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ブラジル北東部サンフランシスコ川中流域における日系人農業の発展とその影響

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Academic year: 2021

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(1)ブラジル北東部サンフランシスコ川中流域における 日系人農業の発展とその影響 功=・丸山浩明***. 矢ケ崎典隆*・斎藤. Japanese Middle. Noritaka. in the. Farmers. Saロ Francisco. YAGASAKI,. Isao. Ⅰ. Transformation. Valley,. SAITO,. of the Brazil. Northeast. and. Hiroaki. MARUYAMA. はじめに. 南アメリカ諸国へ移住した日本人にとって農業が重要な経済活動であったことは, 地理学者の研究によって明らかになっている(例えば, Hiraoka. 1980. ;. Stewart. Augelli1958;Eidt. 1968;. 1967)。なかでも最大の移住先であったブラジルでは,日本人. 移民はサンパウロ州内陸部でコーヒーコロノとして農業活動を開始したが(半田1970), その後野菜・花井・果樹・綿花栽培,さらに養鶏などの分野に進出した。そうした集約 的農業や活発な農業組合活動を通じて,日本人がブラジルの農業発展に大きな貢献を為 してきたことは疑う余地のない事実である(アンドゥ1959. ;南坊1958;ブラジル日本. 移民70年史編さん委員会1980. ;矢ケ崎1988)。こうした日系人農業の中心はブラジル 南東部のサンパウロ州からパラナ州北部にかけての地域であり,この地域はいわば日系 社会の-ートランドと呼ばれる存在である1)。しかし,近年,ブラジルの内陸地域で農 業開発が進展するなかで,日系農業者はその新しいフロンティアへ積極的に進出・再移 住しており,彼らはますます重要な役割を果しつつある。 ノルデステと呼ばれるブラジル北東部ば),ブラジルのなかで独特の歴史・社会・文 化をもった地域として知られている(矢ケ崎1992)。この地域は,かつては熱帯季節林 に覆われていた海岸地域(ゾナダマタZonadaMata),内陸の半乾燥地域であるセル トン(Sert豆o),そしてそれらの漸移地帯であるアグレステ(Agreste)に大きく地域区 ; Andrade1968 ; James1953 ; Saito ; Webb 分される(山本1975 and Yagasaki1987 1974)。ゾナダマタでは,. 16世紀から今日まで,景観的にもまた経済・社会・文化面に. おいても,サトウキビ栽培と砂糖生産が重要な役割を演じてきた(矢ケ崎・斎藤 1992 ; Andrade1988 ; Carli1942 ; Galloway1989)。アグレステは,小農を中心とした 食糧作物生産地域である(斎藤はか1986. ;. Hiraoka1986).一方,広大な面積を有する. セルトンではカーチンガ(Caatinga)と呼ばれる有刺低木林が卓越し,粗放的牧畜業や *横浜国立大学教育学部. **筑波大学地球科学系. ***金沢大学教育学部.

(2) 78. 矢ケ崎典隆・斎藤. 功・丸山浩明. 自給的農業のはか, 19世紀後半からは綿花栽培が行われてきた(Saito and Maruyama 1988)。しかし,頻発する早魅の被害に悩まされ続けるこの地域は,ブラジルを代表す る貧困地帯であり人口流出地域である(SUDENE1981)。かつては日系人からも見放さ れ,ブラジルで日系人の最も少ない地域であった。 北東部の経済発展は国家的な関心を集め,北東部開発庁(Superintendencia Desenvolvimento Nordeste Contra. do. do as. Brasil, Secas,. Desenvolvimento. Nordeste,. do. SUDENE),ブラジル北東部開発銀行(Banco. BNB),国家早魅対策局(Departamento. Nacional. do de. Obras. DNOCS),サンフランシスコ川流域開発公社(Companhia do Vale. 発電公社(Companhia. do. Hidro. S孟o Francisco, Eletrica. de. CODEVASF),サンフランシスコ川水力. do S豆o Francisco,. CHESF)といった連邦機関. が設置され,開発計画の策定と実施にあたってきた。なかでも濯概事業の推進は地域開 発の重要な戦略の一つであり,国家早魅対策局は広域にわたって貯水池(アスーデ AGude)の建設を進めてきたし(DNOCS1982),また,サンフランシスコ川流域開発 公社はサンフランシスコ川流域に大規模な港概事業を推進してきた(CODEVASF 1982,. 1989a. Hall1978)。中小規模の貯水池から揚水して港概を行う自然発生的な濯概 農業の場合においても,また,大規模漕概水路の建設による農業団地建設の場合におい ;. ても,濯概農業はセルトンの伝統的な土地利用と社会を徐々にあるいは急激に変化させ る重要な要因となっている(斎藤・矢ケ崎1989;矢ケ崎・斎藤・マーラー1989)0 サンフランシスコ川はミナスジェライス州に源を発し,多くの支流を集めながらパイ ア州を二分して北施し,中流域ではパイア州とペルナンブコ州との州境を,さらに下流 ではアラゴアス州とセルジッペ州との州境を流れて大西洋に注ぐ,ブラジル北東部最大 の河川である3).本稿で報告する中流域は,年降水量が450-600ntnの熱帯性半乾燥気候 のもとで,水量の豊富なサンフランシスコ川を利用して,サンフランシスコ川流域開発 公社が1960年代未から大型の摩概農業団地を建設してきた新しいフロンティアである。 とくに1980年代に入ると野菜・果物の商業的農業生産が急速に発展し,. 「新しいカリフォ. ルニア」とも称されて全国的な注目を集めるようになった(CODEVASF1989b)。この 地域における濯概農業の発展と企業的農場について,また,農産加工業の展開について はすでに別稿で論じた(斎藤・矢ケ崎1991. ;斎藤・矢ケ崎・丸山1991)。本論文では, サンフランシスコ川中流域における日系人農場の進出過程と農業経営の実態,そして日 系人農業がこの地域の急速な農業発展に与えてきた影響について検討してみたい。 Ⅱ. ブラジル北東部への日系人農場の進出過程. (1)第二次世界大戦後の集団人種地 日本人のブラジル移住は今世紀に入って間もなく笠戸丸移民によって始まり, 1920年 代から1930年代はじめにかけてサンパウロ州に多数が流入した。しかし,第二次世界大 戟前においては北東部に集団入植が行われたことはなく,他の移住地から再移住した少 数の日本人が,サルバドールやレシーフユなどの大都市の近郊で単独で農業を行う程皮 であった。戦後,北東部においても,集団移住地の建設と日本からの移住者の流入によっ.

(3) 79. ブラジル北東部サンフランシスコ川中涜域における日系人農業の発展とその影響. て日系人農業は活発化するが,そうした進出は,. 1950年代初頭から1960年代初頭にかけ. て,州政府あるいは連邦政府(国立拓殖農業改革院INCRA)が設立・経営した農業団 地への集団的入植と, 1970年代に始まり1980年代に入って大きな発展のみられた農業団 地への独立的入植とに大別できよう4)0 北東部において最初に行われた集団入植は,バイア州南東部のウナ植民地であった (第1表)。これは1941年に州政府が設立し1949年に連邦政府の管轄下に置かれた入植地 4年間に合計50家族の日本人が で,日本人移民の再開によって1953年に入植が始まり, 入植した。 1954年に州政府によって開設されINCRAの経常によるイツベラ植民地は, サルノ′ヾドール市の南西100kmにあり,入植後間もなくウナ植民地から再移住した10家族 が入植している.サルバドール市の北方80kmに位置するジュッセリーノ・クビチェック (J.K.)植民地は州および連邦政府の建設した入植地であったが,. 1958年から1961年に. かけて109家族が入植した。レシーフェ市近郊では,州およびINCRAによるリオポニ ト植民地には, 1958年から1960年にかけて14家族が入植した.レシーフェ市南郊のカー ポ工業団地に隣接したカーボ植民地は,サトウキビプラン与-ションを接収して1960年 に建設された州政府の植民地で, 1964年から1966年にかけて13家族が入植した。また西 方のガピラーバ植民地には同じ頓に若干の入植がみられた。一方,リオグランデドノル テ州では,ナタール市の近郊に建設されたピウン植民地には1956年に,また,ブナウ植 民地には1959年から1960年にかけて入植が行われた。セアラ州で日本人が入植したのは, フォルタレーザ市の南方約60kmに位置するピオ12世植民地であった. こうした植民地は,サルバドール,レシーフェ,ナタール,フォルタレーザといった 北東部の州都など大都市に比較的近接して立地しており,そうした地方消費市場への青 第1表 入植地域名. ブラジル北東部における日系人植地の農業経営. 開発主体. 最. 日本人の入植. 近. 買蒜蒜遠 国準. の. 状. 況. 経営内容. ウナ イツベラ. 州/連邦植民地. 1953. 50. 36. 30. 州/連邦植民地. エ9 5 3. ー0. ー6. 24. ピウン. 州/連邦植民地. ー9 5 6. 9. 3. 50. メロン・′スイカ・花弗・柑橘類・バナナ. リオボニト. 州/連邦植民地. 1958. ー4. ー6. 24. ジュッセリ-ノ. 州/連邦植民地. 1958. 109. 4 CO. 24. 野菜・果樹・花井 花井・野菜・果樹・胡轍・椎茸. ブナウ. 州/連邦植民地. 日9 5 9. ー3. 2. ピオ12世. :96O. 9. 6. カーポ. 連邦植民地 州植民地. 日日. 13. 2. ガピラーバ. 州植民地. 口P. 7. 3. 夕べポア&ニーロ. 自然発生独立入植1972 自然発生独立入植1955. パラゴム・野菜・胡轍・カカオ・丁字・畜産 丁次・胡轍・カカオ・果物・野菜. クビチェク(JK). 967. 川中流域. 自然発生独立入植1958 1983 連邦植民地. パ-イラス地域. 自然発生独立入植1984. サンフランシスコ. -. ー -. 29 ー. 1520??. 南バイア. 964. カボチャ・トマト・キャベツ・バナナ. 養鶏・野菜 ?. 果樹・花斉・野菜・畜産. 33. 50. 250. 100. メロン・スイカ・果樹・野菜・ココヤシ パパイヤ・牧畜. 39. 200. ブドウ・マンゴー・メロン・スイカ. 29. 30. 250. 1,600. 胡轍・丁次・グァラナ・パパイヤ. ブドウ・マンゴー・トマト. 大豆・米・フェジョン豆・コーヒー. レシーフェ総領事館分室『管内概況』(1988年),在レシフェ日本国総領事館『管内事情』 き取り調査による。. (1988年),および聞.

(4) 矢ケ崎典隆・斎藤. 80. 第1図. 功・丸山浩明. ブラジル北東部における日系人入植地. 果物の安定供給を主な目的として建設されたものであった(第1図)。第二次世界大戦 後の移住の再開によってブラジルに新たに到着した日本人がこうした植民地に入植した が,立地条件,経営条件,自然災害,病虫害,疫病などの問題により,いずれにおいて も転出・転入によって入植者が著しく交替した。第1表からも明らかなように,近年で は,大部分の入植地の日系農家数は,入植時と比較すると大幅に減少している。 (2)自然発生的再入植地域の形成. 1970年代に入ると,ブラジル国内の他の農業地嘆から再移住した日系農業者が集中す る地域がみられるようになった5)。まず小規模なものとしては,胡椴(ピメンタドレイ ノ)の病害によってパラ州の第一トメアス移住地を転出した人々が,. 1972年にサルバドー. ル市の南西方向のタベロアに入植して胡椴栽培を開始した。しかし,ここでも病害の発 生により経営の多角化を余儀なくされ,農業経営に著しい発展はみられなL)。一方,バ イア州南東沿岸部でエスビリトサント州に近いジュエラーナ地域には, サンパウロ州からパイオニア的入植がみられたが,. 1950年代中頃に. 1960年代にはココヤシ栽培を目的と. してサンパウロ州から多くの再移住者が流入した。その後農業の多角化が進み, には国道BR-101号線が開通して南東部大都市市場への近接性が増した結果,メロンと. 1973年.

(5) 81. ブラジル北東部サンフランシスコ川中流域における日系人農業の発展とその影響. ハワイアンパパイア\わ産地として大きく発展した。最近では,ジュエラーナ,ティシェ イラデフレイタス,ポストダマッタからなる南バイア地域には合計250戸の日系農業者 が存在する。 ブラジルを代表する現代的フロンティアの一つはセラード地域であるが,バイア州西 部のバへイラス地域には,サンパウロ州やパラナ州からコチア産業組合中央会 (cooperativa. Agrl'cola. de Cotia. Cooperativa. Central)の組合員が個別的に土地を購. 入して1984年から入植を開始した(第1図参照)。ここでは大豆,米,バレイショを中 心として大規模な経営が行われており, を所有していた。. 1988年には250戸の日系人農家が合計40万ha. 6か所の農業団地に日系農業者が散在して入植している。. (3)サンフランシスコ川中流域 本稿で検討するサンフランシスコ川中流域のベトロリーナ・ジュアゼイロ地域も,節 しいフロンティアに属する日系人再入植地域である。入植の開始から30年余りの歴史を もつが,顕著な発展がみられたのは1980年代中頃からであった。ここにはバへイラス地 域と南バイア地域に次いで日系人農家が多く集積しており,サンパウロ州やパラナ州か らの再移住者が多い。彼らは個別に土地を購入して入植するばかりでなく,コチア産業 組合の組合員の集団再移住や,さらに日系アグリビジネスの進出もみられる。 a)パイオニアの入植時代(1958年-1971年) ベトロリーナ・ジュアゼイロ地域における日系農業は,現在サンフランシスコ河中流 日伯文化協会会長である岸 睦弥がベトロリーナの有力者ニーロ・コエーリョの知遇を 得て, 1958年にべトロリーナ市街地の北東8血のサンフランシスコ川左岸ウルプに農場 を開いたことに始まる。彼はメロン,スイカ,トマト等の栽培を行ったが,それ以前に はこの地域のメロンはマクワウリのような青色のメロンであり,スイカは種子の多い山 スイカであったという.さらに1966-67年には,バイア州サルバドール市北方のJK植 民地から,平田兄弟など4家族の日系人がウルプに再入植して,メロンなどの栽培を始 めた。その後,日系人農業者が徐々に増加してきた。 この時代のパイオニア的日系農業者は少数のいずれも個別的に入植した人々であり, サンフランシスコ川あるいはその支流のサリトル川沿いの土地で,メロン(バレンシアノ,アスカデカルバーリョなど),スイカ,トマト,ピーマンなどの小規模な港概農業 を行った。ウルプに入植した前述の平田兄弟は, 1970年にはサリトル川下流部に土地を 購入して再入植しており,その農場に隣接して,普)H,屯所の家族も入植を行っている. 日系パイオニアたちが農業を開始したこの時期は,連邦機関による農業開発事業の発 端がみられた時期でもあった。豊富な水量に恵まれたサンフランシスコ川河谷平野は開 発の可能性をもつ地域として早くから関心を集めており, て,. vale. FAOの調査報告にもとづい do. 1963年には北東部開発庁とサンフランシスコ川流域開発庁(Superintendencia do. S云.oFrancisco,. 38)。さらに,. SUVALE)による農業試験場が開設されている(FAO. 1966. 1968年にはベトロリーナ郡でベベドゥロ濯概パイロット事業が始まり,. コロノと呼ばれる小農が入植してトウモロコシ,マニオク,フェジョン豆等の食糧作物 を中心とした港離農業が行われるようになった6)o. :.

(6) 82. 矢ケ崎典隆・斎藤. 功・丸山浩明. b)メロンブームの時代(1972年-1984年) 前述の岸は,安定した販路の開拓を目的としてすでに1958年にサンパウロ.のコチア産 業組合に加盟していたが, 農業協同組合(Cooperativa. 1974年に同組合は,岸が理事をっとめるベベドゥロ摩概事業 Agricola. Mista. do. Projeto. de lrriga綿o. de Bebedouro,. CAMPIB)と委託販売契約を結び,メロンの定期的な出荷を始めている7)o. 彼はコチア. 産業組合の専門技術者の指導のもとに,メロンの本葉5枚で摘芯し,枝葉3枚で開花・ 結実させて収穫するという技術を確立した。その結果,現在広く栽培されている黄色い アマレロバレンシアーノメロンが,現地の農業者の間にも普及していった. 一方,この時期には,サンパウロの青果物仲買業者が進出してメロン栽培を助長した ことも重要であった.日系仲買南アチバヤエンセ杜は,サンパウロ市場への入荷量を確 保するために,ベトロリーナ・ジュアゼイロ地域でメロンの買い付け・出荷を始めた0 サンパウロの大消費市場から遠隔であるにもかかわらず,熱帯の太陽のもとで栽培され たメロンはサンパウロ州産のメロンよりも糖度が高いため消費者に好評であった。こう. してベトロリーナ・ジュアゼイロ地域にメロンブームが起こった.アチパヤエンセ社は 当時のブラジルのメロンのブランドであり,メロン市場を支配する存在であった。病虫 害の被害をうけたメロンであっても,ト.ロビカルメロンとして販売されたというエピソー ドも残っている。 このように1970年代から1980年代始めにかけてはメロン黄金時代とよばれた時期であっ たが,これはベトロリーナ・ジュアゼイロ地域が変貌を開始しはじめた時代でもあった。 その大きな要因となったのは,サンフランシスコ川流域開発庁とサンフランシスコ水力 発電公社によって1972年に始まったソプラディーニョダム発電所計画であり,. 6年後の 完成によって,貯水量340億d,面積4,214kdの巨大なソプラディーニョ湖が誕生し,発 電能力105万kwを有する発電所も稼働を開始した。これによって下流のダムへの河川 流量の安定化が図られるとともに,漕概用水と電力の確保が保証されたわけである。 この時期には漕概農地面積の大幅な増加がみられた。ジュアゼイロ郡を例にとると, 漕概面積は1970年農業センサスでは786haであったが, 1973年の調査報告によれば,川 の中洲を除いた漕概面積は1,496haを数えた(Piney. e. Neto. 1973)。こうした港概農地. の大部分はサンフランシスコ河畔のパルゼア(Varzea)に位置し,そ'=では河川水を それぞれの圃場に直接揚水する小規模な港就農業が行われていた。さらに,ジュアゼイ ロ郡の漕概総面積は, 1980年農業センサスでは3,466haに, 1984年のサンフランシスコ 1984 : 26-27)0 川開発流域公社の資料によると4,573haとなっていた(CODEVASF このような港就農業の進展をもたらした重要な要因として,サンフランシスコ川流域 開発庁およびそれが1974年7月に改組されたサンフランシスコ川流域開発公社による濯. 概農業団坤が,この時期に相次いで設立・開始されたことがあげられる。最初の港概辛 業であるベベドゥロ濯就農業団地に続いて,. 1973年にはジュアゼイロ郡に51のコロノ入 植地区とブラジル農牧業試験場(EMBRAPA)の実験農場からなるマンダカルー港概 農業団地が発足した。 1976年には大規模なトゥロン港概農業団地が始まったが,これは 中規模企業入植区と大規模企業入植区を有する,企業を主な対象とした団地であった。.

(7) 83. ブラジル北東部サンフランシスコ川中流域における日系人農業の発展とその影響. さらに1980年代に入ると,コロノから大企業までさまざまな規模の入植区画をもった農 業B]地の建設が進んだ.. 1981年にはマニソバ漕概農業団地,そして1982年にはタラサ港. 就農業団地の建設が開始されており,後に詳述するように,前者には独立的な日系人の 入植が,また後者には,当地域における日系人農業の拠点をなすコチア産業組合の集団 入植地が存在する。さらに,最も新しいセナドールニーロコエーリョ濯概農業団地は, 潅概可能面積2万haを有するこの地域で最大の農業団地であり,. 1980年代後半に入植. が進んだ8).. このメロン黄金時代には,加工用トマト,スイカ,ピーマン,イタリアブドウなどの 農作物が導入されて農業の多様化も進行した。 1978年には,サンパウロ州ジュンジアイ lndGstrial de Conservas AlimentlJcias, CICA)が に本拠をもつシッカ社(Companhia ジュアゼイロにシッカノルテ(Cicanorte)社を設立してトマトの一次加工を開始した. 結果,契約栽培による加工用トマトの生産が急速に増加した。また,ブドウの商業的栽 培が発達したのもこの時期であった。ベトロリーナ郡の東に隣接するサンタマリアダボ アビスタ郡では,サンフランシスコ川沿いのファゼンダミラノ(FazendaMilano)で, サンパウロ州の資本家が進出して1970年にブドウの植え付けを行い, 1974年にはワイン 醸造が始まっている(斎藤・矢ケ崎1991)。同じくサンタマリアダポアビスタ郡のベル メーリョの近くに,サンパウロ州でジャガイモ栽培を行っていた山本守が1973年にオウ ロベルデ第1農場(FazendaOuroVerdeI)を開設して,日系人としてはじめてブド ウ栽培を開始した。こうしたブドウ栽培の成功は,コチア産業組合がタラサ農業団地に ブドウ栽培団地を建設する重要なきっかけとなり,今日この地域がブドウの大生産地域 として発展する基礎を提供することになった。 c)ブドウ・マンゴー栽培の発達(1985年以降) 1980年代中頃以降,この地域の港概農業は顕著な発展をみせた。例えばベトロリーナ・ ジュアゼイロ両郡の作物収穫面積をブラジル地理統計院(IBGE)続計によりみると, 1984年から1985年にかけて著しい拡大がみられたことがわかる。. 1984年には96haであっ. たブドウは翌年には231haに,さらに1986年には340baに達した。トマトについても, 1984年には2,047baであったが,. 1985年には6,165ha, 1989年には9,360haに増加してお. り,そのほとんどは加工トマトである。また,この時期に商品作物として重要となった マンゴーの作付面積は,ジュアゼイロ郡だけをみても, 240haへと拡大した。. 1985年の6haから,. 2年後には. この時期の農業発展の背景として,サンフランシスコ川流域開発公社による港就農業 団地がはば完成したこと,さらに,農業関連産業が出揃ったことがあげられる。トマト 加工では,. 1984年にエッチ(ETTI)社,. 1986年にフルトスドバレ(Frutos. do. Vale). 社, 1988年にコスタピント(CostaPinto)社がいずれもベトロリーナ工業団地に工場 を建設したし,サンミゲル綿花会社(Algodeira (Nisshin. Seifun. do. S孟o. Miguel)とブラジル日清製粉. Brasil)が,それぞれ1984年と1987年にジュアゼイロ工業団地で. 操業を開始した。 1980年にトゥロン農業団地で始まったアグロバレ(Agrovale)社の Ouro 砂糖・アルコール生産も軌道にのったし,山本農場(Fazenda VerdeⅡ)のワイ.

(8) 矢ケ崎典隆・斎藤. 84. 功・丸山浩明. ン醸造も1985年に始まった。さらに,回転式のセンターピボットなどの濯概機器を製造 するダンクス(Dantas)社は1989年にべトロリーナ工業団地で生産を開始しているし, サンパウロ州に本社をもっアズブラジル(Asbrasil)社やカルポルンドン (Carborundum)社といった潅概機器メーカーも,ベトロリーナに営業所を開設して北 東部における販売拠点とするようになった。こうした経済活動の進展にともなって,サ do America do Sul S.A.)を含めて, ンパウロに本拠をもっ日系の南米銀行(Banco 銀行の進出も目覚ましい。こうして,ベトロリーナとジュアゼイロの市街地は,サンフ. ランシスコ川中流域の中心都市としてますます活況を呈するようになった。 このような発展過程において,前期から急速に発展をみせたのがブドウセあった.ク ラサ漕概農業団地のコチア産業組合入植地では,開墾直後はメロン,トマト,スイカ等 の一年生作物が栽培されたが,当初の目的であったブドウ栽培への転換が進行し,後に 詳述するように,ブドウ生産団地として重要な存在となっている。 一方,この時期に重要な作物として登場したのがマンゴーであり,近年,この地域で 最も人気のある作物となったが,その商業的栽培を先導したのは日系人農業者であった。 1979年にコチア産業組合員が集団再入植したミナスジュライス州北部のピラポーラ植民 地から,同年,マンゴーの苗木がベトロリーナ・ジュアゼイロ地域のコチア産業組合良 に導入され試験栽培が始まった。木はよく生長したにもかかわらずなかなか結実しなかっ たが,新芽の止まった1984年4月に3%の濃度の硝酸カリを散布したところ,マンゴー がいっせいに開花した。この人工開花はサンパウロより2-3ケ月早く,しかも糖度が. 高く大きな果実が南部市場で好評をはくした.この人工喝屯技術の確立によりマンゴー. セナドール ′パサンタナ地区. -E)コエーl). 3. ●. 日系人農場. 遠忌表ピボット. o マニソ′く. アグリコラ牡 II. Jt兼協同細合. ジュアゼイロ入植地 フルチバレ社. 図-美人領地 「l「. ■J".t. サリト/L・)[l下滝地I*. ∼斡擦頚漉水路. 2αm. 第2図. ≡-;_喜こき. ベトロリーナ・ジュアゼイロ地域における港就農業団地と日系人農場の分布.

(9) 85. ブラジル北東部サンフランシスコ川中流域における日系人農業の発展とその影響. の不時栽培が可能となり,翌年からはマンゴー栽培が日系人の間に普及しはじめた。サ リトル,カサノバ,マニソバの日系人農場についで,セナドールニーロコエーリョ農業 団地などの非日系の企業的農場やクラサの日系人農場でも,マンゴーは栽培されるよう になった。. こうした日系農業者の進出に伴い,サンパウロに本拠をもつ日系の農業協同組合もこ Central Ag・rfcola の地域に事業所を設けている.南伯産業組合(Cooperativa Brasil)は1976年に,またコテア産業組合は1983年に事業所を開設している。ジュアゼ. Sul-. イロ市街地に事務所を持っコチア産業組合北東部事業所には,クラサ農業団地に入植し た組合員のほか,日系・非日系を含めて77名が加入している。このうち52名が農業従事 者であり,日系組合員は44名を数える。コチア産業組合員全体でみると,ブドウ,マン ゴー,メロンが中心的な農産物であり,. 1989年の実績では,ブドウはヨーロッパを中心. とする輸出用が6万5千箱,国内市場向けが6万箱,マンゴーは輸出用が4万箱,メロ ンは輸出用が4万5千箱であり,輸出はサルバドール港から行われた.一方南伯産業組 合は1989年7月にジュアゼイロ工業団地内に移転したが,組合員数は1989年6月末日現 在で45名を数え,そのうち日系組合員は21名であった。 このような日系人農場の進出の結果,私たちの調査時点で,サンフランシスコ川中流 域には68家族の日系人農家があった。第2図は確認できた日系人農場の分布を示したも のである。クラサ農業団地における集団入植のほかは,全体的には散在的な分布パター ンがみられる。 Ⅱ. サンフランシスコ)l仲流域における日系人の農業経営. (1)コチア産業粗食鼻のクラサ入植地 a)入植の過程 サンフランシスコ川流域の開発の進展に伴い,ブラジル北東部に関心をもっていたコ チア産業組合中央会は,規模拡大や発展の可能性に乏しく,しかも霜害にしばしば見舞 われるサンパウロ州やパラナ州北部から,組合員やその家族を希望の大地に移転させる 計画をもっていた.組合の執行部は,. 1981年にサンフ19ンシスコ川流域開発公社のクラ. サ農業団地予定地と,サンフランシスコ川を隔ててクラサの対岸にあり,ブドウの1年 2回栽培に成功していた山本農場を視察して,半乾燥地域における港就農業の将来性を 確信するようになったという9). クラサ農業団地(Projeto CuraGa)紘,サンフランシスコ川流域開発庁の計画に基 づいて,サンフランシスコ川流域開発公社がバイア州ジュアゼイロ郡北東部のイタモチ ンガ地区に1982年に建設を始めた大規模漕概農業事業である。これは州道BA-210号 線をジュアゼイロ市街地から北東70kmに位置し,サンフランシスコ川右岸のイタモチン ガ集落から南東方向に向かってサンジョゼ川の流域を中心に広がり,総面積15,059haを 有している(第2図参照)。標高は370mから400m程度で,カーチンガ植生が卓越する。 この農業団地は4,436haの港概可能面積をもっており,コロノ地区(267区画, と企業地区(16区画, 2,280ha)からなる10).. 1,964ha).

(10) 86. 矢ケ崎典隆・斎藤. 功・丸山浩明. コチア産業組合中央会は,サンフランシスコ川流域開発公社との協定によって,企業 地区に962haを一括して獲得した。サンフランシスコ川流域開発公社が土地を提供し漕 親水路を建設するかわりに,同組合はクラサ農業団地全体の農業技術指導を担当するこ とになった。この土地は当初の計画ではコロノ入植地区となっており,当初の計画図を みると8haずっの小区画に区切られていた。コチア産業組合中央会は,この土地を濯概 水路に沿って30区画に分割し,このうち29画(それぞれ約30ha)を組合員に分譲し, 1区画を組合の農業試験場(25ba)にあてる計画をたてた(第3図)。サンパウロで入 植者の募集を行い,応募者は現地を訪れる機会がなかったが,図面上で希望の区画を申 請し,複数の応募者があった区画の決定は抽選で行われた。入植決定者は当時の通貨で 1,000クルゼイロをコチア産業組合中央会に積み立てたはか,抵当が必要であった。し たがって,ある程度の資金を有し,営農経験が豊富で堅実な農業を営んでいた人々が選 抜されたわけである。彼らは,サンパウロ州のリンスやピグア,パラナ州のアサイなど の出身者が多かった(第2表)0. 第3図. コチア産業組合タラサ入植地の土地区画.

(11) ブラジル北東部サンフランシスコ川中流域における日系人農業の発展とその影響. 第2表. 87. コチア産業組合クラサ入植地の農業経営(1990年1月) 栽培面積(ba). 雇. 用. クラサ入植地以外の農業経営. 出身地. ブドウ言三トマト言ニ雫貯//り、''匝7L^a') 4. 2. Londrina(P). A. 3. Asis. Chateaubriand. (P). 8 6. BI. Lins(P) Mau丘(P). CO. B3. 5. B6 B7. PilardoSul(S) Londrina(P) Lins(S). ー0 8. l. l. I. 0. 30 30 4 4. ー. ジュアゼイロ入植地(区画21番). 0. Barra. Gra.nde. (30). Barra. Grande. (30). 2〇. I I. 〇. 4-4. B9. 9 4. IJins(S) Lins(S) Lins(S). B8. 8 ー2. I. 30. 〇.〇. 4. B. I. [一-一一. B. CO. 20. 2 3. Assai(P). ー〇一1. A4. 20 一一一一一一5一一一一一. 6. A. 一一L. Assai(P). 一l一l. AI. 〇. 1. ベベドゥロ農業団地(12). C. 1. C2 C. 3. C 4 C5 6. C. 7. C 9 CIO. C12 C13 C14. 合. ー2 4 4. Juazeiro(B) Assai(P) S邑o Paulo(S). 8. Bigpu&(S) Bi即a(S). 9. 8 9. CO. Lins(S) Lins(S). 8. 区画番号は第3図に対応する.. こうして,. I. 1o ウ]. o. l 12. l. A.. 206. 5o. A. 3o. r. 4o. f. 30. (. 3O. S:サンパウロ州. 23. ジュアゼイロ入植地(区画28番). ー5 L. 30. L. 30. l. 20. l. 30. 1 58. ジュアゼイロ入植地(区画22/23番). 40. [. 1. 6. 計. o. L. I. 8. Lins(S) Lins(S). CO. I. I. Londrina(P) Lins(S). 2o. L. 335一. Cll. Ling(S) Moji dasCruzes(S) Lins(S) Castro(P). 8. O'4. C8. 6. 一L. C. Lins(S). 一一一一一3ー05一一一1064一一. Bll. 一l一-一1. BIO. 5. P:パラナ州. 2 lU 805. B:バイア州. 聞き取り調査による.. 1983年4月にカーチンガの開墾事業が始まった。コチア産業組合中央会は,. 開発業者に委託してブルドーザーでカーチンガを開墾し,さらにヤギの侵入を防止する ために入植地の周囲に牧柵をめぐらした。入植の主な目的はサンパウロ市場出荷用のブ ドウ栽培にあったが,開墾直後,メロン,加工トマト,タマネギ,レタス,スイカなど の一年生の短期作物が栽培された.同組合は銀行から一括して資金を借り入れ,入植者 6千箱がサントス に対して融資を行った。 10月に収穫の始まったメロンは特に好調で, からオランダへ輸出されたという(コチア産業組合中央会1987:191-192)。同年,コ チア産業組合中央会はジュアゼイロ市街地に事業所を開設している。 b)入植当初の土地利用と農業景観 私たちが最初にクラサ入植地を訪れたのは,入植後間もない1984年8月末のことであっ た。当時は,真新しい水路に沿って道路と耕地が開かれ,広々とした新開地の様相であっ た。水路の近くには,水不足の際の用意に防火用水他のような貯水池が設置されていた。 前述のように,入植者はサンパウロやパラナで米作,野菜,花井,コーヒー,養鶏等で.

(12) 矢ケ崎典隆・斎藤. 88. 功・丸山浩明. E三コブドウ 露頭レタス琶国タマネギ. 監ヨメロンE≡]ヵーチンガ画貯水地 ■. 第4図. 住宅. 蒜連絡・所有界. クラサ入植地における果菜類時代の土地利用-C3農家の事例航空写真および当時のフィールドノートによる.. (1984年8月). 蓄えた資金をもって入植した人々であったので,住宅は当初から立派であった。電気 冷蔵庫は入っていたが,電話はまだ設置されていなかった。各農場に割りあてられた30 baのうち,道路や港親水路に使用される土地を除いて,ほぼ24haが耕作用地であった。 第4図は,島田農場(第3図の区画C3)を事例に,訪問当時のスライドや聞き取り 調査に基づいて,メロンやタマネギ等の栽培が中心であった入植当初の,いわば果菜類 時代の土地利用を復元したものである。この農場ではメロン12ha,タマネギ4ha,種 子用レタス4haのほか,本来の経営目的であるイタリアブドウ(Uvaltalia)の台木が 4ba植えられていた11)。水路や道路および未開墾のカーチンガを考慮すると,割り当て られた区画全体がくまなく利用されていたことがわかる。 入植当初の主力作物の一つは加工トマトであり,赤く色づきたわわに実ったトマトは 生産力の高さを思わせるものであった。. 1本のトマトに平均55個の果実をっけるので, しぼ. 1haあたりの生産量は60-70トンにおよんだ。また,紋の入った黄色いアマレロバレ ンシアーノメロンも盛んに栽培されていた(写真1)。こうした農産物はサンパウロな どの南東部の大消費市場向捌こ出荷された。 1983年から1985年にかけて,クラサ農業団 地だけでのべ800haのメロンが栽培され,収穫期の2か月間は,毎日18台程度のトラッ クがサンパウロ市場に向けて出発したという12)0 さらに特徴的であったのは,レタス,タマネギ,トマト,ピーマン,キュウリが採種 用に栽培されていたことである.レタスとタマネギは種子をっけており,キュウリとピー マンは採種中であった。ピーマン種子の生産量は1haあたり600kgに達していた。これ らの種子は,コチア産業組合中央会の子会社であるアグロフローラ社との契約栽培によ るものであった。. 一方,クラサ入植地の本来の主力作物であるブドウも徐々に生長していた.ただし, 場所によっては地下1.5m前後に不透水層があるため,■ 山本農場と比較してブドウの生 長がよくないという話が聞かれた。コチア産業組合は1985年にブドウ出荷用の予冷庫を 導入しており,. 9月に最初の収穫を迎えたイタリアブドウは,収穫直後に冷蔵庫で8時.

(13) ブラジル北東部サンフランシスコ川中流域における日系人農業の発展とその影響. 89. 写真1クラサ入植地のメロン栽培(1984年8月) メロンは一時期,サンフランシスコ川中流域の特産物であった.. 間冷蔵され,断熱シートでカバーをしてトラックでサンパウロ市場へ出荷されるように なった(コチア産業組合中央会1987:. 192)0. いずれの農場においても,収穫・出荷の忙しい時期には必要に応じて20-30名の日雇 い農業労働者を雇用していた。彼らは単身者で,作業用バラック等に-ンモックで寝泊 りしていた。. c)最近の土地利用と農業経営 2回目の調査を始めた1989年12月には,広々とした新開地の景観はすでに消滅してい た。耕地が放棄されてススキやカーチンガに戻りつつある原野が目立ち,水路沿いにも ジュレマなどが繁茂していた。こうした変化は,農業経営の中心が当初の果菜類からブ ドウ栽培に移行したために生じたものである。第2表からもわかるように,ブドウ面積 は練計206haに達しており,農場あたりの作付面積は平均8ha,最大12haである。これ に伴って,ブドウ以外の耕地は粗放化されてきたわけである。ブドウに次いでマンゴー が多いが,これは放棄されてススキの生えていた荒地を,最近l-2年に再開墾して植 えられたものである。かつての主力作物の一つであった加工用トマトは4農場で栽培さ れてはいたが13),これもいずれは省力的なマンゴー畑に転換されることが十分に予想さ れる。メロン,タマネギ,レタス,キュウリは完全に姿を消してしまっていた。 第5図は前述の島田農場を含めた3農場(第3図の区画C3 土地利用を示したものであり,第4図と比較すると,. ・C4. ・C5)の最近の 6年間に生じた変化がよく理解さ. れよう。島田農場では区画全面が耕作されていた時期があったが,かつての果菜類の畑.

(14) 90. 矢ケ崎典隆・斎藤. 功・丸山浩明. やブドウ園は放棄されてカポェイラとなり,現在のブドウ園は住宅の近くに立地してい る。全体を概観すると,ブドウ栽培面積が増加したこと,圃場区画が拡大したこと,ま た栽培作物が小品目化したことがわかる。 3軒の農場とも,ブドウ園に投入する堆肥を 作るためススキの生える荒地をもっており,また,家畜用の牧草を栽培している農場も ある。. 全体的な土地利用形態は武蔵野新田に類似しており,農道が耕域の中央を通り,母屋 の近くは集約的に利用され,それから離れるにつれて徐々に粗放的となり,末端部に未 利用のカーチンガ低木林が存在するという傾向がみられる.家庭薬園にはマンゴー,パ パイヤ,バナナ,レモン,オレンジ,ピーニヤ,アセロラ,タマリンドなどの多種類の 熱帯果樹のほか,一部にはダイコン,ネギ,ゴボウ,ナス,サトイモ,カボチャなどが 栽培されている。庭にはウンプー(Umbuzeiro)の木が生えていることも多く,これは 開墾時に伐採されずに残されたもので,その実は塩漬して梅干のように食べられる。食 生活の中,山ま,サンパウロ州から取り寄せた米を使った日本式のご飯である.このよう に,日本人の生活文化がこのフロンティアにおいても存続していることば興味深い14). 入植地の主力作物であるブドウは,乾燥熱帯のさんさんと降り注ぐ太陽と十分な濯概 用水に恵まれ,糖度17度の果実が一年に最低2回収穫されている。サンパウロ市場には,. t'・T: t-・・. T・・T=. ・・. ㌔I::/'. T. ∼.Tb. ■ー--・ー.. l・. t・:.・:・:.・. E]ブドウ t'・.(.:.・l='・:.:'::::・I・:.・・.:・:.:;I ・. ・. ・. \:■‥:.:・:・二.....‥ 古 着 : I:':I:.:: 't'・:':I.:: :A A:・.'・..・ 竜 壱. Eコマンコー. 青. ●. ji. 壱. t'.・::-・・.-・・;.I-'.・':I:.壬'・. ・. 曹. ・.. E:. \・:・::'.・・:.... 背. E:. 青. ,..... 名. 古. u. Ei;. ヨ. 東. 畳 着. さ. さ. 骨. 番. 卓. Ei;. 雀. [三コその他の果樹. E】. 卓. 尊. [二∃牧草 E≡ヨ雲空音7;右 せ. 早. 番. 8'. 尊 J>.. .8 8 和H_. +. *. 一日■ー5. 卓. ♯ ♯. \.. 各貯水地・柏. 者. *. 杏. 軒住宅 [宣]労働者住宅. ・:i.・jL・・. )I/. Il.J巨道路 -A-・所有界. \\ 300m. 第5図. クラサ入植地における現在の土地利用 (1990年1月)現地調査による. ・C4 ・C5農家の事例-. -C3.

(15) ブラジル北東部サンフランシスコ川中涜域における日系人農業の発展上その影響. 1月から3月にかけてはサンパウロ州産,. 4月と5月はパラナ州産,. 91. 7月から11月にか. けてはミナスジュライス州(ピラポーラ)産のブドウが出回る。ブドウは努定した日か ら120日で収穫できるので,クラサ入植地では1週間ごとに努定し,市場価格の良い8 月から11月に収穫・出荷を集中するような経営が行われている.. 10月から12月にはヨー. ロッパ市場への輸出が中心となる。 1989年には, 10月中旬から12月初旬にかけて,クラ サ入植地の世話役をしている深川農場など6軒が輸出に参加し,合計7万箱近くがサル バドール港から輸出された. ブドウ栽培は集約的なため, がって,. 1ha当たり最低5人の農業労働者が必要である。した. 8haのブドウ栽培面積をもっ農場は40人の労働者を雇用することになり,ま. た,努定の行われれる5月から7月にかけては最大60人が必要となる.この時期には乾 季にあたるパライバ州やセアラ州から仕事を求めて出稼ぎにくる者が多く,彼らは農場 を直接訪れて仕事を探す。特にパライバ州のソウザ,セアラ州のジュアゼイロドノルテ, ペルナンブコ州のオゥリクリからの出稼ぎ労働者が多い。 農業労働者は労働者用住宅に住み込んで働き,夫婦共稼ぎも多い。入植初期には単身 労働者による賃金不払い訴訟などの労働問題が深刻であったため,. 29農場が共同でベト. ロリーナの顧問弁護士を最低賃金の5倍の給料を支払って雇うようになった.深川農場 には,入植当初以来ずっと住み込んでいる労働者が2家族おり,勤勉な労働者には年末 に報償金を支払って勤労意欲を増すようにしている。そうした労働者の住宅は小さいが, テレビや大型電気冷蔵庫を持っ家庭もあり,こぎれいに生活している様子がうかがえた。 こうした労働者の住宅も,入植後新たに加わった景観の要素である。また,濯概用水路 には水が豊富に流れており,これは農場内に居住する労働者の生活用水でもある。ちな みに,用水使用料(最大流量は毎秒39リットル)は,. 1990年1月の時点で月額1千クル. ザード程度であった。乾燥地域における漕就農業の一つの問題点は塩害であるが,その 対策として排水をよくする.ための深さ60-120cmの排水溝の掘削にも労働者があたって いた。. このように,クラサ入植地は,. 6年あまりの間に,当初の果菜類時代を経て今日豊か. なブドウ栽培コロニーへと発展していた。州道BA-210号線に画した入植地の入り口に は,コチア産業組合の事務所,倉庫,売店があり,社会施設はかなり向上していた。各 農家にはパラボラアンテナを使った無線電話も取り付けられていた。他地域に土地を購 入して経営を拡大する農家はあっても,転出者がはとんどみられないことも,この入植 地の成功を裏付けるものであろう。 d)ジュアゼイロ入植地 クラサ入植地に続いて,コチア産業組合中央会が開発した新しい農業団地としてジュ 1987年に州道BA-210号線に沿っ アゼイロ入植地(Projeto Juazeiro)がある.これは, てジュアゼイロ市街地から東北東約20kmの地点にカーチンガの土地を購入して計画が始 まった。約1,934haにおよぶ土地は州道BA-210号線の南北に広がっており,東はサンミ ゲル綿花会社,西と南はフルチバレ社の所有地に接し,北側はサンフランシスコ川に臨 む。州道の南側を西から東へ1-18区画まで,また北側を東から西へ19から33区画まで.

(16) 92. 矢ケ崎典隆・斎藤. に分割して組合員に分譲するもので,. 功・丸山浩明. 1区画の面積は平均70haである。. 1990年の調査時点では5組合員がすでに入植しており,実験農場(2区画)を含めて, 州道北側の8区画がすでにブドウ栽培を中心に利用されていた15)o当初,サンフランシ スコ川沿いの小集落キパから南方に農場のほぼ中央を通る港親水路を建設して州道の南 部地区に導水し,ポンプステーションを建設して各区画に港概用水を供給する計画であっ た。しかし,南部地区は排水が不良なため,港軟水路とポンプステーションは建設され ず,夫人植のまま放置されていた。 (2)独立入植した日系農業者の企業的農場 サンフランシスコ川中流域では,クラサやジュアゼイロといった日系集団入植地に加 えて,独立的に入植した日系農業者が企業的な経営を行い,地域の農業発展に大きなイ ンパクトを与えてきた。そうした農場はマエソバ農業団地,サリトル川下流地区,カサ ノバ郡のノバサンタナ地区に集中しているが,全体的には散在的な立地傾向をみせてい る(第2図参照)。日系農業者は,ある程度資金を蓄積し信用を確立すると,経営規模 の拡大,兄弟の呼び寄せ,将来農業を担うであろう子息たちへの土地の準備,そして危 険分散を目的として,濯概可能な農地を積極的に購入する傾向がみられる。そうした土 地は一般に土壌が肥沃で水利の便がよい。特に,サンフランシスコ川中流域へ早くから 入植した農業者のなかには,この地域内で再移住して成功した者が多くみられる。した がって,彼らの企業的農場の営農事例を検討することにより,日系農業の特質をさらに よく明らかにすることができよう。. a)ブドウとワインの山本農場 山本農場を経営する山本守は,サンパウロ州でジャガイモ栽培で成功し,その資金を 基盤としてサンフランシスコ川中流域に農場を購入して進出した,企業家精神に富んだ 農業者である。彼は1973年にサンタマリアダボアビスタ郡南西部のベルメ-リョ地区に 240haのオウロベルデ第1農場を開設し,さらに1982年には,カザノバ郡のノバサンタ ナに900haの土地を購入して第2農場(Fazenda. Ouro. Verde. II)を建設した.前者は サンフランシスコ左岸に位置し,川から直接揚水しており,一方後者は,ソプラディー ニョダムの建設によって誕生した巨大なソブラディーニョ潮を水源としている。 農業にとって濯概が不可欠な環境のもとへの進出の背景となった一つの要因は,河川 や湖に面する土地所有者がその水を無料で無制限に揚水して利用できるためであった。 この地域は半乾燥気候で降水量は少ないが,サンフランシスコ川は年間を通して水量に 恵まれるため潅概用水源として最適であり,四季を問わず農業経営が可能である。さら に,揚水ポンプを稼働させるための電気は安価に利用でき(100馬力のモーターで24時 間揚水しても電気料は月300ドル程度),最低賃金で雇用できる労働力も豊富に存在する。 私たちが最初に山本農場を訪れた1984年8月には,第1農場ではブドウが80ha栽培 されていた.これは,カーチンガの開墾後にトマトやフェジョン豆を栽培し,その収益 で徐々にブドウ園を拡大したものである。新しい開墾地にはフェジョン豆が栽培されて おり,いずれはその地区にもブドウ栽培を拡大することが計画されていた。第2農場で もブドウ栽培面積は120haにおよんでおり,ファゼンダミラノをまねてワイナリーが建.

(17) 93. ブラジル北東部サンフランシスコ川中流域における日系人農業の発展とその影響. 設中であったほか,その面積を600haにまで拡大する計画もあった(Yamamoto. et. al.. 1986)。港概を調節することによって,ブドウの芽吹き・開花・摘果・収穫のサイクル を一年に2回作り出すことができるため,一年中ブドウ生産が可能であり,. 1haあた. りの収穫量は70トンに達していた(写真2)0 1990年1月の調査時には,ブドウの栽培規模には大きな変化はみられなかったが,第 2農場ではワイナリーが稼働していた(第6図)0. 110haのブドウ面積のうち70baは生. 食用で, 40baがワイン醸造用である。年間のワイン生産量は,工場の生産能力の半分 do Vale"の商標で国内市場に出 にあたる30万リットルで, "Vale Dourado"と"Solar 荷されている。ネオマスカット種を用いたワインも日本輸出用に試作されていた。この. 農場のブドウ栽培技術は高く,肥料を混入した水の点滴漕灘等の技術が採用されている が,これは,同じくサンフランシスコ川左岸に位置し,イスラエルの乾燥農業技術で成 立した農企業ダン社(DAN)とも共通するものである。 農場主の山本の関心は,最近では桐材の日本への輸出を含めて多方面に向いており, こうした点にも,企業的な日系農業者の一面をみることができる。なお,彼の兄とその 子息もベトロリー・ナ市から上流のサンフランシスコ川左岸でブドウ栽培を行っており, これはフロンティアにおける農業経営では親族の協力が重要であることを示唆するもの であろう。. 写真2. サンフランシスコ河畔のブドウ栽培景観(1984年8月). 山本(オウロベルデ第1)農嵐 濯概用水の調節等により,ブドウは周年栽培が可能となり, 年平均2回収穫される. 8haの圃場ごとに落葉から収穫期(カット)まで,ブドウの生長の異 なった栽培を見ることができる.この地域のブドウは10月から12月にかけてヨーロッパへも輸 出される..

(18) 94. 矢ケ崎典隆・斎藤功・丸山浩明. 陵墓ヨブドウ園. 田カポニラ. t). ・. I---∫/. E)ワイナリー. ′. ′_.__. [=]ヵーテンガ 細田家庭菜園. ′ ′ ′. 事務所 その他の施設. ・. ●. ポンプステーション. ■-一一-■■-■一一■一 ll■-. ●_■_. アスーテ王. :I==-I-:. 【≡ヨ湖 ブラデイ-ニ3. ♯通路 一-一一所有界 1km. 第6図. ノバサンタナ地区の山本(オウロベルデ第2)農場の土地利用(1990年8月) (斎藤・矢ケ崎1991:230)による.. b)マンゴー栽培の平田農場 サリトル川がサンフランシスコ川に合流する手前の右岸に,マンゴー栽培で成功した 平EB,皆川,屯所の3農場がある。平田農場主の平田寛一は,戦後移民としてサルバドー ル近郊のJK植民地に入植したが, 1966年にベトロリーナの北東でサンフランシスコ左 岸部のウルプに再移住してメロン栽培を行い,さらに1970年には土壌のよいサリトル川 下流部の現在地に土地を購入して農業経営を始めた。これら三人はいずれも前述のメロ ン景気で利益を得た農業者である。 彼らがマンゴーを最初に植えたのは1979年であった。これら3農場と後述する大塚農 場は,コテア産業組合入植地のミナスジュライス州ピラポーラ(サンフランシスコ川上 流部)に植えつけて余ったマンゴーの苗木を用いて,. 5年後には結実するという指導を 受けて試験栽培を行った。 5年たっても花が咲かなかったが, 1984年はじめに組合の技 術者を中心に,前述の3%の硝酸カリ液散布によるマンゴーの不時栽培に成功した。.

(19) ブラジル北東部サンフランシスコ川中流域における日系人農業の発展とその影響. 臣ヨマンコ一 物メロン 団タマネギ 荒地 白貯水地. -・-・一所有界. 第7図. 匡∃分益畑地 カーチンガ i'住宅 ⇒巨舶. ロA-. [亘コB農場. サリトル川下流地区の平田農場の土地利用(1990年8月)現地調査による.. 銀行からの融資で多額の負債をかかえていた農家も,サンパウロ市場で高値で売れたマ ンゴーの売上によって,借金を一度に返済することができたという.こうしてマンゴー は新しいブーム作物となった。 第7図は,皆川,屯所農場を含め, 400haの面積をもつ平田農場の土地利用状況を示 したものである。この農場の特徴は,サンフランシスコ川とサリトル川の二つの河川に. 95.

(20) 96. 矢ケ崎典隆・斎藤. 功・丸山浩明. 臨むことである。本来サリトル川を水源としていたが,この河川は水量に恵まれず必要 な濯概水が適時に得られないことから,農場を北方へ拡大して,. 2か所でサンフランシ. スコ川から取水できるようにしたものである。西側の土地は水を確保することのみを目 的とした幅15mの細長いアクセス用地であり,河畔で150馬力のポンプで揚水した港混 用水を導水するためにヒューム管が設置されている。平田が交換分合等によってこの農 場を完成したのは1980年のことであった16)0 農業経営の中心はマンゴー栽培である(写真3)。現在のマンゴー面積は80haである が,木がまだ小さいため借地人が間作している面積を含めると,マンゴー収穫面積は間 もなく100haになろう.この地域では3月から4月が乾季で,マンゴーの新芽が止まる. この時期に3%の硝酸カリ液を散布すると,自然状態より2か月早い4月から5月にか けて一斉に開花する。 9月から11月に収穫されたマンゴーは,南伯産業組合ジュアゼイ ロ支部を通じてサンパウロやリオデジャネイロ市場に出荷される。この時期はサンパウ ロ州ではマンゴーの収穫が始まっていないので,高値で販売される.主な品種はア-デ ン,トミアトキンス,ケイチ,バンダイキであり,現在は赤色で甘みのあるア-デンが 40%を占めるが,将来は多収量品種で赤黄色のトミアトキンスが80%になるという。 マンゴーのほか,かって主力作物であったメロンが30ha,またタマネギが20ha栽培 されている。メロンは2週間ごとに3haずつ植え付けられ, 6月から11月まで出荷さ れる。しかし,ウドンコ,エカキムシ,バイラス病などが蔓延しているので,農薬代が かさむとともに,. 1haあたりの収量は30トンから15トンに低下してきた。. 写真3. マンゴーの栽培一風景(1990年8月). マンゴーはサンフランシスコ川中流域の特産物になりつつある. て開花・収穫をサンパウロより3か月早くすることに成功した.. 3%の硝酸カリ液の散布によっ.

(21) ブラジル北東部サンフランシスコ川中流域における日系人農業の発展とその影響. 97. 農場には4家族の借地人が3年契約で居住しており,トマト,メロン,タマネギ,ピー マンを合計100ha栽培している。彼らの収穫における土地所有者の収入は,売上高の 6月から11月にかけては, 20人の労働者が常時雇用されている。. 20%である。また,. 30. 人の季節労働者がセアラ州やピアウイ州から出稼ぎに来る。彼らはもともと農民であり, 故郷に雨が降ると農耕のために帰って行くので不当解雇などの労働問題はなく,しかも バイア州出身者よりもよく働くという評価を受けていた。このような大規模経営でも, マンゴー栽培はブドウ栽培よりも雇用者数が少なく,省力的である. 農場の南西部には,平屋の住宅のほか,生産物を包装・出荷するための集荷施設があ る。庭にはトラクター5台とブルドーザー1台があり,家の周囲には,日蔭樹のアンブ レラツリーのほか,アセロラ,ピーニヤ,レモン,オレンジなどの様々な熱帯果樹が植 えられていた。また,農場東部の新しい開墾土地には,ダンタス社製のセンターピボッ ト港概施設を設置することが予定されている。 農場主の平田は積極的に規模を拡大してきており,息子のために,サリトル地区の州 道BR-210号線沿いに400haを購入し,ヤギが入らないように鉄条網で垣を結い終えたと ころであったl乃.なお,彼の兄弟は,マエソバ農業B]地に2人,クラサ入植地に2人が 入植しており,このことば,ブラジル北東部にあっても農場の成功には一族の協力が必 要であり有効であることを意味するものであろう。 c)循環系を試みる井垣農場 マニソバ農業団地の企業入植地には中小規模区画が50あり(港概面積は合計1,321ba, 区画面積は平均26ha)18),そこには6人の日系人が入植している。井垣農場もその一つ である.彼はコチア青年19)として茨城県から渡伯し,その後ベトロリーナに移った. 技術巧者な彼は水道建設技術の特許を取得しており,建設会社を経営している。この過 程で,マニソバ農業団地に土地を購入して農業経営を行うようになった。. 住宅. ♯魚地. 家畜. 野菜. 果樹. ーーー>堆肥 ■---規淳 <----. -. 第8図. 農場経営における循環系の一例. *% -さ燃料. 1980年に入植.

(22) 98. 矢ケ崎典陸・斎藤. 功・丸山浩明. 契約が行われたが,一人あたり3区画まで購入することができ,翌年からカーチンガを 開墾して入植を始めた20).農場面積は非濯概地を含めて全体で208ha. ( 3区画)あり,. そのうち100haが利用されているはか,隣接する農場に62baを借地している。 井垣農場の大きな特徴は,作物栽培・養殖・牧場からなる循環系を利用した農業経営 を目指していることである(第8図)o農業の一つの中心はマンゴー,ブドウ,グアバ, 10ha, 5ha, 6ha, オレンジ,レモンなどの多様な果樹栽培であり,それぞれ50ha, 予定されている。果樹労働者は9家族13人おり,彼らはパライバ州のソウザ,ポンパル,. 6haが. イコやセアラ州から季節的にやってきて,農場内のカーチンガに建てられた住宅に住み, 月給制で雇用されている。また, 62haの借地では加工用・生食用トマト,採種用ピー マン,そしてタマネギを収穫毎に刈分する分益小作人に栽培させており,そうした小作 6家族が農場内に住み込んでいる。これらに加えて,養魚池でナマズとエビを養殖中で あり,その面積は将来50haに拡大する予定である。また,牧畜では,当歳の子牛を500 頑導入して1年間肥育して販売するという。こうした計画が完成すると,雇用労働者は 150人に達することになる。 果樹・野菜類の残樺は牧畜および養魚用の飼料として利用される。養魚池の水草は牛 の飼料として利用される。またカメロングラス,マメ科の牧草としてレオセナやガンズー を導入して堆肥をつくり,これらは果樹園に投入される。堆肥の発酵で生じるガスを労 働者の家庭用燃料として利用する計画もある。このように,作物栽培・養魚・牧畜の3 部門からなる農場は,全体として自己完結的な生産・消費サイクルをもつ小宇宙となる ように計画されたものであり,ここにアイデアマンとしての井垣の夢が表現されている。 d)新しい熱帯果樹に取り組む大塚農場 ベトロリーナの西北西40km,前述の山本第2農場の手前にマンゴー栽培で成功した 大塚兄弟の農場がある。大塚正勝のサンタナ農場(S壬tio Santana)と弟英二のカンポ アレグレ農場(S王tio Campo Alegre)であり,それぞれ220ba, 64haの面積をもつ。 前者はソブラディーニョ湖に面して間口1kn奥行き3knの長方形をしており,帯状をし た後者を取り囲んでいる。マンゴー(それぞれ170haと47ba)と胡椴(それぞれ12haと 6ha)が経営の中心である。ここには正勝夫妻と両親および子供,そして英二夫妻と子 供が住んでいる。 大分県津久見市で建設業を営む家庭に育った大塚正勝は,中学時代から南米アマゾン への夢をもち続けていたが, 1972年に呼び寄せ移民としてブラジル丸で家族をあげて移 住し,サンパウロ州ジャカレイのサクラタカモリ植民地にコロノとして入った。翌年, 長年の夢を実現すべくマラニョン州西部トカンチンス川流域のアサイランジアの近郊50 kmの地点に入植した.ここで胡板栽培を目的として3千本の支柱を立てたが,不健康地 であるうえ,雨が降ると道路が寸断され医療を受けることもできないため,乾燥した健 康地に移ることにした。 1975年末に前述のサリトル川下流部の平田農場に分益小作とし て入り,次にペトロリーナの南西8knの山本農場(前述の山本守の兄)で借地農となっ た.さらに,ベトロリーナの東13kmのモロデウルプで40haを借地経営でメロン栽培を したが,. 1979年の収穫直前に洪水で全滅の被害にあった21)0.

(23) ブラジル北東部サンフランシスコ川中流域における日系人農業の発展とその影響. 洪水の被害を受けた1979年の未に,再び借金をして彼はカザノバの現在の農場を購入 した。人望の厚い正勝に対して,銀行も融資を続けたわけである。当初はメロンを栽培 したが,前述のように,平田等とともにコチア産業組合の指導によりマンゴーを植え, この早期出荷の成功により,莫大な借金を返済することができた。今日,総面積220ha のうち170haがマンゴーである。 1989年にはこの農場の西方のエスペランサ山のふもと に300haの新しい農場を購入して30haのマンゴーを植えたので,彼はこの地域で最大の マンゴー農家となった。中心はアーデン(50ha),トミアトキンス(20ha),ケイチ (20ha)であるが,そのほかバンダイキ,ケント,エメ20など,合計8種類のマンゴー を栽培している22).マンゴーの出荷は4月から11月末まで続くが,なかでも値段が良い のは5月から10月末である。硝酸カリを散布して結実の時期を調節し,収穫期を少しず つずらすようにしている。. 写真4. 胡轍の栽培風景(1990年8月). カサノバ郡ノバサンタナ地区の大塚農場.胡板の日陰樹としてパパイヤが栽培されている. カットは胡轍の実.. 99.

(24) 100. 矢ケ崎典隆・斎藤. 功・丸山浩明. このはか,彼はアマゾンへの夢忘れ難く,胡板を1万7千本(12ba)栽培しており, この地域で最初の生産者となった。栽培を始めてから3年たった1989年に最初の胡板の 収穫があった。この作物は人手がかからず,消毒の必要もない。胡板の日蔭樹としてパ パイヤを植えており,胡板が大きくなるとそれを伐採する(写真4)。また,イチジク を6千本(2.5ha)栽培しており,サンパウロ市場の端境期に出荷する。新農場では現 在80haが港概されており,マンゴー30haのはか,ホワイトチョコレートの原料となる クプアスー,フルタデコンデッサ(ピーニヤ),ダラビオラ,カランボーラ(スターフ ルーツ),ランプ一夕ン,ココヤシ,マラクジャ,アセロラ,ココナツといった多種類 の熱帯果樹が試験栽培されている。ランプ一夕ンやカランボーラは本来東南アジアの熱 帯果樹であるが,新たな需要を開拓しようとするものである。 正勝夫妻には子供が8人いるので,それぞれの子供に150haずつ耕地を持たせてそれ ぞれ様々な果樹を栽培させ,農場の中央に果汁加工場を建設して加工・販売するのが彼 の夢である。兄弟の協力,そして一族の協力とともに,大きな夢をもち続けることもブ ラジル北東部で成功する要素であろう。 (3)日系農産加工業の進出 今まで検討してきたような日系人農業の展開に加えて,日系の農産加工企業の進出も みられる。それらの企業はこの地域に発達中の農産加工業の一部を構成しており(斎藤・ 矢ケ崎1991),小規模農家との契約栽培による加工原料の調達,労働者の雇用,新しい 作物の導入等において,この地域の農業発展を助長する要素となっている。 a)養鶏飼料添加物 ブラジル日清製粉社は,赤色の完熟ピーマンから赤色色素を抽出する事業を展開して いる。. 1985年に試験的操業を開始し,. 1987年にはジュアゼイロ工業団地に工場を建設し. て本格的操業を始めた。この添加物は親会社を通じて日本の飼料会社に販売される。 原料となるピーマンは,平均2haを栽培するブラジル人の小規模農家との契約栽培 により集荷している.集荷圏は半径12kmの範囲であるが,中心となるのはセナドール ニーロコエーリョ,マエソパ,クラサなどの農業団地に入植したコロノたちである。年. 間の契約件数は400件にのぼるが,実際に供給できる農家は200-250軒であるという。 雨季の終了後に播種されたピーマンは,. 9月から12月にかけて収穫され,生産者によっ. て工場に運びこまれる。工場では35-50名が加工処理にあたる。乾燥していることが生 産と加工の前提であるので,天候の不順がこの操業に与える影響は大きい。例えば,私 たちが調査した1989年12月下旬には大雨に見舞われたため,. 100トンのピーマンが廃棄. されるという状況であった23). b)ジュース原料 ベトロリーナ・ジュアゼイロ地域には,シッカノルテ杜,エッチ社,コスタピント社, フルトスドバレ社,パルメイロン社という5つのトマト加工会社が操業しており,ブラ ジル北東部におけるトマト加工業の中心となっている。前記3杜はいずれもサンパウロ 州に本拠をもつ企業の子会社で,ここではトマトを一次加工したトマトパルプを製造す る.パルメイロン社もレシーフェのスーパーマケットチェーン系列に属する加工会社で,.

(25) 101. ブラジル北東部サンフランシスコ川中流域における日系人農業の発展とその影響. 同様に一次加工品を親工場に供給する. 1989年 一方,フルトスドバレ社は地元資本パウロコエーリョ系列所有の加工会社で, には1万トンのトマトパルプを製造し,その80%をアメリカ合衆国,カナダ,日本へ輸 出した。このトマトパルプを輸入しているのが日本のキッコウ食品であり, 1989年には 2千トンにおよんだ24).周知のように,キッコウ食品はキッコウマン醤油とデルモンテ 1990. の合弁会社で,デルモンテブランドのトマト加工品を製造販売している。しかし, 年8月に補足調査を行った時点では,フルトスドバレ社は経営の不振で工場を閉鎖して いた。. 近年,この地域の一部の農業生産者と日系企業の関心を集めている作物にアセロラが ある。熟するとダミに似た赤く小さい果実をっけ,ビタミンの豊富なアセロラは,ジュー ス原料や,生のままでケーキの飾りにもなるもので,将来性のある作物として注目され ている。リオグランデドノルテ州のモソロ市近郊にある大規模農業会社マイーザでは, 10haのアセロラを栽培し,.果実をそのままヨーロッパに輸出しているという25)o このアセロラに注目しているのがニチレイである。ニチレイは1958年にパライバ州ジョ アンペソアの近郊のカベデイロに捕鯨基地を設け進出した。しかし,捕鯨の禁止ととも に,エビなどの海産物取引や一般食料品の分野に進出し,近年では健康飲料アセロラド リンクをはじめとするアセロラシリーズの製造販売を行ってきた。その原料供給地とし てベトロリーナ・ジュアゼイロ地域が検討されている。アセロラは1本の木で実がつい ているのと同時に花も咲くというような多収穫の熱帯性の潅木で,日系人の多くも未だ 試験的に庭に1 -2本構えている程度であるが,良い苗木の供給者があれば商業的な栽 培にも前向きのようである。ニチレイは1990年ベトロリーナに20haの直営農場を設け, 間もなく事業所も開設予定であるということであった26). c)採種 乾燥したセルトンでは,湿潤地域に比べて雨による花ぶるいがなく作物の病気も少な い。さらに漕概耕地が限定され周囲がカーチンガに囲まれているので作物間の交雑がな く,採種農業にとっては理想的な環境である。 1984年にクラサ入植地を訪問した時は,レタス,ピーマン,タマネギなどが採種用に 栽培されていた。これはコチア産業組合中央会の子会社であるアグロフローラ社との契 約栽培であった。こうした日系の農場のほか,ベベドゥロ濯概農業団地の近くのアメリ カ人経営の農場では,トマト,キュウリ,レタス,タマネギが採種用に栽培されており, トマトは畑で採種中であった。 1990年1月の調査では,日系人農場はブドウ・マンゴー栽培に転換していた。しかし, マニソバ農業団地のシカノルテ社の試験農場(シッカセメンテス)では,本来加工トマ トの種子を採種するものであろうが,トウモロコシ畑では4畝のうち1畝を残し雄花が 切られており, Flを採種する風景がみられた。.

(26) 102. 矢ケ崎典隆・斎藤. Ⅳ. 功・丸山浩明. 日系人農業のセルトンへの影響:結びにかえて. 1980年代に入ってサンフランシスコ川中流域は港概農業を中心としたダイナミックな 地域変貌を経験したが,そうした過程で日系農業者は重要な役割を果してきた。 この地域に入植した日系人は,サンパウロ州やパラナ州北部などですでに営農経験を もち,高い農業技術を身につけていた専門的農業者であった。入植当初,彼らは乾燥地 域における農業に戸惑ったが,日系のパイオニア農場を見習い,濯就農業のこつを習得 し,適時の潜水と作業によって高い収量を上げることに成功している。ベトロリーナ・ ジュアゼイロ地域の日系人は,農業イノベイタ-としての役割を果しているといえよう。 なかでもブドウの年2回の収穫やマンゴー栽培における硝酸カリ散布による早期収穫 技術は,すでにこの地域に定着しており,フルチバレ杜やフルチノール社などの非日系 ブラジル人による大規模農企業ばかりでなく,中小規模の農業者にまで波及している。 濯概技術においても,センターピボットのような大規模な港概施設は大農企業に譲ると しても,省水的な点滴漕灘などは日系人農場で普及が目立っている。また,港概農業に ともなう塩分集積に対する対策として深い排水路を掘る方法も,日系農業者が早くから 取り入れ,非日系人農場へ波及していった技術である。これによって,雨季における自 然降水や,. 5年に一度程度の割合で発生する大雨が,集積した塩分をこの排水路から洗. い流すからである。. こうした日系人農業を補佐すべく,コチア産業組合や南伯産業組合といったサンパウ ロ州で発達した日系農業協同組合が事業所を開設し,技術指導,新作物の研究,出荷, 共同購入などに大きく貢献してきた。今日,こうした農業協同組合には非日系人の加入 も多い。コチア産業組合では,事業所の職員はすでに非日系人が占めている。また,日 系農企業の進出は,新しい商品作物の導入を通じて,この地域の農業に多様性を与える 要因になっており,今後そうした重要性はますます高まっていくと思われる。 また,労働者を雇用することによって,日系人農場は雇用機会の拡大にも貢献してい る。例えば,. 8baのブドウ農家は最低40人の労働者を雇用しており,農繁期にはさら. に10-20名が必要となる。マンゴー栽培の場合はブドウ栽培よりも省力的であるが,経 営規模が大きいため同程度の農業労働力を必要とする。このように日系人農業はかなり の雇用機会を創出していることになる。 非日系の大農企業は農業労働者を地元のベトロリーナ・ジュアゼイロで雇用するのに 対して,日系人農場ではセアラ,マラニョン,パライバなどの州からの出身者が多い。 一般に労働者を1年以上雇用すると,解雇に際して保証等の労働問題が生じる場合が多 いが,故郷に農場をもつ季節出稼ぎ者は雨季になるとトウモロコシやフェジョン豆の種 蒔きに故郷に帰るので,こうした問題はみられない。雨季はこの地域の日系人農場にとっ ても農閑期にあたるので,こうした季節労働は双方にとって有利に作用するわけである。 毎年常連になっている労働者も多い。農場に常時居住する場合にも,よく働けばそれだ けの報酬が得られるはか,農場主との人間的関係も良好で,労働者の定着率は高い。 さらに,日系人農場は労働者への農業技術の普及の場ともなっている。労働者は努定,.

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