた。

▲七五調で書かれた和讃

(34)

『日蓮大聖人御傳記』11巻10冊 延宝9年(1681)

 延宝9年(1681)に日蓮の400遠忌を記 念して刊行された『日にちれんだいしょう聖人にんでん』の 中に「大だいしょうにん人和さんこと」と題された和讃が 収録されている。377句から成る長編の日 蓮一代記和讃は、やがて『日蓮大聖人御 傳記』から独立して京都・金沢・江戸と 様々な地域

から単独で 刊行される ようになる。

当館所蔵の関連資料

  七五調の調子の良さと軽妙なタッチで描か れた本書は、非常に流行したらしい。文化二 年(一八〇五)には大坂で、文政七年(一八 二四)には江戸

・ 大坂で刊行されるなど多く

の版を重ねている。

  ただ和讃として朗唱をするには長すぎるの で、詠うのは苦労する。実際は、日蓮の一代 記を七五調の和讃形式で綴った読み物に近い のかもしれない。

▲石川流宣が描いた画

(35)

日蓮大士真実伝

小川泰堂編述、長谷川雪堤画 慶応3年(1867) 5冊

日蓮宗居士

・ 小川泰堂

  文化十一年(一八一四)に相模国(神奈川 県)藤沢に医者の子として生まれた 小

たい

どう

は父と同じく医者となって、天保七年(一八 三六)に江戸で開業した。

  二 年 後 の 天 保 九 年 ( 一 八 三 八 )三 月 、 泰 堂 は 江 戸 市 中 の 病 家 を 回 診 し た 帰 り に立 ち 寄 っ た 蔵 前 の 曝

ばく

てん

( 古 本 屋 ) で日 蓮 の 遺 文 の 一 つ 「 持

みょう

ほっ

もん

どう

しょう

」 を 読 み 、 す ぐ に そ の 虜 と な っ た 。 こ の 時 、 二 十 五 歳 だ っ た 。

  既版の日蓮遺文集に誤りが多いことを知っ た泰堂は遺文の校訂を志し、嘉永元年(一八 四八)に着手する。以来、徹底した遺文の校 訂作業を行い『 高

こう

ぶん

ろく

』として纏めあげ た。この書は、明治以降に刊行された遺文集 の基礎となる。明治十二年(一八七九)に六 十 六 歳 で 閉 じ た そ の 生 涯 で 成 し 遂 げ た 業 績 は 、 今も名高い。

▲振り仮名や画が添えられた日蓮の一代記

(36)

絵入り

・ 仮名振りの日蓮一代記

  泰堂が日蓮遺文の校訂作業を続ける傍らで 著した『 日

にち

れん

だい

しん

じつ

でん

』は、慶応三年(一 八六七)に刊行された。本書は女性や子ども のために書かれた日蓮一代記で、振り仮名や 画が添えられている。日蓮の生涯をいきいき とドラマチックに描いた内容は、女性や子供 のみならず、大衆に受け入られた。

  明治期を中心に本書を底本とした歌舞伎が 度々上演されている。その度に多くの人が訪 れたという。

 日蓮の600遠忌にあたる明治 14年(1881)10月、大坂の狂言 作者・勝かつげんぞうが『日蓮大士真実 伝』を脚色した演目「日にちれんだいさつしんじつでん」が大坂道頓堀中芝居で 上演された。中なかむらふくすけ(後の二代 目梅ばいぎょく)が演じた日蓮は好評を 博し「福助の日蓮記」と称された。

歌舞伎「日蓮大菩薩真実伝」

▲明治19年(1886)に再演された時の芝居絵

(37)

「一天四海」とは

  本資料は、江戸時代のお会式の賑わいを上 段に、当代の人気歌舞伎役者を下段に描いた 三枚続きの錦絵である。上段の絵の間に下に 描かれている役者の評判を、ときとして日蓮 やお会式に無理矢理ことよせて記している。

  お 会

しき

の風景の中には、東、西の 一

いっ

てん

かい

の 万

まん

とう

が見て取れる。古いインドの世界観で は、世界の中心に「 須

しゅ

せん

」と呼ばれる山が あり、 その周囲に「 四

だい

しゅう

」と呼ばれる四つ の大陸があるとされていた。すなわち、 東

とう

ほつ

だい

閻 浮 提 ・ 南

なんえんだい

瞿 陀 尼 ・ 西

さい

・ 北

ほく

うつ

たん

おつ

で あ る 。 須 弥 山 は「 一

いっ

てん

」、 四 大 洲 の 四 方 に あ る 海 は 「 四

かい

」ともいい、 「一天四海」で世界全体を あらわした。

東西一天四海

川鍋暁斎 ・ 歌川芳虎画 文久3年(1863) 3枚

お会式

  日

にち

れん

の臨終と葬送の物語を儀礼として今日 に伝えるのが、入滅の地、池上本門寺を中心 とするお会式行事である。お会式は江戸時代 に は 、「 御

めい

こう

」 と も 呼 ば れ た 。 数 日 に わ た る お会式行事のうち、日蓮の命日の前日(十月 十二日)には、 万

まん

とう

よう

が盛大に行われ、参 詣者が群参したという。正直を旨とする江戸 の庶民は、正しい教えを広めるために法難に あう日蓮に強い共感と親近感を覚えた。それ ゆえ、宗派を越えて多くの人々がお会式へ参 加したのであろう。

  十二日の夜に万灯供養を終えた人々は、周 辺 の 寺 や 宿 屋 に 宿 泊 し 、 翌 日 は 早 朝 に 起 き て 、 堀 の 内 の 妙

みょう

ほう

(杉 並 区 堀 ノ 内) の お 会 式 に 詣でた後、帰路に着いた。

(38)

歌舞伎役者十六人

  江 戸 時 代 に は 浄 瑠 璃 や 歌 舞 伎 の 題 材 と し て 、 日蓮やその信仰がたびたび取り上げられた。 本資料に描かれた勢ぞろいの人気役者は、 岩

くめ

さぶ

ろう

・ 沢

むら

とっ

しょう

・ 市

いち

むら

もん

ら を 含 め た 十六人である。絵をより華やかなものとする ために、 また、 信仰面からも人々の目を引き、 共感を喚起するために、役者絵に併せて信仰 の祭典であるお会式を描いたと推測される。

▲上段にお会式の賑わい ・ 下段に歌舞伎役者16人が描かれている

 日蓮は、弘安5年(1282)10月13日に 入滅した。そのとき、庭には季節はずれ の桜の花が咲いたとの言い伝えがあ る。この日蓮入滅時の伝説により、お会 式の万灯には桜の花が飾られている。

万灯と桜の花飾り

(39)

蒙古襲来

  文 永 五 年 (一 二 六 八) 、 蒙

もう

(モ ン ゴ ル) の フビライから通好要求の国書がもたらされ、 鎌倉幕府を経て朝廷へ渡された。朝廷は、こ れを侵略の先触れととり、返書を拒絶した。 朝廷や幕府は多くの神社で異国降伏の祈祷を 行い、国内の防備を固めていった。

  フビライは国号を 大

だい

げん

と定めた後の文永十 一 年( 一 二 七 四 ) 十 月、 大 軍 を 率 い て 対

つし

後の弘安四年(一二八一) 、 再びモンゴル人 て引き上げざるをえなかった。それから七年 多 付 近 に 攻 め 入った が 、 暴 風 雨 に よ っ ・ 博

こう

らい

・ 漢人からなる東路軍が襲来、その後

旧南宋人で構成された江南軍が襲来した。両 軍は 鷹

たか

しま

で合流し、大軍で迫ったものの、日 本軍の応戦と暴風雨のため壊滅状態となり、 再び撤退した。

蒙古 舟退治之図

歌川芳虎画 文久3年[1863]

弘安の役を描いた図

  本資料は、弘安四年(一二八一)の弘安の 役を描いた図である。図中には次のような内 容が書かれている。

「弘安四年正月、蒙古の軍船が 筑

ちく

に押

し寄せて来たので、鎌倉幕府は、鎌倉か

ら 討

うち

を 差 し 向 け る 一 方、 日

にち

れん

しょう

にん

に 曼

まん

を書くように願った。この曼荼羅を

軍陣に翻すと、たちまち暴風が吹き起こ

り、九百余 艘

そう

の賊船はことごとく海底に

沈んでしまった。 」

合戦と信仰心

  当時の武士達は合戦に際し、法華経一部を 書いて携帯するなど、信仰と密接に関わって いた。本資料には、荒れ狂う波の中で翻る旗 曼荼羅や仏国土の守護神、四天王の姿等が描 かれている。

(40)

蒙古の沈没船みつかる

  平 成 二 十 三 年 (二 〇 一 一) 、 琉 球 大 学 の 調 査 で、蒙古の沈没船とみられる船体が長崎県鷹 島沖にて発見された。船首から船尾までを通 す 約 十 二 メ ー ト ル の 竜

骨 と 舷

ふなばた

を 構 成 す る 外 板 など、その構造が明確にわかる状態での発見 だった。竜骨の構造や船底の形が、同時代の 中国の船と似ていることから、蒙古襲来時の 船と判断したという。

▲荒れ狂う波と翻る曼荼羅を大胆に描いた『蒙古 舟退治之図』

 蒙古軍が日本に攻め入った時代、

国王フビライは、日本のみならず各地 に遠征し、東アジア ・ 中央アジア ・ 西北ユーラシア・ 西アジアを手中にお さめ、さまざまな国の人々で軍を組織 した。宮内庁蔵『蒙もうしゅう襲来らいことば詞』 に描かれた蒙古軍の姿からも、それ を確認す

ることが できる。

様々な国の人々で構成された蒙古軍

(41)

新収貴重書4 鍋

なべ

かぶり日

にっ

しん

の幾多の

法難を描いた掛軸

親師御難所

 1幅

天明8年(1788)

(42)

第五章 和本紐解

枕草紙四季絵詞

嘉永六年七月長崎入港魯国軍艦フレカット号図   艦将布恬廷

法華諸国霊場記

〈新収貴重書5〉黒本 風流仁徳天皇名哥竈

(43)

枕草紙四季絵詞

書写年不明 1軸

日記や随筆の絵画化

  横長の巻物に描かれた絵と、それに対応す る 説 明 の 文 章( 詞

ことば

がき

) か ら な る 絵 画 作 品 を 「絵 巻」 ま た は 「絵 巻 物」 と 呼 ぶ 。 作 品 の 内 容 に 何 ら か の ス ト ー リ ー展 開 が あ る の が 特 徴 で 、 同じく巻物形式をとり、説明文と絵から構成 さ れ る 「 図

かん

」 や 「 画

かん

」 と 区 別 さ れ て い る 。 絵 巻 の 内 容 は と い う と、 物 語

話 ・ 説

記 ・ 軍

寺社縁起等、実に様々である。

  物語の絵画化がいつ頃はじまったのかは明 ら か に な っ て い な い が、 『 源

げん

もの

がたり

』 が 成 立 した平安時代、十一世紀初頭には、すでに絵 巻が存在していたことが伝えられている。鎌 倉時代になると、日記や随筆の類も絵画化さ れた。

巻物を開くと、金銀泥彩色を施した華麗な世界が広がる▲

(44)

『枕草子』に取材した絵巻

  本 資 料 『 枕

まくらの

そう

ことば

』 は 、 清

せい

しょう

ごん

の『 枕

まくらの

そう

』 に 取 材 す る 金 銀 泥 彩 色 を 施 し た 絵 巻 で あ る 。『枕 草 子』 か ら 春 夏 秋 冬 の 詞 章 のみを抽出し、その内容に合った四季の様子 を華麗に描いている。

[ペリー来航図巻]1軸 書写年不明

 淡彩著色で、行進時のアメリカ人の姿、ペリー 以下の高官の肖像、隊列の模式図、艦かんてい図、

船中のダンスの光景、雨傘、写真機等が描かれ た図巻。ペリー来航関係の図像は複数存在する が、本資料はそれらの中から必要な図像類のみを 抄出して1軸にまとめたものと推測される。

当館所蔵の関連資料

(45)

畳みもの

  「 畳 み も の」 は 、 地 図 や 絵 図

たた

六 ・ 双

「 舗 」で数えられる。

ま た、 持 ち 運 び に も 便 利 で あ る。 一 単 位 は 小 さ く 畳 ん で 保 護 で き 、 整 理 も し や す く な る 。 もの」の形態にすると、大きな一枚のものを 横折りにし、 表表紙、 裏表紙を付ける。 「畳み の面を内側にして 蛇 腹 に折り、さらにそれを

じゃばら

どに用いられる本の装丁のひとつである。表 表 な ・ 年

嘉永六年七月入港魯国軍艦フレカット号図 艦将布恬延

井上信元写 尾形至複写 明治28年(1895)

プチャーチン来航船

  本 資 料 には 、 嘉 永 六 年 ( 一 八 五 三 ) に ロ シ ア の

Jevfimj putijatin

( エ フ ィ ミ ー

絵 図 は幕 末 に 井 上 信

が 描き 、 明 治 期 に 尾 形

いのうえのぶもとがた

( 白 地 に 青 の 対 角 線 ) が 掲 げ ら れ て い る 。 こ の と 、 海 軍の 軍 艦 旗 で あ る 聖ア ンド リ ュ ー ス旗 航 船 に は ロ シ ア 帝 国 の 旗である 双 頭 の 鷲 の 旗

入 港 、 停 泊 し て い る 様 子 が 描 かれ て い る 。 来 ン ) 一 行 が フリ ゲ ー ト 艦 パ ル ラ ダ 号 で 長 崎 に チ ャ ー チ ・ プ

いたる

が 書 写 し た も の で あ る 。 表 題 に フ レ カ ッ ト 号 と あ る のは 、 書 写の 際 、 フリ ゲ ート 艦 パ ル ラ ダ 号 を 誤 っ て 認 識 し た か ら だ と 思 わ れ る 。

ロシアから造船技術を学ぶ

  安政元年(一八五四)十一月四日の午前九 時頃、伊豆の下田を大地震が襲った。その時 プチャーチンは、二回目の来日で、下田に停 泊していた。船は大きな被害を受け、乗組員

▲左図を畳んだ状態  (27.5×18.3cm)

(46)

一名が死亡した。

  船の修理は伊豆の戸田でおこなわれること と な り 、 多 く の 船 大 工 が 集 め ら れ た 。 こ れ は 、 ロシアの高い造船技術を学ぶ良い機会となっ た。後に二百名以上の戸田の船大工が長崎伝 習所の伝修生として派遣された他、日本各地 に造船の技術を伝えたという。

▲嘉永六年7月入港魯国軍艦フレカット号図艦将布恬延(56.9×89.9cm)

 神田の古書店から、福岡藩の御用絵師で あった尾形至が描いた絵図がまとまって出て いるという連絡があった。古書店に出向き、

一枚ずつ慎重に細部まで見て、購入を決め た。「フレカッ

ト号図」は、

この尾形至の 10枚の絵図の うちの1 枚。

様々な展示に 大 活 躍 の資 料である。

本資料購入の経緯

▲「尾形至写図」のうちの1枚

[正保四年六月廿四日長崎入港波爾杜 尾軍艦黒舩二隻渡来諸藩警備ノ図]

(47)

法華諸国霊場記

京都身延山年参講 嘉永5年(1852) 1冊

江戸時代の旅

  江戸後期になると享和二年(一八〇二)に 刊 行 さ れ た 十

じっ

ぺん

しゃ

いっ

の 『 東

とう

かい

どう

ちゅう

ひざ

くり

』 が 日 本 中 に 旅 ブ ー ム を 巻 き 起 こ し 、 こ れ を き っ かけに旅に縁のなかった庶民が旅に立つこと が珍しくない時代となっていく。

  旅先として選ばれるのは、許可の出やすい 社寺や霊山、湯治場などだった。庶民は高額 な旅行代金を捻出するために旅を目的とした グループをつくって定額の積み立てを行い、 目 標 額 が 貯 ま る と 代 表 者 が 選 ば れ て 旅 立 つ 「 代

だい

さん

こう

」を利用して旅を楽しんでいた。代参者 はくじで選ばれ、当たらなかった人たちは、 旅立ちの日に出発の宴を開いて代参者たちを 見送った。代参者たちの帰着予定日には講員 全員で出迎えて宴を開き、土産話を聞きなが らこの一大イベントを楽しんだという。

(48)

江戸時代のガイドブック

  本書は全国の法華宗寺院を網羅した江戸時 代のガイドブックである。旅に欠かせない宿 場 間 の 距 離 や 旅

はた

の 料 金 な ど が 記 さ れ て い る 。 旅の最中でも出し入れがしやすい小さな横長 の 形 は、 「 袖

しゅう

ちん

ぼん

」 と 呼 ば れ る 持 ち 運 び に 特 化した本の形である。

  嘉永五年(一八五二)に京都から身延山へ 旅立った代参講の面々が持ち歩いたであろう このガイドブックを開くと、今も当時の旅の 賑わいを感じることができる。

▲道と旅籠の紹介部分

▲小さな横型の装丁「袖珍本」

『金草鞋』24冊 十返舎一九 文化10年(1813)-天保5(1834)

 『東海道中膝栗毛』で大ヒットを 飛ばした十返舎一九が著した。奥 州の住人で僧侶の筑ちくぼうと狂歌 師の鼻はなのび延高たかが江戸見物を思い 立ち、関東から北陸・京阪・長崎ま でと全国を渡り歩く道中記。『東海 道中膝栗毛』

から続く旅 ブームの一翼 を担った。

当館所蔵の関連資料

(49)

新収貴重書5 「民

たみ

の竈

かまど

」で知られる

にん

とく

てん

のう

の物語

黒本

風流仁徳天皇名哥竈

 2冊

富川房信画 [明和5年(1768)]

(50)

第六章 江戸遊

四季の花やしき

偐紫田舎源氏

子供遊十二ヶ月 自九月至十二月

〈新収貴重書6〉丹録本 保元合戦記

(51)

四季の花やしき

安政4年(1857) 1枚

▲振り出し

▼上がり

(52)

のが飛び双六である。江戸時代は旅の道順に したがって各地を回る道中双六を除けば、飛 び双六の形式が多かった。

  本資料『四季の花やしき』も、サイコロの 目の数によって、振り出しから左右二ルート に分かれる飛び双六である。マス目はカルタ を模した作りになっており、四季折々の風景 が描かれている。

絵双六の特徴   絵

すご

ろく

は 、 振 り 出 し お よ び 上 が り の マ ス と 、 その間に配置された複数のマスからなる、絵 と文字で構成された遊戯具である。江戸時代 には、子どもと同様、大人も大いに楽しんだ という。   江戸中期以降、木版摺りの浮世絵技術の進 展に伴い、それらを取り入れた絵双六が多種 多様に刊行されるようになった。ありとあら ゆるものが素材として取り上げられたため、 絵双六は大衆文化の縮図といっても過言では ない。

ユニークな形式

  絵 双 六 に は 大 き く 分 け て 「 廻

り 双

すご

ろく

」 と 「 飛

び 双

すご

ろく

」の二つの形式がある。マス目の順に したがって、サイコロの目の数だけ進むのが 廻り双六、画面の中で指示されたマスへ進む

 絵双六『四季の花やしき』との出会いは、平成 24年(2012)の七夕古書大入札会にさかのぼる。

明治古典会主催の当入札会は毎年七夕の時期 に開催され、当館担当者も欠かさず足を運んでい る。というのも、普段は限られた者しか出入りできな い東京古書会館に入場し、実際に手を触れなが ら様々な資料を見ることが出来る、この上なく貴重 な機会だからである。

 『四季の花やしき』は、そのデザインがあまりにも 美しく、当館所蔵の印刷物の一形態を補完する点 からもすぐに私たちの心をとらえた。運よく落札する ことができ、現在では大切な蔵書のひとつである。

『四季の花やしき』が当館蔵書になるまで

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