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「心理学」,学名の由来と語源をめぐって : サイコロジーは心理学か

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(1)

The faPanese Joumat げPschonomic  sσr

ence 1995

Vol

14

 No

1

9

21

学名

由来

語 源

コ ロ

西

1

:智大学 文学部

The

 

Origin

 of 

the

 

Scientific

 

Name

Shinrigaku

 

in

 

Japanese

      

Does

Shinrigaku

Come

 

from

 

Psychology

Yasuo

 

NIsHIKAwA

SoPhia University*

   This paper 

discussed

 the origin of the scientific name

Shinrigaku

 in 

Japanese

 using various  

historical

 

documents.

 

Today

 we  are  accustomed  to say  that the original  

foreign

 word

shinrlga1

(u

comes  from psychology

  

However ,

 

historical

 documents  tell us  that psychology  was  translated into 

Japanese

 as

Seirigaku

at 

nrst

 

by

 

Amane

 Nishi in 1874

  And  he also  translated

Mental

 philosophy

written  

by

 

J.

 Haven

into 

Japanese

 as

Shinrigaku”in

 

l

 

878.

 

So

 

there

 arises some  questions

abQut  the relationship  between  Shinrigaku and  

Seirigaku

 

in

 

Japanese.

 

Do

 these words  

have

the same  meaningor  not ?When  and  why

 and  

by

 whom  did the scientific  name  of psychology

become “

shinrigaku

”in

 

Japanese

Is

 

this

 

largely

 

from

 

Amane

 

Nishi,

 or are there any  other reasons

 like the ofHcial university  edtlcational  system  

in

 

Japan

 at that time ? There are  left

unsolved  many  

kinds

 of 

issues

 needing  further research

Key

 words : the origin of the scientific name  of

Shinriguku”in

 

Japanesel

 psychology  and mental  philosophy

Shinrigaku”

and

Seirigaku”

 

Amane

 Nishi

 the history of the university

in

 

Japan

「心 理学」 と い う学 名の由来を たずね て  は じめ に  今日, 「心理学」は, その名を広く知ら れ るの に止 ま ら ず

か なりの程 度人々 に受け入れら れて いる, と いっ て よ いだろう

しか し

この名が今日ある よ うに定着す る 経緯や そ れ を担っ た人々 につ い て は 必 ずし も周 知の こ と とはいえないであろ う

こ うい う と, きっ と, 昔か ら 心 理 学は心 理 学で あっ たので は

と驚く方も多い か も し れ な い

それに というこ とで あ れ ば, ま さ しく昔む か しの ことで そ れ が誰か ら始まっ た か な ど分か る わ け が ない といわ れよう

当た り前の こと が なぜ問題なの か と も訝か れ る ことで あろ う

 さらに は

そもそも当の心理学の基本 的な性格や科学 * Faculty

 of Literature Department  of psycholo

 gy

 Sophia University 7

1

Kioi

cho

 

Chiyoda−ku,

 Tokyo  102

 

Japan

的な位 置 付 けにっ い て は

よほどの専 門 家 あ るいは専 門 家を目指す方々 で も ない と関心の埒 外であろ う

 い ま当たり前の こと が な ぜ当たり前で あるのか

たず ねて み ることも大切なこ とである

 本論で は

まずなによりも

その名 称の由 来を たずね ること と し たい

そ して

そ の際に大 きな役 割 を担っ た 先 達に も可 能な限 り言 及 することにする

 こ の作業を進める にあ たっ て は

当 然の こと な が らそ れを 担

た当 事 者に直に当 たっ てとい うことが 不 可 欠で あ る が

いか ん な が ら現 在の筆 者に とっ て は ほとん ど望 み薄である

そ こ で

当 時の当 事 者が書 き残した り

本 人より直接聴取 した記 録 や 資 料

こう した 人々 の年 譜

あ るいは諸 機 関に よっ て公 式にまた組 織 的にまと あられ た記録

さ らに は時 代を下っ て の そ の後の資 料 収 集と検 証に基づ く研 究 成 果で ある文 献や

書籍な ど

で き うる限 り

次 資料を基に整理 して いか ざ る を得ない

し た がっ

(2)

多 くの な ぞ を解 明す る上 で

資料が どこま で 入手で きるか

そ の記録が十 分に答 え を 与 えて く れ る かに掛 かっ て い る

 当然

難しい作 業にな らざる を え ない

た だ し

さい わい多 くの貴重 な資 料が な お 現在で も残さ れて い るの で

これら を相 互に比 較 検 討, 対 照しなが ら, こ の作業 を試みて み ること は十分に可能と考え る

と いっ て も

多 くの

次 資 料が年々失わ れて いっ て し ま う とい う状況 を 考 え ると

この 作 業を行 う上で

個 人ので対 応 する こ とは今 後ますま す困 難にな る といわ ざ る を え な い

すで に現 状で も困 難にな りっ っ あ る

 そこで

本 論に入 る前に

まずこうし た事情を訴え

i 日で も早 く

その名 前な ど さてお くと して も公的な 「心理学 資 料 館 」

「心 理学 博 物 館 」ない しは 「心 理学歴史 館 」にあたる ものを建 設 するこ と をこ こ にあ らた めて提 案 したい に れ まで に も機 会あ る ご とに こうし た提案を 試み て い る

例え ば

西 川

1988

を参 照の こと)

この た め に は なに より それに先だっ て

関 連の資 料 や 物 件の 収 集と記 録 保 存の た あの大 掛か りな作 業が早々 に不 可 欠 で あ るの はい う まで もない

 ち なみ に, 歴 史 的な実 験 機 器

器 具な どの動 態 保 存

文 献 をはじめとする さま ざ まな資 料のマ ク ロ

ル ム , 映像化, さ らに は最 新の高 度 技 術に よ る磁 気 記 録 化

,CD −

ROM 化 な ど急 が ね ばならないであろう

加え て情 報 貯 蔵

情 報 検 索の た めの コ ン ピュ

タ利 用とコ ン ピ

ュー

ネッ トワ

ク化も欠か せ な い

  確か にこう し た問 題 意 識に立っ て

多 くの資 料 作 成な ど多 くの 試み がすでにあるこ とは十 分 承 知 してい る (こ れ ら は, 以下の論 旨の中で そ の多くが引用される)が, な お今後を考え る と

現 在でもこれま で以 上に重 要な論 点と な ること は論をま た ない といえよ う

さらに加える と

なに にせ よ歴史的経緯の理解は欠かせ ない し

いわ ん や歴史健忘症に は対処が欠か せない

現在の心 理 学は 過去の心理学の上に立ち

心理学の未来は現 在の心 理 学 の上に立っ ので あ る

心 理学と いう学名の由来と 語 源  さてあ ら た めて, 「心 理学 」という学名の由来をめ ぐっ て

主 と して筆 者 自身の収 集し え たい くっ 資料 を も とに検証を加えて い ことに し たい

 「心理学 」とい う学 名は, い う まで も な く西 周に端を 発 するもの といっ て間 違いない とい え よ うが, 「心 理学」 とい う学名が定 着するまで の い き さっ

もの語 源と な る外 国語 (psychology

 mental  science

 mental

philosophy な ど)との関係を め ぐっ て は 未解 決の問 題が残さ れて い る

  真っ 先に あげるべ き 資 料は

東 京 心理学 研 究 会 編の 「明 治 年 間に け る心 理 学 発 達の 史 料 」 (心 理 研 究

1913,

3

巻 第 1冊 (第 13号 )

228

248)で あ る

 とい うの も

こ の冒頭にこ うある (p

228)

  「今 大 正 第

の新 年 を 迎ふ る に当 り

明 治 年 間に於 け る心 理学の起源 及 び発達を叙し

その資 料 を蒐めてお か う と 思ふ

し後世学 術の歴史を編む もの があっ たな ら ば, 必ず之 を 参 考の

部 分供 する に相 違 あ

で も 京 都 大 学 に 関 す る もの は主 と し て松 本 博 十の談に 據っ た

遺 憾な の は 元良先生御病気の ため 心 理学初 期の発 達に関し

種々 の料 を 御 尋ねすることの出来な かっ たことで あ る

」  こ こに記さ れ た

元良 先生 (元良 勇次郎 )

松本 博 士 (松 本 亦太郎 )にっ い て は

別の 会に述べ の で 西 川,

1995

), まずは 「心 理学の 起源」に係わ る事柄を, こ の記載内容に し た がっ て追っ て行く こ と にする

なに し ろ上に述べ る 通り

後世心 理学史を編む もの に とっ て

これ が必 ず

部 分にせ よ参 考に さ れ る はずであ る と明記 して い るくらい で あ る

確かに

日本の心 理学史に関す る資料の中で

ま と まっ た形で残さ れて い るの はこれ が はじめで ある とい っ てよい

その松本博上 すな わ ち松 本 亦 太 郎の著し た 「心理学 史 」 〔

1937

)も

筆 者のみ る と こ ろ

心 理学の起 源に関する記述 は

この 1913 の 「発 達の史 料 」の記 述を越え るもの で は ない

も ち ろ ん

上の記 述からみて

こ の資料作成その もの に松 本が大き く関 与して い たこ と が う か が え るの で当 然とい え ば当然 である

ただ

今日多 く根 拠として引 き合い に出さ れ る の は

さきの史 料で はなくむ し ろ松 本の 「心 理学史」(前 出 )の場 合が多い (例え ば

児玉

1986)こと を指 摘す る

 

さらに論 旨 を 先 取っ て い うと

東 京帝 国 大 学 学 術 大 観 総 説

文 学 部 編 (1942

p

365

385)におい て

「東 京 帝 国 大 学 文 科 大 学 心 理学 科 (心 理 学 講 座 )」の 歴 史 的 経 緯 を 記 した桑 田 芳 藏 (元 良

松 本に続 く第 3代 教 授 )も, 心理学発 達の起 源につ い て の記 述は

松 本の 「心 理学史」 に準じ たもので

ない しはこ の 「明治 年 間に於 け る心 理 学 発 達の 史料 」に準 じた もの で

とくにめ新し い情報は ない

実際

田 は

最 後に

本 稿執 筆に際し て は松本 亦 太 郎 博 士よ り多 大の援 助 を賜っ た ことを

感 謝 して い る

 ま た, こ の学術大観の 中で述べ ら れて い る

とくに大 学 制度史の沿革と変 遷に関 して は

これに先 立っ東 京 帝

(3)

西川:「心理学」

学 名の由来 と語 源 をめぐっ て 11 国大学五十

年史

上 冊 (1932)をふま えたもの の ように 筆者に は 思 わ れ る

なお, こ こ にあげ 言及 した資料にっ いて は, 以 ドに おいて も再三引用さ れ る

 さて あ ら ため て, 心 理学の起源をめ ぐっ て 「明治年間 に於け る 心 理学発 達の史 料の記述を追っ てい くこと に す る

 まず

「初めて psychology とい う英語が翻 訳さ れ た のは明治

7

年の ことで あ る」, と記さ れ ている

 そ れ は 以 ドに よっ て であ る

  1874 年 (明 治7年 6月 ), 西 周 「致知啓蒙」2巻 を 著す (その内容は

いわ ゆ る論理学の本で あ る が, いさ さ か 心 理学上の ことに も言及してい る)

 その

心理学の こ と を 『性理ノ学 』と称し

その

下に英 語で psychology

ま た は mental  science )

注して あ る

 また

,1877

年 (明治

10

年)には

西 周は

ミル の 「功 利主義 (

Utilitarianism

1863

}」を訳 し 「利学」と題し て公 刊

 こ の中に以 下の

が あり

文 中

r

性理 ノ学』に サ イ コ ロ

ル ビ が ふ ら れて いる

「近日 に 至りい わ ゆ る 哲 学 もそ の区 別ほぼ

定せ る ものの

その中に て も 性 理 学 (サ イ コ ロ ジ

を推 して これ が本 源と なす

し こ うして人 性の作 用これ を分けて二 と な す

,一

に曰く 智

これ致 知の学 (ロ ジッ ク)の之 を律 する所以 なり

二に目 く意  これ 道 徳の学 (モ ラルを範 する所 以 なり

二に日 く情

これ美 妙の学の之 を悉す所以 なり

(筆 者に よっ て

文 中の カ タ カ ナを平仮 名に直し た)」   以 上の間で は

貫して

「サ イコ ロ ジ

の訳 語は 「性 理学」で あっ て

「心 理学」で はない ことに注 意して ほし い

 ところが

,1878

年 (明治

11

年)になっ て

西 周は, ア メ リカ のジョ セ ブ

ヘ ブン (

Joseph

 

Haven

)の著 『精

神 哲 学 』(Mental philosophy

 

including

 the 

intellect

sensibilities

 and  will

1858

)を訳 出し

これ を 「奚般氏 心理学 」(文 部 省 印 行 )と題 して公 刊し た (出版 年

,1858

年は

引 用 文 献 記 載の通 り

た だ し

本 文で引 用さ れ る 他の文 献で は

これ は

貫 して

1857

年で あ る

ま た

訳 者で ある西に よ る 「心 理学翻 訳凡例」で は訳出さ れ た 原 本 が1869 年 版で あること が記 されて い る

筆者 注)

  文 中 第 1頁 脚 注に, 「メ ン タル フ ィ ロ ソ フィ

, こ こ に心理 上の哲 学と訳 し

約めて 『心 理学』と訳す」

と記 さ れて い る

 これ が後, 民 間に よ る翻刻版,「奚般 氏著  心理学 西 周 訳   文 部 省 印 行 」で あ る

  筆 者 も同 書の翻 刻 版 (上 下合 冊 本 )を2冊 入 手してい る

1冊は

「文 部 省 藏 版   奚 般 氏 著   心理学   明 治 15 年 9月 翻 刻

岡 島氏 発 行 」で ある

こ の本には面 白い こ とに 内 表 紙のに は訳 者で ある西 周の名 前はない

もう

冊は

「文 部 省 印 行   西   周 訳   奚 般 氏 著   心理 学 上 下 合 冊 翻 刻 竹 川 書 房 」 明 治

20

10

18

日 翻刻 御届

同 22 年 ll 月 刻 成

竹 川 書 房で ある

いずれ も翻 訳者である西 周の 「心 理 学 翻 訳 凡 例 」での訳 者識 の 日付は

明 治 11年 1月 とな っ て い て

同書の初 版 発 行が治 ll 年で ある こ と が うか が え る

 と こ ろ で

以 上の経 緯 をみ るか ぎり

「心 理 学 」は

は じめ 「メ ンタル

フ ィ ロ ソ フ ィ

」の訳 語 と して用い ら れた こ と がわか る

  する と

早 速

で は今

H

で は当然 となっ てい るサ イコ ロ ジ

と心 理 学の結 び付 きは

いっ どの ような経 緯で そ うなっ たの であ ろ う か とい う疑問がわ く

また 「性理 学」は, どのよ う に使用さ れ な くなっ たの だろ う か

そ れに して も

こ の 当の 「発 達の史 料 」 自体が

「性 理 学の 発達史料」で はな く 「心理学の発 達 史 料」を標 榜して い る で は な い か

 その上やっ かい なことに

そ も そもの ヘ ブンの著 書の 訳 出刊 行時期にっ いて,「発 達の史料」の みな らず 松 本の 「心理学史」を は じ め,筆 者の入手し た翻 刻 版が みな 明治

11

年と あ るの に

もっ と前か ら訳 出さ れて い たと い う事 実が指摘さ れて い る

 西 周 全集を編ん だ大久保 利 謙の説 (1981

第 4 巻

,P.610

)に

同 書の 刊 行 を め ぐる経 緯 と して次 ぎの ように記さ れて い る

 「このは西が かなりてい ねい に読んだ もの で

後に こ れ を み つ か ら翻 訳 も して い る

原 本は

,Joseph

Haven

Mental

 philosophy

 

including

 

the

 intellect

sensibilities

 and  will

1857

で ある

原 著 者はア

マ ス

ト大 学の知 識道 徳 学 教 授

, シカゴの神 学校の神学教授 を歴 任し た人で, この書の ほ か に も

Moral

 philosophy

History

 of science  and  modern  philosophy の著があ

い つれ も教 科 書 風の 啓 蒙 書で, この Mental philos

ophy も その

これ は か な り読ま れ た ら し く

私の み た 旧上野 図書館 本は

1877

年の増 訂 版で ある

これ を 西は 『心理学』と題してし, 明治 8 年文 部省か ら ま つ 前半を和装

3

冊で刊行し

のち

11

12年に改あ て洋 本上 下2冊と して全 部の訳 本 を 公に した (文 部 省 版 )」 (ア ンダ

ラインは筆者に よ る)

      中 略

(4)

 「た だ西がこ の ヘ ブ ンの本 といっ 頃か らん だの かが 問題となる が 西哲学断 片 中にこ のに関 するノ

トが ある (第 1巻

解説

630−632

こ の ノ

トはど う も 「百 学 連 環」構 想中の もの と推定して 大 過ない よ うである

」  こ の本の公 刊時期に関して は, 同じ指摘が 日本心 理学 会 五 十 年 史 (第

部 )(1980)の に も あ り

し か も明 治 8 年 (1875 年)を示す写真入 りであ る

 さ らに

別の記載も あ る

現在の 西 周 研 究 家で ある 小泉 (1989, P

146)によ る と 以下の ご とくであ る

 「西の訳 書 『心理学』 は, 明 治

8

4

月, 文 部 省 印 行 と して, 上

中巻が発刊さ れ

続い て明治 9 年 9 月に下 巻が公刊さ れ た

私が手に入れ た 『奚 般 氏 心 理 学 』は

明治 11 年 2 月の改 版で, 上 冊, 下 冊の

2

巻か ら なり

    略    」   (ア ン ダ

ラ イン は

筆 者に よ る)

  とい う こ と で, た し か に明治

8

年に遡ること がで き る が

そ うで ある とする とそ れ 以前で は ど うであ っ た の か, 最終 的に完成し たの はいっ か

とい うことになり

ことは そ れ ほ ど明快なことで は ない

文 献の間で微 妙に 食い違っ てい る

その背後に いか な る経 緯が隠されて い るのか

この疑 問に対 する回 答の

端は

き わめて評 細 な検 証 を試み た児玉の研究 報告 (

1982,1985

)に求める こ と がで き ること を指摘 する

  刊 行 時 期 もさ ること な がら

そ もそもの心 理 学 とい う 学名の 由来と その語 源に も どると

こ の謎 解 きの

っ の 鍵は

上に 引用 し た大 久 保が述べ て い る よ うに

西の 「百学 連環 」 とい う講 義 科 目る ようだ

て, 日本における教 育 制 度の中に鍵があるの で

以 上に 指摘し た疑問 点は少し保 留して

これ らの点にま ず論を 進め ることにする

西   周と百 学 連 環  そ こ で

まず 「百 学 連 環」をめ ぐっ て資料を追っ てみ ることにする

そ れに は

以 下に

細 かなことは省 くが

西 周 (1829

1897)自身の年 譜 を紹 介す る 必要が あ る (詳 細につ い ては

例 え ば, 次ぎ を参 照の こ と

福田編 河 合 著

1966

小 泉

1989

大 久 保

1960

1962,1966,

198L 大 植 編 著

1935

明 治過去 帳

物 故人 名 辞 典

東京 美 術

,P.

509

三省 堂 編 修 所1994 改 訂 新 版

上田正 昭他 監 修

コ ンサ イス 日本人 名 事 典

三 省 堂

P

941−942.

新 潮社辞 典 編 集 部 編 集 1991 新 潮日本人名 辞典

新 潮社

P,

1307)

1854

年 (安 政 元 年 )か らは じ める と

この年 脱 藩

 江 戸の杉 田成 卿

手 塚 律 蔵 ら洋 学 を

  蕃 所 調 所 教 授 手 伝をへ て

1862 年 (文 久2年 )オ ラン ダ留 学

津田真 道ら と

 これは

幕 府の第 1回 海 外 留 学 生 派 遣に よ る も のであ る

ライ デン大 学で フ ィセ リングに学ぶ

い で英国に 遊ぶ

カ ン ト派の哲 学 を好む

 フ ィ セリング教 授は

西

津田のために, 自然法 (性 法 之 学 )

国 際 法 (万 国 公 法 之 学 ) 国 法 学 (国法 之学)

経 済 学 (制 産 之 学 )

統 計 学 (政 表 之 学 )5科を 講 述 し た

これ らは

社 会 科 学の体系的教授と し て

T.

夫さ れ た もの とみなされる

い うならば

大 学にお け る学 問研究の あ り方

方 法 論につ いての教 授で あっ た

この体 験を も とに

その後 西は私塾育英舎を開き, そこ で 「百学連 環 」 を 講 ずる にい た ると考え られる

1865 年 (慶 応 1年 )

36

歳の と き帰 国

開成所教授

 留 学 中の講 義 録 を 「万国公 法 」と して刊行

 大 政 奉 還の前 後

将軍徳川 慶 喜の 近に侍す

 なお

こ の開 成所の変 遷と経緯を さ かのぼっ て示 すと 以 下の通りである

  1855 年 (安 政 2年 ) 「洋学所」 設 置準備のた め洋 学 書 頭 取 任 命さ れ る

  1856 年 (安 政3 年)2 月

上 記洋学 所を 「蕃書 調 所 」 と命 名 し

これ を設置

洋学の中心機 関

その源 流は天 文方

  1857 年 (安 政 4 年)授業を開 始

生徒 数は

191 人

  1862 年 (文 久 2年)

5

洋書 調 所と改 称

 

1863

3

月, 「開成所」と改 称

幕 末に至る

  当時の教授職に は

箕 作 阮 甫

杉 田成 郷

そ の後

西  周 ・津 田 真

・加藤 弘

1870

年 (明 治

3

年 ) 兵 部 省に出 仕

  兵部小丞

陸軍大丞等主に軍 制関係の官 職を歴 任

 か た わ ら私塾 「育 英 舎 」を開 設 (明 治3年 11月 1日

育 英 舎 則を起 草 )

コ ン トやミ ル の哲 学に学ぶ 「百 学 連 環 」な ど を講 義する

こ の 「百 学 連 環」 とは

百 科 全 書 に当た るencyclopedia (エ ンサイクロ ペ デ ィア)に相 当 する名称であ る

西 は

これによっ て

近 代諸 科 学の体 系化

分類を試み た

 その講 義 内 容は

西の門 弟の

人であっ た永 見   裕が 残し た記録 (ノ

ト)によっ て

現 在 詳 細に知る こと が で き る

これ を収 録 編 集し たものが

先に引用 した大 久 保によ る西   周全集 (198L 第4巻 )である

 その 「百 学 連 環 」の 「総 目次 」 をた どっ て い くと

以 下のよ う な記 述を認める こと がで きる

(5)

西 川:「心 理学」

学名の 由来と語源をめ ぐっ て

13

 第二編   特 別 学  第

 心 理 上学  intellectual  science   の中に

 二  哲 学   (二) 性 理 学  psychology

と あ りサ イコ ロ

の訳 語は性理学で あ る こと が分か る

  本 文 中におい て もこれに言 及して

次の ように述べて いる (前 出

P

149)

 厂Psychobgy (性理学 )なる字はギ リシ ャの ψ‘κη に し て

英の soul (魂 )な り

こ の魂と名つ くるもの は

およ そ人 身の 上に属 する魂 心

性の二っ な り

こ の 二 っな るもの は皆

つ の もの に して人 身の主 宰た り

その生 活 の上よ り称 する とき は魂と いい

作用の源を心とい い

作 用 有 常の源 を意と いう な り

その魂と い い

心とい い 意 とい う もそのよるところ にした がっ て名を異にするの み に て

っ な る もの なり

 故に

魂と称する字を性理学と訳す る ものな り

」  以上か ら う か が え ること は

や は り サ イコロ ジ

は性 理訳 出され て いる もの の それ と心理学がで あることが

明 白に みて と れ ることであ る

し か も

同 書 中

P

415 に は

以 下の よ う な筆記 記 録 が あ る

Psychology     性 理 魂心性ノ別

iltX

η 生 活 ノ主 魂 作用ノ主 心 作用有常ノ主性 soul 魂 心 理学  こ のと本文の 記 述との相違と して, 本文で は作 用 有 常の源 を

唐 突に「意 」と す る の に対して

む し ろこ の 記 録に あ る「性」のが文脈が 通 る し

本 文の流 れに も あ う

そ う で あ れ ば, 「性理学」と 「心 理学」と を 「百 学 連 環」を講じ てい る時点で は

西は必 ずし も明確に区別 し てはいな かっ た と も思 わ れ る

と はいえ

,一

方で は

そ のも西は

貫して, サ イコ ロ ジ

を性理学と訳 出して いたこと も確実で あ る

そ う す る と

蒸し返しにな る が

あ ら ため て サイコ ロ ジ

と 心 理学のび付き が問題 と な る

 ところ が

た ま た ま手に とっ た 「哲 学 大 辞 書 第

4

巻 」 (同文 館

1911

P

1623

)の 「心 理学 (シ ン リ ガ ク)」項 目の載 内容を みて お ど ろい た

 「心 理 学」の語の由来を求め る と

初めて psychology が 訳出さ れ たの は

西 周の 「致知啓 蒙 」には じま り

そ のり 「性理学 」と訳 出さ れ た

云々 に は じ ま る記 述 内 容は

本 論で以 上に紹 介 した史 実 を追っ て の記 述 と重 な っ て い る の で

い い と し よ う

と ころが

明 治 ll年

例のヘ 精 神 哲 学 」下 り

今 後は

「心 理 学 」を もっ て専 らサ イコ ロ ジ

の訳に当っ る に至れ り」と

断じて い る

これは正 しい のか

 これ まで の疑 問に対して

西の仕 事とは別に

こ の他 に 「心 理 学 」 とい う名 称 が どこかに残されていないだろ うか

調べ 必 要があろ う

こ の点の答えをえ るために は

当 時の教 育 制 度の変 遷 を 追っ て み る必 要が ある

こ れ を

項 を あ らた めて

以 下に試み る

学科 科 目のの 「心 理学」, 教育制度の変遷の 中で  まず簡単に教育 制度史を 追っ て お く こ と に す る (文 部 省

1922

1972

東 京帝 国 大 学 五 十 年 史

1932

東 京 帝 国 大学学術大観  1942 )

1868

年 (明治元年 )

6

月医学所 (西洋 医学 所)

昌平学校   (昌 平坂学 問 所 ) を 復 興

 同年

9

月 開 成所 (洋 学 研 究の主要 機 関 )を復 興

 こ れ らの うち

昌 平学校をもっ て

開成所

医学所を  管 轄す る

1869 年 (明 治 2年 )6月 昌 平 学 校を大 学 校と改

称.

  同年

12

月大学校を大学と改称

 これに と も ない

開 成 所を大 学 南校

医 学 所を大 学 東   校と改称

1870

年 (明 治

3

2

月)大 学 規 則 及び中 小 学 規 則 発 布   (た だ し

実 施には 至 らず)

1871 年 (明 治

4

年 )7月 大 学を廃 し文 部 省を設 置

 これ に より

大 学南校は

南校に

大 学 東 校は

東 校  に改 称

各々 は独立 す る

 さ らに学 制 改 革の た め

両 校を

時 廃 校とする

  同 年

10

月  南 校 再 開

1872

年 (明 治5年 )8月 学 制の公 布

  南 校を

大 学 区 東 京 第

番 中 学

東 校 を 第

大 学   区 医学 校と改称

1873 年 (明 治 6年 )4月 第

大 学 区 東 京 第

as

中学 を 開   成 学 校

人 学 区 医 学 校 を 医学 校と改 称

  学 制二編 追 加

専 門 学 校の規 程を定め る

1874 年 (明 治7年 )5月 開 成 学 校を東 京 開 成 学 校

医 学   校を東 京 医 学 校と改 称

  同年

9

月 学 科 課 程 を規 程

1876

年 (明 治

9

年 )7月学 科 目改正

1877

年 (明 治10年 )4月 東 京 大 学 開 設

  東京 開 成 学 校 及び東 京 医 学 校を合 併して東 京 大 学と命   名

文 (4年 課 程 )

医 (医学 科は 5年 課 程

  製 薬 学 科 は

3

年 課 程 )の 4学 部 制 と した

(6)

1879 年 (明 治 12年 )9月   学 制を廃 止し教 育 令を制 定

1886 年 (明 治 19年 )3月 帝 国 大 学 令 発 布

  東 京 大 学は帝 国 大 学と改称

1897 年 (明 治 30年 )6月   帝 国大学を東 京 帝 国 大 学と改 称

  京 都 帝 国 大 学 開 設に伴 う措 置

 さ て

本 論に もどっ て 「心理学 」とい う科 目の教 育 制 度の中にお ける位 置を探っ て み る ことにする

最 初にも 言 及 し た 「東 京 帝 国 大 学五十 年 史

上 冊 」(

1932

)の記 載 に よ ると

明 治7 年 9 月当時の東 京開 成学校の学 科 課 程 は

次の通 りであ るこ と が わ か るP

 297

301

そ の中 に

心 理 学 並 びに修 身 学に係 わる以 下の よ うな注 目すべ き記 述が ある

  「予 科 課 程     第3年       第二 期       英 語 学 (心 理   論 文 )     本 科 課 程     法 学 年 年   年 年   年 年   ,

二   二 二  

二   り 第 第 学 第 第 学 第 第

よ     化     工     お 中                 な 程                   課 下級  心理学及論 文 中級   修 身学及論文 ド級   心理学及論文 中級  修 身学及論文 下 級    心 理学 中級   修 身学    明 治

9

7

月に は

学 科 目改止に よっ て

本 科        心 理学, 修 身学な ど を予 科 課 程 中に移 す

予科課程第

3

年  第

1

期    理学 (心理学 )      」  以 上の記 載か ら明ら か な ように

注 目すべ きことは

明 治7年 当 時に おい て

「心 理 学 」 とい う科 目名が単 独 に掲げ ら れて いる点で あ る

そ れ は

「修 身 学 」と も明 確 に区 別さ れて いる

そ して

もう

予 科 課 程に記 載 さ れ た

英 語 学 (心理  論 文 )であるが

心 理 学を英 語 で講じ た ということで あ ろ うか

そ れ とも英 語の授 業の 材 料に

心 理関 係の教 材が用い ら れ た

とい うことで あ ろうか

いずれにせよ

心 理 学が講 じ られた とい うこと であ ろ うか

 ことの

面は

以 下に紹 介 するよ うに

そもそ もこ の 東 京 開 成 学 校で は

外 国 教 師によ る外 国 語での講 義 を行 な う正 則 課 程が お か れて い た とい うことに よる

もち ろ ん そ もそ も心理学が

外 国か らもた らされ た学 問で ある とい うことの性 格に よ る ことはまた論 を待たない

 ところで

こ こ に記 載 さ れた科 目の担 当者が だれで あっ た のかは

こ の年 史の記 録に は触 れら れて いない た め

こ こか ら直接 特 定 する ことは で き ない

しか し

当 時 雇 用 された外 国 人 教 師

いわ ゆるお雇い外 国 人 教 師の

覧 表せ て

そ の

て サ イ ル E

W

Syleがい る ことが み て と れる

 で はな ぜ

サイルか とい うと

児 玉 (1987)が

「明 治6 年の東 京 開 成 学 校 (現 在の東 京 大 学の前 身 )の カ リキ ュ ラムに

すで に 「心理学 」とい う名 称が現わ れており

当 時の ア メ リカ人 教 師E

W

 Syle がこ の Haven の原 書 を使用し て 「心理学」の講 義を行な っ た と い う記録があ る

」と書 き記 して い る ことに よ る

  ところが

こ の記 事の掲 載 誌の性 格 上やむ をえない が

遺 憾な こ とに児 玉が 「記録が あ る 」 とい う その記録 がな ん であ るの かの記載と出典が明ら かで な いのでか らないが

以 下に示すよ う に

筆者の入 手し た資料の中 には, これ を確認で き る 記録が み あ た ら ない

も ち ろ ん, 外国人教 師と し てサ イル のが あ ること は, まっ た く正 しい

  し か し

筆 者の 入手し た記 録では

サ イルはア メ リ カ 人で は な く, イ ギ リス人であ るこ と, 担当科目の記録は 心 理学で は なく

修身学であ ること な ど

こ の記 事と食 い違い も見ら れる

で は心 理学の担 当 者はだ れであっ た のか

 こ のにつ て は

こ こ に用 し た児 玉の記事(

1987

) に先 立 っ て行わ れて い る

児 玉自 身の より綿 密な検 証 と

そ れ に基づ く彼 自身の仮 説がき わめて示 唆に富む (児玉

,1982,

P.111−112

こ の中には

先に引 用し た 「記 録が あ る」という言 及が

いか な る出 典によ る記録で あるの かも明 らかで ある

 そ して

「明 治7年

12

月 現 在の開 成 学 校 御 雇 教 師の名 簿を見ると

大 部 分が自然 科 学や英 語の教 師である御 雇 教 師の

修 身 学 教 師 「エ ド ワル ド

W

サイルと いう人 物がい る

こ の サイルが

開 成 学 校で

連の 「心 理学 」の授 業を担 当した の である」 (P

111>

と述べ る

  加えて

サ イル の略歴が記さ れて い る

イギ リス生 ま れで

アメ リカで学び

晩 年は イ ギリス に没し たこと が 分かる

しか し

こ こか らは

彼をア メ リカ人とい うべ きか こ の限りで は必 ず し も明 らかで は ない

  東 京 帝 国 大 学 五 十 年 史(1932)の記 述に よ る と (補 遺

P

 449

並び に

P

714)

以下の通 り である

まず

補 遺 にお ける記 述 を紹 介 する

(7)

西 川;「心 理 学 」

学 名の由 来 と語 源 をめぐっ て 15  「開成 学校

南 校

東京開成 学校は当初正則 及び変 則の 二 課 程を 設 け

正則と は外 国 教 師に就 き外 国 語を 以て教 授を受く る もの の ひなり

」  と い う こ と で

そ の外 国教 師

覧が掲げら れて い る

その中に

  「受持学科  修 身学 雇入年 月 解雇年月 国 名 氏名 明治

7

11

月 明 治

12

4

月 英 国 エ

サ イル

Edward

 

W ,

 

Syle

 とい う記 録の あ ること が分か る

 もっ と も

この

覧 表の どこを捜 して も

[心 理 学 」の 担 当 者で あっ た外 国 人 教 師の名を見 出 すこ とはで きな い

サ イル の 担 当科 目

こ こ に示される よ う に 「修 身 学 」であっ て

「心理学 」で は ない ことに注 意 する必 要が あ る

こ の

さ らに

同書の記 載 内容で あ る

明 治

10

年 東 京 大 学 開 設 (そ れ まで の東 京 開 成 学 校と東京医 学 校を合 併して設 立 )に際 して の

教 員 と

その担 当 科 目を み る と さ らに明 白に な る(

P,

714)

  「教 授    史 学 及 道 義 学  エ ド ワ

ダブ リユ

サ イル       (Edward  W

 Syle)    英 文 学        ウ イ リァ ム

ー・

トン       (William A

 Houghton    心理学 及 英 語   外 山 正

講 師 」 3名   略   明 らかに心 理 学 担 当 者は

外 山 正

となっ て い る

 もち ろん

明 治 10年 以 前

ま たサ イル が雇い入 れ ら れた明 治 7年 11 月 以 降

確 かに明治

7

9

月の学科 課 程に記 載のある心 理 学の担 当 者 が だ れであっ たの か

そ の際に使 用した教科 書がな ん で あっ たのか これ ら は 五 十 年 史で は触 れていない ので不 明である

以上の こ と がらか らい っ て

児 玉の各 研 究 報 告 な らびに記 事 (1982

1985

1987が 重要で ある

 なお

日本 心 理 学 会 編 「

H

本 心 理 学 会 五十 年史 」(第

1980

P

6)に も同 様の記 述がある

ただし

教科 書 につ い て の及はない

 繰 り返 す と

あいにくなこと に

東京帝 国大学五十年 史の中に は

そ の際の教 科 書がなん であっ た かの記載は みあた らない

それが 「ヘ 精神哲学で あ る とい う記 録 を

筆 者は同 書 中に は見いだ しえ ていない

「心理 学 」とい う名 称の由 来を たずね るには

新た な資 料 収 集 と検 証がい る とい わ ざるを え ないが

な お児 玉 (1982

1985)の検 証 報 告は

有 用である

 そこ で

若 干 視 点を変えて

時 代 を遡っ てみた ときに これ まで の論 旨にっ な がる記 録が あるか どうか探っ て み る ことに する

する と

文 部 省 に よ る学 制 五 十 年 史 (

1922

)の中に

検 討を要 する記 載があるこ と が分かっ た

  明 治

3

年 当 時

東 京 開 成 学 校の前 身であっ た 大 学の

大 学 規 則における学 科 リス ト に こう ある

  「学 科   教 科

法 科

理 科

医科

文 科 とあ り

その文 科に は

  紀 伝 学 (歴 史 学 )

文 章 学 (文 学 )

性 理 学 (哲 学 )の   3科 日が あげら れ て い る

 なお

カ ッ コ 内は

文 部 省 学 制 百 年 史 (1972)に よ る記 述に基づく

ま た

ア ンダ

ラ イン は

筆 者に よ る

 こ の 「性理学」は カ ッ コ 内の通り なの か, あ るいは 「ヘ ブン の精 神 哲 学」と 関連 性 を有してい るの か, さ ら に は 西   周との関連は

とあ らためて疑 問が わ く

 さらに

っ加え る と

すで に簡 単に紹介しておいた教 育 制 度の変 遷ので, 外 国教 師に よ る外 国語で の教 育を 目指 し設 置さ れ た中学 (明治 5 年 10 月

外 国人教 師が 教授す る中学教則によ る

これ が大学南校を改 称し た第

学 区東京第

番 中学

そ のす ぐ 明 治

6

4

月に は 開成学 校

明治

7

5

年東 京開 成学校と改称 )で用い ら れ た教 科書のが列 挙さ れて い る (

P.

 

51

 その 上 等中 学で 用い た教 科 書 リス ト の 中に

「ヘ

ブン氏 修 身 学」 とい う注 目すべ き記 述が ある

 これ が, 問題の 「ヘ ブン の精 神 哲 学 」を さすの か

そ の担 当者は誰なの か, これ だけの記 述で は あい に くなこ とに まっ た く不 明である

 た だ し

サ イル の担 当 科 目が 「修 身 学 」であ る とい う さ きの記録か ら判断する と

こ の ヘ ンの教科書を用い た

可能性がで て く る

そ れ が

問 題の 「精 神哲学」その ものを指 すの か が

これ だけで は不 明で あるの は残 念で あ る

と いっ て

サ イル が雇わ れ たの は

明 治

7

11

月 以降で あ ること を含んでお か な け れ ば な ら ない

  以上の ように教 育 制 度 史を遡

てその発 端 近 くまで き て

「心理学」とい う学 名の由来と その語 源を め ぐる論 点 は

あ ら た めて 明治 5 年以の状況が題になるもの と い え よう

 も う

度西 周に も ど る必 要が あ る ようであ る

 といっ て

すで に指摘し た論 点や疑問 点

ある い は資 料 (史 料 )の に存 在 する さ ま ざ ま な食い違いを解 消 す る と い う論 点が, なくなっ た わけで は決してない

これ

(8)

は相変わ らず検証 が待た れ る課 題と して

 こ こ にあ ら ため て

西   周に係わ る資 料を補 足 追 加し て, 以上で提起さ れ た論点や疑問点の解 消を試み ること にす る

結論を先に示す と

や は り論点の解消と はほど 遠い といざ る を え ない結 果で ある

 も う

度, 大久 保(

1981

)の解 説(

P.600

>に も ど る が, そこ に以下のり が あ る

 「永見 裕の 履 歴

 明治

3

10

月より西 周私塾育英舎に於いて 「イン サ イクロ ヘ ジ ア

史学地理学文章学数 学心 理学 神理学哲学 格物学等の諸 学 科を研究し, 同4 年

9

月その 稿

10

冊を編 纂して百 学 連 環と称し, 之を藩庁へ 差し出 す」 と あ るの は も ちろん全文そのま ま受け取れ ないが

      略       」   こ の記 録が 正確であ る とする と, こ こ にすで に 「心理 学」の名 称が あ が っ て い る ことになる

こ の語源は

サ イコ ロ ジ

といえ るのだろ うか

明 らかに

西は

貫 し て

サ イコ 1コ ジ

に対 して 「性 理 学 」 を あて て い る

ま た

すで に指 摘 した ように

「魂

性 」は いずれ も同 義で あっ た

サイコ ロ ジ

と心 理 学の結 び付 きにっ い て は

時 代 を 遡っ て も相 変 わ らず 謎のま まであ る

  ことは混 迷の度 合いを深めて い る

今 後の新た な検 証 が 欠 かせ ない

  ところで

当の育 英 舎は

明 治6年 頃に は自然 解 消し た よ うであるが

そ の後は心 理 学の講 義 を して い た よ う にも思 う

との相 沢 (相 沢 英 次 郎 )の さらなる言 葉 もあ る (大 久 保

前 出

P

600)

  さて

や や脇 道にはい る が最 後に

当の西の人とな り や当時の生 活ぶ り

交 遊 関係 な どを 知る貴 重 な 記 録 と し て

以 下の よ うな 逸話が残さ れて い るの で紹 介する (森 銑三編  1965 明治 人 物 逸 話 辞 典

下 巻

P

187

東 京 堂 出版)

これ は, 相沢 英次郎の 「西 周男と鵬外博士 ⊥ 『心の 花 』大 正

15

6

月号 所 載 を 引 用 採 録 した もので あ る

 この逸話を語っ た相沢英 次郎は 西 周と は 伯父と 甥の関 係に あり

こ こ に記 載さ れ る よ うに

家 庭の事 情 か らこの 時, 西家に寄寓 して いた

 な お, 西 周の家系に若干 触れ る と, 父西  時義は, 森  周庵 (森 家第

10

代)の

子であ る が

西 家の 養子に なっ た

.一

森 家第

11

代 を継いだの は

佐々田家か ら 迎え た養子で あ る

こ の孫に当た るのが

森 林太郎 後の軍医総監

文 豪

森 鴎外で あ る

し た がっ て

西 周は鵬 外にと

年 長の親 戚に当た る

ま た

この 沢が

西 周 宅に寄 寓して いた と き

同じくこ の森 林 太郎も寄寓して い たこと も

記録に残さ れて いる

 「私 く相沢英 次郎〉は

明治

4

年す な わ ち

10

歳のか ら

8

年まで

足 掛 け5年 間 西 家に寄 寓し た

そ れで明治

4

年に, コ ンデンス ミル ク も, ビ スケッ トも味わっ た

 西洋料理 を見たのは 5 年で

周男が津田真道

加 藤弘 之

福沢 諭 吉 ・福

な どを招 き

神田 三河 町の 三河 屋か ら材料を取 り寄せ, 料理人を呼ん で

馳走せ ら れ たのであ る

その 5 年には

西家で は玄 関を改めて

西洋間の 応 接室 と し た

その玄 関

も と 大名屋敷の玄関で, 宏大な もの であっ たのに, 男の考案 で床に絨毯を敷き

,一

室の壁襖を朱唐紙

次ぎの

室 を 青唐 紙で貼 りっ め 明 りをガ ラス に し, 中 央に籐椅 子

ブル を置か れ たの であっ た

  男は

教育して

ん だ考え か ら

次 男の勃平君 に単 語を教え るの にカ

ドを用いた

その カ

ドのに 漢 字で君, 裏に は クン

キ ミ

ダンナ サマ と書き, 表の 臣の字に は

シ ン

オ ミ

ケ ラ イと書い てある

そ う し た囗調のよい文 句 を添え た ものだ

  男 は 明 治

5,6

年 頃

育 英 会 会 生その他の人々の た め に

理学

心 理学

万国公法

面学連環な どの講 義を せ られた が

今日 か ら思えば

実に進ん だ ものだっ た

明 治7年に は 『致 知 啓 蒙 』と題 す る論 理 学の書 物 を刊 行 せ ら れ た

そ の部 数わずかに百 部で

そ の内の十 数 部を 懇 意な人々 に分 か ち

残 りは瑞 穂 屋 卯三郎の店で売 らせ た が

売れ たの は十 何 部かで

瑞 穂 屋 も持てあ ま して い た

ところ が明 治 15

6年に

菊 地 大 麓 先 生が 『論理説 約 』 とい う名の教 科 書 を 作 られ たの に

「致 知啓 蒙 』は参 考 書になるとい うことで

残 本がにわかに売れて しまっ た

なお

欲 し い とい う人が多い の で

再 版を して

そ の時 版 木は瑞 穂 屋へ 無 料

論 理 学 を 初 て 日本の学 界に紹 介せ られた男の功 績は滅せ ぬ であろ う

 心理学も

男に よって広まっ たとい っ てよ く

心 理 学 の 学 語の ごと き も

多 く男の考 案によっ て作 られ たの で あ る

」  こ の 中で

と くに本 論の主 題である 「心 理 学 」へ の 言 及 が 目 を引く が (ア ンダ

ラ インは筆 者に よ る)

「性理 ノ」との関連にっ いての言 及はない

 ま た

育英舎での 講義学科に百学連 環と併 記 して

心 理学の名 も み え る が

先の記 録 と重 な る 内容であ る もの の

そ れ と サ イコ ロ ジ

との関連性は や は り不明の ま ま で あ る

  結 局の ところ 心 理学とい う学 名の由来と その語 源 をめ ぐる な ぞの大部分は

未解決のま まで あ り, 今後の

層 の資料 収集と検証 研究課 題と して残さ れ た

(9)

西川 :「心 理学 」

学 名の由来と語 源を めぐっ て 17 結       論

 

以上の資料や記 録に基づ く検 証 を 基 , あ えて

っ の 結 論め い たこと を導き出 すとすると

西 周の講義 「百 学 連 環 」の記 録 内容にある とい え ない だ ろ う か

  よ う す る に, 性理学とい い

心 理 学とい うの は

前 者 が必 ずし も サ イコ ロ ジ

に固 定 されるもの で も な く

ま た後 者 が

メ ン タル

フ ィ ロ ソ フ

に固有の 名 称とい うので は ないの で は ないだ ろうか

西の い う, 「魂 心

性」の区分は用 法の差であっ て

基本的に は同 義で ある とい う記述が手 掛かりと な ろ う

その限 りで は

心 理学と理学は同 義 語 とい え るの で は な い だ ろ うか

ひ ょっ と して

訳 出 過 程で さま ざま な試行錯誤が あっ て もお か し く ない し

訳 語が い くっ に も な

て もお か しく な い

さ らに これは

日本 語に お け る混 乱とい うより

もと も と も語 源と なる外 国 語が さ ま ざ ま なバ

シ ョ ンを もっ て い たこ とに よ るの で は ないだろ う か

っ ま り

サイコ ロ

ー,

メ ンタル

フ ィ ロ ソ フィ

ー,

メ ンタ ル

サ イエ ン スなどなど

概 念規定と用 語 規 定が大き く 揺らい でい たことの反 映と も み え るのであ る

 す る と

さりげなく記 述して あ る もの の よく読 む と

驚か さ れ る内 容 となっ て いる

先の 「哲学 大 辞 書 第四 巻 」 中の 「心 理学 」 項の説 明も

あ な が ち否 定で きない か も し れ ない

ただ し

記載内 容に係わ る史 実につ いて は, 本論で検 証し たよ うにだいぶ訂正がい る

 

と も あ れ

奚 般 氏 著 西 周 訳 心 理学 (明治 ll 年, 文 部 省 印 行 )以降を もっ て 『「心 理 学 」を もっ て専ら「サ イコ ロ

の訳に当て る』よ うになっ た

と い うこ と で あろ う か

 少なく と も

筆 者は

以上の ような各 種の資 料 をも と に し た検 証 並 びに

以 下にう補 遺

L2

ともど も

っ の仮 説に至る

 

「性 理学 」並 びに「心理学」はt サイコ ロ ジ

の同義語

同意語として訳 出さ れ た

 

し か し

西 自身は

多くの場 合

貫 して 「性理学」を 用い て いること は, 記録に示さ れる通 りである

.一

西に とっ て

百 学 連 環において諸 科 学の分 類 体 系化 を みる過 程で

「物理上学」と対 比して 「心理上学」とい 名 称 を 与 えてい る こ と か ら分かるように

心 理学を

そ れ自身 を 含 むよ り広い人 間 科 学とい う意 味で

そ れ を想 定して い た 可能性 も 残 る

そ の上

西と は東 京 開 成 学 校や東 京 大学に お か れ た学 科 目名 がその理由で あ る とも考えられ る

で はそ うと定めた の は誰で

どの よ う な経 緯があっ ての こ と なのか

 

や は り

論 旨は ど う どうめ ぐ りの感 も強い

た な資 料 収 集 と検 証研究が欠か せ ない

補 遺 1

 

「心 理 学」 と い う学 科 課 程

学 科 目の教 育 制 度史のの 位 置 付けな ら びに教 育 制 度の変 遷 (東京帝国 大 学五十 年 史

上冊, 1932)

1877 年 (明 治

10

圷4月 ) 東 京 大学の

 

東京開成学 校及び東 京 医 学 校 を合 併 して, 東 京大 学と

 

命 名し た

東京 開 成 学 校 は

徳 川 時 代の蕃書調 所

 

洋 書調 所 ・開 成 所

大 学 南

南校

大 学 区 第

番中学と なり

明治

6

年 開 成 学 校

さ らに明治 7年に 東京 開成学校と改称 さ れ た

東 京 医 学校は同じく徳 川 時代 に創 設さ れ た西 洋 医学 所が 大 学東校

東 校

大 学 区 医 学 校と な り

7

さ ら に 東 京 医 学 校 と 改称さ れ た

東 京 大 学と な るに及 び

これ を法

文 (

4

年 課 程 )

医 (医学科は5 年課 程

製 薬 学 科は3 年 課 程 )の 4学 部け た

文学 部の構 成 第

1

 

史 学

哲 学

政 治 学 科

これは南 校 以来の伝 統に したがっ た もの

2

科 和 漢 文 学 科

明 治 10年 当 時の教授 学料と して は

以 下の ものがあ げ られる

哲学の中に

西 洋 哲 学

西 洋哲 学史

心 理学

論理 学 が あっ た

明 治 10年

東京大学文学 部 開 設に当たっ て の教員 構 成 (

P.

714

715)

教 授は以 下の 3 名で, その 担 当 科 目 も以 下の通 り

史 学 及 び 道義学  エ

ブ リ

ー ・

サ イ       (

Edward

 

W .

 

Syle

英 文 学        ウ ィ リア ム

ー ・

トン             (

William

 

A .

 

Houghton

心 理 学 及 び英 語 外山正

講 師と し て 漢 文

2

名 (中 村 正 直

信 夫

 

粲) , と 和 文 学の 1名 (横 山由清 )であっ た

なお

こ の外 山正

すで に前 身の東 京開 成 学校で 教授職にあっ た記録が以 下のように残さ れ て い る ( 国 大 学 五 十年 史, 上 冊,

P.

352)

「東 京 開 成学校教員リ ス ト 明 治 8 年 5 月 14 日

教 官の名 称 変 更

その記 録の中 に以 下が あ る

4等 教 授  外山正

(1

2, 3 等教授も あ る が

当 時 該 当者な し)」 また

サ イル

E.W .

 

Syle

)に関 する記 録 を補っ てお く (補 遺

P

449

開成学校

南校・東 京 開 成 学 校

当初正 則 及

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