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シュプランガー. : その生涯

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(1)

No.41  pp.21-51,  1991

シ ュ プ ラ ン ガ ー.そ

の 生 涯

村  田

EDUARD 

SPRANGER. 

Sein  Leben

Noboru  MURATA

  エ ド ゥ ア ル ト ・シ ュ プ ラ ン ガ ー(Eduard

Spranger,1882-1963)は

、 ドイ ツ精 神 史 、 と

りわ け ゲ ー テ 時 代 の偉 大 な る思 想 家 の 解釈 者 と

して 高 名 で あ る。彼 の フ ンボ ル ト、 ゲ ー テ 、 シ

ラー 、 ヘ ル ダー リ ン、フ リー ド リ ッヒ大王 、ペ

ス タロ ッチ ー 、 フ レーベ ル ら に関 す る諸 研 究 は 、

今 な お 、最 高 峰 を誇 る もので あ る。精 神 科 学 的

心 理 学 と文 化 哲 学 の創 設 に寄 与 した功 績 も大 き

い。 そ う して 「人 間 とは、 本 来 、何 か 、 ま た、

何 で あ るべ きか 、人 間 は人 間 と して いか に生 き

るべ きか 」 につ い て厳 し く問 い か け、 この 人 間

の 本 質 な ら び に使 命 に関 す るあ くな き探 究 は、

人 間陶 冶 の 問 題 、つ ま り教 育学 の 問題 に帰 着 す

る。 文 化 教 育 学(Kulturpadagogik)と

い え ば

た だ ち にシ ュ プ ラ ンガ ーの 名 が冠 され るほ ど、

そ の創 建 に 努 め たの で あ る。

  しか し、 シ ュ プ ラ ン ガー は単 な る講 壇 哲学 者

な い しは講 壇 教 育 学 者 で は な か った 。彼 はつ ね

に現 実 に鋭 い 眼 を向 け、 そ こ に存 す る諸 問題 を

本 質 的 に究 明 し続 け る と と もに、 時 代 に対 して

警 鐘 を打 ち 鳴 ら した の で あ る。 彼 はい っ て い る。

「私 が 若 い と き に描 い て い た 人 生 設 計 は、 学 者

と して の 生 活 を営 み 、 同時 に、 ドイ ツ の全 体 的

立 場 に形 成 的 な 影響 を及 ぼす こ とで あ っ た。 後

に な って 私 の 世代 の運 命 か ら、 私 は他 の ドイ ツ

の 教 授 た ち よ り も強 く、 政 治 的 連 関 に巻 き込 ま

れ る結 果 と な っ た 」

①と。 彼 の 全 思 想 は、 ま さ

に祖 国 の 運 命 との対 決 か ら生 み 出 さ れた とい っ

て も、過 言 で は なか ろ う。 した が って 、 彼 の思

想 の考 察 は、 そ の 生 涯 との 関 わ りに お い て な さ

れ る必 要 が あ る と考 え る。

  本 論 は、 これ まで に入 手 しえ た文 献 に よ って 、

シ ュプ ラ ン ガー の 全生 涯 を五 期 に分 け、 そ れ ぞ

れ につ い て 時 代 や社 会 との 関 連 にお い て 考 察 し

よ うとす る もの で あ る。 そ こで は、 特 に教 育学

思 想 との 関 連 が考 慮 さ れ る筈 で あ る。

1.第 一 期(1900-1920)プ ロ イ セ ン 精 神 に 培   わ れ て ・   エ ド ゥ ア ル ト ・シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、1882年6 月27日 に 、 ベ ル リ ン 市 中 南 端 グ ロ ー ス ・ リ ヒ ・ タ ー フ ェ ル デ に 、 フ ラ ン ツ ・シ ュ プ ラ ン ガ ー (Franz  Spranger,1839.7.15-1922.6.4)の ひ と り息 子 と して 生 を享 け た 。 父 は ベ ル リ ン の 中 心 街 で あ り、 ベ ル リ ン大 学 及 び 王 宮 の 近 隣 、 ブ リ ー ド リ ッ ヒ ・シ ュ トラ ッセ79番 地 で 大 き玩 具 店 を 経 営 して い た 。 ち な み に そ の 祖 先 は 、18世 紀 以 来 、 ベ ル リ ン市 で 手 工 業 や 音 楽 並 び に 美 術 関 係 の 製 本 業 を営 ん で い た 。 母 ヘ ン リ ー テ ・シ ュ プ ラ ン ガ ー(Henriete  Spranger,1847 .5.12-1909.5.9)は 、 ア ル テ ナ 区 ノ イ エ ミ ュ ー レ の 水 車 業 者 の 娘 で あ る 。 シ ェ ー ネ ンベ ッ ク に 生 ま れ 、 ウ ェ ス トフ ァ ー レ ン か らベ ル リ ン に 移 住 し て 来 た ①。   エ ド ゥ ア ル トは16歳 まで こ の グ ロ ー ス ・リ ヒ タ ー フ ェ ル デ で 過 ご し た の で あ る が 、 彼 は 晩 年 に 幼 少 期 を 感 慨 深 く 回 顧 して 、 想 像 を駆 り立 て

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22

村 田 昇

る 店 の 玩 具 、 商 品 の 荷 、 芸 術 的 な ベ ル リ ン の 街 、 マ ル ク ・ブ ラ ン デ ン ブ ル ク の 風 景 、 馬 車:に乗 っ た ヴ ィ ル ヘ ル ム 一 世 と ア ウ グ ス タ 皇 后 、 ビ ス マ ル ク 、 近 衛 兵 の パ レ ー ド、 老 皇 帝 の 死 去 と ブ リ ー ド リ ッ ヒ 新 皇 帝 の 相 続 、 産 業 ・技 術 に よ る 急 激 な 変 化 な ど の 思 い 出 と と も に 、 「私 は 古 く さ い 義 務 の 履 行 とい う プ ロ イ セ ン精 神 に よ っ て 教 育 さ れ た 」 と述 べ て い る②。   一 地 方 都 市 に す ぎ な か っ た ベ ル リ ン が 国 際 都 市 に 大 き く発 展 し て い っ た の は 、1896年 に 、 ト レ ップ 公 園 で 産 業 博 覧 会 が 開 催 さ れ て か ら で あ る と い わ れ て い る 。 し か し他 方 、 ド イ ツ 帝 国 の 成 立 を 達 成 さ せ ドイ ツ皇 帝 に 即 位 した ヴ ィ ル ヘ

ル ム 一 世(Friedrich  Ludwig  Wilhelm,1797-1888)が1888年3月9日 に91歳 で 死 去 し、 皇 位 を 継 い だ フ リ ー ド リ ッ ヒ 三 世(Friedrich[[[, 1731-88)は す で に57歳 に な っ て お り 、 しか も 病 弱 で あ っ た 。 即 位 後 わ ず か99日 で 世 を 去 り、 そ の 長 子 ヴ ィ ル ヘ ル ム 二 世(F.W.V.A. Wilhelm,1859-1941)が29歳 の 若 さ を も っ て 第 三 代 ドイ ツ 皇 帝 の 座 に 就 く。 しか し 、 彼 は 血 気 盛 ん で 思 い 付 き も 豊 か で あ っ た と は い え 、 そ れ ま で 宰 相 ビ ス マ ル ク(Otto  von Bismark, 1815-98)が 演 じ て き た 役 割 を す べ て 自 分 で 引 き受 け よ う と し、 こ と ご と く に 対 立 し、1890年 3月20日 、 つ い に ビ ス マ ル ク は 退 陣 す る 。 内 政 、 外 政 と も に 、 若 い 皇 帝 に は 荷 が 重 す ぎ も し た ③。 一 つ の 時 代 の 終 わ りで あ っ た と い え よ う 。   シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、 こ の 頃 、 ドロ ー テ ン シ ュ テ ッ ト実 科 ギ ム ナ ジ ウ ム の 準 備 学 校 へ 入 学 し た が 、94年 、12歳 の 時 、 恩 師 ボ ル ハ ル ト (Siegfried Borchardt,1851-1939)の 助 言 に よ っ て 、 グ ラ ウ エ ン ・ク ロ ー ス タ ー ・ギ ム ナ ジ ウ ム の 上 級 部 に 転 校 した 。 シ ュ プ ラ ン ガ ー は こ の 師 を い つ い つ ま で も敬 慕 し 、 書 簡 を 交 わ し、 自 宅 を 訪 問 して い る 。 そ う し て 、 こ の 「ユ ダ ヤ 人 教 師 は 、1939年 の 悲 惨 な死 に 至 る ま で 、 私 の 進 路 を 見 守 っ て くれ た 」④ と い う の で あ る 。   グ ラ ウ エ ン ・ク ロ ー ス タ ー ・ギ ム ナ ジ ウ ム は 、 当 時 で す で に320年 の 歴 史 を もつ 名 門 校 で あ り 、 ビ ス マ ル ク'も こ の 上 級 部 で 学 ん で い る 。 そ の 校 風 は 独 自 の も の で あ り 、 午 前 中 に 出 席 し て 、 規 定 さ れ た 要 件 を 一 挙 に 片 付 け 、 午 後 に は 課 業 は な く、 だ れ も が 自 分 の 好 き な こ と に 関 わ っ た 。

生 徒 の 個 人 的 な事 柄 につ い て 問 題 に され る こ と

は ま った くな く、 精神 的 な苦 痛 もほ とん ど感 じ

る こ と な く、 きわ め で 快適 な学 校 生 活 を過 ごす

こ とが で きた の で あ る。

  とこ ろで シ ュ プ ラ ン ガー は 、8歳 頃か らピ ア

ノ と作 曲 を学 んで い た 。 す で に12歳 の と きに は、

ピア ノの技 巧 に も秀 で 、 か な りの作 品 を も試 み

て い た 。彼 は芸 術 的世 界 観 と現 実 の生 活 理 想 と

の 矛 盾 に 苦 しみ なが ら、14歳 頃 には音 楽 家 を志

す の で あ る が 、多 くの 人 た ちの 諌 め に よ って こ

れ を断 念 し、 哲学 の道 に進 んで い く。 彼 は晩 年

に語 って い る。 「(音楽 家 に な る とい う)思 春 期

の願 望 を、 私 は、 芸術 的世 界 観 と 同様 に、厳 し

く突 き離 さ ざ る をえ な か った。 今 日な お 、そ の

こ とが 私 の 脳 裏 に刻 み 込 まれ て い る。 ・

… ・

フ ィ

ヒテ の直 接 の 後 裔 で あ った 人 の 堅信 礼 準 備 授 業

と英語 の時 間が 、 私 の 哲 学 へ の 愛着 を抱 かせ た。

私 の うち に教 育 学 的 情 熱 が 目覚 め た の は 、寡 黙

な 思 春期 の戦 い と自己 の 学 校 生 活 か らで あ る と

思 って い る 。 とい うの は、 人 間 を陶 冶 す る こ と

が 、 い つ も私 自身 の情 熱 とな って い た し、 また 、

哲 学 と は、 と りわ け私 に とって も、 自己 形 成 す

る人 格 と世 界 との対 決 を意 味 す る もの なの で あ

る か ら」

④と。

  1897年3月16日(15歳)、

家 族 が 所 属 す るベ

ル リ ンの プ ロ テ ス タ ン ト教 会 「ノ イエ ・キ ル

へ 」 で 、 敬 慕 す る キ ム ル ス(Kirmus)牧

師 の

も とで 堅信 礼 を受 け た。 なお 一 家 は 、復 活 祭 の ・

日、 ベ ル リ ン市 東 北 部 の シ ャ ロ ッテ ンブ ル ク街

(カ ン ト ・シ ュ トラ ッセ140)へ

転 居 した 。

      〔注 〕

①E.Spranger:Gesammelte  Schriften.  Bd.  W.  Brie-  feBrie- 1901-1963.978.Brie-  S.409.

②E.Spranger:Ein  Professorenleben  im 

20. Jahrhun-  dert,20. Jahrhun-  In:Gesammelte20. Jahrhun-  Schriften.  Bd.8.1973。  S.343.

  E.Spranger:Bilder  aus  meinem  Leben.1960.  S.25. ③ 成 瀬 治 ・黒 川 康 ・伊 東 孝 之 「 ド イ ツ 現 代 史 」 山 川

  出 版.1987.P.144.

④E.Spranger=Ein  Professorenleben  im 

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∬.第 二 期(1900-1920)  修 学 と基 盤 の 確 立

1.パ

ウル ゼ ン とデ ィル タ イ に師 事

  シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、1900年(18歳)の 復 活 祭 の 日 に 、 ベ ル リ ン 大 学(die Friedrich Wilchelms-Universitat)に 入 学 す る 。 ベ ル リ ン 大 学 は 、 周 知 の よ う に 、 ヴ ィ ル ヘ ル ム 三 世 の 下 で 、1810年 に 、 フ ン ボ ル ト(Wilhelm  von Humboldt.1767-1835)の 理 念 に 基 づ い て 創 設 さ れ た 。 フ ィ ヒ テ (1.G. Fichte,1762-1814)、 シ ュ ラ イ エ ル マ ッ ハ ー(F .D.  E. Sch!eiermacher,1768-1834)の 尽 力 に よ っ て 、 学 問 の 自 由 を 理 念 と し、 諸 学 の 統 一 を 求 め 、 哲 学 部 を 筆 頭 学 部 と す る 近 代 大 学 の 典 型 と して 発 展 し、1900年 当 時 に は 、 い ず れ の 学 部 に も 錚 錚 た る教 授 が 活 躍 し、 世 界 の 学 会 を 風 靡 して い た 。   と り わ け 哲 学 部 に は 、 哲 学 の デ ィ ル タ イ (Wilhelm  Dilthey,1833-1911)、 パ ウ ル ゼ ン (Friedrich Paulsen,1846-1908)、 文 学 史 の シ ュ ミ ッ ト(Erich  Schmidt,1853-1913)、 歴 史 学 の ヒ ン ツ ェ(Otto  Hintze,1861-1940)、 経 済 学 の シ ュ モ ラ ー(Gustav  von Schmoller,1838-1917) と ウ ァ ー グ ナ ー(Adolf  Heinrich Wagner,1835-1917)ら が い て 、 彼 ら の 名 声 は き わ め て 高 か っ た 。 シ ュ プ ラ ン ガ ー は こ れ ら の 教 授 た ち の 講 義 と 演 習 に 出 席 し た の で あ る が 、 シ ュ モ ラ ー と ヒ ン ツ ェ は 共 に プ ロ セ イ ン ・ ドイ ツ 的 歴 史 記 述 の 伝 統 に 忠 実 で あ り、 ま た 、 世 紀 の 転 換 期 に お け る 代 表 的 な 政 治 的 発 言 者 で あ っ た 。 彼 ら の 印 象 の 下 に 、 シ ュ プ ラ ン ガ ー の プ ロ イ セ ン的 エ ー ト ス や 政 治 的 立 場 と 構 想 の 輪 郭 が 養 わ れ た と い え よ う。 し か し、 シ ュ プ ラ ン ガ ー が 特 に 師 事 し た の は 、 パ ウ ル ゼ ン とデ ィ ル タ イ で あ っ た 。   パ ウ ル ゼ ン は 、 シ ュ プ ラ ン ガ ー が み ず か ら い っ て い る よ う に 、 彼 に と っ て 「最 初 の 学 問 的 指 導 者 で あ り 、 ま た 人 間 的 な 模 範 」①で あ っ た 。 パ ウ ル ゼ ン は 広 義 で の カ ン ト学 派 に 属 す る 哲 学 者 、 倫 理 学 者 で あ っ た が 、1877年 の 夏 学 期 の 始 め に 、 当 時 の 哲 学 部 長 で あ っ た ハ ル ム ス 教 授 か ら 、 ベ ル リ ン 大 学 の 教 授 計 画 の 不 備 を補 う た め に 、 冬 学 期 か ら教 育 学 の 講 義 を 開 く こ と を依 頼 さ れ 、 長 い た め ら い の 後 、 こ れ を 受 諾 し た ②。 彼 の 大 著 『学 者 教 育 の 歴 史 」(.Geschichte  des gelehrten Unterricht  auf den deutschen  Schulen  and  Uni-versitat vom  Ausgang  des Mittelalters bis zur Gegenwart."2Bde,1885-1895)は 、 古 典 語 教 授 に 重 き を 置 く ドイ ツ の 高 等 教 育 を 、 文 化 史 、 精 神 史 、 社 会 史 と の 関 連 に お い て 考 察 し 、 教 育 制 度 の 形 成 が 時 代 の 構造 と 関 連 し て い る こ と、 教 育 制 度 が 一 般 文 化 運 動 の 大 な る 推 移 に よ っ て 規 定 さ れ る こ と 、 教 育 制 度 の な か に そ の 民 族 の 文 化 が 縮 小 して い る こ と な ど を 明 ら か に した こ と に よ っ て 、 不 朽 の 名 著 と さ れ て い る 。   パ ウ ル ゼ ン は こ の 卓 越 し た 歴 史 観 に 基 づ き 、 教 育 学 を 「人 間 の 社 会 生 活 の 正 し い 状 態 並 び に 機 能 の 学 」 と し て 、 他 の 文 化 関 係 に 内 的 ・必 然 的 に 随 伴 す る も の と し、 倫 理 学 、 人 間 学 、 生 理 学 、 心 理 学 、 社 会 学 、 政 治 学 、 国 家 学 な ど 、 全 文 化 科 学 の 広 範 な 基 盤 の 上 に 樹 立 す る こ と に 努 め 、 「文 化 教 育 学 」 の 祖 と な っ た ③。   彼 の 眼 は つ ね に 教 育 現 実 に 開 か れ て お り 、 そ の 哲 学 的 考 察 の 下 に 方 向 付 け を行 っ た 。 当 時 の 激 烈 な 学 校 闘 争 の 中 に あ っ て 、 献 身 的 に 実 学 的 な 学 校 形 態 の 樹 立 と 推 進 の た め の 指 導 的 な 理 論 を 構 築 し、 特 に 従 来 の 古 典 的 陶 冶 に 重 点 を 置 く 人 文 主 義 的 ギ ム ナ ジ ウ ム と実 学 的 陶 冶 に 重 点 を 置 く実 科 系 の 中 等 学 校 と の 等 価 値 を 主 張 し、 そ の 実 現 に 努 力 し た の で あ る ④。   シ ュ プ ラ ン ガ ー は こ の パ ウ ル ゼ ン か ら 大 き な 影 響 を 受 け た の で あ り、 彼 は そ の 「人 格 性 が 私 に と っ て 模 範 と な っ た よ う に 、 教 育 学 的 関 心 は パ ウ ル ゼ ン の 下 で 豊 か な 糧 を得 た 」⑤ と い っ て い る 。 彼 は す で に 、1902年 に は 「教 育 学 」 ("Gedanken  zur Padagogik")と 題 す る 長 文 の 論 文 を 書 き⑥、 未 公 刊 で あ る が 、 「記 述 的 教 育 学 に お け る 形 而 上 学 的 な も の 」("Metaphysisches  in der desk,iti。,n Pad、g。gik."1904.)⑦ や 「教 育 に つ い て 」("Ober  die Erziehung" , Disposition der 1. bis 4. Rede:1.  Rede  ausgearbeitet.1906.)⑧ 、 「哲 学 的 教 育 学 の 根 本 問 題 」("Grudfragen  der philo-sophischen  Padagogik")「 哲 学 と 教 育 学 」 ("Philosophie and Padagogik",1907.)の 論 文 も あ る ⑨。 な お 、 シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、 後 年(1912)、 パ ウ ル ゼ ン の 『教 育 学 論 文 集 」( 。Fridrich Paulsen:Gesammelte  padagogische  Abhandlun-gen.1912.")を 編 集 し、 長 文 の 序 文 を 加 え て 刊

(4)

24

村 田 昇

行 し た の で あ る 。   次 に 、 シ ュ プ ラ ン ガ ー が 後 に み ず か ら 「意 味 に 関 係 し た 体 験 の 心 理 学 」(Psychologie  des sinnbezogenen  Erlebens)と 呼 ぶ 精 神 科 学 的 心 理 学 が 、 デ ィ ル タ イ の 大 き な 影 響 の 下 に あ る こ と は 周 知 の と こ ろ で あ る 。 シ ュ プ ラ ン ガ ー 自 身 、 「私 の 歴 史 的 並 び に 心 理 学 的 な 基 本 的 立 場 は 、 師 デ ィ ル タ イ に よ っ て 形 づ く ら れ 深 め ら れ た 」 と い っ て い る の で あ る が ⑲、 彼 は デ ィ ル タ イ の 「理 解 」(Verstehen)の 概 念 を 継 承 し発 展 させ な が ら も、 そ の 欠 陥 を 克 服 し て 、 彼 独 自 の 精 神 科 学 と文 化 哲 学 を 創 設 し た の で あ る 。   し か し シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、 最 初 、 ベ ル リ ン大 学 で デ ィ ル タ イ の 講 義 を 聴 き、 そ の 「体 験 の 哲 学 」 と 「精 神 的 心 理 学 」 に は 強 く惹 きつ け ら れ な が ら も、 そ の 歴 史 的 方 法 に は な じ む こ とが で き ず 、 特 に 第 三 学 期 、19歳 の 時 に 、 デ ィ ル タ イ か ら ゲ ー テ の 友 人 で あ る ヤ コ ビ(Friedrich Heinrich Jocobi,1743-1819)の 発 達 史 が 歴 史 研 究 の 課 題 と し て 与 え ら れ た 時 に 、 す べ て が 挫 折 し、 ノ イ ロ ー ゼ に 陥 っ た 。 彼 は 、 当 時 、 恩 師 ボ ル ハ ル ト に 、 次 の よ う な 助 言 を 求 め て い る (1901.10.31.仕 書 簡)⑪ 。   「… … デ ィ ル タ イ は 、 ヤ コ ビ の 発 展 史 を仕 上 げ る よ う勧 め ま し た 。 も ち ろ ん 、 こ の 思 想 家 は 、 こ れ ま で 私 に は ま っ た く縁 遠 い 存 在 で した 。 し か し 、 特 に ス ピ ノ ザ 、 レ シ ン グ 、 ゲ ー テ 、 カ ン ト、 シ ェ リ ン グ 、 フ ィ ヒ テ ら の 偉 大 な精 神 的 潮 流 お よ び 人 格 性 と の 関 係 の 多 様 性 が 、 私 を こ の 課 題 に 惹 きつ け る の で す 。 私 は ヤ コ ビ を 研 究 の 中 心 にす る こ と は ま っ た く考 え て い ませ ん が 、 彼 が 明 ら か に 特 に 宗 教 的 労 作 と 関 係 し て 求 め ら れ る と い う、 ざ っ と し た 方 向 付 け か ら見 て い ま す 。 あ な た が 古 い 資 料 に よ っ て 新 し い 課 題 に 対 し て も強 め る よ う な 機 縁 を 与 え て い た だ け れ ば 、 幸 甚 で す 」。   こ れ に 関 係 し た 「宗 教 の 哲 学 と心 理 学 に 寄 せ て 」(。Zur Philosophie und Psychologie  der翠eli・ gion,"1901.)と 題 す る 論 考 が な さ れ て い る に せ よ 、 デ ィ ル タ イ か ら 出 さ れ た 課 題 は 、19歳 の シ ュ プ ラ ン ガ ー に と っ て あ ま り に も難 しか っ た 。 学 問 観 か ら 生 ず る 悩 み は 、 よ り大 き か っ た 。 彼 は 再 び ボ ル ハ ル トに こ の こ と を 訴 え て い る (1902.8.23.付.書 簡)⑫ 。   「(デ ィ ル タ イ の)方 法 は … … も ち ろ ん 、 実 証 的 個 別 研 究 で あ り ま す 。 しか し、 まず 全 生 活 の あ ら ゆ る 現 象 を 生 き生 き と理 解 す る こ と を 自 分 の な か に 訓 練 す る こ と の 方 が 、 私 に は よ り重 要 で あ る と思 わ れ ま す 。 そ れ の み が 今 日 の 哲 学 の 内 容 を つ く り出 し、 生 き た 活 動 を 通 じて の み 、 再 び み ず か ら 獲 得 さ れ う る の で す 。 そ う して 、 も し私 が こ の 意 味 に お い て 、 哲 学 は 生(Leben) で あ り教 え(Lehre)で は な い 、 と い っ て 差 し 支 え な い と した ら 、 か か る 現 存 在 は 講 義 さ れ う る もの で は な く、 わ れ わ れ に 生 き方 の 範 が 示 さ れ な け れ ば な ら な い こ と に な り ま す 。 こ れ に 代 わ っ て 、 私 の ゲ ー テ に 対 す る 理 想 主 義 的 な 信 仰 が 根 づ くの で す 。 しか しそ の 信 仰 は 、 歴 史 的 意 識 の 帰 結 な の で す 。 私 は デ ィ ル タ イ か ら け っ し て 離 れ て い る の で は な く、 も し 実 践 的 な 生 の 形 成 に 対 す る 歴 史 的 意 識 の 実 際 的 活 用 を 追 っ て い る と した ら 、 彼 の 思 想 の た だ ひ と つ だ け を特 に 強 調 し て い る の で す 。 私 に も ま た 、 全 体 系 の 歴 史 的 相 対 性 の 確 信 は ゆ る ぎ な い も の で す 。 し か し、 わ れ わ れ の 哲 学 が 、 単 な る 懐 疑 論 以 上 の も の た る べ きで あ る な ら ば 、 そ の こ と は 、 わ れ わ れ が 包 括 的 な 歴 史 分 析 を 通 じて 、 わ れ わ れ 固 有 の 地 位 に 関 す る 思 念 に ま で 、 わ れ わ れ が い か な る 所 与 の 歴 史 的 基 底 の 上 に 、 ま た 、 い か な る 手 段 を も っ て 働 くべ き か と い う意 識 に ま で 到 達 す る こ と に よ っ て の み 可 能 な の で す 」。   そ こ か ら 彼 は 、 「わ れ わ れ は 本 来 、 歴 史 か ら 何 を 受 け とめ る の か 」 と い う 問 題 意 識 を も ち 、 デ ィ ル タ イ に 対 す る ひ そ か な 反 発 の な か で 、 1905年 に 、r歴 史 学 の 基 礎 一 認 識 論 的 ・心 理 学 的 一 研 究 』("Die  Grundlagen  der Geschich- tswissenschaft. Eine erkenntnistheoritisch-psycho-logische Untersuchung.")と 題 す る 論 文 を 、 パ ゥ ル ゼ ン と 心 理 学 の シ ュ ト ゥ ン プ(Carl  Stumpf, 1848-1936)に 提 出 し、 哲 学 博 士 の 学 位 を 得 た 。 シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、 こ の と き か らす で に 、 「歴 史 の 問 題 は 歴 史 主 義 の 基 盤 か ら は 留 保 さ れ て い る 」 と い う こ と を 洞 察 して い た の で あ り、 そ の 点 か ら 自 主 的 に 選 択 した テ ー マ に 基 づ い て な さ れ た 学 位 論 文 を 、 「け っ し て 完 成 さ れ る こ と の な い 歴 史 的 知 識 一 般 は 、 生 け る者 に 対 し て ど の よ う な 価 値 を もつ の か 」 と い う こ と を 求 め て い た パ ウ ル ゼ ン に 提 出 した の は 、 背 け る 。 こ の 学

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位 論 文 は 、 歴 史 とは何 か とい うこ と に対 す る、

彼 の 深 刻 な 苦悩 か ら生 み 出 され た もの で あ る、

と告 白 して い る ので あ る。

  な お 、 こ の 頃(1903)か

ら、 医 師 の 娘 、 ケ ー

テ ・ハ ー ト リ ヒ(Kathe  Hadlich,1872-1960)

との文 通 が 始 まっ て い る。 彼 女 はベ ル リ ン人 の

家 系 で あ った が 、 パ ンコ フ に生 まれ 、 ハ イ デ ル

ベ ル ク に住 む女 流 画 家 で あ っ た⑬。 こ の10歳 年

上 の女 性 との文 通 は彼 女 の死 去 に至 る まで頻 繁

に な され て お り、彼 の学 問 的 展 開 を取 り組 み や 、

哲 学 、教 育 学 、心 理 学 に お け るそ の 位 置 と労 作 、

こ の 世紀 の精 神 史並 び に時 代 史 の 包括 的 な叙 述

が な され て い る。 この書 簡 は、 特 に シ ュプ ラ ン

ガ ー の初 期 思 想 を研 究 す る ため の 貴重 な資 料 と

い え よ う。

2.ベ

ル リン大 学 私 講師 と高 等女 学 校教 師

  学 位 論 文 を提 出 す る 頃 か ら、 父 の 商売 が 不 況

に 陥 り、 ま た 、 母 も重 病 に 罹 り、 シ ュ プ ラ ン

ガ ー はみ ず か ら収 入 の途 を求 め ざ る をえ な くな

る。 こ のた め彼 は 、サ ンク ト ・クナ ウア ー高 等

女 学 校(1906.5.1-08.9.30)と

べ ー メ ン高

等 女 学 校(1908.10.1-11.9.30)で

週 の うち

若 干 時 間、 ドイ ツ 語 を教 え る こ と にな る。 プ ロ

イ セ ンで 初 め て女 子 教 育 の改 革 が行 わ れ た の は、

1908年 で あ る。 当時 の ベ ル リ ン大 学 に は女 子 学

生 が 皆 無 で あ り、哲 学 部 にだ け例 外 と して か な

り年 長 の女 性 が 三 人 い た にす ぎな い。 学 生 た ち

は女 性 と交 際 す る機 会 もな く、学 業 の余 暇 に は

大 学 の 裏 に あ った栗 の小 森 を逍 遥 す る しが なか

っ た時 代 で あ る。 この 時 に、24歳 の若 者 が 女 生

徒 を教 え る こ とに な った ので あ る。 しか し、 こ

れ まで ひ と りっ子 と して きわ め て孤 独 に過 ご し

て きた シ ュ プ ラ ン ガー に と って は、女 生 徒 た ち

は ま るで 自 分 の妹 の よ う に感 じ られ た ので あ り、

ま た 、 そ こ か ら 「

永 遠 に 女 性 的 な も の」(das

Ewig・Weibliche)を

見 出 し た とい え る。 彼 は

た とえ 当 時 だ れ よれ も愛 した母 を失 った と し

て も、 私 は 学 校 に い る こ の時 間が 、実 際 、 私 の

も っ と も幸 福 な時 で あ った とい っ て は ばか らな

い 」

⑭ とい っ て い る。 そ う して これ が 、彼 を教 育

学 の方 向 に よ り強 く引 き入 れ る きっか け と な っ

た こ とは 明 らか で あ り、彼 自身 、 「

私 が こ の課

題(女 学 校 教 師 と して の 課 題)の も と に 感 じ た 書 き記 す こ との で き な い 幸 福 が 、 私 に 私 の 教 育 学 的 使 命 を確 証 させ た 」⑮ とい う の で あ る 。   高 等 女 学 校 の 教 師 と し て 働 き な が ら 、 彼 は 、 前 述 し た よ う な1900年 頃 の 政 治 的 ・精 神 的 危 機 の 経 験 か ら心 を 動 か さ れ 、 古 典 的 な 人 間 性 の 思 想 に 立 ち 返 っ て 思 念 す る こ と に よ っ て 、 自 分 自 身 の 時 代 に 方 向 づ け を 与 え よ う と して 始 め ら れ た フ ン ボ ル ト研 究 が 、 い よ い よ 人 間 陶 冶 の 問 題 に 立 ち 向 か わ せ る の で あ る 。1909年 に は 、rヴ ィ ル ヘ ル ム ・フ ォ ン ・フ ンボ ル ト と人 間 性 の 理 念 』("Wilchelm  von Humboldt  and  die Huma・ nit5tsidee.")を 、 教 授 資 格 論 文 と し て パ ウ ル ゼ ン に 提 出 す る 。 彼 は 「私 を テ ー マ に 惹 き つ け た の は 、 人 間 の 内 面 的 理 想 性 に 対 す る 信 仰 か ら な る 生 で あ る 」⑯ と い っ て い る が 、 こ こ に は 「古 典 的 な もの 、 審 美 的 な も の 、 教 育 学 的 な もの 、 マ ル ク ブ ラ ン デ ン ブ ル ク 的 な も の な ど 」、 彼 が 愛 し た 一 切 の もの が 、 綿 密 に ま とめ ら れ て い る。 彼 は 晩 年 に 「こ の(人 間 性 と い う)主 題 が い か に 中 心 的 で あ り、 い か な る 問 題 性 が そ れ と結 び つ い て い る か を 、 ま ず 私 に 教 え た の は 、 反 人 間 的 精 神 の 時 代 で あ っ た 」、 そ う し て 「こ の 書 の 発 刊 後45年 た っ て 、 人 間 性 の 理 念 が 普 遍 的 な ヨ ー ロ ッパ 的 討 論 の テ ー マ と な っ て き た の は 、 私 に と っ て 幸 せ で あ る 。 こ こ か ら何 か 救 い を も た ら す も の が 生 ず る こ と を 、 私 は 期 待 した い 」⑯ と い うの で あ る 。   こ の 書 は 母 が 亡 く な っ た 年(1909年5月9日 、 62歳)に 刊 行 さ れ た の で あ る が 、 そ の 評 価 は き わ め て 高 く、 デ ィル タ イ と の 和 解 を も た ら す 機 縁 と も な っ て い る 。 シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、1908年 12月20日 付 け の ハ ー ト リ ヒ に 宛 て た 書 簡 ⑰の な か で 、 彼 が デ ィ ル タ イ の75歳 の 誕 生 日 に 贈 っ た こ の 書 物 と手 紙 が 受 取 ら れ 、 数 日後 に グ リー ネ ヴ ァ ル トの デ ィ ル タ イ 宅 に お 茶 の 招 待 を 受 け 、 そ の 失 人 と二 人 の 子 息 か ら も歓 迎 さ れ た こ と を 、 嬉 し げ に 述 べ て い る 。 さ ら に1909年2月10日 付 け の 書 簡 ⑱で は 、 デ ィ ル タ イ が そ の 初 期 の 著 書 rシ ュ ラ イ エ ル マ ッ ハ ー 伝 」(.Das  Leben  Sch・ leiermachers")の 改 訂 に 協 力 す る よ う 依 頼 さ れ た こ と を 述 べ て い る 。 こ の 改 訂 作 業 が 早 速 着 手 さ れ た こ と は 、 デ ィ ル タ イ に 宛 て た シ ュ プ ラ ン ガ ー の 書 簡 か ら も 理 解 さ れ る の で あ る が 、 彼 の

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村 田 昇

ラ イ プ チ ッ ヒ大 学 へ の 就 任 な ど の 事 情 に よ っ て 、 第 二 版 と し て 発 行 さ れ た の は 、 デ ィ ル タ イ の 死 後10年 を経 た1922年 で あ っ た 。   1909年 の8月(27歳)か ら 、 シ ュ プ ラ ン ガ ー は ベ ル リ ン 大 学 の 私 講 師 と な り、 哲 学 と教 育 学 の 講 義 を 委 嘱 さ れ る 。1910年 の 夏 学 期 に は 、 「カ ン トか ら ヘ ー ゲ ル に 至 る ド イ ツ 理 想 主 義 」 と 「近 代 教 育 学 入 門 」 の 講 義 が な さ れ た こ と が 記 録 さ れ て い る ⑲。 す で に 第 二 学 期 の 彼 の 講 義 に は 聴 講 生 が 溢 れ 、 大 講 堂(Auditorium Maximum)に 教 室 を 変 更 せ ざ る を え な く な っ た と い う。   こ の 私 講 師 と して の 関 わ りの な か で 、 デ ィル タ イ の 後 継 者 、 ア ロ イ ス ・ リ ー ル(Alois  Riel, 1844-1924)と の き わ め て 深 い 親 交 が 結 ば れ 、 シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、 「こ こ(リ ー ル の 家)で は 息 子 の よ う に 思 わ れ 、 生 の 高 等 教 育 を受 け た 。 ゾ フ ィ ー ・ リー ル 失 人 は き わ め て 精 神 的 な 、 思 い や り の 深 い 女 性 の 一 人 で あ り、 彼 女 は 、 自 己 の 深 み か ら こ の 若 者 の 心 を 開 き、 彼 自 身 の 本 性 へ と発 展 させ て い く こ と を 理 解 して い た 。 ア ロ イ ス ・リ ー ル は 、 私 が 知 り合 い に な っ た 人 た ち の な か で も っ と も 高 貴 な 人 物 で あ っ た 」 と 、 ま た 「グ リ ー プ ニ ッッ ゼ ー の.修 道 院"の よ う な雰 囲 気 の な か で 、 私 の 人 間 性 の 意 識 が 深 め ら れ た 」 と い う の で あ る ⑳。   1910年 に は 、 第 二 の フ ン ボ ル ト研 究 書 『ヴ ィ ル ヘ ル ム ・ラ ォ ン ・フ ン ボ ル ト と教 育 制 度 の 改 革 』(.Wilhelm  von Humboldt  and die Reform  des Bildungswesen.")が 刊 行 さ れ る。 彼 は 「こ れ は プ ロ イ セ ン枢 密 公 文 書 保 管 所 で の 研 究 と発 見 に 基 づ い て い る 。 保 管 所 の 雰 囲 気 に 精 通 す る こ と が 、 私 を 豊 か に し た 。 一 方 の 政 治 と行 政 か ら他 方 の 学 校 制 度 に 導 く橋 を 架 け る こ と が 、 そ れ 以 来 、 た えず 私 の 関 心 事 と な っ た 」⑳ と い って い る 。   シ ュ プ ラ ン ガ ー の 私 講 師 時 代 は 、 あ ま り に も 忙 しす ぎ た 。 研 究 と 講 義 、 女 学 校 教 師 、 し か も、 重 病 の 母 を抱 え 家 計 を担 い 、 お 金 を か き集 め な け れ ば な ら な か っ た か ら で あ る 。 彼 は 疲 労 の た め に 病 に 陥 り、 学 期 の 途 中 で 講 義 を 中 断 せ ざ る を え な く な る 。 間 もな く病 は い え 、 ベ ル リ ン大 学 創 立 百 周 年 祭 を 、 そ の 創 立 者 フ ン ボ ル トに 関 .す る 二 冊 の 書 物 の 著 者 と し て 、 感 慨 深 く祝 う の で あ る が 、 彼 は 「当 時 は 私 に と っ て 、 全 般 に わ

た っ て危 機 で あ った 」

⑫ とい うの で あ る 。

  しか し、1911年 、29歳 の 誕生 日の す ぐ後 に、

予 期 せ ざ る救 い の手 が彼 に差 し伸 べ られ た。 そ

れ は ライ プチ ッヒ大 学へ の招 聘 で あ った 。

3.ラ

イ プチ ッヒ大 学 へ の招 聘

  1911年10月 、 シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、 モ イ マ ン (Ernst Meumann,1862-1915)の 後 任 と し て 、 ラ イ プ チ ッ ヒ 大 学 の 哲 学 及 び 教 育 学 の 員 外 教 授 と し て 招 聘 さ れ た 。 こ れ は フ ォ ル ケ ル ト (Johannes Volkert,1948-1930)に 評 価 さ れ た こ と に あ る と さ れ て い る 。 シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、 「教 育 学 の 哲 学 的 基 礎 」 と 題 す る 就 任 講 演 を 行 い 、 明 晰 な 思 想 家 で 公 正 な 人 物 で あ っ た こ の フ ォ ル ケ ル トや 、 高 名 な 心 理 学 者 で あ り博 識 で も あ っ た ヴ ン ト(Wilhelm  Wundt,1832-1920)ら と の 親 交 を 深 め な が ら 、 研 究 に 専 念 す る 。 彼 の 住 居 で あ る グ ラ ッシ シ ュ トラ ッ セ は 、 ニ キ ッ シ ュ(Artur  Nikisch,1855-1922)が 指 揮 す る ゲ ヴ ァ ン トハ ウ ス 管 弦 楽 団 演 奏 会 場 の す ぐ前 に あ っ た が 、 彼 は そ こ を ご く ま れ に しか 訪 れ る こ と も な く、 「了 解 」 の 方 法 を 用 い た 青 年 心 理 学 の 基 礎 づ く り と 「生 の 形 式 」(Lebensformen)の 構 想 設 定 に 没 頭 した の で あ る 。   当 時 、 ラ イ プ チ ッ ヒ 大 学 に は 、 ザ ク セ ン州 の 国 民 学 校 教 師 が 試 験 で 選 ば れ て 教 育 学 研 究 の た め に 派 遣 さ れ て お り、 そ の 指 導 が シ ュ プ ラ ン ・ ガ ー に 委 任 さ れ た 。 彼 ら は 一 定 条 件 の 下 で 学 位 を授 与 さ れ る こ と も で き た 。 シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、 「彼 ら の 教 育 学 的 知 識 は 、 最 初 私 よ り も広 か っ た の で あ る が 、 私 は まず 、 自 分 の 哲 学 ・教 育 学 演 習 の か な りの 蔵 書 を 一 つ の 新 しい 体 系 に 従 っ て 編 成 し直 す こ と に よ っ て 切 り抜 け た 。 そ の 際 、 私 は す べ て の 書 物 を外 か ら知 り、 しだ い に 内 か ら 知 っ た 」⑮ と い っ て い る 。 「軽 視 さ れ て い た 教 育 学 を 完 全 に 大 学 に 遭 っ た 学 問 に す る とい う ひ そ か な 計 画 」 を 、 彼 は 自分 の 立 場 に お い て 促 進 し よ う と し た の で あ る 。 そ う し て 彼 は 、 教 育 学 を 、 体 系 的 な 面 か ら 、 ま た 、 歴 史 的 な 面 か ら構 築 す る こ と に 努 め た の で あ る 。

  ち なみ に 、当 時 の講 義 題 目を あげ て お こう⑳。

  1912年 夏 学 期

  講 義:「 現 代 の 哲 学 」

、 「19世紀 に お け る教 育

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      学 理 論 と 教 育 制 度 」   演 習:「 児 童 心 理 学 の 課 題 と方 法 」   1919/20年   講 義:「 初 期 プ ラ ト ン」、 「教 育 学1」(教 育 史 、       古 代 か ら ル ソ ー ま で)   演 習:「 国 民 学 校 教 師 に 対 す る 演 習 」、 「青 年       心 理 学 に 関 す る 演 習 」   シ ュ プ ラ ン ガ ー は 翌12年 に 正 教 授 に 昇 任 す る 。 14年 に は 、rリ ー ル70歳 祝 賀 記 念 論 集 』に 『生 の 形 式 」(.Lebensformen")を 寄 稿 し、 ま た 、 rシ ュ モ ラ ー 年 報 、(38巻)に 「国 家 経 済 学 に お け る 価 値 判 断 の 位 置 」(.Die  Stellung der Werturteile  in den Nationa16konomie.")を 発 表 し て 、 価 値 論 争 に 加 わ っ て い る 。 さ ら に18年 に は 、 『フ ォ ル ケ ル ト70歳 祝 賀 記 念 論 集 』 に 「了 解 理 論 と 精 神 科 学 的 心 理 学 」(.Zur  Theorie des Verstehens  und zur geisteswissenschaftlichen  Psychologie .")を 寄 稿 し て い る 。   彼 の 学 者 と し て の 勢 力 的 な 活 動 が 始 ま っ た の で あ る が 、 し か し 、 ドイ ツ の 政 治 面 で は 一 つ の 時 期 の 終 焉 に 近 付 い て い た 。1913年 に は 、 ドイ ツ 民 族 が ナ ポ レ オ ン の あ の 範 か ら 脱 した ラ イ プ チ ッ ヒ 戦 の100年 祭 に 当 た り 、 祝 福 さ れ た の で あ る が 、 そ れ は ドイ ツ 帝 国 の 栄 光 を 讃 え る 最 後 と な っ た の で あ る 。   翌1914年 の8月3日 に は 、 第 一 次 世 界 大 戦 が 勃 発 す る 。 シ ュ プ ラ ン ガ ー は こ の 日 の こ と を 明 白 に 記 憶 し て い る 。 「私 は ち ょ う ど 、 ニ ー チ ェ (F.W.  Nietzsche,1844-1900)と リ ル ケ(R.  M. Rilke,1875-1926)の 女 友 だ ち で あ っ た ア ン ド レ ア ス ・ザ ロ メ(Lou  Andreas-Salom6,1861 -1937)の 訪 問 を 受 け た。 彼 女 は も と も と リ ル ケ を 訪 ね て き た の で あ る が 、 しか し 私 も ま た 、 何 日 か は 彼 女 と 同 席 し た 。 ま さ に そ の 時 、 戦 宣 布 告 が な さ れ た の で あ る 。 わ れ わ れ が 同 日 、 ど の よ う な 無 分 別 な 熱 狂 を も っ て こ の 事 実 を 受 け 止 め て い た か を 、 私 は は っ き り と 思 い 出 す 。 人 は 攻 撃 さ れ た 兄 弟 国 オ ー ス トリ ア と の 共 感 を 表 明 す る た め に 、 群 を な して オ ー ス ト リ ア 領 事 館 に 赴 い た 。 も ち ろ ん 、 近 代 戦 争 が ど の よ う な も の で あ る か は 、 だ れ も知 ら な か っ た 。1870/71 年 の 戦 争 と 同 様 な 確 乎 た る 勝 利 を 再 び 得 る も の と 、 だ れ も が 確 信 し た 。 しか し 、 ま っ た く異 な っ た こ と が 始 ま り 、 ま っ た く異 な る こ と が 進 行 し た の で あ る 」⑮ と 。   や が て 大 学 か ら は 、 しだ い に 男 た ち が 姿 を消 し て い く。 シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、 「1848年 ま で の ドイ ツ に お け る 国 家 と 教 育 と の 関 係 に 関 す る 歴 史 研 究 」 を 完 成 さ せ 、 公 刊 す る 仕 事 を 続 行 す る こ と は で き た と は い え(。Der  Zusammenhang von Politik and Padagogik  in der Neuzeit"と し て 、 雑 誌 「ドイ ツ 学 校 』(Deutsche  Schule)に14年 か ら16年 に か け て14回 に わ た り連 載)、 深 刻 な 心 的 圧 迫 が 彼 に 重 くの し か か っ て く る こ と を 痛 感 せ ざ る を え な か っ た 。 た と え 兵 役 免 除 を 申 請 で き る と し て も、 年 長 の 同 僚 と 同 様 に 、 武 器 を も っ て 勤 務 す る 義 務 を 有 す る こ と を 感 じ る 。 しか し 、 そ の た め に は 肉 体 的 状 態 が 十 分 で な い 。 し か も彼 は 、 プ ロ セ イ ン精 神 に よ っ て 養 わ れ た 愛 国 心 を 抱 き な が ら も、 人 間 性 の 理 念 の 探 究 者 と し て 戦 争 に は 反 対 で あ り、 超 国 民 的 思 想 に 生 き て い た 。 こ の よ う な 内 面 的 葛 藤 。 しか も、 栄 養 不 良 。 シ ュ プ ラ ン ガ ー は つ い に 重 い 肋 膜 炎 に 罹 'り 、 ま る 一 年 、 講 壇 を 離 れ ざ る を え な か っ た 。   冬 に な り、 彼 は 主 治 医 で あ る 友 人 の ア ドル フ ・ シ ュ ト リ ユ ン ペ ル(Adolf  von StrOmpell, 1853-1925)の 勧 め に 従 っ て 、1916年 末 か ら 翌 年4月 に 至 る あ い だ 、 南 独 の パ ル テ ン キ ル ヘ ン で 療 養 生 活 を 送 っ た 。 こ こ で の 滞 在 は 、 人 情 を 知 る 意 味 で も彼 に 幸 い を もた ら した 。 特 に ケ ル シ ェ ン シ ュ タ イ ナ ー(Georg  Kerschensteiner, 1854-1923)は 彼 を た び た び 訪 れ 、 見 舞 の 品 を も贈 っ た の で あ る 。 シ ュ プ ラ ン ガ ー と ケ ル シ ェ ン シ ュ タ イ ナ ー と は 、 そ の 著 『労 作 学 校 の 概 念 』(。Der Begriff der Arbeitsschule,"1912.)を 通 じて 旧 知 の 間 柄 で あ り、 文 通 も な さ れ て い た と は い え 、 こ の 時 か ら友 情 が さ ら に 深 ま り 、 学 問 上 に 互 い に 影 響 さ れ 合 う こ と と な る 。 シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、 当 時 の 病 気 休 暇 か ら次 の よ う な 感 情 を 抱 く の で あ る 。 「そ れ が 私 に と っ て い い よ う も な く 困 難 と な っ た と して も 、 次 の こ と が 私 の 内 面 に 決 定 的 に 促 進 さ れ た 。 す な わ ち 、 人 間 の 生 全 体 を 客 観 的 な 業 績 の 観 点 で しか 観 な い こ と は 、 い か な る 事 情 の も と に あ っ て も、 人 間 に と っ て 良 く な い 、 と 」⑳。   1917年 の 春 に 、 ま る 一 年 に わ た る 休 暇 を 終 え て 大 学 に 復 帰 した と は い う も の の 、 講 義 は な さ れ え ず 、 待 機 す る ば か り の 苦 悩 に 満 ち た 月 日 が

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村 田 昇

続 き、 しだ い に 国 の瓦 壊 も深 ま って い く。

 何 しろ 戦争 は 、 最後 に は塹 壕 戦 争 の 形 態 を と

る に至 った。 大 進 撃 が行 わ れ た と き とは異 な り、

年 が ら年 中 、 冬 か ら夏 に か け て 、 ま た夏 か ら冬

にか けて 、 塹 壕 内 で待 機 す る ば か りで は、 苛 酷

な忍 耐 が 要 求 され る。 しだ い に 軍隊 の力 も麻 痺

状 態 に陥 って い く。 封 鎖 に よ って食 糧 も途 絶 え

て くる。 そ こ にあ った の は、飢 餓 だ けで あ っ た

とい って よい 。

  つ い に 、1918年11月3日

に は、 キ ー ル軍 港 で

水兵 の反 乱 が 生 じる。 その 水 兵 が 赤 旗 を先 頭 に

して ラ イ プチ ッ ヒに進 入 したの が 、11月9日

そ の 日 に、 シ ャ イデ マ ン(Philipp Scheidemann,

1865-1939)が

ドイ ツ共 和 国 を宣言 す る 。翌10

日 には 、皇 帝 ヴ ィルヘ ル ム三 世 は オ ラ ン ダに亡

命 し、 人 民代 表委 員政 府 が 樹 立 され る。 この よ

う に して 、 ビス マ ル ク に よっ て創 立 され た ドイ

ツ帝 国 は、 わ ず か47年 で そ の姿 を消 した の で あ

る。

  シ ュ プ ラ ン ガ ーは 、 当 時 の状 況 を次 の よ う に

語 って い る。 「1918年11,月9日 に、 私 は悪 質 な

海 兵 団 の 群 れ を見 た 。 革 命 の前 兆 で あ っ た。 革

命 が ひ とた び起 こ った 後 には 、 街 に は一 年 半 ば

か りの あい だ、 街 に平 穏 は もた ら され な か っ た。

ス トラ イ キが 、 また その 反 ス トが 続 く。 やが て

水 は な くな り、電 気 も停 ま る。 つ い に街 の無 秩

序 は大 き くな り、軍 隊 が 干 渉 せ ぜ る をえ な くな

った 。 い ま や事 実 上 は武 装 はす で に解 除 され て

い た 。 しか しな お 、義 勇 軍 が 、 主 と して 学生 の

そ れ が 見 出 され た の で あ る。 私 が け っ して忘 れ

られ な い し、 また 、 な ん とか してで き るだ け生

き生 き とあ な た 方 に述 べ て お きた い印 象 は、 ど

くろ軽 騎 兵(Totenkopfhusaren)の

列 が 、 馬 上

高 く、 きわ め て 真 剣 な 、 悲劇 的 に深 刻 な表 情 を

もって 、 街 に進 入 して い く姿 で あ る。 この 青 年

た ち は、 多 年 、 戦 場 にあ って あ らゆ る犠 牲 を払

い 、 い ま もう一 度 兵 役 に就 か ざ る をえ なか った

の で あ る。 … … ドイ ツ人 と は何 か を知 る ため に

は 、 こ の若 者 の真 剣 な表 情 を見 な けれ ば な らな

い の で あ る」⑳と。

  大学 の講 堂 に は しだ い に学 生 が 復 員 して きた

と はい え 、彼 らは個 々 に難 しい問 題 を抱 え て い

た 。 しか し、 この講 堂 に も、 しば しば赤化 した

侵 入 者 に よっ て解 放 せ ざる を え な か った 。勇 敢

な シ ュ ヴ ァ ー ベ ン 人 で あ っ た キ ッ テ ル 学 長 (Gerhard  Kittel,1888-1948)は 、 あ る 時 、 す ぐ に で も射 撃 す る こ と の 可 能 な 三 人 の 赤 軍 を ロ ビ ー か ら押 し 出 した と い う ⑳。 街 で は 波 状 的 に な さ れ る ゼ ネ ス ト、 そ れ に 対 す る 反 ス ト。1918 年11月11日 休 戦 条 約 が 締 結 さ れ 、 第 一 次 世 界 戦 争 は 終 結 し た と は い え 、 戦 後 の 混 乱 は 、 こ の よ う に ま す ます 激 化 して い っ た の で あ る 。 街 に 秩 序 が 回 復 した の は 、 数 カ 月 後 、 社 会 民 主 主 義 者 の ノ ス ケ(Gustav  Noske,1868-1946)の 宣 言 に よ っ て 進 入 し た 義 勇 軍 に よ っ て で あ る 。   シ ュ プ ラ ン.ガー が 、1918年11月16日 に 、 父 フ ラ ン ツ に 宛 て た 書 簡 も⑳、 こ の 時 期 の 状 況 を 知 る 上 に 興 味 深 い 。   「あ な た が 大 き な 変 革 に も か か わ らず 、 無 事 で あ り続 け ら れ て い る こ と で 、 私 の 心 は 安 ま り ます 。 ベ ル リ ン で の 戦 争 は 、 こ こ よ り も激 し か っ た で し ょ う 。 こ こ で は 、 街 頭 で は な ん ら の 抵 抗 も な し に 行 わ れ ま した 。 しか し そ の 代 わ りに 、 今 、 ドイ ツ の 他 の 部 分 よ り も も っ と 悪 い こ と が 起 こ っ て い ます 。 す な わ ち 生 粋 の ボ ル シ ェ ヴ ィ ズ ム 、 よ り独 立 し た 最 左 翼 の 社 会 主 義 者 た ち で す 。 そ の 綱 領 に は 、 土 地 、 資 本 に お け る 一 切 の 私 有 財 産 の 廃 除 、 銀 行 の 押 収 、.労 働 者 階 級 の 意 志 の 絶 対 的 支 配"と あ りま す 。 実 際 、 。民 衆 の 委 任 を 受 け た 者"と 自称 す る こ の よ う な 人 び と に 支 配 さ れ て い る の で す 。 こ の あ ま り重 要 で な い 少 数 が 、 機 関 銃 、 拘 留 、 追 放 に よ っ て そ れ 以 外` の 人 た ち を 恐 怖 に 陥 れ て い る の で す 。 … … 」   シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、 こ の よ う な 状 況 の な か で 、 二 本 の ろ う そ く に よ る 貧 し い 明 り の 下 に 「ヘ ル ダ ー リ ン と ド イ ツ 国 民 意 識 」(.H61derlin  und das deutsche NationalbewuBtsein."In:Neue  Jahr-biicher fur das klassische Altertum,  Geschichte and deutsche Literatur and fur Padagogik. Bd.44. Leipzig, Berlin 1919)を 書 い た と い っ て い る が 、 他 方 、 大 学 か ら委 任 さ れ 、 労 働 組 合 と 協 力 し て ' 民 衆 大 学(Volkshochschule)を 組 織 し、 成 人 教 育 に 関 わ る 。 そ う し て そ こ で 、 マ ル ク ス 主 義 的 ・政 治 的 な 科 学 と 大 学 的 な 科 学 と の 差 異 を 、 身 を も っ て 体 験 す る ⑳。   さ て 、 第 一 次 世 界 大 戦 に 破 れ た ドイ ツ が な ん と し て も取 り組 ま な け れ ば な ら な か っ た 問 題 は 、 平 和 条 約 で あ っ た 。 従 来 の 慣 行 に よ れ ば 、 戦 勝

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国 と 敗 戦 国 、 こ の 両 当 時 者 間 の 折 衝 の 結 果 締 結 さ れ る べ き もの で あ っ た 。 に も か か わ らず 、 敗 戦 国 は ま っ た く除 外 さ れ 、 戦 勝 国 の あ い だ だ け で 講 和 の 条 件 が 決 定 さ れ 、 こ の 条 約 で 設 立 さ れ た 国 際 連 盟 に も、 ドイ ツ は 加 入 を 許 さ れ な か っ た 。 当 然 、 全 ドイ ツ 人 は こ の 条 約 の 苛 酷 さ を 唱 え 、 連 合 軍 を 非 難 し た 。   シ ュ プ ラ ン ガ ー も ま た 、1919年3月22日 、 全 ドイ ツ 学 生 連 盟 の 要 請 に よ っ て 、 暖 房 も な い ラ イ プ チ ッ ヒ 大 学 の ロ ビ ー で 、 約2000人 の 聴 衆 に 対 し て 「国 際 連 盟 と 法 思 想 」(.Vδlkerbund  und Rechtsgedanke")と 題 す る 講 演 を 行 い 、 こ れ に 対 す る 自 己 の 見 解 を 明 ら か に し て い る⑳。 彼 は こ こ で 「国 際 法 的 共 同 体 」(Vδlkerrechtsgeme-inschaft)の 理 念 を 描 く と と も に 、 ドイ ツ の 正 当 な 理 由 を 掲 げ て 、 連 合 国 に よ っ て 押 し つ け ら れ た 苛 酷 な 要 求 を 取 り下 げ さ せ 、 当 然 の 義 務 を果 た し、 世 界 平 和 の た め に 尽 力 し よ う と提 唱 し た の で あ る 。 ま た こ の 年 に 、 教 育 学 論 文 集 、 『文 化 と 教 育 」(.Kultur  und Erziehung. Gesammelte p5dagogische  Aufsate.")の 第 一 版 を 刊 行 し て い る 。   し か し、1920年 の 春 に は 、 不 幸 で 急 進 的 な カ ッ プ 暴 動 の 影 響 に よ っ て 、 再 び 街 の 平 穏 は 破 ら れ た 。 反 ス トが 呼 び か け ら れ 、 中 産 階 級 、 と り わ け 医 師 が 反 ス ト を 実 行 す る 。 そ う し て 最 後 に は 、 何 の た め に 、 ま た 、 だ れ の た め に ス ト ラ イ キ を 行 っ て い る の か が 、 だ れ に も わ か ら な い ほ ど に 、 大 混 乱 を 招 くの で あ る 。 こ の と き に は 、 ドイ ツ 国 防 軍(Raterepublik  Taucha)が 裏 ご し に 迫 っ て た き 。 最 初 の 砲 撃 が シ ュ プ ラ ン ガ ー の 住 居 の 隣 家 の 三 軒 を 破 壊 し た の で あ る ⑫。   こ の 頃 、 シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、 後 に ワ イ マ ー ル 共 和 国 の 文 相 と な っ た ベ ッ カ ー(Carl  Heinrich Becker,1876-1933)か ら 、 大 学 教 授 と 併 任 で 新 内 閣 の 常 置 顧 問 に な る こ と を 求 め ら れ た(1919 年8月15日 付.書 簡)。 こ れ に 対 して 、 シ ュ プ ラ ン ガ ー も 快 諾 し て い る(同 年8月19日 付 書 簡)⑬ 。 彼 は ま ず 、 教 員 養 成 の 構 想 に つ い て 意 見 を 求 め ら れ 、r教 員 養 成 論 』(.Gedanken  fiber Lehrerbildung")を ま と め て い る 。   こ の 三 カ 月 後 に ベ ル リ ン大 学 へ の 招 聘 が 決 定 さ れ 、 着任 後 に た だ ち に 内 閣 顧 問 に も 就 任 す べ く 、 早 急 の 着 任 を 懇 請 さ れ る の で あ る が 、 彼 は

学 期 の 途 中 で あ る こ とか ら、 しば しの延 期 を乞

い 、 同年10月 に ライ プ チ ッ ヒ を後 にす る ので あ

る。 ラ イ プチ ッヒ を去 る に 当 た り、別 れ の挨 拶

に ヴ ン トの 家 を訪 問 した 際 に は 、 「家 家 の 壁 づ

た い に、 バ リケ ー ドを通 り抜 け て進 ま ざ る を え

な か っ た。 さ ま ざ まな片 隅 か ら、 身 を さす よ う

な射 撃 が な され て い た」 とい って い る。 途 次 も、

遠 くか らの 砲 撃 を耳 に しなが ら、 ク ラ イ ル シ ャ

イ ム越 えの 廻 り道 を と り、 ハ イ デ ルベ ル ク を経

て ベ ル リン に帰 着 した⑭。

      〔注 〕

①E.Spranger:Ein  Professorenleben  im  20. Jahrhun・

  dert. S.343.

②F.Paulsen:Aus  meinem  Leben.1909.  S.209。

③ 参 照 、 村 田 昇 「パ ウ ル ゼ ン に お け る 科 学 的 教 育 学

  の 基 礎 付 け の 問 題 」 「滋 賀 大 学 学 芸 学 部 研 究 論 集 」

  第2集 、1953。

④ 参 照 、 皇 至 道 「独 逸 教 育 制 度 史 」 柳 原 書 店 、1943.'

  303頁 以 降 。

⑤E.Spranger:Gesammelte  Schriften.  Bd.  X.Hoch・

  schule  und  Gesellschaft.1973.  S.428。

⑥E.Spranger:Gesammelte  Schriften.  Bd.  n. 

Philo-  sophische  Padagogik.1973.  S.190-221.

⑦Vgl.  P. A. Paffrath:Eduard  Spranger  and 

die Volk-  sschule,1971.

⑧E.Spranger:Gesammelte  Schriften,  Bd.1.  Geist  der

  Erziehung.1969.  S,420-429. ⑨E.Spranger:Gesammelt  Schriften.  Bd.  H.  S.   208-221.Vgl.  S.409. ⑩E.Spranger:[ROckblick]o。  J. In:Gesammelte   Schriften,  Bd.  X.S.428. ⑪E.Spranger:Gesam皿elt  Schriften.  Bd.  W.  S.1. ⑫a.a.0.  S.1. ⑬a。a.0.  S.406.

⑭E.Spranger:Ein  Professorenleben  im  20. Jahrhun・

  dert. S.345.

⑮E.Spranger:Kurze  Selbstdarstel且ungen.  In:Spran・

  ger. Sein  Werke  and  Leben.1964.  S.13.

⑯a.a.0.  S.15.

⑰E.Spranger:Gesammelte  Schritten.  Bd.  W.  S.40.

⑱a.a.  O. S.42.

⑲E.Spranger:Kurze  Selbstdarstel且ungen.  S.15.  Ein

(10)

30

村 田 昇

⑳E.Spranger:Ein  Professorenleben  im  20。 Jahrhun・   dert.  S.344, ⑳a。a.0.  S,344. ⑫a.a.0.  S.345. ⑬a.a.0.  S.345. ⑳W.Sacher:Eduard  Spranger.1902-1933.1988.  S.   21.

⑳E。Spranger:Bilder  aus  meinem  Leben.  S.85.

⑳E.Spranger:Ein  Professorenleben  im  20. Jahrhun・

  dert.  S.346.

⑳E.Spranger:Bilder  aus  meinem  Leben.  S.9.

⑱E.Spranger:Ein  Professorenleben  im 

20. Jahrhun-  dert.  S.346.

⑳E.Spranger=Gesammelte  Schriften。  Bd.、 π. S.96.

⑳E.Spranger:Ein  Professorenleben  in 20. Jahrhun.

  dert.

⑳ 参 照 、 村 田 昇 「国 家 と 教 育 一 シ ュ プ ラ ン ガ ー 政

  治 教 育 思 想 の 研 究 」 ミ ネ ル ヴ ァ 書 房.1969.41頁

  以 降 。

⑫E.Spranger:Ein  Professorenleben  im 

20. Jahrhun-  dert. S.347,

⑳E.Spranger:Gesammelte  Schriften.  Bd.  W.  S、347.

⑭E.Spranger:Bilder  aus  meinem  Leben.  S.10.

皿.第 三 期(1920-1933)ワ イ マ ー ル 体 制 下 の   ベ ル リ ン で

1.ベ

ル リン 大学 教 授 に就 任

  シ ュプ ラ ンガ ー は 、1920年4月(38歳)に

校 の ベ ル リ ン大 学 に着 任 した 。 我 が 父 の よ うに

敬 慕 して い た リー ル教 授 の 後 任 とLて で あ っ た

が 、 従 来 の哲 学 講 座 で は な く、 「

哲 学 及 び教 育

学 」 とい う新 しい名 称 を も った 講座 で あ った 。

彼 は ベ ル リ ンW62・

ク ル フ ェ ス テ ン ダム262に

居 を構 えた 。 彼 の 本 格 的 な 活動 が始 まるの で あ

る。

  受 講 生 は、 ラ イ プチ ッヒ時代 よ り もは るか に

.多 く、 大 講 堂 に は、 お よそ800人 か ら1,000人

の 人 た ちが 集 ま って い た 。彼 は次 の よ う なエ ピ

ソー ドを語 って い る。 「

多 くの 受 講 者 の な か に、

旧 皇 帝 の 孫 が い た 。 この皇 太 子 はあ る時 、 自分

か ら、 私 の 大 講 義 室 で の講 義 を 、 ガ レリ ーに 通

じる 階段 に座 り、.た だ聴 き"し た こ とが ある と、

私 に い った こ とが あ る」①と。 満 席 で 椅 子 に 座

りえ なか った の で あ る 。彼 の1932年 の50歳 の 誕

生 日 に は、 お よ そ200通 の賀 状 が 寄 せ られ た と

い う。

  彼 が ベ ル リ ン大 学 で行 っ た講 義 に は、 次 の よ

うな もの が あ る②。

  1923年 夏学 期

講 義:「 体 系 的 教 育学 」

初級 ゼ ミナ ー ル:「 教 育心 理 学 演 習 」

  1925/26年 冬 学 期

講 義:「 歴 史 哲 学 」 「

教 育 史 」2(ル

ソー か

ら現 代 まで)

初級 ゼ ミナ ー ル:「 児 童 心 理 学 演 習 」

  1930/31年 冬学 期

講義:「 体 系 的教 育 学 」

ゼ ミナ ー ル:「 上 級 学 校 教 師 の基 本 問 題 に

関 す る演 習 」

、 「上 級 者 の た め の マ ッ クス ・シ

ェー ラー倫 理 学 演 習 」

2.行

政 、社 会 活 動 等 との関 わ り

  1919年6月19日 に ヴ ェ ル サ イ ユ 条 約 が 調 印 さ れ 、 同 年8月11日 に ワ イ マ ー ル 憲 法 が 成 立 す る 。 さ ら に20年1月 に 国 際 連 盟 が 成 立 し、11月 に 第 一 回 総 会 が 開 か れ る。4月 に は 「ドイ ツ 基 礎 学 校 法 」 が 成 立 した 。   シ ュ プ ラ ン ガ ー は1920年5月19日 に 、 「ベ ル リ ン 教 育 ・教 授 中 央 研 究 所 」(Gesellschaft  der Freunde  des Zentralinstituts fur Erziehung  and Unterricht)の 設 立 総 会 で 、 「国 民 生 活 に対 す る 科 学 的 教 育 学 の 意 義 」(.Die Bedeutung  der wis. senschaftlichen Padagogik  fur das Volksleben.") と 題 す る 講 演 を行 い 、 戦 後 の 復 興 は 「教 育 に よ っ て の み な し と げ ら れ る 」 と い う確 信 か ら 、 国 民 生 活 と科 学 的 教 育 学 と の 関 連 を 明 ら か に し て い る 。 そ う し て 、 新 政 府 の 教 育 政 策 に 顧 問 と し て 協 力 す る こ とが 、 ベ ル リ ン 大 学 に 招 聘 さ れ る 際 に 、 ベ ッ カ ー と の あ い だ に 交 わ さ れ た 約 束 事 で あ っ た 。 ま ず 彼 に は 、 学 校 改 革 、 特 に 教 員 養 成 の 問 題 に 関 す る 見 解 の 提 出 が 求 め ら れ て い た 。 す で に 友 人 の ト レ ル チ 教 授(Erns亡Troeltsch, 1865-1923)は 、 プ ロ イ セ ン政 府 の 文 部 局 長 を 勤 め て い た 。   し か し、 シ ュ プ ラ ン ガ ー の 政 府 へ の 協 力 は 、

(11)

順 調 に 進 捗 しな か っ た 。 新 し く文 部 大 臣 に 就 任 し た ベ ッカ ー と彼 とが 政 治 的 に 合 わ な く な っ た か ら で あ る 。 シ ュ プ ラ ン ガ ー は い ず れ の 政 党 に も所 属 しな か っ た の で あ る が 、 当 時 は 「昔 の 政 治 的 エ ー トス の 勢 力 か ら、 と り わ け 職 業 官 吏 に よ っ て 国 を 更 新 す る こ と が 可 能 で あ る 」 と い う 考 え を 抱 い て い た の で 、 「ド イ ツ 国 民 党 」 (Deutchnational)を 支 持 し て い た 。 小 党 分 裂 と そ の 対 立 は 、 ワ イ マ ー ル 国 家 の 重 大 な特 色 で あ る と さ れ て い る が 、 そ れ は 大 学 に あ っ て も 同 様 で あ り、 シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、 当 時 の 哲 学 部 の 状 態 を 次 の よ う に 述 べ て い る ③。   「哲 学 部 に は 深 い 政 治 的 分 裂 が 進 ん だ 。 歴 史 家 マ イ ネ ッ ケ(Friedrich  Meinecke,1862-1945) は 、 私 が 学 問 的 に つ ね に 親 密 に 結 ば れ て お り 、 年 月 の 流 れ の な か で も っ と も密 接 な 心 情 的 ・信 念 的 な 交 際 を し続 け た 同 僚 で あ る が 、 彼 は デ ル ブ リ ュ ッ ク(Hans  Delbr芭ck,1842-1829)や 恩 師 ヒ ン ッ ェ と と も に 、 違 っ た 側 に あ っ た 。 当 時 ひ と は 、 政 治 的 な 事 柄 に つ い て 互 い に腹 蔵 な く 語 り合 っ た が 、 情 熱 か ら 反 対 側 と衝 突 し合 い 、 一 つ の 観 念 を作 り う る こ と は 困 難 で あ っ た 」④   1920年6月 、 そ れ は シ ュ プ ラ ン ガ ー の ベ ル リ ン大 学 教 授 と し て の 最 初 の 学 期 で あ っ た が 、 史 上 最 大 の 教 育 論 争 と さ れ る 「全 国 学 校 会 議 」 (Reichsschulkonferenz)が 開 催 さ れ た 。 社 会 民 主 党 政 府 内 務 局 長 シ ュ ル ツ(Heinrich  Schultz) は 、 こ れ に 約700人 を 招 待 し た ⑤。 こ れ だ け の 大 人 数 が お の お の の 意 見 を 主 張 す る の で あ る か ら 、 幹 線 が 失 わ れ た の は 当 然 で あ ろ う 。 シ ュ プ ラ ン ガ ー は こ の 会 議 に 出 席 し、 教 員 養 成 につ い て 講 演 し 、 あ の 有 名 な 「教 育 大 学 構 想 」 を公 表 し た 。 こ の 提 案 は す で に ラ イ プ チ ッ ヒ 時 代 に ま と め ら れ 、 ベ ッ カ ー に 送 ら れ て い た もの で あ っ た が 、 「陶 冶 」 の 内 的 構 造 、 と り わ け 科 学 お よ び 技 術 と 陶 冶 と の 対 比 か ら 、 総 合 大 学 は純 理 論 的 ・学 術 的 研 究 を 目 的 と し 、 特 定 の 学 問 的 な 専 門 家 を 養 成 す る と い う役 割 を もつ もの で あ り 、 人 格 の 全 面 的 陶 冶 の 追 求 と い う初 等 学 校 教 員 の 養 成 機 関 と し て は 適 当 で な い と し 、 そ の た め の 独 自 な 「教 育 大 学 」(Padagogische  Hochschule)の 設 置 を 求 め る も の で あ っ た 。   し か し他 方 に 、 教 育 養 成 を 総 合 大 学 内 で 行 う べ き で あ る と す る 陣 営 、 す な わ ち 、 シ ュ ト ッ ト ガ ル トの ビ ン ダ ー(Henmann  Binder)や レ ッ フ ラ ー(Eugen  L6fner)ら の 激 し い 反 論 が あ り、 大 論 争 に 発 展 す る 。 こ の 両 者 の 調 停 は 難 航 を 極 め 、 極 月 、 そ の 妥 協 案 と し て 、 全 国 学 校 会 議 は 、 総 合 大 学 に 「教 育 研 究 所 」(Padagogische  Insti-tut.一 般 学 部 組 織 と は 別 機 関 で 、 教 職 教 育 や 技 術 的 ・芸 術 的 教 育 を担 当 す る)を 附 設 す る こ と に よ っ て 、 総 合 大 学 で の 養 成 の 途 を 開 く決 定 を 行 っ た 。 しか し、 共 和 国 は 戦 後 の 財 政 難 の た め に 、 こ の 基 本 方 針 を 国 全 体 に 及 ぼ す 改 革 と す る こ とが で き ず 、 そ れ を 各 州 の 自 主 性 に 委 ね る こ と と な っ た 。 そ の 結 果 、 全 国 学 校 会 議 の 趣 旨 に 応 え た の は 、 チ ュ ー リ ンゲ ン、 ザ ク セ ン 、 ハ ン ブ ル ク 、 ヘ ッセ ン な ど に 限 られ 、 プ ロ イ セ ン で は シ ュ プ ラ ン ガ ー 構 想 と は 別 個 の 「教 育 ア カ デ ミ ー 」(Padagogische  Akademie,2年 課 程)が 設 立 さ れ 、 ま た 、 バ イ エ ル ンや ヴ ェ ル テ ジ ベ ル ク で は 、 旧 来 の 教 育 演 習 所(跨dagogisches Seminare)が 温 存 さ れ た の で あ る ⑥。   1922年6月4日 に は 父 フ ラ ン ツ が 死 去 す る 。 こ の 年 、 前 述 し た 「ベ ル リ ン 教 育 ・教 授 研 究 所 」 の 設 立 に 努 め 、27年 ま で そ の 所 長 と な っ た 。 こ の 研 究 所 の 意 義 と課 題 に つ い て は 、 先 の 創 立 総 会 の 席 上 で の 講 演 の な か で 述 べ ら れ て い る が 、 そ れ は 大 学 の 研 究 と教 育 実 践 と の 橋 渡 し を行 い 、 内 外 の 教 育 資 料 を 収 集 す る と と も に 、 教 員 の 現 職 教 育 と成 人 教 育 を も行 お う と す る も の で あ っ た 。   こ こ で 、1923年4月21日 に 、 科 学 的 郷 土 教 育 研 究 会 を記 念 して 行 わ れ た 講 演 「郷 土 科 の 陶 冶 価 値 」("Der Bildungswert  der Heimatkunde")に つ い て 一 言 す る 必 要 が あ ろ う 。 前 世 紀 末 か ら 各 地 で 「郷 土 科 」 が 、 さ ま ざ ま な 根 か ら さ ま ざ ま な 形 態 で 行 わ れ つ つ あ り、 プ ロ イ セ ン で は 、 1921年 に 教 育 綱 領 で そ の 設 置 を う た っ て い る 。 シ ュ プ ラ ン ガ ー が こ の 郷 土 科 に 教 育 学 的 承 認 を 与 え 、 そ の 理 論 的 基 礎 付 け と方 向 付 け を 行 い 、 大 き な 影 響 を 及 ぼ した こ と は 、 よ く知 ら れ て い る 。   1923年 、 友 人 ト レ ル チ の 急 死 に よ っ て 、 そ の 後 を継 ぎ 、41歳 の 若 さ で 哲 学 部 学 部 長 の 重 責 を 担 う こ と に な る 。 当 時 の 哲 学 部 は 、 ま だ 数 学 、 自然 科 学 、 法 律 学 、 政 治 学 、 経 済 学 な ど の 諸 講 座 を含 ん で お り、 正 教 授 だ け で も66名 が い た 。

(12)

32

村 田 昇

大 戦 後 の 困 窮 の な か で 、 そ の 仕 事 が 並 大 抵 で な か っ た こ と は 予 想 で き る 。 彼 は 「私 が ベ ッ カ ー の 大 学 改 革 を 実 行 す る の は 、 容 易 で な か っ た 。 わ れ わ れ は イ ン フ レ ー シ ョ ン の 真 っ 只 中 に あ っ た か ら で あ る 。 私 が 学 部 長 の 終 わ り に 清 算 し な け れ ば な ら な く な っ た 時 、 金 庫 に は 確 か に 何 百 万 マ ル ク が あ っ た が 、 そ れ は 、 用 務 員 を 二 度 ば か り市 電 で 行 か せ る た め に 用 立 て う る も の で し か な か っ た 」 と い っ て い る⑦。   1925年 以 来 、 雑 誌r教 育 』(.Die  Erziehung. Die Monatsschrift  fur der Zusammenhang  von Kultur  and  Erziehung  in Wissenschaft  and Leben.")の 同 人 と し て 、 「一 切 の 教 育 現 実 の 、 も っ と も新 し い 、 も っ と も 広 い 、 も っ と も高 い 観 点 を 際 立 た せ る 」 こ と を 目 ざ し 、 フ ィ ッ シ ャ ー   (Alois  Fischer,1880-1937)、   リ ッ  ト '

(Theodor  Litt,1880-1962)、  ノ ー ル(Hermann Nohl.1879-1960)と と も に 編 集 に 携 わ る 。 主 筆 に は ブ リ ッ トナ ー(W.Flitner.)が 当 た っ た 。 シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、 こ の 雑 誌 を 通 じ て 教 育 学 の 水 準 を 高 め る た め に 努 力 し、 み ず か ら も こ れ に 続 々 と 論 文 を発 表 し て い.く。   ま た 、1927年 以 来 、 ブ ヘ ナ ウ(Artur  Buche-nau)、 シ ュ テ ッ ト バ ッ ヒ ャ ー(Aans  Stettba-cher)と と も に 、 『ペ ス タ ロ ッチ ー 全 集 」(批 判 版)(Johann  Heinrich  Pestalozzi:Samtliche Werke")を 編 集 して い く。

3.『 生 の 形 式 』 と 『

青 年 期 の 心理 学』

  上 述 した 多 忙 な 公 的 ・社 会 的 活 動 の な か で 、 シ ュ プ ラ ン ガ ー の 名 を不 滅 の も の た ら しめ た 大 著 が 刊 行 さ れ る 。 す な わ ち 、 『生 の 形 式 」 (.Lebensformen.  Geisteswissenschafliche  Psycho・ logie and Ethik der Personlichkeit."2.  v611ig neu bearb. u. erw. Aufl.1921.)と 『青 年 期 の 心 理 学 』(.Psychologie  des Jugendalters..〔1.  and〕 2.Aufl.1924.)で あ る 。 彼 は ラ イ プ チ ッ ヒ 時 代 か ら 「ひ そ か に 継 続 して 努 力 し 続 け て き た 心 理 学 」⑧で あ る 。 彼 に よ れlx,「 心 理 学 は 、 古 来 、 も っ ぱ ら心 意 的 事 象 と 身 体 の 関 係 だ け を 研 究 し て き た 。 そ こ で は 、 心 意 的 機 能 に よ っ て 担 わ れ た 意 味 内 容 は 無 視 さ れ て い た 」⑨ の で あ る 。 こ れ に 対 し て 彼 は 、 個 人 的 な 心 意 的 生 活 と超 個 人

的 な精 神 的 関連 との 織 り合 わせ を追 求 し、精 神

生 活 に属 す る ものが 、「了 解 」 の方 法 に よ っ て

意 味深 く 「

理 解 され う る」 もの と した の で あ る 。

  前 者 に 関 して は、1926年 の リー ル に捧 げ た 論

文 にそ の輪 郭 が 発 表 され て い た 。後 者 に つ い て

は 、 ほ ぼ14歳 か ら18歳 まで の 青 年 を対 象 と し、

彼 が 当 時 の 「青 年 運 動 」(Jugendbewegung)、

特 に 「

新 開 拓 者 」(Neupfadfinder)と

の 多 面 的

な 交 際 か らの 印象 に も基 づ い て い る、 とい って

い るの は興 味深 い⑩。

  彼 は 晩 年 に書 か れ た 「

小 自伝

」(Kurze Selb-stdarstellungen.1961.)の

な か で 、 この 両 者 に

つ い て 次 ぎの よ うに述 べ て い る。

  「私 は学 生 時代 か ら、 デ ィル タ イ にお い て も

っ と も実 りあ る 萌芽 を見 出 した一 種 の 新 しい 心

理 学 の 基 礎 付 け を得 よ う と努 力 した。 や が て し

だ い に次 ぎの こ とが 結 晶 して い った 。 す な わ ち、

身 体 的 な もの(das  Physische)と

心 理 的 な も

の(das  Psychische)と

い う、 二 つ の 思 考 上 か

ら構 成 され る存 在 の方 式 と並 んで 、 第 三 の もの 、

つ ま り、精 神 的 な もの(das  Geistige)(客 観 的

精 神 ない しは客 観化 され た精 神)が 存 在 す る と

い うこ とで あ る。体 験 を客 観 的 ・精 神 的 内 実 に

従 属 させ る心 理 学 が 、 は じめ て生 の意 味 連 関 に

近 づ くの で あ る。 『

生 の 形 式 」 と 「

青 年 期 の 心

理 学 」 とい う著 書 は、本 来 、意 味 に 関係 した体

験 の心 理 学 に到 達 しよ う とす る実 例 的 な試 み に

す ぎな い。 前 者 は一 個 の 類型 心 理 学 で あ る。 私

は主 と して 意 味 関 係 に従 って 、理 論 的 人 間 と経

済 的 人 間 と審 美 的 人 間 と を区 別 し、 さ らに 、政

治 的 人 間 と社 会 的 人 間 と宗教 的 人 間 と を区別 し

た 。後 者 は発 達 心 理 学 に属 す る。私 は 、 同 時代

の青 年 世 代 の モ デ ル に則 して 、 思 春期 の心 意 の

本 質 的特 性 を指 摘 した 」

⑪と。

  この書 の反 響 は きわめ て お お き く、彼 の 名 を

不 動 の もの と した ので あ る。 事 実 、発 刊 以 来 、

今 日 まで版 を重 ね 、『

生 の形 式 」 は三 万 部 、r青

年 期 の心 理 学 」 は十 万 部 を数 えて い る。 とは い

う も の の 、 シ ュ プ ラ ン ガー 自身 、「この 両 著 に

お い て と られ た方 法 につ いて は、 今 日で もな お 、

一 般 に 理 解 され て い な い よ う に 思 わ れ る」⑫と

い って い る 。確 か に そ うで あ ろ う。 そ れ だ け独

創 的 な研 究 法 とい え る ので あ る。

  この 著書 の刊 行後 に は 、主 観 的 精 神 と客 観 的

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