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米領下マニラの初期日本人商業, 1898-1920 : 田川森太郎の南方関与 [Development of the Japanese Commercial Sector in Manila, 1898-1920 : The Case of Jose M. Tagawa]

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東 南 ア ジア研 究 18巻3号 1980年12月

米領下 マニ ラの初期 日本人商業,

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- 田 川 森 太 郎 の 南 方 関 与

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1898-1920

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TheCaseoflos

eM.Ta皇awa

Y oko Y osHIKAW A*

Thisstudyisabouttheinvolvementofanordinary individualinthePhilippinesduringtheMeijiperiod. JoseMoritaroTagawa,1864-1920,wasawell・known businessmanin ManiladuringtheBrsthalfofthe Americanperiod・ Thispaperdiscussesthedetails ofh).Slifeandactivitiesandalsodescribestheearly JapanesecommercialsectorinManila.

Tagawa'sinvolvementwaspurely accidental,as canbeseenfrom hisfamilybackgroundandlackof education. Itwasthe月exiblenatureofhischaracter which enabledhim toadapttoPhilipplneCulture・

は じ め に 本 稿 は明治期南方 関与 の事例研 究 と して無 告 の民, 田川 森太郎 の フ ィ リピンへ の関わ り 方 を 実証 的 に 跡 づ ける ことを 目的 と して い る。 田川森 太郎 は1898年 か ら1920年 まで マ ニ ラの 日本 人 商業界 の先 駆者 で あ った。 した が って本 稿で は マニ ラ初 期 日本 人商業 の発 達 も 併せ て 明 らか に した い。 今 日まで マニ ラ日本 商業 の草 分 けと して 田 川 森太郎 が十 分 に知 られ なか った の は研究 領 域 と資料 の制約 に よる と ころが 多 い 。第

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に, 矢 野暢 によ って明治期 の南方 関与, す なわ ち *京都産業大学外国語学部;FacultyofForeignLan一

guages,ⅩyotoSangyoUniversity

Hewasthe丘rstJapanesetosettleinManilaona long-term basisaround1891・ Beingatraderand JapanesemarriedtoaFilipina,helivedinamulti -culturalsetting and was able to link Filipinos, Westerners,and Japanese・ He pioneered in the developmentofJapanesecommercein Manilabut afterWorldWarIheretreated from theforefront of business and the Japanese community・ This actionseemstobelargelyduetoadeepsentimental attachmenttoJapan. 庶民 の南 方 関 与が と りあ げ られ るまで は研究 対 象 と して掘 りお こされ なか った。1)第2に, 明治 期 の 日本 人 と フ ィ リピ ン人 の人 間交流 は 民 族 主義 者 を 中心 にみ る傾 向が あ った。第3 に, フ ィ リピン に お け る 日本 人 商業活 動 は 1903年 (明治36)以 降 の移民 か ら発達 した と され, 2)スペ イ ン統 治末 期 か ら1920年 ごろま で の 日本 人商 業 活動 は無 視 され るか, とるに 足 りな い と して片 づ け られて きた。 「1930年 1)本稿で用いる南方関与,南進論の用語の概念は 矢野 【1975;1979]による。 2)一般的に移民労働者が小資本を蓄積 し,大工, 菓子(アパ)行商,氷屋,ハ ウス ・ボーイを経て雑 貨屋や小売商へ発展 したというパ ターンは妥当 である [入江 1943:234-249;Provido 1936: 57]。 - 31- 387

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東 南 ア ジア研 究 18巻 3号 代 以 前の 日本 人 とい え ば,大 工 や ダパ オ麻 農 民 ・漁 夫 に代 表 され る。 わずか にマ ニ ラ市 に 開か れ たバ ザ ーや写 真 館 は例外 的で あ った。 何 千 人 とい う華僑 系小 売 商 に比べ る と ものの 数 で は なか った」tHayden 1972:712]か ら で あ る。 この た め従 来 の研究 は1930年代 の 日 本 人 商 業 を中心 に した ものが多 い [Guerrero 1966;Provido 1936;Quiason 1968]。 し か し実 際 には1920年 まで に マ ニ ラの 日本 人商 業 は実 質 的 な発 達 を とげて いた [Mendnueto 1934:7-8]。 その 中心 とな った のが ビノ ン ド 区 プ ラサ ・デ ル ・パ ドレ ・モ ラガ (Plazadel PadreMoraga)に 開 か れた 田川 商店 で あ る

ことは ほ ぼ間違 い な い。3) 第 4に, ダパ オ 日本人 移 民 とその指導者 の 太 田恭三 郎 の 知 名度 の 高 さで あ る。4)ダパ オ は本 質 的 に 「日本 人 の楽 園」 で あ り, 日本 人 社会 建 設 に貢献 した太 田恭三 郎 の功績 は ミン クル (Mintal,Davao)の記念碑 (1926年建 立) が象徴 して い る。 しか し, マニ ラは本 来 的 に 国際都市 で あ る。 田川 は1893年 ごろか らす で に ドンの敬 称 で呼 ばれ, 名の知 られ た 日本 人 で あ った

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1893.6.3.付 田川 の 公 文書]。 しか し 日本 人 の 特殊共 同体 の 建 設 は意 図す る ことを しなか った。太 田恭三 郎 の 記念 碑 はい まや朽 ちか けて い るの に対 し, 田 川 の記念物 は マニ ラに残 る教 会 型 の Familia Tagawaの墓 と, それ を守 る フ ィ リピン人 子 孫 とい う生 きた証 で あ る。5) 田川 森太 郎 は教育 ・家柄 ・資 本 の ない こと, フ ィ リピ ンの植 民地 建 設 の需要 を末 端 で満 た 3)フィリピン商務局国内小売業担当官は,日本人 小売商の最初の店は米債下のエチャゲ街(Calle Echague)と トン ド区 レアル街 (CalleReal)に 出現 したと述べているが,どれをさしているの かはっきりしない[Luz 1934:7]。 4)太田恭三郎は1876年 (明治9)

兵庫県朝来郡竹

田町の地方名家の三男に生 まれ,一橋高等商業 を中退後,濠州の木曜島移住に失敗 して,1901 年 (明治34)7月 フィリピンに渡 った [井上 1927:290-291]

388 す役割 に よ って生 きた こと, とい う点 で は, 1903年 (明治36)以 降 の移 民 労働者 や か らゆ きさん と同 じで あ る。 時間 的 なずれ を調 整す れ ば両 者 の照準 は重 な る。 ただ 田川森 太郎 は 先 駆者 的実 業 の民 と して成 功 し,半 生 を異文 化 に定着 させ た人物 で あ る点 が注 目に値 す る といえ よ う。 Ⅰ 田 川 森 太 郎 論 1 生 いた ち と出帆 田川森太 郎 は1864年 (元 治元年)10月 10日, 長 崎県 西彼杵郡 茂木村 藤 田尾七拾 六 番地 , 田 川 安 五郎 と ヨネの二 男 に生 まれ た。兄弟 は兄 茂三 郎1859年 (安 政 6)坐 ,弟 森吉 1871年 (明 治

4

)生 の男 ばか りで あ る。 家 業 は農 業 で あ った が,詳 細 はわ か らな い。 茂 木村 は16世 紀 後半 , イ エズ ス会 の知行 嶺 を経 て直 轄領, 天 領 とな り廃 藩 置県 まで御 代 官 の支 配 を うけた [片 岡 1978:19-23;茂 木 町 1958]。長 崎半 島の西側 ,天草灘 に面 した 山地傾 斜地 の茂 木村 の村 民 の生 活 は半 農 半漁 で あ った が, 山地 多 く平 地 少 ない土地 の農業 とは商 業 作物 の果物 栽培 ・畑 作 が中心 で,水 田は誠 に乏 し く, その あ りさまは1915年 (大

4) で 「生 産高年 間 1,500石 にす ぎず して 村 内住 民 ,3,4カ月 の需用 に充 て るに す ぎ ず」,残 りは村 外 か らの輸入 に頼 って いた [茂 木 尋常 高等 小学 校他 1918]。 当然,扶 養 人 口が増 え るはず もな い。1864 年 (元治 元年 ) の茂 木村 は総 数687戸 ,7,494 名 で あ るが,1885年 (明治18)で は 1,758戸 と戸 数 は倍 増 を みた に もかか わ らず,人 口は 7,625名 に止 ま って い る。 1930年 (昭和 5) で も1,921戸 で,人 口は 12,065名 と伸 び率 は 5)田川と妻 ビク トリアナ (1945年9月26日死亡) の墓は北部墓地にある。 ロ-ス大統領やケソン 大統領の墓にはさまれて古色蒼然と建つ。藤田 尾にもりっぱな墓がある。孫は3名健在で,い ずれも社会的に高い地位にある。 - 32

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-吉 川 :米 領 下 マ ニ ラの初 期 日本 人 商業,1898-1920 緩 や か で あ る。 藤 田尾 は 茂 木 村 の 中 で も 最 南 東 部 に位 置 し, 中心 名 の本 郷 とは難 路 不 通 のた め直 通道 路 が な い。 ま さに陸 の孤 島で あ った。18世 紀 中 ごろの茂 木村 は7名 に区 分 されて お り,顔 田尾 は千 々の一 部 で あ った 。 田川森 太 郎 が生 まれた 1864年 ご ろ には12名 に区分 され て い た

6

)長 崎村 の外 来 文 化 の 吸収 と 開 花 の歴 史 とは無 縁 の寒村 で あ った。 藤 田尾 は平 家 の落 人 部 落 とい わ れ, 田川 ら の

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世 代 前 まで腰 に刀 を さ して いた とい う。 急 傾斜 地 に貝 が付 着 す る よ うに家 々が海 に向 か って建 ち並 ぶ部 落 の ほ ぼ 中央 に, 田川 森 太 郎 の生 家 が 現 在 も残 って い る。 そ の貧 し く小 さな家屋 と対 照 的 に, 眼下 には小 さな入 江 か ら大 き く拡 が る海 が み え,寒村 特 有 の 閉塞 感 が , 海 こそ が漕 ぎ 出す べ き豊鰻 の世 界 で あ る か の よ うに促 して い る。 村 民 に は江 戸 や大 阪 へ 出稼 ぎ に行 くよ り も, 海 の道 を海 外 - 出 る 方 が ご く自然 で あ った ろ う。 この よ うに藤 田尾 を特 徴 づ け るの は第 1に 自然 条 件 に規 定 され た貧 しさ,第2に社 会 経 済 発 展 か らと り残 され た 貧 困で あ る。 これ ら は必 然 的 に余 剰 人 口の流 出現 象 を生 む.。水 田 の乏 しい経 済 形 態 で は, 農耕 社 会 の秩序 は育 ちよ う もな い。 家 族 を労 働 力 と して土 地 を 守 るた めの家 族 的紐 帯 や, 儒 教 的 家 族 観 が, 千 弟 を家 に拘 束 させ る よ うな ことは なか った と い え る。出稼 ぎ こそ が家族 を守 る道 で あ った 。 森 太 郎 の父 安 五 郎 は いつ の ころか らか,藤 田尾 を 離 れて お り,1894年 (明 治27)6月16日 58才 で 亡 くな る まで ,家 族 の面 倒 は ろ くにみ なか った。 見 茂 三 郎 も父 に似 た道 楽 者 で1879 午 (明治12) 5月13日付 で分 家 した もの の, 妻 子 を残 した まま佐 賀 に出稼 ぎ に行 き, そ こ 6)1770年 (明和7)には本郷,飯香蒲,木場,冒 上, 宮摺, 大崎, 千 々の各名がある。 1874年 (明治 7)にはさらに太 田尾,田手原,十郎, 早坂, 北浦 (元木場),藤 田尾が 加わ っている [茂木尋常高等小学校他 1918]。 に住 みつ いて しま った。 森 太 郎 は成 功 した の ちに この事 情 を知 って兄 を 「兄 弟 じゃない」 と嫌 って いた とい う。生 家 に常 に い た の は母 ヨネ と祖母 だ けで あ った。7) 男 兄 弟 の 二 男 の 運 命 で ,

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才 の 森 太郎 は 1874年 (明 治7)8月2日, 養 子 に 出て い る。 養 家 は藤 田尾 の南 へ 2km ほ ど山越 え を した 隣村 の漁 港 の村 ,為 石 村 百 九 拾 番 の船 大工 中 川三 次 で あ る。 明 治初 め の為 石 村 とい え ば漁 業 の好 景 気 で 沸 き

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「金 を借 りるな ら為 石 に行 け」 とい われ た とい う。 船 大 工 は 当然 人手 を 要 した ので あ ろ う。為 石 村 の好 景 気 は 明治末 期 に は消 え, 負 債 の村 と化 す [為 石 尋 常 高 等 小 学 校 1918]。 しか しこれ は 田川 の 出帆 の は るか の ちの ことで あ るか ら, 出帆 の原 因 に は考 え られ な い。 森 太 郎 の養 子 縁 組 が大 工 見 習 い とい う形 の 労 働 力 の確 保 の た めだ と して も, これ は手 に 職 をつ け る堅 実 な生 き方 で あ った ことは間 違 い ない。三 次 には森 太 郎 を養 子 に と った1カ 月 後 に長 女 モ ミが ,1881年 (明 治14)に次

ミチ と,女 ば か り生 まれ, 長 男三市 は森 太郎 の 出帆 後 と思 われ る1885年 (明治18)に生 ま れ て い るの で ,三 次 と して は跡 と り養 子 に と 考 え て い たか も しれ な い。 いず れ にせ よ, 森 太 郎 には将 来 一人 前 の船 大 工 にな る道 は確 保 され て い た の で あ る。 そ こで 森 太 郎 の'出帆 の動 機 に は次 の二 つ が 考 え られ る。 第 1は経 済 的上 昇 で あ る。 伝 聞 に よれ ば, 長 崎 港 で修 理 に 出向 いた外 国船 の 船 員 の もつ金 時 計 の鎖 を みて ,海 外 こそ が金 儲 けの場 と考 え,頼 み込 ん で船 員 とな って 出 帆 した とい う [渡 辺 1935:40]。 周 囲 には誰 ひ と り告 げなか った。 しか し森 太 郎 はす で に 大 工 と して 安 定 した道 を歩 んで い た し, 実 直 に修 業 す れ ば将 来 の棟 梁 - の道 は開 けて い た 7)三峰重三郎 (田川のいとこで乙吉の弟)のイン タヴュー (1977年11月21日),村 上 きみ (田川 の姪)のインタヴュー (1977年11月20日)。 - 33- 389

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東 南 ア ジア研 究 18巻3号 ので あ る。 決 して無 頼漢 や食 い詰 め者 で は な か った。 つ ま り, 田川 は国 内で は満 た され な い飛躍 的 で 自由な経 済 的上 昇 を海外 に夢 みた ので あ り, その点 で 明治期南 方 関与 の個 人 的 ロマ ンチ シズ ム が 支配 して いた と い え よ う [矢野 1979:58-60]。 第 2の動機 は徴兵 忌避 で あ った と考 え られ る。周 知 の よ うに,1872年 (明治5)

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1月28

日発布 の徴兵 編成 並拠 別 に もうけ られた各種 の徴 兵免 除項 目は,金持 の子 弟 に有 利 で あ っ た ので,貧 乏 人 の二 ,三 男 ばか りが徴兵 され る現 象 が お きた。 さむ らい魂 な ど もち合 わせ な い庶 民 は庶民 で忌避 のあ らゆ る手 だ てを講 じて逃 れた。養 子縁組 は庶 民 の と り得 る数少 ない方 法 で あ った。 森 太郎 の養 子縁 組 が1874 年 (明治7)で あ る ことは決 して無 関係 とは思 われ な い。 と ころが,政府 は1882年 (明治15), 免 除規 定 の 廃止 に 踏 み 切 った [松下 1907: 26-34;1955:562-563]。 森太 郎 は当時18か 19才で,徴兵年 令 は20才 で あ ったか ら,年 令 的 に も,伝 聞 に も符 号す る。事 実 ,母 ヨネは 行 方不 明 の森 太郎 の徴 兵忌 避 の罰金 ら しき金 を支払 って いた とい う

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)

2 無 告 の民 金持 にな りたい とか徴兵 を逃 げ まわ る とい う庶民 の青年 ら しい単純 な動機 を, 明治初 め の 日本 の近代 化 の端緒 の時期 に照 ら して考 え る時,指摘 して おか ねば な らない ことは, 田 川 森太郎 には初歩 的教 育 が全 くなか った とい う ことで あ る。 無教 育 は 当時 と して は珍 し く もなか った ことで あ るが,1864年生 まれ の男 子 が ひ らが なの読 み書 きの機 会 に恵 まれ なか った ことは, そ の時代 の個 人 の生 涯 に大 きな 影 響 を与 えた と考 え て よい。教 育 が ない こと の意 味 が 田川 森太郎 の生 涯 の行 動 を大 き く規 定 した といえ る。 幕 末 か ら1872年 (明治5)の学 制 令 まで の庶 8)三峰重三郎のインタヴュー (1978年4月3日)。 390 民教育 の普 及 の高 さが, 日本 の近代 化 に果 た した貢献 は よ く知 られ て い る [ド-ア 1970; 石 川 1929;Dore 1962

]

江 戸 期 の藩校 ,郷 学 ・寺 小屋 教育 と明治 の 公 立 教 育 は 目的 の上 で 同 じ連続 線 の上 にあ っ た。藩 や 国 は経 済社 会発 展 の人 材養成 の手 段 と して実学 教育 を奨 励 した。 ことに実学 が庶 民 の子 弟 に強調 され た ことに よ り,教 育 は庶 民 の経 済社会 的地位 の上昇 の有効 な手 段 とな った。教 育 は出 自に加 えて能 力判定 基 準 の重 要 な要 因 とな った ので あ る[石 川 1929:230; Dore 1962:84]。 幕末 の就学年 令 の男児 の約半 分 は,何 らか か の初 等教 育 を うけて いた。9) 逆 説 的 にいえば,全 国の約半 分 の男児 は初 歩 的教 育 の 機 会 を 享受 しなか った わ けで あ る。江 戸 や大 阪 ・京 都 の就学率 の高 さに比 べ, 北 部 と九州 は非常 に遅 れ,1884年 (明治17) の鹿児 島で は 自分 の名前 が書 けな い者 が

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%

もいた とい う [ド∼ア 1970.・300]。 地方 の 僻 遠地 な ら就学率 は もっと低 か った はずで あ る。 寺 小 屋 の開業 ・廃 業 が米 の豊作不 作 に帰 因す る米 価 と相 関す る とい う仮定 が正 しい と す れ ば [石 川 1929:396-405], 貧 しい藤 田 尾 に寺小 屋 が なか った と考 えて も不思 議 はな い。寺 小 屋 ・郷学 の発 達 の論 理 的根拠 は,極 貧 の庶 民 の子弟 で さえ,一通 りの教 育 を うけ ね ば な らない とい う もので あ ったが, 田川森 太 郎 らは そ う した公 立教 育的思 想 の恩恵 か ら はず され た ので あ る。10) 9)幕末 (1868年)の児童就学率は全国平均推定で 男児43%,女児10%である [ド-7 1970:299, 付録, 幕末における就学状況]。 藩校の57%が 藩士子弟以外の入学を許 していたという [石川 1929:195101873年の6-13才の就学率は男児 40%,女児24%,1875年では54%,19%である [ド-ア 1970:295]

10)明治に入 って も同様のことがいえる。例えば, 千々と藤田尾の境界に建て られた千藤小学校は 設立が最 も遅い上, ドーアによれば,隣接校区 を合わせた新小学校は遠 くなるため必ず しも就 学率を増大させたとは限 らない,と述べている [ド-7 1970:295]。 - 34

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-吉川 :米 飯下 マ ニ ラの 初 期 日本 人 商業,1898-1920 以 上 の ことが 意 味 す る と ころは, 第 1に, 通 常 の教 育 を手 段 と した社 会 経 済 的 上昇 は望 め な い こ と, つ ま り立 志 伝 中型 の立 身 出世 以 外 に社 会経 済 的 上昇 の道 は開 か れ て い な い と い う ことで あ る。 11才で 大工 見 習 い に 出た者 の40年 後 は一 介 の大 工 で 一生 を終 え る運 命 に あ った。第2に, 実 学 教 育 の精 神 で あ った実 践 道 徳 教 育 を うけなか った と い う こと で あ る。 実学 教 育 は基 本 的 には江 戸 教 育 の延 長 で あ った か ら,個 人 の 日常 生 活 規 範 と して実 践 道 徳 を学 ぶ場 で もあ った。 寺 小 屋 訓 戒集 や郷 学 の 「民 の一 生 の心 得」 は石 門心 学 や 報徳 運 動 の流 れ を くんで , 勤勉 , 倹 約 , 忍 耐 , 脂 従 ,孝 行 な どを教 え た。 この教 え の真 髄 は,価 人 の貧 困 や 困難 は これ らを守 る ことで 克 服 で き, 富 や 幸福 が もた らされ る とい う実 践 的 効 用 にあ る。 日本 の近 代 化 に及 ぼ した実 践 的道 徳 教育 の 影響 は, 技 術 や知 識 それ 自体 よ りは るか に重 要 で あ る。 個 人 を 国家 に一 体 化 させ る上 で 有 効 に作 用 した。 つ ま り, 明治 の 国家 教 育 は, 個 人 に対 す る効 用 を説 く実 践道 徳律 の基 盤 の 上 に, 国家 の富 と幸 福 を結 びつ けた。 そ こで 実 践 道徳 教 育 は衰 退 す るど ころか, 役割 を得 て 国民 の末端 に まで確 立 され て い く。11) 寺 小 屋 教 育程 度 の教 育 を うけなか った か ら とい って,必 ず しもあ る個 人 の生 活 規 範 が実 践 道徳 に基 づ か な い とは い い切 れ な い。 しか し, 田川 森 太郎 が養家 先 や実 家 の事 情 を考 慮 せ ず 出帆 した こ と, 勤勉 実 直 を信条 に忍 耐 し て大 工 と して生 きよ うと しなか った ことだ け は確 か で あ る。僻 地 の村 落 の生 活規 範 で は, 自然 に 日本 とい う民 族 国家 観 を は ぐ くむ こと もなか った に違 い な い。 マ ニ ラで成 功 してか らも

,

「日本 の た め に

「日本 人 と して」 とい う道 徳 律 を周 囲 に説 くよ うな ことは全 くな か ll)1872年 (明治5)の学事奨励 に関する被仰出書, 1879年 (明治12)の教育大 旨,1885年 (明治18) の国体教育主義など。 った。12)む しろ実 践 道徳 観 か らあ る程 度 自由 で あ った ことが 田川 の実 際 的行 動 を可能 に し て いた と考 え られ る。 第 3に,寺 小 屋 教 育 程 度 の読 み書 き能 力 の 有 無 は異 文 化 の 中で生 活 向上 を はか る才 覚 や 智 恵 に関係 しな い ことで あ る。 異文 化 の 中 で 「い ろは」 を知 らぬ ことは, 異 文 化 の現 地 語 の学 習能 力 の な い ことに比 較 すれ ば, あ ま り 障 害 で は な い。 もち ろん 知識 人 や エ リー ト層 の場 合 , 教 育 に よ る思 考 能 力 や知 識 力 の啓 発 は異 文化 にお いて も不可 欠 で あ る。 と りわ け 日本 国家 や H本 人社 会 - の貢 献 と還 元 を め ざ す た め には, 高 い教育 が 有効 で あ る。 以 上 の点 を踏 まえて, 同 じ島 崎 出身者 で年 令 も一 つ 違 い の菅 沼貞 風 と田川森 太 郎 を比 べ る と, フ ィ リピ ン- の 関 わ り方 の鮮 や か な相 違 に驚 か ざ るを得 な い。 田川 も菅 沼 も長 崎 で 貧 困 に育 ち, まわ りま わ って 同 じころ, マニ ラに渡 った。 しか し, 両 者 の 出 自 と教 育13)の圧 倒 的 な違 いか ら,彼 らの フ ィ リピ ン- の関 わ りは経 緯 と 目的 を全 く異 に して い る。 菅 沼 の フ ィ リピン行 きが 明治 期 南 進 論 の実 践 の前 準 備で あ った ことは1889年 (明治21) 6

1日に書 か れ , 昭 和15年 に な って世 に紹 介 され た 「新 日本 図南 の夢」に明 らか で あ る。 同 論 文 は題 名 に違 わ ず, お そ ろ し く非現 実 的 か つ壮 大 な南 進 構 想 で あ る。14)しか し菅 沼 の 12)渡辺勝頼 (元田川商 店 社 員) 甲 インタヴュー (1977年10月4日)0 13)菅沼貞風 (貞一郎)は田川より1才若 く,1865 年 (慶応元年)3月10日,平戸の松浦肥前藩士 菅沼量平の長男に生まれた。父は文武に通 じた 人物で,貞風は陽明学の楠本端山に師事 したの ち,松浦詮公の旧藩校猶興書院に16才で入学, 中退 して働きなが ら 『平戸貿易誌』を著 した。 さらに1884年東京帝国大学に入学 し,卒業論文 に 「大 日本商業史」を著 した。 14)日本を欧米列強なみの世界の貿易国にするため の諸政策の一段階 として

,

「しば らく他国人に 預けてあった日本の新版図」である南洋- 日本 人の移住 ・殖民 ・通商をお こそ う とす る構 想 [菅沼 1940:644--663]。 - 35- 391

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東 南 ア ジア研 究 18巻 3号 夢 の 中の南 洋 や フ ィ リピ ンは, 「眠 れ る象 」 の中 国観 とは反 対 に, 御 しやす い資源 豊 か な 国 にす ぎず , 欧米支配 か ら日本 支配 へ タ ライ まわ しされ る客 体 にす ぎな い。土地 や資 源 が 主 体 で あ り, か け橋 とな る 日本 人移住 者 や フ ィ リピ ン人 の生 活 ・文 化- の視座 は構想 か ら 欠 落 して い る。 したが って

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年 (明治

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2

)

4月 の菅 沼 の渡 比 の 目的 は,短 期 の現地 調査 の結 果 を建 白書 に して 日本 政府 に政 策提 言 を

l

行 うことで あ った。 マニ ラ 日本 領事 館 内の一 室 で,病 後 の身 を も省 りみず, 日本 人 ペ ース を そ の ま まに 日夜調 査研 究 に奔 走 した結 果 , 3カ月 に して客死 す る。 あ ま りに 目的合 理 的 な行 動 と人 間生 活文 化 - の視座 の欠 落 とが, 菅 沼 の死 に関係 が ない とはいい切 れ ない。 で は, 田川 は どの よ うに して フ ィ リピ ンへ 渡 った ので あ ろ うか。 出帆 後 の 田川 は ス クー ナ-船 に乗 り込 んで あ ち こち航 海 した の ち, 運 河 建 設工 事 で賑 わ うパ ナ マで酒場 の ボー イ にな った とい う。 仮 に

1

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年 (明治

1

5)

か , そ の翌 年 に 日本 を 出た とす れ ば, 当時 の主 な 商 船 の

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2

.

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% は まだ ス クー ナ -船 や ク リッパ ー帆船 で あ った し

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年 (明治

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ごろで も

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4

%

を 占めて いた ので [杉 浦

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9:1

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3

]

, 田川 が大 洋 を巡航 して いた ことは十 分考 え ら れ る。 パ ナ マ運 河工 事 は

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8

1

年 (明治

1

4

)

に開 始 され た が, 黄熱 病 の猛 威 と財 政 難 の た め8 年 後 に中断 され た [山 口

1

9

8

0:

6

9

-

1

0

5

]

。 し たが って 田川 が パ ナ マで マ ラ リアにか か って 放 置 され た とい う話 も [渡辺

1

9

3

5:4

0

]

,時 期 的 に ち ょうど符 号す る。 パ ナ マか ら和蘭 船 に乗 って見知 らぬ土地 へ上 陸 した の は

1

8

9

0

(明治

2

3

)

で あ った とい う [南 洋年鑑

1

91

8

]。 そ こが フ ィ リピンのパ ナ イ島 イ ロイ ロ(

I

l

oi

l

o

, Panay) で あ る ことは上 陸後 に知 った ので あ るか ら, フ ィ リピ ン-渡 った のは全 く偶然 で あ って海 の道 の漂 流物 の ご と く流 れ寄 った に す ぎな い。南 進 論者 の 「南 へ南 -」 か らは最 も遠 い と ころに位 置す る。

3

9

2

イ ロイ ロ上 陸後 , 最初 に出会 った フ ィ リピ ン人 がた また ま船 大 工 で あ った ので, 身振 り 手 振 りで 自分 の大 工 の腕 をみせ 相 手 に受 け入 れ られた とい う [渡辺

1

93

5:42

-

43

]

。 イ ロ イ ロには2年 弱滞 在 した といわ れ るが,正 確 な と ころはわか らな い。 田川 森 太郎 が初 め に フ ィ リピ ン人社会 に受 け入 れ られ た要 因 は, 言 葉 で も地 位 で もな く大 工 の技 術 で あ った こ とは注 目に値 しよ う。 この よ うに菅 沼貞 風 は一時 滞在 に もかか わ らず,偉 大 な著作 と南 進思 想 と悲 劇 的 な死 に よ って後世 に南 進論者 の 名を残 した。 田川 森 太郎 は延 々と生 き延 びて, フ ィ リピンに根 を は り,菅 沼 の夢 みた通 商 を実践 した が,全 く 日本 に知 られ る ことは なか った。歴史 の流 れ の エ ネル ギ ーで あ る庶民 の軌跡 には, 自己の 存 在 を誇 示 す る もの は何 一つ な く, わず か の 痕 跡 こそが相 応 しい。 Ⅲ 明治

2

0

年代 の マニ ラの 日本人

1

笛 吹 けど も踊 らず 明治

2

0

年 代 の 日本 と フ ィ リピンの交 流 は少 な く, た め に 日本政府 は通 商 拡大 を め ざ して 基 盤 づ くりに熱 意を示 し始 めた。 そ の最 大 の表 明で あ る

1

8

8

8

年 (明治

2

1

)1

2

2

9

日の マ ニ ラ 日本 飯事 館 の開設 には二 つ の 働 きか けが あ った。 一 つ は

1

8

8

6

年 (明治

1

9)

に開設 され た ス ペ イ ン領事館 の働 きか け, も う一 つ は同年

3

12

日, 日本 政府 の命 を うけ て

2

0

日間 の フ ィ リピ ン調 査 を行 な った南 貞助 香 港領 事 の勧告 で あ る。 いず れ も基 本 的 には 通 商 拡大 , 貿 易促進 を 目的 と した が, スペ イ ン政府 は移 民導 入 も考 えて いた [奥 田

1

96

8:

21

0

-21

5;

∫.

M ・F.A・

3.

8・2・1

4.

比律賓 -]。 南 領事 は井上外務 大 臣へ の報 告書

(

1

8

8

6

年 7月 9日付)な らび に南 洋貿 易拡張 意見 書 (同 年 9月

25

日付 ) の 中で, マ ニ ラに 日本 領 事館 開設 の必 要 を強 く進言 した。 それ は 「今 日迄 - 36

(7)

-吉川 :米 債 下 マ ニ ラの 初 期 日本 人 商業,1898-1920 日本 人 ヲ雇 ヒ其 ノ業 ヲ振 起 セ シ メ ン ト欲 スル モ ノナ キ - 元 来 西粧 牙人 等 唯 夕支 那 アル ヲ知 リテ 日本 ア ル ヲ知 ラス現 二 日本 陶 器 銅 器 等 ヲ 買 フモ支 那産 ニ シテ 支 那 ヨ リ乗 ル モ ノ ト信 シ 日本 -何 地 ニ アル ヤ ヲ知 ラサ ル モ ノ多 シ」[同 上 書 :

2

1

4

]

とい う実 状 に鑑 み , この ま まで は 日本 人 の活 動 や 日本 の存 在 は望 め な い と考 え た か らで あ る。 サ ン バ ロ ク 区 サ ン タ ・メ サ 街 3番 (Sta. Mesa,Sampaloc)に開 設 され た 日本 領 事 館 は

1

8

9

3

年 (明 治

2

6

)

に一 時 閉鎖 され る まで

5

年 間 弱 続 く。 併 置 され た 日本 商 業 館 に は 「本 邦 ノ織 物 外 各 種 商 品 見 本 」 が 陳 列 され , 円本 政 府 や 各県 の 意 気 込 み が 窺 わ れ る。 そ して 日本 の知 識 人 や 政 治 家 の 間 に海 外 殖 民 事 業 と商 権 拡 張 の積 極 論 が 風 歴 して い た 。 しか しな が ら こ う した エ リー トの熟 は,

1

7

カ月 の フ ィ リピ ン滞 在 中 , マ ニ ラか ら1歩 も出 な か った 初 代 領 事谷 田部 梅 吉 の , 露 骨 な フ ィ リピ ン人 と文 化 - の侮 蔑 と偏 見 が語 って い る よ うに, フ ィ リピ ンの生 活 文 化 や 人 間 に対 す る関心 の 高揚 で は なか った [谷 田部

5:1

3

-

1

9

]

。す な わ ち, 相 手 国 の領 土 と資 源 を 日本 の 経 済 権 益 を は か る に どの よ うに利 用 す るか とい う関心 で あ っ た 。

1

8

8

8

年 (明 治

21

)

当時 の在 留 邦 人 は た った

3

5

名で , 公 務 2名 , 領 事 2名 を 除 けば, 商 用

4

名, 軽 業師

1

2

名 , 水 夫

1

5

名 で あ る。 大 半 は 一 時 滞 在 者 で あ った ろ うが , 中 に は

1

0

数 年 以 来 マ ニ ラに い た 人 や , 「明 治 6年 頃渡 比 した 大 阪 の手 品 師 」 な ど もい た よ うで あ る [同 上 論 文 3:

5

]

H本 人 の 軽 業 師 の海 外 興 業 は慶 応 年 間 に 始 ま った が [飯 野 町 史 談 会

1

97

7:8

3

-

8

6

],フ ィ リピ ンの よ うに興 業 ら しき もの が な い と ころ で は新 聞 紙 上 に 「日本 人 ア ク ロバ ッ ト

の 宣 伝 が 出 る と, 「大 阪 の 千 日前 な らば 1鏡 5厘 位 」 の もの が

50

鏡 にて」, そ れ で も 「総 督 な ど馬 車 を駆 って 来観 す 」 る あ りさま で あ っ た [大 阪 毎 日新 聞

1

898.

7.

1

0.;

M .T. 1903.

7.

3.

]。 当時 , 日本 人 で マ ニ ラ と直 接 貿 易 にか か わ って い る者 は ひ と り もな く, 直 航 路 の船 便 も なか った [谷 田部 7:

5

1

]

。この た め 日本 郵 船 は

1

8

90

年 (明治

2

3

)1

2

月 , 神 戸一 長 崎 一 福 州 一 度 門一 馬 尼 刺 に毎 月 1往 復 便 を就 航 させ , 尾 張 丸 を 配 して 同 社 初 の南 方 航 路 を 開 い た。 しか し, そ の成 果 は ほ とん ど な か った よ うで あ る [日本 郵 船 株 式 会 社

1

9

3

5:

8

6

]

。15) 服 部 徹 が 『南洋 策 』 を 著 して , 通 商 貿 易 の 新 天 地 「フ イ リピー ヌ群 島 」 の 紹介 に努 め た の も 政 府 の 通 商 政 策 に 沿 うた めで あ った。 「我 日本 帝 国 二近 適 シテ親 密 ナル 関係 ヲ有 ス ル群 島」 で は, 「今 ヤ マ ニ ラニ -我 領 事 麻 ア リ, 貿 易 商 票 ノ保 護 ヲ得 - キ官 衛 ノ設 ケ -, 南 洋 群 島 中濁 り布 畦 卜呂末 アル ノ ミ」で あ る 。 に もか か わ らず 「未 夕一 人 ノ商 雷 移 民 ヲ見 ス」 「我 商 責 - 何 力故 二 眼前 此 ノ好 華 主 ヲ疎 ンス● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ル ヤ

「マ ニ ラノ市 中 二我 商 館 ノ其 軒 ヲ列 -● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ン ヲ希 望 シテ 己 マ サ ル ナ リ」 と訴 え た [

●●●●●

● ● ● ● ● ● ● 服 部

1

8

9

1:4

8-

4

9

]。 ぬ か りな く貨 物 輸 送 に は 日本 郵 船 の 日本 一 マ ニ ラ定 期 便 の利 用 を 勧 め [同 上 書

4

3

],商 貢 移 民 が信 用 を得 て平 和 的 に殖 民 事 業 を 拡 張 す る よ う 説 い て い る [同 上 書 :

1

2

0

]

また , 殖 民 に熱 心 な榎 本 武 揚 外 相 の 意 を う けて

1

8

9

2

年 (明 治

2

5

)

, フ ィ リピ ンが 日本 人 の移 住 地 と して適 す るか ど うか を調 査 した佐 野常 樹 は , ス ペ イ ン統 治 ・教 会 支 配 を フ ィ リ ピ ン人 の立 場 か ら冷 静 か つ 厳 し く批 判 した。 佐 野 は, 天 然 豊 能 の 富 を有 す フ ィ リピ ンが商 工 農 業 の い ず れ も振 るわ ず , フ ィ リピ ン人 に 「憤 潜 の状 を見 」 た結 果 , 政 治 兵 略上 か らみ て 日本 が殖 民 を お こす ことは 「最 も今 日の急 務 には あ らさ る可 きか と考 ふ 」 と結 論 して い る [佐 野

1

8

9

2:1

9

-

3

2

]

。 15)尾張丸 は日清戦争中徴用 された。明治

3

0

年9月 この南洋航路 は廃止 された。

ー 3

7-

3

9

3

(8)

東南 ア ジア研究 18巻3号 表1 明治

2

9

9

1

0

日付 マニ ラ在留 日本臣民

1

0

名の連署 氏 名 本 籍 中野 牧太 贋島麟沼田郡安村大野百十四番 櫓山甚兵衛 虞島解虞島市鍛冶屋町百七十四番 石川麟太郎 鹿島麻贋島市小網町三十六番 富岡卯七郎 兵庫麟姫路市戸軒町百二十四番 松下 桂造 大坂府河内園君江郡曙川村大字東 弓削二番 篠原 耕六 大坂府堺市市乏町西二十九番 増 田徳次郎 香川麻讃岐園那珂郡榎井村字倉中 ノ町百六番 中川森太郎 長崎麻西彼杵郡茂木村藤 田尾 杉野宗太郎 長崎麻南高来郡島原村二十四番 杉野長十郎 上 同居 職 業 海外貿易会社支配人 海外貿易会社書記 海外貿易会社書記 大井 卜新1)代理人 飯島2)マニ ラ支店員 飯島マニ ラ支店員 飯島マニ ラ支店員 生 年 月 日 安政六年七月十一 日 嘉永三年八月 慶応元年十一月二 日 慶応三年七月十一 日 元治元年十一月二十三 日 明治九年五月二 日 分 身 族 民 族 族 民 士 平 士 士 平 士族 明治十三年六月三 日 平民 元治元年八月3) 平民 明治元年四月 士族 明治三年七月 士族 1)大井 卜新 (大坂市平野町四丁 目九十二番) 2)飯島商店 (大坂市松島町二丁 目) 3)正 しくは十月 出典 :

J

・M・F・A・[5・2・1・9・米西戦争一件 第1巻 「馬尼刺在留帝国臣民中野牧太外九名 ヨ ))ノ来 簡写

]

こ う した ス ペ イ ン 統 治 の 横 暴 さは

1

8

9

3

年 (明 治

2

6)

の鈴 木 成 章 書 記 生 も享報告 して い る 。 鈴 木 は 日本 人 移 民 を ス ペ イ ン官 憲 の 支 配 か ら 保 護 す る に は相 当 の覚 悟 を要 す る と して , 移 民 に は消 極 的 で あ る [入 江

1

9

4

3:ユ

1

3

-

1

1

4

]。 これ ら政 情 不 安 を反 映 して , フ ィ リピ ン在 留 邦 人 は減 少 の一 途 を た ど った。 谷 田部 領 事 が帰 国 した の ち,

1

8

9

0

年 (明 治

2

3

)12

3

1

日 現 在 で は, 公 務

2

名 の み, 翌 年 の

1

2

3

1

日現 在 で は公 務 2名, 商 用 2名 , ブ ラカ ンに そ の 他

1

名 の計

5

名 で あ る

[

J.

M.

F.

A.7

.

1

.

5

.

4

.

海 外 在 留 邦 人 ;東 邦 協 会 編 集 部

1

891:1

4

-2

2

]。 当然 ,領 事 館 に登 録 しなか った者 もい た で あ ろ うか ら, 実 際 の 人 数 は これ よ り多 か っ た で あ ろ う。 例 え ば ,

1

8

93

年 (明 治

2

6

)1

1

月 , 横 浜 貿 易 会 社 が送 った

3

0

名 の 日本 人 電 気 職 人 は [杉 野

1

8

95:1

2

4

]

,領 事 館 が 政 情 不 安 と, 日清 問 の 戟 雲 の急 迫 の た め前 月

2

6

日に 閉 鎖 さ れ た の で , 記 録 され て い な い。 マ ニ ラに電 力 発 電 所 が設 備 され 一 部 送 電 が 開始 され た の は

3

9

4

1

8

9

3

年 の こ とで あ るか ら

[

El

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899:1

5

2

]

, 彼 らは配 線 工 で あ った ら しい。 後 述 す る外 人 登 録 証 の い く人 か は電 気 職 人 で あ る こ と も こ の事 実 を 裏 付 けて い る。 マニ ラ領 事 館 閉 鎖 中 は香 港 領事 の 管 轄 下 に 入 った。 表

1

にみ る とお り,

1

8

96

年 (明治

2

9

)

9

1

0

日現 在 の マ ニ ラの商 業 関係 者 で 名 前 の わ か る もの

1

0

名, 同年

1

0

1

5

日付 清 水 香 港 領 事 の報 告 で は在 留 邦 人 は

9

名 にす ぎ な い 。 商 店 で は海 外 貿 易会 社 (また は 日本 バ ザ ー), 飯 島商 店 (また は大 阪 バ ザ ー), 大 井 卜新 の 出張 員 が 滞 在 して い た け.M・F.A

5

.

2

.

1

.

9. 米 西 戦 争 一 件]。 清 水 香 港 領 事 の 勧 告 で

1

0

2

3

日, 領 事 館 が 再 開 され た が,16)

1

2

31

日現 在 の在 留 邦 人 登 録 数 は公 用 2名 , 商 用 5名 と相 か わ らず 減 少

1

6

)

閉鎖 と再開 の 年月 日は Saniel

F

1

9

6

3:1

3

7

]

に よった。 『比律賓年鑑』第11-第

1

5

年度は, お のおの

9

1

3

日閉鎖

,1

0

2

6

日再開としている [比律賓年鑑

1

9

3

6

-

1

9

3

9

]

。 38

(9)

-吉 川 :米 領下 マ ニ ラの 初 期 日本 人 商 業,1898-1920 して い る[J.M .F.A. 7.1.5.4.海 外 在 留 邦 人]。 日本 側 の官 民 の努 力 に もか か わ らず , 笛 吹 け ど も踊 らず , スペ イ ン統 治末 期 の マ ニ ラ在 留 邦 人 数 は一 向 に増 え なか った。 これ と対 照 的 な の は, 後 述 す る よ うに ア メ リカの フ ィ リ ピ ン領 有 と同 時 に 日本 人 の流入 が激 化 した こ とで あ る。 この ことか ら進 出 には進 出先 の経 済 的機 会 と吸 収 力 な らび に政 治 的 安 定 が必 須 条 件 で あ る とい え よ う。 これ ら少 数 の在 留 邦 人 の 中 に, 田川 森 太 郎 は,1891年 の ブ ラカ ン居 住 の そ の他 1名, お よ び1896年 の10名 の うちの ひ と りと して登 場 して い るo さ らにそ の存 在 を立 証 す るの は, フ ィ リピ ン国立公 文 書 館 所 蔵 の外 人登録 記 録 の 日本 人 の部 , 189ト1898で あ る。 公 文書 は 一 部 が 残存 して い るにす ぎ な いが, 不 鮮 明 の もの と非 該 当者 を 除 い て43通 あ り,合 計31名 の在 留 邦 人 の氏 名 を知 る ことが で き るo 表 2 は31名 を年 月 順 に リス トした もの で あ る。 最 も古 い記録 は,1891年 (明 治24) 9月 7日付 中川 森太郎 の外 人 登録 発 効 (9月 4日) につ い て の フ ィ リピン総 督府 の通 知 で , ブ ラカ ン の ボ カ ウ工の査 証 印が あ る。 関川 関係 の文書 は 7通 あ って 最 も多 い。 最 も古 い文 書 のみ が 中川 姓 で,1893年 6月3日付 の 1通,1897年 の

5

通 は いず れ もホセ ・モ リタ ロウ ・タガ ワ で あ る。1897年 2月7日付 の滞在 継 続願 い の 査 証 申請 と5月28日付 の 田川 の外 人登録 証 紛 失 届 な らび に再 申請願 に は 自筆 の 署名 が み ら れ る。 後 者 は手 慣 れ た代 筆 で お そ ら く妻 か 身 内 の者 が書 い た もので あ ろ う。 前 者 に は 「ホ セ ・モ リタ ロウ ・タガ ワ, 日本 国民,35才 , ロー マ ン ・カ トリ ック,既 婚 , ビノ ン ド区 プ ラサ ・デ ル ・パ ドレ ・モ ラガ

8

番 に居 住 す る 商 人 」 と明記 され て お り, 6年 前 の ブ ラカ ン 居 住 時 代 よ りは るか に鮮 明 な姿 を あ らわ して い る。 6年 間 の 田川 の経 験 を述 べ る前 に, 表 2の31名 につ い て触 れ て お きた い(。 表 1と表 2の氏 名を比 べ る と, 共通 した人 物 と思 われ るの は 田川 (中

川)

, 富 岡卯 七 郎 (卯 次 郎), 篠原 耕 吉 (耕 六 ), 杉野 長 十 郎 ら だ けで あ る。 表2の1897年 (明 治30)の邦 人 の い く人 か は坂本 志魯 雄 の報 告 [尾 崎 1932] の随 所 にあ らわれ る。17)田川 の い と こで あ る 三 峰 乙吉 は1897年10月24日,27才 で入 国 した ことが わ か る。 また前 述 した電 気 職 人 た ちは サ ン ・ミゲ -ル区 ウ リィ ウ リィ街16番 に集 団 て外 人 登録 を して い る。 フ ィ リピ ン調 査 に 出 向 い た 清 水 香港 領事 と 楠 瀬陸 軍 中佐 変 名

K.

ヤ マダ の1896年10月3日付 記 録 もあ る。 これ らの在 留邦 人 の うち,フ ィ リピ ン革 命 , 米 西 戦 争, 比 米戟 乱 の激 動期 か ら, ア メ リカ の民 政 期 以 降 まで一 貫 して定 住 した者 , と く に商 人 は ほ とん どい な い。1899年 (明治32) 12月31日現 在 のル ソ ン島在 留 邦 人 の90名 の う ち,81名が男 子 で, 内訳 は商 用 は28名,公 用 3名, 留学 1名, そ の他 で あ る。 商 用28名 の うち,何 名 が フ ィ リピ ンの歴 史 的 変 動 を終 始 見 守 った の で あ ろ うか 。 これ を知 るた め に,1905年 度 と1906年 度 の 「マ ニ ラ, イ ロイ ロ, セ ブ案 内」 (以 下 「マ ニ ラ市 案 内」)

[

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1905 良 1906]の約13,000名の商 業 関係 者 か ら, 日本 人 の み を抽 出 して み る と,表 3の52 名 が得 られ た。 表 2と表3に共 通 す る 日本 人 は 田川森 太 郎 と三 峰 乙吉 で あ る。 表3の主 な 商店 は, 三 井物 産, 日本 バ ザ ー, マ ニ ラ ・バ ザ ー, 田川 商 店 で, 表 1の スペ イ ン統 治末 期 の商 店 とは違 って い る。 も っと もフ ィ リピ ン 国立公 文 書 の記録 も 「マ ニ ラ市 案 内」 も日本 人 の一部 にす ぎない の で,1903年 (明 治36)に 約991名18)とい う在 留 邦 人 の数 を考 え る と, 17)例えば田川のほか,前川新八郎,泉谷桔次郎, 篠原耕吉,富岡卯次郎,三峰乙吉 らである。

18)1903年の PhilippineCensusでは721名,同年6 月30日現在の在留帝国人員表 では991名である

[

J.

M・F.A. 7.1.5.4.海外在留邦人]。

(10)

蓑 2 フィリピン国立公文書館の外人登録文書 (日本人の部)による在 マニ ラ日本人,189ト1898 年 ; 月 日 氏 名 1893 (明26) JoseMoritaroTagawa 年令 l 住 1894 (明27) 1

Fukuzawalosaburo XawashitaKumezo MizunoKanekichi Nomura Bunzo Y

a

gishitaFusanosuk e Y

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aralchigoro [

]

susaki[]jiro 1895 (明28) 2・ll: Mi; KazwaunoXashitaKumenekichizo ; YeharaEchigoro 4 6 1 1 日 リ ‖ リ 2.15 9.17 9.22 9.26 10. 3 10. 3 YamaguchiGunsei YamadaK. KawayYoochitaro SuginoChugiro Har乱As乱 Har乱As乱 Shimizu∫. YamadaX.. 26 】 文 書 【 二 二∴ 三 ∵ 外人登録通知

16elbarriodetJliu

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i,St.Miguel 38 !5C4a.TeaUcl芝l

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外 人 登 録 ;商 人 外 人 登 録 ! 電 気 職 人 l 芸 芸 蓋 ≡ 闇 芸 カ ビ テ よ り 入 国

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40 !9LaCalleUliuli,St.Miguel 1

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,Binondo 28 E93LaCal】eGalve

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24 t8dePlazadelMoraga,Binondo

HoteldeOriente HoteldeOriente 紺 t 1-l l D D T T T T T DD D D D 人 人 人 人 職 気 商 電 商 商 録 録 録 録 登 登 登 登 人 人 人 人 外 外 外 外 外 外 外 外 登 登 登 登 人 人 人 人 鍾 録 録 録 外 人 登 録 外人登録通知 D D D D T 人 人 人 員 杜 商 商 商 会 淋 卦 7 ・} 7 雪 冷 ) 8騨 3 亜

(11)

1898

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! suzukiTokuta,. 2.7 JoseM.Tagawa 2・9 ;JoseMtTagawa 6・4 :JoseM・Tagawa 2・4 i NiyamaKogh iku

5・20 ; ShinoharaKokichi 4.30 IzumiyaSeijiro

9. 2 MaegawaShimpachiro 10.30 MitsumineOtokichi ll. 3 i Mitsumi neOtokichi 12・30 j YchikawaShigetaro 1 . 3 r YchikawaShigetaro

*

D:Domiciliado,T:Transiente 出典 :Radicacio71より作成 20 26 ; Serunan.∫.,Sta.Cruz

3ReinaRegente,Binondo 3ReinaRegente,Binondo 3ReinaRegente,Binondo

24 1 1

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登録 外人登録通知 書紛失再交付願 弓紛失再申請額 !再 交 付 通 知 j外人登録通知 ぎ 外人登録申請 r外人登録受取 ;入 国 tL外人登銅 請

登 録 ;外 人 登 録 j外人登録申請 1 外人登録通知 . 外人登録受取 !外人登録申請 外人登録受取 家事使用人 商 人 商 人 商 員 員且 員 員 入 社 杜 社 社 社 会 会 全会会商 DD D D 叫 jH : 米 療 T 7 --仙 ㊦ 営 避 EI 耕 > 轟 米 .

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(12)

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Fukuchi,S. Fukushima,Y. Hashimoto,M . Hashimoto,Onji Hayakawa Hayas

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tokichi Miyamoto,

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nnosuke Miyoshi,T ・ M ori 一九4iura Muraoka,Ihei Nakamura,S. Nakao,H. Nakayama,S. Narita,Goro Narita,J. Narita,M . 398 東南 ア ジア研 究 18巻3号 蓑 3 マニ ラ主 要 日本人 商業 関係者 リス ト,1905-1906

〇 〇

〇 〇

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prop/JapaneseBoardingHouse Japanesegrocer

icecream,prop/carriagefactory sales/BazaarManila

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慧 :aa崇 ,r - 42 -住 所 19Mendoza,Quiapo 46Carriedo,Sampaloc 330GralSolano,SamMiguel 18PlazaMoraga,Binondo 266Alix,Sampaloc 21Mendoza,Quiapo 13Tortuosa,Sampaloc 96Dulumbayan,Sta.Cruz; 67AIcola,Sta.Cruz; 28Concepcion,quiapo 186ReinaRegenteプBinondo 186ReinaRegente,Binondo 245Sam Miguel,SanMigue1 266Alix,Sampaloc

330GralSolano,SamMiguel 12Solis,Tondo

266Alix,Sampaloc

330GralSolano,SamMigue1

776Iris,Quiapo 47Mendoza,Quiapo 88Ali又,Sampaloc 116Ali

,Sampaloc

186ReinaRegente,Binondo 84Ali

,Sampaloc

18PlazaMoraga,Binondo 266Ali又,Sampaloc

330GralSolano,SamMigue1 26PlazaMoraga,Binondo 95Dlllumbayan,Sta.Cruz

165Marquez,Quiapo 10Marinque,Sampaloc 19Lavanderos,SampaloC; 40SamJose,Binondo 17Bustllos,Sampaloc

776Iris,Quiapo

24SamRo句ue,Sta.Cruz 229Real,tnt.

(13)

吉 川 :米 領 下マ ニ ラの初 期 日本 人 商 業, 1898-1920

Ohta,S. Okawa,S.

Okumura,Sadataka SamaJlma,W . Shimokuni,I. Sugihara

Sugimoto,Kakuri Suzuki,Saisho Tagawa,Moritaro Tarkeshita,S. Taketomi Uzuoka,H.(Mrs.) Yamamoto,GonglrO Yamamot() Yonetsu 商 店 ・会 社 名 JapaneseBank (KansaiBank) Japanese

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26-28PlazaMoraga,Binondo

38Gastambide,Sampaloc

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330GralSolano,SamMigue1

330GralSolano,SamMiguel

161Marquez,Quiapo

57Carriedo.Sta.Cruz;

10Marinque,Sampaloc

161Marquez,Quiapo

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・Cia.MaritimaAgents/shipping

出典 :RosenstockPublishingCo・【1905良 1906]より作成

-

43-96Dulumbayan,Sta.Cruz

276SamSebastian,Quiapo

36PlazaMoraga,Binondo

28Conccpcion,Quiapo

330GralSolano,SamMigue1

49Gastambide,Sampaloc

165Marquez,Quiapo

319M .delRey,Binondo

26T28PlazaMoraga,Binondo

26-28PlazaMoraga.Binondo 116Ali又,Sampaloc

18Ⅰ'lazaMoraga,Binondo

(14)

東 南 ア ジア研 究 18巻3号 50数 名 の例 か ら断定 す る こ とは難 しい。19)し か しスペ イ ン統 治末 期 か ら定 住 した主 な 日本 人 商 業 関係 者 な らば

,

「マ ニ ラ市 案 内」か らお ち る ことは な い と考 え られ るので , マ ニ ラ商 業 日本 人 と商 店 に関 す る限 り, ア メ リカの フ ィ リピ ン領 有 を境 に顔 ぶ れ は入 れ か わ った と い え よ う。 つ ま り田川 森太 郎 が 引 き続 いて居 住 した最 も古 い永 住 者 とい うことにな る。 2 ブ ラカ ンの- 日本 人 それ で は イ ロイ ロに流 れ 着 いた 田川 森 太 郎 が マニ ラの 商 人 とな るまで 何 を して い た の か , 断片 的 資料 を もとに辿 って み た い。

ブ ラカ ン州 ボカ ウ

ェ (

Boc

aue,Bul

acan)

時 代 の 田川 につ いて,杉 野宗 太 郎 が次 の よ うに 証 言 して い る。 マ ニ ラを去 る6里 ば か り先 の 村 に,5,6年 前 か らひ と りの 日本 人 が土 人 を 婦 に して百 姓 を して い る。 「中川 森 太 郎 とい う」 元 「長 崎 の大 工 」 で , そ の人 は 「20年 前 に 日本 を 出て所 々方 々船 に乗 って, マニ ラ鉄 道 の 開 け る時 にて鉄 道 で儲 け, 商 業 を や って 鱒 を持 って, それ か ら遊 んで い ます」。 田川 はす っか り「言 葉 か ら様 子 か ら総 て 上人 に変」 らず , 日本 語 は も う忘 れ て しま って, 「漸 く 私 (杉 野 ) が遇 うよ うに な ってか ら, 日本 語 を思 い 出す位 の こと」で あ った [杉 野 1895: 117]。 杉 野宗 太 郎 の描 写 は 田川 の土 着 化 の様 子 を生 き生 きと語 って い る。 ボ カ ウ工は マ ニ ラか ら約 22

km

北 にあ っ て, 当時 の汽 車 で ビノ ン ド区 の トゥ トゥバ ン

(

Tut

uban)

駅 か ら1時 間10分 か か った。 1897 年 当時 の ボカ ウ工は人 口6,000名 ,900余 戸 の比 較 的大 きな 町 で, マ ニ ラ 鉄 道 建設 景気 19)例えば,1904年 (明治37)3月,日露戦争に献納 金を寄せたサ ンバ ロク区中心のマニラ在留邦人 名簿は,表3の氏名と一致 しない [村岡 1960: 147】。神山辰次郎は明治30年 ごろマニラ鉄道会 社職工 として居住 していたが表2にな く,表3 のKamiyama,Tomyが同一人物 かどうかは不 明である。 400 で 労 働 者 や華 僑 商 人 が集 ま り賑 わ った とい う

[

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1979:1828]。 マニ ラ鉄道 とは マ ニ ラ- ダ グパ ン

(

Mani

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間 全 長 83.8

km

,29駅 , 16の橋 を もつ マ ニ ラ鉄 道 の最 初 の線 を さす。20)マ ニ ラ-ダ グパ ン線 工 事 は1889年 (明治22)に始 ま った。 そ の うちマ ニ ラか らボ カ ウ工を経 て マ ロ ロス

(

Mal

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)

まで行 く43.

4km

は1891 年 3月24日に開通 して い る。 田川 が マ ニ ラ鉄 道 工 事 で 働 いた とす れ ば,この前 後 で あ ろ う。 一 介 の労 働者 と して か, 大 工 か商 人 か は っ き り しな い [Ferro-CarriZ]。21) この ころの下 宿 先 の娘 が 妻 の ビク トリア ナ

(

Vi

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t

or

i

ana

)

で, 彼 らの結 婚 は ご く白然 で あ る。 日本 には1893年 (明治26) 11月20日付 で 婚姻 届 が 出 され て い るが, 実 際 は これ よ り早 か った で あ ろ う。22) ビク トリア ナ は ボ カ ウエ ー 帯 の デ ・ロ- ス

(

deRoxas

)

一 族 の 出身 で, 父 ホセ (

Jos

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)

と母 ビネ ッ ト

(

Vi

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)

の長 女 と して1853年11月 3日に生 まれ た。 田川 よ り11 才年 上 で あ る。23)両 親 が 田川 が カ トリック信 者 で な い ことを理 由 に結 婚 に反 対 した ので , 田川 は受 洗 し,以 後 ホセ とい う洗 礼 名 を 名乗 20)1887年1月21日の王室令に基づき,総督府はロ ン ドンの鉄道資本の 「マニラ鉄道会社」に全長 1,730kmの仝ル ソン島 の 鉄道工事に着手 させ た。その最初がマニラ-ダグパ ン線で,次にマ ニラ-ビコール,マニラ-バタンガス線が続い た 。 21)フィ リピン国立公文書館 所 蔵 の Ferro-CarriZ 仝58巻は,マニラ鉄道会社関係の史料なので, 1890年か ら1898年までの同史料には田川森太郎 の名前は見出せない。 22)ボカウエ教会 にはスペイン時代か らのLibrode Casanliento(結婚記録帳)とLibrodeBautismo

(受洗記録帳)が保存 されているが,1890年か ら1897年の記録には田川の結婚記録 と受洗記録 は見出せなか った。ボカウエ市役所には1919年 以降の婚姻記録 しか保存 されていない。 23)日本の婚姻届には1865年5月不詳 として届けて いるので,田川はビク トリアナの正確な年令を 知 らなかった ことになる。 - 4

(15)

4-吉川

:

米債下 マニ ラの初期 日本人商業

,1

8

9

8

-

1

9

2

0

った024)この改宗 は便 宜 的 な もので, 特 定 の 宗 教 か らの改宗 で もな い。 た とえ仏 教 徒 で あ った と して も多神 教 的仏 教 徒 には土着 化 カ ト リックに抵抗 は なか った で あ ろ う。 こ こに既 成 の価 値 観 や文 化 に固執 しない 田川 の性 格 が あ らわれ て い る。 妻 の両親 は裕 福 だ った らし く,木 製 の大 きな家 に住 み, の ちに 田川 と ビ ク トリア ナは これ らを相 続 した。25)

1

8

93

年 (明治

2

6

)

の あ る 日, 田川 森太 郎 は 突 然 故郷 の藤 田尾 に帰 り,死 んだ もの と思 っ て いた母親 を 驚 か せ た。

3

1

才 の 田川 の 姿 は

1

5

,6才 の姿 とどん な に違 って み えた ことで あ ろ う。 帰 国 中 に6月

2

9

日付 で 中川三 次 と 離 縁 して 田川姓 に もど り,茂 三郎 の戸 籍 に入 っ た。 11月 20日付 で婚姻 届 も出 して い る(,この 時 い と この三 峰 乙吉 に商 店 を開 くので マ ニ ラ に手伝 い に来 るよ う勧 めて い る。26) したが っ て 田川 が商店 を開 いた の は

1

8

9

4

年 (明治

2

7

)

で あ る ことは ほぼ確 実 で あ る [南 洋年 鑑

1

9

1

8:

興信 録]。27)この初期 の 田川商 店 は海 外 貿 易会 社 の代 理 店 で あ った と思 われ る [尾崎

1

93

2:

2

34;Sani

e

l

1

96

3:1

9

7

]

聞川商 店 の開店後

,1

8

9

5

年 (明治

2

8)1

0

3

0

日に生 まれ た娘 ホセ フ ァ

(

Jos

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)

と妻をつ れて, ボ カ ウ工の家 を留守 番 に まかせ , トン ド区 セ ダ ン ド街

(

Se

gundo,Tondo)

2

8

9

番 の アパ ー ト- 移 った。28)プ ラサ .デ ル ・モ ラガ の店 へ は馬 車 で通 ったが

,1

8

9

7

年 (明 治

3

0)

2月 マニ ラ政庁 が革命 軍 との戦 闘 に この貸 し 馬 車 を徴 用 して い る [同上書 :

1

5

4

]。 と ころ が返却 され た馬 と台車 が極 度 に破 損 して いた

2

4

)

TercsaZamora (娘ホセファの幼少のころか ら の親友)のインタヴュー

(

1

9

7

9

9

2

0

日)。

2

5

)

BliseoSilvestre(父が ビク トリアナの甥),な ら

びにFortunatoN.Roxas(母が ビク トリアナの 姪)のインタヴュ

ー (

1

9

7

9

9

1

0

日)0

2

6

)

三峰重三郎のインタヴュー

(

1

9

7

7

年11月

2

1

日)0

2

7

)

Saniclは,田川商店は日清戟争後のいつかに開 店された,としている【Saniel

1

9

6

3:

2

2

5

]

2

8

)

TeresaZamoraのインタヴュー

(

1

9

7

9

年9

2

0

日)0 ので, 商人 ら し く, マニ ラ政庁 に 日割 り計算 の損害賠 償請 求 を 出 して い る [同上 書 :

1

5

5

]O その ほか 田川 は大 工業 に も従事 して いた よ う で,

1

8

9

8

年 (明治

3

1

) 1

月 には 日本人 大 工 を 使 って ス- ビ ック海軍 基 地 の家 屋建築 を請 け 負 って い る [同上書 :

3

2

2

]。 フ ィ リピン革命 期 の 田川森太 郎 につ いて も 触 れ て おか ね ば な らな い。 田川 や マニ ラ鉄道 会社 職 工 で あ った神 山辰次 郎 らは, フ ィ リピ ン革命 の情 報 収 集 や視 察 に来 た 日本 人 ・軍 債 に と って貴 重 な存在 で あ った

。1

89

9

年 (明治

3

2

)

6月末 平 山周 ,原禎 ら 6名 の志 士 が エ ミ

リオ ・アギ ナル ド

(

Emi

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に接触 す るた め マ ニ ラに潜入 した時 , 宿 泊 ・通 訳 そ の他 の世 話 を した の も田川 で あ る

[

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1

96

9:

1

0

8

]

と りわ け フ ィ リピ ン人 の友 人 ・ 親 族 の人脈 , 土地 勘や言葉 に よ る助 けは情報 収集 に不 可欠 で あ ったrJ しか し,- 商 人 の 田 川 の坂本 志魯 堆 - の協 力 は, 同 じ日本 人 とい う文化 的共有 感 に発 した協 力 にす ぎず ,政 治 的 立場 や 国家 - の忠 誠心 ,帰 属感 か らで は な か った。 所詮 , 坂 本や平 LLlらは 田川 が 日本 に いて は 巡 り合 う ことの なか った 日本 人 で あ る′軍憶 や志 士は 田川 の もた らす情 報 や協 力 を頼 りに して初 めて 円滑 な情 報 活 動 がで きた に もかか わ らず, ふ と坂 本 が も ら した 田川 に 対す る 「君達 の よ うな叩 き大工 とは違 うよ」 とい う言 葉 には独 善 的 エ リー ト意識 が ぬ ぐい 切 れ ない [尾崎

1

9

3

2:

3

2

2

-

32

4

]。 他 方 , [引 旧まカテ ィプ -ナ ン

(

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n)

党 員や革 命軍 か ら日本 の援 助 を要 請 す る仲 介 役 を頼 まれ て い る

。1

8

9

6

年 (明治

2

9

) 5

4

冒, 日本海 軍 訓練 船 金 剛 丸 の 日本 人艦 長 とカ テ ィプ -ナ ン党 員が 日本人 の 商 店で会 見 した 時 , 田川 が通 訳 を務 めた といわれ る [サ イデ

1

9

73:

408;Sani

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]

。29)また フ イ

2

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)

LeRoyは金剛丸事件 について カティプ-ナン 党員の日本援助要請説を否定 し,単なる儀礼訪 問としているrLeRoy

1

9

7

0:

8

4

]

- 45 -

4

0

1

(16)

東 南 ア ジア研 究 18巻 3号 リピ ン革 命蜂 起 の1カ月 前 , ア ン ドレス ・ボ - フ ァン ョ(AndresBonifacio)か ら日本 の村 田銃 の購 入 計 画へ 助 力 を依 頼 され て い る [尾 崎 1932:208

]

3

0

)

こ う した革命 軍 か らの依 頼 は ボカ ウ工の フ ィ リピ ン人 親 族 や友 人 との縁 故 関係 か らもた らされ た もので あ る。 Ⅲ 明治30年 代 の マニ ラ日本人 商 業 1 田川 商店 と 日本 バ ザ ー - ビノ ン ド区-1897年 (明治30)秋 には革 命 の戦 乱 で商店 は閉 鎖 の止 む な きにい た った。 日本 か らの会 社 員 らの多 くが 日本 に 引 き揚 げ る と,坂本 志 魯 雄 が海 外 貿 易会 社 マ ニ ラ 支 店 長 を 引 き受 け, 田川 商店 も日章旗 をた て た坂本 の家 に移 り, 開店 休 業 とな った [同上 書 :312;大 阪毎 日新 聞 1898.7.10:14]。 田川 商店 が再 び登場 す るのは1899年 (明治 32)で あ る。通 商棄藁 の同年 の マニ ラ商業 報 告 には 田川 商店 と 日本 商店 (以 下, 日本 バ ザ ー) の2軒 が報告 され て い る[Saniel 1963: 138,注111]。 1899年 といえば,1月 に アギ ナ ル ドが フ ィ リピン共 和 国成 立 を宣 言 し,

4

月 には ア メ リカの第 1次 フ ィ リピン委 員会 に よ る フ ィ ))ピン寵有宣 言 が布 告 され た結 果 , ア ギ ナル ドの革 命 軍 が 中部 ・北 部 ル ソ ンで2月 以 来 の対米 抗 戦 を深 め て い く年 で あ る。 当時 の マニ ラ市 は欧米 列 強 の殖 民 ・商権 争 い の縮 図 で あ った。 ミステ ィ- ソや華僑 が小 金 融業 , 流通網 ,小 売 業 を, 欧米系 商 会 が輸 出入 業 ,工 場経 営 を牛 耳 って いた 。31)商業 の 30)計画は田川の貿易会社を通 じて,フィリピンの 麻,砂糖,タバ コなどを対 日輸出し,代金を日 本に止めおいて銃砲の購入代金にあてることに より,数十万円の銀行為替手形を組むことが避 けられるというものである。 31)1897年のマニラ市の主な企業はスペイン系45, ドイツ系19,英国系17,スイス系6, フランス 系 (店主)2である。 402 写真 田川森太郎 (右) と三 峰乙吉 1等 地 は旧 マ ニ ラ城 壁 町 の外 側 , パ シ ッグ河 杏- だ て た どノ ン ド区 で, エ ス コル タ街 や プ ラサ ・デ ル ・モ ラガ は そ の 中心地 で あ った。 日本 人 商 店 が独 力 で そ の 中 に喰 い込 る ことは 容 易 な ことで は なか った と思 われ る。 もっと もア メ リカ統 治下 で は,外 国人 の 商 店 開業手続 きは簡 単 で あ った。法 定 以外 の課 税 は な く,1ペ ソで経 営地 と居 住 者 の証 明書 を 買 い, 認 可法 廷 (LicenseCourt)に 口頭 で 場 所 , 目的,資 本 高 を述 べ,20ペ ソを支 払 え ば, 直 ち に 営業 鑑 札 を うけ る ことが で きた [井原 1909:275]032)輸 出入 商 の場合 は輸 入 許 可 の税 関通 過 に保 証金 を要 した ので多少 の 資本 力 が 要 った。 ア メ リカ統 治 に入 って か ら田川 商 店 (田川 32)営業税は輸出入商,卸売商,小売商とも全て年 頭の鑑札書書 き換え時に2ペソ払い,売 り上げ 総額 ・取引高の1,000分の3.3を年4期の分割納 入にする。 - 46

(17)

-吉川 :米 坂下 マ ニ ラの 初 期 日本 人 商業,1898-1920

出典 :CityofManilafrom OriginalSurveysof1904-1941(フィリピン国立図書館蔵)

図1 商 会 ,M .Tagawa& Cot)の住 所 番 号 は何 ら か の理 由 で か わ り, プ ラサ ・デ ル ・モ ラガ26 番 地 で あ る。 1904年 (明 治37) 5月 1日か ら 1906年 (明 治39) 12

31日現 在 まで の経 営 者 は 田川 森 太 郎 ,三 峰 乙吉 ,井 上 直 太郎33'の

3

名 で 共 同経 営 とな って い るが, 約40坪 の店 の 敷 地 は 田川 の 所 有 な の で , 実 質 的 に は 田川 が 経 営 者 で あ った に違 い な い。 資 本 金 は未 詳 , 午 33)井上直太郎 は,本籍 福間県 築士郡 角田林 字畑 952番,香港の クィー ンズ大学 卒業後,1897年 (明治30)10月 に渡比 し,田川商店で働いたの ち,太 田興業マニラ支店長にな った。 間 取 引高 4万 ペ ソで , H本 人4名, フ ィ リピ ン人3名 を 使 用 して いた 。 営 業 は 日本か ら直 接 雑 貨 を 輸 入 し, 仲 買, 小 売 に従 事 し, 商 品 は生 活 用 品 か ら絹 ・扇 子 ・漆 器 な ど贈 答 品 も あ った。 そ の ほか 日本 の米 穀 や疏 菜 類 を在 留 邦 人用 に輸 入 し卸 売 を した

[

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F.

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3.

7.25.農 工 商 漁 業]。 馬 鈴 薯 , 玉 葱 な ど の 日本 か らの 輸 入 は1901年 (明 治 34) に始 ま った が , 在 留 邦 人 に消 費 され るの み で 販 路 が 開 け て い なか った [井 原 1909:248]。 しか し田

は マ ニ ラに寄 港 す る 日本 海 軍 軍艦 に食 糧 を 調 達 す る仕 事 を まか され , 三 井 物 産 マ ニ ラ出 - 47- 403

(18)

東 南 ア ジア研 究 18巻3号

張所 が石 炭 を供給 して いた。34)

次 に 日本 バザ ー (JapaneseBazaar,Bazaar Japones)は プ ラサ ・デル ・モ ラガ 18番 にあ り,木村 絃 次郎 と福地 新 太 郎 の共 同経 営 で あ る。 ふ た りの本 籍地 は横浜 で, 店 員 は サ ンバ ロク区 ア リキ ス 街 266番 (Alix,Sampaloc) の下 宿 か ら店 へ通 った。 この店 の創 立年 月 や 経緯 はは っき りしない。35)1899年 (明治32) 7月21日 『マニ ラ ・タイムズ

紙 に初 めて 出 た同店 の広告 に よれば,横 浜 の 「デ オ ・ワシ ン トン」(DeoW ashington)の マニ ラ支店 で, 日本趣 味 の装飾 品 を扱 うマニ ラ唯一 の この種 の 日本 人 商

店 [

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1899.7.21.]とあ る。 つ ま り横 浜 の米 国系商会 が ア メ リカの フ ィ リ ピン領有 に眼 をつ けて支 店 を 出 した もの と推 測 され る。 資 本金未 詳,年 間取 引高 2万 5,000 - 3万 ペ ソ,使 用人 も比 較 的多 く日本人

3-4

名, フ ィ リピ ン人

2

名 で あ る

(

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F.

A.

[3・3・7・25・農工 商漁業]お よび表 3参照)。 日 本 バ ザ ーは別 名木村 雑貨 店 と も記載 され て い るが,1905年 (明治38)12月 1日現在 の所有 者 は福地 新 太郎 ひ と りにか わ って お り, 名称 も日本 バザ ー に戻 って い る。 したが って 日本 バ ザ ーは 田川 商店系 列 の井 上 ・三 峰 の創立 に よ るので は な く, あ る時点 で経 営権 を継 承 した もの と考 え られ る。 日本 バ ザ ーの経 営者 で あ った木村 絃 次郎 ・ 福地 新太郎 は1907年 (明治40)6月 下旬,何 ら か の理 由で,S・K・ウォーカー (S.K.W alker) とJ・R・ウ ォー カー (J・R,W alker)か ら4,750 ペ ソの支 払 い請求 訴 訟 を お こ さ れ て い る。 lM ・T・ 1907・6.ll.]。 同時 に 日本 バ ザ ーの 所 有者 は同年12月31日現在す で に井上直太郎 ・三 峰 乙吉 の名儀 に移 って お り,輸 入 ・卸売 ・小売 業 で年 間取 引高5万 ペ ソに増加 して い 34)TeresaZamoraのインタヴュー (1979年9月20

日)0 35)大 正 11年10月5日杉村恒造のマニラの雑貨店経 営者調べには明治28年 とある (表5参周)0 404 る。 田川商 店 は 田川森 太郎 ひ と りの経 営 にな り,取 引高10万 ペ ソと倍 増 して い る

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A. 3.3.7.25.農工商漁業]。 つ ま り 訴 訟 を契 機 に負債 を負 った木村 ・福地 が軒 を並 べ る田 川 に 日本 バ ザ ーの売 却 を 申 し入 れ, 井上 ・三 峰 が独立 して これを継 承 した もの と推 測 で き る。 同時 に 田川商店 は小売部 を並 川徳雄 の並 川 商店 に売 却 して ロサ リオ街 (CalleRosario) に移転 し, 輸 出入 業 , 卸業専 門 にな った もの と考 え られ る [金 ケ江 1968:64]。 これを裏 づ け るのが 『マニ ラ ・タイムズ』 紙 の 田川 商 店 の 二 つ の 広 告 で あ る。 1907年 (明 治40)11月 4日のは通常 の ク リスマス ・セ ール用,1908年 (明治41) 2月28日の は 「閉 店 につ きセ ール」 とあ る。 田川商店 が輸 出入 業 専 門 に転 じた背景 には, 後述 す る米 軍兵 舎 請 負工 事 の失 敗 が影 響 して い るに して も,磨 接 の原 因で は ない と思 われ る。 いず れ に して も, 田川 商店 系 列 の 日本 バザ ーは,1907年 (明治40) ごろに生 まれた と考 え るのが妥 当 で あ る。 ビノ ン ド区 はマ ニ ラの 中で も,商業 の 中心 で あ った ので,表 3にあ るよ うに, ほか に も 日本 人商 店 はい くつ か あ った。 まず三 井物 産 合 名会社 香 港支店 馬尼刺 出張所 はプ ラサ ・デ ル ・モ ラガ32番 に始 ま り,石 炭 ・綿 糸 ・セ メ ン ト・木 嶋 の 日本 か らの輸 出,砂糖 ・麻 ・コ プ ラ ・葉 煙 草 の フ ィ リピ ンか らの輸 出を扱 う ことにな って いたが,実 際 は専 ら三 池 の石 炭 を ア メ リカ民 政府 ,陸軍 の御 用炭 と して納 め るのが唯一 の主 な 仕事 で あ っ た [三 井文 庫 1971:下 170;M .T. 1902・5.10・]. 出張 所設立 の年 月 は確 か で はな い。36)進 出 36)明治32年 とある資料 もある[Commerci aZHand-booh 1924:42]. しか し明治32年5月ならびに 明治33年11月現在,三井物産香港支店に馬尼 刺出張所はない [三井文庫 1971:上410;下60 -61]。明治38年か らはサン ・ミゲ-ル区 へネラ ル ・ソラノ(GralSolano,SamMiguel)に移 っ た 。

参照

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