論叢現代新・現代文化 2010 ¥10.14pp. 97 - 155
ラファエル前派兄弟団におけるプリミティヴイズム
一
一
- 19
世紀英国の「ラファエッロ以前
J
問題
1山 口 恵 里 子
はじめに
1
9
世 紀 ヨ ー ロ ッ パ の 芸 術 界 に お い て 「 ラ フ ァ エ ッ ロ 以 前 」 に 立 ち 戻 ろ う と す る 動きが随所でみられた。
1
8
0
9
年 、 ウ ィ ー ン で は ピ ー タ ー ・ コ ル ネ リ ウ ス や フ リ ー ド リヒ・オーヴァーベックらがアカデミ ックな絵画に不満を抱き、デューラ一、ラファエッ
ロ を 手 本 と す る よ う な 絵 画 を 目 指 し た 。 彼 ら は
1
8
1
0
年 に ロ ー マ に 移 住 し 、 修 道 院 で修 道 僧 の 衣 装 を 身 に つ け て 制 作 し 、 宗 教 画 の 守 護 聖 人 の 名 前 を と っ て 、 み ず か ら を 聖
jレカ兄弟図
( Lu
kasbru
der)
と 呼 ん だ 。 彼 ら は キ リ ス ト の 生 涯 を 描 く こ と を 好 ん だ た め 、 ナ ザ レ 派 と し て 知 ら れ る よ う に な る( A
l exan
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1
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)
0 フ ラ ン ス で は1
8
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年 前後、
J
L . ダヴイドのスタジオに集まった画家たちがダヴィドに失望し、パリ郊外のシャイ ヨ ー に あ る 修 道 院 に 住 み 、 古 代 ギ リ シ ア の 「 プ リ ミ テ イ ヴj な 壮 麗 さ に 芸 術 家 と し
て 回 帰 し よ う と し た 。 彼 ら は
B
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と も 呼 ば れ 、 オ シ ア ン に も 情 熱 を 注 ぐ よ う に なる
( Vaughan 3
9
)
0 英 国では、1
8
2
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年 代 サ ミ ュ エ ル ・ パ ー マ ー を 中 心 に し て ケ ン ト 州シ ョ ア ー ハ ム 村 で 近 代 以 前 の 牧 歌 的 世 界 を 理 想 と す る 「 古 代 人 た ち
( The A
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t s) J
と 呼 ば れ る グ ル ー プ が 形 成 さ れ た 。
1
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年 英 国 の ロ ン ド ン で ダ ン テ ・ ゲ イ ブ リ エル・ロセッテ ィ 、 そ の 弟 の ウ ィ リ ア ム ・ マ イ ケ ル 、 ジ ョ ン ・ エ ヴ ェ リ ッ ト ・ ミ レ イ 、
ウィリアム・ホウルマン・ハント、ジェイムズ・コリンスン、F . G. スティーヴンス、
ト マ ス ・ ウ ル ナ 一 の
7
名 の 若 者 が 結 成 し た 「 ラ フ ア エ ル 前 派 兄 弟歪l
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も 、 「 ラ フ ァ エ ッ ロ 」 以 前 の 芸 術 に 理 想 を 求 め る 動 き の ー っ と し て 位置づけられる。
本 稿 で は 、 ラ フ ァ エ ル 前 派 兄 弟 団 に お け る 「 ラ フ ァ エ ッ ロ 以 前 j 問題を考察するが、
この追跡は、おのずと同時代の中世主義( 中世趣味,
m
ed
i eval i sm
)
とプリミテイヴイズ ム と の 照 応 も た ど る こ と に な るO 本 稿 は こ の う ち プ リ ミ テ イ ヴ イ ズ ム と の 重 な り に
焦点をあてるO ラ フ ァ エ ル 前 派 兄 弟 団 が 称 賛 し た の は 、 フ ラ ・ ア ン ジ ェ リ コ 、 ベ ノ ッ
ツ ォ ・ ゴ ッ ツ ォ リ 、 ハ ン ス ・ メ ム リ ン ク 、 デ ュ ー ラ ー ら の ラ フ ァ エ ッ ロ 以 前 の イ タ リ
ア の 芸 術 家 お よ び 北 方 ヨ ー ロ ッ パ の 芸 術 家 た ち で あ り 、 当 時 そ れ ら の 画 家 た ち は 「 プ
リミティヴな画家
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、「形式的で、けばけばしく、またフラットなイメージを表す「ゴシック
JJ
の 画 家 と 考 え ら れ て い た( B
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プリミテイヴ」と「ゴシ ッ ク 」 と い う 形 容 詞 が 混 在 し て 使 用 さ れ た よ う に 、 芸 術 に お け る 中
l
主主義とプリミテ イ ヴ イ ズ ム は 相 互 に 干 渉 し あ う 動 き で あ り 、 両 者 と も ラ フ ァ エ ッ ロ な い し は ル ネ サ
98 上11
コ
の 進 化 論 的 美 術 史 に 逆 行 す る 動 き で あ っ た 。 当 時 、 「 プ リ ミ テ イ ヴj なるものは、│ 主
i
定 し た 定 義 を す り ぬ け 、 美 術 批 評 に お い て も そ の 言 葉 や 芸 術 を め ぐ っ て か な り の 混 乱
が み ら れ た 。 本 稿 で は 、 ラ フ ァ エ ル 前 派 兄 弟 団 の 設 立 前 後 に お け る 「 プ リ ミ テ イ ヴ 」
芸 術 に 対 す る 動 向 を 整 理 し な が ら 、 彼 ら の プ リ ミ テ イ ヴ イ ズ ム を 向 う こ と に よ っ て 、
1
9
世 紀 英 国 の 「 ラ フ ァ エ ッ ロ 以 前 問 題J
の一側面を明らかにすると同時に、「ラファエ ッ ロ 以 前 」 が 彼 ら の 試 み を 通 し て モ ダ ン へ と 転 移 す る 瞬 間 を 日 撃 し た い 。
1
.
初期イタリア芸術、及び北方芸術におけるブリミティヴイズム
ー称賛と当惑
プ リ ミ テ イ ヴ 芸 術 へ の
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、は1
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年 代 か ら み ら れ る よ う に な っ て い た 。 『 ア ス イニーアムj 紙 に プ リ ミ テ イ ヴ 芸 術 に 関 す る 記 事 を 書 い た ジ ョ ー ジ ・ ダ ー リ ー は 、 そ の
関 心 を 広 め た 一 人 で あ るo ダー1) ー が プ リ ミ テ ィ ヴ 芸 術 に つ い て 最 初 に 同 紙 に 寄 稿 し
た の は
1
8
3
7
年 だ が 、 当 時 そ の 芸 術 は 好 古 家 や 収 集 家 の 小 さ な サ ー ク ル を 除 い て は ほと ん ど 知 ら れ て い な か っ た
( C
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)
0 ダ ー リ ー は 、 政 府 に ド イ ツ 人 商人のゲオルグ・アダーズが所有する初期北方芸術のコレクションの購入をすすめたが、
ナ シ ョ ナ ル ・ ギ ャ ラ リ ー は 資 金 不 足 を 理 由 に 拒 否 し て い る ( Langl ey
5
0
1
)
0 だが1
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4
0
年 代 後 半 に は ブ リ ミ テ イ ヴ 芸 術 へ の 関 心 は 高 ま り を み せ 、
5
0
、6
0
年 代 に そ の 芸 術 につ い て 語 る こ と は 一 種 の 流 行 に ま で な っ た ( た だ し 、 こ の 流 行 の な か で 対 象 と さ れ た
プ リ ミ テ イ ヴ 芸 術 は
1
5
世紀の芸術であり、1
4
世紀 の芸 術は 射程 に 入れ ら れ て いな い )C
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0そ の 起 因 と し て ま ず あ げ ら れ る の は 、
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年 に フ ラ ン ス で 出 版 さ れ た ア レ ク シ スニ フ ラ ン ソ ワ ・ リ オ の 『 キ リ ス ト 教 の ポ エ ジ ー に つ い てj
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の影響 で あ るO リ オ は 、 古 代 に 傾 倒 し て キ リ ス ト 教 精 神 を 軽 ん じ た ル ネ サ ン ス 芸 術 を 批 判
し 、 中 世 芸 術 の 宗 教 的 感 婿 に 基 づ く 敬 度 さ 、 純 粋 を 称 え 、 芸 術 に お け る 神 秘 性 と 道 徳
的な目的を訴えた。 1) オを知っていたリチヤード・モンクトン・ミルンズは、ダーリー
と ニ コ ラ ス ・ ワ イ ズ マ ン に リ オ の 著 作 を 書 評 す る よ う に 依 頼 し 、 ダ ー リ ー は
1
8
3
7
年に
f
ア ス ィ ニ ー ア ムjに、ワイズマンはみずから創刊したばかりのf
ダブリン・レヴユに
1
8
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年 に 書 評 を 掲 載 し た( C
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)
0 この書評がひとつのきっかけとなって、リオの著作は広く知られるようになり、 A. W. N. ピュージン、ジョン・ラスキン、
リンゼイ卵¥1 、アンナ・ジェミスン、そしてブラウニングやメアリー・シエリーをはじ
め と し て 広 く 読 ま れ 、 美 術 界 、 建 築 界 、 文 学 界 に 大 き な 影 響 を 与 え 、 プ リ ミ テ イ ヴ 芸
術に関する議論を引き起こしたのだ、った ( Bul l en
2
2
)
0このような議論が起きた背景として、 ドイツ、イタリア、フランスでのプリミテイ
ヴ 芸 術 を 志 向 す る 動 き が イ ギ リ ス に 波 及 し た こ と 、 ま た 中 世 主 義 、 ヤ ン グ ・ イ ン グ
ラファエル前派兄弟[ " f l におけるプリミティヴイズム 99
ギ リ ス 芸 術 と 初 期 イ タ リ ア 芸 術 の 関 係 が 関 わ れ る よ う に な っ た こ と が 指 摘 さ れ て い る
( Cooper [ 1981] :407) 0 ダーリーがプ1) ミ テ ィ ヴ 芸 術 を 称 え た の も 、 初 期 芸 術 が 忘 れ
られ、以後の芸術が高い評価‘ を得ているのは、それだけイギリス人のテイストが劣化
し て い る か ら で あ り 、 そ れ が 同 時 代 の イ ギ リ ス 人 画 家 の 低 俗 な 主 題 の 選 択 、 デ ッ サ ン
カの弱体化につながっていると考えたからだ、った。それゆえ、彼はプワミテイヴ芸術
が そ な え る 宗 教 的 精 神 、 純 粋 さ を 人 々 に 伝 え る こ と に よ っ て 、 イ ギ リ ス 人 の テ イ ス ト
そのものを高めようとしたのだ、った( たとえば、Dar l ey [ Mar ch 28, 1846J :326- 28, [ Apri l
25, 1846J :430- 31. Cooper
口
980J :213- 4, 218) 0 彼 は 、 こ の テ イ ス ト の 劣 化 のj京I
l Sl は、当 時 の 物 質 主 義 や 功 利 主 義 の 影 響 に よ り 、 芸 術 の 神 秘 性 や 精 神 性 が 忘 れ 去 ら れ た こ と
に よ る も の だ と 述 べ 、 プ リ ミ テ イ ヴ 芸 術 の 神 秘 性 を 称 え た リ オ の 見 解 を 擁 護 し 、 物 質
に異を│唱えたのだった( たとえば、 Dar l ey [ Sept ember 10, 1842J :795-97. Copper
日
980J :214) 0 ダ ー リ ー は 、 リ オ の 著 作 の 書 評 に お い て 、 と り わ け フ ラ ・ ア ン ジ ェ リコの
f
神 秘 主 義 の 美 し い 崇 高 性J
を称えているOフ ラ ・ ア ン ジ ェ リ コ は 、 ギ ベ ル テ ィ 、 ウ ッ チ エ ル 口 、 マ ゾ リ ー ノ 、 マ ザ ッ チ オ と
同 時 代 に 生 き な が ら も 、 彼 ら の ナ チ ュ ラ リ ズ ム が 普 及 す る な か で 、 そ れ が 提 供 す
る 芸 術 的 な 補 助 を 拒 ん だ だ け で な く 、 お そ ら く 十 分 な 神 秘 主 義 に お け る そ の 神 秘
主 義 そ れ じ た い に 対 す る 穏 や か な 誇 り か ら 生 ま れ た 感 情 で も っ て 、 彼 以 前 の あ ら
ゆ る 神 秘 主 義 的 な 画 家 た ち が 大 い に 楽 を す る た め に マ テ リ ア リ ス ト の 領 域 か ら
取 り 入 れ た も の を 用 い る こ と を 、 で き る 限 り 拒 否 し た ( Darl ey [ May 13, 1837J :
340) 0
そ し て ダ ー リ ー は 、 ミ ケ ラ ン ジ エ ロ と の 比 較 に お い て も 、 フ ラ ・ ア ン ジ ェ リ コ の ほ う
が 「 よ り 霊 妙 で あ り 、 彼 の 精 神 は パ ラ ダ イ ス の 伝 説 的 な 烏 の よ う に 、 地 上 か ら 、 地 上
の 土 壌 か ら も っ と も 遠 く 離 れ た 、 も っ と も 輝 か し く 純 粋 な 領 域 へ と 向 か つ て 、 上 方 へ
絶 え ず 漂 う 」 と 述 べ 、 彼 の 聖 母 の 絵 を 次 の よ う に 記 述 す るO
ひとりの「至福
J
が黙想にふけった歓喜のなかで、大勢の人へと歩みを進め、一群の 聖 人 が 、 霊 妙 な ま な ざ し の ひ と つ ひ と つ か ら 輝 き だ す 無 言 の 会 話 に よ る 微 笑 み
と 言 葉 に 言 い 表 せ な い 喜 び と と も に 、 互 い に 向 き 合 い な が ら 、 琉 王 白 色 の 床 に 光
をひろげるO 絵 の 天 国 の あ り ょ う の な か で わ れ わ れ は み ず か ら を 忘 れ る ( D訂l ey
[ May 13, 1837J :340- 41) 0
100 L1Jl二i
フ ラ ・ ベ ア ー ト の 絵 は 、 敬 愛 す る 熱 情 的 な 精 神 と と も に 見 る と 、 鑑 賞 者 を 必 然 的
に「善人j にするO その絵は、鑑賞者の心を、見ている瞬間だけで、も、奮い立た
せ 、 純 化 し 、 気 持 ち を 落 ち 着 か せ 、 情 念 を 鎮 め るO こ れ ら の う る わ し い 天 国 に い
る よ う な 顔 に 見 ら れ る 善 良 の 至 福 を 鑑 賞 者 に 示 し な が ら ( Dar l ey [ Nov ember 25,
1837J :863) 0
ダ ー リ ー に と っ て 「 道 徳 的 、 心 的 な 美 点 は 技 術 に 勝 り 、 精 神 性 は 肉 感 性 に 勝 る 」 の で
あり、芸術は、「詩的」で「倫理的」でなければならず、
f
感 情 、 想 像 力 、 感 覚 、 情 念の 現 れ j を 訴 え る も の で な け れ ば な ら な か っ た ( Dar l ey [ Dec ember 8, 1838J :875) 0
こ う し た ダ ー リ ー の 見 方 に 明 ら か な よ う に 、 プ リ ミ テ イ ヴ 芸 術 は 、 物 質 的 な も の を 否
定 し て 非 物 質 的 な 芸 術 に 向 か う 精 神 的 、 宗 教 的 な ア ピ ー ル と 神 秘 性 を 称 え ら れ て 迎 え
ら れ た 。 そ の 芸 術 は 「 初 期 キ リ ス ト 教 芸 術 ( ear1y Chr i st i an art )
J
、 芸 術 家 は 「 純 粋主 義 者 ( Puri st )
J
と呼ばれるようになり、芸術の評1 i I J j ( eval uat i on) よ り も 芸 術 が 喚起 す る も の ( evocat i on) が 重 視 さ れ た の で あ る ( Cooper [1980J :207, [1981] :407) 0
こ の よ う な プ リ ミ テ イ ヴ 芸 術 の 再 評 価 の 動 き が 起 き る な か で 、 1841年 ブ リ テ ィ ッ
シュ・インスティテューションでOl d Mas t er・展が開催されるO ここで展示されたヤン・
ヴァン・エイクのくアルノルフィニ夫妻の肖像) > (1434) は熱狂的に迎えられ、翌年、
最 初 の 「 プ リ ミ テ イ ヴ 」 絵 画 と し て ナ シ ョ ナ ル ・ ギ ャ ラ リ ー に 購 入 さ れ た ( Langl ey
501- 2) 0
また、 1842年 に プ リ ン ス ・ ア ル パ ー ト が 主 宰 し 、 チ ャ ー ル ズ ・ イ ー ス ト レ イ ク が
Secr et ar y を 務 め た フ ァ イ ン ・ ア ー ツ ・ コ ミ ッ シ ョ ン は 、 ウ エ ス ト ミ ン ス タ ー 宮 殿 の
室 内 装 飾 の フ レ ス コ 画 の コ ン ペ テ ィ シ ョ ン を 発 表 す るO 室 内 装 飾 に は 、 ロ ー マ や ミ ュ
ン ヘ ン に あ る ナ ザ レ 派 に よ る プ レ ス コ が 参 考 に さ れ 、 首 相 の ロ パ ー ト ・ ピ ー ル が ナ ザ
レ 派 の コ ル ネ リ ウ ス に ア ド バ イ ス を 求 め た ほ か ( Bendi ner 12, 169, not e 50) 、 政 府 は
チ ャ ー ル ズ ・ イ ー ス ト レ イ ク や ウ ィ リ ア ム ・ ダ イ ス 、 メ リ フ ィ ー ル ド 夫 人 を イ タ リ ア
に 派 遣 し て 、 初 期 イ タ リ ア の プ レ ス コ 画 を 学 ば せ た 。 1843年6月 に 行 な わ れ た 下 絵
( car t oon) の コ ン ペ テ ィ シ ョ ン に 集 ま っ た141点 の 作 品 は 、 翌 月 か ら 9月 ま で 一 般 に
公 開 さ れ 、 多 く の 人 が そ の 展 覧 会 を 訪 れ た ( Cor r eゆondence1. 43. 2, not e 1) 0
イ ー ス ト レ イ ク は 、 イ タ リ ア 派 遣 の 研 究 成 果 を
f
油 彩 画 史 の た め の 資 料. j Mat er i aおl or aHi st or y
0
1
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1Pai nt i ng ( 1847) と し て 出 版 し 、 メ リ フ ィ ー ル ド 夫 人 は チ ェ ンニ ー ノ ・ チ ェ ン ニ ー ニ の 14世 紀 の 著 作Il Li br o del'lAr t e を 翻 訳 し た ( 1844) 0 ま
た 、 ラ ス キ ン の プ リ ミ テ イ ヴ 芸 術 の 画 家 を 扱 っ た 『 現 代 画 家 論jM oder n Pai nt ers第
2巻( 1846) 、 リ ン ゼ イ 卿 の 『 キ リ ス ト 教 芸 術 史 の 素 描j Sket ches
0
1
the Hi st or y0
1
Chri st i an Ar t (1847) 、 ジ ェ ミ ス ン の 『 初 期 イ タ リ ア 画 家 の 回 想 録j Memoi r s
0
1
Ear l yラ フ ァ エ ル 前 派 兄 弟i主 に お け る プ リ ミ テ ィ ヴ イ ズ ム 101
1840年代に立て続けに出版された。
し か し な が ら 、 ク ー パ ー に よ れ ば 、 初 期 の 芸 術 家 に イ ン ス ピ レ ー シ ョ ン を 求 め る よ
う に 主 張 し た 称 賛 者 た ち も 、 芸 術 が 向 か う 先 に つ い て は 分 明 で は な か っ た 。 称 賛 者
も、「プリミテイヴ」な芸術家は解剖学や遠近法といった芸術の規則に燕知だったか、
知 っ て い て も 不 完 全 な 知 識 し か も っ て お ら ず 、 技 術 的 に は 不 完 全 で あ る と し て み な し
ていた ( Cooper [1981J :408) 0 技術的に不完全なプリミテイヴ芸術を称えるためには、
前 述 し た よ う に 、 そ れ が 「 喚 起 す る も のj を捉えなければならない。そのためには、
喚 起 さ れ る 宗 教 性 や 精 神 性 に 「 共 感 ( s y mpat hy ) J することが求められるO クーパー
は、この
f
共感」の要請がプリミティヴ芸術受容において重要になったというor
共感」す る た め に は 道 徳 心 を も っ て い な け れ ば な ら な い か ら で あ り 、 こ の 等 備 が 当 時 の 社 会
的要詰に見合ったからであるO ど の よ う に 拙 か れ て い る か ( 技 術 的 側 面 ) よ り も 、 何
が 描 か れ て い る か が 重 要 視 さ れ た の で あ る ( Cooper [1980J :210- 11) 0
つ ま り 、 ダ ー リ ー の よ う な プ リ ミ テ イ ヴ 芸 術 称 賛 者 も 、 ヴ ァ ザ ー リ 流 の 「 完 全 な 」
巨匠、すなわちラファエッロやミケランジ、エロに到達する進化論的な美術史の枠外か
ら発言することはなかったのであるO だから、現代の芸術家は、プリミテイヴ芸術の、
均 衡 が と れ た 形 式 的 な 構 図 、 フ ラ ッ ト で 、 乱 れ の な い 色 彩 、 抑 制 さ れ た 身 ぶ り と 表 情
のなかに現れる「素朴さJ ( si mpl i ci t y) ないしは神への「精神j を模倣すべきであって、
ル ネ サ ン ス 以 後 の 、 つ ま り は ラ フ ァ エ ッ ロ 以 後 の 理 想 美 の 表 現 を 脅 か す よ う な こ と
は し て は な ら な い と 主 張 さ れ た の だ っ た ( Cooper
[1981] :408- 409) 0 そのようなことは、「子供」の
状 態 か ら 進 歩 し た 芸 術 を 「 後 退J ( re廿ogr essi on)
させるようなものと捉えられた。
た と え ば 、 プ リ ミ テ ィ ヴ 芸 術 の 影 響 を 受 け て
描 か れ た ウ ィ リ ア ム ・ ダ イ ス の く 聖 母 子
: >The
lV! adonna a nd Chi l d ( 1845,図1 ) について、 1846
年5月 の 『 イ ラ ス ト イ テ ッ ド ・ ロ ン ド ン ・ ニ ュ ー
ス
J
の 評 者 は 、 「 ダ イ ス は 初 期 キ リ ス ト 教 芸 術 の死 ん だ 形 式 を 復 活 さ せ た 人 と し て 地 位 を 屈 め た 」
と 述 べ た 後 、 ナ ザ レ 派 の オ ー ヴ ァ ー ベ ッ ク の 作 品
に は ジ オ ッ ト や ベ ノ ッ ツ ォ ・ ゴ ッ ツ ォ リ の ド ロ ー
イ ン グ に 関 す る 無 知 や 混 乱 し た グ ル ー ピ ン グ 、 不
完 全 な 明
n
陪1培吉剖j法去が模倣されていると批判しし、「子供のような信が仰仰
p
やj深架い信念が 付(lド司i
二千判(
匂ev刊ok e王臼edω) されうるまでで、」ム、「大人のイ信言仰の強さが 子 供 の 芸 術 の 弱 点 に 中 和 を も た ら す ま で 、 離 脱 し
図1 Wil1i am Dyc e, The Madonnα
and Chi l d (1845) キャンパ
スに油彩, 80. 2x 58. 7cm,ロ
102 111口
た フ オ ル ム に 回 帰 す る こ と は あ ら ゆ る 後 退 の な か で も も っ と も 希 望 の な い も の だj と
芸術の後退を危倶するO ダ イ ス の 作 品 は そ の 後 退 を 象 徴 す る も の と し て 映 っ た の だ、っ
た 。 評 者 は 続 け て こ の よ う に 非 難 し た 。 「 彼 の く 聖 母 子 〉 は 初 期 ウ ン ブ リ ア 画 派 の 死
んだ模倣だ 。
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年、f
アート・ジャーナルJ
誌 の評者は、「ラファエル前派J
と題した記事のなかで、次のように述べているO
初 期 の 巨 匠 た ち は 、 彼 ら の 物 語 を 飾 り 付 け る た め に 、 様 々 な 行 為 や 多 様 な あ り の
ま ま の 表 現 / 表 情 を 導 入 す る こ と は ほ と ん ど な か っ た 。 ここに彼らの簡素- さが
あったO しかし、彼らの考えが後に、ミケランジ、エ ロ や ラ フ ァ エ ッ ロ と い う 偉 大
な る 天 才 に よ っ て 広 げ ら れ た と き 、 物 語 を 潤 色 し 、 図 示 す る と い う 両 方 の 目 的 の
た め に 、 多 く の 付 随 事 項 が 導 入 さ れ た 。 こ れ は 、 松 画 の 複 数 の 部 分 に よ る 構 成 と
組 み 合 わ せ を 生 ん だ。、 そ れ ゆ え 、 簡 素 さ は 、 第 一 に 、 芸 術 の 揺 箆 期 か ら 生 じ た 一
種 の 露 骨 さ を 表 し た 。 し か し 、 絵 の 知 識 が ヨ ー ロ ッ パ 中 に 広 が っ た 私 た ち のi時代
に お い て は 、 続 く 時 代 の 偉 大 な 天 才 た ち が 私 た ち の 能 力 の 範 関 内 に 定 め た こ う し
た 利 点 で 飾 ら な け れ ば、 簡素 さは 街い の 一つ にな るO 私 た ち が ミ ケ ラ ン ジ エ ロ や
ラ フ ァ エ ッ ロ の 作 品 に 追 従 し て 芸 術 を 広 げ る こ と が で き な け れ ば 、 私 た ち は 、 シ
ニ ョ レ リ や マ ザ ッ チ オ の 作 品 を 参 照 し て 無 知 な 者 を 驚 か せ る こ と し か で き な い 。
自 然 は 無 尽 蔵 で あ る が 、 私 た ち は 、 み ず か ら の 未 熟 な 考 え を 信 じ る こ と に お い て
よ り も 、 芸 術 の 偉 大 な る 完 成 者 の 作 品 を 学 ぶ こ と に よ っ て 独 創 的 で 有 能 に な り そ
うである( J .
B
. 1
8
5
)
。こ の よ う な 芸 術 の 「 後 退
J
に 対 す る 警 戒 は 、 カ ト リ ッ ク の リ パ イ パ ル と 中 世 主 義と 結 び つ き 、 強 ま っ て い っ た も の だ っ た 。
1829
年 に カ ト リ ッ ク 解 放 法C
C
at ho
1ic
Em
anci pat i on A
ct )
に よ っ て 、 カ ト リ ッ ク 教 徒 の 政 治 的 、 社 会 的 な 権 利 の 回 復 が 認め ら れ る よ う に な る と 、 カ ト リ ッ ク に 対 す る 警 戒 が い っ そ う 強 ま り 、
1840
年 代 に はカトリックは「ホモフォビアを含む、あらゆる種類の恐れや不安に対するスケーフ。ゴー
トになった。
J
( B
u
l l en
2
2
)
1840
年代末には、反カトリックの動きは最高潮に達し、「修道 院 制 度 や マ リ ア 崇 拝 、 カ ト リ ッ ク の 聖 職 者 た ち の 好 色 さ 、 イ ギ リ ス の 人 び と の 改 宗
を 目 的 と す る 攻 撃 的 な 活 動 の 試 み 」 を 非 難 す る よ う な 記 事 が 掲 載 さ れ な い こ と は な く
なっていた
( B
u
l l en 2
3
)
0 カトリックないしは「後退J
を警戒する人びとにとっては、中 世 は 迷 信 と 無 知 の 時 代 で あ り 、 中 世 主 義 で い わ れ た よ う な 信 仰 の 時 代 で は な か っ た
のである
( Cooper
[19
8
1
J
:
4
0
9
)
0 前 出 の リ オ の 著 作 も 、 教 会 の 教 え に 基 づ い た 芸 術に お け る 聖 性 と 敬 度 性 を 強 調 し た た め 、 プ ロ テ ス タ ン ト の イ ギ リ ス で は 、 リ オ が 説 く
ラ フ ァ エ ル 前 派 兄 弟 団 に お け る プ リ ミ テ イ ヴ イ ズ ム 103
ジ ェ ミ ス ン も 『 聖 性 と 聖 徒 の 美 術j の序章で、「プロテスタントの一人としてj 、│ 時間
と と も に 変 化 し な が ら 聖 別 さ れ て き た フ ォ ル ム を 崇 め 、 「 普 の 新 し い 体 現 、 す な わ ち
美 し い も の の 新 し い 組 み 合 わ せ を わ れ わ れ に 与 え る キ リ ス ト 教 の 進 歩 的 な 精 神 を 信 じ
な け れ ば な ら な い 。 私 は 進 歩 の 精 神 を 敬 う の と 同 じ く ら い 破 壊 す る も の を 嫌 う 。 」 と
記している( James on 6-7) 0
こ の よ う な プ ロ テ ス タ ン ト が 、 カ ト リ ッ ク の プ リ ミ テ イ ヴ 芸術を 称賛する困難さを
解 消 す る 方 法 と し て 、 初 期 芸 術 の 禁 欲 性 と 、 身 体 の 純 粋 で 、 非 肉 体 的 な 描 写 を 強 調 す
る と い う 方 法 が と ら れ た CBul l en 24) 0 ここでまた矛盾が生じるO つ ま り 、 初 期 芸 術
を 称 え る 場 合 、 プ ロ テ ス タ ン ト の 禁 欲 性 を プ リ ミ テ イ ヴ な 芸 術 に 連 ね た の だ が 、 そ の
芸 術 は じ っ さ い は カ ト リ ッ ク の 芸 術 で あ るO だ が 、 そ の カ ト リ ッ ク の 芸 術 は 、 プ ロ テ
ス タ ン ト の 禁 欲 性 の 裏 返 し と し て 、 物 質 性 、 肉 性 ( f l eshl i ness) や 官 能 性 を そ な え た
も の と し て 批 判 さ れ て い た の だ っ た 。 プ ロ テ ス タ ン ト の 芸 術 は 、 物 質 性 ( 身 体 性 ) や
感覚性を否定し、精神性を重視した、道徳的に訴えるものではなくてはならなかった。
そ の た め 、 初 期 芸 術 の 「 自 然 の ま ま で あ る こ と ( nat ural ness)
J
と非世俗的な純粋さが並列して論じられたことにより、その受け止められ方に矛盾が生じることになった。
前出のダーリーは、リオに倣って、自然主義とマテリアリズムを同一視して拒んだが、
ラ ス キ ン は 後 述 す る よ う に 自 然 に む し ろ 神 の 仕 業 を 見 て い る ( Cooper [ 1980J :217) 0
1850年 代 に は 、 ダ ー リ ー と 同 様 に リ オ の 著 作 の 書 評 を 掲 載 し た ニ コ ラ ス ・ ワ イ ズ 、 マ
ンが、カトリックの枢機卿に任命された。この出来事は、反カトリックの感情を高め、
中世芸術とそのリバイバルに対してさらなる反感を生じさせたのだった。
こ の よ う な 反 感 を 背 景 に し て 、 初 期 芸 術 に 関 し て は 、 キ リ ス ト 教 の 精 神 性 よ り も む
しろ身体の表現に議論の矛先が向けられるようになっていく ( Bul l en 23) 0 角張って、
歪んで、「醜くj 描かれている身体は、「美しいj 身 体 で は な く 、 む し ろ 「 病 的 な 」 身
体 で あ る と み な さ れ 、 病 理 学 的 な 言 説 が 批 判 に 加 え ら れ て い く よ う に な るO その場合
の「美しい
J
身体は、ラファエッロの描写が手本になっていた。問題を整理しようO 初 期 芸 術 、 つ ま り ル ネ サ ン ス 以 前 の プ リ ミ テ イ ヴ 芸 術 を 称 賛 す
る動きは、 1840年 代 に 高 ま り を み せ るO 初 期 芸 術 の 称 賛 者 は 、 世 俗 的 な 画 題 に 偏 っ
て い た 当 時 の イ ギ リ ス 美 術 に 反 し て 、 初 期j芸 術 に み ら れ る 簡 素 さ 、 敬 度 性 を 訴 え たo
l
J オ の 著 作 な ど の 普 及 に よ り 、 初 期 芸 術 は カ ト リ ッ ク と 結 ぼ れ る よ う に も な り 、 当 時
の カ ト リ ッ ク ・ リ バ イ バ ル へ の 警 戒 下 で 、 初 期 芸 術 の 称 賛 者 は プ ロ テ ス タ ン ト と し て
の 立 場 も 示 さ な け れ ば な ら な か っ た 。 そ れ ゆ え 、 初 期 芸 術 の 物 質 性 な い し は 身 体 性 の
抑 制 か ら 現 れ る 精 神 性 を 称 賛 し 、 逆 に ル ネ サ ン ス 以 後 の カ ト リ ッ ク 芸 術 は 物 質 性 を 強
調 し た も の だ と み な し た 。 こ の 見 方 は 、 身 体 の 描 写 へ の 反 応 を 敏 感 に さ せ たO 物質的
な描写、歪んだ描写は、
f
道 徳 的 に 」 美 し く な い の で あ る 。 ア カ デ ミ ー で 、 「 美 し いJ
1 0 4 LU I二i
は 、 ラ フ ァ エ ッ ロ 以 前 の 芸 術 を 称 え た の で あ る か ら 、 ア カ デ ミ ー の 教 え か ら は 逸 脱 し
て い る こ と に な るO ダーリーはラファエッロを評価しつづけながら、イギリス人のテ
イ ス ト の 改 善 に 重 き を 置 い た が 、 そ の い っ ぽ う で は ラ フ ァ エ ッ ロ 以 後 の 絵 画 的 規 範 な
い し は 慣 習 か ら の 脱 出 を 求 め る 芸 術 家 た ち が 現 れ た 。 ラ フ ァ エ ル 前 派 兄 弟 団 も そ の よ
うな芸術家たちのグルーフ。だ、った。
同じように西洋の絵画規範から脱出しようとする試みが、
i
可i時期に、非西洋の造形物 を 評 価 す る 動 き の な か で も み ら れ て い た 。 こ の 動 き も プ リ ミ テ イ ヴ イ ズ ム と い うO
次 節 で は 、 こ の プ リ ミ テ イ ヴ イ ズ ム に つ い て 考 察 す るO
2
.
非西洋の造形物におけるプリミティヴイズム
31
8
、1
9
世 紀 の ヨ ー ロ ッ パ に お い て 「 プ リ ミ テ イ ヴj と い う 形 容 詞 は 、 ヨ ー ロ ッ パの 近 代 な い し は ル 不 サ ン ス 以 前 、 さ ら に は 古 代 ギ リ シ ア 、 エ ジ プ ト の 芸 術 に も 使 用 さ
れ た 認 で あ っ た と 同 時 に 、 ア フ リ カ 、 ポ リ ネ シ ア 、 オ セ ア ニ ア 、 中 国 、 日 本 に い た る
ま で の 何 時 代 の 非 西 欧 の 人 び と の 文 化 一 般 や 造 形 物 を 形 容 す る 諾 で あ っ た 。 前 者 の
古 代 ギ リ シ ア や エ ジ プ ト の 「 芸 術j にその諾が適用されたのは、オーナメントからイ
リュージョンによる表現へという道をたどるヨーロッパ美術史のなかに、歴史的な「プ
リ ミ テ イ ヴj な る も の
( h
i sto
ri ca
l
"p
ri m
i ti ve
s")
を 進 化 論 的 視 点 か ら 組 み 込 む た めだった。これに対して後者の語法は、
f
生きている「プリミティヴj なるものJ
O
i vi n
g
“
p
ri n
1
i ti ve
s"
) を 示 し て い るO こ の 場 合 の 「 プ リ ミ テ イ ヴJ
な人々ないしは文化は、 進化論のモデルを適用するまでもなく、進化せずに元の状態のままで、止まっているとみなされたのだ、った
( C
o
n
n
el l y 5
7
)
0 つまり、f
プ リ ミ テ イ ヴJ
な る も の に は 、 過 去の 「 ヨ ー ロ ツ ノ リ が 代 表 す る も の と 同 時 代 の [ 他 者j が代表するものの再方が含み込
ま れ て い た が 、 進 化 す る も の / し な い も の と い う 観 点 か ら 両 者 の あ い だ は 明 確 に 線 引
きされていたのだ、った。
F
.
s
.
コ ネ リ ー は お 世 紀 、1
9
世 紀 の ヨ ー ロ ッ パ 芸 術 に お け る プ リ ミ テ イ ヴ イ ズ ムを 論 じ る な か で 、 ブ リ ミ テ イ ヴ な る も の は あ く ま で ヨ ー ロ ッ パ 人 の 思 考 の 枠 組 み 内
で つ く り だ さ れ 、 ヨ ー ロ ッ パ の 芸 術 分 類 の な か で 名 付 け ら れ た も の で あ り 、 プ リ ミ
テ ィ ヴ と い う 形 容 詞 が 付 さ れ た も の の 本 来 の 伝 統 や 様 式 と は 無 関 係 で あ る と 指 摘 す る
( C
o
n
n
el l y 6
-7
)
0 このようなヨーロツノfのtl
点 に よ る プ リ ミ テ イ ヴ な る も の の 名 付 けに つ い て は 、 ウ ィ リ ア ム ・ ル ー ビ ン ら が
1
9
8
4
年ニューヨークの現代美術鉛( M
O
M
A)
iセセ ヲRP
ク リ フ ォ ー ド が 鮮 烈 に 批 判 し た こ と は よ く 知 ら れ て い る
(C
l i ffo
rd
)
0 展 覧 会 カ タ ロ グの 邦 訳 版 に 付 し た あ と が き の な か で 吉 田 憲 司 が 、 ク リ フ ォ ー ド の 批 判 を ふ ま え て 述 べ
た よ う に 、 確 か に プ リ ミ テ イ ヴ イ ズ ム は 西 洋 側 か ら み た 視 点 で あ り 、 そ こ に は 部 族 芸
ラ フ ァ エ ル 前 派 兄 弟 団 に お け る プ リ ミ テ イ ヴ イ ズ ム 105
として救おうとした意図があるO それをルーピンは議論することなく、単純にフォル
マ リ ズ ム の 枠 の な か で 、 モ ダ ン ・ ア ー ト と 部 族 美 術 を 比 較 し て い る と い う の で あ るO
ルービンもそのことは心得ていて、「あとがき
J
に 紹 介 さ れ た ク リ フ ォ ー ド の 論 に 反論するかたちで、プリミテイヴイズムを「完全に西洋の文化現象なのであり、その後は、
どのようなものであれ、所与の時点において『プリミテイヴ』とみなされたものに対
す る ( 基 本 的 に は ) ヨ ー ロ ッ パ の 反 応 、 あ る い は 傾 倒 の 歴 史 を さ す 言 葉 で あ る 」 と 定
義している( ルーピン8) 0
こうしたヨーロッパ側の視点から非西欧地域の部族美術を「プリミテイヴ」とみな
し、それをヨーロッパのモダン・アートが受容した過程を追跡するプリミティヴイズ
ムは、 1978年 に エ ド ワ ー ド ・ サ イ ー ド が 批 判 し た 西 洋 が 西 洋 の 視 点 で オ リ エ ン ト を
表 象 し て き た と す る オ リ エ ン タ リ ズ ム と な ん ら 変 わ り は な い 。 オ リ エ ン タ リ ズ ム が 濃
厚 に 権 威 や 政 治 、 植 民 地 主 義 、 人 種 主 義 を 含 蓄 し て い る の に 、 プ リ ミ テ ィ ヴ イ ズ ム が
それらを排除して定義されてきたのはおかしなことであるO ただ両者の違いは、オリ
エンタリズムが横に拡張した西と東という空間的な他者認識であるのに対して、プリ
ミティヴイズムの根本には、 19世 紀 の 「 西 洋
J
の 過 去 を た ど る 作 業 が あ るO 自己の過去、つまりは喪失した本質部分をプリミテイヴな人び、との社会や芸術、文化のなか
に再発見しようとした「自己発見
J
の作業が、結局のところ西洋のシステムのなかに「他者 」 を 受 容 す る 、 な い し は 組 み 込 む か た ち で 、 ル ー ビ ン が い う プ リ ミ テ イ ヴ イ ズ ム が
成 立 し た の で あ る ら オ リ エ ン ト は 絶 対 的 な 「 他 者j にしかなりえなかったが、プリ
ミティヴな人びとはヨーロッパ人の喪失した「自己
J
をどこかにもちうるモデルであった。それゆえ、ルービンがプリミティヴな部族美術とヨーロッパのモダン・アートと
のあいだにある「親縁牲j を強調したとしても不思議はない。
とはいえ、 18世紀、 19世 紀 に お い て プ リ ミ テ ィ ヴ な る も の は そ の 意 味 あ い を 変 化
させてきた。コネリーの論にしたがい、どのようにプリミテイヴなるものがその指示
するものを変えてきたのかみてみようO
フ ラ ン ス で は 芸 術 ア カ デ ミ ー が1648年、イギリスでは1768年に設立された。アカ
デミーで教えられた古典主義は、統一性と体系、理性に基づくものであり、それらと
反 す る も の 、 す な わ ち 理 性 的 で は な い も の 、 想 像 的 な も の 、 グ ロ テ ス ク な も の は 、 文
明 化 さ れ て い な い 人 び と の 属 性 と し て み な さ れ た ( Connel l y13) 0 彼らは、想像力と
情熱に支配されているため内省することができず、それゆえ過去をふりかえることも
未来を志向することもなくただ現在を生きているO そんな彼らは、歴史の感覚がなく、
過 去 の 出 来 事 を 選 出 し 、 配 列 す る 能 力 も な い と 考 え ら れ た の だ 。 ま た 、 彼 ら は 抽 象 的
なアルファベットをもたないがゆえに、経験を抽象化する能力にも欠けており、した
がってナラテイヴを生み出す能力ももたないとされた ( Connel l y 15, 19,27,29) 。 経 験
106 LLi口
に お け る イ リ ュ ー ジ ョ ニ ズ ム に も 速 な っ て い く の だ が 、 経 験 を 客 観 化 で き な い 彼 ら は
た だ 感 情 を 本 能 的 に 表 現 し て い る だ け で あ り 、 二 次 元 の 表 面 に 色 彩 と 線 を 用 い た 表 現 QセQP HI
ヴ へ と 形 を 組 成 す る こ と が で き な い 捉 え ら れ た の で あ る ( Connel l y 28, 56) 0
そ の よ う な プ リ ミ テ イ ヴ な 装 飾 ( オ ー ナ メ ン ト ) は 、 空 想 や 想 像 力 の 産 物 で あ り 、
Jlll
性 や ナ ラ テ イ ヴ の 形 成 に 必 要 な 因 果 関 係 を 欠 い て い る と 考 え ら れ た 。 オ ー ナ メ ン トの繰り返しゃ対置、変形は、ナラテイヴの因果関係に対する抵抗だ、ったのだ ( Connel l y
60) 0
19世 紀 半 ば に ア カ デ ミ ー が 要 求 す る 芸 術 の 規 範 か ら 解 放 さ れ た 表 現 を 求 め る 動 き
が 起 き る と 、 こ のilljJ き は オ ー ナ メ ン ト に 対 す る 見 方 も 変 化 さ せ た 。 こ の 見 方 を 押 し 進
め た の は 、 建 築 家 で も あ り 美 学 者 の ゴ ッ ト フ リ ー ド ・ ゼ ン パ ー ( 1803- 1879) やアロ
イ ス ・ リ ー グ ル ( 1858- 1905) ら で あ り 、 彼 ら は 「 プ リ ミ テ ィ ヴ
J
な 二 次 元 の オ ー ナメ ン ト に 芸 術 の 起 源 を 探 し た ( Connel l y63- 65)。このような動向は、 1851年 の ロ ン ド
ン 大 博 覧 会 後 の 英 国 に お け る デ ザ イ ン 改 革 に も み ら れ る よ う に な る ( 後 述 ) 。 た と え
ば、オウエン・ジョウンズは、
f
装 飾 の 文 法jThe Gr am
m
ar 01 O
r nam
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t
(18
5
6
)
で 次 の よ う に 述 べ た 。 「 わ れ わ れ が よ り 健 全 な 状 態 に 戻 る の な ら ば 、 わ れ わ れ は 小 さ な子 供 か 野 蛮 人 の よ う に で も な ら な け れ ば な ら な い 。 わ れ わ れ は 獲 得 し た も の や 人 工 的
な も の を 取 り 除 い て 、 自 然 の 本 能 ( nat l l ral i nst i nct s) を 奴 り 戻 し 、 そ れ を 発 展 さ せ
なければならない。
J
(
J
ones 16) 50 こ れ は 「 真 に プ リ ミ テ イ ブ 芸 術 を 評 価 し た 初 期 の例
J
( B舵 77) であるO このジョウンズの言葉に端的に現れているように、 19世紀半 ばには「プリミティヴ」な人びとは、「高貴な野蛮人J
( t he nobl e savage) ないしは「崇高 な 詩 人 」 と し て 、 因 習 に 囚 わ れ な い 表 現 や 抑 制 さ れ て い な い 感 覚 の 表 現 と 、 ナ ラ
ティヴではなく詩的なるものの表出を、ヨーロッパ人に教える立場に立ったのだ、ったO
「 プ リ ミ テ ィ ヴ 」 な る も の の 探 求 は 、 実 の と こ ろ 彼 ら 自 身 の 「 プ リ ミ テ イ ヴj の部
分を│ 呼び覚まし、回復させることにつながっていた。だから、「プリミテイヴj とい
う言葉は、当時の人びとを惹きつける言葉にもなった60 E. エヴェットは「プリミテイ
ヴ 」 な 人 び と は 子 供 と 同 様 な 19世 紀 の 発 見 で あ っ た と 述 べ て い るO
ヨ ー ロ ッ パ 人 は19世 紀 の 西 洋 拡 張 主 義 に よ っ て 遠 い 世 界 と の 直 接 的 な 交 渉 の な
か に 導 か れ た 時 、 プ リ ミ テ イ ヴ な 人 び と を 新 分 野 の 調 査 課 題 と し た 。 プ リ ミ テ ィ
ヴな人びとは研究対象になり、人間の条件の本質についての思索に刺激を与えた。
(中111各 ) 子 供 へ の 関 心 も 人 間 を よ り よ く 理 解 す る と い う 探 求 の 論 理 的 な 一 部 分 に
な っ た 。 一 般 的 に い え ば 、 プ リ ミ テ イ ヴ な 人 と 子 供 は わ れ わ れ が わ れ わ れ 自 身 と
わ れ わ れ を と り ま く 世 界 に 対 す る わ れ わ れ の 理 解 を ど の よ う に 見 て 、 知 り 、 表 現
iセェ○ 107
セ↓Zセ セ
QセャャェZQ QXQ ャZエ
ていたが、
1
9
MQ jjエセ結 び つ け た 。 エ ヴ ェ ッ ト は 、 以 下 の よ う に
1
8
世紀と1
9
世 紀 の 子 供 へ の 視 点 の 速 い を分 析 し て い るO
9
:1:1党 す る 世 界 を 幻 想 化 し 、 そ れ に 想 像 力 を 注 ぎ こ む 子 供 の 能 力 を 称 え た ロ マ ン 主義的見解に対して、
1
9
世 紀 の 人 び と は 、 子 供 は 実 際 の 、 現 実 の I 1t
界 に 強 く 芯 かれ て い る と 限 解 し た 。 彼 ら は 子 供 の 想 像 力 を 否 定 し た の で は な い が 、 も は や 先 の
ロ マ ン 主 義 者 が も っ て い た ほ ど に は 子 供 を 偶 像 化 し な か っ た し 、 う ら や み も し な
iセiセ jャiセ QセQP
に 認 識 す る こ と か ら 成 長 す る と 考 え た ( Evet t 87) 。
こ う し た 子 供 の 目 を 通 し て 世 界 を み よ う と す る 主 張 が 生 ま れ るO そ の 世 界 は 、 記 憶
さ れ る こ と に よ っ て 、 純 粋 化 さ れ 、 単 純 化 さ れ 、 本 質 を あ ら わ に す る と い う ( Evet t
9
8
) 0
経 験 や 凶 習 や 現 実 に ま と と わ さ れ ず に 、 本 質 を 見 極 め る 子 供 の よ う な 目 を 獲 得 すヲQ エセ
の は 、 プ リ ミ テ ィ ヴ な 人 び と が 、 ヨ ー ロ ッ パ 人 の 子
fjb
の 状 態 と 同 一 視 さ れ て い る こ とであるO つ ま り 「 他 者 」 が ヨ ー ロ ッ パ 側
(
1
自 己 ・ 主 体J)
の 失 っ た も の を 表 象 し う る点 で あ るo Q ョ iiセi ェ ッ 1843年 に は ロ ン ド ン 民 族 学 協 会 が 設 立 さ れ た よ う に 、 ア フ リ カ や ア ジ ア 、 オ セ ア ニ ア な ど の 人 類 学 的
研 究 が 始 ま り 、 プ リ ミ テ ィ ヴ な 文 化 の 研 究 が 始 ま っ た の も 、 プ リ ミ テ ィ ヴ イ ズ ム の 動
きの一つである
( St o
cki n
g
参 照 ) 。 し か し 、 あ く ま で 「 プ リ ミ テ イ ヴj とみなす側は、ヨ ー ロ ッ パ 人 で あ るO 彼らがその言葉をr F
J
し、るとき、現在を生きる自分たちに対して、プ リ ミ テ ィ ヴ な 人 び と は 過 去 を 生 き る 人 び と で あ り 、 未 熟 な 子 供 で あ り 、 野 蛮 で あ り 、
未 開 で あ る と い う 意 味 が 込 め ら れ た こ と は 忘 れ て は な ら な しE。 プ リ ミ テ イ ヴ な 人 び と iiセi ェ
空 間 的 に も 時 間 的 に も 遠 い 存 在 で な く て は な ら な か っ た 。
このような非凶洋の造形物が、
1
8
世紀以来、西洋の翌日性的で歴史的な表現に反する、感 覚 や 本 能 に 基 づ い た も の と し て み な さ れ て い た い っ ぽ う で 、 前 節 で み た よ う に 、
1
)J
J
!
)
J
イタリア、1
:
ヒ 方 芸 術 も ま た 「 プ リ ミ テ ィ ヴ 」 な 芸 術 とH宇 ば れ て い た の だ が 、 プ ロ テiセtlア セGャセ QGQ
で あ っ て は な ら ず 、 精 神 性 を 重 視 し た 禁 欲 的 な も の で な く て は な ら な か っ た 。 け れ ど
も 、 「 プ リ ミ テ イ ヴ 」 な も の を 媒 体 に し て 、 西 洋(10 規範や' 慣習といった「型」からの
108 I-L!I
コ
期芸術は精神位、簡素さ、誠実さの侶復の機会を与えた。この結果、芸術家たちは「自然」
と 向 き 合 う こ と に な る の だ が 、 こ の 「 自 然 」 こ そ 、 非 西 洋 の 造 形 物 が 具 現 し て い た も
の だ っ た の で あ るO また、
f
型j か ら の 脱 出 と 自 然 の 描 写 は 、 個 々 の も の の 表 現 に も速 な っ て い くO そ の 表 現 は 、 身 体 の 写 実 日 守 な 描 写 の み な ら ず 、 感 情 や 感 覚 の 表 出 を も
要 請 す る 。 こ の と き 、 西 洋 の 芸 術 は 、 非 西 洋 の 造 形 物 が 表 す 感 覚 と 出 会 う こ と に な るO
こ の プ リ ミ テ イ ヴ イ ズ ム か ら 感 覚 の 表 現 へ と い う プ ロ セ ス に つ い て は 別 稿 に 譲 る こ と
に す る が 、 ラ フ ァ エ ル 前 派 の プ リ ミ テ イ ヴ イ ズ ム を 扱 う 本 稿 で は 、 非 西 洋 の 造 形 物
J
モノj に 注 が れ た ま な ざ し に 注 目 し た い 。 結 論 を 先 取 り し て い え ば 、 そ の モ ノ へ の ま な
ざ し は ラ フ ァ エ ル 前 派 の プ リ ミ テ イ ヴ イ ズ ム を 特 徴 づ け る も の で あ り 、 し た が っ て 彼
ら の ブ リ ミ テ イ ヴ イ ズ ム は 、 ダ ー リ ー ら が 玉 張 し て い た よ う な プ リ ミ テ イ ヴ 芸 術 の 非
物 質 牲 を 称 え る も の で は な く 、 む し ろ マ テ リ ア リ ズ ム を 包 摂 し て い た か ら で あ るO
3
.
ラファエル前派によるプリミティヴイズムの実践一一友愛の兄弟団
ラ フ ァ エ ル 前 派 兄 弟 団 は 、
1
8
4
8
年9
月 ミ レ イ の 自 宅 で 結 成 さ れ た 。 こ の 時 点 で 兄弟 団 の メ ン バ ー が 、 ラ フ ァ エ ッ ロ 以 前 の 画 家 の 作 品 に 接 す る 機 会 は そ れ ほ ど 多 い も の
で は な か っ た 。 ハ ン ト 、 ミ レ イ 、 ロ セ ッ テ ィ は 、 ロ イ ヤ ル ・ ア カ デ ミ ー ・ ス ク ー ル
ズ で 学 ん だ が 、 当 時 ア カ デ ミ ー は
1
8
2
4
年 に ト ラ フ ァ ル ガ ー ・ ス ク エ ア に 設 立 さ れ たナ シ ョ ナ ル ・ ギ ャ ラ リ ー の 一 部 に な っ て い た 。 ナ シ ョ ナ ル ・ ギ ャ ラ リ ー 所 蔵 の 作 品 を
学 ぶ こ と は 、 ロ イ ヤ ル ・ ア カ デ ミ ー ・ ス ク ー ル ズ の 学 生 に と っ て 当 然 の 訓 練 だ っ た
( W
ar ner
1) 0 だが、1
8
4
8
年 当 時 ナ シ ョ ナ ル ・ ギ ャ ラ リ ー に 所 蔵 さ れ て い た ラ フ ァ エ ッロ 以 前 の イ タ リ ア 人 画 家 の 作 品 は 、 フ ラ ン セ ス コ ・ フ ラ ン チ ア の く 聖 ア ン ナ 祭 壇 〉
( 1
5
1
1
- 1
7
;
1
8
4
1
年所蔵) 、G
.
ベ リ ー ニ の く レ オ ナ ル ド ・ ロ レ ダ ン 総 督 ) >( 1
5
0
1
- 2
; 1
8
4
4
年 所 蔵 ) や ロ レ ン ツ ォ ・ モ ナ コ の く 聖 ベ ネ デ ッ ト 祭 壇 〉 の 左 翼 と 右 翼
(1
4
0
7
-9 ;
1
8
4
8
年7月 所 蔵 ) な ど の 限 ら れ た も の だ 、 っ た 。 こ れ ら の 作 品 は 、
f
奇 異 な も のj と し て 収蔵されたものだ、った
( W
ar ner 3
)
01
8
4
8
年6
月にはブリティッシュ・インスティテューシ ョ ン で ラ フ ァ エ ッ ロ 以 前 の 画 家 の 作l弘 ( ピ エ ロ ・ デ ル ・ フ ラ ン チ ェ ス カ 、 フ ラ ・ ア ン ジ ェ リ コ 、 フ ラ ・ フ ィ リ ッ ボ ・ リ ッ ピ 、 ジ オ ッ ト ) が 展 示 さ れ た ( 谷 田
3
2
) 0
また彼 ら は 多 量 の 複 製 闘 で ラ フ ァ エ ッ ロ 以 前 の 画 家 の 作 品 に ふ れ る こ と も で き た 。 な か で
も 、 ピ サ の サ ン ト ・ カ ン ポ に お け る べ ノ ッ ツ ォ ・ ゴ ッ ツ ォ リ に よ る フ レ ス コ 闘 を c . ラ
シ ニ オ が 銅 板 画 に し た も の ( 図2) と、ナザレ派の様式で描かれた絵画を含んだ曲集は、
兄 弟 団 結 成 時 に 彼 ら に 大 き な 影 響 を 与 え た ら
8
月 、 ロ セ ッ テ イ は ハ ン ト と 「 名 声 不 朽 の 人 た ちJ
( I m
m
o
rt al s)
の リ ス ト を 作 成 して い る ( Cor r es
ρ
ondenc e1
.
4
8
.10
)
0 リ ス ト は4
ク ラ ス に 分 け ら れ て お り 、 最 上 位 の 人に は 三 つ 星 、 以 下 二 つ 星 、 一 つ 星 が つ け ら れ 、
4
番 目 は 無 印 で あ るO ハ ン ト が 自 著f
ララ フ ァ エ ル 前 派 兄 弟 聞 に お け る プ リ ミ テ ィ ヴ イ ズ ム 109
図 2 Car l o Lasi ni o, Engr av i ng af t er t he f resco by Benoz z o Gozzol i, L e Noz z e di Rebecca, ed' I sacco, pl at e XXVI I I i n Pi ttμreα f resco del Ca nψ o Sant o di 月sa i nt agl i at e da Car l o Lasi ni o, Fl or ence 1812. ロ
ンドン,大英図書館 ( Pre仕ej ohn 27より)
Br ot her hood ( 1905) に 掲 載 し た そ の リ ス ト に よ る と 、 三 つ 星 は キ ワ ス ト 、 『 ヨ ブ 記j
の 著 者 、 シ ェ イ ク ス ピ ア 、 二 つ 星 は ホ メ ロ ス 、 ダ ン テ 、 チ ョ ー サ 一 、 レ オ ナ ル ド ・ ダ ・
ヴインチ、ゲーテ、キーツ、シエリー、W. S . ランドー、アルフレッド大王、サッカレー、
ワ シ ン ト ン 、 ブ ラ ウ ニ ン グ 、 一 つ 星 は ボ ッ カ チ オ 、 フ ラ ・ ア ン ジ ェ リ コ 、 ブ ラ ウ ニ ン
グ夫人、
C
パ ト モ ア 、 ラ フ ァ エ ッ 口 、 『 白 然 に 倣 っ た 物 語j の 著 者 [ チ ャ ー ル ズ ・ ウエ ル ズ ト テ ニ ソ ン で あ るO 無 印 の な か に は 、 初 期 ゴ シ ッ ク 建 築 家 、 ホ ガ ー ス 、 ミ ケ
ランジェ口、ベリーニ、ジョルジョーネ、ティツイアーノ、ティントレット、E. A. ポー
ら の 名 前 が 含 ま れ る ( Hunt 1.159) 0 リ ス ト の な か に ベ リ ー ニ 、 フ ラ ・ ア ン ジ ェ リ コ
の 名 前 が あ る こ と か ら 、 彼 ら は ナ シ ョ ナ ル ・ ギ ャ ラ リ ー 所 蔵 の ペ リ ー ニ 、 ブ リ テ ィ ッ
シ ュ ・ イ ン ス テ イ テ ュ ー シ ョ ン の 展 覧 会 で フ ラ ・ ア ン ジ ェ リ コ を 見 た か も し れ な い 。
リ ス ト に は 一 つ 星 で ラ フ ァ エ ッ ロ も 挙 げ ら れ て い るO ラ フ ァ エ ッ ロ 以 前 の 画 家 は フ
ラ ・ ア ン ジ ェ リ コ の み で あ り 、 ラ フ ァ エ ッ ロ 以 後 の ミ ケ ラ ン ジ ェ 口 、 ジ ョ ル ジ ョ ー ネ
らも名を連ねているO ハ ン ト が こ の リ ス ト は 「 当 時 の 我 々 の 晴 好 と 呂 標 の 特 徴j を示
し て い る と 記 し た よ う に ( Hunt 1.160) 、 こ の 時 点 で は 、 ロ セ ッ テ ィ と ハ ン ト の 関 心
が す べ て ラ フ ァ エ ッ ロ 以 前 の 芸 術 に 向 か っ て い た わ け で は な か っ た 。 ま た ラ フ ァ エ ッ
ロ自身を否定したのでもなく、兄弟図は、ラファエッロの描写をパターン化したラファ
エ ッ ロ 風 の 画 家 た ち の 以 前 に 戻 ろ う と し た の だ 、 っ た 。 ハ ン ト は 、 兄 弟 団 が 目 指 し た も
のは、 Pre- Raphal i s mではなく、 Pr・e- Raphael i t i s mだ と 述 べ て い る ( Hunt 1.135) 0
リスト作成後の
9
月、ラファエル前派兄弟図が設立されるO 成立の過程については、前 出 の ハ ン ト の 回 想 録 に 詳
L
い 。 こ の 著 作 は 、 著 者 ハ ン ト の 見 方 が か な り 濃 摩 に 現 れ110 山l二l
団のメンバーによる詳細な記述は重要な証言であるO ハントによると、ラフア工ル前
派兄弟団という名前は、ロセッティとハントが話した折にハントが主張したものであ
るらしい。ロセッティは当初、
1848
年3
月 よ り 短 期 間 師 事 し た 酒 家F. M
.
ブラウンが試みていた初期キリスト教芸術の様式にちなんだ「初期キリスト教j という名前を挙
げ た が 、 ハ ン ト は そ の 名 前 はvi tal i tyか ら ほ ど 遠 い と し て 反 対 し 、 彼 ら の 目 的 を 正 硫
に表す「ラファエル前派j という名前を挙げたのだった。しかし、ロセッテイが兄弟
団を結成する直前に読んだ詩人ジョン・キ} ツのコメントが「ラファエル前派」とい
う名前をグループ名にする引き金となったという指摘もあるO ロセッティはキーツの
コメントについて次のように書簡に記しているO
非常に興味深いキーツの第一巻をすべて読み終える時間がまだありません。キー
ツ は 栄 え あ る 人 の よ う だ し 、 あ る 笛 所 で は ( 僕 の 大 い な る 喜 び な の だ が ) イ タ
リ ア 絵 画 の 最 初 と 第 二 の 派 の 画 家 た ち の フ ォ リ オ 本 に 目 を 通 し て 、 初 期 の 画 家
た ち は ラ フ ァ エ ッ ロ そ の 人 さ え 凌 ぐ と い う 結 論 に 達 し た と 言 っ て い る よ う で す11
( Cor r est ondence 1.
4
8
. 9
:
dat ed Augus t2
0
,1
8
4
8
)
このキーツのコメントが、ロセッティに「ラファエル前派兄弟図」という名前を思い
つかせたとしても不思議はない。ハントもロセッテイ同様にキーツを読んでいた。じっ
さ い 、 ロ セ ッ テ ィ が ハ ン ト と 知 り 合 い に な っ た の は 、 ハ ン ト が 描 い た キ ー ツ の 詩 を
主題にしたく聖アグネス祭の前夜: >The Fl i ght 01 Madel i ne and
PO
rJうhy1"o dur i ng theDr unkennes s At t endi ng the Revel1"Y[ The Ev e 01 St Agnes }
( 1848
, r et ouched1858
,キャンパスに油彩,
7
7
. 5
x
113cm
,ロンドン,ギルドホール・アート・ギャラリー,Ca
t.5
6
)
にロセッティが感銘を受けたのがきっかけだった。だが、ハントの兄弟団の命名に関
する記述は、ロセッティが読んだキーツのコメントについてはふれていない。
兄弟図 ( Br ot her hood) の使用を主張したのはロセッテイであり、聖職者主義を匂わ
せるという反対もあったが、ロセッティの主張に従うことになった ( Hunt 1.
1
4
0
- 4
1
)
80「初期キリスト教」という名に反対したハントも兄弟団が暗示する「共同体性」には
異 を 唱 え な か っ た 。 彼 自 身 、 著 書 の な か で 幾 度 と な く “ our Body " という諾を用い、
ラ フ ァ エ ル 前 派 兄 弟 図 が 共 同 体 で あ る こ と を 強 調 し て い るO また、c . ジヤコビによ
れば、「兄弟団
J
は 中 世 の 友 愛 関 係 お よ び ギ ル ド と 当 H寺の商業上の団体とのつながりも暗示していており、社会の改革論者の著作には共通して使用される語でもあった。
ハントは兄弟団のなかで唯一商業取引の経験があり、その語の使用に慣れていたのか
もしれない Qacobi
3
9
)
。なぜ彼らは
J
兄弟団」という共同体的な実践を試みたのだろうか。兄弟団設立当時、ラ フ ァ エjレ 前 派 兄 弟 団 に お け る プ リ ミ テ イ ヴ イ ズ ム 111
ま だ 先 行 き も 不 明 な 若 者 た ち が ア カ デ ミ ー の 絵 画 規 範 に 反 旗 を 翻 す た め に は 、 集 団 的
な実践が必要だ、った 。 彼 ら は 、 芸 術 上 の 慣 習 に 基 づ い た 絵 画 と そ の 無 味 乾 燥 さ に 反 感
を も っ た 点 で も っ と も 強 力 に 団 結 し 、 と り わ け ロ イ ヤ ル ・ ア カ デ ミ ー の 準 会 員 の 似 た
り 寄 っ た り の 作 品 を 嫌 悪 し て い た ( St al ey [ 2001] 1) 0
ま た 、 兄 弟 団 設 立 前 に 、 ハ ン ト 、 ロ セ ッ テ ィ 、 ミ レ イ が 、 協 同 的 な 実 践 を 行 っ て い
た こ と も 兄 弟 団 の 前 史 と し て 重 要 だ ろ うo 1844年 頃 に ロ イ ヤ ル ・ ア カ デ ミ ー ・ ス ク ー
ル ズ で 知 り 合 っ た ハ ン ト と ミ レ イ は 、 作 品 を 共 に 制 作 し て い た ( ハ ン ト の く聖アグネ
ス祭の前夜 〉、ミレイのくチモーネとイフイジ、エニア
> Cy m
on
αnd
争h
i ge
n
i a
[ 1
8
4
7
-8
,キ ャ ン パ ス に 油 彩 114. 3 x 147. 3cmレディー・リーヴァー・アート・ギャラリー, リ
ヴ ァ プ ー ル 国 立 美 術 舘J ) o 16、17世 紀 の 型 に は ま っ た 作 品 を 拒 み 、 新 た な 芸 術 へ の
指 針 を 探 し て い た 彼 ら は 、 こ れ ら の 作 品 に す で に プ リ ミ テ イ ヴ 芸 術 へ の 関 心 を 反 映 し
た 色 彩 と ア ル カ イ ッ ク な セ ッ テ イ ン グ を 用 い て い る ( Jacobi 36) 0 先にふれたように、
ハ ン ト の く 聖 ア グ ネ ス 祭 の 前 夜 〉 に 感 銘 を 受 け て ス タ ジ オ を 訪 れ た ロ セ ッ テ ィ は 、 ま
もなくミレイを紹介されるo 3人はサイクログラフイツク・ソサイエティというスケッ
チ ク ラ ブ に 加 わ り 、 そ こ で も ロ セ ッ テ ィ が 互 い の 作 品 を 批 評 し あ う 批 評 シ ー ト を ま わ
す な ど 、 作 品 制 作 に お い て 協 同 的 な 実 践 を 試 み て い るO ロ セ ッ テ ィ は キ ー ツ の 詩 を 題
材 に し た く 慈 悲 な き 乙 女
> L a B
e
l l e
Da m
e Sans M
erci ( 1
8
4
8
ペン、セピア、鉛筆、 28x 14. 6cm,他人, S. 32) を 、 ハ ン ト は シ エ リ ー の 詩 “ Gi nevrイ を 題 材 に し た く死 の 床
へ の 一 歩
> O
ne S
t
ψ
,to
th
e
D
eat hbed
( 1848, C at. D1 8, 23,ペンとインデイアンインク,18. 7 x 27. 9cm,ニューヘヴン,Yal e Cent er f or Bri t i sh Ar t ) を提出した。それらのスケッ
チ に は 、 兄 弟 団 の 様 式 上 の 共 通 点 と な る 「 緊 張 し た ぎ こ ち な い ナ イ ー ヴ な ス タ イ ル 」
( Gr i eve [ 1984J 25) で 、 カ ン ポ ・ サ ン ト の 鋼 板 画 ( 図2) に み ら れ る 角 張 っ た ラ イ ン
を 多 用 し た 描 写 が す で に 現 れ て い る 。 彼 ら は こ の よ う な 制 作 の 過 程 で 、 芸 術 論 を た た
か わ せ て い た 。 このような彼らの集まりを、
C
ジヤコビは、「画家のソサイエティでは な く 、 政 治 的 、 哲 学 的 、 詩 的 、 絵 画 的 ア イ デ ア の コ ミ ュ ニ テ ィj だ、ったと述べてい
る( Jacobi 45) 0
だ が 、 ア イ デ ア を 出 し 合 う だ け の 共 同 体 で は な く 、 彼 ら は 共 同 体 的 実 践 に よ っ て 初
期芸術の「精神性j の回復も昌指していたのだ、った。この志向には、当時関心が高まっ
て い た プ リ ミ テ イ ヴ 芸 術 に 関 す る 議 論 、 お よ び そ れ に 関 連 し て ウ エ ス ト ミ ン ス タ ー 宮
殿 の 装 飾 で 参 考 に さ れ る な ど 注 目 を 集 め て い た ナ ザ レ 派 と の 結 び つ き が 指 摘 で き る だ
ろうO ハ ン ト が 「 私 た ち の 共 同 体 ( Body) の 名 前 は 、 当 時 の 浮 つ い た 芸 術 に 対 し て
戦 お う と す る 私 た ち の 決 意 を 心 に 留 め さ せ た 」 と 述 べ た よ う に ( Hunt 1.142) 、 作 品
を 売 却 す る た め に 大 衆 の 趣 味 に 迎 合 し て 描 か れ た 作 品 か ら 失 わ れ て い た 精 神 性 を 回 復
しようとする動機も兄弟回設立を促したものだ、った。ロセッテイが「初期キリスト教」
1 1 2 iJJI一l
ネl{l'l笠j を 、 彼 ら も 重 視 し て い た こ と の 現 れ で あ るO
冒頭で述べたように、 19世 紀 に は ラ フ ァ エ ル 前 派 兄 弟 団 の み な ら ず 、 ヨ ー ロ ッ パ
各 地 で 「 ラ フ ァ エ ッ ロ 以 前
J
の 芸 術 を 志 し た 芸 術 家 ブ ル ー プ が 形 成 さ れ た 。 こ れ らのグループの共通点として、( 1 ) 男だけのホモソーシャルな兄弟図、 ( 2) 秘密主義、
HSI HI HTI iGiセセ
( cor por at e i dent i t y)
J
を 掲 げ た こ と が 挙 げ ら れ て い る ( Mor owi t z a nd Va ug ha n 6, 8) 0ラ フ ァ エ ル 前 派 兄 弟 団 も こ れ ら の 点 を 共 有 す るO 彼 ら は 男 7名のグループであり、
P
.
R. B. の111各字を用いることを決- め、当時の支配的な権力から攻撃されるのを恐れて、 メ ン バ ー 全 員 で そ の 意 味 の 秘 密 を 厳 守 す る こ と を 約 束 し て い る ( Hunt 1.141) 0 1=1:1 -1主主 義 に 関 し で も 、 「 ラ フ ァ エ ル 前 派
J
と い う 名 前 が 示 す よ う に 、 彼 ら の 関 心 は 中 世 に向かい9、 ( ナ ザ レ 派 の よ う な 宗 教 的 実 践 は 行 な わ な か っ た が ) ラ フ ァ エ ッ ロ 以 後 の 絵
画 に 失 わ れ た 精 神 性 の 回 復 を 目 指 し た 。 他 の 兄 弟 団 も 精 神 的 な 共 同 性 を 表 明 す る た め
に雑誌を刊行したように、彼らも奈雑住誌『ザザ、. ジヤ一ムj
The G
e1
セT T I した( 1νMν川10αrOWl社tz a nd Va ug ha n 6ω) 0
{ 也方、これらのグループは矛盾を抱えてもいたことを、モロウイツツとボーンが指
摘 し て い るO ま ず 、 芸 術 の 精 神 性 の 回 復 を 求 め て い な が ら も 、 「 生 活 」 の た め に 、 経
済 的 か つ 集 団 的 な 実 践 を 伴 わ な け れ ば な ら な か っ た 点 で あ るo
1
アカデミ- J
の 権 威 に 対 抗 す る た め に 、 集 団 で ア ピ ー ル す る こ と は 、 作 品 を 売 却 す る た め の 戦 略 で も あ ったのだ。次に彼らは、「よりよき明日」を目指していても、自分たちのヴイジョンを「理
想 化 さ れ た 過 去j からとってきたという点で、あるO さ ら な る 矛 盾 と し て 、 彼 ら は ブ ル
ジョワの男性だけのグループであり、アカデミーのヘゲモニーを批判するかたわらで、
兄 弟 団 と し て の 男 性 の ヘ ゲ モ ニ ー を 確 認 し て い た と い う 点 も 指 摘 さ れ る ( Mor owi t z
a nd Va ug ha n 1-2) 0
こ う し た 矛 盾 は ラ フ ァ エ ル 前 派 に も み ら れ る も の だ 。 し か し な が ら 、 プ レ テ ィ ジ ョ
ン は 、 グ ル ー プ と し て は こ の よ う な 矛 盾 を は ら ん で は い る も の の 、 ラ フ ァ エ ル 前 派 兄
弟 団 が 作 品 を 集 団 的 実 践 と し て 制 作 し た こ と の 意 義 を 強 調 し 、 彼 ら が 兄 弟 囲 と し て
行 っ た の は 特 殊 な 「 モ ダ ン ・ ム ー ヴ メ ン ト 」 で あ る と し て 、 彼 ら の 芸 術 を 「 モ ダ ン ・
ア ー ト 」 の な か に 位 置 づ け た 。 そ し て 、 そ の 「 運 動 」 は 、 美 術 史 の 流 れ を プ リ ミ テ ィ
ヴ 、 ア ル カ イ ッ ク な モ ー ド へ と 転 換 し た 運 動 で あ る と 評 価 し 、 「 ラ フ ァ エ ル 前 派 の プ
リ ミ テ イ ヴ イ ズ ム 」 と 明 示 し て い る ( Pr et t ej ohn 18・19) 。 ヴ ア ザ ー リ 流 の 進 化 論 的 な
美 術 史 を 、 「 プ リ ミ テ イ ヴ 」 芸 術 へ と 逆 行 さ せ 、 そ こ か ら 「 モ ダ ン 」 な 芸 術 を 生 み 出
すためには、集団的な実践が必要だったのだ。
4
.
ラファエル前派兄弟団の「自然
J
ラ フ ァ エ ル 前 派 兄 弟i買 に お け る プ リ ミ テ ィ ヴ イ ズ ム 113
下の4点を挙げているO
( 1) 表現するアイデアをもつこと、
( 2) そのアイデアを表現する方法を習得するために、自然を注意深く観察すること、
( 3) 過去の芸術の直接的で、真撃で、真心のこもったものに共感し、慣習
1
3
9
で自己顕示的なもの、機械的な反復によって学んだものを排除すること、
(4
)
最も不可欠なことは、本当にすぐれた絵T I i l l や彫刻を生みだすことO( 川市在R [ 1970J 1.135)
ラファエル前派兄弟問の芸術を語るとき、このなかでもっとも議論され、しかももっ
とも捉えにくいフレーズが
(2
)
の「自然を注意深く観察することj だろうO その自然は、「アイデア
J
を 表 現 す る 方 法 を 授 け て く れ る も の で あ るO 続く ( 3) のf
過去の芸術」はラファエッロ以前、すなわち「プリミテイヴj 芸術を指すものであり、 ( 2) の自然、
と「プリミティヴ」芸術の誠実さとの関連については述べられていなし」アイデアの
表現、自然、「プリミテイヴ
J
芸術の誠実さはどのように関連づけられるのだろうか。ハントによれば、最盛期のラファエッロは慣習に対して挑んだ芸術家だ、ったが、彼
の 追 従 者 が ラ フ ァ エ ッ ロ の 描 写 を 型 に は め 、 ラ フ ァ エ ッ ロ 自 身 の 描 写 も そ の 型 の な か
に入り込んでしまったという
( H
u
n
t
1.135- 37) 0 こ う し た 慣 習 が そ の 後 の ア カ デ ミ ーの芸術的な規範となり、ロセッティによれば、「似たり寄ったりのj 作 品 がflJIJ作 さ れ
ることになった
( DGR
571) 0 こうした型からの脱却が、上記の目的の (3) に書かれているO
この脱却の手段として、兄弟団、とりわけハントは「自然」を求めた。ハントは打自然j
へ の 子 供 の よ う な 従 属
J
と い う こ と が 兄 弟 団 の 「 元 々 の 原 知J
だ っ た と 記 し て い る( H
u
n
t
1.132) 0 このようなハントの言葉は、彼がラスキンの『現代語家論j 第1巻( 1843) 、第2巻( 1846) を読んだ影響が大きい。ハントは 1847年友人からその書を借りて読み、
翌年2月にミレイにラスキンの主張がいかに彼の心を揺さぶったのかについて話して
いる
( H
u
n
t
1.81- 91) 0 第1巻の結論にハントは導かれたのだ、った。[ イギリスの若い芸術家たちは] 心を一つにして自然に向かい、勤勉に、信頼し
て、どのようにしてもっともよく自然の意味を悟ればいいのかという以外は考え
ず に 、 自 然 と と も に 歩 く べ き だ 。 何 も の も 拒 ま ず 、 何 も の も 選 ば ず 、 何 も の も 蔑
まずに( 時七rks3. 624) 10 0
ラスキンは、ターナーを擁護するために、