ジョン・D・ロックフェラー1世の什一献金とフィラ ンソロピー活動
著者 鮫島 真人
雑誌名 經濟學論叢
巻 63
号 3
ページ 401‑436
発行年 2011‑12‑20
権利 同志社大學經濟學會
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013639
【研究ノート】
ジョン・D・ロックフェラー 1 世の 什一献金とフィランソロピー活動
鮫 島 真 人
1 は じ め に
ジョン・
D
・ロックフェラー1
世(John Davison Rockefeller Senior, 1839-1937,
以下,ロックフェラーと略記)は,
19
世紀後半のアメリカにおいて,スタンダード・オ イル・トラスト(S.O.T.)を形成して1882
年に「石油王」と呼ばれ,原油生産業,石油精製業,石油販売業を包括する石油産業を一代で創造し,巨万の富を手に 入れた.彼はその過程で,強引な買収と敵対する業者を叩き潰し,自分のもの にするという意味で「ラバー・バロン(泥棒貴族)」とも呼ばれた.そして,彼 は
40
年足らずで石油産業をアメリカの代表する産業に成長させた.1)20世紀になると,熱心なバプテスト派の信者であるロックフェラーは,企 業家活動で集積した富を用いて,組織化されたロックフェラー財団群を設立 した.彼は,医学,衛生,農業及び教育などの分野において合衆国内だけに 留まらず,世界各国でフィランソロピー活動を行い,「慈善のロックフェラー」
と呼ばれた.彼は前半の
55
歳までは企業家活動に専念し,後半の43
年間は バプテスト教会の元牧師フレデリック・ゲイツと彼の息子ジョン・D・ロッ クフェラー2
世を中心に,多くの分野の専門家を集めて慈善トラストを組織 して近代的な大型の財団活動を行った.ロックフェラーは企業家活動とフィ1) 鮫島真人(2010,2011)「ジョン・D・ロックフェラー1世の企業家活動と富の集積―1839-
1911年―」(1)(2)『経済学論叢』(同志社大学),第62巻第3号,第62巻第4号.
ランソロピー活動の両方に革新を起こした人物である.
本稿の主題は,ロックフェラーが企業家活動で集積した富を用いて,フィ ランソロピー活動を行った原点が何であったのか,どのような動機で,どの ような影響を受けて,どのようにして企業家活動がフィランソロピー活動に 引き継がれたのかを明らかにすることである.
ロックフェラーのフィランソロピー活動の原点は,母イライザの教えであ り,その中核をなすものは什一献金であり,動機は,彼の幼いころの母との第
1
の約束であった同献金を守ることであった.彼の什一献金は,母の教え,バ プテスト派の教会活動,カーネギーの論文「富(Wealth)」などの影響を受けた ことで同献金の寄付の方法が変化した.彼は什一献金を行うために,自ら「寄 付行為に関する4
つの原則」をつくり,同献金を賢明に行うために,ゲイツと ロックフェラー2
世と協力して「寄付の技法」を編み出した.それが同活動 の要となるロックフェラー財団の大綱「原則と政策についての覚え書」である.ロックフェラーの什一献金とフィランソロピー活動の関係を分り易くする と第 1 図になる.
これは,ロックフェラーの什一献金が,どのように変化して彼のフィラン ソロピー活動と結びついたかを示すものであり,いわば,「ロックフェラーの 什一献金とフィランソロピー活動の関係史」を表している.
ロ ッ ク フ ェ ラ ー の フ ィ ラ ン ソ ロ ピ ー 活 動 に 関 す る 研 究 に は,General
Education Board (1915)
2), Flynn (1932)
3),
フォスディック(1956)4), Fosdick (1962)
5),
ニールセン(1984)6), Bremner (1988)
7), Nevins (1953)
8), Abels (1967)
9),
ロックフェ2) The General Education Board (1915) The General Education Board, an Account of its Activities, 1902-1914, New York: General Education Board.
3) Flynn , J. T. (1932) God's Gold: the Story of Rockefeller and his Times, Harcourt, Brace and Co.
4) フォスディック,レイモンド(1956)『ロックフェラー財団―その歴史と業績―』井本威 夫,他訳,法政大学出版局.
5) Fosdick, Raymond B. (1962) Adventure in Giving, the Story of the General Education Board, New York: Harper and Row.
6) ニールセン,ワルデマー(1984)『アメリカの大型財団―企業と社会―』林雄二郎訳,河 出書房新社.
ラー,D. (2007)10)などがある.日本においては,三井報恩会(1938)11)
,日本
国際交流センター(1978)12),アシザワ
(2008)13)などがある.三井報恩会(1938)
,
フォスディック(1956),
日本国際交流センター(1978),
アシザワ(2008)はロックフェラー財団の活動について述べ,ニールセン(1984)母イライザとの第1の約束であった
「ロックフェラーの什一献金」
影響 母イライザの教え
ロックフェラー自ら創り出した 教会活動
「寄付行為に関する4つの原則」 バプテスト 富の福音 賢明な什一献金をおこなうための
「寄付の技法」 協力
ロックフェラー2世 ロックフェラーのフィランソロピー活動の要となる
ロックフェラー財団の大網「原則と政策についての覚え書」
ゲイツ
(出所)筆者作成
第 1 図 ロックフェラーの什一献金とフィランソロピー活動の関係史
7) Bremner, R. H. (1988) American Philanthropy, 2nd ed., Chicago: University of Chicago Press.
8) Nevins, Albam (1953) Study in Power, John D. Rockefeller, Industrialist and Philanthropist, vol.1, New York, London: Charles Scribner's Sons.
9) Abels, Jules (1967) The Rockefeller Millions: the Story of the Word’s Stupendous Fortune, London:
Muller. (エイベルズ,ジュールズ(1969)『ロックフェラー―石油トラストの興亡―』現
代経営研究会訳,河出書房新社.)
10) ロックフェラー,デイヴィッド(2007)『回顧録』楡井浩一訳,新潮社.
11) 三井報恩会(1938)「資料第33号ロックフェラー財団最近の動向」三井報恩会.
12) 財団法人日本国際交流センター(1978)「海外フィランソロピー情報(1)ロックフェラー財 団の活動―概況と今後の展望―」財団法人日本国際交流センター,1-16ページ.
13) アシザワ,キンバリー グールド(2008)「アメリカのフィランソロピーは日本にどう向き合っ
たのか」,山本正編『国際政治・日本外交叢書⑤ 戦後日米関係とフィランソロピー―民間 財団が果たした役割,1945〜1975年―』ミネルヴァ書房,所収,75-107ページ.
と
Bremner (1988)
はアメリカ合衆国内の大型財団の活動のなかで同財団につ いて触れている.General Education Board(1915)
とFosdick (1962)
は一般教育 財団の活動について詳細に論じている.浩瀚なNevins (1953)
をはじめ,それ 以外の文献はロックフェラーの企業家活動とフィランソロピー活動を分けて 述べている.ロックフェラーには,自叙伝『人と事件の回想録』14)がある.本稿のような,ロックフェラーの什一献金とフィランソロピー活動の関係を扱っ た論考は,管見の限り
,ないようである.なお,本稿はロックフェラーのアメリ
カ南部における一般教育財団の活動を本格的に解明するための準備作業である.本稿において,2章では母イライザの教えと什一献金の関係,同献金の由来 等,ロックフェラーの教会活動におけるフィランソロピーに繋がる成果や人 脈について,フランクリン(1957, 1975)15)
,日本聖書協会
(2009)16)及びNevins
(1953)
を使用して述べる.3章では,ロックフェラーのフィランソロピー活動に影響を与えたバプテ スト派の起源,教義,歴史及び一般教育財団の黒人の中等教育を普及させる 目的の活動場所となった南部について考察する.文献は,エイミー(2004)17)
及び奥田(2010)18)を使用する.
4章では,賢明な什一献金ができないと悩んでいたロックフェラーに同献 金を独力ではできないと判断するきっかけを与え,彼にフィランソロピー活 動について研究させた「富(Wealth)」について,Bremner
(1988)
及びCarnegie
(1889, 1896)
を使用して考察する.5章では什一献金が,「寄付行為に関する
4
つの原則」,
「寄付の技法」,
「原 則と政策についての覚え書」となることについて述べる.「同覚え書」が彼の14) Rockefeller, J.D. (1909) Random Reminiscences of Men and Events, New York: Doubleday Page.
15) フランクリン,ベンジャミン(1957)『フランクリン自伝』松本慎一,他訳,岩波文庫.フ ランクリン,ベンジャミン(1975)『アメリカ古典文庫 1 ベンジャミン・フランクリン』池田 孝一訳,研究社.
16) 日本聖書協会(2009)『聖書BIBLE 2009』日本聖書協会.
17) エイミー, J. L. (2004)『囚われの民,教会―南部バプテストの社会的姿勢に見る,教会と
文化の関係史―』金丸英子訳,教文館.
18) 奥田暁代(2010)『アメリカ大統領と南部―合衆国史の光と影―』慶応義塾大学出版会.
フィランソロピー活動の要であることについて,フォスディック(1956)及び ニールセン(1984)を使用して考察する.
6章ではロックフェラーとバプテスト教会との繋がりを観ながら,「原則と 政策についての覚え書」のなかの第
3
項,第4
項,第5
項に沿って,一般教 育財団の南部における中等教育を普及させる活動について考察する.同財団 が南部の経済基盤を強化する目的で行った農業開発への「寄付の技法」を含 めた「寄付の開始と終了」について明らかにする.文献は,General Education Board (1915) ,Fosdick (1962)
及び Ascoli(2006)
19)を使用する.おわりでは,ロックフェラーの什一献金とフィランソロピー活動を総括する.
2 ロックフェラーの什一献金と教会活動
ロックフェラーは,カリフォルニアでゴールド・ラッシュがおこる
10
年前,まだアメリカという国が若かったころの
1839
年7
月8
日,ニューヨーク州 の内陸部リッチフォードという片田舎で薬の行商人兼金貸しを営み,破天荒 な人物であった父ウィリアム・A・ロックフェラー(William Avery Rockefeller,1810-1906,以下,ビルと略記)
と熱心なバプテスト派(Baptist,洗礼派)信者の母イライザ・D・ロックフェラー(Eliza Davison Rockefeller,
1813-89,以下,イラ
イザと略記)との間に6
人兄弟の長男として生まれた.幼いころから,ロックフェラーに対する「誰も信じてはならない.父であ る私でさえも信じてはならない時がある」
,ロックフェラーの企業家活動にお
ける利潤追求の信念の元となったといわれる「ほかの誰にも利益を渡すな」という父親ビルのユニークな教えと,厳格なピューリタン信仰20)を持ってい
19) Ascoli, P. M. (2006) Julius Rosenwald, Indiana University Press.
20) 「ピューリタン」とは,「清教徒」とも呼ばれ,16世紀後半,英国国教会のなかに起こった
プロテスタントの一派であり,国教会の改革を不満として,聖書を重視し教理や礼拝の簡素化 とともに,厳格な宗教的規律を要求した.この一部が1620年,国教会の迫害を逃れ,信仰の 自由を求め,メイフラワー号でアメリカに渡った.ピューリタン信仰とは信仰面,生活面での 厳格さを重視し,宗教的黙想(信仰心,神への感謝の祈り),禁欲的生活態度,経済的活動意 欲を結びつけてそれらを実践することである.エイミー(2004)18ページ;グラーフ, F. W. (2008)
『プロテスタンティズム―その歴史と現状―』野崎卓道訳,教文館,76ページ.
た母イライザからの勤勉,節約,宗教的黙想,禁欲的生活態度,経済的活動,
什一献金などに関する教えはロックフェラーの企業家活動とフィランソロ ピー活動の両方に,大きな影響を与えた.
活発な性格であったビルは
8
歳のロックフェラーをシラキュースいう都会 の大きな町に連れて行き,蒸気機関で走る鉄道を見せて,都会の雰囲気を体 験させた.また彼はロックフェラーが9
歳になると,細かく正確に帳簿をつ けること(のちにロックフェラーは「元帳A.(Ledger A.)」と呼ばれる帳面に支出の
記録をつける)や実際の取引での値引き交渉などのビジネスについてビル自ら を模範とし,現実的な面から息子を鍛えてロックフェラーの企業家活動にと くに影響を与えた.また,ビルは子供たちに酒とたばこを禁止したが,ロッ クフェラーだけが父の言葉に従い,死ぬまで禁酒と禁煙を守ったのである.ロックフェラーは父親のビルに対して自叙伝『人と事件の回想録』のなかで,
「父が私に実用的な方法というものを訓練してくれたことに対し,非常に感謝 している.父はさまざまな仕事に携わったが,そうしたことについてよく私 に話をしてくれて,その意味を説明し,事業の原理や方法を教えてくれた」21)
と述べている.
自由奔放な性格で留守勝ちであった父親に比べて,几帳面で慎重な性格で,
熱心なバプテスト派の信者の母イライザは,幼い頃からロックフェラーに対 して熱心に働くこと,計画性のない無駄使いをしないことや神への祈りなど 多くのことを教えた.小さいロックフェラーは母親の教えを守り,草刈りや 乳しぼりを手伝い,毎日神への祈りを欠かさず,毎週日曜日にはバプテスト 教会に通った.勤勉,節約,強い信仰心というピューリタン的イライザの教 えはロックフェラーに引き継がれた.
ロックフェラーは大富豪になっても,自分の
1
セントがどんな用途で使わ れているかを正確に把握していたといわれるぐらい,ベンジャミン・フラン クリン並の「悪魔は細部に潜む」に従って,どんなに細かいことでも細心の21) Abels (1967) p.21. (訳書, 34ページ.)からの引用.Rockefeller, J. D. (1909) p.33.
注意を払い,用意周到であった22)
.また彼が 10
年の歳月をかけ,綿密な計画 を立て,組織化された民間の大型財団によるフィランソロピー活動を行った ことも,几帳面かつ慎重であり強い意志をもつ彼女の性格も同時に,ロック フェラーに引き継がれたことを物語っている.ロックフェラーは母のイライ ザ以上に,熱心なバプテスト派の信者になるのである.信仰の厚かった母イライザは,幼かったロックフェラーに教会に通うとき には「母親との
3
つの約束」を守るように教えていた.第
1
の約束,什一献金をささげること.第
2
の約束,教会では一番前の席で礼拝をささげること.第
3
の約束,教会の指示に素直に従い,牧師を悲しませないこと.第
1
の約束は必ず什一献金をささげるということであり,第2
の約束は教 会の一番前の席で礼拝をささげることで牧師の説教に集中して,多くの恵み を受けられることを意味した.第3
の約束の教会の指示に素直に従い,牧師 を悲しませないこととは,教会での決定事項や牧師の言葉に不平を言わずに 素直に従うことを原則とすることであった.什一献金(十分の一献金,十分の一寄付税)の什一とは,①十分の一,一割,
②井田法で徴収する租税,転じて土地にかける税金を意味して,キリスト教 に由来する.同献金は旧約聖書のマラキ書23)に根拠を置き,ほかにも創世記,
民数記,申命記にあり,新約聖書のなかでも,マタイによる福音書,ルカに よる福音書などにある.
マラキ書の
3
章8
節では,「人は神を偽りうるか.あなたたちはわたしを 偽っていながら……と言う.それは,十分の一の献げ物と献納物においてで22) フランクリンの「富に至る道」のなかでの「わずかな怠りでも,大きな災いを招きかねない」
という彼の教えである.フランクリン(1957)327ページ.
23) マラキ書のマラキという名称についての解釈は,著者不明の書の編集者の称号とされていた が,ほとんどの現代の学者によると名前ではないと確信し,普通名詞として扱っている.ボー ルドウィン,ジョイス G. (2005)『ティンデル聖書注解 ハガイ書,セガリヤ書,マラキ書』山 口勝政訳,いのちのことば社,228-229ページ.ロックフェラーは家庭生活を大切したことは よくいわれるが,このことについてはマラキ書の2章10-16節を参照.同上書,259-263ページ.
ある」24)と述べられている.ロックフェラーのよく引用したマラキ書の
3
章10
節25)では,十分の一の献げ物を神様のもとに携えて行けば,天の窓を開いて,溢れる恵みをあなたがたに注ぐであろうと述べている.旧約聖書のなかの申 命記の
12
章11
節には礼拝時の什一献金26)についての14
章22
節には収穫の 十分の一に関する規定27)がある.マタイによる福音書の23
章23
節28)では,法律学者とファリサイ人の法律についての論争のなかで,正義,慈悲,誠実 と同様に十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないと書いてある.
什一献金はキリスト教において礼拝の一部であり,命と同じぐらい大切な 収入の十分の一を神様にささげることとして重要である.同献金はプロテス タント教会において,カトリック教会よりも厳しく,礼拝献金のほかに月次 献金も行う.什一献金は教会活動の会計基本となる.ちなみに,イスラム教シー ア派の献金は純利の
5
分の1
であり,宗教組織を支援するために行われる.モラヴィア29)に住んでいた頃,母イライザはロックフェラーが
6
歳になっ たある日,まだ幼い息子に,ひとりで教会に通うこと,「母親との3
つの約束」を守ること,什一献金をささげてから礼拝をすることを命じ,20セントの十 分の一である
2
セントを封筒に入れ,息子に手渡した.その日彼はひとりで 教会に行って,什一献金をささげてから礼拝をし,「母親との3
つの約束」を 守った.ロックフェラーはそのときから,神様への什一献金を教会に寄付す るという母の教えを一生守り,彼の会計帳簿に記載する習慣を身に付けた.会計帳簿に細かく収支を記載する習慣は,ロックフェラーにとって日々の活動 記録となり,修道士の信仰日記30)のごとく彼に厳格な時間管理を植え付けたので
24) 日本聖書協会(2009)旧約聖書,1,799ページ.
25) 同上書,1,799ページ.
26) 同上書,379ページ.
27) 同上書,384ページ.
28) 同上書,新約聖書,59ページ.
29) モラヴィアは,ユナイテッド・イン・クライスト派の人々が入植した町で,この頃にはすで に禁酒運動,禁煙運動,奴隷解放運動の拠点となっていた.同派は,のちにメソジストと合同 した福音派.
30) 修道士たちは教会の鐘の時間にそって祈りの時間など日々の活動を記録し,罪や誘惑から遠 ざかるように規律正しい生活をおくることを目的として信仰日記をつけた.
ある.ベンジャミン・フランクリンは,長期間の収支を正確に記帳することで,
あとになってから小さな支出でも積み重なれば巨額になることに気づき,過去に 何を節約すべきであったか,そして将来何を節約すべきかを教えてくれると述べ ている31)
.
ロックフェラーのこの習慣は,フランクリンの「収支を記帳し将来の 節約に役立てる」というマックス・ヴェーバーの「資本主義の精神」32)のなかの ひとつを,幼いころから実践したものであった.ロックフェラーは
98
歳で亡くなるまで,母親との第1
の約束であった什一献 金を守るのであるが,彼の什一献金について第 1 表を参照願いたい.彼はヒュー イット・アンド・タトル商会に入社した頃から,有名な「元帳A.
(Ledger A.)」と 呼ばれる帳面に支出の記録を付け始めた.「元帳A.」への最初の記入は,1855
年11
月25
日の「伝道のため(Missionary Cause)」の10
セントの寄付であった33).
1859年に,ロックフェラーの設立したクラーク・アンド・ロックフェラー のその年の純利益は4,400
ドル34)で,借金や内部留保等を考慮せずに共同経営 者の3
人で割ると,1,200ドル前後と考えて,什一献金は107
ドル35
セント である.1862
年の同社の純利益は1万 7,000ドル
35)で,同様の方法でロックフェ ラーの取り分は5,000
ドル前後と考えると,什一献金は約300
ドルで少ない.しかし,1864年の什一献金は
671
ドルである.1873年にエリー・ストリート・バプテスト教会がロックフェラーの協力 もあって,新興住宅街のなかにユークリッド・アベニュー・バプテスト教会 を建設して移った.そのころの彼の什一献金は,前年の
1872
年が6,930
ド ル68
セントで,1873年が4,770
ドル58
セントであった36).S.O.T.
が形成さ31) フランクリンは若者に勤倹力行を薦める目的で「若き職人への助言」を書いた.フランクリ ン(1975)41-44ページ.
32) ヴェーバーの「資本主義の精神」についての定義付けは不十分であるが,彼はフランクリン の言葉を引用して,フランクリンの口から語られているものを「資本主義の精神」として説明 したのである.ヴェーバー,マックス(1989)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
大塚久雄訳,岩波書店,43ページ.
33) Abels (1967) p.32. (訳書,45ページ.)
34) 売り上げが45万ドルで純利益が4,400ドル,利益率1%である.Flynn (1932) p.70.
35) Flynn (1932) p.91.
36) Nevins (1953) vol.1, p.479.
れた
1882
年の彼の同献金は,1880年の3
万2,865
ドルと比較すると,2倍の6
万ドルを超えている.10年後の1892
年の彼の什一献金は約135
万ドルで,1882
年の22
倍である.1907年の恐慌の年でもロックフェラーの什一献金は
4,000
万ドル近くあっ(注)1)最初の献金11月25日. 2)明らかに不完全. 3)最終献金4月30日.
(出所)Nevins (1953) vol. 2, p. 479.
年 年間総額
1855
1)2.77
1856 19.31
1857 28.37
1858 43.85
1859 72.22
1860 107.35
1861 259.97
1862 283.06
1863 292.03
1864 671.86
1865 1,012.35
1866 1,320.43
1867 669.14
1868 3,675.39
1869 5,489.62
1870 2,635.79
1871 6,860.86
1872 6,930.68
1873 4,770.58
1874 4,841.06
1875
2)460.08 1876
2)608.00 1877
2)200.00
1878 23,485.65
1879 29,280.16
1880 32,865.64
1881 61,070.96
1882 61,261.75
第 1 表 ロックフェラーの献金(1855-1937年)
(単位:USドル)
年 年間総額
1883 66,722.97
1884 119,109.48 1885 140,543.18 1886 155,413.42 1887 284,116.52 1888 169,822.63 1889 123,592.47 1890 303,542.78 1891 509,779.84 1892 1,353,520.70 1893 1,472,122.52 1894 936,146.09 1895 1,137,571.66 1896 1,881,649.40 1897 726,309.81 1898 431,304.29 1899 1,627,082.67 1900 2,474,515.78 1901 2,103,579.46 1902 5,407,856.78 1903 4,751,943.94 1904 3,228,120.74 1905 13,602,820.78 1906 2,194,214.04 1907 39,170,480.52 1908 1,496,825.27 1909 71,453,231.15 1910 1,517,554.67
年 年間総額
1911 1,575,040.21 1912 3,182,455.89 1913 45,499,367.63 1914 67,627,095.87 1915 712,582.23 1916 256,496.23 1917 15,770,624.48 1918 9,191,275.78 1919 138,624,574.61 1920 31,780,348.24 1921 7,425,816.36 1922 121,162.93
1923 56,938.94
1924 18,259.04
1925 18,480.35
1926 267,358.00
1927 402,038.78
1928 19,964,455.38 1929 1,797,146.91
1930 181,780.91
1931 343,863.95
1932 111,650.65
1933 47,604.52
1934 31,756.25
1935 31,835.78
1936 150,007.22
1937
3)9,940.58
総額 5億428
万8,668.90
た.S.O.T.が解体されたあとの
1913
年及び1914
年の彼の同献金は,スタン ダード社の株価高騰もあり,4,550
万ドル,6,760
万ドルで合算すると1
億1,310
万ドルである.1914年頃の彼の総資産は約9
億ドルである.彼の什一献金の 単年度での最高額は,ローラ夫人を亡くしてしばらく経った1919
年の1
億3,862
万ドルであった.第
1
表の1902
年から1921
年までの20
年間に,ロックフェラーの什一献金 の合計は約4
億6,000
万ドルである.一般教育財団についてはあとから述べ るのであるが,同期間に,彼は同財団に対して,総額で1
億2,920
万9,167
ド ル10
セント(設立当時の市価で算定)を寄付した.そして1928
年に彼はロッ クフェラー2
世に指示して,ロックフェラー財団の広範囲な再編成を行わせ,一般教育財団の活動は大幅に縮小させた.第
1
表の年度とロックフェラーの 什一献金の金額をみると,1899年から同献金の金額の単位が一桁上がり,彼 のフィランソロピー活動が本格化したことが窺える.1854年,ロックフェラーは
15
歳のとき,クリーヴランド市にあるエリー・ストリート・バプテスト教会でウィリアム・スケッド助祭から洗礼を受けた.
そのときから,神様や教会に深く感謝をしていた彼は,教会の日曜学校で子 供たちに聖書を教える教師を務めた.ロックフェラーの一番好きだった聖書 の箇所は,「技に熟練している人を観察せよ.彼は王侯に仕え怪しげなる者に 仕えることはない」37)という旧約聖書の箴言
22
章29
節であり,勤勉こそ富と 名声を得るための手段であるという聖書のひとつの教えであった.ベンジャミン・フランクリンも『自伝』のなかで,厳格なカルヴィニスト の父からこの聖書の言葉を度々繰り返し教えられたと述べている38)
.彼はま
た,ピューリタンが最も熟読した諸篇としてソロモンの「箴言」を挙げて,「理 性的(合理的)な性格,すなわち宗教意識の神秘的な,一般に感情的な側面の37) 日本聖書協会(2009)旧訳聖書,1,250ページ.
38) 「汝その業にはげむ人を見るか,かかる人は王の前に立たん,かならず賤者の前に立たじ」
という旧約聖書の箴言22章29節.フランクリン(1957)152ページ.
抑制という特徴は旧約の影響に由来している」と述べている39)
.
ウィリアム・スケッド助祭の指導のもと,ロックフェラーは
19
歳で教会の 執事となり,教会の財政管理に深くかかわり,21歳で教会の5
人の理事とい う大事な地位のうちの1
人に選ばれた.すると彼は,何週間もかけて根気強 く教会員に寄付活動を募って,教会の借金2,000
ドルを返済し40),慢性的に
財政難であった教会の運営を立て直した.ロックフェラーはユークリッド・アベニュー・バプテスト教会やニューヨーク
5
番街のバプテスト教会でも教 会の財政を任され,日曜学校でも奉仕をしたのである.この経験から,教会の活動にも企業家活動と同じほど熱心であったロック フェラーは,教会の財政もビジネス活動と同様に収入と支出を(=収支を)しっ かり帳簿処理していかなければならないと信じるようになった.このことか ら,彼の信仰心は利益を追求する姿勢と結びつき,彼のこの信念はフィラン ソロピー活動にも引き継がれたのである.
ロックフェラーは卸売商社クラーク・アンド・ロックフェラーのパートナー であったモーリス・B・クラーク(Morris B. Clark)から,のちにスタンダード 社の共同経営者になる化学者サミュエル・アンドルーズ(Samuel Andrews)を 紹介される前に,エリー・ストリート・バプテスト教会でアンドルーズ夫妻 と顔見知りであった.これは,ロックフェラーの教会活動がビジネスに役立っ た一例である.
ロックフェラーは
1864
年9
月8
日に,オハイオ州議会の議員であり実業家 であったハビ・ビュエル・スペルマンの娘で,セントラル・ハイスクールの 同級生でもあったローラ・C・スペルマン(Laura Celestia Spelman,1841-1915)と結婚した.ローラは結婚式と同時に,キリスト教プリマス派からバプテス ト派に転向し,彼女は一生涯,積極的に教会活動に取り組み,教育の分野に 力を注いだ.オハイオ州で最初の黒人の上院議員になったジョン・グリンは
39) フランクリン(1957)212ページ.
40) Abels (1967) p.31. (訳書, 44ページ.);Rockefeller, J. D. (1909) pp.50-52.
ローラの教え子であり,ロックフェラー夫妻は彼に教育援助をおこなった.
ロックフェラーの教会活動において,彼はエリー・ストリート・バプテス ト教会の財政難であった運営を立て直した経験から,教会の財政もビジネス 活動と同様に収支をしっかり処理していかなければならないとロックフェ ラーは信じた.彼のこの信念はフィランソロピー活動にも引き継がれたので ある.このことから,彼の信仰心は利益を追求する姿勢と結びついているこ とがわかる.
ロックフェラーの企業家活動が拡大して,スタンダード社が大きくなれば なるほど,利益を生み富の集積が進むことで,什一献金の金額も大きくなる のである.1880年代半ばころから,彼が第
1
の約束を守って,賢明な寄付を したいと思えば思うほど,彼は時間を奪われて,彼の生活を窮屈にするとい うジレンマに囚われるのである.次章では,ロックフェラーのフィランソロピー活動に大きな影響をあたえ たバプテスト派(Baptist,洗礼派)の起源,教義,歴史について述べ,さら に一般教育財団の黒人の中等教育を普及させる彼の活動の場所となったアメ リカ南部におけるバプテスト派について述べる.
3 バプテスト派
バプテスト教派41)(Baptist-Denomination)の起源は,
1520
年代のスイス,南部 ドイツ,中部ドイツ,オランダにおいて再洗礼派・成人洗礼派として中核形成41) バプテスト派と呼ぶときの「派」はとくにプロテスタント教会内の諸教会を指して用いら
れるDenominationからの「教派」を意味する言葉なので,正確にはバプテスト教派(Baptist-
Denomination)とする.『オックスフォード世界宗教辞典1999年』によると,バプテスト派信
徒は世界各国で110ヵ国以上において,8,500万人でプロテスタント4億人(ペンテコステ派 教会を除く)のなかで最大の教派であり,次はメソジスト派信徒が7,000万人である.ちなみ に,ローマ・カトリック教会が11億人,東方正教会のキリスト教信者が2億6,000万人であ る.バプテスト派については,金丸英子(2006)「講演録 バプテストは今なお,バプテスト か―米・南部バプテストの歴史に見る,バプテスト精神の変容―」,関東学院大学キリス ト教と文化研究所バプテスト研究プロジェクト編『関東学院大学キリスト教と文化研究所 研
究叢書1 バプテストの歴史的貢献 2007』関東学院大学,所収,213-246ページ.
された42)
.そしてバプテストの語源はキリスト教の「洗礼」を意味するところ
のギリシャ語の動詞「バプティゾー(βαπτισμóϛ)」に由来する.当時バプ テストたちは,幼児洗礼を受けた者たちを正会員として認めず,各自が主体 的に信仰を告白して,みずから再度浸礼による洗礼を受け直すように「バプテ スマ」と呼び直していた.そのために,他派の人々は彼らの頑迷さを揶揄して,かれらを「バプテスト」と呼んだのがバプテストの語源の由来である43)
.
バプテスト派の教義は,成人のみに洗礼を授け,独立精神を尊重し会衆に 精神性が宿ることなど,従来のキリスト教の伝統からかけ離れていた.その ために,バプテストはヨーロッパ社会で迫害された.それでも,トマス・ヘ ルウィス(Thomas Helwys)は1611
年の「オランダのアムステルダムに残った イギリス人の信仰の宣言」44)を経て,バプテスト派の信者の信仰体験を尊重し,各教会の自主独立や民主的な教会政治を行うことを目的にバプテスト派教会 を
1612
年にイギリスのロンドン郊外に歴史上はじめて設立した.バプテスト派は迫害の圧力により,メイフラワー号に乗って新大陸を目指 し,アメリカのニューイングランド,ペンシルヴェニアに移住した.アメリ カでの最初のバプテスト派教会は,ロジャー・ウイリアムズらの協力によっ てロードアイランド州に設立された.1814年
5
月に,バプテスト派はルー サー・ライスの尽力もあり,バプテスト総連盟(the Baptist General Convention)を組織した45)
.ロックフェラーの所属したクリーヴランドのエリー・ストリー
ト・バプテスト教会,ユークリッド・アベニュー・バプテスト教会,ニューヨー ク5
番街のバプテスト教会は同連盟の教会である.しかし,バプテスト派はアメリカのピューリタン社会からも激しく非難さ
42) グラーフ(2008)75ページ.
43) エイミー(2004)5ページ.
44) グラーフは「1600年頃イングランドの初期バプテスト派信徒たちがお互いに合意を得るた
めに交わした討論へと至る過程において,どのような影響があったかということに関してはぼ んやりとした線を引くことしかできない」と述べて,1611年の「オランダのアムステルダム に残ったイギリス人の信仰の宣言」を大陸の再洗礼派からの独立を示すものだとして重要視し ている.グラーフ(2008)77ページ.
45) 金丸(2006)216-217ページ.
れたために,ピューリタン社会から遠ざかり,とくにアメリカの南部に広がっ た.そのために,南部と縁の深いアフリカ系の黒人の多くがバプテストであ り,ロックフェラー家の伝統ともいうべき黒人問題に対する関心を,ロック フェラーは家系から受け継いだのである.とくにロックフェラー
2
世はロッ クフェラー家の伝統ともいうべき黒人問題に対する関心を,父母双方の家系 から受け継いでいた.アメリカ合衆国の歴史には,周期的にキリスト教会が信仰復興運動をおこ なって教会を伸長させるという「リヴァイヴァル(Revival)」と呼ばれるひと つの特徴がある.キリスト教会が伸長することで,アメリカ人の価値観の形 成に影響を及ぼして,社会や文化のあり方に大きな影響をあたえてきたので ある.ロックフェラーが生まれたころには,1790年代から
1840
年代にかけ てくり広げられた「第2
次大覚醒(Great Awakening)」によってアメリカの教 派分布は変わった.46)森本(2006)47)によると,
1776
年のアメリカ合衆国の二大主流教派は,会衆 派(20.4%),長老派
(19.0%)であり,1850年になると,それらに替って,メ ソジスト(34.2%),バプテスト
(20.5%)が台頭したのである.バプテストは アメリカの南部に拡大することで二大教派となったのである.アメリカの南部の定義付けについて,奥田(2010)48)は
3
つの定義付けをあ げている.① 「南北戦争時に連邦から離脱し南部連合国を結成した
11
州であり,ヴァージ ニア,ノースカロライナ,サウスカロライナ,ジョージア,フロリダ,アラバマ,ミシシッピ,ルイジアナ,テキサス,テネシー,アーカンソー」である.
② メイソン・ディクソン・ライン(Mason-Dixon Line)以南を「南部」とす
46) 「第2次大覚醒」では長期にわたる信仰復興の宗教熱が燃え上がる運動であったために,
ニューヨーク州北部及びオハイオ州は「焼き尽くされた地域」と呼ばれた.最初の「大覚醒」
は1740年頃から始まった.アメリカとキリスト教の関係については,森孝一編(1997)『アメ リカと宗教』日本国際問題研究所,参照.
47) 森本(2006)74ページ,第1表「教派勢力の変化」を参照.
48) 奥田(2010)i.-ivページ,を引用.
る分け方であり,現在の国勢調査の「南部」の定義はこれに基づいている.
「ペンシルヴァニア州とメリーランド州の州境から南部となり,南北戦争以 前はこの線の北側は自由州,南側が奴隷州」である.(第 2 図,参照)
③ 社会学者ジョン・シェルトン・リード(John Shelton Reed)が指し示す,住 民の南部人意識からの定義付けである.彼の調査結果から,「ノースカロラ イナ,サウスカロライナ,テネシー,ジョージア,アラバマ,ミシシッピ,
ルイジアナは南部人意識の強いところとなり,ヴァージニア,ケンタッキー,
アーカンソー,フロリダでは少しその度合いが弱まっているものの南部で ある.また,デラウェアからミズーリにかけては南部との州境に行くほど,
オクラホマやテキサスでは東に行くほど南部色が強い」
.
簡単にいうと,①と②は州を基準に線引きをしている定義であり,③は 住民の南部人意識からの定義付けである.③のジョン・シェルトン・リー ドの調査の方法は,電話帳から会社や組織の名前を検索して,「アメリカン
(American)」よりも「サザン(southern)」49)などといった南部ゆかりの名前が多 く出てきたところをデータ化するものであった.
バプテスト派はアメリカの南部に拡がるに従って,強い保守基盤をもつ 南部の価値観の形成に影響を及ぼし始め,バプテスト総連盟の創設から
31
年後の1845
年に同連盟から脱退し,南部バプテスト連盟 (Southern BaptistConvention) を 結 成 し た.北 部 バ プ テ ス ト と 南 部 バ プ テ ス ト(Southern Baptist )が分裂した原因は,奴隷制度に関する見解の相違による,国内宣教
師の指名をめぐる対立からであった50).
南北戦争後もバプテストは北部と南部に分裂したままで,南部バプテスト はアメリカ南部の教会数と会員数を拡大しながら南部の価値観の形成に大き
49) 「サザン(southern)」という言葉から発する意味は,南部諸州や米国南部の人を指していた.
また,南部を代表する『サザン・リタラリー・メッセンジャー』誌や「1871年に南部連合の 記録保持のために創刊した『サザン・マガジン』誌」がある.ファウスト,ドルー・ギルピン
(2010)『戦士とアメリカ―南北戦争62万人の死の意味―』黒沢眞里子訳,97-98ページ.
50) 金丸(2006)217ページ.
な影響をあたえる存在となった.南部バプテストは現在では全米規模でプロ テスタントの最大の教派になっている.その南部バプテストは
20
世紀初頭,産業社会から発生する労働問題などの新たな諸問題にキリスト教の倫理を適 用した社会的福音運動51)(the Social Gospel Movement)における社会改革運動の 火付け役のひとつとなった.それに目を向けたのがロックフェラーである.
南北戦争後,アメリカ南部の再建は
1877
年に終わったといわれるが,南 部人の教育や生活改善のために税金が使用されることに北部の人々は不満で あったために,南部の復興はなされておらず,また南部人は南北戦争で負け たことで精神的にダメージを受けており,南部の復興は前進しなかった.奴 隷解放後の黒人の立場も以前より危険であった.1870年代にはすでにクー・クラックス・クラン(K. K. K)などの組織が存在して,北部人や黒人から様々 な権利を奪う活動をしていた.黒人が奴隷であったときは価値のある財産で
51) 南部バプテストと社会的福音運動の係わりについて.エイミー(2004)10-11ページ;グラー
フ(2008)7ページ.
第 2 図 国勢調査局の定義する南部
(出所)奥田(2010)iiiページ.
あったために,危害を加えることはためらわれたが,奴隷解放後はクー・クラッ クス・クランのような組織の白人暴徒から黒人を守る手段はなかった.
一般教育財団が設立される以前,19世紀末には黒人の教育普及のために,
バプテスト教会はもちろん,メソジスト教会,黒人教会,黒人コミュニティの ほか,ピーボディ財団など小さな教育財団が,アメリカ南部で活動を続けて いた52)
.しかし,
事態は良くなるどころか反対に悪化していた.そのような状 況のなかで,ロックフェラーはバプテスト・ビジネスマンであるロバート・C・ オグデン53)(Robert C. Ogden)やバプテスト派の牧師らを交えて,1897
年から彼の フィランソロピー活動に加わったロックフェラー2
世と,南部バプテスト派の 信者の多いアメリカ南部における黒人の教育について構想を練っていた.1901年に,ロックフェラーはオグデンたちからの誘いに応じて,息子を 約
10
日間のアメリカ南部における教育機関の視察旅行に参加させた.ロック フェラー2
世はニューヨークに帰るとすぐに,直接ロックフェラーに報告と 相談を行って,あとで述べるアメリカ南部における黒人の中等教育(SecondlyEducation)
を普及させるための組織された大型財団である一般教育財団(GeneralEducation Board)
の設立の立案に取り掛かるのである.次章では,ロックフェラーが賢明な什一献金は独力ではできないと考え,5 章で述べる科学的な「寄付の技法」の考えるきっかけとなって,ロックフェラー のフィランソロピー活動に大きな影響をあたえたアンドリュー・カーネギー の論文「富(Wealth)」について述べる.
4 アンドリュー・カーネギーの「富(Wealth)」
キリスト教史家マーク・ノール(Mark A. Noll)は
19
世紀のアメリカに絶 大な影響力を与えた重要人物として,エイブラハム・リンカーン(AbrahamLincoln, 1809-65)
やリヴァイヴァル・奴隷運動・禁酒運動などを展開して社52) ニールセン(1984)339-342ページ.
53) オグデンはフィラデルフィアでデパートを創業したジョン・ワナメーカーの友人でデパート 業界の重鎮.
会改革に貢献したオベリン大学学長のチャールズ・G・フィニー(Charles G.
Finney,1792-1875)
と並んで,フィランソロピー活動の先駆者となったアンドリュー・カーネギー(Andrew Carnegie,
1835-1919)
54)をあげている .Carnegie (1896)55)によると,カーネギーは
13
歳のときに,家族とともにス コットランドからアメリカのピッツバーグに近いアリゲニーに移住し,貧し い境遇をバネとして,糸巻き工,電報配達人,電信技士となった.彼が18
歳 のときに,ペンシルヴェニア鉄道の支配人トマス・スコットの事務員兼電信 技手に抜擢され,24
歳のときに同鉄道のピッツバーグ線区の責任者となった.そのあともカーネギーは出世したが,30歳で同鉄道会社を辞職し,自分の事 業に専念した.
プロテスタント系の長老会教派(Presbyterian-Denomination)の信徒であった カーネギーは,持ち前の勤勉と才覚によって世界最大の鉄鋼会社であるカー ネギー製鋼会社を一代で築き上げ,「鉄鋼王」と呼ばれる一方で,労働争議史 上にのこる「ホームステッド工場ストライキ事件」56)を引き起こし,「ラバー・
バロン(泥棒貴族)」とも呼ばれた巨万の富を手に入れた大企業家である.
ロックフェラー同様にカーネギーも,マックス・ヴェーバーのいうところの プロテスタントにおいては少数派,多数派に関係なく,プロテスタント特有の 経済的合理主義を内面に持ち合わせていたのである57)
.
彼らの企業家としての54) Noll, M.A. (2001) A History of Christianity in the United States and Canada, Grand Rapids:
Eerdsman Publishing Co., pp.176-178.
55) この論文は「どのようにして私は実業界に雇われて仕えたか」というテーマであるが,13 歳のカーネギーが考えたことは,「私はどんな仕事をしたいか」ではなく,「私は何ができるか」
ということであった.まだ,13歳で考えたことである.Carnegie, Andrew(1896) How I served my apprenticeship as a business,” http://www.archive.org/stream/gospelofwealthot00carnuoft#page/
vi/mode/2up.
56) ロックフェラーにも労働争議史上にのこる「ラドラーの労働争議事件」がある.1913年にコ
ロラド州のコロラド燃料石炭会社で起きたストライキ事件であり,その事件の終結にあたったの は,ロックフェラー2世であった.この事件をきっかけにロックフェラーのフィランソロピー活 動において社会科学の領域が一層縮小されたといわれている.詳細については,フォスディック,
レイモンド(1956)『富との闘い―ロックフェラー2世の生涯―』武田桂二郎訳,54-73ペー ジ.南部バプテストと社会的福音運動の係わりについて,エイミー(2004)10-11ページ;グラー フ(2008)7ページ.
57) ヴェーバー(1989)16-37ページ.
共通点は力を分散させずに,無駄をなくして徹底したコスト削減に努め,才 能と情熱を持ち合わせた人材を活用してどんな競争相手にも負けない低価格 で高品質の商品を製造し,それぞれの業界をリードしたのである.カーネギー とロックフェラーは労働者を雇用契約に基づいて組織して,複式簿記を用い,
資本を効率的に運用して管理した独占資本主義の偉大な経営者58)であった.
あとで述べるように,フィランソロピー活動におけるカーネギーとロック フェラーの
2
人の共通点のひとつに,寄付を行う対象は「自立心の強い人」ということがある.カーネギーは自叙伝のなかで「単に困った人に救いの手 を貸すというのではなく,援助に値する人を探し求めているのである.『自 立心の強い人』にはいざという時にはかならず救いの手がのべられるという ことを私は信じて疑わないのである」59)と書いている.ロックフェラーは彼の
「寄付行為に関する
4
つの原則」のなかの第4
の原則で「寄付行為によって独 立と自尊の精神が啓発される対象に,寄付をすべきである」60)として「自立心 の強い人」に寄付を行う対象としているのである.カーネギーは,それまでの企業家活動で築き上げた富を身内に継がせるこ ともなく,自分で言ったとおりに自分の財産を用いてカーネギー流のフィラ ンソロピー活動61)に専念した.彼は多くの教会にオルガンを寄贈し,図書館 を創設し,カーネギー協会62)(Carnegie Institution of Washington)やカーネギー教 育振興財団63)(Carnegie Foundation for the Advancement of Teaching)などを設立して,
58) ロックフェラーとカーネギーの初対面についてはよくわからないが,この頃にはすでに面識 があったと思われる.ロックフェラーとカーネギーの初対面については,1970年代前半のロッ クフェラーの鉄製タンクの油槽車開発の時期ではなかったかと思われる.
59) カーネギー,アンドリュー(2002)『カーネギー自伝』坂西志保訳,中央公論新社,93ページ,
を引用.
60) フォスディク(1956)8ページ.
61) カーネギー流のフィランソロピーの方法や財団活動については,Bremner (1988) pp.103-105, p.111, pp.114-115.
62) カーネギー協会はセオドア・ルーズベルトが連邦議会に働きかけて承認させ,国務長官のジョ
ン・ヘイを会長職に就任させた.Bremner (1988) p.223.
63) カーネギーがコーネル大学の理事になったときに,大学教員の給料と補償の低さを知って,
それらを改善するためにカーネギー教育振興財団を1905年に設立した.Bremner (1988) p.111, p.114, p.223.
自分一代限りで同活動を終わらせたのである.
ロックフェラーはスタンダード・オイル・トラストが形成されて,スタンダー ド社がますます大きくなればなるほど,企業家活動に時間をとられた.一方 では,彼の什一献金の金額が同社の利益の拡大に伴って大きくなることで,「母 との第
1
の約束」を守りかつ自分の納得のいくための什一献金をするための 時間を割かなければならないと思いながらも,時間をとれずに悩んでいた.D. ロックフェラー(2007)64)によると,
1880
年代半ばころから,ロックフェ ラーは「財産の10
分の1
の税納付」という宗教令に従って寄付金を処理する ことにストレスを感じていた.彼は寄付をしなければならない義務感と賢明 な寄付をしたいという欲望のジレンマに苦しんでいた.そのため,彼は独力 で寄付行為を行うのは困難だと考えていたと述べている.1889年にロックフェラーは,母イライザを亡くした65)
.その同じ年に彼は
『ノース・アメリカン・レビュー(North American Review)』に発表されたアンド リュー・カーネギーの論文「富(Wealth)」66)を読み,什一献金,寄付の方法,
子供たちや子孫に遺す財産について,多大な影響を受けた.
カーネギーはその論文「富(Wealth)」のなかで,文明の基礎をなす生存競争,
適者生存のなかで巨富を獲得した少数者は生きている間にその余剰な富をど のように社会のために再分配するか,という大問題を掲げ,その解決策とし て以下の
3
つの方法を提示して,富者の義務としての答えを論じた.第
1
の方法:その余剰な富は,従来通り子孫の家族に残す.第
2
の方法:その余剰な富は,公共的目的で遺贈する.64) ロックフェラー(2007)21-22ページ.
65) ロックフェラーは,亡くなった母イライザを記念してニューヨークにリバーサイドパブテス ト教会を建設した.1915年に妻ローラが亡くなったときは,彼はシカゴ大学内に教会を建設 した.
66) 「富(Wealth)」は「社会進化論」の影響を受けたもので,生存競争,適者生存のなかで得た
巨富を正当化しながら,富の分配をどうするかを論じたものである.Carnegie, Andrew (1889) Wealth , North American Review, CCCXCI., June. 『 富 の 福 音 』 に つ い て は,Bremner (1988) pp.101-102, p.108; Frederick, Keppel P. (1989) The Foundation : Its Place in American Life, New Jersey: Transaction Publishers; カーネギー(2002)226-275ページ.
第
3
の方法:その余剰な富は,信託基金と見なして自己の判断で社会に最 も有益に分配する.カーネギーの考えでは,第
1
の方法は子供たちに重荷を負わせることにな り,もっとも思慮に欠けると述べ,第2
の方法は遺言者の真の希望がかなえ られない場合も少なくないと述べた.そして彼は第3
の方法は,富を獲得し た者がその富を社会に役立つために賢明に分配する方法,つまり,科学的な アプローチを使う組織された近代的な民間の財団によるフィランソロピー事 業を答えとして導いた.フォスディック(1956)67)によると,ロックフェラーはカーネギーの「富
(Wealth)」を読んで,お祝いの手紙を送っている.彼のカーネギーに送った手 紙の内容は,「もっと多くの富裕な人たちが,貴方が貴方のお金を処理された と同様なことをするようにと私は望みます.………貴方の先例が必ず実を結 ぶことでしょう.そして多くの富んだ人たちが,他の人々の幸福のために進 んでその富を費やす時代が来るでしょう」とある.
また,ロックフェラーはカーネギーの影響を受けて,1909年の『人と事件 の回想録』のなかで書いている.「金持ちのひとを観察していると,その費や す金の真の対価を確保し得る途はただひとつしかないということがわかる.
そしてそのひとつの途というのは,金が永続的な満足感という効果をもたら す時に,これを与えるという趣味を養うことである」68)とある.
ロックフェラーは「富(Wealth)」を読んでから,什一献金や子供たちや子孫 に遺す財産について時間をかけて深く考え,独力で寄付行為を行うことを諦 めた.彼は賢明な什一献金を行い,賢明なフィランソロピー活動を行うために どのように知恵を絞ったら財産を有効に活用できるか考えた.彼は同活動の ために,慈善トラストを組織しなければならないと考え,石油産業を支配した 方法,つまり,「協力」と「調和」が必要であり69)
,人材,組織,効率経営を
67) フォスディック(1956)8ページ,からの引用.
68) Rockefeller (1909) p.117.
69) ロックフェラーの言葉に次の言葉がある.If a combination to do business is effective in saving ↘
適用することを決めて構想段階から多くの分野の専門家を集めるのである.
同時期に,ロックフェラーはシカゴ大学70)をバプテスト派の研究機関とし ての大学にするために,同大学に対し寄付を行っていたのであるが,同大学 をアメリカでも有数の総合大学にするという彼の活動に協力したのが,アメ リカ・バプテスト派教育協会の事務局長をしていたフレデリック・ゲイツ71)
であった.
1893年に,ロックフェラーはゲイツをファミリー・オフィスであるロック フェラー事務所72)の顧問に雇い,ロックフェラー
2
世は1897
年,23歳でブ ラウン大学(Brown University)を卒業して同事務所に入った.ゲイツの仕事は ロックフェラーの社外の投資管理と慈善事業であり,スタンダード社の業務 からは外れていた73).ロックフェラー,ゲイツとロックフェラー 2
世の3
人 は協力して多くの分野から専門家を集め,賢明な什一献金をするため,フィwaste and in getting better results, why is not combination far more important in philanthropic? フィ ランソロピー事業こそ,「協力」と「調和」が必要ではないのかということは必要である.
すなわち,ロックフェラーにとって「協力」と「調和」とは,トラストの精神であるため.
Bremner (1988) p.100,を引用.
70) シカゴ大学に対するロックフェラーの支援は,1910年彼が同大学に最後の寄付をするまで
の総額は3,500万ドルに達した.同大学の創立は1890年であり,創立以来現在ではノーベル
賞受賞者70人以上を生み出し,世界でも有数の大学に発展した.シカゴ大学設立に果たした ロックフェラーやゲイツの役割等については,Goodspeed, T. W. (2010) A History of the University of the Chicago: the First Quarter-Century, Memphis, Tennessee: University of Chicago Press.
71) ゲイツの父親は長老会の牧師であり,ゲイツは15歳で学校をやめると,乾物屋経営や銀行
員などの多くの職業を経験してから,バプテストの牧師を経てアメリカ・バプテスト派教育協 会の事務局長になった.(同上書,pp.3-10.)
72) ファミリー・オフィスであるロックフェラー事務所のファミリー管理については,ヒュー ルズ,ジェームス E., Jr. (2007)『ファミリーウエルス―三代でつぶさないファミリー経営 学―』山田加奈,他訳,文園社,75-78ページ;アルドリッジ,ネルソン W., Jr. (2004)『ア メリカ上流階級はこうして作られる―オールド・マネーの肖像―』酒井常子訳,朝日新聞 社,89, 141-142ページ.
73) ゲイツがロックフェラー2世と組んで最初に行った仕事は,ロックフェラーの外部への投資
事業である鉱山関係を中心とした約20社の整理や立て直しであった.どの会社も赤字でつぶ れかかった会社で13社もあったが,2人が中心となって立て直し,1902年には収益を上げた.
ロックフェラーの鉱山投資のなかで,スペリアル湖付近の鉱山を所有するメリット家とロック フェラーとの間で所有権争いの訴訟事件があった.コンソリテーティッド・アイアン・マイン ズ社(Consolidated Iron Mines)訴訟事件である.この件に関しては,唯一ゲイツがロックフェ ラーを擁護して書いた32ページのパンフレットがある.Gates, Frederick T. (1897) The Truth about Mr. Rockefeller And the Merritts, Cornell University Library.
↘
ランソロピー活動に乗り出すための準備を,10年間かけて行うのである.
5章では,什一献金から始まるロックフェラーの「寄付行為に関する
4
つ の原則」,
「寄付の技法」,ロックフェラーの財団の大綱である 6
項目からなる「原則と政策についての覚え書」を踏まえて,一般教育財団のフィランソロピー 活動について述べる.
5 「寄付行為に関する
4
つの原則」と「原則と政策についての覚 え書」「寄付」について,ロックフェラーは自叙伝のなかで「寄付は害をおよぼ しやすい」74)と書いており,カーネギーに及んでは「99%の寄付行為は害であ る」と有名な発言をしている.このことから,賢明な寄付を行うことは相当 に難しいと思われるのだが,ロックフェラーはゲイツとのフィランソロピー 活動における協力関係を形成する以前に,「寄付行為に関する
4
つの原則」75)を持っていた.
第
1
の原則は,見境のない寄付行為は行わない.第
2
の原則は,寄付を打ち切っても消滅することなく,永続性のあるもの に寄付するのでなければならない.第
3
の原則は,他の人たちからの寄付も刺激するように,寄付は行われる べきである.第
4
の原則は,寄付行為によって独立と自尊の精神が啓発される対象に,寄付をすべきである.
とくにロックフェラーは第
4
の原則,寄付行為を受ける対象として力弱い 者よりもむしろ力強い者,つまり,「自立心の強い人」76),自ら助くる者を助
けるべきであるということをもっとも重要だと考えた.彼は「社会進化論」74) Rockefeller (1909) p.17.
75) ロックフェラーの「寄付行為に関する4つの原則」については,フォスディク(1956)8-9ペー
ジ.
76) 「自立心の強い人」については,カーネギー(2002)93ページ.