近世以降東アジアの人口移動
鈴 木 透 ( 国 立 社 会 保 障 ・ 人 口 問 題 研 究 所 ) 1 . 緒 言
本 稿 で は 日 本 ・ 韓 国 ・ 台 湾 ・ 中 国 に お け る 近 世 以 降 の 国 内 ・ 国 際 人 口 移 動 の パ タ ー ン を 比 較 検 討 す る 。近 世 に 続 く 近 代 の 範 囲 に つ い て は 各 国 と も お お む ね 合 意 が 形 成 さ れ て お り 、 標 準 的 な 歴 史 教 科 書 で は 近 代 史 の 範 囲 は 次 の よ う に 設 定 さ れ て い る 。
中 国 ア ヘ ン 戦 争 (1840年 ) か ら 中 華 人 民 共 和 国 成 立 (1949 年 ) ま で 日 本 明 治 維 新 (1868年 ) か ら 第 二 次 世 界 大 戦 終 戦 (1945 年 ) ま で 朝 鮮 江 華 島 事 件 (1875年 ) か ら 日 本 統 治 終 了 (1945年 ) ま で 台 湾 日 本 併 合 (1895年 ) か ら 日 本 統 治 終 了 (1945年 ) ま で
近 代 の 開 始 時 点 は 自 動 的 に 近 世 の 終 了 時 点 を 決 定 す る が 、 近 世 の 開 始 時 点 に つ い て は 諸 説 あ り 合 意 が 確 立 し て い な い 。日 本 で は 応 仁 の 乱(1467 年 )、織 田 政 権 の 確 立(1573 年 )、
豊 臣 氏 の 滅 亡(1615年 )等 が 中 世 と 近 世 の 境 界 を な す 事 件 に あ げ ら れ る 。中 国 史 で は 時 代 区 分 と し て の 近 世 を 設 定 し な い 立 場 も 多 い が 、 設 定 す る 場 合 も そ の 開 始 時 点 は 北 魏 の 華 北 統 一 (439 年 ) か ら 宋 の 建 国 (960 年 ) ま で 様 々 な 意 見 が あ る 。 朝 鮮 史 の 近 世 は 、 李 氏 朝 鮮 の 建 国(1392年 )を 以 て 始 ま る と す る の が 一 般 的 で あ る 。本 稿 で は 、次 に 述 べ る 小 農 社 会 化 が 近 世 を 特 徴 づ け る 社 会 変 動 で あ る と 考 え る 。 小 農 社 会 へ の 動 き が 始 ま っ た の は 、 中 国 は 11世 紀 、 朝 鮮 は 15~16 世 紀 、 日 本 は 16~17世 紀 と 考 え ら れ る 。 そ こ で 中 国 は 宋 代 以 降 、 日 本 は 安 土 桃 山 時 代 以 降 を 近 世 と 考 え る こ と に す る 。
2 . 東 ア ジ ア の 小 農 社 会
2-1. 小 農 社 会 へ の 移 行
「 小 農 社 会 」 と は 、 小 規 模 家 族 経 営 の 小 農 が 農 業 生 産 で 支 配 的 な 地 位 を 占 め る 社 会 を 言 う 。 小 農 は も ち ろ ん 古 代 か ら 存 在 し た が 、 中 世 ま で は 大 土 地 所 有 の 貴 族 が 農 奴 ・ 奴 婢 ・ 名 子 ・ 下 人 と い っ た 隷 属 農 民 を 使 役 す る 形 態 や 、 傍 系 親 族 を 含 む 大 家 族 に よ る 大 規 模 経 営 が 主 流 だ っ た 。 小 農 社 会 へ の 移 行 は 近 世 の 西 ヨ ー ロ ッ パ と 東 ア ジ ア で の み 進 行 し 、 他 の 地 域 で は 近 代 化 以 前 に 小 農 経 営 が 支 配 的 に な る こ と は な か っ た ( 中 村 2005)。
東 ア ジ ア の 近 世 は 大 開 墾 時 代 で 、農 業 生 産 と 人 口 の 増 加 が 並 行 し て 進 ん だ 。中 国 で は 11 世 紀 初 頭 に チ ャ ン パ 米 が 導 入 さ れ 、長 江 デ ル タ で 二 毛 作 が 可 能 に な っ た(Ho 1959)。宮 嶋
(1995) は 15 世 紀 の 明 代 前 期 に は 小 農 社 会 化 が 完 了 し た と し て お り 、 新 大 陸 産 作 物 の 導 入 に よ る 第 二 次 農 業 革 命 (16世 紀 以 降 ) は 小 農 社 会 成 立 後 の 変 化 と い う こ と に な る 。
李 憲 昶 (2004) に よ る と 、 朝 鮮 で は 李 朝 前 期 (15~16世 紀 ) に 山 間 平 地 帯 の 開 発 地 に
加 え 、西 海 岸 地 帯 で 干 拓 が 進 ん だ 。16世 紀 に 入 る と 、移 秧 法( 田 植 え )が 慶 尚 道 を 中 心 に 普 及 し 、17世 紀 後 半 以 後 全 国 に 拡 散 し た 。16世 紀 半 ば に は 忠 清 ・ 全 羅 ・ 慶 尚 道 の 開 墾 は 限 界 に 達 し 、 開 発 の 中 心 は 平 安 道 に 移 っ た 。16 世 紀 末 に は 文 禄 ・ 慶 長 の 役 、17世 紀 前 半 に は 丁 卯 ・ 丙 子 胡 乱 と い っ た 戦 乱 に よ り 農 村 は 一 時 的 に 荒 廃 し た が 、 そ の 被 害 か ら は 速 や か に 回 復 し た 。 宮 嶋 (1994) は 、 朝 鮮 の 小 農 社 会 化 は 17 世 紀 に 完 了 し た と し て い る 。18 世 紀 に は 移 秧 法 の 普 及 に 加 え 、 新 大 陸 産 作 物 の 導 入 に よ っ て 農 業 と 人 口 の 同 時 成 長 が 進 行 し た 。 中 村 (2004)は こ の 時 期 に 奴 婢 人 口 が 急 減 し 、小 農 社 会 化 が 進 ん だ と し 、 宮 嶋 と は 意 見 を 異 に す る 。
日 本 で は 16~17世 紀 に 大 河 川 の 中・下 流 域 と 海 岸 部 の 干 拓 地 が 開 発 さ れ た 。木 村(2010) に よ る と 戦 国 大 名 に よ る 治 水 事 業 は 大 規 模 な も の で は な く 、 本 格 的 な 治 水 工 事 が 行 わ れ た の は 慶 長 以 降 で あ る 。 慶 長 ~ 寛 永 期 (1596~1643年 ) に は 大 規 模 灌 漑 工 事 が 完 了 し 、 万 治 ~ 延 宝 期 (1658~80年 ) に 耕 地 面 積 が 急 増 し た 。 宮 嶋 (1994) に よ る と 、 開 墾 直 後 は 従 属 的 労 働 力 を 用 い て 大 規 模 な 直 轄 地 を 経 営 し た が 、 や が て 小 作 人 に 土 地 を 貸 し て 経 営 を 委 ね る よ う に な っ た 。 小 農 社 会 化 は 、 開 墾 が 頭 打 ち に な り 土 地 生 産 性 を 向 上 さ せ る た め の 集 約 化 の 段 階 で 進 行 し た 。日 本 の 場 合 、17世 紀 後 半 に 小 農 社 会 化 が 最 も 急 激 に 進 行 し た と 考 え ら れ る 。
平 野(2010)に よ る と 、大 開 墾 に よ る 耕 地 面 積 の 急 増 は 分 割 相 続 の 可 能 性 を 高 め 、次 三 男 が 分 家 し て 独 立 し た 。 隷 属 労 働 は 下 人 に と っ て 苦 役 で 労 働 意 欲 が 湧 か ず 、 労 働 量 の 季 節 変 動 が 激 し い 農 業 に 年 季 奉 公 人 を 雇 う の は 無 駄 が 多 く 、 採 算 が 合 わ な か っ た 。 結 局 、 集 約 的 農 法 が 可 能 な の は 家 族 労 働 だ け と い う こ と に な る 。 地 主 か ら み て 、 奉 公 人 を 抱 え て 手 作 経 営 を す る よ り 小 作 に 出 し て 小 作 料 を 得 る 方 が 確 実 だ っ た 。 こ の よ う に 大 開 墾 は 小 農 社 会 化 を 促 進 す る が 、中 村(2005)に よ る と 小 農 社 会 が 成 立 す る た め に は 社 会 的 分 業 と 農 業 生 産 力 の か な り の 発 展 が 必 要 で 、 村 落 共 同 体 と 農 村 市 場 の 発 達 が 一 定 の 水 準 に 達 し て い な け れ ば な ら な い 。 東 ア ジ ア と 西 ヨ ー ロ ッ パ 以 外 の 地 域 で は 、 こ う し た 条 件 が 欠 け て い た こ と に な る 。
宮 嶋(1994)は 小 農 社 会 化 を 、近 代 化 を 凌 駕 す る 大 変 動 だ っ た と 評 価 し た 。小 農 社 会 化 の 過 程 で 、 政 治 的 支 配 と 土 地 所 有 の 遊 離 が 進 ん だ 。 支 配 層 は 直 営 地 経 営 を 行 わ な く な る と 同 時 に 、 領 域 的 支 配 権 も 失 っ て 行 っ た 。 中 国 の 士 大 夫 や 朝 鮮 の 両 班 は 官 僚 に な っ て も 領 地 を 与 え ら れ る こ と は な く 、 支 配 層 と し て の 政 治 的 特 権 は な か っ た 。 日 本 の 大 名 ・ 旗 本 の 領 域 的 支 配 権 も 脆 弱 で 、領 地・領 民 は 公 儀 か ら の 預 か り 物 と さ れ 、不 祥 事 に か こ つ け て 転 封 ・ 改 易 の 対 象 と な っ た 。 日 中 朝 と も 現 存 集 落 の 過 半 が 小 農 社 会 化 後 に 形 成 さ れ た こ と 、 士 大 夫 ・ 両 班 ・ 武 士 の 家 族 制 度 が 庶 民 に ま で 普 及 し た こ と も 、 小 農 社 会 化 の 重 要 性 を 際 立 て て い る 。
2-2. 家 族 制 度 と 移 動 性
坂 根 (2010) に よ る と 、 近 代 日 本 の 「 イ エ 」 制 度 は 、 世 界 的 に 珍 し い 独 特 の 家 族 制 度 だ っ た 。「 イ エ 」は 伝 来 の 家 産 を 基 礎 に 家 名・家 業 を 継 承 し て 行 く 集 団 で 、主 に 血 縁 で 結 び つ く が 非 血 縁 成 員 も 含 ま れ る 。 世 帯 構 成 は 直 系 家 族 で 、 地 位 と 家 産 の 継 承 が 完 全 に 一 致 し た 長 子 単 独 相 続 を 特 徴 と し た 。「 イ エ 」は き わ め て 持 続 性 が 高 く 、何 世 代 に も わ た り 同 じ 場 所 で 生 産・生 活 を 続 け る た め 、地 域 内 の「 イ エ 」ど う し が 濃 密 な 社 会 関 係 を 持 つ 日 本 的 な「 ム
ラ 」 社 会 が 形 成 さ れ る 。
単 独 相 続 に よ っ て 、 蓄 積 さ れ た 資 本 や 技 術 が そ の ま ま 継 承 さ れ 、 日 本 の 小 農 経 営 は 頑 健 に な っ た 。 分 割 相 続 で は 、 農 業 経 営 は 世 代 ご と に 分 裂 ・ 断 絶 し て し ま う 。 親 が 獲 得 し た 経 営 資 本 は 分 散 し 、 知 識 ・ 技 術 も そ っ く り そ の ま ま 継 承 さ れ る の は 難 し い 。 そ も そ も 分 割 相 続 地 帯 で は 一 般 に 農 民 の 流 動 性 が 高 く 、 一 箇 所 で 資 本 と 技 術 が 蓄 積 さ れ て 行 く 可 能 性 は 低 い 。 同 じ 土 地 で 何 世 代 に も わ た っ て 経 営 し て 行 く こ と が 確 信 で き る か ら こ そ 、 小 農 自 身 に よ る 土 地 改 良 の よ う な 長 期 投 資 も 可 能 だ っ た 。 さ ら に 「 イ エ 」 制 度 は 、 農 業 ・ 土 地 に 対 す る 特 別 な 観 念 を 形 成 し 、 農 民 の 勤 労 主 義 の 源 泉 と な っ た 。
平 井 (2008)も 日 本 的 な イ エ の 特 徴 と し て 、① 世 代 を 越 え て 永 続 す る 、 ② 家 業 ・ 家 産 を 維 持 す る 、 ③ 単 独 相 続 さ れ る 、 ④ 直 系 家 族 世 帯 を 希 求 す る 、 の 四 点 を あ げ た 。 こ う し た 特 徴 を 備 え た イ エ 制 度 が 西 日 本 で 確 立 し た の は 18世 紀 で 、 新 田 開 発 が 限 界 に 達 し 単 独 相 続 に 移 行 し た こ と が き っ か け と な っ た 。 東 北 日 本 で は 19世 紀 初 頭 に 、 人 口 減 少 危 機 に 対 す る 生 き 残 り 戦 略 と し て 「 イ エ 」 が 確 立 し た 。 こ の よ う に 日 本 的 な イ エ は 、 庶 民 層 で は 近 世 中 期 以 後 に 確 立 し た 。 伴 瀬(2015) に よ る と 、公 家 ・ 武 士 層 で も 嫡 子 単 独 相 続 が 普 及 し 日 本 的 な イ エ の 特 徴 が 揃 っ た の は 意 外 に 遅 く 、 近 世 初 期 の こ と だ っ た 。
い ず れ に せ よ 19世 紀 前 半 に は 、 全 国 的 に 小 農 が 単 独 相 続 に よ っ て 同 じ 土 地 で 何 世 代 に も わ た っ て 経 営 し て 行 く こ と が 規 範 と な っ た 。 こ の よ う に 定 住 を 常 態 と す る 社 会 で は 、 離 村 す る と 次 世 代 に は ム ラ と の 関 係 が 途 絶 え て し ま う 。 中 国 ・ 朝 鮮 の よ う に 輩 行 字 の 慣 行 も な く 、 家 系 図 を 所 持 す る 家 も 稀 な た め 、 自 分 が 何 代 目 か 知 ら な い 当 主 が 大 半 で あ る 。 離 村 者 の 系 譜 的 関 係 を 確 認 す る 手 段 が な い た め 、 宗 親 会 の よ う な 組 織 は 形 成 さ れ な い ( 柿 崎 2008)。
中 国 ・ 朝 鮮 は 移 動 を 常 態 と す る 社 会 で 、 移 動 を 前 提 と し た 制 度 的 装 置 が 発 達 し た 。 朝 鮮 の 宗 族 は 共 同 の 先 祖 祭 祀 に 依 拠 す る 父 系 血 縁 集 団 で 、 共 同 祭 祀 は 一 定 の 近 親 内 で 行 わ れ る が 、 居 住 地 の 遠 近 は 問 わ な い 。 族 譜 や 輩 行 字 が あ る た め 、 各 成 員 の 系 譜 的 関 係 の 確 認 は 容 易 で あ る 。 中 国 の 宗 族 は 財 産 共 有 体 で 、 経 済 的 要 因 が 優 先 す る 。 移 動 に 対 処 す る の は 宗 族 よ り は 幇(bang)で 、 都 市 に は 地 縁 を は じ め 業 縁 ・ 血 縁 ・ 学 縁 に も と づ く 多 様 な 幇 が あ る 。 中 国 社 会 は 宗 族 と 幇 に よ っ て 組 織 さ れ て お り 、 明 ら か に 人 の 移 動 を 前 提 と し て い る ( 柿 崎 2008, 岡 本 2015)。
近 世 日 本 農 村 の 定 住 志 向 は 単 独 相 続 に よ っ て 確 立 し た が 、 中 国 ・ 朝 鮮 で は 開 墾 が 減 速 し て も 単 独 相 続 に 移 行 す る こ と は な か っ た 。 中 国 で は 息 子 が 結 婚 後 も 親 と 同 居 し 、 息 子 間 で 均 分 相 続 す る こ と が 理 想 と さ れ た 。息 子 と そ の 妻 子 か ら 成 る 核 家 族 ま た は そ の 居 室 を「 房 」 と い い , 土 地 は 原 則 と し て 房 の 間 で 均 分 相 続 さ れ た ( 首 藤 2005)。 朝 鮮 で は 17 世 紀 ま で 男 女 均 分 相 続 も 見 ら れ た が( 宮 嶋 1995, 仲 川 2007)、18世 紀 後 半 に は 長 男 が 親 を 扶 養 し 、 次 三 男 よ り 多 く 相 続 す る 分 割 相 続 が 規 範 的 だ っ た( 佐 藤 2004)。長 男 優 待 分 は 長 男 個 人 の 財 産 と み な さ れ 、日 本 の よ う な 家 産 と い う 概 念 は な か っ た( 朴 在 圭 2008)。こ う し た 家 族 制 度 の 違 い が 、 定 住 性 が 強 い 日 本 と 移 動 性 が 高 い 中 国 ・ 朝 鮮 と い う 差 異 に つ な が っ た 。
2-3. 近 代 以 前 の 台 湾 人 口
オ ー ス ト ロ ネ シ ア 語 系 の マ ラ イ ポ リ ネ シ ア 語 族 は 、 西 は マ ダ ガ ス カ ル か ら 東 は イ ー ス タ ー 島 ま で 、 北 は ハ ワ イ か ら 南 は ニ ュ ー ジ ー ラ ン ド ま で 広 が っ て い る が 、 彼 ら は 数 千 年 前 に
台 湾 か ら 出 発 し 拡 散 し て 行 っ た と 考 え ら れ て い る 。祖 語 の 研 究 か ら 、台 湾 原 住 民 が 豚・犬 ・ 米 を 持 っ て い た こ と が わ か っ て い る (Diamond 1997)。明 代 に は 原 住 民 以 外 に 海 商 が 基 地 を 置 い た だ け で 、漢 人 の 農 耕 社 会 は な か っ た 。明 末 に オ ラ ン ダ(1624年 )と ス ペ イ ン(1626 年 )が 競 っ て 台 湾 を 基 地 化 し た が 、1642年 に オ ラ ン ダ が ス ペ イ ン を 追 い 出 し た 。オ ラ ン ダ は 大 陸 か ら 漢 人 を 引 き 入 れ て 開 墾 に 従 事 さ せ た 。 土 地 は す べ て オ ラ ン ダ 東 イ ン ド 会 社 が 所 有 し 、 漢 人 は 土 地 を 借 り て 耕 作 し た 。 こ の と き エ ン ド ウ 、 ト マ ト 、 バ ン レ イ シ 等 の 新 作 物 が 導 入 さ れ た 。 陳 紹 馨 (1979) は 17世 紀 半 ば の 台 湾 人 口 を 10 万 人 程 度 と 推 定 し て い る 。 鬼 頭 (2007) に よ る と 、 ほ ぼ 同 じ 面 積 の 九 州 の 人 口 が 1600年 に 127万 人 だ っ た の で 、 台 湾 の 人 口 密 度 は そ の 10分 の 1 以 下 だ っ た こ と に な る 。 原 住 民 は 原 始 的 な 農 耕 を 行 っ て い た が 、 潅 漑 等 の 農 地 開 墾 は 全 く 進 ん で い な か っ た 。
1662年 、 鄭 成 功 は オ ラ ン ダ 人 を 台 湾 か ら 放 逐 し 、3 代 21 年 に わ た る 鄭 氏 統 治 が 行 わ れ た 。鄭 氏 集 団 は 数 万 人 の 軍 民 を 養 う た め 開 墾 を 重 視 し た 。「 軍 屯 」は 派 遣 さ れ た 軍 民 が 開 墾 す る 形 式 、「 官 墾 」は 本 土 か ら 漢 人 を 招 聘 し て 開 墾 さ せ る 形 式 で 、い ず れ も 台 湾 南 部 が 中 心 だ っ た 。1683年 に 清 朝 が 鄭 氏 政 権 を 打 倒 し 台 湾 を 接 収 す る と 、 渡 航 を 厳 格 に 制 限 し た が 、 漢 人 の 流 入 は 止 ま ら な か っ た 。 福 建 省 泉 州 ・ 漳 州 か ら 開 拓 民 が 来 住 し 、 広 東 省 東 部 か ら は 季 節 労 働 者 が 来 島 す る よ う に な っ た 。朱 一 貴 の 乱(1721)の 際 に 改 め て 台 湾 渡 航 禁 止 令 が 出 さ れ た が 、 不 法 移 民 の 流 入 は 続 い た 。 広 東 省 嘉 応 州 で は 人 口 圧 力 が 高 ま り 、 客 家 の 台 湾 へ の 集 団 移 住 が 生 じ た(Ho 1959)。陳 紹 馨(1979)は 1810年 の 台 湾 人 口 を 200万 人 と 推 定 し て い る 。 中 村 (2004) は 、 台 湾 に 小 農 社 会 が 成 立 し た の は 19世 紀 の こ と と 考 え て い る 。
3 . 近 代 化 と 国 内 ・ 国 際 人 口 移 動
19世 紀 に 欧 米 列 強 の 圧 力 に よ り 東 ア ジ ア 諸 国 は 次 々 と 開 国 し 、西 洋 化・近 代 化 の 道 を 歩 み 始 め た 。 前 述 の よ う に 近 代 の 開 始 時 点 は 、 中 国 は ア ヘ ン 戦 争 (1840年 )、 日 本 は 明 治 維 新 (1868年 )、 朝 鮮 は 江 華 島 事 件 (1875年 )、 台 湾 は 日 本 併 合 (1895年 ) と さ れ 、19世 紀 中 盤 か ら 後 半 に か け て 次 々 と 近 代 に 突 入 し た こ と に な る 。
3-1. 日 本 の 近 代 化 と 人 口 移 動
日 本 の プ ロ ト 工 業 化 は 、 明 治 維 新 に 先 立 つ 19世 紀 前 半 に は 始 ま っ て い た 。19 世 紀 に 入 る 頃 か ら 、 農 民 的 商 品 経 済 の 担 い 手 は 中 下 層 農 に も 広 が り 、 局 地 的 市 場 圏 が 形 成 さ れ た 。 1818( 文 政 1) 年 以 後 の 貨 幣 改 鋳 に よ る イ ン フ レ も 、 こ の 傾 向 を 促 進 し た 。 諸 藩 は 領 内 の 国 産 奨 励 に 力 を 注 ぎ 、19世 紀 前 半 に は 地 方 ご と の 経 済 発 展 が 進 ん だ ( 石 井 1991)。 日 本 で は 定 期 市 か ら 常 設 店 舗 へ 発 展 す る の が 中 国・朝 鮮 よ り 早 く 、17~18世 紀 に 農 村 部 に 小 都 市 が 形 成 さ れ 、 都 市 内 の 商 店 が 農 産 物 販 売 先 と 日 用 品 の 購 入 先 と し て 重 要 性 を 増 し た ( 中 村 2005)。日 本 で は 旧 来 の 株 仲 間 が 大 都 市 で の 取 引 を 独 占 し て い た た め 、農 民 は 手 近 で 製 品 を 売 り さ ば い た 。 そ の た め 人 口 数 千 人 規 模 の 在 郷 町 の 数 が 急 増 し 、 大 都 市 や 城 下 町 は 衰 退 し た 。 こ う し て 都 市 人 口 割 合 は む し ろ 低 下 し た ( 鬼 頭 2007)。
日 本 は 幕 末 の プ ロ ト 工 業 化 を 明 治 期 の 本 格 的 な 産 業 化 に つ な げ る こ と に 成 功 し た が 、 必 ず し も 順 風 満 帆 だ っ た わ け で は な い 。 官 営 事 業 中 心 の 殖 産 興 業 政 策 は 財 政 危 機 と 貿 易 赤 字
を 生 み 、 内 務 省 ・ 工 部 省 直 営 の 事 業 は ほ と ん ど 失 敗 に 終 わ っ た 。1876( 明 治 9) 年 の 金 禄 公 債 証 書 発 行 と 翌 年 の 西 南 戦 争 は 、激 し い イ ン フ レ ー シ ョ ン を 引 き 起 こ し た 。官 営 の 鉱 山・
炭 鉱 ・ 工 場 が 次 々 と 民 間 に 払 い 下 げ ら れ 、政 府 資 金 の 民 間 貸 付 は 大 幅 に 縮 減 さ れ た 。1882
( 明 治 15)年 に 日 本 銀 行 が 開 業 し 、銀 貨 兌 換 の 銀 行 券 を 流 通 さ せ た こ と に よ っ て 、通 貨 制 度 は よ う や く 安 定 し た ( 石 井 1991)。
明 治 の 殖 産 産 業 は 、 地 租 重 課 税 に よ る 小 農 経 営 か ら の 収 奪 に よ っ て 支 え ら れ て い た 。 農 業 か ら 初 期 工 業 へ の 純 資 源 流 出 は 、 小 農 経 営 が 脆 弱 だ と 負 担 に 耐 え ら れ ず 押 し つ ぶ さ れ て し ま う 。坂 根(2010)に よ る と 、日 本 の 小 農 が こ れ に 耐 え ら れ た の は 、 単 独 相 続 に も と づ く 「 イ エ 」 制 度 が 強 い 小 作 農 を 生 ん だ た め で あ る 。 ま た 日 本 的 「 ム ラ 」 社 会 で は 濃 密 な 社 会 関 係 が 形 成 さ れ 、 地 主 = 小 作 間 に 強 い 信 頼 関 係 を 生 ん だ 。 地 主 か ら み て 小 作 農 は 責 任 感 を も っ て 土 地 を 耕 作 し 、 き ち ん と 小 作 料 を 納 入 す る こ と が 確 信 で き た 。同 時 に 地 主 は「 村 」
の 規 範 に よ り 、 む や み に 高 い 小 作 料 を 設 定 で き ず 、 勝 手 に 小 作 地 を 引 き 上 げ ら れ な か っ た 。 こ う し た 日 本 的 な「 イ エ 」「 ム ラ 」の 組 織 力 に よ っ て 農 家 は 負 担 に 堪 え た 。 農 業 生 産 の 増 加 は 耕 地 拡 大 と 土 地 生 産 性 の 向 上 に よ っ て も た ら さ れ 、農 家 の 数 は 1870 年 代 か ら 1930年 代 ま で 550万 戸 前 後 で ほ と ん ど 変 わ ら な か っ た 。 国 勢 調 査 に よ る 第 一 次 産 業 全 体 の 就 業 人 口 も 、1467万 人(1920 年 )→1471万 人(1930年 )→1439万 人 と ほ と ん ど 変 わ っ て い な い 。
人 口 増 加 が 進 行 中 に 農 家 数 や 農 林 漁 業 従 事 者 数 が 変 わ ら な か っ た と い う こ と は 、 次 三 男 の 多 く が 離 農 向 都 移 動 を し て 第 二 次 ・ 第 三 次 産 業 に 就 業 し た こ と を 示 唆 す る 。 実 際 、 産 業 化 と は 第 一 次 産 業 就 業 者 の 割 合 が 低 下 す る 現 象 で あ り 、 必 然 的 に 都 市 化 を 伴 う 。 し か し 近 代 初 期 の 人 口 移 動 で 都 市 化 が 大 勢 を 占 め る と は 限 ら な い 。 図 1 は 1945 年 以 前 の 東 ア ジ ア に お け る 人 口 分 布 の Gini 係 数 だ が 、 日 本 は 1888年 の 0.447か ら 1913年 の 0.433 ま で 低 下 し 、 そ こ か ら 上 昇 に 転 じ て い る 。 つ ま り 明 治 期 の 人 口 分 布 は 、 む し ろ 均 等 化 に 向 か っ て い た 。
こ れ は 北 海 道 の 開 拓 が 都 市 化 を 上 回 る 影 響 を 人 口 分 布 に 与 え て い た た め で あ る 。表 1 に 見 る よ う に 、1920年 ま で 北 海 道 の 人 口 増 加 率 は 常 に 1位 で 、東 京・大 阪 と い っ た 大 都 市 の 増 加 率 を 圧 倒 し て い た 。 こ の よ う に 辺 境 の 開 拓 の 影 響 が 都 市 化 の 影 響 を 上 回 る 事 例 は 、 他
( 資 料 )
日 本 : 総 務 省 統 計 局 「 日 本 の 長 期 統 計 系 列 」.
朝 鮮 : 善 生 永 助 (1925) 『 朝 鮮 の 人 口 研 究 』 ( 金 哲, 1965 に 引 用 ) 、김 두 섭 ・ 외 편 (2002) 『 한 국 의 인 구 』 통 계 청 .
台 湾 : 国 勢 調 査 、 台 湾 総 督 府 統 計 書.
中 国 : 趙 文 林 ・ 謝 淑 君(1988)『 中 国 人 口 史 』 人 民 出 版 社 ( 上 田, 1995に 引 用 )、 南 ・ 牧 野(2014)
0 0.1 0.2 0.3 0.4 0.5 0.6 0.7 0.8
1845 1855 1865 1875 1885 1895 1905 1915 1925 1935 1945
図1.東アジア諸国のGini係数:1845~1945年
日本 朝鮮 台湾 中国
の 国 で も 多 い と 考 え ら れ る 。 し か し 1920年 以 降 は 、 北 海 道 へ の 移 住 ブ ー ム も 収 束 に 向 か い 、 東 京 ・ 大 阪 ・ 神 奈 川 ・ 愛 知 ・ 京 都 ・ 兵 庫 と い っ た 大 都 市 圏 の 増 加 率 が 上 位 を 占 め る よ う に な っ た 。 都 市 化 の 影 響 が 優 勢 に な っ た こ と で 、Gini係 数 は 1943年 に は 0.485 ま で 上 昇 し た 。 そ の 後 は 疎 開 に よ る 都 市 か ら の 急 激 な 人 口 流 出 で 、1945年 の Gini 係 数 は 0.413 ま で 低 下 し た 。 こ の こ と は 1940~45年 の 人 口 増 加 率 の 高 い 都 道 府 県 に 大 都 市 圏 が 登 場 し な い こ と か ら も 確 認 で き る 。
表1. 年平均人口増加率が高い都道府県:1884~1945年
期間 全国(%) 1位 ( %) 2位 ( %) 3位 ( %) 4位 ( %) 5位 ( %)
1884~88年 1.42 北海道 (7.87) 東京 (4.12) 宮城 (3.39) 神奈川 (2.79) 群馬 (2.41) 1888~93年 0.87 北海道 (8.60) 東京 (3.50) 沖縄 (2.41) 福島 (1.54) 栃木 (1.54) 1893~98年 1.11 北海道 (10.47) 東京 (3.14) 神奈川 (2.59) 大阪 (2.46) 長崎 (2.17) 1898~03年 1.28 北海道 (5.33) 東京 (3.69) 神奈川 (2.53) 大阪 (2.44) 長崎 (2.19) 1903~08年 1.15 北海道 (5.87) 東京 (3.56) 大阪 (3.06) 神奈川 (2.23) 長崎 (1.65) 1908~13年 1.42 北海道 (4.53) 大阪 (2.23) 京都 (2.14) 宮崎 (2.07) 福岡 (2.03) 1913~18年 1.02 北海道 (4.42) 東京 (3.52) 大阪 (3.31) 福岡 (1.94) 神奈川 (1.71) 1918~20年 0.27 北海道 (7.31) 東京 (5.24) 福岡 (4.84) 神奈川 (3.03) 兵庫 (2.75) 1920~25年 1.31 東京 (3.93) 大阪 (3.41) 愛知 (2.11) 京都 (1.79) 宮城 (1.66) 1925~30年 1.53 東京 (3.82) 大阪 (2.96) 神奈川 (2.71) 北海道 (2.39) 愛知 (2.05) 1930~35年 1.45 大阪 (3.95) 東京 (3.33) 神奈川 (2.58) 愛知 (2.20) 兵庫 (2.01) 1935~40年 0.76 神奈川 (3.24) 東京 (2.72) 福岡 (1.99) 大阪 (1.97) 愛知 (1.73) 1940~45年 0.02 栃木 (5.44) 埼玉 (5.28) 山梨 (5.21) 奈良 (5.04) 長野 (4.73)
江 戸 の 人 口 は 18世 紀 初 頭 に100万 人 を 超 え て い た と さ れ る が ( 杉 山 1995)、1889
( 明 治 22)年 に 市 制 が 導 入 さ れ た 時 の 人 口 は139万 人 だ っ た( 日 本 帝 国 民 籍 戸 口 表 )。そ の 間 常 に100万 人 を 維 持 し た か は 分 か ら な い が 、1920年 国 勢 調 査 時 点 で は 人 口 217万 人 を 擁 し 、2位 の 大 阪 市 (125 万 人 ) を 圧 倒 す る 巨 大 都 市 に 成 長 し て い た 。そ の 後 に 起 き た 関 東 大 震 災(1923年 )の 影 響 は 、表 1の 東 京 府 の 人 口 増 加 率 に は 見 ら れ な い が 、 表 2 の 都 市 別 人 口 ラ ン ク に は 明 瞭 に 現 れ て い る 。1925年 ・1930 年 の 二 回 の 国 勢 調 査 に わ た っ て 東 京 市 の 人 口 は 停 滞 し 、 日 本 最 大 都 市 の 地 位 を 大 阪 市 に 譲 っ た 。こ れ に は 1925 年 に 大 阪 市 が 隣 接 2郡( 現 在 の 西 成 区・西 淀 川 区・東 淀 川 区・東 成 区 ・ 住 吉 区 ) を 編 入 し た 影 響 も あ る 。 一 方 東 京 市 も 1932年 に 隣 接 5郡 を 編 入 し 、 現 在 の 品 川 区 ・ 目 黒 区 ・ 大 田 区 ・ 世 田 谷 区 ・ 渋 谷 区 ・ 中 野 区 ・ 杉 並 区 ・ 新 宿 区 ・ 豊 島 区 ・ 北 区 ・ 荒 川 区 ・ 板 橋 区 ・ 練 馬 区 ・ 足 立 区 ・ 墨 田 区 ・ 葛 飾 区 ・ 江 東 区 ・ 江 戸 川 区 と な っ た 。 東 京 市 の 人 口 は 1925~30 年 に 3 倍 近 く 増 え 、 再 び 大 阪 市 を 圧 倒 す る 日 本 最 大 の 都 市 に 返 り 咲 い た 。 名 古 屋 市 は1921年 の 合 併 で 1925年 に は 京 都 市 を 追 い 越 し 、日 本 第3位 の 大 都 市 と な っ た 。 1940年 に は 神 戸 市 に 代 わ っ て 横 浜 市 が 第 5位 に 進 入 し 、人 口・物 流 と も 東 京 圏 へ の 集 中 が 進 ん だ こ と を 示 唆 す る 。
表2. 人口が多い都市:日本(1920~40年)
年次 1位 2位 3位 4位 5位
1920年 東京市 大阪市 神戸市 京都市 名古屋市
(2,173,201) (1,252,983) (608,644) (591,323) (429,997)
1925年 大阪市 東京市 名古屋市 京都市 神戸
(2,114,804) (1,995,567) (768,558) (679,963) (644,212)
1930年 大阪市 東京市 名古屋市 神戸市 京都市
(2,453,573) (2,070,913) (907,404) (787,616) (765,142)
1935年 東京市 大阪市 名古屋市 京都市 神戸市
(5,875,667) (2,989,874) (1,082,816) (1,080,593) (912,179)
1940年 東京市 大阪市 名古屋市 京都市 横浜市
(6,778,804) (3,252,340) (1,328,084) (1,089,726) (968,091)
第 二 次 大 戦 以 前 の 日 本 で は 、 東 京 ・ 大 阪 ・ 名 古 屋 ・ 京 都 ・ 神 戸 ・ 横 浜 の 6大 都 市 の 人 口 が 突 出 し て お り 、 他 の 地 方 都 市 を 圧 倒 し て い た 。1925~40年 の 間 、 第 7 位 は 広 島 市 だ っ た が 、1940年 の 人 口(34万 人 )は 第 6位 の 神 戸 市(97万 人 )の 36%に 過 ぎ な か っ た 。第 8位 の 福 岡 市 (31万 人 )、 川 崎 市 (30万 人 ) ま で が 30万 人 を 超 え て お り 、 そ れ 以 外 に 20 万 人 以 上 は 長 崎 市 (25 万 人 )、 仙 台 市 (22 万 人 )、 静 岡 市 (21 万 人 )、 札 幌 市 (21 万 人 ) の 4 市 だ け だ っ た 。
図2に 示 し た 入 国 超 過 率 の う ち1920年 以 前 は 内 閣 統 計 局『 明 治 五 年 以 降 我 国 の 人 口 』( 調 査 資 料 第 三 集 ,1930年 )に 示 さ れ た 日 本 人 人 口・人 口 増 加 数・自 然 増 加 数 か ら 求 め 、1920 年 以 後 は 総 務 省 統 計 局 の 現 在 推 計 人 口 が 推 計 し た 総 人 口 ・ 人 口 増 加 数 ・ 自 然 増 加 数 か ら 求 め た 。 い ず れ も 国 立 社 会 保 障 ・ 人 口 問 題 研 究 所 の 『 人 口 統 計 資 料 集 』 に 掲 載 さ れ た 値 に 依 拠 し た 。19世 紀 に は ご く 小 さ な 日 本 人 の 出 国 超 過 が 続 き 、目 だ っ た 帰 国 ブ ー ム は 見 ら れ な い 。日 清 戦 争 が 終 わ り 台 湾 を 併 合 し た 1895年 か ら 0.5‰ を 上 回 る 出 国 超 過 が 続 い た が 、日 露 戦 争 が 勃 発 し た 1904年 に は 一 時 的 な 帰 国 ブ ー ム が あ っ た と 思 わ れ る 。 そ の 後 は 朝 鮮 の 保 護 国 化 と 併 合 、 日 本 資 本 の 中 国 進 出 等 に よ る と 見 ら れ る 出 国 ブ ー ム が あ り 、1‰ を 超 え る 出 国 超 過 率 が 続 い た 。
-12 -10 -8 -6 -4 -2 0 2
1870 1880 1890 1900 1910 1920 1930 1940
(‰)
図2.日本の入国超過率:1873~1944年
入国超過率(日本人) 入国超過率(総人口)
1920~35年 の 間 は 入 国 超 過 率 の 絶 対 値 は 1‰ を 下 回 っ て お り 、日 本 人 の 出 国 超 過 と 外 国 人 の 入 国 超 過 が 均 衡 し て い た と 考 え ら れ る 。し か し 1930年 代 後 半 か ら は 2‰ を 超 え る 大 規 模 な 出 国 超 過 が 続 き 、 盧 溝 橋 事 変 (1937年 ) か ら 真 珠 湾 攻 撃 (1941年 ) と 戦 局 が 激 化 す る に つ れ 、 上 下 動 を 含 み な が ら も 増 大 し た 。
表 3 は 塩 出 (2015) に 引 用 さ れ た 外 務 省 調 査 部 等 に よ る 1940 年 の 在 外 邦 人 数 と 、 若 槻
(1995) に 引 用 さ れ た 厚 生 省 社 会 援 護 局 に よ る 1945~95年 の 引 揚 数 で あ る 。 後 者 は 上 陸 時 に 引 揚 手 続 き を し た 者 の み で 、手 続 き を 経 ず に 帰 還 し た 者 は 含 ま れ な い 。1940年 に は 内 地 人 口 7181 万 人 の 4.6%に 該 当 す る 332.3 万 人 が 属 領 や 外 国 に 居 住 し て い た が 、終 戦 時 に
は 629.5万 人 ま で 膨 張 し た こ と に な る 。 引 揚 総 数 で 最 も 多 い の は 中 国 か ら の 155.9 万 人 、 一 般 邦 人 に 限 れ ば 満 洲 か ら の 121.9 万 人 で あ る 。 ソ 連 か ら の 引 揚 に は 千 島 ・ 樺 太 の 29.3 万 人 が 含 ま れ て い る が 、 多 く は 終 戦 時 に 満 洲 に 滞 在 し て い た と 考 え ら れ る 。 ソ 連 は 1945 年 8 月 9 日 に 満 洲・朝 鮮 北 部 に 侵 攻 し た が 、そ の 際 捕 虜 と な り シ ベ リ ア に 抑 留 さ れ た 約 65 万 人 が シ ベ リ ア に 抑 留 さ れ 、47万 人 が 帰 国 し た 。 一 般 邦 人 の 帰 国 者 29.7 万 人 の ほ と ん ど は 、 樺 太 ・ 千 島 か ら の 帰 還 と 思 わ れ る 。
満 洲 か ら の 引 揚 者 は 127.1 万 人 だ が 、 関 東 州 ( 大 連 と 満 鉄 附 属 地 ) を 含 む 満 洲 の 人 口 は 1940年 に 既 に100万 人 を 超 え て い た 。表 4は 関 東 州 以 外 の 満 洲 国 に 居 住 す る 日 本 人 人 口 の 推 計 値 で あ る 。19世 紀 末 か ら 日 露 が 満 洲
で の 勢 力 を 競 っ た が 、 日 露 戦 争 後 に 日 本 が 優 勢 に な る と 日 本 人 移 民 が 増 え 始 め た 。 ポ ー ツ マ ス 条 約 で 日 本 は 関 東 州 を 獲 得 し 、 鉄 道 沿 線 を 「 絶 対 的 排 他 的 行 政 権 」 を 有 す る 附 属 地 と し 、 南 満 洲 鉄 道 株 式 会 社 が 行 政 を 担 当 し た 。 ま た 日 中 が 1905年 締 結 し た 「 満 洲 に 関 す る 条 約 」 に よ り 、 満 洲 各 地 の 都 市 が 「 開 放 地 」 に 設 定 さ れ 、 日 本 人 の 居 住 が 認 め ら れ た 。1915年 の 対 華 21 カ 条 要 求 で 日 中 が 締 結 し た 「 南 満 洲 及 東 部 内 蒙 古 に 関 す る 条 約 」 に よ り 、 日 本 国 籍 保 有 者 は 南 満 洲 に お け る 移 動 ・ 居 住 ・ 営 業 の 自 由 と 土 地 商 租 権 を 獲 得 し た 。た だ し 満 洲 事 変(1931年 )直 後 ま で は 、 ほ と ん ど の 日 本 人 が 関 東 州 と 満 鉄 附 属 地 に 居 住 し て い た ( 塩 出 2015)。 高 岡 ・ 上 原 に よ る と 1910年 に 7.6 万 人 だ っ た 在 満 日 本 人 は 、1930 年 に は 22.9 万 人 ま で 増 加 し た 。
1932年 3月 に 建 国 さ れ た 満 洲 国 で は 、 国 際 社 会 に 民 族 自 決 原 則 の 遵 守 を 説 明 す る た め 、 民 族 協 和 の 理 念 を 採 用 し た 。 こ の た め に は 日 本 人 が 日 本 国 籍 を 離 脱 し 、 他 民 族 と 共 に 満 洲 国 民 と な る こ と が 必 要 と 考 え ら れ た 。 し か し 日 本 国 籍 放 棄 に 対 す る 反 発 が 強 く 、 結 局 満 洲 国 で は 国 籍 法 は 制 定 さ れ な か っ た 。 ま た 、 満 洲 国 で は 各 年 の 人 口 統 計 と し て は 『 現 住 戸 口
表3. 在外邦人数と引揚数
地域 在外邦人数 備考
(1940) 総計 軍人・軍属 一般邦人
ソ連 381,614 766,441 469,793 296,648 樺太・千島を含む 満洲 1,065,072 1,271,479 52,833 1,218,646 関東州を含む 中国 284,680 1,559,238 1,058,745 500,493 香港を含む 朝鮮 689,747 919,904 206,600 713,304
台湾 346,663 479,544 157,388 322,156 東南アジア 36,467 892,526 807,081 85,445 太平洋諸島 81,011 130,968 103,462 27,506 その他 437,884 275,104 251,509 23,595 総計 3,323,138 6,295,204 3,107,411 3,187,793
注) 1940年在外邦人数は塩出(2015)、引揚数は若槻(1995)による。
引揚数 (1945~95)
表4. 在満日本人人口の推計値(千人)
年次 高岡・上原(1943) 山中(2005) 塩出(2015)
1910 76
1915 102
1920 160
1925 188
1930 229
1932 587 1) 1933 40 179
1934 79 242
1935 552 133 319
1936 197 393
1937 1,399 1) 418
1938 522 522
1939 643 642
1940 862 862 1941 1,051 1,017 1942 1,149 1,097
1943 1,148
1) 朝鮮人を含む
塩出(2015)の原資料は小林英夫(2002)『日本人の海外活動 に関する歴史的調査』
統 計 』 が あ る の み で 、1932~37 年 の 在 満 日 本 人 人 口 は 論 者 に よ っ て 大 き な 差 が あ る 。 満 洲 へ の 集 団 開 拓 移 民 の 送 出 は 1932 年 か ら 始 ま り 、1936 年 ま で に 2,785 戸 の 送 出 を 記 録 し た 。満 洲 開 拓 第 一 期 五 ヶ 年 計 画(1937~41年 )で は 10 万 戸 を 送 出 す る 計 画 だ っ た が 、 日 中 戦 争 の 勃 発(1937 年 )で 多 数 の 兵 員 を 応 召 し た た め 、国 内 農 村 で 人 手 不 足 を 生 じ 、応 募 者 は 当 初 計 画 を 下 回 っ た 。 そ れ で も 5 年 間 に 42,636戸 の 開 拓 農 民 と 、97,030 人 の 青 年 義 勇 隊 員 が 渡 満 し た ( 喜 多 1944)。1941 年 時 点 の 定 住 者 数 は わ か ら な い が 、 定 着 率 と 世 帯 規 模 を 大 目 に 見 積 も っ て も 20 万 人 程 度 と 思 わ れ 、 在 満 日 本 人 の 20%以 下 と な る 。 開 拓 移 民 送 出 後 も 、 在 満 日 本 人 の 主 力 が 都 市 在 住 の ホ ワ イ ト カ ラ ー と そ の 家 族 だ っ た ろ う 。
日 清 戦 争 後 、 日 本 は 天 津 ・ 漢 口 ・ 杭 州 ・ 蘇 州 ・ 重 慶 に 日 本 租 界 を 開 設 し 、 上 海 で も 英 米 と 共 に 共 同 租 界 を 形 成 し た 。義 和 団 の 乱(1900年 )で は ロ シ ア と 共 に 最 も 多 く の 兵 力 を 派 遣 し 、 第 一 次 世 界 大 戦 で は 山 東 省 に 進 出 し 、 対 華 21カ 条 要 求 で ド イ ツ が 持 っ て い た 権 益 を 継 承 す る こ と を 中 国 に 認 め さ せ た 。 こ の よ う な 過 程 を 経 て 、 満 洲 と 共 に 中 国 本 土 へ の 日 本 人 移 民 も 増 え た 。 ま た 盧 溝 橋 事 件 後 は 、 北 支 開 発 ・ 中 支 振 興 ・ 華 北 交 通 と い っ た 国 策 会 社 が 設 立 さ れ 、 大 量 の 日 本 人 が 中 国 に 渡 っ た ( 若 槻 1995)。 表 3の 中 国 か ら の 引 揚 数 は 155.9万 人 だ が 、 う ち 2/3の 105.9 万 人 は 終 戦 時 の 残 存 兵 力 で あ る 。 一 般 邦 人 の 引 揚 数 は 50万 人 だ が 、 そ れ で も 1940年 の 在 中 日 本 人 28.5 万 人 の 2倍 近 く に 増 え て い た 。
日 本 は 太 平 洋 戦 争 に 先 立 ち 1941年 7月 仏 領 イ ン ド シ ナ に 進 駐 し 、12月 の 宣 戦 布 告 と 同 時 に 英 領 マ レ ー に 侵 攻 し 、1942年 2月 に は シ ン ガ ポ ー ル を 占 領 し た 。ま た 米 領 フ ィ リ ピ ン に 上 陸 し て 米 軍 を 放 逐 し 、1942 年 上 半 期 に は フ ィ リ ピ ン 全 土 を 占 領 し た 。3月 に は ジ ャ ワ 島 に 上 陸 し 、オ ラ ン ダ 軍 を 降 伏 さ せ た 。1942年 中 に 日 本 軍 に よ る 占 領 地 域 は ニ ュ ー ギ ニ ア 北 部 か ら ビ ル マ に 至 る 広 範 囲 に 拡 大 し た 。 塩 出 (2015) に よ る と 1940年 時 点 の 米 領 フ ィ リ ピ ン ・ 仏 領 イ ン ド シ ナ ・ 英 領 マ レ ー ・ 蘭 領 東 イ ン ド お よ び タ イ 王 国 の 居 留 邦 人 は 3.6 万 人 で 、 表 3 の 一 般 邦 人 引 揚 数 (8.5 万 人 ) ま で の 増 加 は 占 領 地 の 拡 大 過 程 で 生 じ た 。 こ れ に 加 え て 、 終 戦 時 に 80.7 万 人 の 残 存 兵 力 が あ っ た 。
朝 鮮 か ら 引 揚 げ た 日 本 人 数 は 統 計 に よ っ て 偏 差 が 大 き い が 、 李 淵 植(2015)に よ る と 92~100 万 人 と さ れ る 。 表 3の 92万 人 は そ の 低 い 方 に 当 た り 、 こ れ 以 外 に 他 地 域 か ら 引 揚 げ た り 、 引 揚 手 続 き を 経 ず に 帰 還 し た 者 が 数 万 人 い る 可 能 性 が あ る 。 一 般 邦 人 の 引 揚 数 は 71.3 万 人 で 、1940年 の 在 朝 日 本 人 数 69 万 人 か ら あ ま り 増 え て い な い 。
鎖 国 中 に 唯 一 日 本 人 が 居 留 し て い た 外 国 が 朝 鮮 で 、 釜 山 の 草 梁 倭 館 に 対 馬 藩 士 が 常 駐 し て い た が 、そ の 行 動 は 出 島 の オ ラ ン ダ 人 よ り さ ら に 制 限 さ れ て い た 。 日 本 人 は 10万 坪 の 敷 地 か ら 夜 間 外 出 で き ず 、 日 中 で も 釜 山 鎮 と の 間 の 関 門 よ り 先 に 行 け な か っ た 。日 朝 修 好 条 規 附 録(1876 年 )で 倭 館 の 敷 地 が 引 き 続 き 日 本 人 の 居 住 に 供 さ れ る
表5. 朝鮮の総人口と日本人人口
年次 総人口 日本人人口 日本人(%) 出所
1883 4,003 石井(2016)
1885 4,521 〃
1889 3,494 〃
1893 8,871 〃
1906 13,023,029 83,315 0.64 石(1972)
1910 13,313,017 171,543 1.29 朝鮮総督府統計年報 1915 16,278,389 303,659 1.87 〃
1920 17,288,989 347,850 2.01 〃 1925 19,522,945 443,402 2.27 国勢調査 1930 21,058,305 527,016 2.50 〃 1935 22,899,038 619,005 2.70 〃 1940 24,362,327 689,747 2.83 〃 原資料 石井は朝鮮総督府(1923)『朝鮮に於ける内地人』、
石は善生永助『朝鮮の人口研究』『朝鮮の人口現象』に依拠
こ と と さ れ 、 対 馬 出 身 者 を 中 心 と す る 日 本 人 コ ミ ュ ニ テ ィ が 形 成 さ れ た ( 石 川 2016)。
表 5 に 見 る よ う に 在 朝 日 本 人 人 口 は 、1883年 の 4000人 か ら 日 露 戦 争 後 の 1906年 に は 8万 人 、日 韓 併 合 が 行 わ れ た 1910年 に は 17万 人 を 超 え た 。以 後 在 朝 日 本 人 は 朝 鮮 人 口 全 体 を 上 回 る 速 度 で 増 加 し 、総 人 口 に 占 め る 日 本 人 の 割 合 は 1910年 の 1.29%か ら 1940年 に は 2.83%ま で 増 え た 。 ア ジ ア に お け る 欧 米 列 強 の 植 民 地 と 異 な り 、 朝 鮮 に は 高 級 官 僚 か ら 娼 婦 や 無 頼 漢 に い た る ま で 、 あ ら ゆ る 階 層 の 日 本 人 が 来 住 し た 。 在 朝 日 本 人 は 、 日 本 の 生 活 習 慣 を そ の ま ま 持 ち 込 み 、 衣 食 住 の 全 て に わ た り 「 内 地 」 と 同 じ 生 活 が 維 持 さ れ た 。 日 本 人 は 都 市 の 特 定 地 域 に 集 住 す る 傾 向 が 強 く 、 少 数 の 日 本 語 に 堪 能 な 朝 鮮 人 以 外 と 接 触 す る 機 会 は な か っ た ( 糟 谷 他 2016)。
在 朝 日 本 人 は 都 市 に 集 中 し て い た と は 言 え 、 農 村 部 に も 村 ご と に 巡 査 、 小 学 校 の 校 長 と 教 師 、 水 利 組 合 と 金 融 組 合 の 職 員 等 5~6 名 が 居 住 し て い た (李 榮 薰 2009)。 こ れ に 対 し 1937年 の ベ ト ナ ム( 人 口 1700万 )に は 、1.1 万 人 の フ ラ ン ス 正 規 軍 と 2920人 の 行 政 官 し か お ら ず 、フ ラ ン ス 人 の 割 合 は 0.8%に 過 ぎ な か っ た 。英 国 の 植 民 地 駐 留 軍 と 官 僚 は 、人 口 比 で 言 え ば さ ら に 小 さ か っ た (Cumings 2005)。
台 湾 は 日 清 戦 争 の 結 果 1895年 に 併 合 さ れ た 日 本 の 最 初 の 植 民 地 で 、表 6に 示 す よ う に 在 台 日 本 人 は 1943年 に は40万 人 弱 ま で 増 え た 。 絶 対 数 は 朝 鮮 よ り 少 な い が 、 総 人 口 に 占 め る 比 率 は 6%で 朝 鮮 の 2 倍 を 超 え る 。 表 3の 一 般 邦 人 引 揚 数 は 32.2 万 人 で 1940年 よ り 減 少 し て お り 、 戦 局 の 悪 化 と 共 に 帰 国 し た り 徴 兵 さ れ る 者 が 多 か っ た の か も し れ な い 。
Barclay (1954)に よ る と 、直 轄 市( 台 北 ・ 基 隆・新 竹・台 中・彰 化・台 南・嘉 義・高 雄・屏 東 )の 人 口 に 占 め る 日 本 人 の 割 合 は 、1920 年 の 20.6%か ら 1940年 に は 19.2%に 低 下 し て お り 、 農 村 部 へ の 浸 透 が 進 ん だ こ と を 示 唆 す る 。 ま た 直 轄 市 で 養 殖 等 の 漁 業 に 従 事 す る 日 本 人 も 多 か っ た 。 当 初 は 日 本 人 は 制 度 的 に も 台 湾 人 か ら 隔 離 さ れ て い た が 、1922年 か ら 中 等 教 育 以 上 は 台 湾 人・日 本 人 の 共 学 を 原 則 と す る よ う に な り ( 許 世 楷 1972)、 日 本 人 と 台 湾 人 の 通 婚 禁 止 は 1932年 に 廃 止 さ れ た
(Barclay 1954)。1941年 に は 初 等 教 育 も「 国 民 学 校 」に 一 本 化 さ れ 、1943年 に は 台 湾 人 に 対 し て も 6年 の 義 務 教 育 が 正 式 に 実 施 さ れ た ( 薛 化 元 2013)。
3-2. 朝 鮮 の 近 代 化 と 人 口 移 動
清 と 日 本 が 開 港 し た 後 も 、 朝 鮮 は 欧 米 列 強 に 門 戸 を 閉 ざ し た 「 隠 者 の 国 」 と し て 残 っ て い た 。 高 宗 ( 在 位 1863~1907年 ) の 父 で 摂 政 と し て 実 権 を ふ る っ た 興 宣 大 院 君 は 、1866 年 に フ ラ ン ス 人 宣 教 師 9 人 を 含 む カ ト リ ッ ク 教 徒 8,000 人 を 処 刑 す る 大 弾 圧 を 行 っ た 。フ ラ ン ス は 山 東 省 に 駐 留 し て い た 極 東 艦 隊 を 派 遣 し て 江 華 島 を 占 領 し た が 、 首 都 進 撃 に 失 敗 し て 撤 退 し た 。 米 国 も 平 壌 で ジ ェ ネ ラ ル ・ シ ャ ー マ ン 号 が 焼 き 討 ち さ れ た 事 件 に 抗 議 し 、 1871年 に ア ジ ア 艦 隊 を 派 遣 し て や は り 江 華 島 を 占 領 し た が 、そ の ま ま 引 き 返 し た 。大 院 君 は 各 地 に 斥 和 碑 を 建 て さ せ 、開 港 交 渉 に 一 切 応 じ な い 姿 勢 を 示 し た 。し か し 大 院 君 は 1873
表6. 台湾の総人口と日本人人口
年次 総人口 日本人人口 日本人(%) 出所
1896 2,587,688 10,584 0.41 陳紹馨(1979) 1900 2,846,108 37,954 1.33 〃 1905 3,039,751 57,335 1.89 国勢調査 1915 3,479,922 135,401 3.89 〃 1920 3,655,308 164,266 4.49 〃 1925 3,993,408 183,840 4.60 〃 1930 4,592,537 228,276 4.97 〃 1935 5,212,426 270,674 5.19 〃 1940 6,077,478 346,663 5.70 〃 1943 6,585,841 397,090 6.03 陳紹馨(1979)
年 の 宮 廷 ク ー デ タ ー で 失 脚 し 、 代 わ っ て 実 権 を 握 っ た 閔 氏 政 権 は 日 本 の 砲 艦 外 交 に よ っ て 1876年 に 日 朝 修 好 条 規( 江 華 島 条 約 )を 締 結 す る に 至 っ た 。こ れ を き っ か け に 欧 米 列 強 は 開 国 の 圧 力 を ま す ま す 強 め 、 つ い に 朝 鮮 は 1882年 の 米 朝 修 好 通 商 条 約 を 皮 切 り に 英 国 ・ フ ラ ン ス ・ ド イ ツ 等 と 次 々 に 条 約 を 締 結 し た 。 こ う し て 釜 山 ・ 元 山 ・ 仁 川 の 居 留 地 に 外 国 人 が 常 住 し 、 従 来 の カ ト リ ッ ク に 加 え プ ロ テ ス タ ン ト の 布 教 活 動 も 始 ま り 、 外 来 文 物 と 海 外 情 報 が 普 及 す る こ と で 朝 鮮 の 近 代 化 が 始 ま っ た 。
開 港 後 の 朝 鮮 は 、 そ の 地 政 学 的 位 置 の た め 清 ・ 日 本 ・ ロ シ ア の 角 逐 の 場 と な っ た 。 朝 鮮 を 属 国 の ま ま 維 持 し よ う と し た 清 国 は 、 日 清 戦 争 に 敗 れ 後 退 し た 。 不 凍 港 を 狙 い 南 下 し た ロ シ ア も 、ポ ー ツ マ ス 条 約(1905 年 )で 朝 鮮 に お け る 日 本 の 優 越 権 を 認 め ざ る を 得 な か っ た 。 日 本 は 朝 鮮 を 保 護 国 と し 、 結 局 1910年 に 併 合 し た 。 こ う し て 朝 鮮 の 近 代 化 の 主 な 部 分 は 、 日 本 に よ っ て 行 わ れ る こ と に な っ た 。
表7. 朝鮮の市道別、年平均人口増加率:1904~44年(%)
市道 1904~25年 市道 1925~30年 1930~35年 1935~40年 1940~44年
全国 5.8 全国 1.5 1.7 1.2 1.6
京五部 2.8 ソウル市 2.1 2.9 16.1 1.4
京畿道 4.4 釜山市 6.5 4.6 6.5 7.2
江原道 6.1 大邱市 4.0 2.9 10.7 3.7
忠清道 4.9 仁川市 3.9 4.0 15.6 5.7
全羅道 6.5 光州市 10.7 6.7 3.4 6.3
慶尚道 6.7 大田市 26.2 7.2 3.1 13.9
黄海道 7.8 京畿道 1.1 2.5 -1.8 1.8
平安道 5.8 江原道 2.2 1.5 1.9 1.3
咸鏡道 4.9 忠清北道 1.2 1.3 -0.3 0.9
忠清南道 1.3 1.9 0.6 1.1
全羅北道 1.9 1.3 -0.1 1.1
全羅南道 1.6 1.5 1.0 0.9
慶尚北道 0.6 1.1 -1.4 1.1
慶尚南道 0.8 0.8 -0.7 1.2
済州道 0.3 -0.1 0.6 0.9
黄海道 0.8 1.9 1.6 2.7
平安北道 1.4 2.0 3.8 0.8
平安南道 2.0 1.8 -0.6 3.1
咸鏡南道 2.2 1.8 1.8 1.8
咸鏡北道 3.5 2.7 5.3 0.5
出所) 1904年の市道別人口は金哲(1965)に引用された善生永助(1925)『朝鮮の人口研究』による。
1925~44年の市道別人口は김 김 김, 김 (2002)の付表による。
図 1 に よ る と 朝 鮮 で は 1904~25年 に Gini 係 数 が 上 昇 し 、人 口 が 偏 在 化 し た よ う に 見 え る 。し か し 表 7に よ る と 京 五 部( 現 ソ ウ ル 市 )と 京 畿 道 の 人 口 増 加 率 が 異 常 に 低 く 、1904 年 の デ ー タ に 問 題 が あ る と 思 わ れ る 。 そ も そ も 善 生 (1925) に よ る 1904年 の 道 別 人 口 は 著 し く 過 小 評 価 で 、そ の た め 年 平 均 増 加 率 が 高 く な っ て い る 。1925年 以 降 は 国 勢 調 査 に 基 づ き 、 韓 国 の 人 口 学 者 が 現 在 の 行 政 区 域 に 組 み 替 え た も の で 、 平 壌 ・ 元 山 と い っ た 北 朝 鮮 の 都 市 は 道 か ら 分 離 さ れ て い な い 。図 1 の Gini 係 数 は 1925~44年 の 間 に 低 下 し 、む し ろ 人 口 分 布 の 平 準 化 が 進 ん だ こ と を 示 唆 す る 。 表 7に よ る と 都 市 化 は 進 行 し て い た が 、 咸 鏡 道 や 平 安 道 と い っ た 北 部 の 人 口 増 加 率 が 高 く 、 も と も と 人 口 が 多 か っ た 南 部 の 慶 尚 道 ・ 全 羅 道 の 増 加 率 は 低 い 。こ う し た 道 別 人 口 の 再 配 置 の 影 響 が 都 市 化 の 影 響 を 上 回 り 、Gini 係
数 を 引 き 下 げ た と み ら れ る 。
朝 鮮 で も 都 市 化 が 進 ん だ と は い え 、表8に 見 る よ う に 1944年 ま で100万 都 市 は 現 れ ず 、 京 城( ソ ウ ル )の 人 口 も 日 本 の 6 大 都 市 に 及 ば な か っ た 。1940年 の 平 壌 市 の 人 口 は 日 本 で は 長 崎 市(10 位 )、釜 山 市 の 人 口 は 熊 本 市(15位 ) と 同 程 度 で 、 朝 鮮 の 都 市 化 は 日 本 に 比 べ 初 期 段 階 に あ っ た 。장 세 훈 (2002) は 農 村 の 余 剰 人 口 の う ち か な り の 部 分 が 日 本・満 洲・
サ ハ リ ン 当 国 外 に 流 出 し た た め 、 日 本 時 代 の 都 市 化 は 猶 予 さ れ て い た と し た 。 産 業 化 に 伴 う 第 一 次 産 業 従 事 者 割 合 の 低 下 は あ っ た が 、1940年 に な っ て も ま だ 74.2%を 占 め て お り 、 日 本 (44.3%) と 大 き な 差 が あ っ た 。Cumings (2005)は 、 朝 鮮 は 1945年 に な っ て も 基 本 的 に は 農 耕 社 会 の ま ま だ っ た と 評 価 し た 。
日 本 併 合 初 期 の 土 地 調 査 事 業 で 近 代 的 土 地 所 有 権 が 確 立 す る 過 程 で 、 多 く の 朝 鮮 人 が 土 地 か ら 分 離 さ れ 、 潜 在 的 過 剰 人 口 と な っ た 。 ま た 水 利 組 合 事 業 の た め 農 民 に 過 重 な 組 合 費 を 課 し た こ と も 小 作 化 を 促 進 し た 。 こ う し た 農 民 の 窮 乏 化 と 土 地 喪 失 は 、 朝 鮮 南 部 の 稲 作 地 域 で よ り 深 刻 だ っ た (朴 敬 玉 2015)。表 7に 見 る 慶 尚 道 ・ 全 羅 道 の 人 口 増 加 率 の 低 さ は 、 人 口 圧 力 に よ る 転 出 超 過 を 示 唆 す る 。
日 本 は 1913年 に 朝 鮮 米 へ の 関 税 を 撤 廃 し 、 産 米 増 産 計 画 を 推 進 し て 日 本 移 出 を 前 提 と し た 稲 作 モ ノ カ ル チ ャ ー 化 を 進 め た 。 潅 漑 工 事 と 優 良 品 種 の 普 及 が 進 み 、 米 の 生 産 高 は 増 加 し た が 、そ れ を 上 回 る 速 度 で 日 本 へ の 移 出 量 が 増 加 し た 。朝 鮮 米 の 日 本 へ の 移 出 割 合 は 、 1910年 の 4.7%か ら 1930年 に は 49.5%に 達 し た ( 李 熒 娘 2015)。 多 様 な 農 産 物 の 生 産 と 移 出 で 利 益 を 上 げ た 台 湾 と 異 な り 、 稲 作 モ ノ カ ル チ ャ ー で は 余 剰 人 口 を 吸 収 で き な い 。 台 湾 で は 米 以 外 に サ ト ウ キ ビ ・ 茶 な ど 多 様 な 輪 作 が 行 わ れ た が 、 稲 作 し か な い 朝 鮮 で は 農 閑 期 に 収 入 が 得 ら れ ず 、 過 剰 労 働 力 を 農 村 内 で 吸 収 で き な か っ た ( 中 村 2004)。
農 村 か ら は じ き 出 さ れ た 者 は 都 市 や 北 部 の 農 村 、 国 外 に 向 か っ た 。 特 に 1928~32年 に は 農 産 物 価 格 が 大 暴 落 し 、 多 く の 農 民 が 自 作 地 や 小 作 権 を 失 っ た 。 京 城 を は じ め と す る 都 市 に 流 出 し た 者 は 、 肉 体 労 働 や 小 商 い 、 接 客 業 な ど の 雑 業 労 働 者 に な っ た 。 旅 費 が 工 面 で き る 者 は 日 本 や 満 洲 に 流 出 し た 。 一 部 の 者 は 森 林 地 帯 に 潜 入 し て 不 法 に 焼 畑 耕 作 に 従 事 す る 火 田 民 に な っ た 。 京 城 で は 産 業 化 が 進 ま な い 状 態 で 労 働 需 要 以 上 の 人 口 が 流 入 す る 過 剰 都 市 化 の た め 、 職 に あ ぶ れ た 者 が 集 ま る ス ラ ム 街 が 形 成 さ れ 、 土 幕 と 呼 ば れ る 掘 立 小 屋 が 乱 立 し た 。 軽 工 業 を 中 心 と す る 朝 鮮 人 資 本 の 発 達 は 大 量 の 労 働 需 要 を 喚 起 す る ほ ど で は な く 、 都 市 化 と 産 業 化 の 不 均 衡 が 続 い た ( 糟 谷 他 2016)。
表8. 人口が多い都市:朝鮮(1925~44年)
年次 1位 2位 3位 4位 5位
1925年 ソウル 平壌 釜山 大邱 仁川
(247,404) (70,075) (64,653) (58,411) (41,541)
1930年 ソウル 平壌 釜山 大邱 仁川
(279,865) (116,899) (97,558) (73,060) (52,971)
1935年 ソウル 平壌 釜山 大邱 仁川
(312,587) (154,759) (130,017) (85,453) (67,126)
1940年 ソウル 平壌 釜山 清津 大邱
(775,162) (254,599) (192,215) (165,869) (158,468)
1944年 ソウル 平壌 釜山 仁川 大邱
(824,976) (306,685) (267,187) (190,669) (185,465) 出所) Kwon, et al. (1975)
表9. 在満朝鮮人人口:1910~45年 年次 金哲(1965) 박경숙(2009) 1910 202,070
1915 282,070 270,050 1920 459,427 432,295 1925 531,973 480,363 1930 607,119 602,495 1935 826,570 818,566 1940 1,309,053 1,450,384 1942 1,511,570 1,653,181
1945 1,948,375
原資料) 金哲(1965)は政府公表値,
박경숙(2009)は独自推計。
朝 鮮 の 鉱 工 業 従 事 者 は 、 日 本 よ り 悲 惨 な 状 況 に 置 か れ て い た 。 朝 鮮 の 人 件 費 は 日 本 の 半 分 程 度 で 、 日 本 の よ う な 選 挙 権 や 工 場 法 の よ う な 法 的 な 保 護 も な か っ た 。 日 本 人 ・ 朝 鮮 人 を 問 わ ず 資 本 家 は 、 総 督 府 と 密 着 し て 労 働 者 階 級 を 圧 迫 し た 。 植 民 地 朝 鮮 は 日 本 の 実 業 家 の パ ラ ダ イ ス と 呼 ば れ た が 、 こ れ は 朝 鮮 人 労 働 者 の 生 き 地 獄 と い う こ と を 意 味 し た
(Eckert 1991)。 こ う し て 農 村 だ け で な く 、 都 市 で も 人 口 の プ ッ シ ュ 要 因 が 作 用 し た 。 李 氏 朝 鮮 は 封 鎖 人 口 に 近 か っ た と さ れ る が 、そ れ で も 19 世 紀 後 半 に は 凶 作 と 民 乱 が 続 い た た め 北 部 か ら 満 洲 ・ 沿 海 州 へ の 出 移 民 が 増 え た (권 태 환 2002)。 清 国 も 朝 鮮 北 部 の 貧 民 が 豆 満 江 地 域 を 不 法 占 拠 し て 開 墾 す る 例 が 後 を 絶 た な い た め 、19 世 紀 後 半 か ら は 移 住 者 に 荒 蕪 地 を 開 墾 さ せ る 政 策 に 転 換 し た(박 경 숙 2009)。1910 年 に は 200 万 人 以 上 の 朝 鮮 人 が 満 洲 に 居 住 し て い た 。 表 9 で 金 哲 (1960) の 数 字 は 日 本 外 務 省 や 満 洲 国 国 務 院 に よ る 公 表 値 、박 경 숙(2009)の 数 値 は 推 定 さ れ た 移 住 者 数 と 自 然 増 加 数 を 積 み 上 げ た 推 定 値 で あ る 。 中 華 民 国 が 成 立(1911 年 )す る と 、満 洲 の 農 地 払 下 げ 政 策 や 移 民 奨 励 策 が 本 格 化 し た 。こ れ に よ り 華 北 か ら の 移 民 が 急 増 し た が 、多 く の 朝 鮮 人 も 満 洲 に 渡 っ た 。3.1 独 立 運 動(1919 年 )以 後 は 、満 洲 は 抗 日 基 地 と し て の 性 格 を 強 め た 。し か し 南 満 東 蒙 条 約(1915年 )や 三 矢 協 定(1925 年 )で 中 国 の ナ シ ョ ナ リ ズ ム が 高 揚 す る と 、在 満 朝 鮮 人 に 対 す る 規 制 が 強 化 さ れ 、 戸 口 調 査 と 出 入 国 管 理 が 厳 格 化 さ れ た 。 そ れ で も 朝 鮮 農 村 の 人 口 圧 力 は 強 く 、 朝 鮮 農 民 の 来 住 は 続 い た ( 朴 敬 玉 2015)。
満 洲 国 建 国(1932 年 )以 後 は 、中 華 民 国 や 張 作 霖 ・ 学 良 政 権 に 比 べ て 日 本 国 籍 者 と し て の 朝 鮮 人 に 対 す る 差 別・規 制 は 緩 和 さ れ た 。こ の た め 朝 鮮 人 の 満 洲 移 住 は 加 速 し た が 、1930 年 代 後 半 に は 朝 鮮 人 開 拓 移 民 受 入 政 策 に よ っ て さ ら に 加 速 し た 。 満 洲 国 政 府 は 当 初 国 内 の 治 安・安 定 を 重 視 す る 観 点 か ら 、朝 鮮 人 の 流 入 を 制 限 し 日 本 人 移 民 を 優 先 さ せ よ う と し た 。 一 方 、過 剰 人 口 の 圧 力 に 苦 し む 朝 鮮 総 督 府 は 満 洲 へ の 移 民 を 奨 励 し よ う と し た 。調 整 の 末 、 満 洲 国 政 府 は 1936年 か ら 毎 年 1万 戸 の 朝 鮮 人 移 民 を 招 来 す る 方 針 を 定 め た 。こ う し て 1937
~39年 の 間 に 8.8 万 人 の 朝 鮮 人 開 拓 民 が 入 植 し た 。在 満 朝 鮮 人 人 口 全 体 に 比 べ れ ば 微 少 な 割 合 だ が 、 政 府 の 開 拓 民 招 致 政 策 は 他 の 種 類 の 朝 鮮 人 移 民 も 促 進 し た と 思 わ れ る 。
表10. 在日朝鮮人人口:1910~45年
年次 内務省警保局권태환(2002) 金哲(1965)박경숙(2009) 田村(1977) 田村(1998)
1910 790 1,485 1,659 2,600
1915 3,917 3,989 5,046 5,324 15,734 9,939 1920 30,189 30,175 40,755 40,755 40,755 40,755 1925 129,870 133,170 187,102 181,496 193,468 179,050 1930 298,091 298,091 419,009 419,009 419,009 419,009 1935 625,678 628,678 720,818 720,881 710,234 765,947 1940 1,190,444 1,190,444 1,241,315 1,241,315 1,241,315 1,241,315 1944 1,936,843 1,936,861 1,911,307 1,945,968 2,204,415 2,103,346
1945 2,100,000 2,100,000 2,502,628 2,206,541
原資料)권태환(2002)は이문웅(1966)『세계의 한민족:일본』통일원,
金哲(1965)は朴在一(1957)『在日朝鮮人に関する綜合調査研究』に依拠。
박경숙(2009),田村(1977,1988)は独自推計。
朝 鮮 人 の 日 本 へ の 流 入 は 主 に 併 合 後 の こ と で 、1910 年 時 点 で は ま だ 1,000人 前 後 し か い な か っ た 。表 10 で 内 務 省 警 保 局 の 数 字 は 出 入 国 管 理 に 基 づ く 年 末 在 留 者 数 で 、調 査 漏 れ や