大正期における東京の方面委員─形成過程と生活支援の実際

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大正期における東京の方面委員─形成過程と生活支援の実際

山 田 知 子1)

Study on the Homen‑iin System of Tokyo in the Taisho Era

─Overview of the Support Activities and Social Networks of District Voluntary Social Workers─

Tomoko Y

AMADA

要 旨

 本研究の目的は、大正期における東京府慈善協会救済委員制度および東京市方面委員制度がどのような社会的背景 から生み出されたのか、また、方面委員はどのように対象に向き合ったのかを慈善協会会報および方面時報等の関連 資料を用いて明らかにすることである。

 1918年の米騒動を境に日本の慈善事業は社会事業に大きく転換していく。この時期は日本の社会福祉の歴史上、き わめて重要な時期である。労働運動と社会主義運動も盛んで労働争議も頻発していた時代であり、国民生活は激しく 動揺していた。東京の方面委員という側面から人々の生活変動の実態を明らかにすることは、社会的に意義のあるこ とである。なぜなら、これまで必ずしも十分に明らかにされてこなかった市井の人びとの暮らしの問題を方面委員の 目をとおして明らかにできるからである。結論として、当時の東京の方面委員制度は、井上友一府知事の強力なリー ダーシップのもと、ドイツのエルバーフェルト制度をモデルに創設されたこと、恤救規則のみのいわゆる救貧法のな い時代にあって、方面委員は限られた資源を有効に使い、個人的ネットワークを駆使して生活困窮者の生活維持のた めに活動したことが明らかとなった。生活困窮者支援の最前線にあって、救貧法の制定が必要であることを痛感した のは方面委員たちであり、それらが後の救護法の制定の道筋をつくるエネルギーにつながったのである。

* 本稿では「細民」「貧民」等、きわめて排除的、差別的な表現を使用しますが、これらはあくまで歴史的用語とし て使用しています。ご了承ください。

ABSTRACT

 The purpose of this study is to clarify, based on related documents, the social background which led to the creation of Tokyo Charity Organization Societyʼs visiting workers system and the Homen‑iin System (district voluntary social worker system) of Tokyo in the Taisho era, and to examine how district voluntary social workers provided support to targeted people. The Taisho era was a highly significant period in the history of social welfare in Japan, and especially following the rice riots of 1918, charity projects in Japan were greatly transformed to become social projects. In this same period, labor movements and socialist movements were widely active, and labor disputes also occurred frequently. It is clearly meaningful in social terms to shed light on the social conditions of this period from the perspective of Tokyo Charity Organization Society. In conclusion, it was found that Tokyo Charity Organization Society at that time was modeled on the Elberfelder System in Germany. There was no poor law as existed in European countries, and the district voluntary social workers at that time used the limited resources available effectively and also made full use of personal networks to help sustain the livelihoods of people in need. The district voluntary social workers were at the forefront of support activities for people living in poverty, and they were acutely aware of the need to establish the Poor Law. This passion contributed to the later establishment of the Poor Relief Law.

キーワード:東京府慈善協会、救済委員、東京市方面委員、エルバーフェルト制度、井上友一

1)放送大学教授(「生活と福祉」コース)

放送大学研究年報 第37号(2019)9‑20頁

JournalofTheOpenUniversityofJapan, No. 372019)pp. 920

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1.研究の視点

 放送大学研究年報36号で筆者は「『東京府慈善協会』

救済委員の「細民標準」への貢献1」の中で大正7年、

東京府慈善協会が設置した救済委員制度に焦点をあ て、その成立の経緯、組織、活動地域、隣保事業との 関連、その調査方法について東京府慈善協会「会報」

を手がかりにその全体像をスケッチした。彼らが実施 した生活調査は生活支援を含む総合的な調査であった こと、救済委員といわれた人々は、当時の最先端の統 計学の素養を曲がりなりにも身につけ、警察の調査と は異なる「細民」の生活に寄り添うという戸口調査を 実施し、高い情報収集力、調査力を備えていたこと、

収集された「細民」と呼ばれた低所得層の生活困窮の 実際は、当時「細民標準」算定の基礎作りに貢献をし たことを明らかにした。さらに東京府慈善協会は当時 の欧米の情報を取り入れ、それらを参考にしつつ日本 的な展開を東京で試みようとするチェレンジングで先 進的な組織であったこと、とりわけ、その組織運営に は、当時欧米に留学経験のある内務官僚や慈善・社会 事業に関心をもつ実業家や救済施設機関を運営する慈 善・社会事業家たちが深くかかわっていたことを明ら かにした。

 本稿では、東京府慈善協会救済委員および東京市方 面委員が①どのような社会背景からどのような人々に よって構想され、成立したか。②方面委員たちは、対 象に対してどうかかわったか、以上2点について主に 東京府慈善協会報「方面時報」を手がかりに検討した い2

 大正期における方面委員に関する研究はすでにすぐ れた研究蓄積が多数ある。たとえば、岩田正美は「人 びとは貧困をどう捉えようとしたのか3」 のなかで、

大正期における東京府慈善協会救済委員がかかわった 調査について、細民標準に関する議論を引きながら次 のようにやや批判的に言及している。

 「さしあたり細民の概数を捉えるためのもので…肝 心な議論、すなわち収入を誰のどのような再生産状態 と関わらせて捉えるかという点を素通りしている…」

 救済委員は救済のための委員であり、そもそも細民 標準策定のための調査員ではなかったことを考えれば 岩田の指摘は必ずしも的を射るものとはいえない。細 民の概数を捉えることが救済委員の役割ではないこと は明白である。生活困窮者の人びとの生活に深く立ち 入ることが可能であり、 その結果救済委員の調査は

「細民」標準の根拠となるデータを収集することが可 能であったということはいえるのではないだろうか。

岩田の興味はあくまでも「社会調査」であり、方面委 員が生活困窮者の日々の生活に深く立ち入るという調 査様式の有効性には言及していない。社会福祉調査と してみれば当然、方面委員の生活調査についてとらえ るべきではないか。

 また、北場勉は「大正期における方面委員制度誕生 の社会的背景と意味に関する一考察4」で、方面委員 制度について人口問題、都市化、町内会という切り口 で論じている。当時の方面委員という人びとがどのよ うな社会的背景を持つ人であるかについて、「方面委 員の職業は自営業で、明治期に来住した者が多く、地 付きの名望家ではない。」と断定しているが、果たし てそうなのか。少なくとも大正7年の東京府慈善協会 救済委員制度では、方面委員は、1.名誉委員─所轄 警察署長、主任警部、区町村長や土地の有志、2.方 面委員─協会から選嘱、3.専任委員─協会から選嘱、

という三層構造をもっており、地区の警察や名士、東 京市社会局の嘱託や東京府慈善協会に属する救済施設 の職員なども深くかかわっていたことは会報等をみれ ば明確である。方面委員制度誕生時から救護法成立期 ごろまでにおいては北場の指摘はあたらないのではな いか。

 このように東京の救済委員制度(方面委員制度)を めぐってはさまざまな研究が行われているもののそれ らはまだ研究し尽くされているとはいいがたく、多彩 なこの制度をさらに深堀する必要がある。

 本稿では、東京府慈善協会の救済委員制度が成立し た大正7年から14年を中心に、救済委員制度下、方面 委員が日々、 どのような人びとを対象とし、「貧困」

と対峙したのか、「方面」という地域ベースにした支 援を展開したのかを「方面時報」に掲載された事例等

1  山田知子「『東京府慈善協会』救済委員の「細民標準」への貢献─『東京府慈善協会会報』を手がかりに」『放送大学研究年報』

36号(2018)p.724

2 東京の方面委員制度は、先ず、大正7年に東京府慈善協会が救済委員制度を開始する。この救済委員制度は名誉委員、方面委員、

専任委員という3種類の委員から成っていた。大正9年11.25東京市方面委員規定され、東京府慈善協会救済委員は東京府内務部 社会課附の財団法人東京府社会事業協会に位置づけられる。この救済委員制度はその後大正11年に設置された東京市方面委員制 度と一体化する。したがって、本稿では、両者についてのべるとき「東京の方面委員」を便宜的に使う。しかし、厳密にいえば、

大正7年から大正11年までは東京府慈善協会救済委員制度下の方面委員・専任委員であり、大正11年からは東京市方面委員とい うことになる。

3 岩田正美「人びとは貧困をどうとらえようとしたか」江口英一編『日本社会調査の水脈』法律文化社、1990年、p.23‑45

4 北場勉「大正期における方面委員制度誕生の社会的背景と意味に関する一考察」『日本社会事業大学研究紀要』55号2009年2月、

p.3‑37

Key words: Tokyo charity committee, remedy system, Elberfelder system, Inoue Tomoichi

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を手がかりに明らかにする。方面委員の目を通した詳 細なる戸口調査から引き出される当時の生活困窮の人 びとの生活実態は官製の細民調査や家計調査から得ら れる貧困に関する情報に比べはるかに多彩である。当 時の方面委員の生活支援の実際は統計情報を超えるリ アルをわれわれにもたらす。救済委員制度が生まれた のは、米騒動を経て、わが国の慈善事業が社会事業へ と大きな転換を果たす時期であり、それは、社会事業 分野だけでなく社会経済的な転換期とも重なり、大都 市東京で生活困窮者「細民」の生活変動の側から当時 の社会変動を読み解くことが可能ではないか、そこに 大きな社会的意義を見出す。

 まず、東京府慈善協会救済委員制度の創設に深くか かわった井上友一の業績から東京の方面委員の嚆矢と もいえる救済委員制度がどのようにイメージされてい たか明らかにする。次に救済委員制度がスタートした 大正7年6月、どのような人びとによって支えられて いたのかについて述べる。さらに、「方面時報」に掲 載された方面委員の「取り扱い実例」を手がかりに社 会経済的変動がどのような生活困窮を人びとにもたら し、それに対し、当時の方面委員がどのように生活問 題に接近し、具体的解決をさぐっていたのか、を読み 解く。当時の方面委員がどのように社会の「底辺」に 生きる人びとの生活に接し、支えていたのかを明らか にし、社会の底で何が起きていたのか、明らかにした い。

2. 東京府慈善協会救済委員制度を生み出す 

原動力

1)東京府知事井上友一

 方面委員制度といえば大正6年5月「岡山済世顧問 制度」、大正7年10月大阪「方面委員制度」が想起さ れる。東京府慈善協会の「救済委員制度」は、大正7 年3月に設置され、6月からスタートしているが、救 済委員制度という名称から方面委員制度とは異種とさ れ、長く方面委員制度とは考えられなかった5。1918

(大正7)年3月、東京では、東京府慈善協会の一制 度として救済委員制度が当時の東京府知事であった井 上友一の強いリーダーシップによって設置が決定され た。同年の6月13日、東京府慈善協会救済委員協議会 が東京府庁にて開催され、救済委員制度の組織、職務、

方面、調査事項などが決定されスタートした6。東京 市内に細民地区を担任する救済委員42名が挙げられ委 嘱されている。この救済制度について述べる前に府知

事であった井上友一について先ず述べておきたい。

 井上友一は金沢に生まれ、明治26年7月帝国大学法 科大学英吉利法律科卒業後、内務省に入省したいわゆ る高級官僚である。県治局勤務を経験し地方自治や地 方行政に強い関心をもっていた。明治33年4月万国慈 善救済事業会議(於パリ) に委員として出席しその 後、6月〜欧米各国を視察し翌年3月帰国している。

明治39年に中央慈善協会が発足するがその創立委員で あった。その後大正4年、東京府知事となる。

 井上については、右田紀久恵が詳細なる井上友一研 究をしている7。右田はこれまでの社会福祉研究は井 上の救済制度にのみに焦点化されてきたと批判、そう いった研究をこえるべきであると次のように指摘して いる。「…井上友ーの地方行政観を通して日本的特質 としての国・地方関係を分析し、今なお根づよい中央 からの地方観の底流を抽出し、融合型地方自治論の原 流を探ろうとするものである8」。

 井上の仕事を「地方自治の重要な要素として救済制 度」をとらえる視点は本稿も同様である。地方自治と してとらえる視点の背景には井上の欧米各国における 慈善救済事業の視察があったと考えられる。

 井上友一の経歴からすると、救済委員制度と強い関 連がみられるのは、やはり、明治33年から一年近くを 費やした欧米各国の視察であろう。井上は約1年の外 遊で欧米各国の慈善救済事業や地方自治の実情を知っ た。この時期、明治33年9月、窪田静太郎、有松英 義、松井茂、桑田熊蔵、小河滋次郎は、貧民研究会を 組織しているが、井上友一も外遊後、入会している。

井上が内務官僚として、貧民、慈善、救済事業に強い 興味を持っていたことが伺われる。

 外遊後、明治39年12月、井上友一は内務省地方局府 県課長となるが、その時『欧西自治の大観9』第4章

「地方自治とその作用」、 第3節「地方自治と経恤行 政」を記している。そのなかでいわゆるエルバーフェ ルト制度について次のように紹介している。岡山の済 世顧問制度が始まるはるか前から救貧組織としてエル バーフェルト方式に関心をもっていたことがわかる。

 「所謂エルベルフェルド市の救貧組織を模範として 寧ろその力を「貧民訪察の制度」に注ぎたり、即ち自 治の区域内を割して、之を数小区に分かち、委員を設 けて、其の分担区を定め貧民を訪問して、之を教ゆる の方法を取れり。この貧民訪察の制度はエルベルフェ ルト市の名称と友に、爾来諸国に喧伝せり、その貧民 の家庭を視察して懇ろに注意訓告を与ふることを旨と

5 『現代社会福祉辞典』有斐閣(2003)では方面委員制度について次のように解説されている。「1918年に大阪府に設けられた制度 で、当時の大阪府知事林市蔵と社会事業家であった小河滋次郎がその制度創設に尽力した。(山田秀昭)」このように東京府慈善 協会の救済制度については全く触れられていない。

6 会報、第5号、大正7年8月、p.21

7 右田紀久恵「井上友一研究(その1)」『社会問題研究』1992. p.37‑52、同(その2)1993. p.19‑45、同(その3)1994. p.1‑19

8 右田紀久恵「井上友一研究(その1)」『社会問題研究』1992. p.37

9 井上友一『欧西自治の大観 』明治39年12月報徳会、p.91‑94

国立国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/784559

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するを持って、また之を『友誼訪問の制度』と称す。」

 続いて井上は次のように書いている。

 「救貧制度とは宗教上の慈恵主義でもなく、感情的 な施与主義でもなく、ひとえに社会の考案、公共の利 益を標準とするものであること、庶民救済の任務は主 としてその生業を扶助して、再度独立自助の良民にし て、活力を利導し社会に貢献できるようにすることで あり、ヨーロッパの自治は救貧行政の弊害を取り除こ うとして改良しその結果、防貧行政にいたっている」

 井上は「救貧制度」というものは「宗教上の慈恵主 義でも、感情的な施与主義でもなく」、「社会の考案、

公共の利益を標準とするもの」で、ある種の公共政策 であると考えていたことがわかる。

 明治40年12月、内務省地方局有志編纂『田園都市』

(博文社)が刊行される。この緒言を井上友一が書い ている。第12章「救貧防貧の事業」において、グラス ゴーにおけるチャルマーズの取り組み「救貧区分割主 義」 とエルバーフェルト市の救貧制度に言及してい る。「救貧」「防貧」「田園都市」という文脈でエルバ ーフェルト制度を評価していることは特筆すべきこと である。つまり、井上は都市のあり方として救貧、防 貧が必要であり、単なる慈善や施与ではない別の形と してイメージしていたのである。

(2) 「救済制度要義」と「欧米自治救済小鑑」におけ るエルバーフェルト方式

 井上は明治42年3月「救済制度要義」を上梓する。

第3篇第1章第6款ドイツの救貧制度で、「エルベル フェルト主義」の救貧制度について次のように地方行 政と関連づけながら紹介している。

 「…ドイツの救貧制度で一言付け加えるべきはエル ベルフェルト主義の救貧制度である。ドイツの救貧制 度は、中央集権の旧態を脱して地方分担主義をとり、

この主義を極端に実行し顕著な功績を上げたるのがエ ルベルフェルト市の制度である。この制度は初めてプ ロシアライン州のエルベルフェルト市で実施されたも のでその名に依って『エルベルフェルト式救貧組織』

と称し、広くドイツ各郡に伝播している。窮民各戸の 状態を明らかにして各自最適切なる友誼的な救済を行 おうとするもので、小区制を設け貧民監察員によって 親しく窮民を視察するもので、窮民を公共の施設に収 容せずに各戸に就いて之を訪問し最懇切に独立自営の 途を教えるものである。小区に分別するのは、家族の

状態生活の程度を熟知するのに便利であり、小区を合 わせて中区をおいて、中区長を置き事務を監督し中区 会議を設けて諸般の事件を議す。中央統一の便宜をは かるため、市行政部の代表者で組織された中央行政局 を置く。 救助の方法は14日ごとに厳密なる査察を行 い、公費救助を継続するか否かを定める。この制度は 市の銀行頭取であるハイトの首唱から始まったもので ある。この制度はドイツ各都市に伝播し、ケルン、デ ュッセルドルフ、クレフェルトなどの都市でも採用さ れている。10

 さらに「救済制度要義」 刊行の翌年、 明治43年10 月、内務省地方局編纂『欧米自治救済小鑑』が出版さ れているがこれも井上が深くかかわっている11。この 中で、ドイツエルバーフェルト市における防貧事業を 紹介しているが市について次のように描写している。

 「エルバーフェルト市はバーメン市と接しているが、

両市おのおの人口15万内外で市制としては、独立した 都市であるが、経済の点からみるとひとつの都市を形 成している。エルバーフェルト市は防貧制度の嚆矢と して名を得ているが、それだけでなく、バーメン市と の間を貫流する小河に沿って、架空電車を設けていて 珍しいということでも世の中で知れ渡っている。この 種の電車は友邦諸国においてもなく、防貧制度と架空 電車はエルバーフェルト市の誇りである12。」

 この『欧米自治救済小鑑』ではエルバーフェルト市 のバイエル工場、バーメン市の開墾湖水、架空電車の 停車場や昇降口、走行中の電車の写真が掲載されてい て極めて興味深い。そもそもエルバーフェルト市はド イツの産業革命の中心の地である。1929年、 バーメ ン、エルバーフェルド、ヴォーウィンケル、クローネ ンベルク、ロンスドルフの町が合体して「バーメン・

エルバーフェルド」と呼ばれる地方自治体になり、そ の後「ヴッパータール」と名称を変更し現在に至る。

バーメンとエルバーフェルトの間には渓谷があり、ヴ ッパータール川が流れていて、その川の上を架空電車 が今でも走っている13。移民の流入で、エルバーフェ ルトの人口はもとは16,000人程度だったが1810年に

19,000人に、1840年に40,000人に膨れ上がり、2つの

都市はドイツで最も人口密度の高い市町村の1つとい われていた。染色業によってヴッパータール川は赤く にごった汚染された川であった。1900(明治33)年の 外遊で井上友一は川の上を巨大な鉄骨によって支えら れて走る架空電車をみて、エルバーフェルト市のそし

10  井上友一『救済制度要義』博文館、明治42年3月、p.160165

11 内務省地方局編纂『欧米自治救済小鑑』明治43年10月、p.118‑120

12 同上、p.118

13 ちなみにバーメンはフリードリッヒ・エンゲルスの生まれ故郷であり、エンゲルスはエルバーフェルトのギムナジウムに通っ た。エンゲルスは富裕な実業家(紡績資本家)の長男として、父の工場があるマンチェスターで家業を継ぐための修行をするが その際の経験から後に1845年『イギリスにおける労働者階級の状態』を刊行したことはあまりに有名であるが、エンゲルスが暮 らした時、バーメンとエルバーフェルトはすでに19世紀前半から、繊維の都市でドイツ産業革命先駆者、「ドイツのマンチェス ター」といわれていた。小島恒久『マルクス・エンゲルス紀行』法律文化社、1979、pp.113‑115

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てドイツの技術力の高さをみせつけられたのであろ う。と同時に汚染されたヴッパータール川の風景や子 どもも長時間労働低賃金で労働を強いられる労働者の 状態、貧困の実態、それを解決するためのエルバーフ ェルト方式という救貧制度に強い興味をもったのでは ないかと思われる。

 「救済制度要義」で井上はエルバーフェルト方式に ついて8つのポイントを挙げて紹介している。

 1.中央集権の旧態を脱して地方分担主義

 2. 窮民各戸の状態を明らかにして各自最適切なる 友誼的な救済を行おうとするもの

 3. 小区制を設け貧民監察員によって親しく窮民を 視察するもの

 4. 窮民を公共の施設に収容せずに各戸に就いて之 を訪問し最懇切に独立自営の途を教えるもの  5. 小区に分別するのは、家族の状態生活の程度を

熟知するのに便利

 6. 小区を合わせて中区をおいて、中区長を置き事 務を監督し中区会議を設けて諸般の事件を議す。

中央統一の便宜をはかるため、市行政部の代表 者で組織された中央行政局を置く。

 7. 救助の方法は14日ごとに厳密なる査察を行い、

公費救助を継続するか否かを定める。

 8. この制度は市の銀行頭取であるハイト14の首唱か ら始まったもの。

 地方行政のなかにどう救済制度を位置づけるかが井 上の関心事であったのである。そしてこの制度の財政 的な面については実業家を加えるというのが井上のエ ルバーフェルト市の救済制度から学んだことであっ た。それは、東京府知事になり東京府慈善協会を創設 することによって具体化していく。

 大正4年に井上は東京府知事に就任する。大正6年 には東京府慈善協会を立ち上げ自ら会長となり、顧問 を渋沢栄一とし翌年には救済委員制度を開始させる。

井上の頭の中には外遊中に得た先進諸国の救貧制度に 関する情報があった。ドイツのエルバーフェルト主義 による救貧制度を東京府で具体化させたいと考えた。

東京府慈善協会の救済委員制度は、地方自治、地方行 政のしくみ、救貧体制のツールとしてエルバーフェル ト制度をモデルにしたと考えられる。井上友一は明治 末から大正前半にかけて救済行政の中枢にあり、日本 の救済行政の基礎をつくるとともに、救済理論の樹立 者でもあったといわれるが15、加えて、地方自治の一 環として救貧制度の最前線として救済委員制度を位置 づけていたといえよう。さらに、井上は渋沢栄一など の実業家とも強いパイプをもっており、エルバーフェ ルトシステムが銀行家の提唱によって始められたこと

もあり、実業家の役割、特に資金面での、を強く意識 していたと考えられるのである。

3)地方行政としての救済委員制度

 1917(大正6)年5月に岡山済世顧問設置規定公布 がされる。わが国の方面委員の嚆矢とされる。また、

翌年の10月には大阪府方面委員規定公布されたところ からこれまで、方面委員の歴史をたどるとき、岡山の 済世顧問制度と大阪の方面委員制度がその起源と語ら れることが多い。が、地方行政を強く意識した制度と して、大正7年3月に設置された東京府慈善協会救済 委員制度は方面委員制度史上、きわめて重要な位置を 占めている。それぞれが救貧のための制度であり、地 域をベースとして小区に区分けし、そこに民間の委員 を配置するというシステムであることは共通している が、その発想は井上の外遊以降、明治30年代からわが 国にすでに流入していたものであり、ドイツから学ん だエルバーフェルトシステムという救貧制度を単なる 救貧ではなく、地方行政として位置づけ、実業界から の資金をバックにした東京府慈善協会という組織によ って実体化しようとした。こう考えると井上の設置し た東京府慈善協会救済委員は地方行政の一翼を担う救 済制度のひとつ、先進的な極めてスマートなシステム であったといえるのである。

3.救済委員制度を生み出した社会的背景

1)社会政策からの「窮民救助」の動き

 井上友一が万国慈善救済事業会議(於パリ)に委員 として出席し、その後外遊したのは明治33年であった ことはすでに書いた。このころは「窮民救助」につい て社会的関心が高まっていた時期でもあった。明治24 年、金井延は「窮民救助策を講ずるの必要」『六合雑 誌』を書き、明治31年には、内務省が窮民法案を企図 している。同年、農商務省が工場法案を起草し、各商 業会議所に諮問、また、前後するが、明治29年には山 崎覚次郎、桑田熊蔵、小野塚喜平次、高野岩三郎らに よって社会政策の研究会が創立され(会の名称は未確 定)、後日、窪田静太郎、金井延、翌年、日野資秀、

高野房太郎が入会している。翌年の明治30年社会政策 学会が創設されている16。明治32年、横山源之助『日 本の下層社会』が出版され、その序で日野資秀が英国 の「チャーレスブース」のロンドン調査を引きながら 横山の仕事の日本における先駆性をたたえている。

 明治33年感化法が制定される。起草の中心は窪田静 太郎だが、事実上作業に当たったのは、後に大阪の方 面委員創設に深く携わる小河滋次郎であった。 同じ 年、農商務省商工局に臨時工場調査掛が設置され、工 場法制定のための各地の工場労働者の実態調査が開始

14 いわゆるエルバーフェルトシステムはエルバーフェルト市の銀行家ダニエル・フォン・ハイトが1852年提唱し、翌年始められた といわれている。

15 吉田久一『社会事業理論の歴史』一粒社、1974、p.129

16 社会政策学会HPより

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同時に反政府的言論への抑圧が表面化する。12月に は、吉野作造、福田徳三、今井嘉幸らによって『黎明 会』が結成されている。また、福田徳三が『国民経済 雑誌』に「極窮権論考」19を発表している(この年、労 働組合107、同盟罷業417件、小作争議256件)。

 大正8年1月パリ講和会議が開かれる。2月に大原 社会問題研究所が大阪で設立され、(高野岩三郎所長)、

イギリス、ドイツ、フランス、アメリカでの洋書が積 極的に購入されている。4月堺利彦、山川均『社会主 義研究』創刊、5月堺利彦、山川均らマルクス主義を 旗印に『新社会』発刊される。6月ベルサイユ講和条 約第13編「労働」に基づきILOが設立され、第1回総 会で、労働時間が1日8時間、1週間48時間と定めら れる(この年、労働組合187、同盟罷業497件、小作争 議326件)。

 このようにみると国民生活の不安は深まり、不安は 政府への不満として鬱積していた。救貧法の必要性、

雇用の安定や失業対策などが急務とされ、社会政策や 救貧制度の不備はますます反政府運動の激化を招くも のであった。東京の反政府運動に対し、警視庁、社会 不安に備え警察官を増員している。 失業、 生活不安 は、反政府運動を呼び起こし、一方で救貧制度の整備 をその一方で治安維持のために市民の生活を監視する という動きも強化され、そういうなかで東京の方面委 員はスタートしたのである。

4. 東京府慈善協会救済委員制度の組織構造と 

人材

(1)救済委員制度の組織体制

 このような社会的背景のなかで、救済制度への関心 は各界で高まっていた。東京府慈善協会の救済委員制 度は当時、府知事であった井上友一の強いリーダーシ ップのもと大正7年3月に設置が決まった。同年6月 に東京府慈善協会救済委員協議会が東京府庁で開催さ れ、救済委員心得事項(救済委員制度の組織、職務、

方面、調査事項など)が決定されている。そのとき、

市内及び市近接町村における細民地区を担任する救済 委員42名が挙げられた。その救済委員はどのような人 びとであったのか。「東京府慈善協会会報20」第5号(大 正7年8月)によれば次の三種類の委員が存在した。

職務、救護の方法等は次に示す通りである。

①組織

 1. 名誉委員─所轄警察署長、主任警部、区町村長、

されている。9月には貧民研究会が組織される。その メンバーは、窪田静太郎、有松英義、松井茂、桑田熊 蔵、小河滋次郎であり、井上友一も外遊から帰国後入 会したことは前述の通りである。

 明治40年、社会政策学会第1回大会が開催、大会討 議テーマは「工場法」であった。学会では3日目に参 観を実施しているが、参観の先は印刷局工場、芝三田 煙草製造所、鐘淵紡績工場、東京養育院である。東京 養育院が訪問先に入っているのは、当時の救貧機関と して代表的存在であったことがその理由であるが「窮 民救助」への関心の高さも伺われる。その後も社会政 策学会は現地視察を実施している。明治44年の第5回 大会は、三井慈善病院と東京府巣鴨病院、大正3年の 第8回大会では東京廃兵院、巣鴨監獄、大正6年第11 回大会は本所貧民窟を参観しているが、社会政策学会 は労働者保護と当時に慈善事業や救済事業にも興味を 広げていたことが伺われる。というよりむしろお粗末 な工場法、限定的な救済事業の結果、多くの「窮民」

すなわち生活困窮者の発生という現実をみれば、貧困 問題の解決のためには社会政策と救済事業をセットと して考える必要があったといわざるを得ない。

 また、実業家による慈善事業への参入この時期に拡 大していることも注目に値する。たとえば明治42年、

財団法人三井慈善病院17が開院され、明治44年恩賜財 団済生会18が設立され無料診療が始まっている。

 このように生活困窮者の増大、救貧政策の必要性の 高まり、社会政策からの関心、実業家からの資金援助 の体制の確立などにより、東京における救済制度成立 の骨格は固まったといえる。

2)反政府運動の活発化

 東京府慈善協会救済委員制度がスタートした1918

(大正7)年前後はわが国の社会政策、慈善事業、社 会事業にとってきわめて重要な年で、とりわけ大正7 年は米騒動を契機に、慈善事業から社会事業に転換し ていく社会福祉の歴史のなかで転換期である。労働争 議も多発し東京では、水害や大震災による被災者への 支援、第一次大戦後の経済恐慌による生活困窮者への 支援にいっそう関心が高まった。また、社会主義思想 の台頭、反政府運動も活発化する時期でもある。文末 の年表はこの時期の社会動向を概観したものである。

 大正7年7月、米騒動始まる。東京にも波及する。

8月東京府は井上知事の命により、米価暴騰に対応し 朝鮮米を指定米商に委託し廉売を開始している。

 大杉栄・伊藤野枝ら『文明批評』創刊されるものの

17 大正8年4月、「財団法人泉橋慈善病院」に改称

18 明治44年2月11日、明治天皇は、「生活苦で医療を受けることができずに困っている人たちを施薬救療(無償で治療すること)

によって救う」と「済生勅語」を発し、150万円を下賜した。当時の日本は、欧米列強に伍するため富国強兵策を進め、日清・

日露戦争でも勝利したが、国民の間では戦争で傷つき家の大黒柱を失い、失業した人など数多くが貧困にあえいでいた。こうし た社会背景を受けて、明治天皇は生活困窮者に対して医療面を中心とした支援を行う団体の創設を提唱し済生会が生まれた。

(済生会HPより)

19 福田徳三「極窮権論考」『経済学商業学国民経済雑誌』25(4)1918年、P.507‑528 http://www.lib.kobe‑u.ac.jp/repository/00052941.pdf

20 東京府慈善協会会報第5号、大正7年8月

(7)

 救済委員および受け持ち方面21 1.四谷方面

 方面委員 鮫ケ橋尋常小学校長(庄田録四郎)

 専任委員 伝道義会医院(外村義郎)

      双葉保育園主任(徳永恕子)

      鮫ケ橋尋常小学校職員(小笠原武松)

2.小石川方面

 方面委員 家庭学校教頭(篠崎篤三)

 専任委員 四恩瓜生会(三輪政一)

      東京市養育院職員(四谷炳鏘)

      櫻楓会託児場主任(丸山千代子)

      素山学校主任(内田駒太郎)

       東京市養育院部巣鴨分院職員(箕谷庄太郎)

3.下谷方面

 方面委員 万年尋常小学校長(阪本龍之輔)

 専任委員 救世軍愛隣館主任(加藤辰五郎)

      同善小学校長(窪田量寿)

4.浅草方面

 方面委員 玉姫尋常小学校長(田本房太郎)

 専任委員 同情園主幹(阪巻顕三)

      玉姫尋常小学校長(田本房太郎)

      眞龍女学校長(高岡龍瑞)

5.本所方面

 方面委員 大日本救療院長(高山喜内)

 専任委員 救世軍愛隣館(五十嵐きぬ)

      三笠尋常小学校長(井上延太郎)

      賛育会(藤田逸男)

      浄土宗布教団人事相談部 6.深川方面

 方面委員 猿江尋常小学校長(三町豊作)

 専任委員 労働共済会理事(中西雄洞)

      労働保護協会理事(荒喜松五郎)

      第二無料宿泊所主幹(朝比教證)

      霊岸尋常小学校長(坂間惣重郎)

7.芝方面

 方面委員 専任委員兼任  専任委員 芝浦尋常小学校長 8.品川方面

 方面委員 杉山按摩学校幹事(朝原梅一)

 専任委員 東京文京慈済会職員(秋庭たけ)

9.渋谷方面

 方面委員      ─

 専任委員 大日本婦人慈善会職員(小倉海静)

      東京感化院主事(土田行学)

10.日暮里方面

  方面委員      ─

  専任委員 櫻楓会幹事(松川清、林ひろ子)

11.王子方面

  方面委員  東京女子基督教青年会幹事(加藤高子)

  専任委員  東京女子基督教青年会職員(田丸米子)

       王子保育園長(倉川乙吉)

12.千住方面

  方面委員 当分兼任

  専任委員 眞哉会職員(尾原静乗)

13.吾妻方面

  方面委員 三井慈善病院職員(法学博士本間虎五郎)

  専任委員 吾妻第二尋常小学校長(加藤直三)

14.亀戸方面

  方面委員  三井慈善病院職員(法学博士 本間虎五郎)

  専任委員 亀戸第一尋常小学校長(間仲繁乃助)

       福田会育児院託児場(小森よしゑ)

       大島尋常高等小学校校長(本田甚平)

恤救主任書記および警察署長又は区町村長の推 薦に係る土地有志者に嘱託す

 2.方面委員─協会会員から選嘱  3.専任委員─協会から選嘱

②職務

 名誉委員は、方面委員および専任委員を援助する。

 方面委員は当該方面の連絡統一を図る。

 専任委員は、その受け持ち区域のイ調査、ロ相談、

ハ救済(相談および救済を救護と総称する)

③方面  14方面

  方面委員 9名   専任委員 31名

④救護の方針

 1.濫給に陥らざること  2.救助の重複を避けること  3.生業扶助居宅救助を優先する  4.金品の施与は避けること

 5.自営復帰を主眼として相談するように勉める  6.救助をあらかじめ約束することはしない。

 7.自重心を発揮させるようにすること

⑤救護の方法

 1.受け持ち地域の状況に精通する

  ・戸口、経済、職業。風紀、衛生、教育状態   ・ 受け持ち区域を巡視するほか、所轄警察署、区

役所、 町村役場、 学校、 救済団体、 在郷軍人 会、差配所、その他を訪問する。

 2. 救助の実施に当たっては要救護者の状態を精査 する。

 3. 関係法規各種相談に対する紹介、依頼先、その 他の手続きの大要に通じていること。

⑥連絡方法

 1. 専任委員は救護方法について自ら決定実行する ことを本旨とするが必要があれば本部、名誉委 員、その他の関係者と商議すること。

 2. 全方面にわたる連絡その他の救護上の重要な事 項は随時委員の協議会を開く。

 3.救済委員設置の件は関係筋に周知すること。

 4. 専任委員が属する団体には東京府事前協会ある いは方面相談所と記した門標を掲げること。

 5. 委員の実施した事項はその概況を本部に報告す ること。ただし、専任委員の報告は方面委員を 経由する。

⑦調査事項

 ・受け持ち区域の地図作成

 ・ 現在救済機関の不備や新設を必要とする救済機関 について

 ・その他

21 受け持ち方面の詳細は略

(8)

下に方面掛ができる。後藤新平市長が構想した社会施 策は①方面委員事業の拡充、②職業紹介所の創設、③ 簡易宿泊所の新設、④公衆食堂の設置、⑤市営住宅の 設置、⑥施療病院の増設であった25

 以上が東京府慈善協会救済委員制度が井上の急逝を 境に大阪をモデルに東京市方面委員制度に変化してい く過程である。地方自治の一環としての救済委員制度 が東京市の保護行政に再編されていったのである。

 次に東京府慈善協会救済委員制度の活動実態につい て述べる。救済委員制度が方面委員制度に再編される なか、当時の東京の救済制度としてどのような人びと を対象とし、また、その生活困難の実際はどのような ものであったのか。生活に困窮した人びとのサイドか ら当時の社会の実像を描くことは政治史や経済史では 描ききれない社会史の一断面をあぶり出すことが可能 である。

5. 方面委員の生活支援の実際 

─方面時報の浅草の事例から

 次の表は、 昭和4年の救護法制定前、「方面時報

(昭和2年10月号)」に掲載された「ある方面カード浅 草の実例26」である。大正14年8月1日〜昭和2年7 月末までの記録である。当時の東京市の方面委員がど のような人びとを対象に、そしてどのようにかかわっ たか、うかがい知ることができる。

(1)家族状況

 世帯主:明治7年生まれの51歳、埼玉県出身、その 妻は明治19年生まれで39歳、同じ埼玉県出身である。

子どもは6人、内男子5人、女子1人。長男大正元年 生(13歳)、長女大正4年生(10歳)、次男大正5年生

(9歳)、三男大正10年生(4歳)、四男大正12年生2 歳(昭和2年死亡)、起票後の昭和2年1月に五男が 誕生している。8人家族

(2)職業および収入状況

 世帯主は「自由労働者」、いわゆる日雇い労働者で 月40円くらいの収入である。妻は爪掛内職と人形内職 をして日銭50から60銭、長男は大正15年3月に尋常小 学校を卒業しその後給仕として働き日64銭の稼ぎであ る。長女は尋常小学校卒業後昭和2年7月女中奉公に 出、前借50円している。次男も昭和2年7月人形屋に 奉公に出ているが、まだ小学生であった。

 以上が救済委員の組織体制および方面委員、専任委 員のリストである。とくに委員のリストがきわめて興 味深い。四谷方面の専任委員の二葉保育園徳永恕、小 石川方面櫻楓会託児場主任の丸山千代子22、下谷方面 の方面委員の下谷万年尋常小学校阪本龍之介などは、

当時の慈善事業のリーダーたちおよび貧児教育にエネ ルギーを注いだ尋常小学校の校長らが名を連ねている ことである。本所方面の専任委員には賛育会の藤田逸 男23の名がある。慈善事業、教育、医療、宗教団体を 含み多彩な人員配置である。

 東京府慈善協会の救済委員制度は、それぞれの方面

(地域)に根ざし、小学校区や長くその地で慈善事業 を営んできた事業家をメンバーとして選抜し配置する ことによってそこに住む人々のきめ細かな生活実態把 握や具体的支援を容易にしようとした装置であったの である。それは井上友一がドイツでみたエルバーフェ ルト方式をまさに「地方自治」の制度として具体化し ようとした姿であったといえるであろう。

(2)救済委員制度から方面委員制度への移行

 しかし同時期にスタートした大阪の方面委員制度に 比べ、東京府の救済委員制度は担当委員数やその活動 実績などは見劣りするものであったようである。大正 8年6月6日、東京府庁内で開催された救済委員協議 会の席上、井上友一は次のような発言をしている。

 「…その後、大阪府にも救済委員(方面委員)制度 が発足し、委員の定員も多く、その活動も活発で、お そらくエルバーフェルト市において試みられたものに 範をとったと思うが・・斯業を推進してほしい24」  この会議で救済委員の活動方面は二十方面に拡大さ れる。井上は府知事として救済委員制度に大きな期待 をしていたが、委員数や活動実績、ないよりも機動力 において大阪に比して満足のいくものでなかったこと にある種の焦りを感じていたことが推察される。この 発言のほんの数日後、井上は急逝する。東京府の救済 委員制度を強いリーダーシップのもと推進してきた中 心人物の死、その後、大正9年、東京市の方面委員制 度は大阪を模範として再スタートすることになるので ある。救済委員は東京市以外の府下で活動を細々と続 ける。東京市では、「方面」の再編がおこなわれ、翌 年には二十二の方面となる。

 大正10年、後藤新平が東京市長に就任する。保護課 が設置され、社会事業に関する事務を総括する。その

22 丸山千代子は桜楓会(日本女子大学同窓会)の中心的存在であった。大正6年、東京の大風水害の際、桜楓会は東京府慈善協会 後援で出張託児所を4ヶ所開設している。大正7年、東京府救済委員となり、また、東京府慈善協会保育分科会の主任、「スラ ム街の母」と呼ばれた。(『社会福祉人名資料事典』Vol. 1

23 藤田逸男は賛育会の創設メンバーの一人で吉野作造の次の理事長。賛育会は1918年(大正7年)3月、東京帝国大学学生基督教 青年会(東大YMCA)特別会員有志である木下正中、吉野作造、藤田逸男、河田茂、片山哲、星島二郎氏らにより、キリスト 教の趣旨にもとづき、婦人と小児の保護、保健、救療を目的として創立された。同年4月東京市本所区太平町に「妊婦乳児相談 所」を開設。防貧事業としての母性保護事業と、託児事業を開始。1919年(大正8年)8月本所区柳島梅森町「本所産院」に一 般庶民を対象とした最初の産院を開設。

24 全国民生委員児童委員協議会編『民生委員制度七十年史』1988、p.54

25 同上、p.61‑62

26 方面時報の事例から昭和2年10月号「取り扱い実例 ある方面カード 浅草の一方面委員」

(9)

3)住居の状況

 平屋トタンバラック、6畳一間、家賃14円

(4)扶養義務者縁故者

 妻の実家が埼玉にあり農業をしているが貧困で本人 たちを扶養する能力はなく、ほかに扶養義務者はいな い。世帯主は実直なものである。雨天などで労働する ことができないときは爪掛け内職をしている。

(5)生活状況および取り扱い事項

■大正14年

 8月1日  世帯主の賃金と妻の内職でかろうじて生 計を立てているが、子どもが多く、警戒 が必要である。

 8月28日  妻感冒にかかり内職ができない状態。方 面委員、済世会の診察券交付

 12月20日  生計豊かならず、年末年始の用意ができ ていない。

 12月24日  方面委員、朝日新聞社年末慰問品引換券 および救世軍のし4 4餅半額券交付

■大正15年(昭和元年)

 4月10日 長男、尋常小学校卒業し給仕として勤務  8月28日  方面委員、長女および三男済世会第一診

療班に紹介

 10月4日 方面委員、妻に日日助産券交付

 12月21日  妻妊娠中で内職ができない。かろうじて 生活している。

 12月25日  方面委員、日日新聞社年末配給券および 朝日新聞社ののし4 4餅引換券交付

■昭和2年

 1月16日 妻男児(五男)出産

 7月13日 世帯主と四男に済生会診療券交付  7月15日  世帯主と四男、腸チフスがわかり本所病

院へ送られる。世帯主入院し、一家の収 入途絶え生活困難に陥る。

 7月20日  方面委員、長女、子守奉公を世話、五男 を東京市玉姫牛乳配給所へ紹介する。一 日3合ずつ配乳を受けられるようにする。

 7月21日 四男、腸チフスで本所病院にて死亡  7月30日  一家貧困の極に陥り、他よりの補助を必

要と認め、長男の勤務先の所長と相談し 慰問金若干下付、妻の内職の元手とさせ る。

 8月6日  方面委員、次男、人形店へ奉公世話、1 月に生まれた五男は共立育児舎27へ哺育 委託

 大正14年の夏からおよそ2年にわたって方面委員が どのようにこの家族にかかわったのかが日を追って書 かれている。この事例から何が見えてくるか。東京市 浅草区のバラック6畳1間に暮らす8人家族である。

夫婦ともに地方出身である。学校は出ていない。世帯 主は埼玉から上京して42〜43年である。50歳を過ぎて いる。「実直な夫」は日雇い労働で収入を得ているが それは必ずしも安定しているわけではなく、雨の日は 仕事がなく妻の内職を助ける暮らしである。妻は家計 を助けるために内職をしている。5人の子どもをかか えさらに妊娠している。妻は風邪を引き済生会の診察 券を交付された。夫と四男が腸チフスで入院し、働き 手を失い一家の家計は極限状態となる。四男は病死す る。方面委員の仕事は、3〜4ヶ月に一回訪問して世 帯の状況を見守り必要に応じて診療券や病院、助産券 などを交付する、 また、 子どもの奉公先を紹介した り、内職の世話をしたり多岐にわたっていることがわ かる。また、生活困窮で育てられない子どもを乳児院 に「処分」(委託)している。救護法成立前の方面委 員によるきわめて限定的かつ私的な「窮民救済」の実 際を読み取ることができる。公的救済の制度としては 恤救規則があるのみでその限界は歴然である。済生会 の診察券や新聞社の慰問品、救世軍ののし4 4餅など民間 による救助だのみという状況のなかで、方面委員が内 職の斡旋や奉公先の紹介をふくめ乏しい資源をかき集 め対応している姿が見えてくる。このような極限状態 にもかかわらず、恤救規則の対象とはならず、現金給 付も米代の支給もなされた気配はない。生活困窮の最 前線にあって東京の方面委員たちが直面した大都市に 住む人びとの生活の窮状は、彼らに限定的かつ私的な 支援の限界を体感させることとなった。「実直な」労 働者でも仕事にありつくことができない、失業と疾病 によって生活が窮していく過程をみるにつけ、貧困原 因の構造性を否が応にも痛感させることとなったので ある。

6.まとめにかえて

 以上、東京府慈善協会救済委員制度から東京市方面 委員制度に変わっていく過程から東京の制度の特徴と 委員の生活支援の実際をみてきた。結論としてさしあ たって次の四点を指摘しておきたい。第一に、東京府 慈善協会救済委員制度は、府知事であった井上友一が 欧米視察によって得られたエルバーフェルト方式から 強い影響を受けて誕生した。それは、岡山や大阪の方 面委員制度が始まるずっと前からわが国に「情報」と してすでに輸入されていて、東京の制度は井上によっ て導入された。井上は、この制度を狭い意味での慈善 事業や社会事業ではなく、地方行政の一環として救貧 制度として位置づけていたことが特徴である。 第二 に、東京府の救済制度は、三層構造になっていて、実 働は方面委員および専任委員がおこなっていた。それ らの委員は当時の慈善事業や救済施設のリーダーた ち、貧児教育に強い関心をもつ学校関係者たちであっ

27  「共立育児舎」は「婦人共立育児会」のことと推察される。明治24年、「貧者の病児を救療することを目的」として設立された。

初代会頭は鍋島栄子、二代会頭は大久保栄子(婦人共立育児会『育児会五十年史』昭和16年)。

(10)

た。彼ら彼女らは地域の核となる人々であり、施設や 学校という生活支援の資源を持っていたため生活困窮 する人びとの生活を具体的にバックアップすることが 可能であった。卓越したオピニオンリーダーが中核を 担っていたのである。第三に、しかし、救済制度はそ の委員の絶対数が少なく機動力に乏しく、増大する生 活不安に対応することができず、大阪をモデルにした 方面委員制度に取ってかわられることになった。同時 に「時代の要請」もあり、労働運動や社会主義運動の 台頭を地域レベルで抑止し監視する装置としての役割 を課されることとなった。第四に大正期における東京 の方面委員の活動は、よりどころとなる救貧法なき時 代であり、当初から民間機関や私的な努力に依存して いて限界が見えていた。しかし、活動の限界は皮肉に も恤救規則の限界、救貧法の必要性を可視化すること となった。その限界こそが、昭和4年の救護法成立に つながる道筋を作った。こうして、東京の方面委員制 度は救貧制度の最前線にあって貧困の実態を生活レベ ルで詳細に把握するツールとなった。それは貧困の算 定を可能にしたが、同時に人々の行動を監視すること をも可能にしたのだった。その後、方面委員は戦時体

制の言論統制の末端システムとして深く組み込まれて いくのである。

 次号では、 方面委員の取り扱い実例をさらに検討 し、この時代の社会経済的変動がどのように生活に窮 する人びとを生み出したのか、そこに方面委員はどう かかわったのか、明らかにしたい。

参考文献

社会福祉調査研究会編『戦前日本社会事業調査資料集成』

第1巻、勁草書房、1986

社会福祉調査研究会編『戦前日本社会事業調査資料集成』

第2巻、勁草書房、1988

全民児協編『民生委員制度七十年史』1988

江口英一編『日本社会調査の水脈─そのパイオニアたちを 求めて』法律文化社、1990

近現代資料刊行会「日本近代都市社会調査資料集成 東京 市社会局調査報告書」SBB出版会、1995

津田真澂『日本の都市下層社会』ミネルヴァ書房、1972 賛育会『賛育会五十年史』賛育会、1972

東京府慈善事業協会報及び東京府社会事業協会報 各号 方面時報 各号

(2019年11月5日受理)

(11)

取り扱い実例(個人を特定できないように氏名は一部黒抜きにしてある)

・ある方面カード「取り扱い実例『方面時報』の事例から」『方面時報』昭和2年10月号、p.10‑11より

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