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Vol.65 , No.1(2016)060金 俊佑「複合語abhutaparikalpaはkarmadharayaか」

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(1)

複合語 abhūtaparikalpa は karmadhāraya か

金  俊 佑

1.序論 一般に abhūtaparikalpa

(虚妄分別)は「虚妄なる分別」と理解されてい る1).このように abhūtaparikalpa を「虚妄なる分別」と理解することは abhūta と parikalpa とから構成されている abhūtaparikalpa を前者が後者を形容詞として修飾 する,或いは,両者を同一のものと見なす同格関係の karmadhāraya として見てい ることを意味する.本稿では,今までの理解とは違って,abhūtaparikalpa という 複合語は karmadhāraya ではなく tatpuruṣa だということを,MAVBh とそれに対す る真諦と玄奘の漢訳,また,窺基の『弁中辺論述記』と安慧の MAVṬ を典拠とし て論証する.

2.真諦訳と『弁中辺論述記』 

MAVBh において世親は MAV 1-1a の abhūtaparikalpa を grāhyagrāhakavikalpa と言い換えて註釈している2).即ち,虚妄

分別を虚妄と分別とに分け,そのうち abhūta を grāhyagrāhaka に,parikalpa を vikalpa に対応させている.従って,虚妄分別における虚妄と分別との関係は所取 能取と分別との関係に換言されると言える.MAVBh の真諦訳では,この箇所が 「虚妄分別者.謂分別能執所執.」3)と訳されている.語順上,この文章は能執所 執が分別の後ろに位置しているから,「虚妄分別とは能執と所執とを分別すること である」との意味で理解することができる.即ち,真諦は所執能執分別を karmadhāraya ではなく所執能執が分別の対象になる関係を形成する tatpuruṣa とし て読んでいるのである.一方,玄奘はこの文章を「虚妄分別有者.謂有所取能取 分別.」4)と訳して grāhyagrāhakavikalpa をそのまま翻訳している.この訳では所取 能取と分別との関係が直接的に現れていない.しかし,これに対する窺基の註釈 を見れば,玄奘も真諦と同様に grāhyagrāhakavikalpa を tatpuruṣa と理解していたと いうことがわかる.窺基は次のように註釈する. 『弁中辺論述記』[T 44.2b8–b14]論曰.虚妄分別有者至能取分別.述曰.此中一段皆始牒 文而後申義.能取所取遍計所執縁此分別乃是依他.以是能縁非所執故.非全無自性.故 印度學佛敎學硏究第 65 巻第 1 号 平成 28 年 12 月 (161) 伏マンダラ」(GMT, D 135a6–135b4, P 96b1–7)と,女尊を中心とした「大瑜伽秘密荘 厳マンダラ」(GMT, D 137a3–7, P 98a8–98b5)が,それぞれ説かれている. 17)遠藤(1996, 162 (17))を参照. 18)当該のマンダラについては,大毘盧遮那如来の四方の月輪に,金剛手大菩薩が四如 来(右・宝生,前方・阿閦,左・不空成就,背後・阿弥陀)の姿で住するという描写 の後に,真言(種字)から須弥山や楼閣を思念すると記されている.このことから, このマンダラは観想において建立するものであると推定できる. 〈略号〉

GMT 『グフヤマニティラカ』(*Guhyamaṇitilaka).[Tib.]D no. 493, P no. 125.

STTS 『真実摂経』(Sarvatathāgatatattvasaṃgraha).[Skt.]堀内(1974),堀内(1983). [Tib.]D no. 479, P no. 112.[Chi.]T no. 865(不空訳),T no. 882(施護訳). VŚ 『金剛頂タントラ』(*Vajraśikharamahāguhyayogatantra).[Tib.]D no. 480, P no. 113. 〈参考文献〉

Giebel, Rolf W. 1995. “The Chin-kang-ting ching yü-ch‘ieh shih-pa-hui chih-kuei: An Annotated Translation.”『成田山仏教研究所紀要』18: 107–201. 遠藤祐純 1996「瑜伽タントラについて――『瑜伽タントラの海に入る船』を中心に(1) ――」『大正大学研究紀要』81: 178 (1)–159 (20). 北村太道・タントラ仏教研究会 2012『全訳 金剛頂大秘密瑜伽タントラ』起心書房. 酒井眞典 1985「五相成身観のチベット伝訳資料」『酒井眞典著作集 3 金剛頂経研究』法 蔵館,3–22. 田中公明 1987『曼荼羅イコノロジー』平河出版社. ――― 2010『インドにおける曼荼羅の成立と発展』春秋社. 德重弘志 2011「大乗現証について」『印度学仏教学研究』60 (1): 465 (94)–462 (97). 野口圭也 1986「Saṃpuṭodbhavatantra と『秘密相経』」『豊山学報』31: 80 (39)–56 (63). 羽田野伯猷 1986「Kāśmīra-mahāpaṇḍita “Śākyaśrībhadra” ――チベット近世仏教史・序説 ――」『チベット・インド学集成 1』法蔵館,239–258. 堀内寛仁 1974『初会金剛頂経の研究 梵本校訂篇(下)』密教文化研究所. ――― 1983『初会金剛頂経の研究 梵本校訂篇(上)』密教文化研究所. 〈キーワード〉 『十八会指帰』,『金剛頂経』第十一会,Guhyamaṇitilaka (高野山大学密教文化研究所受託研究員,博士(密教学)) (160) 『金剛頂経』第十一会について(德 重) ─ 364 ─

(2)

つものだということを意味する.そして,parikalpa は parikalpyate という受け身の 形で表現されているから,この文章の中でその働きを受けているもの,つまり, 働きの対象となるものはこの文章の主語である虚妄なる二つだということがわか る.また,虚妄なる二つは虚妄分別において,或いは,虚妄分別によって分別さ れるから parikalpa という働きの主体は虚妄分別であるということもわかる. 従って,この場合,abhūtaparikalpa を虚妄なる分別という karmadhāraya と読む ことはできない.虚妄は二取を指しているからであり,その虚妄なる二取は分別 の対象となっているからである.

次に,安慧は abhūtaparikalpa を abhūta と parikalpa とに分けて次のように一つず つ説明している. MAVṬ(Y)[13, 19–22]「虚妄」と言う語によって,それが所取能取として分別されるよう に,そのように存在しないということが示される.一方「分別」と言う語によって,対 象が分別されるように,そのように対象は存在しないということが示される. まず「虚妄」の部分からみると,所取能取の二取は分別されるものとして登場 している.さらに,その分別されるもの,二取は分別されるそのようには存在し ないものとして説かれている.そして,このような二取の存在の状態,即ち,分 別されるように存在しないということが「虚妄」が意味する所となっている.従っ て,このような安慧の註釈にもとづけば,「虚妄」というのは二取が持つ存在の状 態を形容する語であるから,「虚妄」は二取を修飾するものだということがわか る.「分別される」(parikalpyate)として登場している「分別」(parikalpa)にかかる ものではないのである. 次に「分別」の部分をみると,「分別」は「分別される」という動詞の形で言い 換えられて登場している.そして,その分別されるものは,分別されるようには 存在しないものとして記述されている.従って,「分別」とは存在しないものを分 別すること,存在しないものを対象とすることである.そして,この「分別」が 自分の対象とするものは,分別されるように存在しないもの,即ち,虚妄なるも のである.それゆえに,このような安慧の「分別」の註釈に依拠すれば,「虚妄」 は分別の対象に関係するということがわかる.「分別」に直接的に関係するのでは ないのである. 以上,安慧の abhūtaparikalpa に対する二つの註釈を分析してみた.その結果, abhūta は二取にかかる修飾語だということと,その虚妄なる二取は分別されるも の,分別の対象になるものだということが導き出された.従って,安慧の註釈に 複合語 abhūtaparikalpa は karmadhāraya か(金) (163) 名為有.即所取能取之分別.依士釈名.非二取即分別持業立号.然此但約染分説妄分別 有即依他.非依他中唯妄分別.有浄分別為依他故. 窺基は「所取能取分別」が依士釈であって,所取能取が即ち分別を意味する持 業釈ではないと註釈する.そして,このような複合語解釈の根拠は,「所取能取は 遍計所執〔性〕であり,これを縁じた分別は,即ち,依他〔起性〕である」とい う一文に求められる.即ち,所取能取の二取と分別とは三性の観点で区別される ものである.それゆえに,「所取能取分別」は同格関係の karmadhāraya にはなら ない.もし「所取能取分別」が karmadhāraya であれば,依他起性である分別が 遍計所執性である所取能取と同一なものになり,虚妄分別が有であると言えない ようになってしまう.したがって,窺基の註釈に従えば,「所取能取分別」は karmadhāraya ではない. また,上記の引用文の中で「所取能取は遍計所執〔性〕であり,これを縁じた 分別は,即ち,依他〔起性〕である」との説示から分別は所取能取を自らの対象 としているのがわかる.それゆえに,窺基の註釈に依拠すれば,所取能取と分別 との間には前者が後者の対象となる関係が形成されていると言える. 以上のことから,虚妄分別の言い換えである所取能取分別が tatpuruṣa であるか ら,虚妄分別も tatpuruṣa でなければならないということがわかる.また,真諦訳 と窺基の註釈によると所取能取と分別との間には前者が後者の対象になる関係が 形成されているから,虚妄と分別との間にも前者が後者の対象になる関係が形成 されていることがわかる.

3.Madhyāntavibhāgaṭīkā 安慧は MAVṬ において abhūtaparikalpa を註釈する

際に,まず abhūtaparikalpa を全体的に説明し,それから abhūtaparikalpa を abhūta と parikalpa とに分けて各々説明する.abhūtaparikalpa を分けずに全体的に説明す る部分は次のようである.

MAVṬ(Y)[13, 18–19]それにおいて,或いは,それによって虚妄なる二つが分別される

から「虚妄分別」である.

ここで abhūta は dvaya を修飾する形容詞として登場しており,parikalpa は parikalpyate という動詞として登場している.abhūta が dvaya,即ち,所取能取に かかっていることは,abhūtaparikalpa という複合語の中で,abhūta は parikalpa に かかる形容詞ではないということを示す.従って,abhūtaparikalpa は虚妄なる分 別とならない.虚妄なるものは所取能取の二取だからである.

次に parikalpa が動詞として登場しているということは parikalpa はある働きを持

(162) 複合語 abhūtaparikalpa は karmadhāraya か(金)

(3)

つものだということを意味する.そして,parikalpa は parikalpyate という受け身の 形で表現されているから,この文章の中でその働きを受けているもの,つまり, 働きの対象となるものはこの文章の主語である虚妄なる二つだということがわか る.また,虚妄なる二つは虚妄分別において,或いは,虚妄分別によって分別さ れるから parikalpa という働きの主体は虚妄分別であるということもわかる. 従って,この場合,abhūtaparikalpa を虚妄なる分別という karmadhāraya と読む ことはできない.虚妄は二取を指しているからであり,その虚妄なる二取は分別 の対象となっているからである.

次に,安慧は abhūtaparikalpa を abhūta と parikalpa とに分けて次のように一つず つ説明している. MAVṬ(Y)[13, 19–22]「虚妄」と言う語によって,それが所取能取として分別されるよう に,そのように存在しないということが示される.一方「分別」と言う語によって,対 象が分別されるように,そのように対象は存在しないということが示される. まず「虚妄」の部分からみると,所取能取の二取は分別されるものとして登場 している.さらに,その分別されるもの,二取は分別されるそのようには存在し ないものとして説かれている.そして,このような二取の存在の状態,即ち,分 別されるように存在しないということが「虚妄」が意味する所となっている.従っ て,このような安慧の註釈にもとづけば,「虚妄」というのは二取が持つ存在の状 態を形容する語であるから,「虚妄」は二取を修飾するものだということがわか る.「分別される」(parikalpyate)として登場している「分別」(parikalpa)にかかる ものではないのである. 次に「分別」の部分をみると,「分別」は「分別される」という動詞の形で言い 換えられて登場している.そして,その分別されるものは,分別されるようには 存在しないものとして記述されている.従って,「分別」とは存在しないものを分 別すること,存在しないものを対象とすることである.そして,この「分別」が 自分の対象とするものは,分別されるように存在しないもの,即ち,虚妄なるも のである.それゆえに,このような安慧の「分別」の註釈に依拠すれば,「虚妄」 は分別の対象に関係するということがわかる.「分別」に直接的に関係するのでは ないのである. 以上,安慧の abhūtaparikalpa に対する二つの註釈を分析してみた.その結果, abhūta は二取にかかる修飾語だということと,その虚妄なる二取は分別されるも の,分別の対象になるものだということが導き出された.従って,安慧の註釈に 複合語 abhūtaparikalpa は karmadhāraya か(金) (163) 名為有.即所取能取之分別.依士釈名.非二取即分別持業立号.然此但約染分説妄分別 有即依他.非依他中唯妄分別.有浄分別為依他故. 窺基は「所取能取分別」が依士釈であって,所取能取が即ち分別を意味する持 業釈ではないと註釈する.そして,このような複合語解釈の根拠は,「所取能取は 遍計所執〔性〕であり,これを縁じた分別は,即ち,依他〔起性〕である」とい う一文に求められる.即ち,所取能取の二取と分別とは三性の観点で区別される ものである.それゆえに,「所取能取分別」は同格関係の karmadhāraya にはなら ない.もし「所取能取分別」が karmadhāraya であれば,依他起性である分別が 遍計所執性である所取能取と同一なものになり,虚妄分別が有であると言えない ようになってしまう.したがって,窺基の註釈に従えば,「所取能取分別」は karmadhāraya ではない. また,上記の引用文の中で「所取能取は遍計所執〔性〕であり,これを縁じた 分別は,即ち,依他〔起性〕である」との説示から分別は所取能取を自らの対象 としているのがわかる.それゆえに,窺基の註釈に依拠すれば,所取能取と分別 との間には前者が後者の対象となる関係が形成されていると言える. 以上のことから,虚妄分別の言い換えである所取能取分別が tatpuruṣa であるか ら,虚妄分別も tatpuruṣa でなければならないということがわかる.また,真諦訳 と窺基の註釈によると所取能取と分別との間には前者が後者の対象になる関係が 形成されているから,虚妄と分別との間にも前者が後者の対象になる関係が形成 されていることがわかる.

3.Madhyāntavibhāgaṭīkā 安慧は MAVṬ において abhūtaparikalpa を註釈する

際に,まず abhūtaparikalpa を全体的に説明し,それから abhūtaparikalpa を abhūta と parikalpa とに分けて各々説明する.abhūtaparikalpa を分けずに全体的に説明す る部分は次のようである.

MAVṬ(Y)[13, 18–19]それにおいて,或いは,それによって虚妄なる二つが分別される

から「虚妄分別」である.

ここで abhūta は dvaya を修飾する形容詞として登場しており,parikalpa は parikalpyate という動詞として登場している.abhūta が dvaya,即ち,所取能取に かかっていることは,abhūtaparikalpa という複合語の中で,abhūta は parikalpa に かかる形容詞ではないということを示す.従って,abhūtaparikalpa は虚妄なる分 別とならない.虚妄なるものは所取能取の二取だからである.

次に parikalpa が動詞として登場しているということは parikalpa はある働きを持

(162) 複合語 abhūtaparikalpa は karmadhāraya か(金)

(4)

『瑜伽師地論』「摂決択分菩薩地」における

不一不異説

那 須 円 照

1.筆者(那須)の不一不異説研究史

筆者は,今までの諸論攷において,仏教における諸学派ごとに,異なる特徴を 持つ諸不一不異説を分類考察している.私は,主に,インド仏教においては,〈1〉 アビダルマ的不一不異説,〈2〉中観的不一不異説,〈3〉唯識的不一不異説の三類 型に分類されると考える. その中で,アビダルマ的不一不異説は,矛盾をはらんだ不完全なものと理解さ れ,中観的不一不異説と唯識的不一不異説は,矛盾点のない双方独自性を持つ理 論と理解される. さらに,私は,インド仏教からの発展的形態としての〈4〉中国浄土教における 曇鸞の不一不異説についての考察をすでに済ませている.これは,日本の浄土教 である浄土真宗の教義の背景をなし,浄土教の完成態を示唆している. まず,〈1〉アビダルマ的不一不異説を紹介する.これは,さらに『婆沙論』に 説かれるものと『順正理論』に説かれるものに大別される.『俱舎論』では,これ らの有部の不一不異説に対して経量部の立場から批判的解決がなされている. 『婆沙論』において,作用と本体が不一不異であると説かれる.この関係は, 個々の有漏法の本体と,無常等の多くの特徴との関係に喩えられる.この場合, 本体は常住であり,作用は現在のみで無常であり,作用と本体は同一でないだけ でなく,別異でもないとは,矛盾していると『俱舎論』で世親は批判する.世親 は,有漏法の個々の本体は現在のみの無常な存在であり,同じく現在のみの作用 や様態と全く同一であると考える. これに対して,衆賢は反論する.作用は,法と本体が現在において異ならない から,別異ではないとされる.そして,過去・未来においては本体はあるが,作 用がないから,同一でもないとされる.この場合,作用は三世に実有でないから 印度學佛敎學硏究第 65 巻第 1 号 平成 28 年 12 月 (165)

よれば abhūtaparikalpa は karmadhāraya ではなく,虚妄なる二取(abhūta)が分別

(parikalpa)の対象となっている tatpuruṣa であると言える5)

4.結論 本稿で検討した文献に限っては,abhūta は二取を形容するものであり,

abhūta によって形容される二取は parikalpa の対象になるものである.従って,こ の場合,abhūtaparikalpa は「虚妄なるもの(=二取)を分別すること」,或いは, 「虚妄なるもの(=二取)に対する分別」という意味の tatpuruṣa として理解しなけ ればならないと考えられる. 1)長尾[1937: p. 79],長尾[1967: p. 1],長尾[1976: p. 232],長尾[1988: p. 6].    2)MAVBh(N) 18, 1.   3)『中辺分別論』T 31.451a18.   4)『弁中辺論』T 31. 464b18.   5)伊藤[2010]では MAVṬ のこの箇所の分析に基づいて虚妄分別と虚妄 なるものである二取との間には因果関係が成立するということを論証している.ただ, 虚妄分別がどのような種類の複合語であるかに関しては直接的に言及していない.    〈略号〉

MAV Madhyāntavibhāga-kārikā (Maitreya). See MAVBh(N).

MAVBh(N) Madhyāntavibhāga-bhāṣya (Vasubandhu). Madhyāntavibhāga-bhāṣya: A Buddhist

Philosophical Treatise. Ed. Gadjin Nagao. Tokyo: Suzuki Research Foundation, 1964.

MAVṬ(Y) Madhyāntavibhāga-ṭīkā (Sthiramati). Madhyāntavibhāgaṭīkā: Exposition

systéma-tique du Yogācāravijñaptivāda. Ed. Susumu Yamaguchi. Nagoya: Hajinkaku, 1934.

Repr., Tokyo: Suzuki Research Foundation, 1966. 〈参考文献〉 長尾雅人 1937「空義より三性説へ」『哲学研究』250: 61–96. ――― 1952「転換の論理」『哲学研究』405: 449–476. ――― 1967「唯識義の基盤としての三性説」『鈴木学術財団研究年報』4: 1–22. ――― 1968「余れるもの」『印仏研』16 (2): 23–27. ――― 1976「中辺分別論」長尾雅人・梶山雄一・荒枚典俊訳『大乗仏典 15 世親論集』 中央公論社. ――― 1982『摂大乗論――和訳と注解――』上巻,講談社. ――― 1988「世界観としての三性説」『日本学士院紀要』43 (1): 1–19. 伊藤康裕 2010「安慧の唯識説の一考察――虚妄分別と二取との関係を中心に――」『東洋 の思想と宗教』27: 46–63. 〈キーワード〉 abhūtaparikalpa,虚妄分別,安慧,Madhyāntavibhāgaṭīkā (佛教大学大学院) (164) 複合語 abhūtaparikalpa は karmadhāraya か(金) ─ 361 ─

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