A Study of the Meaning of the Wuhang (五行) inDong-Zhongshu's (董仲舒) Thought.

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

A Study of the Meaning of the Wuhang (五行) in Dong-Zhongshu's (董仲舒) Thought.

近藤, 則之

佐賀大学

https://doi.org/10.15017/18177

出版情報:中国哲学論集. 25, pp.19-35, 1999-10-30. 九州大学中国哲学研究会 バージョン:

権利関係:

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董仲箭の五行に関する考察

近 藤 囁

︐日Hハ

 かつて広松光雄氏は︑﹃漢書﹄本伝所載の対策および同書五行志所載の董仲箭の災異解釈中に五行への論及が全く

見られないことを指摘した︒そして︑これら董仲野の資料としての信愚性の高い資料に五行への論及がないことを根

拠として︑﹃繁露﹄中の五行対第三十八の他︑五行の二字を室名に含み︑五行を論じた九篇︵以下これらの篇を総称       ︵1︶する場合には五行九篇と称する︶が︑すべて後世の偽作であることを主張した︒そして氏はその偽作の時期を淫事の

頃まで下る可能性があるものとした︒その後︑田中麻紗巳氏がこの広松説を批判しつつ︑﹃金壷﹄五行九篇中︑五行

対第三十八・五行語義第四十二・五行相生第五十八・五行相勝第五十九の四篇は董仲野の思想との連続が認あられ︑

残る五行順逆第六十・治水五行第六十一・治乱五行第六十二・五行救変第六十三・五行五事第六十四の五篇はそれが      ︵2︶認められないとする見解を示した︒田中氏の論考は︑五行九篇を箇々に﹃呂氏春秋﹄︑﹃礼記﹄月令︑﹃准南子﹄︑﹁洪

範五行伝﹂︑劉自差︑広く秦漢の五行説を見渡しつつ︑それらとの連続不連続を検証し︑また﹃漢書﹄本伝の対策と

の思想的関連性や﹃繁露﹄内部での五行説の展開の状況を検討したものであり︑所説はきわめて説得力に富むものが

ある︒しかしながら︑田中氏の結論はあくまで五行対自等四篇と董仲夏の思想との連続性を指摘するにとどまり︑こ 19

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れらを董仲野その人の手になるとするものではない︒というのも︑﹃漢書﹄本伝や五行志において︑男爵鎌が五行に

言及することがないたあに︑最終的にこれを董仲野のものと断ずることが避けられたと想像される︒田中氏の後この

問題に触れた論考も特に見当たらない︒そこで結局︑董仲野その人の五行説がいかなるものであったのかということ

については︑なお未解決のままである︒小論はこの問題に︼考を加えるものである︒結論としては︑田中氏が関連性

を認あた五行対篇等四篇は董仲野の手になると見なしうるというものである︒この結論は︑特に五行対篇等四篇の思

想史的意義について田中氏とは異なる見解のもとに導かれるのであるが︑結果的には田中氏の論考を襲ったものとな

ることをあらかじあ断っておく︒

       ︵3︶ この問題を考える前に︑筆者が先の論考で試みた﹃野鼠﹄の三代改制質文無罪二十三に関する考察について振り

返っておきたい︒この篇は︑王朝の交替に伴って行われるものとされるいわゆる改制について論じたものであるが︑

その内容をいささか詳細に検討した結果によれば︑本篇は董仲紆の手になるものであり︑武備期の太初改制に先立ち︑

その理論的な根拠となったいわゆる五徳終始説に異を唱え︑﹃春秋﹄や﹃論語﹄を中心とする儒家経典を根拠とした

改制説を打ち立て︑もって太初改制を指導することを意図したものと見られる︒

 五徳終始説の大きな特徴は五行の推移と王朝交代に一定の対応関係があるとするものであり︑五行はその理論的支

柱というべきものである︒そこでこの五徳終始説を批判する立場に語語静が立った結果︑その五行の見方に関しても︑

何らかの限定を加えているのではないかという推測が成立する︒では︑確かに董仲舘が反五徳終始説の立場に立って

いると言いうるのか︒このことは本稿の前提として重要なところであるので︑ここでいささか前稿を振り返ってその

確認を行っておきたい︒

 ﹃謡講﹄三代改制質文篇は︑一つの王朝の改訳が三統および四法の二種の方法によって行われるという改痛事を唱 20

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えている︒その内容の詳細については前稿のよるところとするが︑この二種の改暦という複雑な改制説を唱えたのは︑

改制を﹃春秋﹄や﹃論語﹄等の儒家経典に基づけて︑経学の中に取り込もうとした結果と考えられる︒それと同時に

五徳終始説を批判する意図も指摘しうる︒三統・四悪という五の循環ではない改制を唱えているところにすでにその

立場が見えているが︑ここでは特にこの中の四法説に注目してそのことを明確にしたい︒

 四法とは︑継嗣の立て方︑︐妾の待遇︑霊告等二十余りの事柄に関する四系統の制度の総称である︒なおまた王朝成

立の基となる陰陽の気︑王朝の文化的気風というような制度とはいささか異なる事柄も含んでいる︒各系統に対して

は﹁商﹂・﹁夏﹂・﹁質﹂・﹁文﹂あるいは﹁主諸法商﹂・﹁主地法夏﹂・﹁主天守質﹂・﹁雪天法文﹂というよう

に︑その性質に応じた呼称が与えられている︒これは王朝ごとに循環し︑過去の王朝では︑それぞれ虞舜・夏禺・股

湯・周文の四王に当てられている︒この場合︑唐発を筆頭とした立法が説かれるべきように見える︒ここに尭の改制

が言われないのは以下のような事情によると見られる︒

 ≒繁露﹄楚荘王篇にも︑改制を説いた部分があり︑その一節に︑﹁故に王者に改制の名有るも︑道を易ふるの実無

し﹂とあって︑改制は道の継承の上になされるものであることを述べている︒そして︑﹁孔子曰く︑無為にして治む

る者は其れ舜か︑と︒其の発の道を主とするを言ふのみ﹂と︑舜による尭の道の継承を強調している︒三代改制質文

篇にも﹁王者に不易の者有り﹂という一節を見出すことができ︑楚斎王篇と同じ考え方にあることがわかるが︑要す

るに︑四重とは道の実現者にして聖王中の最高存在たる尭を起点として行われた舜・禺・湯︐・文の清祥を言うものな

のである︒そこで︑五法ではなく︑四温が説かれるわけである︒そして尭・舜・禺・湯・文は孔子以来の儒家的聖王

であり︑したがって︑四法説は改制を儒家教説として説くことを目指していると言うことができる︒

 漢の武帝の時︑いわゆる太初改制が実行されたが︑これは周知のように五徳終始説に従って漢を土徳とするもので

あった︒それを確認しておくと︑﹃史記﹄暦書に引く武帝の御史に改制を命ずる詔勅の中に﹁日分を紬許するに︑率

ね宿徳の勝に応ず﹂の一節があるが︑﹁水徳の勝﹂とは土徳を意味し︑五徳終始説に従う表現である︒太初改制は五

徳終始説に従うものであったが︑その五徳終始説は︑その唱道者卸術の著述の一部を伝えると目される﹃呂氏春秋﹄ 21

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応同篇や﹃史記﹄封禅書の記載によれば︑土の黄帝・木の禺王・金の湯里・火の文王という王の系譜を前提とするも       ︵4︶のであったらしい︒五徳終始説に基づく漢土雷雲は︑漢初以来の黄帝崇拝の思潮と一致し︑それを強く促すもので

あったと思われる︒

 三代薫製質文篇は武帝期を活躍期とする董仲野の著述と目されるから︑その成立を太初改制に前後するものとする

見方が可能となるが︑それが上述のように三思・製法の五ではない改制の循環を唱え︑また尭を最高権威とする脚結

を唱えているわけであるから︑五の循環を説き︑黄帝を王の系譜の筆頭に置く当時の改制説の主流たる五徳終始説を

否定することがその動機の一つとなっていると見ることができよう︒

 ここで今一度︑四法説を振り返ってみよう︒これは先に述べたように︑多士下文王までの四聖王が︑尭の道を継承

しつつ行う改号であったが︑今︑尽りに発以下の聖王の系譜に︑五徳終始説に従って五徳の循環を当てはめてみよう︒

尭から文王までは五王であるから︑発も循環の中に入ることになる︒そうなれば︑﹁故に王者に改制の名有るも︑道

を易ふるの実無し﹂という立場に立つ限り︑学制の起点としての王︑すなわち最初に道を具現した王として︑尭より

前の王を考えなければならなくなるのである︒

 このように尭による道の実現と舜以下の四王による道の継承を唱える三代平制質文篇の作者においては︑五徳終始

説は否定すべきものであった︒したがって︑その理論的支柱たる五行の考え方も︑無条件に採用することはできない

ものであったはずである︒ 22

以上のことを念頭に置きながら︑次に﹃霜露﹄の五行九篇を見てみたいと思うが︑ここでは︑まず︑田中氏によっ

て董仲野との関連が考えられるとされた五行対等以下の前四篇の内容を見ることとする︒これについては田中氏が他

の五篇とともにもとより詳細に検討し︑またつとに重澤俊郎氏もこれらを董仲鎌の作とする立場から詳細な分析を加

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        ︵5︶えているところであるが︑小論の後の考察のために改めていささか詳細に検討を加えることとする︒

 まず五行対篇は︑歯間献王による﹃孝経﹄の﹁夫れ孝は天の経なり︑地の義なり﹂の意義に関する質問に董仲好が

答えるという形式のものであるが︑ここではまずいわゆる五行相生説の立場から︑﹁天に五行有り︒木火土金水︑是

なり﹂と五行を定義する︒そして﹁木は土を生み︑火は土を生み︑土は金を生み︑金は水を生む﹂と︑五行の連続す

る二者の関係を︑前者が後者を生む関係︑すなわち父子の関係と捉える︒その上で︑五行はそれぞれ春・夏・季夏・

秋・冬と対応する︑乃至これらを形成するものとする︒他方︑春は﹁生﹂︑夏は﹁長﹂︑季夏は﹁養﹂︑秋は﹁収﹂︑冬

は﹁蔵﹂の働きがあるとし︑これらの働きは︑たとえば春の働きによって起こった生命を︑夏が受け取って長じさせ

るというように︑連続する二者の間において︑前者の働きを後者が継承発展させる関係において実現している︒この

結果︑︐五行中の連続する二者の間には︑﹁諸々の父の為す所をば︑其の罫引謹承して誉れを続行す﹂る関係が成り

立っていると言うことができる︒この五行の関係から見れば︑父の働きを子が継承していくのは﹁天の道﹂である︒

そこで﹃孝経﹄は﹁夫れ孝は天の経なり﹂と言うのであるとする︒

 また︑地は風雨を起こすことを自らの働きとしながら︑その働きの結果は﹁地風﹂﹁地雨﹂ではなく︑﹁天風﹂﹁天

為﹂と呼ばれ︑﹁勤労は地に在るも︑名は一に天に帰す﹂という状況に地は甘んじている︒これは至義と言うべきも

のであり︑故に地は上に仕える者の範であり︑﹁大挙﹂と言うべきものである︒他方︑五行中の土は火の子であるが︑

﹁五行は土より貴きは無し﹂︑五行の中で土は最も尊ばれるけれども︑春を実現する功名は木のものとされ︑夏は火︑

秋は金︑冬は水の功名とされ︑﹁土の四時に於ける︑命つくる所無し﹂︑土に季節の名は与えられない︒これは﹁︵父

たる︶火と功名を分かたざ﹂る土の徳を示すものであり︑したがって﹁忠臣の義︑孝子の行ひは︑暴れを土に取る﹂

と言うことができる︒土はこのように忠臣孝子の代表者と言えるが︑このような土の徳は︑上に仕える者の義の淵源

者たる地の徳に一致する︒故に﹃孝経﹄は﹁孝は地の義﹂であるとする︒厳密な言い方をすれば︑﹁孝は地の義な       ︵6︶り﹂ではなく︑﹁土は地の義なり﹂と言うべきように見えるが︑ともかくも︑右のような論理によって︑五行を用い

た﹃孝経﹄天旧地義説の意義の説明がなされている︒ 23

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 次に五行之義篇を見てみよう︒これも五行対篇と同様に︑五行の相互関係を通じて臣子の道を論じたものであるが︑

ややその論理が異なっている︒ここにおいても五行を導火土金水の順に数え︑﹁木は火を生み︑火は土を生み︑土は

金を生み︑金は水を生む︒此れ其の父子なり﹂と︑五行相生の立場に立って︑五行の連続する二者を父子と捉えるこ

とは同様であるが︑ここでは﹁木は左に居り︑金は右に居り︑火は前に居り︑土は後に居り︑土は中央に居る﹂と方

位の概念が導入される︒その上でまず﹁木は水に受け︑而して火は木に受け︑土は火に受け︑金は土に受け︑水は金

に着く﹂というように︑五行の連続する二者の間には授受の関係があり︑﹁諸々の盛れを授くる者は父﹂であり︑﹁薫

れを受くる者は子﹂であるから︑﹁常に其の父に因りて以て其の子を使ふは︑天の道なり﹂ということになるとする︒

そして︑木が﹁生﹂を実現し︑火がそれを受けて﹁養﹂を実現し︑また金が﹁死﹂を実現し︑水が﹁蔵﹂を実現する

が︑ここには﹁火は木を楽しませて養ふに陽を以てし︑水は金に与して喪するに陰を以てす﹂ることが行われ︑また

﹁土の火に事ふる︑其の忠を端くす﹂が故に︑﹁五行は乃ち孝子忠臣の行なり﹂とする︒

 この場合の木火金水の働きを述べる文の﹁水は金に志す﹂は︑孝子の行為について言うものにしては不穏当のよう

に見える︒これと似た文が王道通三第四十四に︑﹁春は生を主とし︑夏は養を主とし︑秋は収を主とし︑冬は蔵を主      つとす︒生けるには其の楽を発くして以て養ひ︑死せるには其の哀を尊くして以て蔵す﹂とあるので︑この﹁剋﹂はあ

るいは﹁哀﹂の誤りではないかと思われる︒いずれにせよ︑これは五行中の木製金水とそれに対応する四季の働きの

うちに︑子の父に対する孝行︑奉養︑葬送︑服喪の人文的な意義を読み取り︑これをもって︑単に孝の先験性のみな

らず︑そうした孝の具体的な行為の形而上学的な根拠としょうとしたものと考えられる︒なお︑﹁土の火に事ふる︑

其の忠を端くす﹂に関してはその根拠となることが何も言われていない︒これは五行思議の︑土は﹁火と功名を分か

たず﹂の論理があるいは自明のこととなっているのかもしれないが︑火と土は父子であるから︑この場合︑﹁孝を端

くす﹂と言うべきであろう︒この点論理的に矛盾するが︑ともかくもこれによって五行が臣子の徳を象徴するもので

あることが強調される︒

 また︑この篇の後半では︑先には左右前後および中央であった五行の位置的関係を︑東西南北および中央と言い換 24

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えて︑この関係を官僚制度に見立て︑﹁五行の随各々其の序の如くし︑五行の官各々の其の能を致す﹂がゆえに︑﹁人

を使ふに必ず其の序を以てし︑人を指するに必ず其の能を以てす﹂と︑五行の相互関係から入間界における能力に応

じた官僚制度の必然性が説かれている︒その上で︑次のような論理によって五行中において土が最も貴きものである

ことが言われる︒すなわち︑中火金水はそれぞれ春夏秋冬を主るが︑中央の土はどの一時の名も与えられていない︒

これは﹁五行にして四時なるは土之れを兼ぬるなり﹂︑すなわち土が四季のすべての実現に関わっているがゆえに︑

どれか一つ季節を当てることはできないからである︒それはあたかも人間の官の中の最高の去たる﹁相﹂が︑すべて

の政務に関わることから︑特別の職掌をもって呼ばれないのと同じである︒土はこのように中央の﹁天の股肱﹂とし

ての地位にあって︑とりわけ優れた徳を具有する︒したがって土は﹁五行の主﹂であるσ﹁聖人の行ひは︑忠より貴

きは督し﹂というが︑これは﹁主徳の謂ひ﹂に他ならない︒このようにこの篇の後半では︑五行の相互関係を官僚制

度に見立て︑土をとりわけ重視する考え方が示されている︒

 以上が五行之義篇の概要であるが︑先の五行対篇が五行によって﹃孝経﹄の門経地誌説を説明することを目的とし

ていたのに対し︑本篇は篇名の通り︑五行の意義そのものを論ずることを趣旨とすると言えるようである︒

 次に五行相生篇を見てみよう︒本篇は︑﹁天地の気︑合して一と為り︑分かれて陰陽と為り︑判じて四時と為り︑

列して五行と為る﹂と︑まず五行の生成過程を述べた上で︑﹁五行は五官なり︒比して相生じて平して相勝つ﹂と︑

五行が人間界の五官に対応するものであること︑そしてその五行︑五官の間に相生と相勝の関係が存することなどを

述べる序文が見えている︒なお︑﹁比して相生じて序して相勝つ﹂というのは︑五行の順序について言うもののよう  ︵7︶である︒

 本篇は五行に応ずる五官の内に存する相生と相勝の二関係の前者について論じたものであり︑次の五行相勝越はそ

の後者について論じたものである︒したがって︑この二篇は相連続するものであるが︑ここでは木火土金水がそれぞ

れ司農・司馬・富嶽・司徒・司冠の五官に対応するものとされる︒五行相生篇では︑たとえば木の司農がその職責を

十分に果たして︑農業生産が盛んになれば︑司馬の朝廷における職務遂行の基盤が整うこととなる︒司馬は火に該当 25

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するから︑ここにおいて木が火を生む関係が成り立っている︒その他︑五官の関係は︑すべてこのように前者の職務

の遂行が後者の職務を導き出して︑その職務を助ける関係︑五行の相生に応じる関係が存していることを述べる︒

 そして五行相勝論は︑これとは逆に︑司農・司馬・司営・司徒・臣子のそれぞれの官が不正を為し︑その職責を果

たさない場合︑たとえば︑木に該当する司農が不正を為せば︑それによって起こる邪悪を︑法を執る金の司徒が鎮め

ることになるというように︑金が木に勝つ関係で事態が収拾される︒そのように︑司農・司馬・司営・司徒・司冠の

不正とそれによって生じる邪悪な事態は︑金が木に勝ち︑水が火に勝ち︑木が土に勝ち︑火が金に勝ち︑土が水に勝

つ関係に従って収拾されることになり︑ここに五行相勝の関係が成立しているということを論じたものである︒

 以上が四篇の概要である︒卑見によれば︑これら四篇にも三代改制質文篇同様の反五徳終始説の主張あるいは立場

を読み取ることができると思われる︒これについて章を改あて考えてみよう︒

 このことを考えるため︑五行対篇や五行之義篇において五行中の土が特に重視されていた点に注目したい︒五行対

篇では︑土が春夏秋冬のどの一つの名も与えられないことは父と功名を分かたない土の徳であり︑これは自らの働き

によって風雨を起こしながら︑﹁天風﹂﹁天雨﹂と功名を天に帰する地の義に匹敵する︒故に土は五行中の最も貴いも

のであり︑﹁忠臣の義︑孝子の行は之れを土に取る﹂として︑土がとりわけ重視されていた︒これが五行唐言篇では

論理を異にしながら︑土は﹁天の股肱﹂として中央に位置し︑あたかも人間の官界の長たる相のように﹁五行の主﹂

として春夏秋冬の実現のすべてに関わる働きをなすことから︑四徳は聖人の最も重視する忠であるとされた︒なお︑

またこの篇では︑火の子としての土の説明の中でも︑論理的な矛盾を犯しながら﹁土の火に事ふる︑其の忠を端く

す﹂と土の忠を強調していた︒

 ところで︑このような土の重視および王徳を忠とすることについて︑田中氏はこれを漢土毒悪との関連で捉えてい 26

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る︒漢土徳説は文帝期に公務臣・頁誼等によって唱えられ︑これが武帝期の児寛・司馬遷等に継承されるが︑氏は︑

心乱鉦には﹁五徳終始説を用いて考えを述べた形跡はないが﹂と断りつつ︑その賞誼や司馬遷との思想的連続性から

考えて︑董仲紆も漢土駁説に賛同的な立場に立っていたことは十分考えられるとする︒そして他方︑董仲箭は対策で

﹁王者に改制の名有るも︑道を変ずるの実亡し︒然して夏は忠を上び︑股は敬を尊び上び︑周は文を上ぶは︑継ぐ所

をば誉れ球ふには︑当に此れを用ふぺければなり︒⁝⁝今︑漢は大乱の後を継ぐ︑宜しく少しく周の文致を損して︑

夏の忠を用ふべき者の若し﹂と述べ︑忠の重視を主張しているから︑土を重視しまた土工を忠とする五行之義篇は董

仲野との関連が考えられるとした︒

 土の重視が漢土徳説と関連することは確かなてとであろう︒五行対篇・五行之義篇は︑漢土徳説による太初改制が

行われた武半期の董謬言あるいはその学派の手になると目されるわけであるから︑両君の土の重視は漢土徳説との関

係を考えないわけにはいかない︒

 ところで︑漢土徳説によって管制が断行された︑あるいは断行されようとする時代に︑土を臣子や忠孝と対応させ︑

またこれを官僚の長たる相に対応させることはどのような意義を持つものになるだろうか︒五徳終始説︑漢土徳説に

おいては︑土は王朝や皇帝に応ずるものであり︑その徳を象徴するものである︒その土を︑五行対篇や五行之義憤は︑

臣子︑官僚の徳の象徴として説いているのであるから︑この土観は五徳終始説や漢土徳説の土観へのアンチ・テーゼ

の意義を持つことになるだろう︒したがって︑この両篇の土の重視は︑五徳終始説や漢土徳説への賛同ではなく︑む

しろこれへの反対を志向するものと解釈しなければなるまい︒特に五行之義篇の﹁聖人の行ひは忠より貴きは罪しと

は︑土徳の謂ひなり﹂の帝徳を忠とする主張は︑当時五徳終始説や漢土徳説によって一般化していた土を尊ぶ状況の

中で︑この思潮を土徳に基づく漢の改選ではなく︑忠の徳の重視へと向かわしめようとするものと思われる︒

 このように見てくれば︑五行言言や五行之論旨が︑五行を臣子と対応させ︑あるいは官僚と対応させていること自

体に反五徳終始説や反漢土徳説の主張あるいは立場を見て取ることができると思われる︒

 ところで︑対策で唱えられている忠は︑股の敬︑周の文と対置される夏の徳であり︑王朝の気風を意味するもので 27

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あり︑五行対篇や五行之義篇で述べられている忠は臣下の徳としての忠であるから︑忠という語の共有という点から︑

両者の直接的な連続性を考えることはできないようである︒しかし︑五行之義篇は全体としては五行が忠臣孝子を象

徴し︑官僚と対応するものであることを説きながら︑土瓶が忠であることを言う際には︑﹁聖人の行ひは忠より貴き

はなしとは︑土居の謂ひなり﹂と述べている︒聖人は臣子︑官僚であるとは限らないから︑この忠は臣の徳としての

忠ではなく︑広義の意味の忠であり︑対策の王朝の徳としての忠と連らなる︒このことから五行之義篇と董仲野の対

策は︑田中氏の指摘のように︑やはり両者呼応し合っていると考えられるところである︒そうすると︑董仲野が対策

で三循環の改制説を媒介として︑漢が夏の徳たる忠を継承すべき必然性を唱えたのに対して︑五行謡講篇は忠の重視

を当時の土重視の思潮を利用しながら唱えようとしたというように両者の関係が見られてくる︒そして対策の忠の重

視の主張は︑夏の忠・股の敬・周の文という三循環改制説に基づくものであり︑他方︑三代改制質文篇の三統宰は︑      ︵8︶股・周および孔子の﹃春秋﹄の三循環改制を説くが︑﹃春秋﹄は夏の制度に従うものとされるから︑実質的には両者

は同じものであると見てよい︒つまり︑対策の三循環改制説もまた五徳終始説に異を唱えるものであって︑そうする

と︑ここにおいてまた五行黒子篇の土徳を忠とする説が︑反五徳終始説の立場から唱えられていたことの根拠を得る

ことになるのである︒

 以上のことから︑五行対篇や五行温語篇は=︐一代改制文目と同じく反五徳終始説の課題を担っていると結論づけるこ

とができると考える︒この二者のうち︑後者は詳言の通りもっぱら五行の意義を説くことを趣旨とするものであった︒

そこで︑この篇は三代改制質文篇が改装そのものを論じて五徳終始説を否定したのに呼応して︑その否定の結果とし

て王朝の徳としての意義を喪失した五行について︑改めてその意義を解釈し直していると見ることができるだろう︒

これに対して五行対篇篇は︑﹃孝経﹄の天爵地義説を五行によって解釈することを趣旨とするものであり︑三代改制

質文篇との直接的な呼応関係を考えることはできないけれども︑五行観や思想は五行季節篇と基本的に一致するから︑

やはり三代改制質文篇の作者の為すところと見てよいであろう︒

 さて︑次に五行相生篇および五行相等篇について考えてみると︑これらは五行を官僚と対応させているわけである 28

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から︑右の両石に反五徳終始説を抽出した観点に立てば︑やはり同じ立場に立っていると見られることとなる︒これ

らのうち五行相撃篇は先に見たように︑五官が不正を為した時︑その不正が五官中の他の官によって収拾されるが︑

その場合の不正を働く官とこれを収拾する官の関係は︑木の司農の不正は︑金の司冠が正すというように︑五行の相

勝の関係に従うというものであった︒五徳終始説においては︑この五行の相勝関係は王朝の交替と対応するもので

あった︒これに対して︑五行黒道篇においては五行の相勝関係の妥当する場は︑官僚の世界に過ぎず︑しかもそれは

官僚の不正に応じて発現するものであった︒ここに五行の相勝関係を王朝の高いレベルから官僚の低いレベルに引き

下げて再解釈し︑もって五徳終始説を否定せんとする意図が浮かび上がってくるだろう︒またこれと呼応関係にある

五行相生説も当然同様の意図を持つものであると言ってよかろう︒このように見れば︑この両極もまた反五徳終始説       ︵9︶の立場から五行の再解釈を︑特にその相対関係について︑行っているということができると思われる︒

 以上を要するに︑﹃繁露﹄の五行九篇中の前四篇はいずれも三代改制質文篇と同じく反五徳終始説という課題を

担っているのであり︑この立場から一二代改制文篇は潮影そのものを論じ︑前四篇中︑五行対客を除く三篇は︑五行の

意義を再解釈するという意義を持つものと考えられる︒五行対篇については直接そうした意義を認めることはできな

いが︑同じ五行観によってこれを他の課題の説明に応用したものと見られる︒

 とはいえ︑この結論の為にはさらに検討すべきことがある︒これらの四篇では︑ある場合には五行の関係を父子と

し︑また時に君臣として︑五行の性質から臣子の忠孝の必然性を導きながら︑ある場合には五行の関係を官僚制度に

比擬し︑またある場合は五行を人間の五官と対応させる︒ここには異質の五行観が錯綜しているように見え︑そこで

これら四篇に複数の作者を想定しなければならないようにも思われる︒このことを考えるために︑今一度五行之義篇

を振り返っておくと︑ここでは同一篇の中でありながら︑五行は一方では父子とされ︑他方では土を中心とした五つ

の官とされ︑さらには︑五行を父子とする前半の記述の中で︑土は火に忠を尽くすとされ︑土と火は父子であり且つ

君臣関係にもあるとされている︒父子にして君臣ということはあり得るが︑五代連なる父子が同時に五官を構成する

というのは論理的には矛盾する︒しかし︑他方︑五行は五色や五味等のそれに配当されるさまざまな五者一組の事柄 29

(13)

を代表し︑五行の横の関係はそのまま五色・五味等の横の関係でもあり︑五行の個々の性質は︑そのままそれに配当

されている五色・五味等中の個々の事物の性質でもある︒また︑五色・五味等の中の個々の事物の性質は︑同じ配当

の他物の性質に通じるものでもあった︒これを仮に配当の論理と呼ぶならば︑五行訳義篇においてもこの配当の論理

によって思考された結果︑五行によって説明しうるすべての関係は同時に成立するものとされ︑時間的空間的整合性

の問題は顧慮されず︑五行は父子であり︑また五官を構成し︑また人間界の五官に対応するものとも思考されている

と考えられる︒そこで右の五行観の錯綜という問題によって四篇に複数の作者を想定する必要もあるまい︒

 ところでまた次のような問題も残っている︒先にも触れたように︑五行対篇は木管土金水を春・夏・季夏・秋・冬

の五季に対応させ︑それぞれ﹁生﹂﹁長﹂﹁養﹂﹁収﹂﹁蔵﹂の働きを為すものとした︒これに対して︑五行之後篇は土

は中央にあって四季の変化すべてを兼ねるとしていた︒島邦男氏は︑五行対話の土を季夏とするものは﹃調子﹄幼濃

鼠・﹃准南子﹄天文訓.時則訓の一部に︑五行之義篇の土を中央とするものは﹁洪範五行伝﹂・﹃准南子﹄時則訓の         ︵10︶十二紀に基づくとするが︑この指摘のようにこれらの二つの土の捉え方はこれらの篇より以前にすでに存していた︒

 ところで︑五行誓書は五行の連続する二者を父子関係とし︑また五行・五畜の右のような働きを指摘して︑ここに

子による父の働きの継承という人文的意義を導き出して︑孝が﹁天の経﹂であることを論じた後︑﹁土の四時に於け

る︑命つくる所無きは︑火と功名を分かたざればなり﹂︑すなわち︑土はどの季節の名も受けないが︑これは父と功

名を分けない土の徳であるとし︑これが地の自らの働きを天に帰する義に匹敵するとして︑論理を飛躍させながら︑

孝は﹁地の義﹂であることを論じていた︒この場合︑正確には土は季夏の名が与えられているのであり︑この場合の

土窯はむしろ︑土は中央にあって﹁名づくるに一時の事を以てせず﹂としていた五行之義篇のそれに近づいており︑

同じ一篇の中にあって︑五行観が立論の要請に従って変容している︒このことから考えれば︑五行言勝と五行之下篇

は同じ作者が︑立論の要請に応じて既存の五行観を選び取っていると見ることができると思われる︒この二篇の作者

においてこの二つの五行観は同時に成立しうるものだったのであろう︒そこで︑五行対篇の場合は︑その前半は五行

が父子関係にあることを論ずることを趣旨とするので︑土を季夏として五行を並列してその連続的な関係を強調し︑ 30

(14)

後半は土と地との連続性を言う必要から︑他方に具有する土を中央とする五行観に立ったが︑五行之義篇の場合は︑

五行を官僚制度に比擬するその後半部の論述の必要から当初より土を中央とする五行観を用いたというように考えら

れる︒

 以上のように︑﹃繁露﹄の五行九篇中の前四篇は︑いずれも反五徳終始説という課題を持ち︑三代改制質文篇と同

じ作者であると考えられるが︑次に五行九篇中の後五篇︑およびその他の﹃繁露﹄の五行に言及した論述について見︑

右に見てきたことに反する事柄の有無を吟味してみよう︒

 まず︑後五篇であるが︑これについて田中氏は前四篇との五行観の不連続を指摘している︒その内容の詳細につい

ては︑田中氏等の論考に委ねることとし︑ここでは小論の論述の必要のために次の点のみを見ることとする︒

 後五篇は治水五行第六十一以外は︑いずれも五行に基づいて災異を説いている︒﹁如し人君出入時ならず︑⁝⁝以

て民の財を奪えば︑⁝⁝茂木枯脅し︑⁝⁝﹂︵五行順逆第六十一︶︑﹁火︑木を干せば︑蟄平生く出で︑蚊歯黒く行      ふく﹂︵治乱五行第六十二︶︑﹁五行の変至り︑⁝⁝救ふに徳を以てせざれば︑則ち三年忌出でずして天当に石を雨らし

むべし﹂︵五行変救第六十三︶︑﹁王者︑臣と礼貌無く︑粛敬ならざれば︑則ち木︑曲直せず﹂︵五行五事第六十四︶と

いう具合である︒五行に基づいて災異を論ずるというのは︑黒黒は君主の道徳や政治に応ずるものであるから︑五行

を君主との対応で説くものであるということになる︒残る治水五行篇第六十一は一年を冬至から数えて七十二日ずつ

に分け︑それぞれを木火土金水に配当し︑それぞれの期間の気の状態を述べた上で︵それぞれの期間になさるべき政

事についで述べる︒災異に関する記述は見当たらないが︑これは一種の時令説であり︑時令説は君主の政事を問題に

するから︑これも五行を君主との対応で論ずるものであるど言いうる︒このように後五篇は五行を君主との対応で説

く点で︑前四篇との不連続が指摘され︑田中氏と同じ結論に至るわけである︒先に考察したように︑五行九篇中の前 31

(15)

四篇が五行を臣子︑官僚との対応で論ずることは︑反五徳終始説の立場から生じた積極的主張であったと考えられる︒

したがって︑五行を君主との対応で論じている後五篇と前四篇との五行観の相違は決定的である︒なぜ︑これらが

﹃零露﹄に存在しているのか︑現段階では考えるところはないが︑﹃繁露﹄の中では孤立した一群をなすという田中

氏の指摘もあることでもあり︑後五篇は前四篇の作者の思想に関知しない者の手になるものとみて差し支えないと考

える︒ さて︑五行九篇の外に︑﹃繁露﹄の中で五行に関する論述が見える篇は︑十指第十二︑官制象天第二十四︑陽尊陰    ︵11︶卑第四十三︑天弁在人中四十六︑陰陽終始第四十八︑人副天数十五十六︑露天之陰野七十七︑天地陰陽第八十一の八

篇である︒そこでここでは︑五行を臣子︑官僚との対応で説くか否かという観点からこれらを簡単に見ておきたい︒

 まず︑陰陽尊卑篇に﹁人の子となる者は︑土の火に事ふるを視るなり︒⁝⁝火を傅けて以て調和最長す︒罵り而し

て名あらずして︑皆皆を火に帰す︒火は得て以て盛んなるも︑敢へて父と功を分けず︑孝の至りなり﹂とあり︑五行

対篇との共通性が見出される︒また︑天地陰陽篇に﹁官を列し吏を置くに必ず其の能を以てすること五行の若くす︒

⁝−官職の事は五行の義なり﹂とあり︑五行が臣子あるいは官僚との対応で論じられており︑五行之義篇以下三篇と

の共通性が指摘できる︒しかし︑これ以外には特にそうした記述を見出すことはできない︒

 この二篇以外の各署の内容をごく簡単に要約すると︑官制早天篇は五行を天地陰陽および人と合わせて天の三思に

数え︵ほぼ同様の記述が天地陰陽篇にも見える︶︑十指篇︑天漏斗人篇︑陰陽終始篇および循天離婁篇は五行の四季

変化の働きを陰陽のそれと合わせて論じ︑人副男数篇は五行の五臓との対応を言うものである︒つまり︑これらは五

行を自然学的な意義において述べるものである︒このためそれぞれの記述が五行に対してどのような人文的な意義を

抱くもののなす所であるのか明確にしえないが︑特に五行対以下四篇以外の五行の人文的意義に関する考察が行われ

た形跡もない︒この結果︑﹃寒露﹄全体を通じて︑五行九篇中の後五篇以外には︑前章までの考察に吟味を必要とさ

せるものはないとして差し支えないようである︒そして後五篇も前章までの結論を否定するものではなく︑むしろそ

の不連続性によってその後出性が明確にされる性質のものと見なすことができると考える︒ 32

(16)

結 び

 以上の検討を踏まえ︑結論を述べて小論を閉じることとする︒五行九篇中の前四篇は五行を臣子あるいは官僚との

関連においてその人文的意義を論じているが︑これは五行の相勝つ関係に応じて王朝が交替するという五徳終始説を

批判し︑これを否定する立場に立つものであると考えられる︒五徳終始説では五行は王朝・天子・皇帝と対応し︑そ

の相勝つ関係に応じて王朝が交替する︒前四篇はこれと対抗しているが故に︑五行は臣子︑官僚と対応するという五

行観に立ったと考えられる︒他方︑五徳終始説批判は三代改制質文篇の重要な課題でもあった︒そこでこれら五篇は

すべて連続すると考えられる︒三代改制質文篇が五徳終始説を批判して改制そのものを論じていたのに呼応し︑前四

篇のうち五行之義篇と五行相生および五行尊勝の三篇は︑五徳終始説の五行説の方を批判して︑これを再解釈すると

いう関係にあるものと考えられる︒五行対篇は五徳終始説批判そのものを趣旨とするのではないが︑同じ作者が同じ

五行観を﹃孝経﹄の天動地義説の解釈に用いたものと見られる︒前稿の考察によれば︑三代改制質文篇は董仲鎌の手

になると考えられるが︑前四篇もこのような三代改制質文篇との呼応関係︑連続関係を根拠として︑董仲箭の手にな

ると見なすことができると考える︒

 他方︑五行九篇中の後五篇は五行を君主との対応で論じているから︑五行を臣子︑官僚との対応で説くことを積極

的主張とする前四篇との間で作者の同一性は認められず︑この結果︑董仲詩以外の者のなす所と見なされる︒また︑

これを除く﹃繁露﹄の五行に関する論述は︑その人文的意義に関して︑すべてに前四篇との連続性を認あることはで

きないが︑これに限定を与えるような五行観も特になく︑人文的意義に関する限り︑前四篇のそれをもってほぼその

まま董仲舘のものとすることができると考えられる︒

 以上のように︑董仲箭の五行観は︑五徳終始説との対抗という思想史的限定を与えられたと見られる︒五徳終始説

にあっては︑五行は王朝や天子・皇帝と対応するものであったが故に︑董仲静はこれに対抗して五行を臣子︑官僚と

対応するものとし︑五行によって臣子︑官僚の徳の形而上学的根拠を示すことをなし︑また五徳終始説が王朝の交替 33

(17)

に応ずるとした五行の相当の関係を︑王朝ではなく官僚のレベルに起こるものとするなどの主張あるいは考察をなし

たものと考えられる︒なお︑董仲紆において王朝の交替に対応する気としては陰陽が考えられていたと考えられ︑三

代改制質文篇に﹁天を主とし商に法りて干たれば︑其の道は侠陽∵−⁝地を主とし夏に法りて去たれば︑其の道は進

陰︑⁝⁝天を主とし質に法りて王たれば︑其の道は論理︑⁝⁝地を主とし文に法り王たれば︑其の道は進発﹂とある︒

 ところで︑以上の検討によって︑﹃漢書﹄五行志に引く董仲野の皇典解釈に五行を用いたものが存在しない理由が

明らかになったと言えよう︒要するに︑董仲紆は五行に基づく災異解釈は行わなかったと考えられる︒五行を災異解

釈に用いることは︑董仲野においては五徳終始説を承認し︑黄帝の権威を承認し︑尭の道を絶つことを意味するもの

であったと思われる︒また︑﹃漢書﹄本伝の対策に董仲野の五行に関する論述がないことは︑彼が五行説を持たな

かったのではなく︑それが臣子︑官僚レベルに対応するものというきわあて限定的な意義のものであったが故に︑

偶々対策の話題に上らなかったにすぎないと考えられる︒

34

︿1︶広松光雄氏﹁春秋繁露五行王業偽作考〜董仲箭の陰陽・五行説との関連に於て〜﹂︵﹁金沢大学法文学部論集﹄哲学史学篇6︑

  一九五八年︶

︵2︶田中麻紗巳氏﹁﹃春秋繁露﹄五行二二についての一考察﹂︵﹁集刊東洋学﹄二二号︑一九六九年︒後︑﹃両面思想の研究﹄︵研

 文出版︶第一章︵董仲野と﹁春秋繁露﹄﹂第二節﹁﹃春秋暴露﹂考察L一﹁五行諸篇﹂として転載︒︶以下︑田中氏の所説を言

 う時はすべてこれによる︒

︵3︶﹁﹁春秋繁露﹄の改制説について﹂︵九州中国学会章章三十七巻︑一九九九年︶

︵4︶﹁凡帝王之将興也︑天下先見祥乎下民︒黄帝之時︑天先見大古大量︑黄帝日︑土気勝︒土気勝︑立歩色尚黄︑其事則土︒及

 萬之時︑天先見草木秋冬不殺︑萬日︑殺気勝︒堅気勝︑故習色鳥青︑其事則木︒及湯之時︑天先見金刃生量水︑中日︑金気勝︒

(18)

 金気勝︑故其色尚白︑其事則金︒及文豪之時︑天先見火︑赤鳥街丹童星小量寺社︑文王日︑火気勝︒火気勝︑故其色感赤︑其事

 天火︒代書者必将水︒天且先見水気勝︒水気勝︑故飾罫尚黒︑其事則水︒﹂︵﹃呂氏春秋﹂有始曲見同論︶﹁秦尊皇既井天下而帝︒

 宮田︑黄帝得土徳︑黄掃地蜻見︒夏得木徳︑青龍止於郊︑草木暢茂︒股得金環︑銀登山溢︒遍羅火徳︑有赤烏之符︒﹂︵﹃史

 記﹂封禅書︶

︵5︶重澤俊郎﹁董仲野研究﹂︵﹃周囲思想研究﹂一九四三年︶の﹁倫理思想﹂及び﹁五行説 附気﹂の項︒

︵6︶愈越は︑本篇の後半の五行説の部分を五行之義篇の脱簡とする︒この部分では︑地の義の説明のところで︑孝の﹁地の義﹂

 たることを言い得ており︑それに続く五行説の部分は不要であるとするのである︒というのも︑この五行説の部分からは︑土

 が﹁地の義﹂であることは言い得ても︑孝が﹁地の義﹂であることは導くことができないという論理的矛盾があるからであろ

 う︒しかし︑本篇は五行を用いて孝が﹁天経地義﹂たることを論ずることが趣旨であるから︑蘇輿が﹁此れ自つから五行の土

 に取りて地を説くのみ﹂という説に従うべきであると考える︒

︵7︶重罪氏はこれを﹁五行は木火土金水の次序に排列する時︑相生の関係が成立すると同時に︑一つ置きに逆の方向に於いて相

 勝の関係が成立するを謂ふ﹂︵重着氏前掲書二五〇頁︶と解釈しているが︑まことに妥当なところであみ︒

︵8︶前掲拙稿参照︒

︵9︶重澤氏は五行相生・五行相勝の両翼が︑五行の相生・相勝の論証の場を王朝ではなく官僚の世界に求めた理由として︑﹁官

 職間の相互牽制的秩序の存在を強調する﹂こととし︑その前提として︑﹁彼の時代は国家の基礎既に堅く︑人をして王朝交代

 の理法を思はしむる際では決してない﹂と述べているが︑︵前掲書二五一頁︶漢を水徳の秦を継ぐ王朝と位置づける漢土徳説

 による太初改制が菅貫期に行われたことを考える時︑氏の所説には従えないものがある︒もとより﹁官職間の相互牽制秩序の

 存在を強調する﹂という性格がないと言うことはできないが︑その第一の意図は反五徳終始説に基づいて︑五行の相互関係︑

 特に相勝関係を再解釈することにあったと考える︒

︵10︶島邦男氏﹃五行思想と礼記月令の研究﹂︵汲古書院︑一九七一︶三一八頁︒

︵11︶陽尊陰雲篇に見える五行に関する論述の部分を︑王道通三篇に置く本もある︒前後の文脈から見て︑陽昌昌卑篇にあるもの

 が妥当と考える︒︐ 35

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参照

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