『グリム童話』と日本の昔話の比較

21  Download (0)

Full text

(1)

『グリム童話』と日本の昔話の比較

『グリム童話』と日本の昔話の比較

-『ヘンゼルとグレーテル』・『手なし娘』-

太 田 隆 士

Ⅰ 『ヘンゼルとグレーテル』と『山椒太夫(安寿と厨子王)』-親離れ-

1. 子どもの成長の昔話として読む

子どもは成長していく過程で,精神的に親殺しをしなければならない,そのことに よって親離れができ成長して行くことができると,心理学者や精神分析家は論じてい る。フロイトの唱えたエディプス・コンプレックスは,男の子の母親に対する近親相 姦と父殺しをクローズアップしたし,同じく心理学者のユングは女の子の同様の傾向 をエレクトラ・コンプレックスと名付けた。

このような子どもの成長の過程が語られ,伝えられ,その本質的なものがさまざま に飾られていろいろな昔話に書き込まれている。『グリム童話』のなかでもとりわけ 有名な『ヘンゼルとグレーテル』はお菓子の家で多くの子どもの記憶に残るが,そこ には親に捨てられ,母親とも思われる魔女を殺して,子どもが成長していく様が描か れている。また『山椒太夫(安寿と厨子王)』には,孝行な息子が母親を探し当て,

盲目の母の目が開くという感動的なシーンに至るまでに,やはり親から離れた子ども の成長が描き込まれているのである。

リュティ理論を知らずして昔話研究は不可能とさえ言われる昔話研究家のリュテ ィは「昔話の心理学」のなかで,例えばユング派の研究者の解釈に対して,恣意的で あるとか強引であるという非難がなされているが,そうした抗議や警告は,しばしば 無制限の解釈に熱中することを修正し,制限することになり,さまざまな視点から昔 話の意味内容を探る試みを可能にするのであり,そうした試みの全ての価値を無効に するものではないと論じている1)

昔話=童話には,母親離れをテーマとしていると考えられるものが多くある。『ヘ ンゼルとグレーテル』における兄妹の成長,『白雪姫』が王宮をはなれ小人の家で暮 らすことによる成長等々を思い浮かべることができる。一方日本の有名な昔話(説教)

である『山椒太夫』においても姉弟の成長が描かれている。兄-妹,あるいは姉-弟 という二人を主人公にする物語は数が少なく,そうした意味でも『ヘンゼルとグレー テル』と『山椒太夫』を比較することは非常に興味深いものがある。事実,親離れを

(2)

テーマとして『ヘンゼルとグレーテル』と『山椒太夫』は並んで論じられてきた。主 人公の設定について河合氏は次のように解釈している。

この物語の特徴のひとつは,主人公がヘンゼルとグレーテルという二人の人物であるこ とである。一般に,昔話は主人公が一人であり,二人の場合は比較的少ない。(・・・)

昔話を人間の心の内界の表現として見るとき,その主人公は,人間の自我,あるいは新し く自我として確立される可能性を示していると考えられる。ここに,主人公が二人である ことは,とくに,「ヘンゼルとグレーテル」のように幼い兄妹で表されるようなときは,

男性とも女性とも未だ分離して確立される以前の自我の状態を示すものと考えられる。ま だ幼くて,その自我は男性性,女性性ということを,それほど判然と明確にしているので はない2)

この解釈は『山椒太夫(安寿と厨子王)』の主人公である安寿と厨子王の設定につ いても当てはまる。ところで,おかしなことであるが,今の若者にとっては日本の昔 話である『山椒太夫』よりも『ヘンゼルとグレーテル』のほうが親しまれているよう である。しかし,同じ人物設定ながら,異なる点にもすぐに気づく。子供と母親との 分離(別離)の描かれ方が全く異なっている。『ヘンゼルとグレーテル』においては 母(継母)が自らの意志で子供を捨て去るのに対して,つまり母親の「否定的な側面」

が描かれているのに対して,『山椒太夫』においては,運命の力によって強制的に分 離がなされており,母親は一貫して「良い母」として描かれているのである。

まず『山椒太夫』について簡単に振り返っておきたい。ここでは簡単に入手できる 森鴎外が書き直した『山椒太夫』3)を引用することにする。そもそも元の形である 『さ んせう太夫』は中世末期に祭の日などに寺社の境内などで語られていたもので,説教 と呼ばれているものの一つである。それを森鴎外が書き直したわけであるが,「鴎外 の『山椒太夫』は,説教『さんせう太夫』の近代版といわれているが,二つの作品の 違いには,見逃すことのできない本質的な問題が絡んでいる」4)とも言われている。

例えば主人公である厨子王が悪役の山椒太夫に残酷な復讐をするという箇所は省略 されてしまっている。しかしながら当論文においてテーマとする母親と子どもの関係 は,両方においてほぼ同じ扱いで描かれていると考えられる。次に登場人物を対比的 に図示しておく。

(3)

『グリム童話』と日本の昔話の比較

『山椒太夫』 『 ヘンゼルとグレーテル』

主人公 弟:厨子王(12) 兄:ヘンゼル 姉:安寿(14) 妹:グレーテル 悪 役 山椒太夫 魔女(母,継母)

小説『山椒太夫』で描かれている時代は中世(1100年頃),親子四人は陸奥の国(岩 手県北部と青森にわたる地方)で暮らしていたが,父親は国主が臨時勅令に違反した ことに連座して筑紫(福岡県)に左遷されてしまう。そこで母親と姉の安寿と弟の厨 子王は,父親に会うために東北から旅に出ることになる。しかしその途中で姉弟は人 買い(さんせう太夫)にさらわれてしまう。ここで母親から離れた姉弟は二人で生き ていくことになり,さまざまな苦労ともに成長していく姿が描かれる。人買いから脱 出するために姉は犠牲となり死んでしまうが,弟の厨子王は脱出に成功し,懸命に生 きて出世し,母親を探しに出る。そしてある田舎で盲目の老婆を見つけ,それが母親 であることがわかり,二人は再会し,その喜びにより流れた涙により,母親の目は再 び開き,厨子王と母親は二人で幸せに暮らす。

一方,『ヘンゼルとグレーテル』5)では,森の端に住んでいた貧乏な 樵きこりの親子四人 は,大変な飢饉にあい,食料不足に陥り,母親が,子どもを森の中に捨てることを提 案する。一度目はヘンゼルとグレーテルはうまく自分の家に帰り着くことができるが,

二度目に森の中に置き去りにされたときには,帰り道がわからず,そこで有名な「お 菓子の家」を見つけ,その家の魔女に捕まってしまう。そこで妹のグレーテルは魔女 の仕事を手伝わされるが,ついに魔女をパン焼き窯に入れて,焼き殺してしまい,魔 女が持っていた宝石などを持ち帰る。家に帰ると母親は死んでおり,三人で幸せに暮 らしました,というお話である。

2. 親子関係について

姉弟あるいは兄妹が,母親から離れ,苦労の末に成長する点では同じ構造をもった 昔話と言える。しかし母親と再会するのかどうかという点では決定的に異なる。西洋 の昔話『ヘンゼルとグレーテル』では,子供が成長していく過程で象徴的に「母親殺 し」が行われるわけで,それが直接的な表現を避けるために魔女殺しとして描かれて いると考えられる。しかし『山椒太夫』では,主人公厨子王は最終的に母親と再会す るのである。日本の家庭における親子関係あるいは母親と子供の関係を考えるうえで きわめて大事な昔話と考えられる。日本社会の母性的な特性が伺われる6)

(4)

この『山椒太夫』という日本の昔話を念頭において,『ヘンゼルとグレーテル』に ついて考えてみたい。

まず第一版(1812)7)では実母となっているが,第四版(1840)で継母に変えられ た8)。実母であるならば,このようなことはしないとグリム兄弟が判断したと推測さ れる。『灰かぶり(シンデレラ)』においても同様に第一版で実母であった設定が,第 七版では継母に変えられている9)。見方を変えて,心理学的にではなく,歴史学的に 考えてみると,前近代社会では出産は危険を伴うものであり,母親が出産で命を落と し,実際に継母が多かったという歴史的状況が書き込まれていることに気がつく。

17

世紀のフランスのノルマンディ地方では,結婚生活は平均で

15

年間しか続かず,夫 婦どちらかの死によって中断されることが多かったという。五人に一人の割合で,夫 が妻の死に目にあい,その後再婚していることを示す資料があるということである10)。 次に子捨てであるが,中世のヨーロッパでは,現代の社会とは全くといってよいほど 事情が異なっていた。子供は七歳で「小さな大人」として大人の仲間入りをしていた。

言い方を変えると,親は子供を七歳まで育てれば,あとは扶養義務はなかったという ことになる。それと同様に子供を捨てる風習が古くからあった。キリスト教の影響と 思われるが,堕胎や中絶あるいは子殺しよりは,産んでから捨てることが奨励されて いたようである。捨てる神あれば拾う神ありということであろうか。事実,孤児院や 修道院が当時すでにあった11)。『山椒太夫』においても当時,人さらいや強制労働と いう事実があったことが確認できる。

心理学的に考えてみると,『赤ずきん』の自分の家とお婆さんの家が実は同じ家の ことであるという解釈と同じように,ヘンゼルとグレーテルの自分の親の家と森の中 にある「お菓子の家」とは,心理的には同じ一つの家と考えるべきあるし,継母=魔 女と見なすべきである12)。『白雪姫』の継母である女王が白雪姫を殺してしまおうと して,森の中の七人の小人の家に住むようにしてしまう内容と同じように,子供の自 立と親離れがテーマである。親は子供の成長のためには,ある時点で子供を突き放す 必要があり,それを飢餓という状況のなかで描いていると考えられる。

森の中で見つけた「お菓子の家」は「実際に自分の乳を子どもに与える,母親のシ ンボルだ。つまり,ヘンゼルとグレーテルが少しも用心せず,ただ喜んで食べている 家は,無意識的には,よい母親をあらわす」と言える。「ところが話が進むにつれて,

二人の際限の無い食欲は破滅につながることがわかってくる。子どもは,生まれた直 後は母親に抱かれて,母親と一体であるかのような状態-天国-にいた。だがその状 態に退行してしまえば,独立した一個の人間にはなりえない。それどころか,その人

(5)

『グリム童話』と日本の昔話の比較

の存在そのものが危険にさらされてしまう。なぜならここには,人の体をむさぼると いう要素も含まれていて,それが人食い魔女として登場してくるのである。この魔女 は,口唇性の破壊的な側面が人格化したものである。」13)口唇性とはやはり精神分析 の用語で,フロイトは生後

18

カ月ぐらいまで赤ん坊は母乳を吸うことにより食欲を 満たすが,やがて吸う行為自体,つまり口唇粘膜に刺激を加えることが快感を与える ことを知る。フロイトはこの時期を小児性欲の発達段階における第一段階とし口唇期 とした。ちなみに次の段階が肛門期で

8

カ月から

4

歳の時期であるとしている。つま りヘンゼルとグレーテルは口唇期にある子供を表しており,お菓子の家は「実際に自 分の乳を子供に与える母親のシンボル」だというわけである。二人はお菓子の家の魔 女を退治することにより口唇期を脱するのである。こうして象徴的に母親殺しをした わけであるから,心理的には同じ家である親の家に帰ったときにはすでに母親は亡く なっているのである。このようにお菓子の家においては,母親の溺愛から息子をどの ように救い出すのかという問題と娘が母親をどのようにして乗り越えていくのかと いう問題が書き込まれているのである。

一方『山椒太夫』において,子どもは人買いによって母親から引き離されてしまう のであり,そこには母親の否定的な側面はまったく描かれていない。「自我の確立の 過程に不可欠な母親殺しの主題は,西洋に特徴的なものである。これが東洋において はどうかという点は非常に難しいことである」14)と河合氏は述べている。厨子王が山 椒太夫のもとを脱出する際にも,母親ではなく姉の安寿が死んでいる。しかもそれは 厨子王の独り立ちを助けるためであり,やはりここにも否定的を側面が描かれていな いことに気づく。母親と子供(息子)との決定的な対立を避けるようにあるいは薄め るように描かれていることに気づく。

それぞれの昔話において,悪役として設定されたのが,魔女(母親像)か山椒太夫

(父親像)かによって,成長する子どもの描かれ方も異なってくる。『ヘンゼルとグ レーテル』を読んでいて不思議に思わざるをえないことは,お菓子の家の魔女に捕ら えられたあとの振る舞いにおいて,ヘンゼルとグレーテルの関係が逆転していること である。

・・・グレーテルは,あきらめて泣いて「もうだめだわ」とヘンゼルに言いました。「だ まって!グレーテル」とヘンゼルは言いました「心配するんじゃないよ。きっと助かって みせるよ。(Ⅰ-11615)

(6)

と物語の最初ではただ兄のヘンゼルに従っていただけのグレーテルが魔女を焼き 殺すし,帰り道では,兄を完全にリードする。

けれども二三時間歩きましたら,大きな川の岸へでました。

「渡れないよ」と,ヘンゼルが言いました。「渡り板も橋も見当たらない。

「ここには,船も通らないわね」と,グレーテルが返事しました,「でも,あすこに白 い鴨が泳いでいるわ。鴨さんに頼んだら,むこうへ渡してくれるわよ」グレーテルは鴨に 呼びかけました。

「鴨さん,鴨さん,

ここにいるのは,グレーテルとヘンゼルよ(語順に注意) 渡り板も橋もないの

あなたの白い背中へ乗せてよ」

鴨は,思ったとおりに近寄ってきました。ヘンゼルはその背中へ乗って,妹にもいっし ょに腰をかけておくれと言いました。

「だめよ」とグレーテルが返事をしました,「それじゃあ,鴨さんには重すぎるわ。ひ とりずつ順番に渡してもらいましょうよ」(Ⅰ-124

すぐに泣いてヘンゼルに慰められていたグレーテルとは別人の感がある。魔女=母 親から自立するという状況が描かれるときには,やはり娘と母との対立がより明瞭に なるということ,ユングの言うエレクトラ・コンプレックスが図らずも描き込まれた と言えよう。

『山椒太夫』においても同じことが読み取れる。山椒太夫=父親からの脱出を試み るときに,姉である安寿は死ぬことにより物語からは姿を消し,厨子王のみが単独の 主人公となり,彼の脱出が描かれることになる。つまり父親対息子という図式がより 明瞭となっているのである。また森鴎外の作品では削除されてしまっているが,もと もとの説教『さんせう太夫』では,厨子王=息子による山椒太夫=父親への復讐が描 かれている。

鴎外の作品で,まず気のつくことは,さんせう太夫に向けての復讐の残酷さが削られて いることであり,その復讐の場面のカットという問題と関連するが,づし王とさんせう太 夫の間に,暗黙の和解が生まれていることである。

このことについては,すでにいくつかの論述でふれられているが,これは調和や均衡の

(7)

『グリム童話』と日本の昔話の比較

とれた口当たりのいい作品として仕上げるのが鴎外の主眼であったからだと思われる。原 典の説教「さんせう太夫」では,竹鋸で太夫の首を引くという非情な場面があり,太夫と づし王との間には,支配するものとされるものの関係が厳として貫かれている。その和解 することのできない徹底した対立の深さと,それと分かち難く結びついている支配される ものの,いわばいきどころのない,閉ざされた情念の表出などに作品としての生命があっ たといえる。

鴎外は,こうした対立を曖昧にしてしまい,近代的な破調のない世界にまとめあげるこ とに急で,原典にあるような,支配されるものの凄まじい情念の流れは切り捨てられてい 16)

この理解は歴史学的あるいは社会学的なものであると言えようが,これを心理学的 に解釈すると,すぐさまエディプス・コンプレックスという言葉が思い浮かぶのでは なかろうか。グリムが『ヘンゼルとグレーテル』において実母を継母と書き換えたよ うに,厨子王という男の子が成長するに際して,父親を殺すということは描くことが できず,人買いの山椒太夫を殺すということに姿を変えて,父親殺しが描き込まれて いる。まさにエディプスが父である王を実の父親であることを知らずに殺したように。

厨子王が母親に再会する場面では,母親が盲目になっていたことに注目すべきであ ろう。「盲目になって,わが子のことをしのびつつ雀を追っている-ここでも母親は 鳥に囲まれている-老婆のあわれさは,われわれの心を打つが,これこそ,厨子王が 成人し出世していく過程に必要なことでなかったのだろうか。」17)子どもが成長する 過程で,母親が離れることの重要性を示唆していくのだと言えよう。

しかし,それ以上に,やはり違和感を持たざるをえないのが,立派に成人した厨子 王が妻となるべき女性を見いだすのではない結末である。ドイツの昔話研究者レーリ ヒは,「西洋の物語では求婚の成功やそのための一連の冒険が語られることが多いの に,日本の昔話では結婚のテーマが欠けている場合が多い」18)と指摘している。『浦 島太郎』,『桃太郎』,『一寸法師』,『五分次郎』などの昔話の結末に結婚の話があって 当然と考えられるが,欠落しているのである。『白鳥の姉』のように,一見結婚が成 立していると思われる昔話においても,「姉弟たがいに助け合い,いまがいままでよ い暮らしをしているそうであります」19)という文に注目せざるをえず,ここでは結婚 よりも実は姉と妹の関係がより重要なものとして扱われていると考えられるのであ る。河合氏は,母子一体の結合状態を抜け出し,中間段階として異性のきょうだい関 係があり,そして結婚をとらえることができると論じている。その際に,姉か妹かと

(8)

いう問題については,次のように論じている。

姉妹というものは,その中間的存在としての意味をもつことは前節に述べたとおりであ る。ただ,いずれも中間的存在ではあるが,年齢の上下の関係から,姉の方が母に近く,

妹の方が異性としての女性に近いと言うことができる。日本の昔話において,西洋の昔話 に比して,姉の活躍するのが多いのは,このような意味合いのためかも知れない20)

3. さまざまな『ヘンゼルとグレーテル』について

さて,もう一度『ヘンゼルとグレーテル』にもどり,その成立と伝播について考え ておきたい。この童話の類話はヨーロッパのみならずアラビアやインドにも見られる21)。 その全貌にはとても辿り着くことはできないが,まずヨーロッパ全域を視野に入れて,

古い順に,イタリアの作家ジャンバッティスタ・バジーレの『ペンタメローネ』(17 世紀前半),次いでフランスの作家ペローの『童話集』そして日本の昔話についても 簡単に触れておきたい。

『ペンタメローネ』の『ニッニッロとネッネッラ』では,性悪のいやらしい魔女で ある継母が,兄のニッニッロと妹のネッネッラという二人の子どもを憎み,父親に強 制して,森に捨てさせる。しかし父親は,たどってきた道に灰を撒いておき,その跡 をたどって帰っているようにと教え,子どもたちは夜中に帰ってきてしまう。継母が 地獄の復讐神のように怒り荒れ狂うので,父親はやむなく,また子どもたちを森に連 れて行く。今度はぬかを撒いたのだが,そのぬかは,ロバに食われてしまう・・・22)。 次にペローの『童話集』の『親指小僧』では,貧しいきこり夫婦に七人の子どもが いた。末っ子はとても小さく,生まれたときに親指くらいしかなかったために,親指 小僧と呼ばれるようになった。あるとき飢饉になって,親はやむなく子どもたちを捨 てることにした。ただし,グリムの場合と違って,言い出すのも,相手の反対を説き 伏せるのも,父親の仕事である。森に置き去りにされるが,一回目は小石を辿って帰 ることができるが,二度目はパンのために小鳥に食べられてしまう。森の中で,子ど もたちが辿り着いたのは,人食い鬼の家で,鬼の妻は哀れんで,子どもたちに協力的 にふるまう23)

さて,日本の昔話について,関氏は『猿蟹合戦』,『桃太郎』,『浦島太郎』などが,

日本全国に散らばって多種多様な類話群を伴っているのとは異なり,いくつかの昔話 については,互いによく似た話があることについて次のように論じている。

(9)

『グリム童話』と日本の昔話の比較

場合によっては,特殊な表現まで似ていて,似すぎていると言ってもいいくらいなので す。しかも,それらが語られる数少ない地方は,お互いに遠く隔たっています。

そういうことを考えに入れて推測してみると,明治 30 年代後半に起こった「口演(こ うえん)童話」の運動に行き着きます。これは,炉辺で語られるならわしだった昔話を,

学校教育,社会教育の場に持ち込もうとするものでした。その運動を推進するために,明 39年に,巌谷小波,久留島武彦らが中心になって,「お伽倶楽部」という,子どものた めの文化運動団体が設立され,全国各地に同じ組織が作られました。小波らはそこで,世 界の,日本の,童話や昔話を話して回りました。その種が各地方に落ちて,新しい昔話が 育ってきたのではないかと想像されるのです。この考えを裏付ける調査と資料の収集とは,

今後の課題として残されております。24)

ペローの『親指小僧』は表現を変えれば『一寸法師』ということになる。おなじみ の『一寸法師』は,針を刀に,お碗を小舟にして京に上り,鬼退治をするというお話 であるが,鹿児島県に伝わる「一寸法師」では,

一寸法師は末の息子で,兄と姉が一人ずついます。母親は継母で,食べ物がなくなった から明日,山奥に子どもたちを捨てに行こうと,父親と相談しています。それを聞いてし まった一寸法師は,翌日,山へ連れて行かれる途中,木の葉に飯粒を目印につけていきま す。ところが,それは鳥に食われて,帰り道が分からなくなります。

日が暮れてから訪ねあてた家に,おばあさんがいて,ここは鬼の家だから泊めてやれな いと言いますが・・・25)

とあり,ペローの『親指小僧』と大変似ていることが分かる。

最後に同じドイツでの再話にも触れておきたい。人気のある童話『ヘンゼルとグレ ーテル』はフンパーディング(Engelbert Humperdinck 1854-1921) によりオペラ化 され,ヨーロッパの町ではクリスマスの時期によく上演される(初演 1893 年)。こ こでの書き換えにも言及しておきたい。『グリム童話』をいっそう市民の道徳にあう ように改作していると言える,より正確にいうと

1857

年に出版されたルートヴィ ヒ・ベヒシュタインの『ドイツのメールヒェン』を下敷きにして台本が書かれた。グ リム兄弟以上に,19 世紀の道徳観に合わせられており,残虐な面や性的な要素,歴 史的要素が抜き取られている。まず両親は木こりではなく,箒職人に変えられ,子供 も親によって森の中に置き去りにされるのではなく,野イチゴを摘みにいき,道に迷

(10)

ってしまうというように変えられ,家にもどって,両親と再会するというように,い っそうのハッピーエンドになっている。

さらに外国人のために書き換えられたグリースバッハの『ヘンゼルとグレーテル』26) においても同様に手が加えられており,継母どころか,母や父という単語すらつかわ れず,両親という言葉だけが使われている。大まかに言えば『山椒太夫』に近い結末 となっている。フンパーディングにせよ森鴎外にせよ,書き換える段階で,原作が持 っていた強烈なメッセージが薄められていることが認められるのである。

Ⅱ 『手なし娘』

1. さまざまな『手なし娘』

第Ⅰ章では,まったく別個に成立したと考えられる『ヘンゼルとグレーテル』と『山 椒太夫』を比較し,共通するものと異質なものを探ったが,第Ⅱ章では,視点を変え,

『グリム童話』が日本に伝えられ,変化したと推測されるものを比較する。つまり同 じものがどのように変質するのかという観点から比較を試みたい。あるいはこの推測 が言い過ぎであるならば,きわめて類似した構造をもつ昔話の比較を試みたい。ここ でも先行研究として河合氏の論文を参考にさせて戴く。

『手なし娘』という昔話の骨格は次のようなものである。

⑴ 娘の手あるいは腕が切り落とされる。

⑵ 娘は生き長らえ,結婚し,出産する。

⑶ 夫が不在となる。出産を知らせる手紙がすり替えられる。

⑷ 偽の手紙により,娘は家を去ることになる。

⑸ 娘の手が元通りになる。

⑹ 夫と再会し,幸せとなる。

大胆に要約してしまえば,娘の親からの自立と幸せな結婚に至る過程を描いた昔話 である。

まず岩手県に伝わる『手なし娘』の要約を試みたい27)

⑴ 仲のよい夫婦とかわいい一人娘がいた。4歳のときに母親が死に,新しい母が来 て,継子を憎む。

娘が

15

歳になった。いつも継母のいうことばかり聞いていた父親は,継母の言 うとおりに,娘を追い出す気になる。連れ出し,疲れて居眠りをしている娘の両腕 を父親が切り落とす。

(11)

『グリム童話』と日本の昔話の比較

⑵ 谷間で生き長らえていた娘の前に,立派な若者が通りかかり,連れ帰り,母親に 紹介し,後に結婚する。娘に子どもが生まれることになるが,夫は江戸に上ること になる。

⑶ 男の子が生まれ,夫へ早飛脚が立てられるが,手なし娘の実家に立ち寄ってしま い,継母は手紙をすり替える。飛脚の帰り道でも,夫の返事を再び継母がすり替え る。

⑷ 母親は偽の手紙を見せ,娘は出て行く。

⑸ 子どもが背中から落ちそうになり,子どもを守ろうとしたとき,手が生える。

⑹ 若者が娘を探し当て,継母と父親は罰せられる。

新潟県に伝えられる『手なし娘』28)では,

⑴ 父親の留守中に継母が継子の腕を引き抜く。亡き母の助けにより生き長らえる。

⑵ さまよい,庄屋の敷地内の梅の実を食べているところを,庄屋の息子に見つけら れ,やがて妊娠する。夫の留守中に子が産まれる。

⑶ その知らせを継母が書き換えてしまう。夫の返事も書き換えてしまう。

⑷ 偽りの手紙により娘は追い出される。

⑸ 行き合った婆に助けられ,井戸に行って手を傾けると手が元通りになると教えら れ,手が元通りになる。一軒家で暮らし始める。

⑹ 帰った夫が妻子を見つけ出し,子どもが父親と認めて元の夫婦であることがわか り,共に幸せに暮らす。

岩手県版と骨格においては同じ昔話であると言える。しかし⑴のところで,父親が 娘の手を切り落とすのではなく,継母が継子の手を引き抜くことが異なる。また⑵で 果実を食べる描写,⑸で水の力で手がもとどおりになると教えられる描写,さらに⑹ で子どもが訪ねてきた男を父親と認識するという描写において異なっている。

山梨県では,

⑴ 継母にも娘がおり,『シンデレラ(灰かぶり)』に似た人物配置となっている。ま た継母に娘の殺害を命じられた父親は,殺すことができず,左腕だけを切り落とし て,証拠として持ち帰るようになっており,『白雪姫』を思い起こさせる。亡き母 の助けにより生き長らえる。

⑵ ある寺の境内で梅の実を食べようとしているところを見つかり咎められる。さら に都に出て花梨の実を取ろうとして見つかり,その屋敷の息子の嫁となる。息子の

(12)

留守中に子どもが生まれる。

⑶ その知らせが実家にも届けられ,継母が書き換えてしまう。

⑷ 偽りの手紙のために娘は子どももろとも追い出される。

⑸ 和尚が助けてくれる。子どもが背中から落ちそうになり,子どもを守ろうとした とき,手が生える。母子は寺の飯炊きとなる。

⑹ 帰った息子は妻子を探し歩き,子どもが父親と認めて元の夫婦であることがわか り,親子三人と父母と共に幸福に暮らしたが,継母の家は潰れてしまった。

基本的には,新潟県版のほうに似ている。⑴で継母にも連れ子がいる点が岩手県版 にも山梨県版にも無いことである。⑸で手が元通りになる描写は岩手県版に近い。ま た,沖縄には岩手県版を簡略化した「手なし娘(原題「金武松金」)が伝えられてい る29)

さて,『グリム童話』に収められている 『手なし娘(Das Mädchen ohne Hände)』

(第七版)は次のようである。

⑴ 粉引きの男が,悪魔の変装したおじいさんにだまされて,娘を渡す契約をし てしまう。3 年間,娘は「神を畏敬し,神の掟にそむくことなく暮らし」てい た。しかし

3

年後に悪魔が娘をさらいに来て,父親は悪魔の命令にしたがい,

娘も承諾のうえで........

,両手を切る。娘の純粋な心が悪魔を退散させるが,娘は自...

らの意志で家を去る.........

ここに留まることはできません, わたしはどこかへまいります。なさけぶかい人たち は,わたしが要るだけのものは,きっとわたしにくださるでしょう。(-200)

⑵ 娘は歩きとおし,どこかの王様の庭に果物が鈴なりになっているのを見つける。

しかし堀があり中へ入れない。そこでお祈りをすると,天使が現れ水を干上がらせ てくれ,娘は梨を食べる。王様(der König)は,銀の手をこしらえてあげ,娘を妃と した。(ここでも母親は登場しない)

⑶ 一年後王様は戦争に行くことになる。お年寄りの母親に娘を託す。

娘は男の子を生む。それを知らせる使いの者が,行きにも帰りにも悪魔に手紙を すりかえられてしまう。手紙のすり替えが繰り返され,さいごの手紙には,「娘を 殺した証拠に,妃の舌と両方の目玉をとっておくように」と書き添えられており。

お年寄りの母親は雌鹿で代用する(『白雪姫』に同じ)。

(13)

『グリム童話』と日本の昔話の比較

⑷ 娘は立ち去る。

⑸ 娘は森に入り,神様に祈り,主のお使いの天使が現れ,「ここには誰でも無料で 住める」という小さな札のかかった小さな家に案内され,世話をしてもらう。「お 后は七年の間この家にとどまり,手厚い世話をうけ,そしてお后の信心のおかげで,

神様のおめぐみによって,切り取られた手がもとのようにはえました。」(Ⅶ-203)

⑹ 王様が戦場から戻り,事情を知り,お后を探す旅に出て,七年ちかく経た後に「誰 でも無料で住める」小さな家を見つける。白衣の処女お と めが現れ,王様を家に案内する。

子どもがきっかけとなり,夫は妻に気づく。

王様とお后様はもう一度結婚式をおあげになりました,それから,ふたりは,安らかに 息をお引き取りになるまで,なに不足なく楽しくお暮らしました。 (-205)

ここには,母親はほとんど登場しない。娘-父の関係で描かれており,岩手県版の 娘-母の関係とは対照的である。また日本の昔話における継母の役割を演じているの が西洋における悪魔であるが特徴である。

『グリム童話』の初版では,構造は同じであるが,

⑴ 基本的には第七版と同じであるが,三年間,娘は「神を畏敬し,神の掟にそむく ことなく暮らし」(Ⅰ-133, Ⅶ-200)ていた。という文は無い。

⑵ 娘は歩きとおし,どこかの王様の庭に果物が鈴なりになっているのを見つける。

垣根の隙間から庭に入る。第七版に見られる「堀」,「天使」は登場しない。

また,娘を好きになるのは王ではなく,王子である。「年取った王も」も結婚を 認め,二人は結婚し,王はまもなく亡くなり,王子は王国を継ぎ,后と幸せに暮ら す。

⑶ 王様は戦争に行くことになる。その間にお后は出産する。手紙を使いに持たせる が,悪魔がすり替えてしまう。

⑷ 偽の手紙により,母子共に追放される。

⑸ 二人は深い森の中の泉へやって来て,親切そうなおじいさんに助けられ,太い木 にからませれば手が元通りになると教えられ,手が元通りになり,一軒家で暮らし 始める。

⑹ 王は戦争から帰ってきて,騙されていたことに気がつき,后を探す旅に出,長い 旅を経た後にお后と子を見つける。息子が王様を母親のほうへ連れて行き,妻であ

(14)

ることがわかる。みんなそろって帰国の旅に出ると,その家は消えてなくなってし まう。

(1)と(2)で天使が現れるという描写はなく,娘と結婚するのは,王ではなく,王子

である。(5)では,天使ではなく「おじいさん」が娘の手を生やしてくれる。 なお、

「初版は

1811

3

10

日にマリー・ハッセンプフルークから聞いた話による。第 二版以降は,ドロテア・フィーマンに

1813

8

27

日に聞いた話と合成される。」30)

最後にごく簡単にドイツの昔話版にふれておくと,

⑴ 父親が再婚する。継母にはひとりの娘がいる。継母は継子を憎むようになり,森 の盗賊に娘を殺すように依頼するが,盗賊は哀れに思い,両手を切り落として,命 はとらず逃がしてやる。

⑵ 娘は王様の果樹園に辿り着き,王様は娘を好きになり,お后とする。

⑶ 王様は戦争に行く。お后は双子を生む。王様の母親は若いお后が気に入らず................

,「あ なたのお后はネコの子と犬の子を産みました」と偽りの手紙を出す。

⑷ 王様は真に受けて,お后を追い出すように返事をだし,娘は追放される。

⑸ 「お后はさまよい歩き,飢えと渇きでへとへとになったとき,泉に辿り着きまし た。喜んで屈んで水を飲もうとすると,傍らに「この水飲む者,鹿に成るべし」と あります・・・」。

子どもが背中から落ちそうになったとき,水に浸った腕が元通りとなり,ついで もう片方の腕も水に浸し元通りとなる。

⑹ お后は立派な無人の家見つけ,そこに住み込み七年たつ。王様はお后を追い出し たことをずっと悔やんでおり,后を見つけた夢を見て,森の奥へ入り,お后と子の 住む家に辿り着き,子どもがきっかけとなり,夫は妻に気づく。皆で城へ帰り,末 永く幸せに暮らした。

同じドイツに伝えられた昔話ではあるが,(1)で,娘の手を切らせたのも継母,(3) で,子どもの誕生について嘘の手紙を作成するのも継母という点で『グリム童話』版 とは異なる。悪魔が登場することについてごく簡単に言及しておくと,例えば『グリ ムと童話』の第

92

話『黄金の山の王様』にも見られるように,「知ってか知らずか悪 魔に子供を譲り渡す」というモチーフは『グリム童話』においていくつか見られる31)

以上,七つの『手なし娘』の要約を示した。このほかにもまだ多くの『手なし娘』

があり,ヨーロッパの昔話として最も古く成立した『ペンタメローネ』32)の『手なし 娘』はかなり波瀾万丈の話であるが,娘は自ら手を切り,嫉妬深い女に手紙をすり替

(15)

『グリム童話』と日本の昔話の比較

えられ,魔法使いの王様によって手が元通りとなる。さらにイランや中国にも類似の 昔話があるが,直接当論文の内容とは関わってこないので,触れないことにする。

ここまで概観してきて,山梨県に伝わる『手なし娘』と,ドイツの昔話の『手なし 娘』とが構造的には同じで物語であると言える。また,大胆に要約してしまえば,ド イツの昔話にせよ『ペンタメローネ』版にせよ,『グリム童話』版よりは,むしろ岩 手県版に近いことに気づく。

もし『手なし娘』が日本で生まれたものではなく,伝播してきたものであるとする と,さまざまな『手なし娘』が入り込み,そのなかで日本人に受け取られやすいもの が残り,さらに手を加えられたということであろうと推測される。

多くの版について詳細な比較を試みる余裕は残念ながらない。ここでは,いまやヨ ーロッパの代表格として語り継がれた『グリム童話』版と,日本で主要となった版と の比較を試みるにとどめたい。

2.共通点と相違点 -『グリム童話』版と岩手県版―

昔話は,語り継がれた国の違いを超えて存在する普遍的な内容で共通する点と,語 り継がれた国あるいは地域に属する文化に特徴的であり相違する点とを持っている。

昔話が伝播していく際に,それぞれの国や地域の文化や言語により,さまざまな変 化をせざるをえない。例えば『グリム童話』に収められている「兄と妹」という訳名 で 知 ら れ る 昔 話 も , 原 題 は 「 小 さ な 兄 弟 と 小 さ な 姉 妹 」(

Brüderchen und Schwesterchen)というものであり。「弟と姉」とも考えられる。小澤氏は次のよう

に論じている。「・・・どちらが年上で,どちらが年下かは書いていないのです。日 本語はそもそも男の同胞をいうときに,兄とか弟とかいう年齢の上下でいう言い方し か,表現する方法がないのです。女についても同じです。妹か姉か。そこでもうすで に異文化の,理解のむずかしさがあらわれてしまっているわけです。われわれ日本語 のほうは,人間関係をつねに縦の関係として意識しているので,ここから逃れられな いものですから,翻訳自体が不可能です。どうしても『兄と妹』というふうに訳して しまう。だけど,これは内容を読んでみると,逆の方がいいかもしれませんね」33)

これは日本語だけの問題だけではない。例えば,子どもとだけ書かれている場合,

ドイツ語では当然,中性名詞の es で受けるわけであるが,英語に翻訳する場合には,

その場合の子どもを女の子と理解し,she と訳しているものもある。この場合には性 による限定が入り込んでしまう34)。昔話の題名や子どもという単語すら伝える際に,

民族あるいは言語によって異なる受けとめ方がなされるという事実をふまえておく

(16)

必要がある。

まず,前項の要約から,『グリム童話』の『手なし娘』がかなりの特徴を備えてい ることが明らかとなった。その特徴をもった理由として,当時の市民道徳にあわせる ための改変(これも次の改変に含まれるとも考えられるが,宗教的な面と同時に社会 的な説教という面が強いので分けることにしておきたい。),キリスト教の教えを強調 するための改変,さらに『グリム童話』に収められた他の話との調整ということが考 えられる。この三点について順をおって検討したい。

① 当時の市民道徳にあわせるための改変

「富と子どもの二律背反」という考え方であるが,これは『グリム童話』にのみ見 られることである。ボティックハイマーによると「グリムは富と子どもの問題を神学 に近いレヴェルにまで高め,このテーマを聖者伝説「『神様のごちそう』の中に盛り 込んでいる」35。『神様のごちそう』は次のように始まっている。

昔々,あるところに二人の姉妹がありました。一人は子どもがなくてお金持ち,一人は 五人子持ちの寡婦ですが,とても貧しく,いまでは自分や子どもたちのおなかを充分に満 ち足りさせるパンもないほどでした。(-817)

このように子どもと富が対立するものであるかのような設定になっている。この伝 説の前に置かれている子どものための聖者伝説(KINDERLEGENDEN)が『貧困と 九順は天国に通じる』となっていることも興味深いことである。『グリム童話』以外 の六つの『手なし娘』が継母と娘の関係,つまり親離れがテーマとなっているのとは はっきりと異なり,『グリム童話』の『手なし娘』においては,子どもと富がテーマ となっているのは,この児童のための聖者伝説の内容と一致する。ボティックハイマ ーは次のように論じている。「しごと,金,反ユダヤ主義という三つのテーマは,ひ とまとめにしてみると,このような話が生まれてきた社会の基本的価値観を示してい る。労働者は,入り組んだ社会の枠組みの中でほとんど身動きもできなかった。賃金 は限られていたし,仕事をしても報われるという希望ももてなかったのだが,社会の 枠組みを破壊してまで富を得たいと望むことは,とうてい許されることではなかっ た」36)

グリム兄弟が『手なし娘』に富と子どもとの二律背反という主題を入れ,当時の市 民社会にあった子どもがいて貧しい家庭が,この話を読み,子どもよりはむしろ大人 が慰めを得,こうして『グリム童話』が迎え入れられていったことは容易に想像でき

(17)

『グリム童話』と日本の昔話の比較

ることである。

② キリスト教の教えを強調するための改変

次にキリスト教の教え(信心深い娘,悪魔,天使)について初版と第七版との比較 から明らかになってくることがある。すでに指摘しておいたように,「三年間,神を 畏敬し,神の掟にそむくことなく暮らしていました」という一文が加えられている。

娘が王の庭に着いた場面では,初版では垣根から中に入れたのに対して,第七版で は庭の周りに堀があり,入れず「娘は主なる神の御名を呼んで,お祈りをしました。

すると突然天使が現れました。天使はお掘りの水門を閉めましたので,お掘りが干上 がり,娘はそのなかを突っ切り渡ることができました」(Ⅶ-201)と付け加えられて いる。

お后となった娘が王国から追い払われたあと,初版では深い森のなかで親切そうな おじいさんに出会い,不思議な力で腕が元通りになり,助けられるのに対して,第七 版では森の中で,主のみ使いの天人があらわれて「誰でも無料で住める」小さな家に 連れて行かれ「そしてお后の信心のおかげで,神様のおめぐみによって,切り取られ た手がもとのようにはえました。」(Ⅶ-203)とあり,全てが魔法ではなく,信仰のお かげとなっている。グリム兄弟が明確な目的をもって書き換えた,あるいは取り入れ た跡を見て取ることができる。

③ 『グリム童話』に収められた他の話との調整

また,『グリム童話』に収められた他の話との調整という観点から見ると,ドイツ の昔話の(5)にある「お后はさまよい歩き,飢えと渇きでへとへとになったとき,泉に 辿り着きました。喜んで屈んで水を飲もうとすると,傍らに「この水飲む者,鹿に成 るべし」とあります。仕方なく別の泉を探して,のもうと屈みこみました・・・」の 描写は『グリム童話』の「兄と妹」に同じ描写を見ることができる。

・・・水のながれる音が,妹には,「わたしの水を飲むものは,鹿になる。わたしの水 を飲むものは,鹿になる」と聞こえました。(Ⅶ-93

岩手県版は,独自に成立した場合はもちろんのこと,あるいは外国の数ある『手な し娘』が伝播した場合にせよ,そうしたものの中から,最も日本人の感性に相応しい ものとして受け入れられ,改変され,今日の形にいたったと考えられる。

岩手県版では,娘が腕を切られ追い出されるのは

15

歳のときである。第一章でと りあげた「山椒太夫」の安寿が人買いにさらわれ,母親から分離させられるのは

14

(18)

歳である。もう一つ例を挙げれば,幽閉される塔と長い髪の毛を伝ってそこへ登るこ とで記憶している人も多いと思われるラプンツェルは,「12歳のとき,魔法使いの女 はラプンツェルを塔のなかへ閉じ込めました」(Ⅶ-105)とある。多少の年齢の差はあ るが,娘が親離れをし,自立する時期を扱っている。

上で見たように,『グリム童話』には,「富と子どもの二律背」と「キリスト教の教 え」が入り込んでいるが,本来は親離れを主題とする物語である。フランツによると,

「娘の父親に対する関係の問題性にかかわるメルヘン」37)ということであり,「粉屋

(引用者註 父親)からみ見れば,娘はかれのアニマ像すなわち感情生活の一部であ る。女性心理の立場からは,彼女は,ファーザー・コンプレックスの特殊な形態によ って非情に危険な状態になった女性である」38)ということになる。「継母の意味につ いては(・・・)母性の否定的側面をクローズアップする」ものと捉え,「この母性 の肯定・否定の交代と反復は,女性の心理的発達を考える上でも,示唆するところが 大である」39)と考えておくのが妥当であろう。親の否定的側面を描いているという点 においては同じく『グリム童話』に収められている前章で論及した『ヘンゼルとグレ ーテル』において森の中に置き去りにして子どもを殺そうとする親と,『手なし娘』

において娘の腕を切り落とし殺しかねない親とは同じである。

むしろ差が顕れてくるのは,切り落とされた手が元通りになる場面である。なお,

手が切られたり,もとどおりになる描写については,指摘するまでもないことであろ うがリュティの「平面性」を想起しておきたい。「われわれはその肉体の奥行きや立 体性を見ているのではなくて,ただ表面だけを見ている。昔話にあらわれるほんとう の意味での傷害でさえも,当人の体を現実に肉体的にわれわれの目の前において見せ るのではない。女主人公の手や腕が切り取られた場合,または馬が狼に脚を食いちぎ られた場合,そういう場合にも血が流れるわけではないし,本当の意味での外傷がで きるわけでもない40)。」

小澤氏は「・・・人間と自然の関係のとらえ方が,ヨーロッパと日本でと違う」41) と論じています。さらにこのことは,キリスト教の問題と深くかかわっており,キリ スト教の問題とかかわっているという意味で,今度は魔法の扱い方が違う。そういう,

いくつかの基本的な点での違いを見ていきたいと述べられ,『兄と妹』を取り上げて いる。この話のなかで,「泉に魔法をかけておきました」(Ⅶ-92)と語られている魔 女は姿を見せず,いわば遠隔操作をしている。そして兄を鹿に変えてしまう。遠くま で魔力を効かせるという意味では超越的な力である。一方日本の昔話にあらわれる妖 怪は,姿を見せ,具体的である。と論じている。

(19)

『グリム童話』と日本の昔話の比較

ドイツの昔話では子どもが落ちそうになった瞬間に手が元通りになるが,そのあと で,まるで『ヘンゼルとグレーテル』のお菓子の家とも思われる家が出現し,その家 のおかげで娘が生き長らえていくことから,そこには魔力が感じられる。『グリム童 話』の初版では,親切そうなおじいさんが手も住む家も与えてくれるが,これは良い 魔法使いのおじいさんが救ってくれたということである。こうした魔力が『グリム童 話』第七版では,「主のみ使いの天人」という描写からもわかるように信仰の力に変 えられているのである。また新潟県版では「行き会った婆」が手を元通りにしてくれ るし,山梨県版でも和尚が手を元通りにしてくれる。この「行き会った婆」にせよ和 尚にせよ,こうした人の魔力あるいは魔力とは言えないまでもその教えのおかげで娘 の手がもとどおりになる。ただ岩手県版のみに,魔力をあらわすようなものはいっさ い登場しない。ただわが子を思う気持ちこそが,手を元通りにするであり,手が元通 りになった後も,娘は一人で独力で子どもと共に生きていったように書かれている。

家は出たけれども,娘は行くあてもないので,足の向くままに行くか行かぬかうちに,

ひどくのどがかわいて来ました。水でも飲むべと思って,こごんで飲もうとすると,背中 の子供がずるずると背から抜け落ちそうになりました。「やあ,誰か来て」といいながら,

びっくりして無い手でおさえようとすると,ふしぎなことに両方の手がちゃんと生えて,

ずりおちる子供をしっかりと抱きとめていました。「やあ,うれしい,手がはえて来たよ う」といって,娘はたいそう喜びました42)

ここには,魔法による手の復元もなければ,ましてや信仰による手の復元も書き込 まれてはいない,ただ子を思う真心による手の復元が描かれているのである。フラン ツによると,「初めわたしは,天使はわれわれの物語にのちにつけ加えられたものか もしれないと思っていた。しかし見受けたところ世界中,天使を信じない民族の間に も,天使に似た存在がいる。(・・・)すべてのヴァリエーションのもともとの特徴で あるようだ。 神またはその使いが干渉する」43)ということなのだが,この論述を見 ても,岩手県版の特質がよく分かる。

親と子の関係のさまざまな側面を描いてきたこの物語が,手の切断や,偽りの手紙 による離縁等々,親の恐ろしい側面を描き,娘の苦難すなわち親からの自立と成長を たどり,最後の場面において,今度は成長した娘のもっとも美しい母性を提示し,そ れにより夫婦の関係もいっそう高次の段階に達したところで終わっている。

『山椒太夫』においても,『ヘンゼルとグレーテル』とは異なり,母性の悪しき側

(20)

面が描かれず,また最後の場面で,息子が母親と再会し,親子の愛が確認されて,物 語が終わっていた。それと同じように,『グリム童話』の『手なし娘』において、娘 が,承諾のうえで......

,父親に両手を切らせ,娘の純粋な心が悪魔を退散させるが,娘は..

自らの意志で家を去る..........

,つまり娘が強い意志で親から独立していく姿に力点が置かれ ていたのに対し,この岩手県版の『手なし娘』においては,最終場面に象徴されるよ うに,子を思う母親の愛がきわめて印象的に描かれるために話が存在したと言っても 過言ではない。ここに,日本人に共通した特有の家族観を見いだすことができると言 えよう。

) Max Lüthi, „Psychologie des Märchens“, in „Märchenforschungen und Tiefenpsycholo- gie“ (Wege der Forschung. Band CII. 1986) S.427.

) 河合隼雄著『昔話の深層 -ユング心理学とグリム童話』 講談社+α文庫,69頁。

) 『日本の文学 森鴎外 二』 中央公論社。

) 岩崎武夫著『さんせう太夫考 中世の説教語り』 平凡社ライブラリー,38頁。

) Kinder- und Hausmärchen gesammelt durch die Brüder Grimm. 7.Auflage. (Wissen- schaftliche Buchgesellschaft Darmstadt 1989) 本文中では、Ⅶと頁を記す。

) 河合,前掲書,78頁参照。

) Kinder- und Hausmärchen gesammelt durch die Brüder Grimm. 1.Auflage. (Van- denhoeck & Ruprecht in Göttingen 1996) 本文中では、Ⅰと頁を記す。

) 4版は入手できなかったので第7版で引用する。第1版(S.50), 第7版(S.116)を参照。

) 第1版(S.88), 第7版(S.154)を参照。

10) ロバート・ダーントン著『猫の大虐殺』岩波書店・同時代ライブラリー,33頁参照。

11) 森義信著『メルヘンの深層』講談社現代新書,94頁参照。

12) ブルーノ・ベッテルハイム著『昔話の魔力』評論社,218頁参照。

13) ベッテルハイム,前掲書,216頁。

14) 河合,前掲書,84頁。

15) 以下,第7版の引用は本文中に記す。

16) 岩崎,前掲書,38頁。

17) 河合,前掲書,86頁参照。

18) 河合,前掲書,119頁。

19) 『一寸法師・さるかに合戦・浦島太郎』岩波文庫, 96頁。

(21)

『グリム童話』と日本の昔話の比較

20) 河合隼雄著『昔話と日本人の心』岩波現代文庫, 137頁。

21) 関楠生著『グリム童話の仕掛け』鳥影社 1997 157頁。

22) バジーレ著『ペンタメローネ(五日物語)』大修館書店 1995, 438-443頁。

23) 『完訳ペロー童話集』岩波文庫,239-242頁。

24) 関,前掲書,139頁。

25) 関,前掲書,159頁。

26) Rosemarie Griesbach, „Deutsche Märchen und Sagen“ (Max Hueber Verlag) S.9-11.

27) 『こぶとり爺さん・かちかち山』岩波文庫,25-31頁。

28) http://enkan.fc2web.com/minwa/tenasi/01.html

29) 『日本の昔話 上』稲田浩二編(ちくま学芸文庫)215-217頁。

30) Kinder- und Hausmärchen gesammelt durch die Brüder Grimm. 1.Auflage (Van- denhoeck & Ruprecht in Göttingen 1996) Bd.1. S.138. Transkriptionen und Kommen- tare. S. 20.

31) Lutz Röhrig, „Sage und Märchen“ (Verlag Herder, 1976 Freiburg Basel Wien)S.269.

32) 『ペンタメローネ』217-225頁。

33) 小澤俊夫著『「グリム童話」を読む』岩波書店 199665頁。

34) ルース・ボティックハイマー著『グリム童話の悪い少女と勇敢な少年』紀伊國屋書店 1990 年。 Ruth Bottigheimer, Grimms’ Bad Girls and Bold Boys. The Moral and Social Vision of the Tales. 1987 by Yale University. 338頁。

35) ボティックハイマー,前掲書,222頁。

36) ボティックハイマー,前掲書,238頁。

37) Marie-Louise von Franz, „Das Weibliche im Märchen“ (Bonz Verlag, Stuttgart 1977) 邦訳『メルヘンと女性心理』秋山さと子・野村美紀子訳,海鳴社,79頁。

38) 『メルヘンと女性心理』 87頁。

39) 河合隼雄著『昔話と日本人の心』岩波現代文庫, 228頁。

40) Max Lüthi, „Das europäische Volksmärchen“ (Francke Verlag, München. UTB 312.

1976) S. 14.

41) 小澤俊夫著『「グリム童話」を読む』岩波書店 1996107頁。

42) 『こぶとり爺さん・かちかち山』岩波文庫,30頁。

43) フランツ,前掲書,98頁。

Figure

Updating...

References

Related subjects :