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『パンとぶどう酒』冒頭の都市像

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(1)

﹃パンとぶどう酒﹄冒頭の都市像

内容梗概

本序

論論

︹こ 市街の外延

剛。都市と農村

閣 農業の世紀

︹二︺‘ 都市

m -一 一 W (3)(2)(1) 論(4) (3) (2) (1)

 市壁の内側

’城塞都市

 首都シュトゥットガルト

市 民

 市民生活

 Jirleuchtung

 祝祭とオペラ文化

 変貌する社会

参考文献

-︵21︶頁︱ 三︵23︶頁

四︵24︶頁−

五︵25︶頁−

五︵25︶頁

七︵27︶頁

 七︵27︶頁− 八︵28︶頁

 八︵28︶頁∼一一 ︵31︶頁

T一・ ︵31︶頁−一三︵33︶頁

一三︵33︶頁−二二︵42︶頁

二二︵42︶頁−二九︵49︶頁

二九︵49︶頁−三五︵55︶頁

三五︵55︶頁−四〇’︵60︶頁

四〇︵60︶頁−四四︵64 ︶頁

四四︵64︶頁−四八︵68︶頁

Num Verst'andnis meiner Arbeit  四九︵69︶頁−五〇︵70︶頁    ﹁パンとぶどう酒﹂冒頭の都市像︵高橋︶

橋  克  己

人文学部独文研究室

   ﹃ 序 ’論  われわれにとって古典語をすらすら読んだり、流鴨に話したりするこ  とは必ずしも必要でない。私は、古典というものは、本質的に解読さ  れるべきものでおると考える。さっと読んで、ああ分かったといえる  ようなものは古典の本質ではない。何回も繰り返して読み、上から読  み、下から読み、後から読み、較べて読み、単独に読み、皆と一緒に  読み、ひと肛で読み、このようにして次第に開示されてくる意味こそ は、古典の含む本質的意味である。       ︵山田晶︰中世哲学研究、第一、X頁︶     r一      一・     r Johaココ Christian     Friedrich エOromIr一Z︰ ヘ ルダー﹃リ Jい 1  七七〇年−一八四三年﹄の手になる二行連句詩型VEXers'iov : Elegie︶の雄篇﹁パンとぶどう酒︵Brod und Wein︶﹂︵一八〇〇年− 一八〇一年︶は、西欧精神史の難問を内に蔵し、盛られた内容を読み解 くに容易ならぬ抒情的思想詩︵︵jedankenlyrik︶なのであるが、冒頭の 始まりは︼見するところ極めて日常的な表象に満ちており、在来の研 究では取力立てて問題にされることはなかった。例えば、第二次世界 大戦後の﹁パンとぶどう酒﹂に関する代表的な研究であるJochen

(2)

二二  高知大学学術研究報告 第三十二巻 人文科学 SCHMIDT︵シュミット︶の﹁ヘルダーリンのエレギー﹁パンとぶ どう酒﹂︵Holderlins  Elegie   。Brod   und   Wein”︶J︵一九六八年︶ では、全百六〇句からなる思想詩全体に百五十頁程に亙る註釈を施して いながらも、冒頭の六句全体については僅か一頁程︵三四頁−三五頁︶ の分量の註解をあてているに留まっている。なるほど思想豊かで難解な  ﹁パンとぶどう酒﹂の内容から考えて、思想詩冒頭の然りげ無い日常性 が意味を持つとは考え難か。つたのであをつ・ところが、何気なく当たり 前に思われるこの歌い出しの諸表象に注意を傾け、思想詩に盛られた内 容との関連に思いを凝らしてみると、解読されるべき様々な問題が既に この冒頭に素朴な形で提示されているのに私は気付いた。思想詩・第一   一       丿一一−      一     ″句では、一。つの世界空間として都市の夕暮の情緒が内証への探求に至る 門戸を開放する。ここで既に思想探求に相応しい内面空腸︵Innenraum︶・ として、市壁に取り囲まれた市街が選ばれているのである。、  ・ 。  この都市像を究明するにあたって本論では、当時すなわち江戸時代後 期の西欧の歴史的現実を考慮しながら、思想詩の映像や調べの喚起する 世界を裏付けてゆきたいと考えている。しかしながらこの際、ヘルダー リンに関する伝記的研究︵例えば、Wilhelm MICHEL:   -"ツヒエ ル﹁フリードリヒーヘルダーリン伝︵Das   Leben   Friedrich Hblderlins︶J二九四〇年︶は意外に頼りにならない。なぜなら、そこ では大抵詩人個人の人生行路や当時の政治状況が問題となるのであって、 残念ながら当時の日常生活の具体的な様子とか、その経済的基礎づけに はあまり配慮が払われていないからである。そこで本論としては経済史 や農史などの歴史研究の成果を踏まえ、﹁パンとぶどう酒﹂冒頭の詩想 が土台としている西歴一八〇〇年頃のドイツにおける都市と農村のあり 方、またそれらの各領邦における差異を顧慮するとともに、他の先進諸 国に比べ産業革命の立ちおくれていた当時のドイツ社会における生産様 式の発展段階をも留意したいと考えている。例えば、夜間照明の問題 ︵思想詩・第一句−第二句︶にしても、門閥の社交広間の華美な装飾用 釣燭台に輝く蜜蝋蝋燭は、。一般市民の手の届く代物ではなく、市民生活 の街路や屋内を点す光は獣脂蝋燭や油燈のささやかな燈火であったと考 えられる。  このような歴史探求が・詩想から遊離して空回りしないために、本論と してはできる限り思想詩の叙述に即して史的問題を扱ってゆきたい。本 論の始まりに都市の外延を扱うのは、脇道に逸れるためではなく、この 迂回を通して当時の西欧都市のおり方を正確に規定するためにほかなら ない。。都市経済の支配する流動的な今日の市民社会とは艮なり、当時ド イツは農村依存型の固定化した社会であり、この1 礎の上に既存の封建 的特権が息づいてお匂い装飾用釣燭台の輝く華麗な宮庭風オづフ文化が 咲き誇っていたの‘で﹃ある。﹁パンとぶどう酒﹂。第三句の﹁歩い・て帰宅す る人々︵⋮9grg:⋮  die Menschen︶Jとの対比で、私は第二 句の﹁松明を飾して︵大路を︶疾駆する馬車が過ぎ去る︵mit Fakeln geschmijkt。 rauschen die Wagen hinweg︶﹂に、歌劇場や社交の夜会へ と急ぐ門閥の姿を考え、これを﹁過ぎ去る︵hinweg︶﹂と歌った詩人 の姿勢に注目した。つまり、私は既存の﹁オペラ文化︵Kultur der 〇per︶﹂︵ニーチエ﹁悲劇の誕生﹂参照︶を否定して、新たに来たるべ き祝祭空間へと向けられた詩人の眼差をここに読み取ったのである。こ の関連で思想詩・中央部の﹁至福なるギリシア﹂︵第五五句︶における  ﹁天上の祝祭﹂︵第一〇八句︶が、﹁偉大なる運命︵モイラ︶の轟く ︵tonet das  groBe   Geschik︶J︵第六二句︶古典ギリシア祝祭悲劇の 時空として立ちあらわれる。すなわち、蒼宵の清澄な大気アイテールの 下、白昼に野外で催された古典ギリシア祝祭悲劇の誕生する開かれた空 間が、装飾用釣燭台の輝く西欧の歌劇場や社交広間の閉ざされた屋内と 好対象をなすのである。この関連で興味深いのが、ヘルダーリンが讃歌  ﹁ライン河︵Der Rhein︶﹄︵一八〇一年︶の第十節−第十一節や頌歌

(3)

 ﹁ルソー﹂︵一八〇〇年︶などで、英雄のごとき時代の予言者として 称えた Jean-Jacques   ROUSSEAU : ルソー ︵一七二一年− 一七七八年︶の﹁演劇論︵Sur les spectacles︶Jであろう。つまり、 ここでルソーが、共和国︵具体的にはギリシアの都市国家ポリスとかル ソーの祖国である西欧都市ジュネーヴ︶の祝祭の全人民的性格と宮庭風 オペラ文化の排他的︵exclusif︶な性格とを見事に分析し、オペラ文化 を眺み合わせて、祝祭空間の開けへと雄飛せんとしているからである。  同時代の資料として私は、ヘルダーリンの畏友Georg  Wilhelm Friedrich HEGEL :ヘーゲル︻一七七〇年︱︼八三一年︶の政治 論文﹁ヴュルテムベルクの最近の内情について﹂︵一七九八年︶の分析 を参考にして、思想詩・第一句に登場する領邦ヴュルテムベルクの首都 シュトゥットガルトの民会︵Landschaft︶における都市貴族の越権 と宮庭との癒着を考えに入れ、ヘルダーリンがこのような門閥に纒わ る華美な装飾用釣燭台や松明の光を﹁過ぎ去る﹂ものとして描き︵第 二句︶、それに対して、 ‘ 慎ましさと優しさに包まれてほのかに点る燈火 ︵Erleuchtung︶の街路︵第一句︶を都市像の象徴として心をこめて表現 しているのに注目した。  次に本論が主に問題とする﹁パンとぶどう酒﹂第一節の全詩節十八句 を、ツユトゥ。トガルト版ヘルダーリン全集の第二巻︵九〇頁︶より引 用してここに掲げておこう。  ※以下、ヘルダーリンの作品からの引用は、特に断らない限り、この   歴史的批判版により巻数と頁数のみを示す。   一'    Rings um ruhet die Stadt;  still  wird die erleuchtete Gasse。   二、  Und。 mit Fakeln geschmijkt。 rauschen die Wagen hinweg.   三、Satt gehn heim von Freuden des Tags zu ruhen die Menschen。   四Und Gewinn und Verlust waget ein sinniges Haupt   五、Wohlzufrieden zu Haus;  leer steht von Trauben und Blumen。   六、  Und von Werken der Hand ruht der geschafftige Markt. -一 一 一 一

﹁パンとぶどう酒﹂冒頭の都市像︵高橋︶

/ 書よミしjy士 十わいし  ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ゝ ・ ゝ ゝ

十六、

十七、

十八、

A b e r   d a s   S a i t e n s p i e l   t o n t     f e r n     a u s     G a r t e n ;     v i e l e i c h t 。     d a B     D o r t   e i n   L i e b e n d e s   S D i e l t   o d e r   e i n   e i n s a m e r   M a n n l i e r n e r   F r e u n d e   s e d e n k t   u n d   d e r   J u f f e n d z e i t :   u n d   d i e   B r u n n e n     I m m e r a u i l l e n d   u n d   f r i s c h   r a u s c h e n   a n   d u f t e n d e m   B e e t . s t i l l   i n   d a m m r i f r e r   L u f t   e r t b n e n   e e l a u t e t e   G l o k e n 。     U n d   d e r   S t u n d e n   e e d e n k   r u f e t   e i n   W a c h t e r   d i e   Z a h l . J e z t   a u c h   k o m m e t   e i n   W e h n   u n d   r e s t   d i e   G i p f e l   d e s   H a i n s a u f .     S i e h !   u n d   d a s   S c h a t t e n b i l d   u n s e r e r   E r d e 。   d e r   M o n d K o m m e t   e e h e i m n u n   a u c h :     d i e   S c h w a r m e r i s c h e .     d i e     N a c h t                                                                     k o m m t 。     V o l l ヨ i t   S t e r n e n   u n d   w o h l   w e n i g -  b e k i i m m e r t   u m   u n s 。 G l a n z t   d i e   F r e m d l i n e i n   u n t e r   d e n   M e n s c h e n     ・ ︱     U b e r   G e b i r g e s h o h n   t r a u r i g   u n d   p r a c h t i g   h e r a u f . 町 は 静 か に や す ら っ て い る 。 ひ っ そ り と 街 路 に ル は と も り 、 桜 鯛 を か ざ し て 馬 車 は と き に 音 立 て て 過 ぎ る ・

   昼の喜びに満ち足りて人々は家路に’つき、

   抜かりのない商人はわが恥にくつろいでその日の

五、損益を思いはかる・尉しかった広場には

    いまは葡萄も花も手芸の品々もない。

    だが 遠くの園からは威のひびきがきこえてくる。おそらくは

    恋するもののすさびであろうか、それとも孤独な者が

    遠い友らを また若い日を 偲んでいるのだろうか。噴泉は

 十、 絶えまなくほとばしって、匂やかな花壇を濡らしている。

    静かに暮れすすむ空にはいま打ち鳴らす鐘がひびき、

    夜警は時の数を告げて過ぎてゆく。

    ふと風が起こって林苑の梢をうごかす。

    見よ、われらの大地の影像 月もいま

十五、 ひそやかに立ち昇る。思念に酔う夜が

    満天の星をちりばめてやってきたのだ。われらのいとなみにはかかわ

     りなく

    この驚嘆すべきものは 人間の世に異郷の客としてかがやき出る、

    山々の背から、悲愁をおびて壮麗に。

       ︵手塚富雄訳、和訳全集、第二巻、一〇九頁︶

(4)

二四

高知大学学術研究報告 第三十二巻 人文科学

本  論

二︺ 市街の外延

  田 都市と農村

 思想詩﹁パンとぶどう酒﹂冒頭では、﹁町は静かにやす石っている

︵Rings urn riihet die Stadt︶Jと語られている。・`ここで町とは市街

で・あり、これは市壁︵Stadtmauer︶によって取り囲まれた内部領域で・・

ある。この市街が都市︵印乱巳の原形なのである。ところが、ドイツ

。でも十九世紀以降の産業革命01進展にともない、”都市本来の領域であぶ

市街部は旧市街︵Altstadt︶として歴史的迫物となっそしまった。す

なわち、旧市街の外延にも市街が拡がり、かつては田園地帯であった所

が新市街︵Neustadt︶として都市の一部になったからである。この結

果、昔8 のような都市と農村︵に乱或いはりoa︶との判然とした

区別はなくなってしまった。ところが、本論の扱う一八〇〇年頃のドイ

ツでは、都市が農村の田野の只中に輝いていたのである。その様をヘル

ダーリン自身が詩歌﹁閑暇︵Die MuBe︶﹂︷︸七九八年︶の第二〇

句以下で次のように描いている。

二 〇 、 U n d   n u n   f i i h r t   m i c h   d e r   P f a d   z u r u k   i n s   L e b e n   d e r   M e n s c h e n 。 二 一 F e r n h e r   d a m m e r t   d i e   S t a d t 。   w i e   e i n e   e h e r n e   R i i s t u n g   ’ 二 二 、 G e g e n       d i e   M a c h t       d e s       G e w i t t e r g o t t s       u n d     d e r       M e n s c h e n                                                               g e s c h m i e d e t 。 ニ ニ 、 M a i e s t a t i s c h   h e r a u f 。   u n d   r i n g s u m   r u h e n   d i e   D b r f c h e n ; 二 四 、 U n d   d i e   D a c h e r   u m h u l l t 。   v o m   A b e n d l i c h t e   g e r o t h e t 二 五 '       F r e u n d l i c h   d e r       h a u B l i c h e       ・   R a u c h 。   e s       r u h n       d i e       s o r g l i c h                                                                 u m z a u n t e n 二 六 、 ︵ J a r t e n 。       e s       s c h l u m m e r t     d e r       P f l u g       a u f       d e n       g e s o n d e r t e n                                                                   F e l d e r n .

      ︵第一巻、二三六頁︶

二〇、 やがて、小径が、わたしを人間の生活のなかへと連れ戻すと、

    かなたに市街がほのかに浮んで見える堂々たる眺めは、

    嵐の神や人間の軍勢に枯抗せんと鍛え上げた青銅の甲冑の

    眺めさながらだ。そして町の周辺には、小村がしずかに憩っている。

    ・夕ぐれの光にあかあかと染った屋根は

二五、 戸毎の炊煙になつかしく包まれ、心をこめて垣むすびした庭も安らい、

 y   鋤は、選別された畑でまどろんでい。る。。

      一。︵高橋英夫訳、和訳全集、第一巻、二七一頁︶

 ここでは都市の市街︵第二︶句︶が、ヽそれを取り巻く農村地帯︵第二三

 s一       f       !

句︶から明らかに・区別されで、﹁青銅の甲冑の眺めさながら﹂・﹁堂々た

’る﹂︵第二一句、第二三句︶姿を呈`している。他方、都市の﹁周囲には、

小村がしずかに憩っている﹂︵第二三句︶。’このような情景を、産業革

命を経て資本主義経済の発達した今日のドイツのあちこちで見い出すこ

とは困難である。もし類似の情景を探そうとするなら、限られた場所へ

足を運ばねばならない・。例えば、タウバー︵6呂g﹁﹂川沿いの田舎に

残る中世風の町ローテンブルク︵Rothenburg︶を訪れるならば、ここ

に歌われているような世界が今日でもなお意図的に歴史遺産として保存

されているのを確かめることができるであろう。

 農村がのどかに憩う様は詩歌﹁閑暇﹂においてしんみりと歌われて

いる。この安らう世界に向けられた眼差は、農家の仕事で重要な役割

を果す<Pflug>︵第二六句︶へと落ちる。和訳はこれを﹁鋤﹂と訳して

いるが、正確に言うとこれは﹁摯﹂である。鋤︵Spa

ten︶はシャベル

︵Schaufel︶に似た道具で、手の力でもって土を掘り起こす。これとは

異なりヽ摯︵コ︶品︶ は漢字そのものが示しているように、牛や馬など

の家畜に牽亦せて大地を耕す農具である。

(5)

五 九 、 L i e b l i c h     t b n t     d i e   e e h a m m e r t e     S e n s       u n d       d i e       S t i m m e       d e s                                       ド                     L a 乱 ∃ a n r i s 。 六 〇 u e r     a m       r i i u e r e   a e m       S t i e r       l e n k e n d       d i e       S c h r i t t e       g e b e u t 。                                                     ︵ 第 一 巻 、 二 〇 七 頁 ︶           快 く 響 き わ た る 穀 物 を 刈 る 太 鎌 の 音 と 農 夫 の 声 、         農 夫 は 摯 の う し ろ か ら 雄 牛 を 操 り 歩 み を 命 ず る 。

 ヘルダーリン自身が詩歌﹁さすらい人︵︷︸er   Wanderer

︶ Jの初

 稿︻︼七九七年︶でこのように描写しているのに注目しておこう。

  この黎の改良に関しては、土木事業に秀でた古代ローマ人も北方のゲ

 ルマン人に遅れを取ったようである。ローマで未だ無輪&  ︵aratum:

 Haken︶しか使用されていなかった西歴紀元前後に、当時ラエティア

 ︵Raetia︶と言われたティロル︷j3︸︶地方付近で有輪iS)・  ︵currus:

Karrenpflug︶であるゲルマン黎︵︵jermanischer Pflug︶が発明され

 たのである。ゲルマン黎は二輪車を有し、普通二頭の連畜によって牽か

 れ、役畜を操る者、梶棒により反転を操作する者︵以上の二者は大抵少

 年︶、それに進行方向を決める農夫の三名が耕耘作業に携わる農耕の主

 役であった。マンハイム ︵Mannheim︶の書誌学研究所CBibhogra- phisches  Institut︶編﹁大ドゥーデン︵9﹁ Q3rり乱g﹂﹂

 第三巻﹁図解辞典︵Bildworterbuch︶J︵一九五八年︶の一三三頁で、

 この有輪摯の図解を目にすることができる。必要は発明の母で、雑草が

 多く、湿気が高く、地質の重いゲルマーニア︵Germania︶の硬質な土壌

 がこのゲルマン摯を生み出したと言えよう。上掲ドゥーデンの﹁図解辞

 典﹂のこ一七頁にある農耕姿の挿絵に見られる無輪摯もなお併用されて

 いたことは確かであるが、それと同時に有輪のゲルマン摯をも忘れるこ

 とはできないであろう。実際、既出の詩歌﹁さすらい人﹂における﹁農夫の

 声﹂︵第五九句︶が、ゲルマン摯による農耕を想像させはしないだろうか。

二五

﹁パンとぶどう酒﹂冒頭の都市像︵高橋︶

  口 農業の世紀  思想詩成立に先立つ時期は西欧で通例﹁啓蒙︵Aufklarung︶の世紀 ︵le sciecle des  lumieres︶﹂ と命名されている。これに対し、農史家 Wilhelm  ABEL︵アーベル︶は大著﹁中世初期から十九世紀に至 るドイツ農業史︵︵iescliichte  der   deutschen   Landwirtschaft   vom Iruhen  Mittelalter  bis  zum  19.   Jahrhu乱ert︶J︷︸九六二年︶の 要約とも言える﹁ドイツ農業発達の三段階︵Die  drei   Epochen  der deutschen Agrargeschichte︶J︵一九六二年︶において、啓蒙期の記録 から八〇konomisches Jahrhundert︾という表現を引用し、同著第二章、 第五節の冒頭において、十八世紀後半を﹁農業の世紀﹂として位置づけ ている。  ﹁経済﹂Oroコo∃tとは、この時代の用語法では、すぐれて農業を意味する。  そして、農業はこの世紀をもっとも強く特徴づけた。当時、農業は、すでに同  時代人の注目を集めるほど急速にかつ一般的に上流社会の関心のまとにさえ  なっていた。ヴォルテール︵Voltaire本名:   Francois  Marie  Arouet。  一六九四?一七七八︶は、オペラ見物のあと穀物のことをあれこれ語り合  う﹁上流婦人達﹂について嘲笑した。マリー・アントワネット︵Marie  Antoinette。[七五五∼九三]は、馬鈴薯の花を身に飾ったり、編み物袋を  穀類の種子の入れ物に試みたりした。オーストリアのヨゼフニ世︵Joseph n 。  一七四一∼九〇︶は、摯のうしろに立って肖像を描かせたり、イギリスのショー  ジ三世︵︵jeorgeHI。一七三八?一八二〇︶は、﹁百姓ジョージ﹂として賛美  されている。プロイセンのフリードリヒ大王︵Friedrich  H  ︵der Grosse︶。  ︼七こ︼?八六︶に由来し、しばしば引用される言葉に次のものがある。﹁農  業は、あらゆる技術のうちの第一のものであり、それなしでは商人も、詩人も、  哲学者も存在しない。大地が産み出すもののみが真の富である。﹂        ︷中村勝/三橋時雄共訳、︸一七頁1︼ ︼八頁︶ ﹁経済表C lableau economique﹂﹂ ︵一七五八年−一七六八年︶の 作成で名高いFrancois   QUESNAY : ヶネー ︵コ八九四年−

(6)

二六  高知大学学術研究報告 第三十二巻 人文科学

一七七四年︶に代表される重農主義者︵ecbnomiste︶﹂︵Dictionnaire

QUILLET. Paris. 一九七七年、第一九九六頁︶の活躍するこの

時代を経て、一躍主食の位置へと踊り出だのが、ここでも話題となって

いる馬鈴薯(Kart0ffel︶である。十七世紀には貴族の美食にすぎず、

 一七〇〇年頃にはほとんど知られていなかったにもかかわらず、馬鈴

薯はドイツにおいて一七七〇年代に農村の飢饉を救い既に不可欠の常

食七なり今日にまで至っているのであ‘る︵Die  Kartoffel   sigete

doch .::  ,

Bayer” Pflanzienschutz-Kurier. 一’九六四年︶。

 農業の世紀Skonomisches Jahrhundeft︶でぼな赳都市が1 村に依存

した経済構造を示す 0すなわち、人々の大多数が農業に従事し、ヽ生産物の

大部分は農産物であり、例えば穀物が租税として貨幣の代りに物納された。

それのみではない。この’農業経済の世紀には、摯刀︵tコ品白I鴉こ

   i         ■    I       I

など農具の改良がすすみ、農法の改善もおこなわれ、特に’一八〇〇年頃

には農業生産者に相当の余力が見られるようになったのである。

  ヘルダーリンの描く農村風景には、農家の自給自足的な性格が色

濃く見られる。既出の詩歌﹁閑暇﹂のほかにも、例えば別の詩歌﹁夕

べに田?つ︵Abendphantasie︶J︵一七九九年︶の冒頭では、

-一 一 -一 一

Vor seiner Hutte ruhig im Schatten sizt  Der Pfliiger。 dem Geniigsamen raucht sein Heerd.   ︵Jastfreundlich tbnt dem Wanderer im    Friedlichen Dorfe die Abendgloke.        ︵第一巻、三〇一頁︶

おのが小屋の門べの木蔭に やすらかに農夫は憩い

足るを知るその人のかまどの煙は立つ。

やさしく旅人を迎えて平和な

村には夕べの鐘がひびく。

      ︵手塚富雄訳、和訳全集、第一巻、三三六頁︶

と歌われている。このような余裕を支えるこの時代の農業生産力の発展 の要として、ここでは旧来の封建制度下での典型的農法である三圃制度 ︵︷︸reifelderwirtschaft:  assolement   triennal︶からの脱皮を考える ことにしよう。  三圃制度は、西欧封建時代が始まる八世紀・九世紀から、市民社会勃 興の十八世紀・十九世紀に至る約一〇〇〇年の期間にわたって存続した 支配的農法であった・貳なわちヽ七の三圃制農法政恒常化が、一千年に わたる西欧封建制度の安定七呼応していたと言えよう。それゆえに、こ` の農法に変革が加わる詩期がI封建社会から市民社会への過渡期に符 ’ 合’。 ^ することは偶然のととではない。歴史的に見ると、L二圃制度自体は、二、 圃制度︵Zweifelderwirtschaft:   assolement   biennal︶から発展した‘ 合理的な農法なのであるが、ここではこの発展の問題に・つ。。い、ては論述を 省略する。三圃制度とは文字通り﹁三﹂を基本単位としている。農地は 。、 大きく三分され、夏作︵Sommerung︶のためにその三分の一が、第二の 三分の︸が冬作︵Winterung︶のためにあてられ、残りの三分の一は休 閑地︵Brachfeld︶として放牧のための牧草地となる。この三等分さ れた各々でまたこの三様の循環を繰り返す。例えば、冬作の場合は、秋 に摯で耕した後に越冬作物︵Wintergetreide︶の種まきが行なわれ る。これは冬を越して翌年の夏に収獲される。その後ここは刈株牧草地 ︵Stoppelweide︶となり、放牧の結果、家畜の糞尿で自然と肥料を施され る。これを踏まえて、一冬を越してから春に摯で耕し、その耕地に夏 作物︵Sommergetreide︶の種が播かれる。この作物はひき続く同年 の夏に取り入れが行なわれるのである。この後この耕地は、まず仮牧草 地︵︷︸﹁IS己として翌年の六月まで放牧に供され、使徒ヨハネの日 こohannistag:六月二十四日︶頃に摯で耕されたあと、本来の休閑地と して秋の越冬作物の種播きまで牧場となる。これは、冬期が長く、年に 一度しか収獲できない寒冷な北欧の自然に適った農法で、畜糞による堆

(7)

肥︵Viehmist︶さえも必須とせず、湿原に繁茂する雑草を家畜の食用

に供するのみならず、その糞尿を自然の肥料として活用する巧みな制度

であると言えよう。ところが、これは画一的生産様式であって、あらゆ

る土地で一様に同じ循環方式がとられる。農民は概ね共同の規制に従っ

て働き、耕作強制︵Flurzwang︶を各人の意志で拒むこともできず、‘三

圃制度が存続する限り、農業を個人個人の主体的意欲的企画でもって発

展させることは困難であったのである。

  ﹁パンとぶどう酒﹂の詩想が土台としている西歴一八〇〇年頃に、こ

の三圃制度に改良が加えられる。ここで注目したいのは、耕地に植える

作物についてである。すでに、夏作物︵Sommergetreide︶とか冬作物

 ︵Wintergetreide︶という言葉にヽ表われているように、農作物と言えば、

穀物︵︵■retreide︶であった。例えば、尿作物としては燕麦︷︸︷氏宍︸や大麦

︵︵ierste︶が、冬作物としてはドイツ小麦︵Dinkeごとか小麦︵Weizen︶やラ

イ麦︵Roggen︶が考えられる。ここに例えば輪作︵Fruchtwechsel-wirtschaft︶の理論が応用され、前作物が後作物に’あたえる加重的拡張

生産能力を活用すると、休閑地を次第に耕地として利用してゆく道が開

けることになる。そこで鍬作野菜︵Hackfrucht︶である馬鈴薯︵じゃが

いも︶とか、族葉植物︵Blattfrucht︶の三ッ葉︵Klee︶の執培が導

入され、これによって穀物類の連作が減り、耕地の痩せが少なくなると

ともに、家畜用の飼料︵特に三ッ葉︶が確保できて家畜が増え、更には、

増えた家畜の糞尿を堆肥として積極的に施肥に利用してゆくことができ

る。こうして旧来の三圃制農法では、三分の一の耕地が常に休閑地であっ

たのに対し、十八世紀末にはこれが︸割を割るようになり、十九世紀に

は次第に休耕地が消滅すると同時に、当時の技術的先進国イギリス伝来

のノーフォク輪作制︵Norfolk  Rotation︶のような多圃輪作制が一般

化していったのである。

 思想詩﹁パンとぶどう酒﹂に目を向けてみると、間接的にではあるが、

二七

﹁パンとぶどう酒﹂冒頭の都市像︵高橋︶

第五句に三圃制度のゆらぎを見て取ることができるのではなかろうか。

六五  ゝ ゝ  ン゜∽gg40n Irauben und Blumen。    :‘der geschafftige Markt. ⋮葡萄とか花の   ⋮忙しき広場の市場

すなわち、十八世紀末において、この﹁葡萄﹂とか﹁花﹂は、﹁これま

での三圃式農業が、都市向けの商業作物や葡萄栽培などによってすでに

あるていど崩されていた﹂︵渡辺寛︰ドイツ農業の展開過程、一四一頁︶

ことを顧慮させるからである。

︹二︺ 都

  剛 市壁の内側

 市壁の外側を取り囲む平穏な農村の性格が悠然たる大地に根ざしてい

るのに対し、その内部の市街の性格は都市建設の礎となる石材によって

規定されている。

三九、 四〇、 四一、 Ihr groBen Stadte Steinern aufgebaut In der Ebene!          ︷︸︶lchtungen und Briefe.七七百0 汝等、大いなる都市 石材にて平原に築き上げられた都市よI・

このように Q8高月︸’yZt︰ トラークル︵一八八七年−一丸一四

(8)

二八

高知大学学術研究報告 第三十二巻 人文科学

年︶が詩歌﹁夕べの国西欧︵yg乱F乱︶﹂第四稿︵第三九句−第四一句︶

で、西欧都市建設の性格を的確にとらえている。西欧都市の周囲には耕

地が広がり、所々に木立ちが影を落とし、四面これと言って遮るものな

く、彼方には森が見えることもあれば、遠くに山並みが続いていること

もある。ここには万物を育くむ大地がしかと腰を下ろし、大地の自然に

根ざした生活が土台となる。このように農村が都市の外延に久遠の彼方

へと広がる大地に根ざしているのに対し、都市は有限な市壁に取り巻か

れて、その内側に集積している。﹁周囲が高い市壁で囲まれている町の

なかでは、遠くの山に沈む夕陽の影で時を計ることもできず、町’のなか

には樫の大木も影を投げかけることはない﹂︵阿部謹也﹁中世の窓から﹂

二五頁︶。このように、﹁いわゆる﹁自然﹂をとりこむことができなかっ

た﹂︵同書、二四頁︶都市の内部には、逆に至るととろに人為の証が認

められる。市内の川は堀割のなかを流れ、敷き詰められた石畳の道路の

両側には、数階建ての石造建築が立ち並ぶ。市中でひときわ聳え立つの

が、教会の尖塔や官庁の物見の塔である。農家があちこちに散在するの

に対し、都市内の館や家屋は、隣同士の間に空隙もなく、びっしりと詰っ

て立ち並んでいる。狭い街路では、両に列なる家並みに遮られて、昼間

さえ日が射さない死角もある。ヘルダーリンが自由韻律の讃歌﹁パトモ

ス︵tl∃S︶﹂︵一八〇一年︱一八〇二年︶第三十一句以下で、地中海

に面した小アジアの都市について、

一 一 一 一 一 一 一一

-三三

ぼなylpp民゛にコanのEQコaa∽cQg。 Ich eines。 das ich kennete。 denn ungewohnt War lch der breiten Gassen。 。。。        ︷第二巻、︸六六頁︶ 私に小アジアが立ちあらわれた。私は眼も眩んで探した。 何か知っているものはないものかと。なぜなら、このような 広い街路を私は見慣れていなかったからだ。 と 語 っ て い る こ と か ら も 、 西 欧 の 街 路 ︵ ︷ ︸ a s s e ︶ の 狭 さ が 伺 い 知 ら れ よ う 。 こ の よ う に 、 都 市 で は 佇 に お い て 、 農 村 の よ う な 伸 び や か さ は 見 ら れ な い 。 こ の 石 材 で 築 か れ た 市 街 に は 、 む し ろ 自 他 が せ め ぎ あ っ て 措 抗 す る 一 種 の 緊 張 関 係 が 生 ま れ て い る と 言 え よ う 。   こ の よ う な 西 欧 都 市 の 緊 密 ︵ l n n i g :     i n t i m e ︶ な 性 格 と 、 農 村 の お お ら か な 性 質 が 両 者 を 規 定 す る 。 悠 然 た る 大 地 に 育 く ま れ て 穏 や か で 和 や か な 風 土 に 農 村 が 憩 う の に 対 し 、 市 街 の 石 畳 や 石 造 建 築 に 映 え る 月 影 や 街 路 の 燈 火 に は 、 何 か し ら 張 り 詰 め た も の が 宿 る 。 こ の 石 材 の 西 欧 都 市 の 性 格 を 、 静 か に 心 を こ め て 表 現 し て い る の が 、 ﹁ パ ン と ぶ ど う 酒 ﹂ 第 一 句 中 央 の 中 間 休 止 ︵ ; ︶ の 間 を 置 い て 発 せ ら れ る 清 音 の 摩 察 閉 塞 音 ︹ j ︺ で あ ろ う 。   R i n g s     u m   r u h e t     d i e   S t a d t ;       s t i l l       w i r d   d i e       e r l e u c h t e t e   G a s s e 。 こ の ︹ μ ︺ が 頭 韻 を な し て C S t a d t ︾ へ と 呼 応 し て 、 C S t a d t :   s t i l l ︾ と 反 響 し 合 い 、 ひ っ そ り と し た 都 市 の 内 面 空 間 ︵ I n n e n r a u m ︶ の 音 色 が 読 者 の 内 耳 に 印 象 深 く 残 る 。 と こ ろ で 、 こ の 親 密 ︵ i n n i g :     i n t i m e ︶ な 世 界 が 街 路 ︵ G a s s e ︶ で あ っ て 大 路 ︵ 汐 S ぼ ︶ で は な い 点 に 注 意 し た い 。 蓋 し   M i c h a e l   H A M B U R G E R :   ハ ン バ ー ガ ー の 英 訳 ︵ 二 四 三 頁 ︶ で は と れ が C s t r e e t ︾ と 訳 さ れ て い る 。 残 念 な が ら こ れ は 意 を 尽 く し て い な い 感 を 免 れ な い で あ ろ う 。   閣 城塞都市  既に引用︵︹一︺剛︶じたヘルダーリンの詩歌﹁閑暇﹂の第二十一句 以下が歌っている都市︵Stadt︶の姿に注目してみよう。  二I、f ernner aammert aie btaat。 wie eine eherne Kustung

(9)

二 二 、 ︵ i e f f e n       d i e       M a c h t       d e s   G e w i t t e r e o t t s     u n d     d e r       M e n s c h e n                                                           g e s c h m i e d e t 。 二 二 、 M a i e s t a t i s c h   h e r a u f 。   。 : y       f   か な た に 市 街 が ほ の か に 浮 ん で 見 え る 堂 々 た る 眺 め は 、 。         嵐 の 神 や 人 間 の 軍 勢 に 桔 抗 せ ん と 鍛 え 上 げ た 青 銅 の 甲 冑 の         眺 め さ な が ら だ 。

ここでは都市が城塞︵Burg:  bourg ︶として把えられている。今日の

都市の名前、例えばローテンブルク(。 Kothenburg︶とかストラスブー

ル︵Strasbourg︶には、この城塞の残影が残っている。ヘルダーリy

の歌。つた都市の姿は、、文字通り﹁堂々たる眺め﹂を呈している。この威

容は、﹁君主論︵U   Prmcipe︶﹂︵一五二三年︶’第十章‘において、

Niccolo    MACHIAVELLI: マキアヴェリ︷︸四六九年−一五

二七年︶が称えている中世ドイツの帝国自由都市︵Freie   Reichs-stadt︶を想わせるほどである。

 アラマーニヤ︵ドイツ︶の諸都市はきわめて自由なうえに、市外の属領も少な

 い。これらの都市は、自分たちのつごうを考えて皇帝に服することはあっても、

 皇帝や他の近隣の有力君主などすこしも恐れてはいない。その理由は、これら

 の諸都市は堅固な城塞で固められていて、だれの目にも、そこを占拠するのは

 やっかいな骨の折れることにちがい。ないとわかるからである。すなわち、これ

 らの都市にはすべて、必要な堀や城壁がめぐらしてあり、大砲も不足なくそな

 えられている。       ︵池田廉訳、八六頁︶

このようなドイツ諸都市の理解に対しては、既出︵︹こ閣︺のプ’ロイ

セシ王フリードリヒが、一七四〇年にオランダのハーグ︵Haag︶で出

’版されたヴォルテール編﹁反マキアヴェリ論、或いはマキアヴェリの君

主論に関する批評の試み︵Antimachiavel ou Essai de critique sur

le Prince de MachiaveOJで反駁を述べている。

二九

﹁パンとぶどう酒﹂冒頭の都市像︵高橋︶

 ドイッ帝国都市の意義に関してマキアヴェリの描いた像は今日では全くあては  まらない。大砲の一撃で、ないしは要求さえすれば、皇帝はそのような都市を  支配できるであろう。どの都市も城塞としては劣悪で、あちこちにずっし肛と  した塔が古い市壁に伸し掛っているし、それを囲む堀は大部分崩れ落ちた土壌  で埋まってしまっている。  ﹃﹄        一          ︵独訳A︲︶er Antimachiavell︾第四三頁より重訳︶ このフリート丿ヒの言葉は仏大革命︵一七八九年勃発︶の風雲児 Bonaparte。 NAP︵一︶rMOZ︰ナポレオン︵一七六九年−一八二一年︶ の率いるフランス共和国国民軍によって十全に証明された。例えば、エ ルザス︵凶saB︶ の古都シュトラースプルク ︵StraBburg︶ などラ イッ河西岸はフランス共和国に併合︵一七九五年のバ﹃IゼルーFI 和約により﹄きれ、やがてドイッ全土は帝国都市をも含めナポレオン の支配下に置かれ、西歴九六二年来の﹁ドイッ国民の神聖ローマ帝国  4  Φy゛       −        ♂ ︵︷︸as   Heiliee   Romische   Reich   Deutscher   Nation︶﹂ も、皇 帝ナポレオンよ一八〇四年即位︶の側圧で、一八〇六年には解体しy事 実上帝国自直都市も有名無実どなるのである。  確かに、軍事力に対して都市はもはや抵抗する力をほとんど持ってい なかったと言えよう。しかし、農業の世紀においてもなお都市は独自の 権利を、すなわち都市特権︵Stadtrecht︶を保有しており、例えば、 交易の権利を握っていたのである。つまり、開市権︵Marktrecht︶に 根ざして市街の広場に立つ市﹃︵Markt︶が・その代表的存在であった I。’思 想詩﹁パ’ンとぶどう酒﹂第六句には、この市場が日昼の躍動を伝えて、 夕闇に憩っている様が描かれている。    f﹄・ノ       ー    r 六五  ゝ ゝ             : ’ l e e r   s t e h t   v o n   T r a u b e n   u n d   B l u m e n . U n d   v o n   W e r k e n   d e r   H a n d   r u h t   d e r   g e s c h a f f t i g e   M a r k t             ⋮ 忙 し か っ た 広 場 に は   い ま は 葡 萄 も 花 も 手 芸 の 品 々 も な い 。

(10)

三〇

高知大学学術研究報告 第三十二巻 人文科学

 広場に市の立つのは、今日のドイツの都市でも見受けることができる。  恐らくそのような印象から、﹁市場には、野菜、果物のほかに手あみの  寵とか爪とかが並ぶ﹂︵南原実註、第一三〇頁︶と解釈されたのであろ  う。上掲の和訳も同様な理解に基いていると考えGれる。ところが、西  歴一八〇〇年頃のドイツ商工業の発展段階を考えると、・この解釈には疑  念が残る。 ` すなわち、今日に比べる七当時は、手仕事︵Ha乱werk︶の占  める割合が遥かに高かったと思われるからである。イギリスで十八世紀  におこった産業革命の立ち遅れたドイツにおいては尚のことで、当時         一      い。 ﹃、。  ”  ︲﹄   ’ い  ` ︲ドイツでば工場制手工’業︵Manufaktur︶の段階にさえ生産様式は十分  発展を遂ザていなかったのである。 ‘ 自動機械による大量生産の一般化 しした今日では、手工業は特殊な工。芸品︵Kunsthandwerk︶に限られる  のであるが、主、に同業組合︵Zunft:  corporation︶ -の統制下での、職人   ︵Handwerker:   artisan︶によって製品が生み出された当時にお  いては、CWerke der  Handい>︵﹁パンとぶどう酒﹂第六句︶が、   ﹁手芸の品々﹂︵和訳︶にとどまらず、巾広い手仕事の品々を含んで  いたと考えることができるであろう。ここをハンバーガーの英訳︵二四三  頁︶は八ha乱-made goods︾と直訳しているだけであるが、90rgio  VIGOLO :ヴィゴーロは﹁手仕事の品々と諸仕事︵mestieri   e  lavori︶と伊訳︵Nuova Universale Einaudi.第三三巻 一〇一頁︶  し、仏訳者Gustave   ROTにJD: ルーは﹁幾多の手の仕事︵labeur  de  mille   mains︶﹂と説明的に訳︵Bibliotheque   de   la   Pleiade.  八〇八頁︶し、当時の手仕事の多様さを物語らせている。なるほど都市  は、もはや戦争のための軍事的波塞ではなくなっていた・しかしそれは  なお、ギルド︵同業組合︶体制︵Zunftwesen︶の経済的城塞であったと  言えよう。今日。では、農民であれ、漁民であれ、靴屋を始めるのは、個  人の決断と能力の問題であって、この際に当時のようなギルドの抑圧   ︵ Zunf tzwang︶を受けることはないであろう。ところが、今日あたりま

えに思われている営業の自由︵Gewerbefreiheit︶が、当時においては

自明のことではなかった。ドイツでは概ね十九世紀の前半をかけて徐々

に、このギルド︵N呂p︶の城塞が崩れてゆき、ようやく十九世紀半ば

過ぎに営業の自由が事実上認められるようになるのである。

 このギルド体制の骨子をなすのが従弟制度︵Meister-Jjenrling-くerhaltnis︶である。職人はます丁稚︵Bursche

︶’徒弟︵Lehrling︶

から雇用職人︵︵leselle︶をへて親方こyieister︶となる 0まず第一の

関門が、修業証書(Lehr

brief ︶;を獲ることで、このために見習期聞‘

︵■Lehriahre︶を勤めあげなければならない。∼この・証書に。よ。り始応て雇

用職人となる9とがで奇る。雇用職人社この修業証書を携え、この証書

に記載された助言を将来の行為の範としで、実習期間︵

Wanderjahreブ

に諸国遍歴をして見聞を広め。、腕を磨き上げて、親方を目指すのでおるプ.

Richard WAGNER:ヴァーグナー﹁﹂八コ二年−一八八三年︶の

楽劇﹁ニュルンベルク。のマイスター歌人︵Die   Meistersinger  von

Niirnberg︶ J︵一八六八年初演︶には、。親方連︵Meisterschaf

t︶がい

かに堅牢で尊厳ある組織であるかが示されている。とりわけドイツの諸

都市は、中世以来この親方連を中核とする徒弟制度によって強く性格づ

けられて。いる。例えば文学作品の傑作とし’て、Wolfgang GOETHE:

ゲーテ︷︸七四九年−一八三二年︶作﹁ヴィルヘルムーマイスターの修

業時代︵Wilhelm Meisters Lehrjahre︶ J︵一七九六年︶や﹁ヴィル

ヘルムーマイスターの遍歴時代﹁Wilhelm Meisters Wanderiahr乙﹂

 ︵一八二九年︶とか、NOVALIS: ノヴ″Iリス︵一七七二年一

 一八〇一年︶著﹁ザイスめ学徒︵Die Lehrlinge zu Sais︶﹂︵一七

九八年︶と云った表現を有した作品が見い出せるのもドイツならではの

ことであろう。思想詩﹁パ。ンとぶどう酒﹂冒頭に表現されている都市像

の背景にも、このような社会構造が控えており、諸々の表象と微妙にか

かわりあっていると思われる。例えば、思想詩第三句の﹁家路へと帰る

(11)

人々︵...  gehn heim ...  die Menschen︶Jとして、ここでの関連では

 コ雇用職人﹂を考えることができるであろう.

  閣、首都シュトゥットガルト

 ここでヘルダーリンの伝記をひも解いてみよう。この詩人の生地は南

西ドイツの領邦国家︵Territorialstaaこの二つであるヴュルテムベ

ルク︵Wurttemberg︶である。当時ドイツは、今日の西独・ドイツ連邦

共和国︵Bundesrepublik  Deutschland︶や東独・ドイツ民主共和国

︵Deutsche Demokratische Republik︶のように、まとまった統一国

家ではなかった。﹁ドイツ国民の神聖ローマ帝国﹂︵九六二年︱一八〇六

年︶は有名無実の国家形態であり 当時十八世紀末においてはまさに崩

壊寸前であった。

  ﹂︶as liebe heil'ge Rom'sche Reich。

  Wie halt's nur noch zusammen?

      ︵ハッブルク版、第三巻ニ八八頁︶

  われらの神聖ローマ帝国が、

  どうして崩壊廿ずに居られようか?

これはシュトラースブルク大学法学部卒で領邦小国家ヴ″イマール

 ︵Weimar︶の政治家となったゲーテの一八〇〇年頃における現状分析

 ︵﹁フ″ウスト﹁ySこ﹂第一部、一八〇八年、第二〇九〇句−

第二〇九一句︶である。このように事実上、ドイツ︵︷︸eutschland︶と

いう統﹁国家が有名無実であったのであるから、この時代においては祖

国︵Vaterland: patrie︶ドイツということが、未だ自明のことではな

く、それはむしろ統一の理念であり課題なのであった。

 諸領邦およびその領邦国会の利害が ドイツに統一国家権力が存立するにかかっ

一 一 一 一

﹁パンとぶどう酒﹂冒頭の都市像︵高橋︶

ていることが、洞察の上で自明であればあるだけ一層、いざ行動するとなると

諸領邦自身には、このドイ`ツに対する関心がますます疎遠なものとなってしまっ

ている。Iドイツに対する? このドイツという国がなお誰にかかわり’を持と

うか? この国に対する祖国愛︵Patriotismus︶がどこから生まれて来ようかり・

とヘルダーリンのテュービングン神学院︵Tubinger Stift︶での同室 の親友ヘー。ゲルは﹁ドイツ憲法論︵Die Verfassung Deutschlands︶ J ’︵一八〇〇年1一八〇二年︶でこのように事態の困難さを述懐している  ︵Werke.第一巻、五七七頁︶。       ’ヽ  当時のドイツの政治状況を歴史学では小邦分立︵Kleinstaaterei: particularisme︶という用語で説明している。帝国議会︵Reichstag︶ も帝国最高裁判所︵ Reichskammergericht︶も、この分立を拘束す る力を持ち得ず、分立割拠では世俗の支配者のみならず、’聖職諸侯  ︵Geistlicher  Fiirst︶も領地を治め、’帝国土は細分化されて、小 邦の数は二百五十程にものぼり、これに帝国自由都市が五十程各地に散 在していた。小邦群の中でも、ヴュルテムベルクは比較的広汎な領域を 有していて、その広さは一万平方キロメートルに及び、岐阜県や秋田県 に近い面積を有していた。人口は六十万程で、今日と比べると僅かな 数なのであるが、当時としてはこれでも人口密度が高く、ミュンヘン ︵Miinche乙を首都としていたバイエ’ルン<Bayern︶の二倍程、ベルリー ン︵Berli己を首都としていたプロイセン︵PreuBe已 の二倍半程の 人口密度を示していたのである。  ※当時の国土と人口の統計に関して本論では、当時のドイツの著作家  H. A. O. REICHARD :   l^イヒャルトの旅行案内栃﹁ドイツ  旅行中の旅客︵Der  Passagier auf der  Reise  in  Deutschland︶J   ︵一八〇三年︶の記述よりW.  H.   BRUFORD:ブリュフォードが   ﹁十八世紀のドイツ︵Germany in the eighteenth century︶ J︵三三三  頁−三三六頁︶で要約整理したものを参考とした。

(12)

 三二  高知大学学術研究報告 第三十二巻 人文科学   領邦国家ヴュルテムペルクの首都が、詩人の学友へ’Iゲルの生誕の地  シュトゥットガルト︵Stuttgart︶である。当時、首都とは領邦領主  ︵Territorialfiirst︶の宮殿の所在地︵ Residenzstadt︶を意味した。  ここで敢て何故この領邦首都シュトゥ。トガルトに眼を凝らすのかと云  うと、実は西歴一八〇〇年夏六月から翌一八〇一年冬一月にかけての約  半年間、ヘルダーリンがこのシュトゥットガルトに居を構えており、こ  の滞在が思想詩﹁パンとぶどう酒﹂︵一八〇〇年−一八〇一年︶冒頭の  都市像成立の背景となっていると考えられIるからである’。・   思想詩の第二句からドE目頭で歌われている都市︵die Stadt︶ :&、’小  都会でないことが容易装察せられる。   Und。 mit Fakelri geschmiakt。 rauschen die Wagen hinweg.   松明を飾して︵大路を︶馬車は疾駆して過ぎ去る。     ・。  この詩句では、松明︵Fakeln︶のみならず、馬車︵ Wagen︶も複数名詞  である点に注意したい。幾台もの馬車が騒然と行き交うに足る余裕ある  空間は、当時においては帝国都市なみの大都会でないと考え難いであろ  う。シュットゥットガルトはそれに比肩し得た領邦都市︵Landstadt︶  であった。思想詩の第一句で市街の小路︵︵jasse)が示されたのに対し、 ・この第二句では都会の大路︵StraBe︶が念頭に置かれている。ここ  ではまず、この領邦都市シートゥットガルトに注目してみることにしよ   ヴュルテムベルクの人口密度については既に述べたように、プロイセ  ンやバイエルンより遥かに高かったのであるが、それぞれの領邦の首都  の人口を比べてみると、プロイセンの首都ベルリーンが、当時のドイツ  最大。の帝国都市ハムブルク︵Hamburg︶並みの大都会で、人口十五万人  に達せんとしており、バイエルンの首都ミュンヘンが名だたる帝国都市

ケルン︵Koln︶やフランクフルトーアムーマイン︵Frankfurt  am

Main︶と比肩でき五万程の人口を擁していたのに対し、ヴュルテムベ

ルクの首都シュトゥットガルトは二万弱の人口しか有していなかったの

である。例えば、すでに言及︵︹こ剛︺した今日の田舎町口Iテンブ

ルクーオプーデアータウバ1︵Rothenburg ob der Taubeこが当時

は帝国都市で人口二万五千を越えていたことを考えると、シュトゥット

ガルトが今日のように第︸級の人口密集地ではなかったことが解る。首

’都以外の都市で注目される。のは帝国都市であった。当時ヴュルテムベル

      I      M  ″      −

ク了は、λイ’ル。ブロツー‘︵’︶︷色7o∼︸ハ エスリングツ ︵Jiii.unge已、

ロイトリングン︵Reutlingen︶がそれぞれ︸万人程の帝国都市であった。

当時の群小領邦の一つであったザクセン=ヴ’アイマール=’アイゼナ’ツハ

 ︵Sachsen-Weimar-Eisenach

︶の首都ヴ″不マールに・は八千人も住

んでいなかったのであるから、これらのヴュルテムベルクの帝国都市が

当時としては相当な都会と考えられよう。すなわち、ヴュルテムベルク

の首都とは言っても、シュトゥットガルトに専ら人口が集中していたわ

けではなく、首都圏中心の中央集権化が色濃く無い注目すべき国土の性

格がここに確かめられよう。       j   一     一

 次に詩人ヘルダーリン自身が首都シュトゥットガルトをどのようにと

らえていたのかに注目してみよう。彼は自らを生地ヴュルテムベルクの

息子︵Sohn︶として、一方、他の領邦へ。セン︵Hesse已からの親

友Siegfried SCHMID:シュミート︵一七七四年−一八五九年︶

を賓客︵︵iast︶ AJして、この領邦都市に呼びかけている。

七五、 七八、 七七、 七八、 七九、 D e n n   m i t   h e i l i g e m   L a u b   u m k r a n z t   e r h e b e t   d i e   S t a d t   s c h o n   I ︶ i e       g e p r i e s e n e 。       d 0 r t       l e u c h t e n d       i h r       p r i e s t e r l i c h       H a u p t . H e r r l i c h   s t e h t     s i e     u n d     h a l t     d e n     R e b e n s t a b     u n d     d i e   T a n n e   H o c h   i n   d i e   s e e l i g e n   p u r p u r n e n   W o l k e n   e m p o r . S e i     u n s       h 0 I d !       d e m       G a s t       u n d       d e m       S o h n 。       o       F i i r s t i n       d e r

(13)

八〇、

       ︸︷∼日p9﹃ ︵jlukliches Stuteard。 nimm freundlich den  Fremdline  mir       auf!       ︵第二巻、八八頁︶

それは聖なる樹々の繁みをいただいてあ泗嗜れ高い都市が

すでにかなたに輝きながら 威にみちた頭をもたげたからだ。

凛々しい湯臨溺樹の支えと樅とを ﹃

高く至福の紘の雲のなかにそばだてている・‘

われらにやさしい笑みをみせてくれ。、この賓客とそしてこの息子に。

 ふるさとの女王よ、

八〇、 多幸なシュトウ。トガルトよ、この他郷の客をやさしく迎えてくれ。

      ︵手塚富雄訳、和歌全集、第二巻、一〇六頁︶

これは﹁パンとぶどう酒﹂に先立って創作された詩歌﹁シュトカ>\トガル

ト﹂︵一八〇〇年︶の第五節の一部︵第七五句−第八〇句︶である。詩

人はここで、都市の外延の丘陵地帯と市街の姿に着目している。ヽ丘陵は

森林地帯のままで残れば、OTannenbaum。 o Tannenbaum⋮と歌に

唄われた樅︵第七七句︶の茂みとなり、さもなければ葡萄畑︵Wein-berg︶として利用され、葡萄︵Re

be已が杭棒︵印呑︶の支え︵第七

七句︶に絡みつく。シュトゥ。トガルトは今日の県庁所在地︵La乱es-hauptstadt︶としては珍らしく葡萄畑の多い都市で、平坦な耕地臆居住

地となってしまったが、丘陵地帯には今尚ここで歌われているような緑

がそこここに残っている。正確に言うならば、田園地帯が住宅地となっ

た今日なればこそ、この緑が一層映えている印象を受けるのである。こ

の自然の緑と都市の共存は、とかく都市と言うと抱きやすい反自然的な

性格︵︹二︺田参照︶を補うものであり、都市を歌ってもなお自然らし

さを失わないヘルダーリン文学の特質が、このような地方都市︵Land-stadt︶の性格に呼応している点をここでは留意しておくことにしよう。

三三

﹁パンとぶどう酒﹂冒頭の都市像︵高橋︶

︹三︺ 市

  田 市民生活

 十八世紀啓蒙期が農業の世紀︵0 konomisches Jahrhundert︶であっ

たことは既に︵︹T︺閣︶述べた。ここでは、この世紀におけるそ

のような農業主体の経済構造が、政治的にはどのようなことを意味し・

たのかを考えてみたい。これに関しては、古典経済学の巨匠Karl

MARX:マルクス︵一八一八年−一八八三年︶の親友Friedrich

ENGELS:エングルス︵一八二〇年−一八九五年︶が三月革命

︵一八四八年︶の勃発寸前に、政治論文﹁ドイツの現状︵Der Status

quo in Deutschla乱︶﹂︵一八四七年︶において見事な分析を示している

︵K旨冰/Engels: Werke.第四巻、四三頁−四四頁︶。

 ドイツの現状は次のようになっている。

 フランスやイギリスでは、ブルジョアジーは貴族を倒して国家のなかの支配

階級の地位にのぼるほど強力となってい。るが、ドイツのブルジョアジーはこれ

までまだそれだけの力を持ったことがない。なるほど彼らは、諸邦の政府にた

いしてある影響力をもっているが、この影響力は、利害の衝突が起こる場合に

は、いつでも土地所有貴族の利益にゆずらないわけにはゆかない。フランスや

イギリスでは都市が農村を支配しているが、ドイツでは農村が都市を、農業が

商工業を支配している。これは、ドイツの絶対君主諸国でそうであるばかりで

はなく、立憲君主諸国でも同じであり、オーストリアやプロイセンだけではな

く、ザクセン、ヴュルテムベルク、バーデンでも同じである。

 こういうふうになっている原因は、西方諸国にくらべてドイツの文明段階が

おくれていることにある。西方諸国では商工業が、わが国では農業が、国民大

衆の決定的な生業である。イギリスは、農作物を全然輸出しておらず、たえず

外国から輸入しなければならないし、フランスは、すくなくとも輸出するだけ

のものを輸入している。そして、この両国は、その富の基礎をなによりもまず

参照

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