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百閒漫歩 : 逢魔が時の文学 (その8)

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Kyushu University Institutional Repository

百閒漫歩 : 逢魔が時の文学 (その8)

森, 茂太郎

九州大学 : 名誉教授

https://doi.org/10.15017/1906124

出版情報:Stella. 36, pp.19-54, 2017-12-18. 九州大学フランス語フランス文学研究会 バージョン:

権利関係:

(2)

百 閒 漫 歩

── 逢 魔 が 時 の 文 学 ──

(その 8 )

森  

 

 

ドッペルゲンガー

 午後から吹き荒れてゐた風が,夜の十時頃になつて,急にやんだ。何處か遠くの方 で,犬が人の泣く樣な聲をして吠えてゐる。その外には,何の物音も聞こえない。 1)

 「私」は読みかけの本を開いたまま,ぼんやり机の前に座っていた。十二時 頃,寝床に入ったら,すぐに寝た──「なんにも夢を見なかつた」 2)。夜明け近 くになって,また風が出た。雨戸の鳴る音で目が覚めると,それ0 0がいた──

……ふと足許になつてゐる緣側の障子を見たら,切り込みの硝子に,ぼんやりした人 の顏が映つてゐた。私は枕をあげて,その顏を見返した。その顏が次第にはつきりし て來て,頭の髮や,眉や目の形がわかる樣になつた。眼鏡をかけてゐた。薄髭を生や してゐた。──私はぞつとして,水を浴びた樣な氣がした。それは私の顏だつた。私 の顏が外から,私を覗いてゐた。何の事だかわからない。けれども私は無諳に恐ろし かつた。息のつまる樣な思ひをして,蒲團の中にちぢまつてゐる內に,何時の間にか また寢てしまつた。 3)

 現れたのは「私」そっくりの私──分身である。しかしそれが現実だったの か,それとも夢だったのか,朝になっていくら考えても分からない。ただ「何 とも云へない厭な氣持」がしばらく尾を引いた。翌日も日暮れから風が吹き荒 れて,いつの間にかやんだ。ふと気が付くと,あたりは森閑としていた。昨夜 遠くで聞こえた犬の鳴き声も,今夜はしない。その夜,また「私の顏」が現  れた──

おやと思つて,目を外らさうとしたけれども,私の目は動かなかつた。靑ざめた自分 の顏に見入られたまま,何時までも自分の顏と睨み合つてゐなければならなかつた。

(3)

障子から覗いた私の顏が,少しづつ動く樣に思はれた。もしその自分の顏が,障子の 內側に這入つて來たら,寢床の方に近づいて來たら,どうしようと思つた。私は呼吸 のつまる樣な思ひをしながら,恐ろしい自分の顏をぢつと見つめてゐた。 4)

 夜ごとの不気味な顔の出現にすっかり怯えた「私」は,当分鏡は見ないこと にしようと考える。だが自分の姿を映すのは,何も家にある鏡だけとは限らな い。街を歩けばいたるところに飾り窓があるし,電車に乗れば窓と窓の間に嵌 め込んだ細長い鏡がある。雨上がりのぬかるみの坂を上れば,方々に水たまり があって,その暗い「穴の底」に自分の顔が「逆に映つてゐる」ような気がす る 5)。「今夜は醉つて寢たい」と酒を飲めば,お膳の上の盃に天井の電球が逆さ まに映っている。何も驚くようなことではない,「ただ上にある電氣が,も一つ 下に見えると云ふ丈」の話である。しかしそれだけのことが,なぜだか「私」

には気になって仕方がなかった──

 さうして,その夜,夜明けの近い頃に,また私の顏が障子の硝子に映つた。非常に 蒼ざめてゐた。さうして鬚がのびてゐた。ぢつと私を見詰めたまま,何時までたつて も消えなかつた。私はその恐ろしい自分の顏を見返してゐるうちに,もしこの顏が何 か一言でも口を利いたら,どうしようと思つた。ぢつと見てゐると,その顏が少しづ つ動く樣に思はれ出した。私は一生懸命にその顏を見入つてゐた。そのうちに,氣が ついて見ると,右の眉の上に,指でついた程の靑黑い痣があつた。その形までありあ りと見えた。 6)

 翌朝,「私」はさすがに不安になる──「每晩あんな恐ろしいものを見ては堪 らないと思つた。これから先,また幾晩も續く樣だつたら,私はどうなるか解 らないと思つた」。しばらく旅に出ようかとも考えるが,知らない土地の宿屋で あの恐ろしい顔に出くわしたときの恐怖を思えば,とてもそんな気にはなれな い。あれこれ思い悩んでいると,あの不気味な顔が「頻りに目の前にちらつい」

て,ふと気になって「私」は顎の下を撫でてみた。「こはこはした鬚」が「指で 摘まれる程」伸びている。驚いて手鏡に映してみると,いつのまにか眉の上に

「靑黑い痣」ができていた──「昨夜見た顏の通りだつた。右の眉の上に,指で 捺した樣な形の痣が,私の知らないうちに出來てゐた」。

 痣は何かにぶつかった拍子にできたものに違いない。しかし「靑黑い痣」が できるほどひどく額を打って,それでも当人は気が付かないなどということが

(4)

あるだろうか。これまで「私」は信じていた,夜な夜な現れるあの顔は障子の 硝子に映った自分の反映だと。しかし,その顔にあった「靑黑い痣」が確かに 自分の顔にもあるのを確かめたとき,恐ろしい疑いが「私」の心にきざす。あ の顔は本当に私の反映なのか,むしろ私の方があの顔の反映ではないのか。こ のとき「私」を脅かすのは,主体喪失の不安,自我の自律性を自分そっくりの 分身,鏡に映った「映像」に奪われてしまうという不安である──

 ある日の夕暮れに,私は友逹と町を散步した。竝樹の柳が頻りに散つた。細長い葉 が風に乘つて,ひらひらと揉むやうに落ちて行つた。私はその葉を杖の尖に受けて見 たり, はもう一度空に跳ね上げて見たりしながら步いた。何となく私は氣分が輕か つた。 7)

 「私」の「氣分が輕かつた」のは,ここ数日,あの「恐ろしい顏」が姿を現さ なかったからである。舞い落ちる葉をステッキで跳ね上げながら歩く「私」は, 

こうして機敏にふるまうことで,自分が能動的な主体であること,あの不気味 な顔の反映などではないことを確かめようとしているのだ。ところが,近所に 新しく開店したばかりのレストランに足を踏み入れたとたん,連れが驚くのも かまわず,「私」はいきなり回れ右をして逃げ出してしまう。食堂の壁に「一尺 ばかりの幅の鏡が,長い帶の樣に嵌め込んで」あるのを見てしまったからで ある。

 その日も午過ぎから風が吹いて,夜になって急にやんだ。「私」はいやな予感 をいだきながら,寝床に入る。長い夢がふいに途切れたと思ったら,恐れてい たあの顔が現れた──

 その顏の樣子が,いつもと少し違つてゐた。何だか落ちつかないらしく思はれた。

ぢつと見返してゐるうちに,顏の向きが少し變つた。おやと思つて,私は呼吸の止ま る樣な氣がした。それと同時に,硝子に映つた顏は,ふつと消えてしまつた。非常に 短かい間だつた。 8)

 「顏」は一瞬で消えたが,「私」はかえって不安になる。分身は次の夜もまた 現れた。何となく落ち着かない様子なのは昨夜と変わらない。また動きやしな いかと「一生懸命」に見つめていると,「急にその顏が下を向いた」。それを  見て「ひやり」としたときには,もうその顔は消えていた。しかし「消えたの

(5)

でなくて,障子の陰に蹲踞んだのではないか」と考えると,なおのこと恐ろし い──「私は障子の向う側に氣を配りながら,また何時までも,私の顏の消え 去つた硝子をぢつと見入つてゐた」 9)

 自我の自律性とは幻影にすぎないということを,ラカンは繰り返し強調して いる。詩人ランボーの言うとおり「我は他者」であり,我々の自己認識はまず 他者を通して行われるからだ。幼児が鏡に映ったイメージに自分の姿を認める のは,生後およそ 6 カ月から 8 カ月の頃であるという。この段階に達する以前 の幼児にとっては,鏡の中のイメージはすべて他者の反映にすぎない。子供は まだ自分を統一的な全体像としては把握していないのである。鏡の中のこの見 知らぬ他者から他者性を奪い,それを決定的に自分の反映と認めるのが,ラカ ンのいわゆる鏡像段階である。このことは二重の意味を持つ。第一に,我々は まず鏡の中の他者として自分を生き,自分自身を体験する。第二に,鏡の中の 他者も他者性を奪われる。つまり,我々は他者の中で自分自身を体験すると同 時に,他者の中に自分自身を見てしまうのである。ここから人間存在に固有な 根源的攻撃性,ヘーゲルの主人と奴隷の弁証法が始まるのは見やすい道理であ ろう。

 では,鏡の中のイメージが間違いなく自分の反映であるという確信はどのよ うにして生まれるのであろうか。鏡の中に自分の姿を認めて小躍りする幼児の 背後には,「そうだよ,あれはお前だよ」と幼児の発見を真正なものと保証し  てやる母親がいる。幼児は自分を抱く母親の方を何度も振り返り,そのまなざ しの中に同意のしるしを読みとるのである 10)。さらに母親が息子をその名で呼 ぶに至って,幼児による鏡像の内在化は決定的なものになる。他者性が完全に 消去されるのだ。このとき,母親は単なる母親ではない。母親を振り返る幼児 の視線の先には見えない第三者が,象徴的父が控えている。「命名する第三者 tiers nominateur」とも呼ばれるこの象徴的父の役割は,鏡像を鏡の中に封じ 込めることである。その封印となるのが,たとえば志保屋の御曹司,內田榮造 といった固有名である。それでは,もしこの封印が解ければ,いったい何が起 こるのだろうか。鏡の中のイメージはふたたび見知らぬ他者となるだろう。そ れどころか,ことによると鏡の中から抜け出して来るかも知れない。それはも はや鏡像ではない。では,何なのか。ドッペルゲンガーである。私そっくりの 私,私の統制に服することなく,わがもの顔に振る舞い始めた私の分身である。

(6)

 翌日も朝から「空風」が吹き荒れて,やがて「大風の樣」になった 11)。日が 暮れてもいっこうに吹き止まず,「電燈が幾度も消えたり, 點つたりした」。

「私」はもう次に何が起こるかを知っている──

 寢る前になつて,また風がぱたりと止んだ。机の前に坐つてゐて,ふとそれに氣が ついた時,私は全身に水をあびた樣な氣持がした。何の物音も聞こえなかつた。家も 衟も不意に消えてしまつたらしく思はれた。

 その夜中に,蒼ざめた私の顏が,ちらりと障子の硝子にうつつた。さうして,すぐ に消えてしまつた。私は,はつとして身を起こさうとしたけれども,手足が化石した 樣にこはばつて,身動きも出來なかつた。恐ろしい私の顏が,この部屋の中に這入つ て來るのだと私は思つた。早く,早く今のうちにどうかしなければならないと思つた。

けれども,私は枕の上に顏の向きを變へる事すら出來なかつた。私はただ目を据ゑて, 

障子の方をぢつと見つめてゐた。 12)

 障子がわずかに開き,しばらくして,また少し開いた。その陰から「私の蒼 ざめた顏」が姿を現し,「私の寢床の足許に上がつた」。声を立てようにも,「私」

は「咽喉がつかへて」,舌も痺れたように動かない……。

「それは君が云つたのさ。しかしそれにしても危いね。自分の考へてゐない事をいきな り云つたり,自分の云つた事が他人の聲に聞こえたりするのは,もうそろそろ本物だ よ,君」

 野口はさう云つて,恐ろしく指の長い兩手を,くねくねと變なふうに揉んだ。 13)

 野口は,芥川龍之介。『旅順入城式』に収められたこの「山高帽子」という短 篇は,フィクションと現実を織り交ぜた小説とも回想ともつかぬ不思議な作品 だが,芥川について百閒が書き残した他の回想的文章と突き合わせてみると, 

芥川に関する部分はほぼ事実に基づいていることが分かる 14)。「それは君が云 つたのさ」という野口=芥川の言葉は,「私」が耳にした誰のものとも知れぬ不 気味な声を指して言っているのである。妻の妹が死にかけたとき,「私」は病院 の前の蕎麦屋の二階で妻と話していた。妻の話では,妹は昨夜「お臺所の戶棚 に鱈の子があるから,兄さんに上げて下さい」と言ったという。「鱈の子なんか あつたか知ら」と妻がいぶかると,いきなり「有るぢやないか」という声がす

(7)

る。妻は驚いて「私」の顔を見る。そんな言葉を思わず口にした「私」もびっ くりする。病人が一度は持ち直すかも知れないと妻が呟くと,またしても声が して,「馱目だよ」。その瞬間,妻の「あれ」という悲鳴とともに,目の前の丼 が真っ二つに割れた──「『馱目だよ』と云つたのは,私ではなかつたのだ」 15)。 ところが,「その聲と云ふのは君の聲なんだ」と野口は言って聞かない。さもな ければ,幻聴だ──「いよいよ本物だね,おどかしちやいけないよ」 16)。  怪異や超自然ならまだしもだ。だが,自分の考えてもいないことをいきなり 言ったり,その自分の声が「他人の聲」に聞こえたりしたとなると,「私」は自 分の正気を疑わねばならない。「私」は自分が野口の決めつけるような「氣違 ひ」 17)だとは思わないが,疑いの目で見られても仕方のないようなことがたび たび起こるのも事実である。たとえば,枕許に置いて寝たコップの水が,いつ のまにか無くなっていることがある。最初は寝ぼけたせいだろう位に軽く考え ていたが,同じようなことが何度も起こるのでだんだん怪しくなってきた 18)。 百閒はモーパッサンの「オルラ」を知っていたのだろうか。この小説の主人公 である語り手は,夜中に喉が渇いて水差しを手に取ると,水が一滴もないこと に気づいて愕然とする──「いったい誰がこの水を飲んだのだ?  いったい誰 だ?」 19)。このとき主人公を襲う恐怖は,自分が自分でなくなる恐怖,見えな い何者かに自分の心の支配権を奪われてしまう恐怖である──

俺はもう駄目だ!  何者かが俺の心を所有して,それを支配しているのだ!  何者かが 俺のすべての行為や動作や思考に命令を下しているのだ。俺にはもう自分というもの がない。自分が行なうすべてのことをただ呆然と見守っている奴隷のような観客にす ぎないのだ。 20)

 「何者か」とはオルラである。オルラは純白の船に乗ってはるばるブラジルか らやって来た。それは人類の後継者,新たに出現した地球の支配者である。モー パッサンのようなSF的発想は百閒にはないが,しかし見知らぬ他者に自分の 心の支配権を奪われてしまう恐怖なら,確かにある。

 「影」の生活に窮した男は,自分に援助の手を差しのべてくれない友人や知人 に恨みをいだく。男が金策で家を出るときには「むせ返るやうな砂の匂ひ」 21)

のする烈しい風が吹き,知人の家で借金を断られたときは,ガラス戸の向こう の重苦しく垂れ込めた雨雲に「恐ろしい斑」 22)ができる。男の焦燥と憤怒と絶

(8)

望に,あたかも森羅万象が感応しているかのようなのだ。そして「空と町とを 麭み込んだ黑雲のやうなものの中を行くのが,何故と云ふこともなく私の心を 躍らすらしかつた」 23)と言うとき,男は明らかに自分の絶望を楽しんでいる。

 最初に訪ねた友人の家では,玄関に出た男の子が,いきなり悲鳴をあげて奥 に駆け込んだ。雑誌社の友人と待ち合わせた喫茶店に入ると,店の中の喧噪が 急に静まり,全員が一斉に男を注視した。道でしきりに吠えていた犬は,男が 近付くとだんだん尻尾を下げてその顔が「凄く」なり,「俄かに私の方に迫るや うな氣配」を見せた 24)

 それだけならまだしも,男の周囲では不幸が立て続けに起こる。玄関に立つ 男の姿を見て逃げ出した男の子は,急に発熱して死んだ。借金を断った知人は, 

病院で危篤である。喫茶店で待ち合わせた友人は,冗談に紛らわせて言う──

「しかしいやだぜ, 僕に取り憑いては。〔…〕どうも近來君に見込まれた奴は,

みんな變な事があると云ふ話だからな」 25)。この友人は,男の子の急死も,知 人の急な入院も,みんな知っていた。「君のうちの困つてるのが,みんな傍の者 の所爲の樣になるんだつて,誰だつたか云つてたけれど,これで 僕もその仲 間に入れられるんでは,全く御免だぜ」と友人は言う。そんな話を黙って聞い ているうちに,男は「不思議に冴え冴えした氣持」 26)になる。その途端,相手 の顔色が変わった──

「おい,君,さつきのは冗談だよ」と云つた。

「うん,そんな事どうでもいいんだよ」と私が云つた。

「おい君」と丙田の銳い聲が,もう一度私の耳に響いた。

 傍の腰板に私の影が映つてゐる。ぼんやりしたなりに,何ものとも解らない,いや な形だつた。

 私は,あわてて顏を振つた。

 影が崩れると同時に,私ははつとして,丙田の顏を窺つた。

「どうしたんだい」と丙田が不安らしく訊いた。

 丙田は,目にたつ程蒼い顏をしてゐた。 27)

 恨みをいだいているということでは,「二本榎」の「僕」も同じである。「影」

の男は心の中に渦巻く憎しみを知らず,それは「何ものとも解らない,いやな

(9)

形」をした影となって現れた。この男とは反対に,「二本榎」の「僕」は自分の 内にある凶暴な殺意をはっきり意識している。そしていったん犯行を決意して からは,冷静にその機会をうかがい,恨みをふくむ一家を「みな殺し」にして しまう──

 私が目を開いてゐるのを見て,

「起きてゐたのか,さうか,知つてゐるのか。まあいい。ぢつとさうしてゐたまへ。起 き出してはいけない」と云つた。さうして私の枕許で烟草を吹かし出した。

「たうとうやつて來た。全部やつて來た。これでいい。もういい」

 溜め息をつく樣な聲がした。 28)

 百閒の創作の中で,これほど血腥いものは稀である。むせ返るような血の臭 いが終始立ち込めていて,まるで血の臭いが書きたくて,百閒はこんな筋書き を思い付いたかのようなのだ。そのくせ,全編を通じて「血」という言葉は一 度も使われていないし,血が流れたかどうかさえ定かでない。三島由紀夫のい う「皮肉この上ない芸術品」 29)の恰好の見本がここにある。「すこぶる皮肉な,

すこぶる微妙な,すこぶる暗示的な表現」 30)で,百閒は三面記事の殺人事件を

「有無を言わせぬ芸術品」に仕立てあげたのだ。

 この小説の着想のもとになった殺人事件のことは,随筆「梟林記」にかなり 詳細に記されている。百閒の隣の大家の家で,それは起こった。大家の家に住 み込んでいた大学生が老夫婦を殺害したのである。老夫婦は階下で息絶え,下 手人の大学生は二階の自室で首をくくっていた。凄惨な現場を目撃した巡査の 声は「耳にたつ程慄へてゐた」 31)という。

 事件が起こったのは大正 10 年 11 月 10 日,随筆「梟林記」は平山三郎の推測 によると翌年冬の執筆で 32),「二本榎」が「中央公論」の創作欄に掲載された のは昭和 12 年だから,事件からほぼ 16 年が経過していることになる。それに しても事件を起こした青年は,なぜ「養烝母となる筈」だった「平和な老夫 婦」 33)を殺害したのだろうか。「愛の爲に,踏み止まるべき所を乘り越えて,恐 ろしい衟を蹈んだ」 34)と百閒は言うが,誰に対する「愛の爲」なのか,これだ けではよく分からない。隣家の家族構成も不明で,老夫婦に娘がいたのかどう かも分からない。ただ「二本榎」の「僕」が下手人の青年とはっきり違うのは, 

青年がいずれは老夫婦の養子になるはずだったのに,「僕」の方はすでに養子で

(10)

あったことである。

 「二本榎」の「僕」の犯行の動機は明白である。養父母には娘がいる。行く行 くは娘の聟にと考え,「僕」もそのつもりでいたところへ,娘に「別の話」 35)が 持ち上がった。「僕」から遠ざかろうとしている娘の様子で,それが分かった。

年寄り二人は「僕」を又養子にして,家から追い出すつもりなのだろう。それ で「僕」は一家を皆殺しにすることに決めた。

 婆さんが急に親切になる。あれこれ身の回りに気を配ってくれる。「僕」がす き焼きが好きだというので,ある雨の降る晩,みんなで鍋を囲んだ。婆さんが 世話を焼き,娘は葱や白瀧の支度がなってないと婆さんを「口汚く」責め立て る。それが「取つてつけた樣」なのが,かえって「僕」を苛立たせる。仲良く 鍋を囲んで「取り止めもない話に興じ合つ」ていても,それが芝居にすぎない のを全員が心得ている。世話を焼く婆さんも,母親を叱る娘も,お付き合いに 手酌で酒を「ちびりちびり」やっている爺さんも,みんなそれには気が付かな いふりをしているだけだ──

「 新しい肉の切れを一列び鍋に入れて,それが煮立つのを待つ間,僕は箸を持つた儘 ぼんやりしてゐると,一本の箸が指から辷つて膝の上に落ちた。すぐに拾つて持ち變 へたが,自分でどう云ふわけとも解らず,胸がどきどきし出した。娘が私0の顏を見て,

どうかしたかと尋ねた。婆さんや爺さんも私0の方を見て,不思議さうな顏をしてゐる。

そんな事で顏色が變はると云ふ事も考へられないが,どうかした顏になつてゐたに違 ひない」 36)〔傍点引用者〕

 娘が見たのは「私」の顔である。爺さんや婆さんが見て「不思議さうな顏」

をしたのも「私」の顔である。作者は「僕」とは書いていない。「僕」が「私」

と表記されているのは,「二本榎」でこの二箇所だけである。誤植だろうか。作 者がうっかり書き間違えたのだろうか。それとも作者がこの二箇所だけ「僕」

を「私」にしたのは,何かしかるべき理由があるのだろうか。

 娘は「私」の顔を見た。続いて「どうかしたか」と尋ねた。娘には「私」の 顔は見えても,「僕」の顔は見えない。それは爺さんや婆さんも同じである。彼 らが見ているのは嬉しそうにすき焼きの鍋をつついている養子の「私」であっ て,「私」の内面に煮えたぎっているもの──「僕」は彼らには見えない。「僕」

は養子に出されることで独りになり,今またこの家を追い出されることによっ

(11)

て独りになろうとしている。独りであるとは名前を失うことである。名前を失 い,自分がいったい誰に帰属しているのかを見失ってしまうことである。そう いう「僕」にとって,名前とは所詮,仮の名でしかない。だが,たとえ仮の名 ではあっても,それが養家の都合で勝手に替えられるのはどうにも我慢なら  ない──

「しかし惡いのは爺と婆なのだ。現在養子である僕を,この家で 養子にしようとし て,勿論そんな事が向うだけの考へで出來るわけはないから,僕にも責任がないとは 云はないが,そんな事がもとで拔き差しの出來ない羽目になつた。その行きさつを今 から君に話しても,何にもならないし,云ひたくもないが,僕が一たん決心してから 後,その機會をねらつてゐる間の何日かは,自分でも呼吸が詰まりさうだつた」 37)

 「呼吸が詰まりさう」だったのは,もちろん怒りと悲しみのためである。「僕」

の兄は自殺している。「僕」も一時は兄と同じ手段に訴えようとしたのだが,「長 い間考へつめた擧げ句」,自殺するよりは殺すことにした──

「人を殺して自分が生きようなどと考へたのではないよ。僕に取つては自殺と同じ意  味なのだ。自殺と云つたところで,僕の樣な場合では,僕が生きてゐるのがいやにな る樣に,もつと押しつめて云へば僕が生きてゐられない樣に仕向けられたのだから, 

若し僕が默つて死んでしまへば,僕はだまつて殺されたのと同じ事になる。だから思 ひ切つてやつてしまつた。隨分考へたのだが,結局惡い事をしたなどとは考へてゐ  ない」 38)

 「僕」に選択の余地はない。養家から拒絶されるか,養家を拒絶するかの違い だけである。「僕」は養家を拒絶する。そればかりか,自分の名前と,名前を基 準に組織された「世間」という名の象徴秩序そのものを拒絶する。それがこれ から実行する一家皆殺しの意味である。「箸が指から辷つて膝の上に落ちた」と き,「私」は「僕」に変貌し,あらゆる従属と拘束から解き放たれて自由0 0になっ た。が,それと同時に,「私」は自分の輪郭を見失い,もはや何者でもない「僕」

になる。「私」の顔が「どうかし」ていたのも無理はない。それを見て,娘が変 な顔をしたのも怪しむに足りない。

 この小説はその大半が「僕」の独白で成り立っているが,語り手の「私」は 別にいて,終始無言のまま「僕」の話を聞いている。犯行を決意した「僕」に いわば弾き出されるようにして,この「私」は小説の中に登場する。それも犯

(12)

行の前日になって,汽車の中から打った電報が届くのだ。「私」は「僕」の分 身,「僕」の凶行を阻むために遅まきながら登場したドッペルゲンガーである。

良心がドッペルゲンガーとして現れるのは小説や詩ではよくあることで,なか でも名作として知られているのはポーの「ウィリアム・ウィルソン」であろう。

この小説の放蕩に身を持ち崩した主人公は,自分と瓜二つであるばかりか,名 前まで同じウィリアム・ウィルソンという分身に,自分の密かな企みをことご とく打ち砕かれる。しかしポーの分身と違って,「二本榎」の分身は,「僕」の 犯行を未然に防ぐどころか,むしろそれを手助けしてしまうという皮肉な結果 を招く──

「君を家に上げて,僕の部屋に泊まらして,一緖に寢た後で,僕が起き出して行つてか う云ふ事をするとは,家の奴等は思ひも寄らなかつたらうと思ふのだ。さう云ふ意味 では君は邪魔にならなかつたのみならず,却つて今夜の僕を助けてくれた事にもなる。

君,大丈夫だよ,そんな顏をするな。君になんにもしやしないよ。する筈がないぢや ないか」 39)

 このドッペルゲンガーはまったく無力である。階下で惨劇が始まっても,叫 ぶでもなく制止するでもなく,ただ寝床の中で耳を澄ましているばかりである。

それどころか,すべてが終わった後で,「ぢつと寢床の中にゐてくれた」のを

「僕」に感謝される始末なのだ。「オルラ」の主人公は,分身の勝手気ままな振 る舞いをただ呆然と見守っている「奴隷のような観客」にすぎなかった。とこ ろが「奴隷のような観客」は,ここでは分身の方なのだ。こうして見ると,ドッ ペルゲンガーの名にふさわしいのはむしろ「僕」の方かも知れない。オットー・

ランクの古典的名著『ドッペルゲンガー』の冒頭で取り上げられたエーヴェル スの『プラハの学生』では,主人公の学生は,恋敵と決闘しても相手を殺さな いと恋人に約束し,自分でもその約束を守るつもりでいたところ,ドッペルゲ ンガーがすでに恋敵を殺してしまったことを知る 40)。この無慈悲なドッペルゲ ンガーが,恋敵を亡き者にしたいという学生の無意識の欲望の現れであること は,ランクの解説を待たずとも明らかであろう。いずれにせよ,「僕」と「私」

が表題の「二本榎」に象徴されるような兄弟的・双子的な存在であることは明 らかであって,そのことは次のような結びの一節からも窺える──

(13)

 それから 落ちついて烟草を吹かしてゐると思つたら,半分許りになつた吸ひさし を灰皿の上に置いて,「一寸」と云ひながら,私の寢床に近づき,足から先に這入つて 來た。

 驚いて起きようとする私の身體を押さへつける樣にして,自分の顏を私に押しつけ, 

片手で私の胴を抱き締めた。さうして,押さへつけた口の中で,

「それぢや,左樣なら。本當に,左樣なら」と云つたと思ふと,急に手の力を拔いて, 

その儘の姿勢で布團の外に這ひ出し,そこで起ち直つてすたすたと梯子段を降りて行 つた。 41)

 「私」は寝床に横たわったまま,「赤い石で彫つた拇指ぐらゐの金魚」を見つ めている。この「瑪瑙の金魚」は「取られてしまつてはいけないよ」という忠 告とともに,「僕」が「私」の手に握らせたものである。この「金魚」は何を意 味するのだろうか。

 「欲望は『他者』から到来し,享楽は『もの』の側にある」 42)とラカンは言 う。父の名を中心に築き上げられた「他者」(父)の世界を否定して,「僕」が 選んだのは「もの」(母)の享楽であった。通過儀礼は母親からの分離と共同  体への統合を象徴的に演じる儀式であるが,この視点から読み解くことのでき る百閒の小説はいくつかあって,このうち「石疊」と「 那人」についてはす でに触れた 43)。だがこれは,百閒が自分の小説のモチーフとして通過儀礼を意 識的に採用したということを意味しない。通過儀礼は本質的に去勢の儀式で あって,去勢が形成途上の主体にとって衝撃的な体験である以上,それがさま ざまな形で文学作品のうちに現れるのは当然のことなのだ。この去勢のトラウ マが,百閒のいくつかの小説では,たまたま通過儀礼に似た形で現れたという までの話である。しかもそれがすべて通過儀礼の成功よりは失敗の物語である のは,物語の背後にある作者の欲望がどのようなものであるかをはっきり示し ている。

 通過儀礼で子供に突きつけられるのは,「他者」と「もの」,欲望と享楽の間 の二者択一である。すなわち,「財布か生命か!」 44)。「生命」を選べば「財布」

がなくなる。「財布」を選べば,「生命」ともども「財布」もなくなる。「財布」

とは享楽,「生命」とは欲望である。子供は生きて共同体の一員になろうとする なら,享楽を捨てて欲望を選ばなければならない。去勢とは本来こうした享楽 の断念を意味するのであって,苦痛にみちた去勢の試練を経て,「もの」はラカ

(14)

ンが対象aと呼ぶ失われた対象になる。そして,この失われた対象をめぐって ファンタスムが形成され,欲望が成立するのである。「金魚」とは,この失われ た対象にほかなるまい。我々は「もの」そのものにめぐり逢うことはできない。

「他者」の世界にある限り,我々が出逢うのは「もの」の幻影にすぎない。しか しまさにこの幻影が我々の心を欺き,人生を生きるに価するものに見せかける0 0 0 0 0 のだ。「二本榎」の「僕」は父親殺しをやってのけ,「他者」の欲望を否定した。

欲望よりは「もの」との合体──享楽を選んだのである。そんな「僕」にとっ て,まやかしの餌にすぎない失われた対象はもはや必要ではない。無用の長物 となった「金魚」を「僕の記念」として,「他者」の世界に取り残される「私」

に手渡すのはもっともなことなのだ。しかし欲望のからくり0 0 0 0を知ってしまっ た「私」にとって,そんなまやかしの「金魚」が,いまさら何の役に立つであ ろうか──

 足音は梯子段の下で消えたなり,後は解らなかつた。遠くの方で電車の走り出した 響きが聞こえる樣に思はれた。私は手のぬくもりで溫かくなつた瑪瑙の金魚を見つめ て,身動きも出來なかつた。 45)

 ドッペルゲンガーについては,フロイトも「不気味なもの」の中で僅かだが 言及している。オットー・ランクの先行研究に依拠しつつ,ドッペルゲンガー は「自我の消滅を防ぐための防衛機構」であり,「死の威力を決然として否認す ること」(ランク)にその目的があるとフロイトは考える──「どうやら『不死 の』霊魂こそが,肉体の最初のドッペルゲンガーだったらしい」 46)。ドッペル ゲンガーに典型的な自我の二重化は「限りのない自己愛」,「原初的〔一次的〕

ナルシシズム」 47)の産物であり,こうした無際限なナルシシズムが未開人や幼 児の心的生活を支配している。しかし文明の進歩や子供の成長にともない,ア ニミズムを土台とする一次的ナルシシズムは影を潜め,かつて「永続する生を 保証するもの」であったドッペルゲンガーは,いまや「死の不気味な前触れ」

へと姿を変える。「不気味なもの」についてのフロイトのテーゼ,すなわち,「ハ イムリッヒなもの」(親密なもの)が抑圧のプロセスを通じてその正反対の「ウ ンハイムリッヒなもの」(不気味なもの)に転化するというテーゼと,不気味な

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ものの中で「もっとも強い印象を与える」ドッペルゲンガーのモチーフが結び つくのはここである──

 ドッペルゲンガーに不気味なものという性格がそなわっていることから考えると, 

これが心的な原始時代に形成された像であって,それが生まれた当時には,きわめて 親しいものという意味をもっていたが,この像はやがて克服されていったとしか思え ない。信仰が失われると,神々が悪魔になったように(ハイネ『流刑の神々』),ドッ ペルゲンガーは恐ろしいもののイメージになったのである。 48)

 ドッペルゲンガーをモチーフにした百閒のいくつかの小説の中で,抑圧され た一次的ナルシシズムの回帰というフロイトの公式に最もよく適うのは,これ まで見て来たところでは「影」のドッペルゲンガーであろう。相手の死を願う だけでたちどころにそれが実現するというのはいかにも不気味であるし,これ が「思考の万能」 49)という古いアニミズム的な世界観に基づいていることも容 易に見てとれる。フロイトの指摘するドッペルゲンガーには,こうした無際限 なナルシシズムに由来するもののほかにも,自我を批判的に観察する超自我の 審級が独立したものがあり,さらには「実現されることのなかった運命形成の あらゆる可能性」,「外的な不運のために実現できなかった自我のすべての欲 求」,「あらゆる抑圧された意志決定」 50)もドッペルゲンガーとして姿を現すこ とができる。「二本榎」の犯行前日に到来した「私」をドッペルゲンガーと見る なら,いかに無力とはいえ,やはりそれは超自我の審級が独立したものであろ うし 51),一家皆殺しを実行した「僕」をドッペルゲンガーとするなら,そこに 禁止された父親殺しの願望を見てとるのはたやすいだろう。三面記事に想を得 た短い物語ながら,「二本榎」の「僕」は悲劇の主人公たる資格を立派にそなえ ている。犯行を決意した「僕」の行動をつらぬいているのは,固有名をもとに 親族・婚姻関係が整序された父の世界を否定して,純然たる母の子になろうと する凶暴な意思だからである。起源の空白をめざすこの破壊的な情熱こそ,ギ リシア人がヒュブリス(高慢)の名で呼んだものなのだ 52)

 しかし「影」や「二本榎」の分身とは異なり,「映像」のドッペルゲンガー  には,これといった明白な意図は認められない。借金を断った薄情な友人に不 幸をもたらすわけでもなければ,父親殺しの凶暴な意思に支配されているわけ でもない。主人公が別段罪の意識に悩まされていない以上,それを超自我の現

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れとするのにも無理があろう。それでは「映像」のドッペルゲンガーは,いっ たい何のために「私」の部屋までやって来たのだろうか。ただ単に「私」の顔 を覗き込み,「私」を恐怖に陥れるためだろうか。「私」には思い当たる節があ る──「昨夜の顏は,晝間電機屋の餝窓に映つた私の顏だつた。さうだと私は 思つた。その時は氣のつかなかつた自分の顏が,夜中になつて,私を覗きに來 たのだと思つた」 53)

 その日は朝から雨が降って重苦しい灰色の雲が垂れ込め,場所によっては「早 い燈」を灯している店屋もあった──

私は衟の曲がり角の電機屋の前に起つて,綺麗に灯のともつてゐる餝窓を眺めてゐた。

色色の形をした電氣の球に皆灯がともつてゐた。それから,赤いのも靑いのも,薄い 黃味を帶びた卵色のもあつた。それ等がみんな,窓の後と右左とに張つた鏡に映り合 つて窓の奧の遠くの方まで,何處までも何處までも灯がつづいてゐた。私は傘を肩に のせて,明かるい窓の奧をいつまでも,ぼんやりと眺めてゐた。 54)

 「昨夜の顏」が「電機屋の餝窓に映つた私の顏だつた」という「私」の思い込 みを疑う理由はない。なぜなら,「電機屋の餝窓」はただの飾り窓ではなかっ た。色とりどりの電球で飾り立て,しかも左右と背後に鏡が張ってあるから, 

灯りの列はどこまでも続いて窓の奥深く消えて行く。その無限の彼方から,視 覚では捉えることのできない消失点から,「私の顏」は現れたのである。消失点 とは何だろうか。「無 Rien」である。しかし,見えない「無」を見るとき,我々 は「無」によって見つめ返される。ラカンが「他者」のまなざしと呼ぶのは, 

我々を見つめるこの「無」のまなざし,外部のまなざしにほかならない──

 最初に次のことを強調しておかねばなりません。視覚の領野においては,まなざし は外にあります。私は見られている,ということは,私は絵(タブロー)であるとい うことです。

 主体が見えるものの中で身を持することができるのは,その根底にまなざしの働き があるからです。見えるものの中で私を根本的に決定しているのは,外にあるこのま なざしです。私はまなざしを通して光の中に参入するのであり,私が光の効果を受け とるのもまなざしからなのです。 55)

 つまり,我々はまなざす前にまなざされている。この見えないまなざしがあ ればこそ,我々のまなざすという営みも可能になるのである。「人が見ようとす

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るものは,見ることができないものである」 56)とラカンは言う。見えないまな ざし,外部のまなざしが我々の「眼の欲望」 57)を掻き立てる。「見ることができ ないもの」をあえて「見よう」とすることによって,我々の視的欲動が発動し, 

こうして見えるものの世界,可視的な世界が出現するのである。とはいえ,精 神病の注視妄想などの例外的な場合を除き,世界の外のまなざしが意識される ことはめったにない。「世界はすべてを見ているが,露出症ではない」 58)からで ある。だがもし「世界が我々のまなざしを挑発し始め」るなら,そのとき「不 気味さもまた始まる」のである。

 「映像」の「私」がまなざしを「挑発」されたのは疑いない。挑発され魅了さ れたからこそ,「私」は「傘を肩にのせて,明かるい窓の奧をいつまでも,ぼん やりと眺めてゐた」のだろう。鏡の無限反射はもともと世界の外のまなざしを

「露出」させるための巧妙な仕掛けだが,「私」はまんまとそれに乗せられてし まったのである。しかも飾り窓には「私」の顔が映っている。このとき,鏡像 は持たないはずのまなざしを持ち,鏡の奥から「私」を見つめ始める。象徴的 父による封印が解かれ,鏡の中の「私」は不気味な他者性を帯びて動き始める のだ。外部のまなざしを持つに至った「私の顏」は,やはり世界の外から現れ 出たように「私」には見えたに違いない。「何處までも何處までも」続く灯りの 列,無限の奥深くからやって来たように見えたに違いない。そして「私の顏」

が世界の外から到来したものなら,このドッペルゲンガーは抑圧されたものの 回帰ではあり得ない。それは無意識の奥深く抑圧されたものの回帰ではなく, 

無意識の外0 0 0 0 0へ追放されたものの回帰,原抑圧0 0 0されたものの回帰である。

 原抑圧とは何か。原抑圧とは「他者」と「もの」,象徴的なものと現実的なも のとの原初的な分離であって 59),フロイトの難解な論文「否定」を解読する過 程で,ラカンが「象徴的無化 néantisation symbolique」と名付けたものであ る。ラカンによれば,「現実は象徴的無化によって一挙に0 0 0印づけられる」 60)。そ して「言葉はものの殺戮」 61)である以上,言語による象徴化は「もの」の追放 と殺戮を必然的にともなうのである。それは精神病のメカニズムである「排除 forclusion」とは違う。精神病の排除は父の名という象徴の廃棄であるが,象徴 的無化はそれとは反対に象徴による「もの」の原初的廃棄である 62)。この原初 的廃棄ないしは象徴化によって「他者」と「もの」が切り離され,享楽が一掃 された象徴的「他者」の場が確保される。これが原抑圧である。

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 抑圧は象徴化されたものを対象とするから,象徴化された世界の外部から到 来した「映像」のドッペルゲンガーには当てはまらない。しかしフロイトが「自 我の内部から何か異質なものをドッペルゲンガーに投影する自我の防衛の営 み」 63)について語るとき,さらに「原初的なものが不気味なものとして回帰す るために,抑圧という条件がそもそも必要だったのだろうか」 64)と疑問を懐く とき,フロイトは抑圧されたものの回帰ではないドッペルゲンガーの存在を予 感していたように見える。なるほどフロイトの言うように,ドッペルゲンガー は「自我の消滅を防ぐための防衛機構」であり,「死の威力を決然と否認するこ と」にその目的があったのかも知れない。だがもしそうなら,「肉体の最初の ドッペルゲンガー」は,フロイトの考えたような「霊魂」ではなく,「理想的な 統一性」 65)を備えて幼児の前に立ちあらわれる鏡像であろう。なぜなら,母親 のまなざしによって愛撫されるこの鏡像こそ一次的ナルシシズムのかけがえの ない支えであって,享楽の消え失せた寄る辺ない「他者」の世界で,幼児が最 初に手にする「救いのイマーゴ」にほかならないからである。

 この光り輝く映像を介して子供は母親のファルスになる。ファルスは生殖力 として尽きることのない生の流れ(ピュシス)の象徴であり 66),子供は「生む 女」である母親への同一化を通してこの「不死の実体」 67)をわがものにしよう と試みる。それがヒュブリス──母親の想像的ファルスに自分を擬することで あって,このように永遠の生の流れと一体化した自分は死ぬことがない。父親 を殺してみずからの起源になろうとするエディプスの闘争がここに始まる。し かしここで見逃すことができないのは,母親の想像的ファルスへの同一化には, 

失われた享楽の再興という無意識の欲望が隠されていることである。

 フロイトは「小箱選びのモチーフ」という論文で,「人生において母親の像が 変化する三つの姿」について語っている。すなわち,「生む女」,「性的な対象と なる女」,「破壊する女」の三態である 68)。西欧の神話・文学・童話に広く見ら れる「小箱選びのモチーフ」をめぐるフロイトの分析は鮮やかの一語につきる が,なぜ三番目の小箱,すなわち「死の女神」が幸運をもたらすのかという肝 心な点については必ずしも明らかではない。願望によって死が愛に転化すると いう「反動形成」による説明は読者を満足させないのである。だが,死は生の 終わりのみならず,始めにもある。「生む女」が同時に「死の女神」であり,死 は母胎への回帰でもあるとすれば,三番目の小箱が幸運をもたらすのは納得で

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きるものになる。ギリシアの民間伝承が伝えるところによれば,ミダス王は捕

えた半シ レ ノ ス獣神に,人間にとってもっとも善いことは何かと尋ねた。半獣神は答え

た──「もっとも善いことは,御身の手には届かぬことだ。すなわち,生まれ なかったこと,存在しない0 0 0 0 0こと,何ものでもない0 0 0 0 0 0 0こと。御身にとって次に善い ことは,なるべく早く死ぬことだ」 69)。なぜか。死こそは原抑圧によって失わ れた「もの」との再度の出逢いであり,あの懐かしい「妣の国」への帰還にほ かならないからである──

男性の神経症患者が,女性の性器はどうも不気味に感じられると語ることは多い。し かしこの不気味に感じられる性器は,人間のかつての故郷への入り口なのであり,誰 もがかつて,人生の最初の時期に滞在していた場所なのである。「愛とは,郷愁だ」と 戯れに言うこともある。夢の中で,「ここは知っているところだ,かつてここで暮らし ていたことがある」と感じられる場所や風景があれば,それは女性の性器や母胎を意 味しているのである。この場合には不気味なものとは,かつてなれ親しんだもの,昔 馴染みのものを意味しているのである。ただしこのウンハイムリッヒという語の前綴 のウン0 0は,抑圧の刻印なのである。 70)

 引用文最後の「抑圧」は「原抑圧」と改めるべきであろう。が,ここにパラ ドックスが生じる。ナルシシズムの核心にあるのは「自我の不滅性」 71)という 神話であり,母親のファルスへの想像的同一化はこの不滅性の獲得を目的とし ていた。ところが,「生む女」が同時に「死の女神」でもあるとすれば,自我は

「死の威力を決然と否認する」どころか,みずからそれと知らずに死を目指して いたことになる。死を否定するはずが,逆に死を招き寄せていたのである。「自 我の消滅」は主体にとって死に等しいなら,母胎はただちに墳墓である。「かつ ての故郷」である女性性器は,いまや「あらゆるものを呑み込んでしまう貪婪 な口」 72)に姿を変える。想像的ファルスの切断を意味する去勢と,この去勢を 儀式化した通過儀礼が,子供に恐怖よりむしろ安堵感をもたらすのはこのため であろう 73)

 「生む女」は「死の女神」であり,懐かしい「妣の国」はまた恐るべき「死の 国」でもあった。それなら,原抑圧された「妣の国」から到来した「映像」の ドッペルゲンガーが,死人のように「蒼ざめた」顔をしていたのは怪しむに足 りない。女性性器,すなわちメドゥーサのまなざしに射すくめられた「私」が, 

まるで化石したように身動きひとつできないのも驚くに当たらない。だが,あ

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たかもドッペルゲンガーの見えないまなざしに対応するかのように,「私」が声 にならない声,聞こえない声を発するとき,「私」は享楽の接近を恐れるどころ か,もはや母胎の海に溺れかけているのではないだろうか──

開いた方の障子の陰から,私の蒼ざめた顏0 0 0 0 0がはつきりと現はれて,私の寢床の足許に 上がつた。さうして,次第に私の顏に近づいて來るらしい。私は聲をたてようとして も,咽喉がつかへて0 0 0 0 0 0 0,舌も動かなかつた0 0 0 0 0 0 0 0。私の蒼ざめた顏が腹の上に乘つた。鳩尾の ところを押さへた。仰向けになつてゐる私の顏に近づいた。さうして,たうとう私の 顏の上に私の顏が覗いた。まともに私の目を見入つた0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0。眼の中の赤い血の條まで見え た。何時までもそこに止まつて動かなかつた。私は身動きも出來ない0 0 0 0 0 0 0 0からだを悶えな0 0 0 0 0 0 0 がら0 0,どうかして迯れようとした,──上から壓へつける樣に覗いてゐる私の顏が,

今にも,今すぐにも,何か云ひ出しさうな口許をしてゐる。 74)〔傍点引用者〕

 「何か云ひ出」せば,いったいどうなるというのだろう。分身が「私」にな り,「私」が分身になるのである。「私」は夢をみた──

芭蕉の葉の緣に,雀が四五羽止まつてゐた。雀は寢てゐるのかも知れない,些とも動 かなかつた。そこへ雀よりも大きい,五寸位もある靑い,蝗に似た蟲が飛んで來た。

さうして雀の上にとまつた。あの蟲を雀が⻝つたら氣味がわるからうと思つた。する と,いきなり雀が,ぱくりと嘴をあけて,その靑い蟲の胴體に嚙みついた。蟲は迯げ もしないで,ぶくぶく膨れた氣味の惡い胴體を雀に喞はへられたまま,悶えてゐる。

私は苦しくて堪らなくなつた。蟲がうねくねと悶える度に,私のからだも,のた打ち 𢌞る樣に苦しくなつて來た。私は聲をあげて唸つた。それでも目がさめなかつた。蟲 は何時までも,うねくり𢌞つてゐた。雀は胴體に嚙みついたまま,その嘴を離さなか つた。 75)

 またしても鳥である。自分の産んだ卵を食べてしまう「百鬼園先生言行錄」

の雌鶏,家名の断絶を予言する「裏川」の雌鶏,「私」をどこまでも追ってくる

「石疊」の不気味な鳥…… 76)。いま,夢の中の「靑い蟲」は,雀に胴体を噛ま れて「悶えてゐる」。虫とは分身であり,原抑圧された母の子である。虫にもし 声があれば,虫は言ったかも知れない──「お父さん,ぼくの燃えているのが 見えないの?」 77)。母の子は呼び求めている,ひとつの名を,「他者」の世界に 自分を導き入れ,始源の母の恐るべき愛から自分を救い出してくれる父の名を。

しかしいまや,「身動きも出來ないからだを悶え」させているのは「私」であ

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る。享楽の紅蓮の炎に包まれている「私」である 78)

 ドッペルゲンガー,あるいはこれに準ずる不気味な人物が登場する小説は百 閒には意外に多い。短篇「先行者」では,町裏のミルクホールで先生と「私」

がビールを飲んでいると,見知らぬ盲人が入って来て隣りの席に腰をかける。

「眞靑」な顔をして,「兩眼とも飛び出した白い目玉を剝いて」 79)黙ったまま座っ ている。先生は「何だか恐ろしいもの」を見たように顔を背けた。盲人は牛乳 を立てつづけに二杯飲んで,壁に貼った定価表を「白い目」 80)で見て,金を置 いて立ち去る。先生は「今にも泣き出しさうな顏」をしている。帰り道,先生 が言った──「さつきは怖かつた」「あの目くらは何でせう」「僕はあの通りな 目くらを夢に見た事があるんだよ。矢つ張りあんな靑い顏をしてゐた」。そう 言って,一服しようと「燐寸を擦つた拍子に浮かび出た先生の顏は,眞靑だつ た」。このときを境に,二人の行く先々に「先行者」が現れる。小さな祠の拝殿 に腰を下ろすと,縁板が「人の肌の樣に」温かい。その先の涼み台も変に生温 かくなっている。二人はだんだん不気味になる。先生の家の近くに来ると,ど こかでベルの鳴る音がする。先生はあわてて走り出す。しかし先生がたどり着 くよりも早く,玄関の戸が「ごろごろと開く音」 81)がして,奥さんの「お歸ん なさい」という声が聞こえる。「私」は,「さつきの目くらが玄關の中に這入る 姿を見たと思つた」。先生は倒れるように塀に寄りかかり,身動きひとつしな い。その顔は「土の樣に靑かつた」。

 「衟連」では,「諳い峠」 82)を越して見知らぬ土地を歩いている「私」の傍に,

いつのまにか「衟連」が現れる。ときどき「榮さん」と「私」の名を呼んで, 

「冷たさうな足音」を立てて,どこまでも付いて来る。「榮さん,己はお前さん の兄だよ」 83)と道連れは言う。この道連れもやはり原抑圧された母の子であり,

「私」の失われた半身だとすれば,道連れは確かに「私」の「先行者」であり, 

「兄」なのだ。兄は「私」に訴える──「ただ一口己を兄さんと呼んでおくれ」 84)

「私」が驚いて断ると,「榮さん,そんな情ない事を云ふもんぢやないよ。お前 さんはお烝さんやお母さんや,おまけにお祖母さんまであつて羨ましい。己は 一人ぽつちで,お烝さんやお母さんは一度だつて己の事を思つてもくれないん

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だ。己は淋しいから,かうしてお前さんについて來たんだよ。兄さんと云つて おくれ」。道連れが「一人ぽつち」で家族がないのは,彼が父を知らず,した がって名前もないからである。だから,道連れは言う──「榮さん,己はお烝 さんの聲がききたい。お烝さんの聲はお前さんの樣な聲かい」。「そんな事が自 分でわかるものか」 85)と言い返した「私」の声は,驚いたことに,道連れの声 そっくりだった。「私」はいつか自分の声と道連れの声の「境目」が分からなく なり,「淚が一どきに溢れ出」る。それどころか,「何だか自分も何處かでこん な事を云つたことがある」ような気がして来た──

「もうこれで別れたら いつ會ふことだかわからない」と衟連が泣き泣き云つた。

「ああ」と私は思はず聲を出しかけて,咽喉がつまつてゐるので苦しみ悶えた。忘れら れない昔の言葉を,私の聲で衟連が云ふのを聞いたら,苦しかつたその頃が懷しくて, 

私は思はず兄さんと云ひながら衟連に取り縋らうとした。すると,今まで私と竝んで 步いてゐた衟連が,急にゐなくなつてしまつた。それと同時に,私は自分のからだが 俄に重くなつて,最早一足も動かれなかつた。 86)

 「先行者」の先生が「身動き」できなくなったのは,家長という象徴的な座を

「目くら」に奪われたからである。「衟連」の「私」が「最早一足も」動けなく なったのは,それとは違って,喪失の悲しみに圧倒されてしまったからに違い ない。「喪とメランコリー」のフロイトの言葉を借りて言えば,「失われた対象 の影が自我の上に落ち」 87)たのだ。そしてこの喪失の悲しみをいつまでも引き ずっている限り,すなわち,失われた対象からリビドーを撤収する「喪の作業」

がなされない限り,「生まれないですんでしまつた」 88)母の子は,何度でも「私」

のもとに立ち戻ってくるだろう。

 ドッペルゲンガーは中篇小説「南山壽」にも姿を現し,主人公の行く先々に 出没してうるさくつきまとう。この小説の「私」は,永年勤めた官立学校を退 職して「最早世間に用のない身體」 89)になっているが,「まだ自分では使へると 思はれる身體をもてあまし」 90)てもいる。就職運動を試みるものの,彼のよう な老教師を雇ってくれるところはどこにもない。「糟糠の妻」もあっけなく死 に,「私」は「五十餘年の生涯に蹈みしめて來た足許が,急にふらつく樣な心地 である」。街に出ても,「衟を步いてゐる人人の樣子や,軒の看板,町角の貼札 等」 91)がよそよそしく見える。「外界の事物が丸で自分の氣持とかけ離れた樣に

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思はれるのはどう云ふわけであらう」と「私」はいぶかるが,それは「私」が 街を歩いていても「何處へ行くと云ふ行先のあて」もない,ただの「風來坊」

だからである。そんな「がらん洞の樣な氣持」 92)をかかえた「私」が,久しぶ りに出逢った昔の女に心を惹かれても不思議はない。ところが,南山の寿を享 受しようという気持になりかけた「私」の所へ,「私」の後釜に座った新任教官 がやって来て,職を追われた「私」は廃物にすぎないことを執拗に思い知らせ る。この陰湿な若い男が「私の掛け馴れた椅子に腰を掛け,私の机の抽斗に自 分の物を入れてゐる」 93)のが「私」には気にくわないし,「私」が希望していた 私立大学のポストを射止めたというのも面白くない。つまり,男は簒奪者であ る。しかも男は「私」の地位を奪ったばかりか,老妻の早すぎる死に一役買っ た死神かも知れないのだ。そしてこの死神は,激しい吹き降りの中,今も家の まわりをうろついて,新しい女を冥府に連れ去ろうとしているのではないだろ うか……。

 「波止場」の主人公は,突然現れたドッペルゲンガーに妻を奪われる。「私」

は湯治場で「一人の男」と知り合いになるが,いつのまにか懇意になって「昔 からの友逹の樣に思はれ出した」 94)。妻も親しくなって,まるで「昔からの友 逹の樣に振舞つた」。妻と男があまり親しくするので心配になった「私」は,家 に帰るつもりで妻と二人で波止場に向かう。帰るには,「大きな,向うの見えな い,海の樣な湖水」を渡らなければならないが,こうした関門には我々はすで に一度出会った覚えがある。「 那人」の父が「私」を「妣の国」から連れ出し たとき,二人で渡った海である。岸から船縁に渡したあぶなっかしい橋板を渡 るのもあのときと同じだが,声をかけて励ましてくれる父が今はいない。妻は 男の助けで船に乗り,「私」は岸壁に取り残される。なぜ「私」は,眼下を「む う」と流れる「性根の惡い色をした靑黑い水」を見て,たちまち足がすくんで しまったのだろうか。言うまでもない,「妣の国」と「父の国」の境界をなす海 を「私」がひとりで0 0 0 0渡ったことはまだ一度もないからである。このことは,「私」

の通過儀礼が中途半端だったことを意味する。「石疊」では賽銭の代わりに米を 投げた。「 那人」では父のさし出す象徴的ファルスに背を向けた 95)。こうい う「私」は,たとえ束の間とはいえ,小さな死=小さな享楽である性行為を介 して「妣の国」へ帰ることはできない 96)。帰ったが最後,二度と戻れなくなる 恐れがあるのだ。通過儀礼を不正に通過した「私」は,父の名とひきかえに譲

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り渡すべき「一ポンドの肉」 97)をどこかに隠し持っているに違いないからであ る。遠ざかる船の窓から,妻と男が代わる代わるこちらを見る。「あんな事をさ せてはいけない,早くどうかしなければいけない」と「私」は焦るが,しかし 窓から覗く男の顔には「親切があふれ」,「さうして美しい」 98)。この男は紛れ もなく「私」の鏡像,かくあれかしと願う理想の自我である。

 そのとき,どこからか車屋が現れる。車屋は「何もかも心得てゐる」様子で, 

「私」を乗せて「非常な速さ」で走り出す。「私」は「餘程心強くなつて,車屋 を賴りに,有難く思つてゐる」。「賴り」になる父は現れたのである──

 車は長い土手の上を走つてゐる。風のやうに速い。兩側に高い草の生えた間を走り ぬけてゐると,草の中から子供が一人ひよろひよろと出て來て,私の車の下に這入つ た。私が吃驚して,振り返つて見ようとしたら,車屋が,「振り向いて見ちや困ります よ」と非常に恐ろしい聲をして云つたので,私はどきりとした。矢つ張り死んだのだ なと思ふ。 99)

 轢き殺されたのは母の子である。通過儀礼で犠牲に捧げなければならないの は,エディプス・コンプレックスの渦中にあるこの母の子なのだ。それなら

「私」はようやく母親から自分を切り離し,名実ともに父の子になり得たのであ ろうか。「澹那人」の主人公は父に導かれてあやうい橋板を渡り,船が方々で衝 突して沈んでいる危険な海を渡って対岸までたどり着いた。ところが「波止場」

の「私」は,「岸をぐるりと𢌞」 100)って停車場へ駆けつけた。海を渡るという 通過儀礼の最も重要な試練を,まさに迂00したにすぎないのである。ここでも 通過儀礼は形だけに終わる。何とか間に合った「私」は発車間際の汽車に乗ろ うとするが,「切符」 101)を持っていないことに気付く。通過儀礼をごまかした

「私」が「父の国」へ帰るための切符,すなわち,切断された想像的ファルスの 代わりに与えられる象徴的ファルスを持っていないのは,考えてみれば当然の ことなのだ。「後で買ふから構ふまい」と独り決めして汽車に乗ろうとすると,

駅員に突き飛ばされる。まごついている間に,「妻とその男」を乗せた汽車は出 てしまう。途方に暮れた「私」が「俄に淋しく心細くなつて,ぽろぽろと淚を こぼして」泣き始めたのは,象徴的ファルスを持っていない「私」は「父の国」

へは入れず,さりとて「妣の国」にも戻れず,二つの世界の間で迷子になって しまったからである。

参照

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Lacan had already set the problem two weeks before, in the lesson of January 15 th , 1969; then, three years before, on February 9 th , 1966, he had already emphasized the point:

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