榎戸 真弓
MAYUMI ENOTO静岡が生んだ船舶画家
上田毅八郎
戦艦大和
を
描いた男
波乱万丈!
The 6 ships, this Japanese soldier was on board, were attacked and sunk by the enemy. Each time, however, he survived.
The soldier sailed in transport ships of war supplies, together with other battleships, in the North and South Seas for 3 years and 8 months. When he was off duty, he spent his entire time drawing battleships. He still clearly remembers 600m long waves, storms, calm seas and battles he encountered.
He got his right elbow blown off, but he was not overwhelmed by his adversity. He kept drawing for the repose of the dead war comrades' souls.
After the war, he became a great vessel illustrator.
His depictions of vessels, based on his war surviving experiences, are extremely vivid and came to be internationally known as "Box Art" of plastic models.
はじめに
戦争や戦艦に初めから興味があったのではない。むしろ全く興味はなかったし、知識ももち ろ ん な か っ た。 戦 争 の 話 は、 「 亡 き 祖 母 や 母 か ら 空 襲 の こ と や 食 糧 難 の こ と な ど を 聞 い た こ と がある」と言った程度。平成十八年の初夏、浜松の友人、佐野公任子から「凄い凄いカッコい い」と紹介されたのが上田毅八郎、イラスト画家、当時八十六歳である。 この年の正月映画で上映された「男達の大和」に、佐野はえらく感激していた。自分と同世 代の若者たちが愛する人、愛する祖国のために命を捧げたことを初めて知り、居ても立っても いられないという感じだった。佐野と二十歳も違う私はどちらかというと醒めていて、佐野の 情熱に揺り動かされた形で上田さんに会いに行った。 上田毅八郎さんは、ただの絵描きのおじいさんではない。タダモノではないのだ。戦艦プラ モデルの箱絵のと言えば、 「ああ、あの精密なイラスト画。 」ウォーターラインシリーズのと言 えば更に、 「あの凄くリアル感のある。 」男の人なら大概の人がお世話になったと言っても過言 ではないプラモデルの戦艦の絵は、ほとんど上田さんが描いている。五十年間で六千枚は描いたという。 上 田 さ ん は、 第 二 次 世 界 大 戦 に 船 舶 砲 兵 と し て 参 戦。 三 年 八 ヶ 月 の 間、 太 平 洋、 東 シ ナ 海、 オホーツク海、インド洋を輸送船に乗って航海した。レイテにて、当時存在が極秘とされた戦 艦大和を目撃した、数少ない生存者でもある。参戦中六回の撃沈を受けても、尚、生還。自身 の体験をもとに、プラモデルの箱絵以外にも、目的を果たすことなく海に沈んだ輸送船を描き 上げた作品群がある。その中にはほとんど資料が紛失し、上田さんの記憶だけがたよりの船舶 もあるそうだ。共に戦い、無念のうちに海に消えた戦友達への鎮魂のために現在も描き続ける のだと言う。 一九七一年に、静岡模型教材協同組合が開発したウォーターラインシリーズは、㈱タミヤが 提案して、静岡に本社がある4社、㈱タミヤ、㈱青島文化教材社、㈱ハセガワ、フジミ模型㈱ の合同企画としてスタートする。七つの海を舞台に数々のエピソードを残した船ばかり百六十 隻以上が揃っている。特に太平洋に消えた旧海軍の連合艦隊のほぼすべて、大和以下十二隻の 戦艦をはじめとして代表的な航空母艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、水上機母艦、輸送船、病院 船、 客船などが、 1/700スケールで再現された世界的にも珍しい一大プロジェクトであり、 静岡が世界に誇れる文化的な偉業といっても過言ではない。 ウォーターラインというのは船の水中に入る部分と水上に出る部分の境界線のこと。
艦船の模型でウォーターラインから下の部分を省略し、水上部分のみを模型化したものを洋上 模型、あるいはウォーターライン・モデルと言うそうだ。台座に展示すれば、水線下艦低部ま で模型化したモデルより実感が出るのが特長だ。特に情景模型用としては最適のモデルで、大 英帝国戦争博物館(ロンドン)等、各国の博物館で展示用に起用されている。 この海のロマンを表現したウォーターラインシリーズの箱絵のほとんどを飾ったのが船舶画 家、上田毅八郎さんである。 作品を見せてもらいながら、エピソードや船舶の解説を聞くうちに私たちは完全に上田ワー ル ド に ハ マ ッ っ て し ま っ た。 足 し げ く ご 自 宅 へ 通 っ て い る う ち に、 「 じ い じ の お 話 に、 孫 と ひ 孫が時間が経つのを忘れてしまう。 」と言った始末に。あるとき、 奥さんの昭子さんが見かねて、 おそうめんを茹でてくれたりした。 上田のじいじと話しているうちに、じいじの「生き様、思い」というものを、次に伝えなけれ ばという衝動に駆られた。時代を超えて、年齢を超えて目に見えない何かが伝わった。私達二 人はじいじから、バトンを渡されたのだ。次代へのバトン伝承者としてキーボードを叩くこと になった。 榎戸 真弓
プロローグ 13 波・・それは見たそのままを描くだけ 第一章 幼少期から徴兵まで 17 貧乏ってのはありがたい 命綱なしで超高層建築のてっぺんを担当した。賞与二百円 第二章 三年八ヶ月の航海と二十六隻の船 23 ホンモノの兵器に嬉々・ホントはパイロットになりたかった 乗船した船は二十六隻 いざ!エンジンルームへ 米重巡洋艦・ヒューストンとやりあう。撃って、撃って撃ちまくった 一回目の撃沈 マニラの市場でちゃっかり商売 二回目は沈没 氷点下四十度、おしっこが凍った
アメリカと戦争してたんじゃない、上官と戦争してたんだ 三回目の撃沈 四回目の撃沈 跳ね飛ばされて、大海原へ放り出された 「船は後ろから見るのが一番美しいんだ」 五回目の撃沈 戦地で一番最後に乗った船・金華丸 一日に延べ四千機の船載爆撃機と三日間戦闘、ついに六回目の撃沈 「毅八郎!死ぬな!生きて帰って来い!」 餅が好物で、人の分も取って取って食べたら手がはれあがった 最高の船・大和 形は厳めしいけえが、全体的なバランスでは大和が一番 高射砲は、なかなか当たんない 第三章 イラスト画家になるまで 73 原爆投下、 玉音放送、 終戦 左手のペンキ屋・商売は大当たり
清楚な美人に一目ぼれ 警察署で蛇を放して、大騒ぎ! 五体満足だったら、画家にはなれなかった 運命の人、田宮さんとの出会い デルタクラブ艦船研究会 自転車で箱根越え「静岡から来た上田です!」 こっちは職人!あたりまえだ!ナメてもらっちゃ困る 第四章 絵の描き方 93 絵が上手に描ける方法・心構え 一、 先ず健康 二、 絵を描く事が大好きである 三、 いろいろなものを見て美しく感ずること 四、 素直な心を持つこと。 これにより正しく物を判断する力が養われる 五、 道具を大切にすること 六、 作画は数多く描くこと。技術が早く上達する
七、 作画は早く仕上げる事を心掛けよ 八、 デッサンをしっかり描くこと 九、 最も得意とする題材を選ぶ 船の絵を描く日常の心構え 一、 船のすべてのものを知ること 二、 絵はすべて気力で描け 三、 常に心を安定に保て 四、 高慢になるな 五、 絵を描く事もすべて戦いと思え 六、 人の描いた絵をよく見ること 七、 常に人に喜ばれる様な絵を描け 八、 人生に生きている喜びを感ぜよ 第五章 上田の生き様 113 未来の日本を築くためには私達の人柱も必要なんだ~男達の大和より 日本の戦争の敗因とは何だ?兵器の量でもって負けた
「とんでもねえやつだお前は、国賊的だ」 「おまえが先に行けよ!俺は行かないからな」 陸軍と海軍が協力しない 平和って何だっ 上田の人生論 六十才くらいの時に、やっと目が覚めた 上田の仕事 オートバイで暴れ回って、頭蓋骨骨折、不思議と助かった 左手だけでも、随分けんかした ご縁なんですね 欲張るな 不自由であっても嘆くな 宇宙の姿の教えが宗教なんだ 守護霊が生かしてくれた命 日本人は、負けるとてんで意気地が無い 大切なものは目に見えない。心で見るんだ あとがき 132
波・・それは見たそのままを描くだけ
太平洋戦争の大戦渦の中、 私が乗船したのは二十六隻の輸送船。記憶にあるのは二十三隻だ。 海の上で三年八ヶ月勤め、六回の撃沈を経験した。航海中に軍艦に会った折り、スケッチなん かをして、たくさん絵を残しておいた。船が沈没してだいぶ海に沈んだ。そのときのスケッチ を参考にして軍艦、 輸送船、 飛行機など描いた。三年八ヶ月の間、 護衛艦とともに海に出て、 ずっ と描いてきた。だから、波の絵が描ける。大波、小波・・・。南の海、静かな波の上でドンパ チやっていたり、北太平洋風速四十メートルの死ぬほどの大波の上でも、絵を描いてきた。だ からどんな波でも描ける。最後、六回目の撃沈で利き腕だった右腕の自由を失った。 戦争から帰ってからも、火事、事故に何度も遭うが、不思議と助かった。生きている。生か されている。私の生命力だとかラッキーだとかいう事を遥かに越えた奇跡だ。目に見えない何 か大きな力で左手を動かされている。これは、使命なのだ。そう思わざるを得ない。セルリア ンブルーの海に散った多くの仲間。若かった。これからだった。そして何も知らなかった。有 名で大きな戦艦、それは七十年経った今も尚、語り継がれ、映画にもなった。しかし、名を残すことのない多くの船にも若い力が集結していた。すでにもう記憶の彼方。 そしてこれから十年後、誰も知らない。 私は小学校しか出ていない職人上がりのがさつな男だ。言葉にはならないが、描くことで残 し、伝えたい。描いた絵一枚一枚が生きてきた証。生き様そのものなのだ。