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ス ピ ノ ザ と 悪 の 問 題

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Academic year: 2022

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はじめに   ﹁悪の問題﹂︵problem of evil︶は︑これまでも多くの宗教家や神学者︑また哲学者を魅了してきた︒とりわけ初期近代のヨーロッパにおいて︑この問題は新しい観点から論じられるようになる︒その理由のひとつにデカルト︵René 

Descartes, 1596‑1650︶の提唱した革新的な自然哲学があげられる︒彼の考えによると︑あらゆる物体の運動の背後

には神の意志と力があり︑これが自然法則の不変性を担保する︒しかし神の意志があらゆる運動の原因であるなら ︑﹁稿W・︑﹃﹄︵﹄︵

ス ピ ノ ザ と 悪 の 問 題

││

 

神学・政治的な解決策

 

││

加   藤   喜   之

(2)

ば︑神は悪さえも意志するとみなされてしまう 1︒当然のことながら︑この帰結は神を絶対的な善とみなすキリスト 教と矛盾する︒あくまでキリスト教という枠組みのなかで自然科学の発展を追求した当時の社会において︑これは看過できない問題であった︒こうして﹁悪の問題﹂︑いわゆる﹁神義論﹂︵Theodicy︶は︑この時代に脚光を浴びる

ことになる 2︒   この時代に活躍した哲学者スピノザ︵Baruch Spinoza, 1632‑1677︶も悪について論じている︒ただし︑この主題についての彼の立場は非常に複雑であり︑研究者のあいだでもその解釈は一致していない︒ある研究者は︑ライプニ

ッツ︵Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646‑1716︶やマルブランシュ︵Nicolas de Malebranche, 1638‑1715︶らのように︑スピ ノザも神の善性と世界の悪との関係に関心があったという 3︒しかしこの考えは正しくない︒スピノザの考える神は

善悪を超越する存在であるため︑同時代の哲学者たちのようには悪を問題視していないからだ︒とはいっても︑このユダヤ人哲学者が悪の存在自体を否定したと考えるべきではない︒たとえ神が客観的な意味において善悪を超越

すると論じられたとしても︑人間の主観的な経験における悪が存在しなくなるわけではないからだ︒したがって︑

彼の哲学が一切の悪や苦しみを否定すると論じるメラメッドの解釈は退けられなければならない 4︒むしろスピノザは︑人間の視点における悪の存在を明確に認識しており︑悪をあくまで解決すべき問題として扱う︒実際にそのよ

うな解釈は︑ナドラーやジャレットによって提唱されている︒たとえば前者は︑中世のユダヤ教哲学者にスピノザ

の考えの源泉をみいだし︑宇宙の原理を認識することによって悪を超克することが彼の解決策だと主張した 5︒また後者の理解するスピノザによれば︑宇宙の認識に加えて︑徳を陶冶することで悪は乗り越えられるという 6︒しかし

ながらこれらの主張に従うと︑スピノザの立場は伝統的な哲学や徳の理解とほぼ変わらないものとなり︑デカルト

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の革新的な学説によって生み出された悪の問題の解決になるとはいいがたい︒   以上の議論をふまえた上で︑本稿は悪の問題にたいするスピノザの解決策をデカルトによって生み出された問題

の答えとして捉え︑善悪を超越する神の概念と彼の国家論との関係において検証したい︒第一節では︑スピノザ

における悪の問題の全体像を明らかにするために︑一六六四年から六五年にかけて交わされたブレイエンベルフ

︵Willem van Blijenbergh, 1632‑1696︶との書簡を分析する︒つづく第二節では︑﹃エチカ﹄でスピノザが悪について論

じた箇所に着目し︑伝統的な哲学との理解の違いを確認する︒最後に第三節では︑彼の﹃神学・政治論﹄をひら

き︑キリスト教会と悪の問題の関係に光をあて︑この問題の解決としての国家論に注目したい︒

一  ブレイエンベルフと善悪の基準としての神   一六六四年一二月︑ある人物から一通の手紙がスピノザの元へ届いた︒送り主はドルトレヒトに拠点をもつ穀物

商人ブレイエンベルフ︒彼はカルヴァニストであったが︑デカルトの提唱した新しい哲学に強く惹かれていた︒だからこそ︑スピノザの出版した﹃デカルトの哲学原理﹄とその付録﹃形而上学的思想﹄のオランダ語版︵

︶を入手し︑読み込んだのだろう 7︒彼はその書物が学術的に優れたものであることをすぐさま理解したが︑同時

にそこに潜む危険性も見逃さなかった︒とりわけ悪の問題は︑伝統的なキリスト教の見解を否定しかねない︒それに気づいたブレイエンベルフは︑低地地方の寒さ深まる一二月一二日にスピノザへ書簡を記したのだった︒

  ブレイエンベルフはスピノザの書物にひとつのディレンマを見出した︒彼によると︑もしスピノザが論じるよう

な仕方で神があらゆる事象の原因とみなされるのであれば︑意志のうちに悪は存在しないか︑あるいは神が悪を意

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志することになってしまう︒彼はこの点においてスピノザがデカルトの見解を一歩進めていることに気がついた︒ デカルトによれば︑たしかに神はあらゆる事象の原因であったが︑そこにはまだ人間の意志の自由が担保されている︒したがって神が悪の原因になることはない 8︒しかしスピノザは︑人間の精神の作用もまた神の必然性の下にあ るという 9︒すると人間の意志の自由は否定される︒この考えに従うと︑原罪を生み出したとされるエデンの園での

アダムの行為も神が意志したことになり︑なんら悪でなくなるか︑あるいは神が悪であるという帰結が導きだされてしまう︒これをブレイエンベルフは危惧したのだ︒

  これに対してスピノザは︑悪を意志の一定のあり方とみなすこの商人の考えをそもそも認めない︒というのも︑

存在するすべてのものとその運動は︑それのみにおいていえば完全であり︑そこには善も悪も存在しないからであ

る︒だからアダムの行為もそれ自体で理解されれば︑実を食べるというひとつの完全性をもつ行為であり︑悪とはみなせない A︒

  さらにスピノザは︑悪を神の意志に反する行為とみなすブレイエンベルフの定義を退けた︒というのもスピノザ によると︑﹁神に対して罪を犯す﹂や﹁神を怒らす﹂といった人間の言語表現は︑字義通りに理解されてはならないからである︒むしろそのような表現は︑あくまで﹁人間的な話法﹂︵humano more loquendo︶によるものであり︑

事物の本質や実際の関係を表すものではないというのだ B︒ブレイエンベルフが真理の規範とする聖書は︑まさにこ

の人間的な話法によって記されていた︒聖書とは愚かな民衆に向けて書かれており︑その目的は彼らが道徳的に生きられるようになることである︒そもそも民衆は理性を重んじることなく︑﹁崇高な事柄を理解する能力がない﹂︒

だから︑預言者たちは民衆に対して︑神を王のように描写し︑その王の律法を守るように訴えかけた︒そして守ら

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ないものには刑罰があり︑守るものには報酬があるという﹁まったくのたとえ話﹂︵integras parabolas︶をもちいて民衆に語りかける C︒恐怖と希望によって彼らを指導するためである︒したがって︑聖書に神が何かを命じたと記さ

れていたとしても︑それを字義通りに解釈する必要はない︒むしろ哲学者であれば︑聖書に頼らずとも︑自らの理

性によって真理をみいだせる︒だから彼らは﹁律法に命じられているので徳を行うのではなく︑徳は最もよきものだから﹂徳を愛し︑行えるのだ D︒こうした理解を持たないブレイエンベルフは︑哲学的な真理と聖書の記述を混同

してしまっているとスピノザはいう︒

  それではスピノザのいう哲学的な真理とはどのようなものだろうか︒なるほど全てを司る神の視座からすれば︑ あらゆる人間の行為は神の意志の結果であり︑それゆえ悪でありようがない︒また︑もしその神の意志に反してな

にかが起きるのであれば︑神のなかに不完全性を認めることになる︒丸い四角形が不可能であるように︑スピノザ

はこの矛盾を許容できない︒しかし︑この世界が神の完全な意志によって成立しているという事実は︑ただちに悪

の否定にはならない︒というのも︑この哲学者によると︑人間の視点からすれば︑完全性が欠落した状態を悪とみなすことは可能だからだ︒人間の知性は個物を類にわけ︑その類において優劣を決定する︒たとえば﹁人間﹂とい

う類には︑同一の定義で表現される個物が集められる︒そしてその定義から導きだされる︑最高に完全な﹁人間﹂

の形態を想起することで︑ある人間をより完全︑またある人間を不完全とみなすことができるのだ︒こうしてスピノザはブレイエンベルフに対して︑人間の視点における悪︑あるいは不完全性の概念を提示した︒

  悪の理解をめぐるブレイエンベルフとスピノザの応酬は︑この後もしばらく続く E︒だが両者の立場は︑その前提

において決定的に違っており︑議論は平行線をたどらざるをえない︒この前提は神についてのものであり︑そのた

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め問題の核心は最初の応答でほぼ出尽くしたといってよいだろう︒ブレイエンベルフによると︑神は聖書によって

啓示され︑その神は意志をもつ︒したがって︑この意志に反した人間の行為が悪とみなされる︒これは伝統的なキリスト教の考えであり︑デカルトを含めた他のほとんどの十七世紀の思想家たちも同意できる︒対してスピノザ

は︑聖書によって知られる神を否定した︒むしろ神はあらゆる事象を必然的に司る存在者として認識され︑その神

の視点からすれば悪は存在しない︒ただし︑人間の視点からすれば︑不完全性︑すなわち悪は存在しうるという︒

  こうして徐々に開示されつつあった悪についてのスピノザの見解であったが︑ブレイエンベルフの根本原理が自 らのものと大きく異なっているのが判明するやいないや︑それ以上披露されることはなかった F︒そこで次節では遺

稿﹃エチカ﹄を開き︑悪についてのスピノザの理解をより包括的に検証していきたい︒

二  悪と完全性   ﹃エチカ﹄第四部でスピノザは︑悪の問題を﹁人間の隷属あるいは感情の力﹂との関係において論じている G︒そ の序言で彼は︑﹁感情﹂︵affectus︶を抑制できない人間の無能力を隷属と呼んでおり︑感情に支配されるひとは︑善いものを知りながらも悪を選んでしまう傾向があるという︒しかし︑そもそもこの悪とはどのようなものなのだろ

うか︒スピノザによると︑ひとはなにかを製作するときに︑その作品が完全か不完全かを判断する︒そこには製作

者が理想とする﹁型﹂︵exemplar︶があるからだ︒いつしか人はこれを自然の理解に適用し︑自然を完全︑あるいは不完全とみなすようになった︒そして完全なものを善︑不完全なものを悪とみなす︒だがこれは誤りだとスピノザ

はいう︒というのも︑ブレイエンベルフとの書簡でも確認したように︑自然はあらゆるものを超越した善という原

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理に向かうものではなく︑ただ原理も目的もない多様な運動のなかにあるからだ︒したがって︑自然全体でみれば︑完全性も不完全性も︑また善も悪も存在しない︒だとすると︑スピノザの考えにおいて︑悪は偏見以上の存在

ではないのだろうか︒

  たしかに自然全体でみれば悪は偏見にすぎない︒しかしスピノザは︑少なくとも人間の経験における悪の存在を否定していない H︒彼によると︑人間は自然の一部であり︑その多様な運動にさらされている︒そのなかで人間はみ ずからの存在を維持しようと努める︒こうした努力︵conatus︶︑あるいは活動︵actio︶を阻むものが悪とみなされ

る I︒

  しかし︑もしみずからの活動を阻むものが人間にとっての悪だとするならば︑ひとりひとりの人間にとって異なる悪が存在することになり︑ひいてはお互いの存在さえも悪になりかねない︒だとすると︑これはただちに﹁万人 の万人に対する闘争﹂のような急進的な個人主義に発展してしまわないだろうか︒たしかに﹁徳﹂︵virtus︶を人間 の能力と同一視し︑あらゆる道徳的規範を退ける限りにおいて︑スピノザの悪論はそのような可能性をもっている J︒後述するが︑﹃神学・政治論﹄において発展させられる﹁主権﹂という概念は︑こうした闘争を抑制し︑平和

な政治体を構築するために不可欠だとされることからも明らかだろう︒しかしスピノザはすべての人間に適用で

き︑またさらにすべての人間によって共有可能な善の概念を否定しているわけではない︒むしろ彼は︑徳︑すなわち人間という存在を保持するのに最も適切な活動を理性と密接に関係づけることで︑人間一般にあてはまる善悪に

ついての考えを導きだそうとする︒

  スピノザは徳についてつぎのようにいう︒

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真に有徳的に働くとは︑我々においては︑理性の導きに従って行動し︑生活し︑自己の有を維持する︵この三 つは同じことを意味する︶こと︑しかもそれを自己の利益を求める原理に基づいてすること︑にほかならない K︒

  これによると︑人間の徳とは一定の道徳規範を守ることにあるのではなく︑理性を働かせることにあるという︒ というのも︑理性を働かせ様々な事象を認識する限りにおいて︑人間はその能動性を保持できるからだ︒先述したように人間は︑自然の一部であり︑その多様な運動にさらされる受動的な存在であった︒あらゆる感情︵passiones, affectiones︶は︑その名の通り︑受動的なものである︒だが︑スピノザによると認識という行為︑あるいは活動によ

って人間ははじめて能動的な存在者となれる L︒したがって︑人間は理性の導きに従って活動している時にこそもっ

とも自己の利益を求めており︑自己固有の本性の法則にしたがって働いている︑すなわち有徳的だといえるのだ︒

  このような理性的な活動が人間の徳だとするならば︑その認識の対象は何だろうか︒スピノザは次のようにい

う︒

人生において何よりも有益なのは知性ないし理性をできるだけ完成することであり︑そしてこの点にのみ人間の最高の幸福︑すなわち至福は存在する︒たしかに至福とは︑神の直観的な認識から生じる魂の安堵そのもの

にほかならない︒他方︑知性を完成するとはこれまた神︑神の諸属性︑および神の本性の必然性からなる諸活

動を認識することにほかならない︒したがって︑理性に導かれる人間の最終的な目的︑いいかえれば︑彼が他のすべての欲望を統御するにあたって基準となる最高欲望は︑彼自身ならびに彼の認識の対象となりうる一切

の事物を妥当に理解するように彼を駆る欲望である M︒

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  ここで注目すべきは︑﹁知性を完成する﹂ために必要な﹁神︑神の諸属性︑および神の本性の必然性からなる諸活動﹂についての認識である︒彼にとってこの認識は一体どのようなものなのだろうか︒

  スピノザが﹁神﹂と呼ぶ存在者はキリスト教の神ではない︒これはすでに前節のブレイエンベルフとの議論でみ

た通りである︒むしろこの哲学者は︑神を自然そのものとして理解する︒この自然とは︑本節の冒頭部で論じた︑目的のない自然であり︑多様な運動のなかにあり続けるものであった︒神はまさにあらゆる事物であり︑その事物

同士の競い合う力そのものである︒

  だとすると︑人間はどのようにこの認識を達成できるだろうか︒また︑その達成を阻む悪とはどのようなものだ

ろうか︒スピノザは︑個人と共同体という二つの側面からこの問題に取り組む︒彼によると︑個人としての人間は︑しばしば感情に支配される︒その結果︑理性をうまく働かせられず︑自然を認識できない︒多くの人間はこのよう

な状態で一生を過ごす︒しかし感情ではなく︑理性の導きによって生きることも可能である︒そのためには︑自ら

の精神を理性によって認識し︑感情がどのように働いているのかを理解しなければならない︒実際︑﹃エチカ﹄の第四部で展開される感情についての議論は︑このような精神の隷属状態から読者を解放するために記されていると

いってもよいだろう︒

  ただし︑個人がどれだけ理性的に生き︑自然の認識に人生を費やしても︑それほど多くのものを認識できるわけではない︒自然は無限に広がっているからだ︒この点においてスピノザの考えは︑彼以前の哲学者と大きく異なっ

ている︒もちろん彼以前の哲学者たちも自然を考察の対象にしたが︑彼らが追求したのは︑自然の認識から導きだ

される万物の根本的な原因である神︑あるいは原理の認識だった N︒しかもこの神は自然の原因であっても︑自然そ

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れ自身からは区別されなければならない︒しかしスピノザにとって︑そのような原因として自然を超越する神とい

う観念は︑人間の精神が作り上げた幻でしかない︒むしろ求められるのは︑物質的な自然の﹁諸活動﹂︑すなわち

﹁一切の事物﹂を認識することである︒もし人間の認識の目的がこのような包括的な自然の認識にあるとすれば︑

個人や少数の人間の努力ではとうてい達成できないだろう︒むしろ他者との協力があってはじめて︑そのような認

識は可能になる︒こうして︑スピノザは感情と人間の認識の目的を論じるなかで︑ついに共同体についても論じ始めるのだ O︒

  スピノザによると他者の存在は︑自身の精神の活動を促進することも妨害することもできるという︒多くの場

合︑人間の精神は感情によって導かれている︒その場合︑精神の相互一致はない︒むしろ対立し︑憎しみ合う︒と

いうのも︑感情は外的な対象によって引き起こされ︑多様な形式をとりうるからである P︒また︑感情は移ろいやすい︒このような共同体では︑自然の認識に必要な協力関係を築くのは困難だろう︒

  これに対して︑理性によって導かれている人間は相互一致できる Q︒理性は自然についての認識を追求しており︑ その認識は独占されるものではなく︑むしろ共有できるからだ︒それだけではない︒他者の存在はそのような認識の達成にとり︑なくてはならないものなのである R︒なぜなら︑共に協力することで自然をより多く認識でき︑そう

した認識によって精神の完全性はさらに増幅するからだ︒スピノザは次のようにいう︒

有徳的に働くとは理性の導きに従って行動することである︒そして理性に従って我々のなすすべての努力は認識に向けられる︒それゆえ徳に従う人々の最高の善は神を認識することである︒そしてこれはすべての人々に

共通である善︑かつすべての人間が本性を同じくする限り等しく所有しうる善である︒人間は理性の導きに従

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って生活する時に本性上最も多く一致する︒ゆえに各人が自己に有益なものを最も多く求める時に︑人間は相互に最も有益であるだろう S︒

  同様の点は︑﹃神学・政治論﹄でスピノザが﹁共同体﹂︵societas︶について語った箇所でも強調されている︒少し

長いが引用しよう︒共同体とは︑敵から守られて安全に暮らすためだけでなく︑多くの事柄について便宜を図るためにも大変有益

なものであり︑なくてはならないものでもある︒実際︑もしひとびとがお互いの働きを分かち合おうとしなけ

れば︑いくら自分自身を可能な限り養い︑保ちつづけようとしても︑そのために必要な技能も時間もたりなく

なるだろう︒みんながありとあらゆることに同じようにつうじていられるわけはないし︑ひとは一人では自分が最も必要としているものすら調達しきれなくなるからである⁝⁝まして技能や学問についてはいうまでもな

い︒人間本来のあり方を完成に導くためにも︑また人間の幸福のためにも︑何にもまして必要なのは技能と学

問だというのに T︒   これらの箇所の意図は明らかだろう︒共同体は身体的な益のみならず︑精神の完成にも欠かせない︒分業をし︑

助け合うことで︑様々な便宜をお互いに図ることができるからだ︒さらにいえば︑学問の完成には大量の仕事が必

要であり︑そのために共同作業をする必要がある︒共同作業なしには︑学問の目的である神︑すなわち自然の認識はえられない︒

  このような共同作業についての考えは︑スピノザの広い学問的な交友関係を見ても明らかである U︒彼は︑ホイ ヘンス︵Christiaan Huygens, 1629‑1695︶やオルデンバーグ︵Henry Oldenburg, 1618‑1677︶︑また後者を通じてボイル

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︵Robert Boyle, 1627‑1691︶といった当代きっての自然哲学者たちと交流していた V︒また︑チルンハウス︵Ehrenfried  Walther von Tschirnhaus, 1651‑1708︶やフェルトホイゼン︵Lambert van Velthuysen, 1622‑1685︶︑そしてライプニッツらとも書簡を交わして知見を深めた W︒自然哲学者の共同体は︑このような交わりを通じて個人では知り得ない自然

についての認識を獲得できるのだ︒

  こうして獲得される自然の認識がスピノザにとっての善だとすると︑それを阻む悪にはどのようなものがあるだろうか︒ひとつは︑すでにみたように感情の問題があげられよう︒だが善を成し遂げるために他者との関係に光を

あてる必要があったように︑悪とその解決方法を理解する上でも他者との関係︑すなわちスピノザの共同体の理解

に光をあてなければならない︒そこで最終節では︑スピノザの国家論に注目しながら︑彼の考える悪の問題の解決

方法をみていこう︒

三  悪を克服する自由国家   人間の至高の善は︑自然の認識を共同作業によって得ることだとスピノザはいう︒だとすると︑それを阻む悪とはどのようなものだろうか︒彼はいくつかの悪を念頭においているが︑なかでも重要なのはキリスト教神学者だっ

た︒この時代のオランダ社会では︑自然についての新しい見解を認めず︑哲学の自由な営みを否定する改革派教会

の神学者たちが強い影響力を誇っていたからである︒とりわけデカルトを徹底的に批判した神学者ヴォエティウス︵Gisbertus Voetius, 1589‑1670︶や彼の弟子たちはその急先鋒だった X︒彼らは自らの自然観を﹁モーセの自然学﹂

︵physica mosaica︶と呼び︑アリストテレスの実体形相論やプトレマイオスの天動説を聖書の記述に調和するものと

(13)

理解していた Y︒そのため︑デカルトの哲学を巡りユトレヒト大学やライデン大学では論争が起こり︑当局が介入するような事態に発展していた Z︒こうした論争に彼らは心血を注ぐ︒デカルト哲学を異端と認定できれば︑その支持 者たちの教授資格を剥奪し︑彼らの言論活動を制止できたからだ a︒   スピノザにとり︑神学者や国家による哲学への介入こそが包括的な自然の認識をさまたげる悪だった︒そこで彼は匿名で﹃神学・政治論﹄︵︶を出版し︑哲学の自由︵libertas philosophandi︶の確立を試みる b︒この書物の

なかで彼がまず問題視したのは︑真理の源泉としての聖書という考えである︒神学者たちは︑聖書を神によって与

えられたあらゆる真理の規範とみなしていた︒だから彼らは︑人間の理性によって営まれる哲学を神学に仕える婢

女とみなせたのだ︒この間違った理解を打ち砕くためにスピノザは︑まず神的な﹁啓示﹂︵revelatio︶という概念を

読み替えていく︒

  伝統的にみると︑啓示とは全知全能の神が預言者に授けたものとされ︑その言葉が聖書に記録されていると考え られてきた︒これに対してスピノザは︑預言者を﹁通常以上の鋭い想像力によって﹂︵vividiore imaginatione︶事象について語る人びととみなす c︒もし預言者たちの言葉が神から与えられたものではなく︑彼らの想像力の産物であ

れば︑その言葉に自然についての正確な認識は含まれない︒むしろ︑その時代の偏見やその言語特有の傾向が記録

されることだろう︒

  聖書という書物がこのような性質であるなら︑その言葉の背後に深淵な哲学的真理をみいだす解釈や︑それをそ のまま字義的な真理として受け入れる解釈は排除されなければならない d︒むしろ︑彼らの言葉が記録された文書の 意味を正確に解釈するには︑歴史研究が不可欠となる e︒聖書の特定の巻が書かれた時代を考証し︑著者の背景を調

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べ︑使用されている言語の特性を分析する︒このような歴史的な分析によってあらわになった聖書の教えは︑他人 を愛し︑憐れむという︑共同体における道徳についてのものであった f︒なるほど預言者たちは道徳的な人々であったことから︑愛や正義といった教えは語れるだろう︒だがそこに神や自然についての哲学的な教えは含まれない︒

だとすると︑哲学者たちがみずからの理性をその権威に従属させる必要はない︒こうして自然についての自由な考

察が可能になり︑人間の至高の善をはばむものが取り去られるとスピノザはいう︒

  しかし自然についての自由な考察を可能にするには︑聖書を歴史的に解釈するだけでは十分ではない︒問題はも うひとつ残されていた︒それは教会と権力︵ius︶の関係に関するものだ︒改革派の神学者たちによれば︑教会は公 的な領域において人々が何を信じ︑どのように生きるべきかを決定する権力︵ius circa sacra︶をもつという g︒もち

ろん教会は国家と無関係にこの力を行使できるわけではなく︑国家と協力しなければならない︒だがそれでも教会は︑自らの判断で異端を決定できる︒そしてひとたび異端とみなされた個人や集団は︑国家権力によって罰せられ

る︒しかしスピノザは︑教会にこうした権力をいっさい認めない︒むしろ宗教的な事柄を含むあらゆる法を決定す

る権力は︑国家によって掌握されるべきだと主張した︒

  国家はどのようにしてこの権力を掌握できるのだろうか︒スピノザによると︑人間はみずからの欲望のままに生

きる力を備え持っているが︑そのように生きていては常に生存の危機にさらされてしまう︒そのため︑他者ととも

に生きようとする人間は︑契約を結び︑みずからの力を自分たち以外のものに委ねるよう決定しなければならない︒こうして成立した国家のみが至高の権力︵ius summarum potestatum︶︑すなわち主権を保持できるという h︒この

国家の権力は︑世俗的な事柄のみならず︑宗教的なものにも及ぶ︒神が直接支配している特別な王国は存在せず︑

(15)

あらゆる共同体は人間によって支配されているからだ︒また︑宗教的な礼拝やその精神に基づくあらゆる活動は︑共同体のなかでなされるので︑その平和や利益と両立しなければならない i︒こうして共同体の平和や利益を司る国

家は︑宗教に関する法さえもその支配下における︒

  このようにスピノザが論じたのは︑彼が宗教を軽視していたからではない︒逆である︒彼は宗教がひとびとの最大の関心事のひとつだということを知っており︑だからこそ適切に扱われるべきだと論じたのだ︒一方で︑もし適 切に扱われなければ︑民衆のうちで宗教は迷信となり︑その熱意は哲学の自由を奪う j︒だがもう一方で︑適切に管

理された宗教は人々を理性的にもできる︒スピノザは﹃エチカ﹄で次のように記している︒

民衆は恐れを知らないときに恐るべきものである︒ゆえに少数者の利益ではなく社会全体の利益を考慮した預言者たちが謙遜︑後悔および恭順をいたく奨励したのは怪しむに足りない︒また実際に︑これらの感情に支配

される人々は他の人々よりもはるかに容易に︑ついには理性の導きに従って生活するように︑いいかえれば自

由になって幸福な生活を享受するように導かれることができるのである k︒   この箇所によると︑感情のまま行動する人間ほど共同体の脅威になるものはない︒しかし宗教は民衆に謙遜や恭

順を教えるのに適しており︑その結果︑人間は次第に理性的になれるのだという︒

  国家はこのような性質をもつ宗教をどのように管理すればよいのだろうか︒スピノザによると︑自由によってである︒というのも︑国家は人間の心を支配できないからである l︒したがって︑国家が宗教に関する信条を定めたと しても︑そうした信条は︑単純なものであり︑あらゆる解釈の可能性を残しておいたほうがよい m︒神は存在すると

告白しても︑その神がどのようなものかは︑個人の解釈に任せればよいのである︒もちろん︑スピノザはここで無

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制限に宗教的な自由を認めているわけではない︒哲学の自由を奪うものはいうまでもなく︑宗教に乗じて国家の法 や取り決めに逆らったり︑民衆に政府を憎ませたりすることも︑国家の存在意義を危うくするので禁じられなければならない n︒したがって彼の認める自由は︑あくまで自然の探求を可能にする限りでの自由だった︒

  とはいえ︑公共の場における自由を唱えるスピノザの主張は革新的だったといえよう o︒もちろん古代や中世の哲 学者たちも︑こうした自由について無関心だったわけではない p︒しかし大部分において︑彼らは時の権力が保持する正統信仰に表立って反対すれば︑検閲や弾圧は避けられないという事実を受け入れていたように思われる︒それ

に対して︑近代的な表現の自由にもつながるスピノザの考えの革新性は︑彼の神観︑さらにはその認識手法の新し

さに依拠していたといっても過言ではない︒すでにみたように︑彼の神は無限に広がる自然とその運動である︒そ

の認識を達成するには︑多くの哲学者の協力が必要であった︒それぞれが自然の諸部分を観察し︑分析しなければならない︒また︑それが著作や刊行物として広く流通し︑認識が共有される必要がある︒こうした活動が可能にな

るには︑国家による自由の保証が不可欠である︒スピノザはいう︒

国家とは人間を理性的存在から野獣や自動人形に貶めるためにあるのではない︒むしろ反対に︑ひとびとの心と体がそのさまざまな機能を確実に発揮して︑彼らが自由な理性を行使できるようになるために︑そして憎し

みや怒りや騙し合いのために争ったり︑敵意をつのらせ合ったりしないためにある︒だとすると国家というも

のは︑実は自由のためにあるのである q︒   こうしてスピノザは︑悪の問題の解決を理性の自由な活動を可能にする国家に見出した︒この国家は︑教会や神

学者の権力を制限する︒神学者は愛や正義について語れるが︑自然については黙らなければならない︒また︑人々

(17)

の信仰の対象となる信条を制定するのもこの国家であった︒それによって︑感情に支配されがちな民衆を律すると同時に自由を与え︑ひとびとが理性を行使できるように促す︒そして理性に目覚めた人間は︑哲学的な共同体に加

わることができる︒こうして拡張をつづける哲学者の共同体では︑自由な議論が可能になり︑自然の認識︑すなわ

ち至高善を漸進的に達成できるのだ︒

おわりに

  本稿はスピノザの論じる悪の問題とその解決策を検証してきた︒彼の理解する悪は︑いわゆる﹁神義論﹂にみら

れるようなものとは大きく異なっている︒デカルトに影響を受けた彼と同時代の思想家の多くは︑ブレイエンベルフの例でみたように︑人格をもつ善なる神を想定していた︒そのため︑この神の善性を弁護しつつ︑あらゆる運動

の原因としての神を説明しなければならなかった︒しかしスピノザによると︑悪とは自然についての認識を妨げる

あらゆるものであり︑その筆頭にあげられるのがキリスト教会だった︒彼は至高の権力を国家に認めることで︑教会やその神学者たちの力を制限する︒また︑それにより哲学の自由が生まれる︒こうして︑哲学者の公的な共同体

が広く形成され︑至高善としての︑あらゆる自然現象の解明︑すなわちデカルトによって打ち立てられた近代科学

の営みが可能になるのだ︒

  ただし︑このスピノザの解決策は︑ひとつの大きな問題をはらんでいる︒彼によると︑人間存在を保持する最も

適切な活動は︑理性の使用︑すなわち認識であった︒そして認識の対象は絶対的に無限な神︑すなわち自然であ

り︑制限はない︒なるほど︑大部分の個人︑そして共同体の生活に対して︑こうした理解が害を及ぼすことはない

(18)

だろう︒むしろ人間の﹁最高欲望﹂︵summa Cupiditas︶を認識活動への欲求と措定できれば︑個人と社会を蝕む欲 望︑たとえば金銭欲︑名誉欲︑性欲などを統御できる r︒また︑共同体においても︑ほとんどの場合︑伝統的な愛や正義に矛盾することはない︒国家権力も理性の自由な活動を支援するので︑自由を剥奪し人間を理性的存在から野

獣や自動人形に貶めるような圧政を強いることもないだろう︒理想的な社会が到来するようにもみえる︒

  しかし認識への欲望が︑いわゆる愛や正義に反する活動を求めたらどうだろうか︒スピノザが認識対象とする

﹁一切の事物﹂には人間も含まれる︒すると︑たとえば人間身体を事細かに認識するために人体実験が最も有効で

あったら︑スピノザはそれを許可しないだろうか︒あるいは︑クローン技術の発展のために︑実際にクローン人間

を制作し︑さらにそのクローンを様々な状況下におきその反応を観察することも可能になるだろう︒認識を生業と

する科学者の集団にとり︑こうした﹁最高欲望﹂の誘惑への抵抗が困難なのは︑第二次世界大戦におけるナチスや日本軍の人体実験をみても明らかである︒スピノザの解決策が示すように︑人間の認識への欲望が国家権力によっ

て増大化されたとき︑それを統御するものは何も残されていない︒伝統や宗教は認識活動を益する限りにおいて許

可されているので︑歯止めにはならない︒荒ぶる認識欲望のまえになすすべはないのだ︒しかしながら︑こうした活動に付随する倫理的な懸念は払拭できない︒たとえそれがすぐさま悪とみなされ断罪されなくとも︒だとする

と︑スピノザの提示した神学・政治的な解決策は︑新たな問題を生み︑とりわけ科学技術の振興に余念がない世界

で生きる私たちにも難題を突きつけるのだ︒スピノザにおける悪の問題は︑そう︑現代の問題でもある︒

(19)

︵1︶  調︒C. P. Ragland, “Descartes’s Theodicy,”  43 (2007), pp. 125‑144.︵2︶  ﹁﹂Theodicy

’’︒︵3︶  Graeme Hunter, “Spinoza: A Radical Protestant?” in , ed. Elmar J. Kremer & Michael J. Latzer (Toronto, University of Toronto Press, 2001), pp. 49‑64; Jonathan Israel, “Leibnitz’s Theodicy as a Critique of Spinoza and Bayle︱and Blueprint for the Philosophy Wars of the 18th Century,” in , ed. Larry M. Jorgensen & Samuel Newlands (Oxford, Oxford University Press, 2014), pp. 233‑244.︵4︶  Yitzhak Y. Melamed,  (Oxford, Oxford University Press, 2013), p. 37.︵5︶  Steven Nadler, “Spinoza in the Garden of Good and Evil,” in , pp. 66‑80; idem,  (Princeton, Prince-ton University Press, 2010).︵6︶  Charles Jarrett, “Spinoza on the Relativity of Good and Evil,” in , ed. Olli I. Koistinen and John Biro (Oxford, Oxford University Press, 2002), pp. 159‑181; Matthew J. Kisner,  (Cambridge, Cambridge University Press, 2011).︵7︶  Spinoza,  (Amsterdam, Jan Rieuwertsz, 1664). ︒Carl Gebhardt, ed., , 4 vols. (Heidelberg, Carl Winter, 1925). 使使︒︵8︶  Ragland, “Descartes’s Theodicy,” pp. 133‑136.︵9︶  Spinoza, , IV, p. 83. ﹂︵︶︒

(20)

︵ 10  Spinoza, , IV, p. 88.︶﹁﹂︵︶︒

︵ 11  Spinoza, , IV, p. 92.︶﹁﹂︵︶︒

︵ 12  Spinoza, , IV, p. 93.Spinoza, , IV, p. 132.︶﹁﹂︵︶︒﹁﹂︵︶︒

︵ 13  Spinoza, , IV, p. 93.︶﹁﹂︵〇〇︶︒

︒ 14  ︶

︒﹂ 15  Spinoza, , IV, p. 126.︶﹁﹂︵︶︒﹁⁝⁝

︵ 16  Spinoza, , II, p. 206.︶﹃︶︒

︵ 17  Spinoza, , II, p. 215.︶﹃︶︒

︵  10 (1994), pp. 43‑67︒ 18  Daniel Garber, Descartes and Spinoza on Persistence and Conatus, “”︶

︵  (Milan, LED, 2002), p. 21︒ 1469‑1527Vittorio Morfino, ’’︑ Niccolò Machiavelli, ︵ 19  Spinoza, , II, p. 224.︶﹃〇︵︑﹁

︵ 20  Spinoza, , II, p. 226.︶﹃︶︒

︒ 21  Spinoza, , II, pp. 144‑145.︶﹃︶︒︑﹁

︵ 22  Spinoza, , II, p. 267.︶﹃︶︒

︵ 20012002︵︶︵︶︒ 23  ︶ ︒ 24  ︶

参照

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