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近世禅宗寺院本堂の研究(そのI) : 恵日寺本堂

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Academic year: 2021

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近 世 禅 宗 寺 院 本 堂 の 研 究 ( そ の

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STUDY OF MAIN HALL IN ZEN SECT

IN EDO PERIOD (PART

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恵日寺本堂 西島町下山 4902 創立沿革 乙の寺の現本堂は

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世記後半項の建立と推定出来る。 創立についての記録は,日本同上聯燈録巻第四(曹洞宗 全書:史伝)尾州主興寺天先祖命禅師の条 lこ 文安甲子陸ニ祖父江氏之請ー開ニ慧日寺一為ニ第一世ー。 了卯春留ニ鐙翁一住二持慧日一。回二雲興寺四庵養老。 とあり文安元年(1444) I乙当る。また I慧日嗣堂過去 霊会日鑑JIこは建立のことを記して 当寺建立明応九庚申 (1500) 十月七日¥}柱同十年六月 下旬尽造畢 宝暦拾四用申迄二百六十五年 と記されてある。また 尾州中嶋郡覚書i脹,

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寛文村々 覚書

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Iこは 一 , 衛 宗 下 津 村 正 限 寺 未 寺 霊 島 山 恵 日 寺 , 寺 内 二 反 ー 畝 二 十 八 歩 備 前 検 徐 とあって 寛文項には既に寺の存在したことを知る。 尾張筒行記 lこは 此#ノ ¥1}く享年中iFHb1寺三代天先和尚草創ニテ問蓋ハ当 村先城主祖父

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会五郎-Lエ門ナリ享保年中正限二子廿七代 {ri位和尚法地再興ス此寺昔時ハ今所ヨリ二町ホド東南

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ニアリシガソ亡文二以年

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今ノ地へ

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移セリ ノk字年中(l429~1440) は先の文安元年(1444) よりわ ずか先になるが,ほず同時期である。父,現章一の来迎l笠裏 lこは,

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明和二乙酉九月望日(l765)Jの明書があるが, 来迎れが出来たのはその木引の絵様から見ても,建立時 の絵様より多少下ると忠われるので,現:羊の建 Ú~ は明和 より朔り,絵様様式から推して181世紀前米項と思われる。 尚中奥の腐と中の間との境にある獅子が描かれた板欄間 の裏の墨書 l乙 当邑隣巴有縁之依法謝新造 宝暦拾弐壬午{中春望日, 霊 島 山 慧 日 禅 寺 現 住 俊 巌 代 化 僧 寓 崖 俊 橋 とあり,先の来迎柱と前後して新造されている。 J主!慎,梢造と復!尽 桁行実長6間半,梁間実長5間,寄棟造桟瓦葺の前 に見付t夫長 2間半のi白]拝をつけた常て、あるが(写U 1), rEslU3 而 l こ付された半間の桜は後世その付加で,元は~:~を

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、ず,1王而中央部分(実長 31m) と lよ K* の~:,下段!の 写真l 全 景 写真2 来迎柱l二部 写 真3 脇仏壇牲に筏る痕跡

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中十 清 野 岡 ー ド 奥

仏 壇

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-恵日寺本堂現状平面図

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、 図2 恵日寺本堂復原平面図 図1 円 川 川

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近世禅宗寺院本堂の研究(その

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両側

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而を除き,中敷

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討を入れて,その下を下見阪 として, [1'(接外へは出入出来ない方式をとり,向拝もなか った乙とが~},j紅の縁下の風蝕や向押部の材や絵様によっ てわかる

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拝れは全くの新材で,虹梁,木鼻はある がご卜供はなく,態をなしてはL、ない。 来迎十

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は中奥の聞の簡素な悼縁天井の梓l乙後の仕事ら しく取り付けられ,円柱上部tc綜付,

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目,木

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,台輪, 出三斗斗供実肘木っきで,中備に墓股人りの型の如きも のであるが,天井と比べて木肌が新しし絵様の援式か らしでも,明和の補造と考えられる。(写真2)その際,

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の協仏出通りの中央闘が仏壇となっていたのを, 後慨を抜き,今は背面l乙新設された位牌堂IC通じている。 背面壁の貫跡及び仏壇の前十匡仕口跡があり(写真

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, 上部虹梁の絵様は中奥間前面中央のものと全く同じであ り,元は乙の取外された仏瞳が中央にあり,後門はなか った乙とが知られるので,現来迎壁にある「明和二乙酉 九月望日」の墨書通り,来迎柱及び現須弥壇はこの時の 後補と考えてよい。 写真4 広 縁 写真

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中の間より中奥の聞をみる 写真6 正面の左脇窓ド見,縁側は後補 写真7 ドの聞から中の間をみる 写真8 西 側 面 写真

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上奥東側,床と押入 尚下奥の聞の西側面2聞は現在片袖づ│込丙になってい るが,鴨居溝が3本あると乙ろからfCは声 2本内障子 1本 の声締りであったし, 上奥の聞の背面も同様な旧形式を

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采っていた乙とがわかる。災現「正は2本溝の敷帆居とな っている中!央

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と上奥の問境の奥 l聞は壁が取付いてい た釘跡があると乙ろから,床の対面として落付きを求め て仕切ったものであろう。 復原すると以上のようであるが,本悟:は前

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一間を lぶ 桜とし,中の間は問 ~l 2 間半,上下聞は問~1

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2問,前 後室とも梁

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2聞の 6主で構JIえきれ,禅宗の

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l形式 をよく友わしており(凶2),その手法も中の間や,中奥 聞の中央聞の内法を高くして(写真

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前者では単なる 角材を,後者では虹梁を入れ(写真5),仏壇の前lこ虹泌 を入れる他は全て面取角柱に敷鴨居を入れ,内法長押を

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岡 野 通して,内法上を墜とする簡素な形式をとっている。 古式な一般的な禅宗方丈と異なる点を挙げれば, ~fí式な 万丈では広縁外を全て開放し,柱間隔を広くとって巨大 な桁を通すのであるが,乙乙では広縁外側正面中央

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間 半 lζ巨大な差鴨居を内法を高めて通し(写真 4) 3本溝 の敷居鴨居 lとしていて,元来戸 4,障子 2で戸締りし, 出入口として,その外 l乙木階を設けたものと思われる。 又広縁の両妻は一方は庫裡への渡廊下として引違い戸を 入れ,他方も出入口として,3本滞の敷鴨居 K)'ヨ2障子 1 を入れて戸締りし,地盤との聞に木階を設けたであろう。 しかし正面の両脇では 1閥毎に柱を立て,中敷居 l乙差甲鳥 居を入れ,中敷居下は下見張板にして閉鎖している(写 真6)。従って広縁の開放的な万丈では中の間正面中央間 に扉をつけて戸締りするのが一般的であるが,本堂では そ乙を開放のままとし3 上下問の正面も2間持ちはなし にして障子を4枚建てにする(写真 4)。 上,中,下の3室の境では鴨居を釣束で釣って,内法 長押を通し,上に竹の節を飾るが,釣束を用いたため, 上部天井下IC狭L、小曜を入れて, 3室を通じて天井を通 さない(写真7)。大仙院ゐヌ;などは, ここを小l慢で区切 っており,それより少し新しい万丈では乙の部分K釣束 を用いないで,天井を3室 1つに通している。 上の聞の東側面2問のうち,手前1聞は敷鴨居が2本 清 j薄になっていて,波廊下 l乙援した室IC通じていたのであ ろうが(現在はその部分が改造されている),その!処の l 聞は3本溝になっているので,外に縁を設け,戸 2障子 1 で戸締りしたと見られる(図2)。下の聞の側面は中鴨居 を入れて,その下を下見張りとし, 3本溝にして戸 2, 障子1で声締りしていたととが知られる(写真8) 中奥の聞の前面は中央聞には内法を高めて虹梁を入れ 面脇では敷鴨居 l乙内法長押を入れて各上部IC板欄間を入 れているが(写真5),元は中央聞に筏欄聞のようなも のを入れ,両脇を墜にしていたかと思われる。 上奥の側I自1には浅いlポと浅い押入れを設け(写真 9),背

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は1間fu=1これを

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てて3本溝で丙

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i締りを したので,外 lζは元々縁があった。 結 び この本堂のように周囲の大部分に中敷居を入れて,閉 鎖的にした例は先号にあげた寛永年間創立の尾張旭市の 良福寺本堂にも見られたものであるが,本堂では来迎壁 がなかったのにかかわらず,仏壇を背面の下屋 l乙出して, 中奥の仏壇前を広くとっている点が特異である。古い形 式では仏壇を一間前に出して,その背後に眠蔵を設けた のであるが,乙ζでは眠蔵を造らなかったので,仏壇前 を広くして,中の室で営tJ法事を中奥 lζ持ち乙んだもの と考えられる。

参照

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