外国人による「富士山研究」
著者 山中 玲子, 天野 紀代子
出版者 法政大学国際日本学研究所
雑誌名 国際日本学
巻 3
ページ 117‑137
発行年 2005‑03‑31
URL http://doi.org/10.15002/00022580
「富士山をめぐる日本人の心性」の研究グループでは、富士信仰や富士山に 関わる文芸等について研究会を催す一方、富士山に関する文献リストの作成、
外国における最近の富士山研究のチェックなどにも努めてきた。「富士講」を 研究する澤登、富士山麓の縄文遺跡を調査中の金山などの専門的な研究成果は 最終年度に報告する予定である。以下に掲載するのは、2004年11月の成果発表 会において天野と山中が行った「外国人による最新の富士山研究の紹介」の活 字化であるが、特に山中稿は、大幅に加筆・改訂を加えている。
英米の美術史研究者による「富士山研究」
山 中 玲 子
「富士山をめぐる日本人の心性」の研究チームには富士信仰の専門家なども 加わっているが、筆者の専攻する能楽の分野では富士山の研究に貢献できる度 合いは少ないので、2004年11月の成果発表会においては、英米人美術史研究者 による最新の富士山関連論文2本を紹介したうえで若干のコメントをつけた。
本稿はその活字化である。当日は発表時間が限られていたためごく簡単な紹介 しかできなかったが、本稿では各論文の内容を要約しつつ紹介することにも力 を入れている。また、外国人による日本研究にどう向き合って行くべきか、い ささか私見も述べたいと思う。
Ⅰ 大英博物館の特別展:100 VIEWS OF MOUNT FUJI
まず、Timothy Clark氏による論文、"MOUNT FUJI IN THE LANDSCAPE OF JAPANESE ART"を紹介する。2001年5月11日〜7月29日、大英博物館で 富士山の絵の展覧会(100 VIEWS OF MOUNT FUJI)が開催されたが、クラ
外国人による「富士山研究」
ーク氏はその展覧会の責任者で、多くの図版と非常に詳しい解説の施された図 録を制作、その冒頭にこの論文が置かれている。表題が示している通り、古代 から現代まで日本美術史全体を通しての展望の中に、各時代に描かれた「富士の 絵」を位置づけ、個々の絵に籠められた、あるいはそこから読み取れる意味を考 察したものである。記述の必要上富士信仰についても触れているし、日本の国家 としてのアイデンティティを確立し、また再強化する際に富士山のイメージが果 たした役割についての言及などもあるが、基本は美術史としての研究と言って良 いと思われる。氏自身も論文の冒頭で、以下のように宣言されている。
This essay is about pictures of Fuji and does not attempt to be an account either of the mountain itself or its role in history, religion, politics or literature, although these matters will be touched on to interpret the pictures.
クラーク氏自身がこの論文の中で言われていることだが、西欧においては浮世 絵への関心は高くても「富士山」に興味が持たれるということはあまりなかっ たようだ。そうした中で、富士の絵を一覧するこうした展覧会が催されたこと 自体にも大きな意味があるだろう。上述の図版とは別に無料で配布されるリー フレットには、この特別展のねらいが次のように記されており、伝統的な「富 士」のイメージに対して、17世紀以降現代までの新しい解釈や描き方による
「富士」の絵を中心に据えていることが判る。
This exhibition explores a wide range of manifestations of the mountain in more recent visual culture, as portrayed by Japanese painters and print designers from the seventeenth century to the present. New cur- rents of empiricism and subjectivity have enabled Japanese artists of recent centuries to project a surprisingly wide range of personal interpre- tations onto what was once regarded as an eternal, unchanging symbol.
江戸時代の初めから現代までをひとくくりにして「新しい動き」と見る見方に まず、スパンの長い「外からの視点」の魅力を感じるが、たとえば享保以降の 作品の分析からは、閉ざされているようでありながらやはり海外とつながって いたこの時代の状況(このこと自体は既に良く知られたことではあるが)が確 認できたりして、そういう意味でも興味深い。以下、クラーク氏の章立てに従
いつつ、図版掲載論文の内容を簡単に要約し、紹介していくこととする。
1 Fuji as Deity, Fuji as Poetic Metaphor
まず最初に、古代から続いてきた富士山のイメージが押さえられている。そ れには大きく二つの流れがあり、一つはその峻厳な姿や草木も生えぬような厳 しい自然環境から生まれる、崇敬の対象としての富士山、もう一つは文学の中 で様々なメタファーを生み出し抱え込んできた富士山である。クラーク氏は、
密教、神道、修験道、さらに聖徳太子伝説にも触れて、富士山信仰の諸相を簡 略に紹介する一方で、『万葉集』から『伊勢物語』、西行の歌まで参照しながら、
富士山の上げる噴煙が「燃える思い」や「俗世からの離脱への希求」等の文学 的比喩になっていたことを示す。この時代までの富士信仰のイメージとして
「富士参詣曼荼羅」(狩野元信。16世紀)を掲げ、美保松原から清見寺・浅間神 社を過ぎ山頂まで続くジグザグの道や、様式化された三つの頂上に配置された 大日・阿弥陀・薬師の三仏、その両脇に描かれた日月等を示している。
2 Conventionalized Views of Mt Fuji
室町時代には、富士山は水墨画の題材となり、多くの掛け軸に描かれるよう になる。中でも後世に与えた影響が絶大だった作品として伝雪舟作の「富士美 保清見寺図」が採り上げられ、宋や元のスタイルを取り入れつつ、美保松原や 清見寺といった歌枕と三峰の富士山を組み合わせて描く様式化された富士の風 景が、多くの画家たちによって繰り返し模写され、後の狩野派の基盤になった という流れが示される。また、江戸時代にはこの「富士美保清見寺図」が河村 岷雪の『百富士』にも掲載されたため、オリジナルの絵を見ることのできない 江戸の人々にも、この図像は非常に良く知られていたとの興味深い指摘もある。
後の浮世絵についての論からもうかがえることなのだが、クラーク氏は、現代 のように情報の伝達手段が多くない時代に、富士山のイメージが人々の中に浸 透していく状況やそのプロセスにも強い関心を持っておられるように見える。
3 Fuji from the Tokaido
東海道を行き来する人々の見た富士の姿について触れた、短い章である。16
世紀のものとされる「東海道往来図屏風」(奈良県立美術館蔵)には、清見寺、
美保松原等々、雪舟以来の伝統的な要素が描かれている一方で、雅俗貴賤入り 交じった旅行者・建物・遊宴の様子等、街道沿いの風俗が活写され、当時盛ん になりつつあった風俗画の要素が様々な形で流れ込んでいることが指摘されて いる。もう一つ、クラーク氏がここで指摘しているのは、江戸開府以降東海道 往来が盛んになり、たとえば狩野探幽なども何度も東海道を往復し実際に富士 のスケッチを残しているにも関わらず、彼やその後継者たちが描いた富士の絵 は実写に基づくものではなく、雪舟以来の伝統的な構図によるものであったと いう点である。こうした保守的な在り方が逆に、創作欲のある芸術家たちを反 発させ、17世紀以降の新しい流れを生み出すきっかけとなったという形で、以 下、今回の展覧会の眼目である17世紀以降の新しい流れへと進めていく。
4 New Ways of Painting Fuji, from China and Europe
まずは、新しい方法の導入について。享保以後、鎖国中の日本でも外国の文 献が入手しやすくなっており、富士山も、中国・ヨーロッパ伝来の新しい描き 方によって描かれるようになるとして、池大雅や司馬江漢の例が挙げられてい る。すなわち、前者が中国文人画の手法を、後者が西洋絵画の写実的な手法や 遠近法を採り入れて、新しい富士の絵を産み出していった様子を、先行研究を 踏まえつつ記述する。そのうえでクラーク氏は、司馬江漢が「相州鎌倉七里浜 図」を愛宕山神社絵馬堂に奉納したほか、いくつもの作品を日本各地の神社に 奉納して西洋絵画の方法を広めようと努めたことに注目し、そのようにして江 戸の絵描きたちに深く浸透していった西洋絵画の知識が、北斎の「富嶽三十六 景」にも多くの影響を与えているのだと指摘する。西洋絵画の図版から直接影 響を受けるだけではなく、北斎以前に西洋絵画の技法を身につけていた江戸の 多くの画家の作品を通して間接的にも影響を受けている、という指摘は、江戸 の人々の間に富士山のイメージが浸透していく様を見ようとする前述の視点と も呼応しており、クラーク氏の立場が読み取れる点でも興味深い。
5 The Fuji Cult
富士山に関して何か言う時に避けては通れない問題として、富士信仰のこと
も簡単にかつポイントを押さえて説明されている。が、信仰や民俗の問題には 深入りせず、あくまで美術史の立場で、富士山を描いた絵との関わりに限定し ているのが成功していると思われる。富士吉田の側から富士登山を行う富士講 の人々によって北側のルートが開かれ、東海道の側から眺めたのとは違う、北 側からの富士の姿に注目が集まったこと、また、江戸を中心として数多くの富 士塚が造られたこと等が事実として提示され、富士講のメンバーを中心に、富 士の絵や版画を喜んで買っていく人々が多数存在したという、次章の問題へと つなげていく。
6 Pictures of Fuji in Edo
この章では、江戸時代に多数描かれ出版された、富士山の浮世絵が扱われる。
クラーク氏の論文の中心も、おそらくここにあるのだろう。まず、富士山のイ メージが「めでたさ」の象徴として用いられるようになった例として、宮川一 笑や歌川豊国の浮世絵が取り上げられている。後者は西村永寿堂初代、西村与 八が71歳になったのを祝う(年を取るのは正月なので正月の)絵で、与八本人 の後ろに「一富士二鷹三なすび」を描いた大きな屏風が描き込まれている。現 代の我々が富士山に晴れやかなめでたさを感じるのと同じ感覚を見いだすこと ができるが、実はクラーク氏がここで西村与八と富士の絵を出しているのには もっと深い意味がある。西村栄寿堂は江戸の有力な版元で、北斎の「富嶽百景」
「富嶽三十六景」もまさにここから出版されているのである。クラーク氏は、
西村栄寿堂の二代目か三代目が富士講のリーダー(講元)だったらしいことや、
さらに進んで、北斎自身も富士講のメンバーだったかもしれないという説(狩 野博幸『凱風快晴 赤富士のフォークロア』)も紹介し、初代与八の後ろに描 かれた富士が北側から見た姿であるとすれば、単に正月のめでたいイメージと いうだけでなく、初代西村屋と富士講のつながりさえ見て取ることも可能とさ れる。こうした人々と富士講とのつながりについては反論もあるようだが、ク ラーク氏や狩野氏の言われるように、少なくとも、西村栄寿堂が富士の絵の浮 世絵を出版しようとするとき、そこには江戸中にあふれる富士講のメンバーが 購買層として控えていたということだけは確実だろう。
続いて、色々な場所から見える富士を描く試みはすでに河村岷雪が行ってお
り、北斎にも影響を与えたと考えられること、一方、ベルリンブルー(日本で はヘロリン、ベロリン)という新しい鉱物性の青絵具を利用した「富嶽三十六 景」の大成功が、浮世絵版画の新ジャンルを生み出したことが述べられる。北 斎と歌川広重の時代(1830−58)に刷られた富士の浮世絵や挿絵の数はそれ以 前に描かれた富士の絵の総数を凌駕すると言うクラーク氏は当時の状況を次の ように説明する。
Certainly the fact that individual colour woodblock designs that proved popular could be quickly printed in thousands of copies, meant that Fuji images spread to all parts of Japan, taken home as souvenirs by almost all visitors to Edo. ... Fuji imagery was sold in saturation quantities to Japanese buyers long before it was ever sold to foreigners.
富士講のメンバーはもちろん、日本全国から江戸を訪れた人が土産に富士の 版画を買って帰ることで、日本全国に(=実際には見たことがない人々の間 にも)富士山のイメージが広がっていき、「飽和状態」だったという指摘は興 味深く、またクラーク氏が強調したい点でもあるように思われたので、原文 も紹介した。
7 The Thirty-Six Views in France
ヨーロッパ(英国)での展覧会である以上当然ではあるが、富士山の絵がヨ ーロッパに与えた影響にも目が配られている。その中で「浮世絵の影響はある が、富士山そのものはヨーロッパ人の興味をひかなかった」という面白い指摘 がされているが、そう言いながらもクラーク氏は、最も浮世絵の影響を受けな かったといわれるセザンヌの、「サントビクトワール山」の連作に、北斎の影 響を見いだす。具体例として、山を描くというモチーフ自体をはじめ、ぼかし の技術、青で描かれた山のアウトライン等が示されるが、何よりも、同じ対象 を何度も何度も描く「フォルムの探索」という面に、北斎の影響が強く見いだ されるとの主張である。ここもクラーク氏自身の説として主張したい部分と思 われるので、原文を引用する。
Not just the motifs, but, tellingly, also the deep blue outline of the moun- tain and the gradated blue patches of sky between the branches; surely
this latter effect must be bokashi (gradation printing) in oils. More than anything, however, it is a common approach to the exploration of form that Cezanne seems fundamentally to have shared with Hokusai― draw- ing endless variations on a given theme, subjecting a subject to repeated manipulations of the mind. That the French artist could have pursued this project to capture the moods of Saint-Victoire in ignorance of Hokusai's prints seems inconceivable.
北斎や広重による富士山の連作に影響を受けたもう一つの例として、アンリ・
リヴィエールの「エッフェル塔三十六景」も紹介されている。同じ対象を違っ た角度、視点から次々に描くという「三十六景」の構想が「富嶽三十六景」か ら来ているのは言うまでもなく、個々の作品の構図や技法にも北斎や広重の具 体的な作品との直接的な連関が指摘されているようだが、同時に、江戸にとっ ての富士山に相応する対象がパリにとってはエッフェル塔であるというのであ れば、それは次章で述べられる「国民のアイデンティティ」とも関わっていく、
重要な問題なのではないだろうか。
8 Mt Fuji and 'The Spirit of the Japanese'
ここではまず、先述の『凱風快晴 赤富士のフォークロア』で述べられた 狩野博幸氏の説に沿いながら、田沼意次の時代に開国の計画があったこと、
その頃「国益」という形で日本という「国」を意識した平賀源内が、富士を
「三国一の山」と言っていること、同じく日本の優位性を唱えようとする文脈 で、食行身禄や司馬江漢が富士についてコメントしていること等を挙げ、こ の時代(江戸時代中期)に「日本のシンボルとしての富士」という意識がで きあがってくるとの狩野氏の説を、全面的に支持する形で紹介している。さ らに、明治の開国以降、日本が海外進出を推し進め植民地を拡大していった 時代にも、富士山が国家のシンボルとして機能していたことが、戦中・戦後 の横山大観の作品によって説明される。「他の山々が未だ暗闇に沈んでいる中、
雲の上に頂を出し、朝日を浴びてそびえる富士」という題材を大観が好んだ という点について、クラーク氏は何もコメントされていないが、その富士は 当然アジアの雄としてそびえ立つ大日本帝国のイメージなのだろうし、荒れ
狂う波浪や雲に四方を囲まれた富士を描いたく「正気放光」については、こ れをreciting a patriotic mantraと呼んだ例も紹介されている。そして、戦後に 大観が描いた富士山と龍の組み合わせが、およそ百年前に長寿を願う北斎に よっても描かれていることを紹介した後、クラーク氏の論は、次のような形 で結ばれる。
In the course of a century Fuji and dragon imagery had been trans- formed by history from something intensely personal to something intensely political. The case study of Taikan's Fuji paintings encourages us to ponder on the differing ways in which such a potent symbol has been used to establish national identity, bolster national pride, or serve Nationalist aims.
以上見てきたとおり、クラーク氏の仕事は、あくまで美術史の分野で、富士山 の描き方の歴史を叙述するものであった。が、たとえばメインとなる江戸時代 以降の話の場合、富士山に注目することで、当時の文化状況も見えてくること になるし、最終章で述べられていたような「日本のアイデンティティ」という 問題にも触れざるを得なくなってくる。個人的な印象で申し訳ないが、最終章 でのクラーク氏の叙述は、他の箇所に比べて多少歯切れが悪いように思われる。
クラーク氏自身の興味とは別の問題であるけれど、とりあえず触れねばならな い問題として、他の研究者の論を紹介することに終始しているせいかもしれな い。逆に言えば、これほど実証的、禁欲的に、実際の絵画に即した論を組み立 てていても、やはりナショナリズムや日本のアイデンティティという話でまと めなければ、「日本」についての研究にならないということなのだろうか。日 本人による日本内部での研究の場合、一枚の絵に関する資料的な発見でも論文 になり得る(してしまう)だろうが、外国の研究者の場合「日本」を全体的に 捉える視点が常に求められ、その結果、我々に欠けがちな大きな視点を可能に する一方で、ステレオティピカルなまとめ方に陥ってしまう(あるいはそうせ ざるを得ない)という事情もあるのかもしれない。これは学問の在り方に関す る問題で、簡単には答えが出ないかもしれないが、今後も考えていきたい点の 一つである。
Ⅱ "Making Mountains: Mini-Fujis, Edo Popular Religion and Hiroshige's One Hundred Famous Views of Edo"
本稿で取り上げたいもう一つの論文は、前章で紹介したクラーク氏から「最 近出た富士山に関する論文」として勧められたメリンダ・タケウチ氏の論文で ある。タイトルは「山を作る:富士塚、江戸で流行した宗教と広重の『名所江 戸百景』」というように試訳しておくが、前書きの部分でタケウチ氏自身が述 べているところによれば、18世紀後半、関東を中心に多数造られた「富士塚」
に注目することによって、富士信仰、江戸時代の政治・文化状況、ジェンダー の問題等にまで触れつつ、広重の「名所江戸百景」における自己表現の問題に 及ぼうという壮大なものである。扱う範囲が広くなるだけに、疑問に感じると ころも多いのだが、冒頭に述べたように、山中は富士信仰についても美術史に ついても専門的知識を持たないので、研究グループのメンバーで富士信仰の専 門家でもある澤登氏(日本近世史)に内容や疑問点を伝え、見解を聞くという 形をとった。また、英国ヨーク大学卒のイタリア人で現在はコロンビア大学ド クターコース在学中のマルコ・ゴッダルド氏(宗教学)も、現在富士信仰を研 究テーマにしているので、ゴッダルド氏とも連絡を取り、意見をうかがった。
彼らはそれぞれ専門家であるだけに、細かい指摘もあるが、メリンダ氏の知ら ないところで素人である山中が勝手に引用し、専門家の威を借りて批判するの もアンフェアかと思われるので、澤登氏やゴッダルド氏のコメントはあくまで、
このタケウチ氏の論に関する山中の質問への答えとして受け止め、直接の引用 は最小限にとどめたいと思う。以下、タケウチ氏の論の概略を紹介しつつ、疑 問点や納得できない点などにも触れていく。
1 Simulacra and Miniatures
ここでは「似姿(simulacra)」や「ミニチュア」に関して、オリジナルより も価値の低いものと捉える西欧の考え方と、アジアの考え方とでは違うことを、
いくつかの例を挙げて示し、「しばらく西欧的な見地から離れて考察しよう」
という立場表明を次のように記しておられる。
As contemporary Westerners, we need to set aside some deep-rooted
assumptions about the value and propriety of replication and ruminate on more chthonic notions of the transmutability of physical stuff.
だが後にも述べるように、このような宣言にも関わらず、タケウチ氏の論調は、
富士講の在り方や信仰形態などを非常にうさんくさいものとして低く見ている ような印象を与えることが多い。そもそも "chthonic" ―「地中[地下]に住 む;地下の神々の(cf. OLYMPIAN);暗く原始的で神秘的な」(リーダーズ英 和辞典)―という語が、江戸で栄えた富士講(及びそこで造られる富士塚)に ついて当てはまる単語なのか、良く考えてみる必要があるだろうし、またタケ ウチ氏がこの章で言われるような、レプリカを価値の低いものとする考え方が、
本当に「西欧人に深く根付いている」かどうかも、疑問がある。宗教上のイコ ンのレプリカを作る行為について、宗教学の専門家でもない山中には判断でき ないが、素人の目から見ても、たとえばカトリックの信仰にはレプリカが溢れ ているのではないだろうか。こちらの英語力の問題を差し引いてもなお、タケ ウチ氏の当該論考には、説明不足と感じられる点が多くあるように思われる。
2 Fuji Cults and the Landscape of Fuji
富士山をめぐる宗教の歴史を概観する章である。タケウチ氏自身がことわっ ている通り、従来の学説を整理し紹介することに目的があり、タケウチ氏の新 しい見解が示されるわけではないが、富士信仰の歴史を知るには非常に便利な 形で、大掴みにまとめてくれている。まず、富士山の形状や、雲を下に見る高 さ、草木の生えない環境や天と地をつなぐように見える噴煙等が「死と破壊」
と「不死」という両極端のイメージを産み出したこと、修験道における死と再 生の儀式などに触れた後、江戸時代の新しい富士信仰を紹介し、角行藤仏(長 谷川角行)、食行身録の生涯や信仰、その結果としての「富士講」の発達等に ついて概略を押さえる。さらに、富士講の曼荼羅や神棚のスタイルを紹介し、
富士信仰における女性忌避(血の穢れ)の問題についても多くのスペースを使 って述べている。
「富士山と日本人の心性」の研究グループでは、富士信仰に関して日本で書 かれている論考もいくつか読んで学習したが、どの論文も詳細すぎて全体像が 掴みにくかった。むしろ、タケウチ氏のここでの概説を読んで、富士信仰全体
の歴史が理解できたように思う。もちろん個々の問題については誤解もあるよ うだし、ところどころに加えられるタケウチ氏のコメントにも「そうだろうか」
と疑問を感じてしまうことも多いのだが、それでもこの論文があちこちで取り 上げられるのには、富士山をめぐる信仰について大まかな流れを知るのに便利 だからという面があるのだろう。このこと自体、外国人による日本研究と日本 人による日本研究とを比較する際の面白い問題を含んでいよう。いかにも予測 できる図式ではあるが、日本人研究者による詳細な研究成果によって、タケウ チ氏の論が複数箇所訂正されると同時に、こうした大掴みで全体を見渡すよう な説明を読むと、日本での個々の研究がいかに細分化されているかということ も、逆に浮き彫りになってしまうのである。
だが今はその問題は擱き、最も納得できなかった「富士信仰における女性忌 避」についての議論に触れておきたい。タケウチ氏は中国の血盆経の例なども 引きながら、女性には血の穢れがあると認識されていたため富士登山が許され なかったと紹介する。たしかに修験道などでは女性忌避は在るし、定められた 年以外は富士山に女性が登れなかったのも事実だが、富士講の信仰では女性を 穢れとは捉えず、どんどん富士塚に登れと勧めている。このことをどう説明す るのか。また「御胎内」(鍾乳洞)での儀式に関しても、「胎内に入り生まれ直 すというのは良いのだが、そこで鍾乳石を吸うという、非常に性的なイメージ の強い行為を行うため、鍾乳洞に入る行為そのものも、『胎内に入り直す』で はなく、『膣内に入っていく』という、まったく別の意味をも帯びてくる。そ ういう行為を女性の信者はどう思っていたのだろうか」というような論評がさ れているのだが、ことはそういう問題なのだろうか。個人的には「胎内に入る こと」と「膣内に入ること」の区別など考えたこともなかった。現代でも「胎 内巡り」の名所などは様々なところにあるが、そこに入る人たちも、女性の膣 内に突入していくというような感じ方はしていないのではないだろうか。この ようなことを言っても単なる感想や推測に過ぎないが、実は、タケウチ氏の言 っていることも、このレベルなのではあるまいか。詳しい議論も検討もされず、
ただ、血の穢れ、膣内に入り直す、鍾乳石を乳に見たてて吸う等々、欧米の読 者の眉をひそめさせるようなセンセーショナルな文言が投げ出され、そのまま 流れていく。富士講の重要な教えを記した『三十一日の御巻』には、母乳が出
ない女性も、胎内洞奥の女陰石からしたたる水滴をいただけば乳が出るように なるとある(日本思想大系『民衆宗教の思想』所収の本文と注による)。タケ ウチ氏の提示される「鍾乳石を乳に見たてて吸うという行為が女性のspiritual needs をどう満たすのか」というような疑問とは無縁のところに、当時の女性 信者たちは居たのではないだろうか。
3 Mount Fiji in Edo
ここが、タケウチ氏の論の主要部分である。富士信仰が盛んになった結果、
年寄りや子供、女性など富士登山が許されない、あるいはできない人たちのた めに、江戸に「富士塚」が造られた。1765年に富士講のリーダーでもあった植 木屋の高田藤四郎が造った高田富士を例として挙げ、火山石をわざわざ富士か ら運び、御胎内、烏帽子岩など富士山のポイントポイントにある史跡も移し、
道もまっすぐ頂上までのばすのではなく富士山と同じように曲げたことなどが 紹介される。富士山をそのままの姿で江戸に写した富士塚にはいつでも登れる わけではなく、本物の富士山が「山開き」の行事を行っている間だけだったよ うだが、タケウチ氏は『江戸名所図絵』の記載などから、高田富士には、他の 富士塚よりも少し長い期間登れたこと、富士塚に詣でることが、数多い江戸の 年中行事の一つになっていき、茶店や土産物・食べ物などを売る店も多く出た こと、描かれている参詣人の姿も、富士登山の白装束ではなく常の物見遊山の 着飾ったスタイルであること等を示し、富士塚が、富士講の人々にとっての信 仰の対象であると同時に祭りや娯楽の場所にもなっていったと説く。
こうした状況を押さえた後、歌川広重が江戸の富士塚を描くとき、富士講の 熱狂とは距離を置いた描き方をしているのだという主張が示される。すなわち、
『絵本江戸土産』の「深川八幡」ではたくさんの参詣人でにぎわう富士塚を主 題として描く代わりに、より遠くまで見渡した風景の一部として処理しており、
その風景のさらに遠くには、本来は見えないはずの駿河の富士が描かれている が、これは、彼が富士塚よりも本物の富士山を描くことに興味を持っていたこ との表れであり、また『名所江戸百景』の「深川八幡山開き」(弘法大師御影 供に際しての庭の公開を「山開き」と称した)ではわざわざ富士塚の山開きと は異なる季節の富士塚を描くことで、相対的に富士塚を軽く扱っている、とい
うのが、タケウチ氏の主張である。そして彼のこうした態度を、下級武士階級 出身のメンタリティと結びつけ、広重は、富士講の熱狂を社会秩序を乱すけし からぬものと感じていたのだろうと結論づけ、『江戸名所百景』のように一見 客観的なルポルタージュに見える作品でも、作者自身が同時代をどう見ている か、その主観的なビジョンを示しているのだと、結んでいる。
広重が深川富岡八幡の富士塚の遠く向こう側に本物の駿河富士を描いている のを、メリンダ氏が彼の創作(実際は江戸の富士塚から本物の富士は見えない はず)とする根拠は、『東都歳時記』(斎藤月岑編著)の挿絵で同じく富岡八幡 の富士塚を描いた長谷川雪旦の絵に本物の富士が描かれていないということの ようだ。タケウチ氏は
Were the Suruga Fuji actually visible from the Fukagawa Hachiman Mini-Fuji, it is inexplicable that Settan, under the direction of the ubiqui- tous, indefatigable and positivist Gesshin, neglected to include it.
と言われるが、果たしてそうだろうか。北斎や広重自身の「深川万年橋」から 明らかなように、当時、深川から富士は見えていた。また、広重と雪旦が描く 富岡八幡宮の富士塚は、視線の向いている方向が違っている。広重の絵では、
富士塚の向こうに隅田川らしき川が見え、その向こうも陸続きで、山並みの向 こうに富士がそびえている。それに対して雪旦の方は向こう側に海(江戸湾だ ろう)が開けている。方角のせいで雪旦の絵には富士が入っていないだけのこ とと考えるのが自然なのではないだろうか。そもそも、実際には見えない富士 を富士塚の向こうに描くことが富士塚や富士信仰への冷淡な態度を示している という論理も、あまり説得力があるとは思えない。
また、富士信仰が武士階級にも浸透していたことは、すでに史料の上から明 らかにされている(岩科小一郎『富士講の歴史』名著出版 1983年。次掲書と 合わせ澤登氏の御教示)。熱心な信者の中にはたとえば関宿藩主のような上層 の支配階級もいたし(『渋谷区史料集』第2所収「小泉文六覚書」)、富士信仰 を認めよと直訴した武士もいたのだという点を考えると、百歩譲って「広重が 富士信仰や富士塚には冷淡な態度を示している」というタケウチ氏の説が本当 だとしても、それを彼の下級武士としてのメンタリティと関わらせて論ずるの は難しくなってくるだろう。
タケウチ氏の論全体を振り返ってみると、あまりに手を広げすぎ、問題提起 はされているものの、結局何も答えが出ていない、という印象が残る。しかも、
最後まで読んでも、富士塚の意味についてタケウチ氏自身がどう捉えているの かは判らずじまいである。こういう疑問自体が「たこつぼ的」発想なのかもし れないが、むしろ美術史の研究者として広重の描いた富士や富士塚の絵だけを 対象にするのでは済まなかったのだろうか。あるいは富士信仰に研究を広げる にしても、センセーショナルな捉え方で女性忌避の問題などに入り込むより、
たとえば祭壇を飾る曼陀羅や鏡、猿などについて、美術史の専門家として、歴 史や宗教学とは別の側面から取り上げ論じてくれたなら、教えられることの非 常に多いものになったろうと思う。
外国人研究者が日本について研究する場合、一つの分野だけを専門にするわ けにはいかない。メリンダ氏の場合も、広く日本の美術史の様々な問題を扱う 中の一つとして江戸の富士塚にぶつかったのだろう。"IMPRESSIONS" の発行 元であるUkiyo-e Society of America が学会ではなく、浮世絵愛好家の団体で あるため、学問的な厳密さより読んで面白い内容の方へ傾いているというよう な事情もあるかもしれない。宗教学者でも歴史学者でもないのだからしかたな いことではあるが、特に富士信仰に関する彼女の説明は、表面的に聞こえる。
こうした点に関しては澤登氏もゴッダルド氏も、事実認識のちがいに基き、細 かい指摘をされる。たとえばタケウチ氏の江戸から見える「駿河の富士」とい う文言に、澤登氏は「江戸から見えるのは必ずしも駿河の富士だけではなく、
甲州からの富士も見える」との情報を追加するし、ゴッダルド氏は高田富士に 富士山の石を運ぶことなどについて、タケウチ氏の「本物らしく見せるため
(To imbue his Mini-Fuji with authenticity)」という言い方に対し、そうでは なくて、食行身録の信仰(富士山と一体になろうとした)をも抱え込んだ形で、
言い換えればその身録の信仰心が一体となった富士山をそのまま江戸に持って こようという、籐四郎自身の信仰の現れだと反論する。こういうコメントは揚 げ足取りのように見えてしまうかもしれないが、専門分野の異なる研究者がこ ういう風に情報を提供して協力できる(だから、もっと情報を交換しあうべき である)という例として受け取ることもできるだろう。さらに言えば、富士信 仰の部分は「専門外」で良いとしても、「広重の富士塚に関する態度表明」と
いう問題は、タケウチ氏の論文にとって非常に重要なテーマと思われる。そこ に、日本の歴史研究者たちの研究成果(富士信仰は庶民だけのものではなく武 士階級も広く巻き込んでいることなど)を結びつけていくことは、タケウチ氏
(及び外国の美術史研究者)にとっても日本の歴史研究者にとっても意味のあ ることであり、また必須の作業なのではないだろうか。
以上、英国と米国で最近発表された富士山研究の論文を二本紹介してきた。
両方とも美術史関係の論文であるのは、海外における富士山への興味が浮世絵 に対する興味と結びついていることを反映しているのだろう。最後にこの発表 の準備を通して感じたことを記しておきたいと思うが、以下の発言は、筆者の 専門である能楽や日本文学の分野における状況に基づいてのものである。政治 学や社会学、文化人類学等、他の分野での日本研究や国内外の研究者の関わり 方については別の状況や問題があるのかもしれないが、全く知識がなく、触れ ることができないことをおことわりしておく。
各論文について記したことを振り返って気づくのは、自分自身の中に「外国 人の日本研究には一部の事象に基づいて全体を決めてしまうような傾向があ る」といった先入観のようなものがあるかもしれないということである。大胆 な説を繰り広げるタケウチ氏の論文より、どちらかと言えば解説的な内容のク ラーク氏の仕事に好意的になってしまうのも、彼の論が「資料」に基づいてい るという安心感があるせいだろう。こうした傾向は、海外の様々な能楽研究者 たちと交流するうちに染みついてしまった感じ方かもしれず、その過程をもう 一度思い返してみると、上に紹介した澤登氏やゴッダルド氏と同様、筆者も、
海外の研究者や能に興味を持つ芸術家たちの唱える説に、「それは違うのでは ないか」「こういう反例もある」「そのように単純化はできない」と、疑問を呈 し続けてきた気がする。言うまでもなく、いつもこちらが正しいわけではない。
いくつかの反例にもかかわらず、やはり相手の主張にも一理あり、最初に聞い たときに反発を感じたのはこちら側にそうした視点が欠けていたに過ぎないの だと気づかされることもあるわけだが、基本的には、細かい事例を挙げてブレ ーキをかける、つまらない役割を演じることが多いのである。
だが結局のところ、研究上の国際交流とは、そうした対話に尽きるのではな
いか。外国人の日本研究、あるいは異なる専門分野の研究には細かな事実につ いての誤りがあるのは当然、という前提にたち、細かな点に目をつぶって流し ていくのは、かえって失礼なことでもあろう。相手の研究に真剣に関わろうと するからこそ、反論も生まれるのである。だが問題は、従来、得てしてそうし た反論が内側を向いて発せられ、「正確さが足りない」「我々とは議論がうまく かみ合わない」という形で片づけられてしまい、国内外の研究がうまく結びつ いてこなかったことにある。「学際的研究」や「学問の国際化」が言われて久 しいが、それは新しい方法、今までなじんできたのとは違う視点を全面的に受 け入れひれ伏すということでは、もちろんない。これまで積み上げてきた研究 の方法や価値観等を堅持し、資料を豊富に直接に扱うことができるという「地 元の(専門家の)強み」を十分に活かしつつ、しかもなお外側に向けて、互い に向けて開いていることが「学際的」であり「国際的」だということだろう。
本学のCOEのテーマである「国際日本学」について、外国人による研究を
「こういうものがあります」と集め、紹介するだけではダメだという議論は、
今までにも何度もされてきた。外国における日本研究をもう一度こちらから評 価しなおそうというわけだが、これを教育機関である国際日本学インスティテ ュートの役割にシフトさせて考えた場合、外国語で書かれた日本学に関するあ らゆる文献を片端から読んでは訳し、批評していくような能力を持つ人間を育 てていくという意味ではないだろう。そんなことは不可能だし、そういう能力 のある人間が研究者として役にたつか(「有為の研究者」であるか)どうかも 疑問である。ではどうすれば良いかと言えば、結局は各分野で「そこは違って いるのではないか」と指摘できるような研究者を育て、海外の研究者と積極的 に関わっていくしかないのではないか。「国際日本学」という学問の理論的枠 組みを作っていくことはもちろん緊急の課題ではあるが、個々の分野では、今 回私と澤登氏がやったことを一人でできるような研究者、自分の積み上げた研 究をひっさげて外国人研究者と対等に渡り合っていけるような学生を育ててい くことが、最重要課題と思われる。
Ⅰ)Timothy Clark, "MOUNT FUJI IN THE LANDSCAPE OF JAPANESE ART", 100 VIEWS OF MOUNT FUJI, The British Museum Press,
London(2003): pp.8-25
Ⅱ)Melinda TAKEUCHI, "Making Mountains: Mini-Fujis, Edo Popular Religion and Hiroshige's One Hundred Famous Views of Edo", Impressions 24(2003): pp.25-47
フランスの比較文学者による「富士山研究」
天 野 紀代子
以下は、成果報告会で行なったフランス語圏の富士山研究の、ほぼ発表通り の 報 告 で あ る 。 最 近 の 富 士 山 に 関 す る 論 文 を 、 パ リ 滞 在 の 井 田 尚 美 氏
(EHESSでドクター所得「言語学」)に依頼し、実地に大学や国立図書館にも 足を運んで探索してもらい、多くの論考の中から四本を選んで和訳してもらっ た、そのうちの二つの論文をここに紹介する。他に、ハートムト・O・ロッテ ルムンドの「日本の宗教、信仰と民間伝承」(日本の神をアニミズムから説い たもの)と、ケニース・ホワイトの「北斎、または感覚的な地平線:世界の美 へのプレリュード」(「富嶽三十六景」と「富嶽百景」を詳細に論じたもの)を 読んだが、筆者が文学専攻のこともあり、比較文学的見地からの論考を取り上 げることとなった。
1 Célébration du Mont Fuji par Hokusai,Edmond de Goncourt,
Michel Butor Pascale MONTUPET
北斎、エドモン・ド・ゴンクール、ミシェル・ビュトールによる
富士山の賞賛 パスカル・モンチュペ
(『文学と極東:極東の風景:ヨーロッパ文学における道教』1999年 ミュリエル・デトリ編、Honore Champion Editeur、Paris)所収
この論は、19世紀末に葛飾北斎の版画を紹介してジャポニスムの普及に貢献 したエドモン・ド・ゴンクール(1822−1896)の仕事を、最近の作家ミシェ ル・ビュトール(1926− )の文章を解読する形で批判し、富士山という空間 を美的な見地から崇拝の対象として捉え直す試みである。
19世紀末から20世紀初めにヨーロッパに齎された日本のイメージは、まず 浮世絵によってだった。ゴンクールが北斎の版画に魅せられ、「富嶽三十六景」
と「富嶽百景」に関して施した解説(『北斎』1894年)の影響力は大きいもの だった。北斎は日本とヨーロッパの架け橋をしたことになる。しかしそこで の富士山は、版画愛好家・収集家の好奇心の対象に過ぎないとミシェル・ビ
ュトールは批判し、1970年代に実際の富士山(そこは「夢の場所」と呼ばれ ている)を歩いて、富士山こそが「西洋人への橋渡しの空間である」と力説 する。
そして北斎の版画の連続的な性質に暗黙のレトリックを認め、一図ごとに
「凱風快晴」「山下白雨」「神奈川沖波裏」といったように、何通りもの富士に、
異なった名前が付けられていることに注目する。それはカソリックの典礼で、
聖母の名前にあらゆる形容がなされ、賞賛の名前が繰り返される「連祷」とい う祈りの形式に似ているという。言葉のリフレーンでマリアを賞賛する方式を、
三十六景や百景と連ねて富嶽を賞賛することにつながるのだと。また版画が、
狩野派や土佐派のような幕府お抱えの絵画形式ではなく、俗なるもの、民衆の 側の表現形式であると捉え、富士山に地方の民衆の帰属意識を読みこむ。絵画 のもつ暗喩や言葉のレトリックから導かれた、富士山への讃辞である。
こうしたビュトールの論法を引き承けて、パスカル・モンチュペは、信仰の 対象としての富士山の精神性を問題にし、中国や日本に「山水」の伝統がある ことを重視する。また富士山が、伝説の記憶を残したレトリック的空間である ことは、古代に神格化されたヴェスヴィオ山にも当てはまると、西洋と極東の 共通項を導き出しもする。そして結論は、暗示の空間である富士山は「天国へ の道、スメル山なのではないだろうか」と、暗示的に結ばれている。
*
この論文は、19世紀末にゴンクールの果たした役割を検証しつつ、あまり知 られていないビュトールの文章を紹介・解読してくれている点に価値がある。
ヨーロッパから仰ぎ見られた富士山を、百年のスタンスで概観し、一方に西洋 の印象派や聖母信仰を置きながら、極東の聖なる山への讃辞がなされている。
それも、美的であるよりは精神性を重視した読みとしてある。しかし、ビュト ールのレトリック過剰な連ねられたオマージュは、あまりに文学的であり、論 者はそれをなぞり、継承しているので、論文としての説得力には欠けるところ もある。全体としては、思いがけない着想や指摘が刺激的で、日本の内からで は決して生まれ得ない、外からの富士山論として魅力がある。
2 Cent vues du mont Dazai. Topos de montagne et pathos Nippon dans Fugakuhyakkei de Dazai Osamu Gérard SIARY Mont太宰百景, 太宰治の『富嶽百景』における山のトポスと日本のパトス ジェラール・シアリー
(『想像の山:表現された山:ヨーロッパから日本へ、山に関する新しい ディスクール』2000年 アンドレ・シガノス、シモーヌ・ヴィエルヌ監修、
EIIUG、スタンダール・グルノーブル大学)所収
この論文は、太宰治の『富嶽百景』(1939年)を、ラフカディオ・ハーンの
「富士の山」と比較することから読み解き、太宰は富士山そのものと重ねられ、
さらに日本人論に及ぶ。
欧米人にとって、ハーンの「富士の山」(『異国風物と回想』1898年)は、絵 画からの接近ではない富士山に関する初めてのバイブル的な書であったが、そ こでは富士山の美と神聖とが称えられていた。とりわけ神仏両面から尊崇を受 けている山の頂きが、白い蓮の花びらで表わされると同時に、恐ろしく不気味 な禍々しい光景としても描かれ、これは実際にハーンが登頂した際の印象とし て、神々と無数の死者の内在が感じられるとした記録である。この世の最も美 しい風景は恐怖と死の光景に変ること、富士山の美しさは、祖先と神を連想さ せる死に結びついた幻影的なものである、とされている点が重視される。
それに引き換え『富嶽百景』は、富士山の文化的トポスより、作者と富士山 との関係が中心テーマであり、おどけた語り口に込められた作家自身の心の立 て直しとして読み解かれる。この小説では富士を歌った和歌も型にはまった絵 画も、通俗で陳腐なものはすべて攻撃の対象とされ、西洋人が今もその延長線 上にいるジャポニズムにおける北斎の版画評価からも解き放たれている。しか し富士山の前での作者は、崇拝と不敬、軽蔑と賞賛、拒絶と共感の間を揺れ動 き、低俗ではあるが立派で美しい富士を認めざるを得ない。太宰と富士は、そ れぞれの両義性において似た存在と判定される。
こうして富士のパロディーは、太宰の肖像を描くのに役立ち、また富士に似 せて自らを描く太宰を通して、日本人の姿を浮き上らせることにもなっている。
太宰と富士の対峙を通じて、中心の曖昧な日本人の、苦悩と逆境の中で悲痛な
美しさを湛えている、混じりあった存在としての姿を認めることができる、と 日本人論で締めくくられている。
*
外国人によって賞賛された富士山像を一度ひっくり返し、その上で自己を重 ねる太宰を読み込むことで、両義的な存在としての日本人像を抽出したもの。
神秘な山への賛美一辺倒ではなく、その通俗性を暴いた太宰の痛快さが、この 論文の動機となっていると思われる。しかし、結局のところの日本人論は一般 的な域にとどまり、ラフカディオ・ハーンが関心をよせた民俗の信仰の面が比 較・検討されているわけではない。フランスで日本学をリードしたベルナー ル・フランク(1927−1996)が、ハーンに導かれて日本人の実際の信心や神仏 混じり合った信仰の探究に向かった業績と比べると、この論文はあくまでも文 学の領域に限られた狭さがある。
以上二つの論文とも、絵画や文学を入り口としながら信仰に近づいてきた論 ではあるが、富士信仰そのものの領域に立ち入ったものではない。原文で多く の論文に当ることのできない限界があるので、ここでフランスの富士山学を論 評するのは早計に過ぎるが、ベルナール・フランクが指し示していた日本研究 にとって、まさに富士山は格好な対象と思われるので、一言付け加えさせて頂 く。つまり、西洋から見ると、一神教ではない日本独特の宗教、太古からの 神々への信仰に重ねて外来の道教も仏教も融合させ、渾然一体となった民間の 信仰は、解明するに足る魅力に充ちたものらしい、ということだ。混沌のただ 中にいる日本人自身にはあまりに当たり前で、対象化しにくい領域だからこそ、
外からの視点が貴重となる。外からの分析による論究に、内の者も刺激され、
双方の交流あってこそ深められる日本学の最も根幹にあっていい分野が、富士 山研究であると思われる。