宮沢賢治「文語詩稿
一百篇」評釈
五
信
時
哲
郎
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朝
①旱割れそめにし稲沼に、 いまころころと水鳴りて、 待宵草に置く露も、 睡たき風に萎むなり。 ②鬼げし風の 襖 あ を し 子 着て、 児ら高らかに歌すれば、 遠き讒誣の傷あとも、 緑青いろにひかるなり。 大意 日照りによって割れはじめた稲田に、 今、水がころころと音をたてて注ぎ始め、 待宵草におりた露は、 眠気を誘うような風に吹かれて萎み始めている。 鬼芥子のような赤い襖子を着て、 子供たちが高らかに歌をうたっていくと、 水争いで悪口雑言を投げ合った傷跡も忘れたように、 緑青色の稲が光っている。 モチーフ 独居自炊生活を始めてまだ間もない頃に取材した作品。大正十五年の旱魃が終わ る 劇 的 な 瞬 間 に 立 ち 会 っ た の だ ろ う。 「 讒 誣 」 と は、 農 民 た ち と の 諍 い の 記 憶 や 旱 魃の際の水争いの記憶などが反映されているのかもしれないが、下書稿の書入れに 「 春 の 間 の 讒 誣 」 と あ り、 ま た、 文 語 詩 定 稿 に も「 遠 き 」 と あ る こ と か ら す る と、 下根子に居を移す頃のいざこざ、あるいは農学校や父との関係、経済的な事情など を指しているのかもしれない。ただ、いずれにしても旱魃が終わったことに対する 喜びと感謝を詠ったものであることには違いない。 語注 旱割れ 日照りによって稲田にひびが入ること。先行作品は、賢治が独居自炊生活 を始めた大正十五年に書かれているが、この年は旱害(その後に水害)の被害が 大きかったという。木村東吉( 「資料と考察『春と修羅 第三集』 『詩ノート』創 作 日 付 の 日 の 気 象 状 況 」『 近 代 文 学 の 形 成 と 展 開 継 承 と 展 開 8』 和 泉 書 院 平 成 十 年 二 月 ) が 盛 岡 気 象 台・ 水 沢 天 文 台 で 調 べ た 結 果 に よ れ ば、 「 前 日 の 夜 は、 盛 岡 と 水 沢 で 雷 光 を 伴 う 雨 」 が 記 録 さ れ て お り、 「 こ の 日 は、 早 朝 の 雨 も 夜 明 け 前 には上がり、ちょうど日の出前の時刻に出ていた霧も八時ころまでには晴れ、午 前中良い天気で気温も上がった」という。 待宵草 南米原産のアカバナ科マツヨイグサ属の越年草。初夏から秋にかけて黄色 い 花 を 夕 方 に 咲 か せ、 朝 を 迎 え る 頃 に は し ぼ ん で 赤 く な る。 「 朝 」 と 題 さ れ た 作 品であることから、ここでの花色は赤かったことになる。しかし、先行作品であ る 「七二七 〔アカシヤの木の 洋 ラ ム プ 燈 から〕 一九二六ヽ七ヽ一四ヽ」 下書稿㈠には 「月 見草」とあるので、もし月見草であったとすれば白い花が翌朝になってピンク色 に な っ て い た こ と に な る。 も っ と も『 定 本 語 彙 辞 典 』 に あ る よ う に、 「 一 般 に 待 宵草をすべて「月見草」の名で総称している場合が多い」とあることから、どち らかに限定することはむずかしい。鬼げし 地中海から中近東を原産地とし、日本では明治時代以降、観賞用として栽 培されるようになった一年草。花径は十五~二十センチほどで、赤、白、ピンク な ど の 色 が 咲 く。 『 世 界 大 百 科 事 典 』 に は、 ケ シ は 安 眠、 多 産、 そ し て 死 と 復 活 の 象 徴 と さ れ る、 と あ る。 「 鬼 げ し 風 の 襖 子 」 と は、 赤 い 色 の 襖 子 の こ と を 言 い たかったのではないかと思う。 襖 あ を し 子 裏地をつけて仕立てた着物を袷というが、綿を入れることもあった。黒塚洋 子( 後 掲 ) は、 「 襖 子 は 袷 や 綿 入 れ の 衣 な の で や は り 冷 夏 を 想 像 さ せ る 」 と 書 い ている。 讒誣 事実とは異なるいいがかりをつけて、 相手をそしること。読み方は 「ざんぶ」 。 評釈 「 春 と 修 羅 第 三 集 」 所 収 の「 七 二 七〔 ア カ シ ヤ の 木 の 洋 ラ ム プ 燈 か ら 〕 一 九 二 六 ヽ 七 ヽ 一四ヽ」 を文語詩に改作したもの。黄罫 ( 22 2 2 行) 詩稿用紙に書かれた 「七二七 〔ア カシヤの木の 洋 ラ ム プ 燈 から〕 」の下書稿㈡に文語詩の下書稿㈠(タイトルは「朝」 。以降 も同じ) 、その余白に書かれた下書稿㈡(青インクで㊢) 、定稿用紙に書かれた定稿 の三種が現存。生前発表なし。 黒塚洋子(後掲)は、ラ行音を効果的に用いていること、各行ごとに色を織り込 ん で い る こ と、 「 睡 た き 風 」 と「 鬼 げ し 風 」 を カ ゼ と フ ウ に 使 い 分 け て 対 に し て い ることなどの技巧について指摘し、さらに「流れるように歌われる三行目までは清 音で描かれた明るく楽しい叙景であるのに対して、第四行目はそれをさえぎるよう に「讒誣」という濁音が入り、悲しさとやるせなさを秘めた私的体験の心情表現で あるという点が注意をひく」と書く。 黒 塚 は そ こ か ら 内 容 の 検 討 に 入 り、 「 賢 治 は 羅 須 地 人 協 会 時 代 の 当 初 か ら「 讒 誣 の傷」にかなり悩まされこだわっていたことがわかる」とし、数篇の詩をあげなが ら、 「 農 民 へ の 同 化 を 願 い な が ら も 彼 等 の 封 建 性 や 頑 迷 さ に 苦 し み そ の 習 慣 を 嫌 悪 する賢治の姿と、教師上がりの百姓など我々の仲間ではないと拒絶し中傷する農民 の 姿 が 浮 か ん で く る 」 と す る。 大 角 修( 後 掲 ) も、 「 農 民 の た め に 無 償 で 働 き な が ら非難されたりしたことを意味すると思われる」としている。 た だ、 伝 記 的 に 考 え れ ば、 羅 須 地 人 協 会 は こ の 年 の 八 月 二 十 三 日( 旧 暦 の 七 月 十六日)に設立されたということから、まだ農民との間にはあまりトラブルも発生 していなかったように思うし、旱魃を扱った作品であることから、水争いであった 可能性についても考えてよいかもしれない。独居自炊時代に賢治は稲作をしていな か っ た が、 例 え ば 散 文「 〔 或 る 農 学 生 の 日 誌 〕」 の「 一 千 九 百 二 十 六 年 六 月 十 四 日 」 の章には次のような記述がある。 水 が 来 な く な っ て 下 田 の 代 掻 が で き な く な っ て か ら 今 日 で 恰 度 十 二 日 雨 が 降 ら な い 。 い っ た い そ ら が ど う 変 っ た の だ ら う 。 あ ん な 旱 魃 の 二 年 続 い た 記 録 が 無 い と 測 候 所 が 云 っ た の に こ れ で 三 年 続 く わ け でな い か 。 大 堰 の 水 も まる で 四 寸 ぐ ら ゐ し か な い 。 夕 方 に な っ て や っ と い ま ま で の 分 へ 一 わ た り 水 が か か っ た 。 三 時 ご ろ 水 が さ っ ぱ り 来 な く な っ たか ら ど う し た の か と 思 っ て 大 堰 の 下 の 岐 れ ま で 行 っ て み た ら 権 十 が こ っ ち を と め て じ ぶ ん の 方 へ 向 け て ゐ た 。ぼ く は ま る で 権 十 が 甘 藍 の 夜 盗 虫 み た い な 気 がし た 。 顔 が む く む く 膨 れ て ゐ て 、 お ま け に あ んな 冠 ら な く て も い ゝ や う な 穴 の あ い た つ ば の 下 っ た 土 方 し ゃ っ ぽ を か ぶ っ て そ の 上 か ら ま た 頬 か ぶ り を し て ゐ る の だ 。 手 も 足 も 膨 れ て ゐ る か ら ぼく はま る で 権 十 が 夜 盗 虫 み た い な 気 が し た 。 何 を す る ん だ と 云 っ た ら 、 な ん だ 、 農 学 校 終 っ た っ て 自 分 だ け い ゝ こ と を す る な と 云 ふ の だ 。 ぼ く も む っ と し た 。 何 だ 、農 学 校 な ぞ 終 っ て も 終 ら な く て も い ま はぼ く の と こ の 番 に あ た っ て 水 を 引 い て ゐ る の だ 。 そ れ を 盗 ん で 行 く と は 何 だ 。 と 云 っ た ら 、 学 校 へ 入 っ たん で し ゃ べ れ るや う に な っ た も ん な 、 と 云 ふ 。ぼ く は も う 大 き な 石 を た た き つ け て や ら う と さ へ 思 っ た 。 け れ ど も 権十 は そ の ま ゝ 行 っ て し ま っ た か ら 、 ぼ く は 水 を うち の 方 へ 向 け 直 し た 。 や っ ぱ り 権 十 は ぼ く を 子 供 だ と思 っ て ぼ く だ け 居 た も の だ か ら あ ん な こ と をし た の だ 。 い ま に み ろ 、ぼ く は 卑 怯 な や つ ら は み ん な 片 っ ぱ し か ら 叩 き つ け て や る か ら 。 もちろんこれは創作だが、大正十三年から十四年、十五年と三年連続して旱害に
襲 わ れ た こ と は 事 実 で、 「〔 或 る 農 学 生 の 日 誌 〕」 に お け る「 一 千 九 百 二 十 六 年 六 月 十四日」と言えば、取材時とも近いことから、大正十五年当時、賢治が旱害につい てどう思っていたかを考える材料にはなるだろう。 し か し 本 作 の 先 行 作 品 で あ る「 七 二 七 〔 ア カ シ ヤ の 木 の 洋 ラ ム プ 燈 か ら 〕」 の 下 書 稿 ㈡ の 書 入 れ に は、 「 か あ い さ う に 莢 豌 豆 の レ ア カ ー を 引 い て / 春 の 間 の 讒 誣 の 傷 を / 緑青いろに胸にひからせ/アカシヤのラムプのなかを」という書き込みがある。下 書 稿 ㈠ の 手 入 れ 段 階 で「 レ ア カ ー」 の こ と を「 お れ の 車 」 と 書 い て い る こ と か ら、 賢治自身が町にレアカーで莢豌豆を売りに行ったことを書いているのだとも思われ るのだが、だとすれば、 「おれ(=賢治) 」にとっての「讒誣」と思われるような出 来事は「春の間」に起こったことにならないだろうか。 もっとも下書稿㈡の書入れは後年のもので、文語詩化直前のもののようにも思え るので、 虚構化されている可能性もないわけではない。 「かあいさうに」 という語も、 普通は自分自身に向って使う言葉でなく、第三者に向って使う言葉である。 た だ、 そ う し た 可 能 性 を お い て 伝 記 的 に 考 え れ ば、 「 春 の 間 の 讒 誣 」 と い う の は 大正十五年の三月か四月頃、つまり、まだ農学校在職中、でなくても独居自炊生活 を始めたばかりであったことになり、 農民とのトラブルではなく、 農学校での問題、 あるいは父との確執などのことを指している可能性もありそうだ。 また、下書稿㈠の手入れ段階には「棘ありてかつなつかしき/負債に就て追懐せ よ 」 の 言 葉 も あ る。 『 新 校 本 全 集 』 の 年 譜 を め く っ て み て も、 特 に「 負 債 」 に あ た るような内容は見当たらない。ただ、四月四日の記事には、賢治が移り住んだ下根 子 桜 の 別 荘 に つ い て、 「 一 九 一 二( 明 治 四 五 ) 年 に 祖 父 喜 助 が 建 て た 家 な の で か な り手入れが必要であったことと目的による改装もあり、 大工の手を離れたあとは 「多 く 自 分 ひ と り で や っ た 」」 と い う 別 荘 の 隣 に 住 ん で い た 伊 藤 忠 一 に よ る 証 言 も あ る ので、この際に負債を負ったのかもしれない。ただ、年譜には六月三日には県知事 に宛てて「一時恩給請求書」を書き、七日には五二〇円の支給手続きを取っている ともあるので、賢治が経済的にそれほど困窮していたわけでもなさそうだ。 ともあれ、稲沼には水が流れ出したことが、人間世界のいざこざをすべて吹き飛 ばしてしまうかのような喜びであったと書くことが、本作の主意であったことにか わりはなさそうだ。 佐 藤 隆 房( 「 大 旱 魃 」 『 宮 沢 賢 治 素 顔 の わ が 友 』 桜 地 人 館 平 成 八 年 三 月 ) は、 こ んなエピソードを書いている。 大正十四年、岩手県は特記すべき大旱魃でした。何しろ、今生きている人たち が一度も経験したこともない大旱魃だけに、村という村、家という家、人という 人、一人として心配しない者はありません。 その時、賢治さんは農学校で水田を受け持っていました。指導機関である学校 の水田だけに責任も心配もなみたいていではありません。暇があれば生徒を連れ て行って、低い 堰 せき の水を桶で田に掻き入れる作業をしていました。 暑さは暑いし、 旱 かわ くのは旱くし、生徒も先生も本当に血みどろの働きです。 こうした毎日の奮闘に、筋も骨も焼き切れて、はや百計尽きようとしたある日 です。雲行きが急に変になって釆たかと思う間に、待ちに待った夕立が降って来 ました。 降って来たのです。 みんなはただ 呆 ぼうぜん 然 として嬉し涙にくれています。 すっ かり喜んでしまった賢治さんは、上着も帽子も靴も脱ぎ 「 あ あ 面 白 い、 あ あ 気 持 ち い い。 こ の ま ま い つ ま で も 草 と い っ し ょ に 濡 ぬ れ て い たい」と言って、田圃の畦をひょこひょこと歩いて、遥か向こうの方の田の端ま で踊るように行ってしまいました。 佐藤は大正十四年のことだというが、翌年の十五年は「あんな旱魃の二年続いた 記 録 が 無 い と 測 候 所 が 云 っ た の に こ れ で 三 年 続 く わ け で な い か 」 と さ れ た 年 な の で、 水がころころと鳴れば、 子供たちの歌声さえも高らかに聞こえ、 「讒誣の傷あと」 さえも「緑青いろにひか」っているように感じられたというのも無理はない。 た だ、 農 村 の 幸 福 を 描 く に し て も、 「 鬼 」 や「 讒 誣 」 と い っ た 禍 々 し い 語 を 配 置 するなど、甘く平和なだけの作品にはしていないことにも着目しておきたい(黒塚 の 指 摘 し た よ う に、 ラ 行 音 だ け で な く 濁 音 を 配 置 し た こ と も 含 ま れ よ う )。 甘 い だ けの作品にはしたくなかったようである。
先行研究 黒塚洋子「朝」 (『宮沢賢治 文語詩の森』 柏プラーノ 平成十一年六月) 島田隆輔 「∧写稿∨論」 (『宮沢賢治論 文語詩稿叙説』 朝文社 平成十七年十二月) 大角修「おわりに」 (『 「宮沢賢治」の誕生』 河出書房新社 平成二十二年五月)
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〔猥れて
嘲
あ ざ笑
めるはた寒き〕
①猥れて 嘲 あ ざ 笑 めるはた寒き、 凶つのまみをはらはんと かへさまた経るしろあとの、 天は遷ろふ火の鱗。 ②つめたき西の風きたり、 あららにひとの秘呪とりて、 粟の垂穂をうちみだし、 すすきを紅く 燿 かゞ やかす。 大意 馴 染 ん で う ち と け す ぎ て 笑 い 顔 を 見 せ る の は 寒 々 し く 思 わ れ、 そ ん な 目 を 避 け よ うと、 帰 り 道 で ま た 通 り 過 ぎ る 城 跡 か ら、 夕 焼 で 赤 く 染 ま っ た う ろ こ 雲 が 空 を 流 れ る の が見える。 冷 た い 西 か ら の 風 が 吹 い て く る と、 呪 文 の よ う に 口 に し た 秘 め た る 恋 人 の 名 を 荒々しく奪い、 エノコログサの穂をざわめかせ、 ススキにも赤い夕陽を映えさせていった。 モチーフ 稗 貫 農 学 校 時 代 の 賢 治 に は 、 想 い を 寄 せ て い た 女 性 が い た よ う だ が 、 そ の 名 前 を 口 に し た と こ ろ 西 か ら の 風 に 奪 わ れ て い っ た と い う 純 情 な 詩 の よ う だ 。 た だ 、 「 猥 」、 「 嘲 笑 」、 「 凶 つ 」、 「 火 の 鱗 」、 「 秘 呪 」 と い っ た 語 は 、 プ ラ ス の イ メ ー ジ で は 捉 え に く い 。 賢 治 は 「 小 岩 井 農 場 」 で 、「 じ ぶ ん と そ れ か ら た っ た も ひ と つ の た ま し ひ と / 完 全 そ し て 永 久 に ど こ ま で も い っ し ょ に 行 か う と す る / こ の 変 態 を 恋 愛 と い ふ 」 と 書 い た が 、 晩 期 の 賢 治 は 、 こ う し た 抑 制 を 批 判 し 、 恋 愛 や 性 を 肯 定 的 に 描 こ う と し て い た 。 だ と す れ ば 、 恋 愛 を 批 判 的 に 描 こ う と し た の で は な く 、 恋 愛 に 対 し て 懐 疑 的 で あ っ た か つ て の 自 分 を モ デ ル に し た 人 物 を 、 客 観 的 に 描 こ う と し た の か も し れ な い 。 語注 猥れて 嘲 あ ざ 笑 めるはた寒き 読み方は下書稿㈢に付されたルビから 「なれて」 だろう。 『定本語彙辞典』は「みだらな嘲笑は、また(=はた)いかにも寒々と」とする。 嘲笑は軽蔑の気持ちを込めて笑うという意味だが、ここでは男女が節度を失って うちとけ、笑い顔を見せること。男性の笑いのことなのか、女性の笑いのことな の か、 そ れ と も 両 方 の こ と な の か わ か り に く い。 高 橋 慶 吾( 「 賢 治 先 生 」 「 イ ー ハ ト ー ヴ ォ〔 第 一 期 〕 1」( 昭 和 十 四 年 十 一 月 ) は、 後 年、 賢 治 が 小 笠 原 露 と い う 女性とトラブルがあった際に、父・政次郎は「女の人に対する時は、歯を出して 笑つたり、胸を広げてゐたりすべきものではない」と戒めたというが、賢治も男 女の関係については政次郎と同じように思っていたのだろう。 凶 つ の ま み 不 吉 な 眼 付 き と い う こ と だ ろ う。 奥 本 淳 恵( 後 掲 A ) は、 「 な れ な れ し く 誘 惑 的 に 接 近 し て く る 女 性 の ま が ま が し い 目 」 と し、 「 推 測 す る な ら、 古 語 の「馴る」 (男女の関係で、親しむ、なじむ)の意と漢語「猥」 (みだら。男女間 のだらしないこと)の意との両方を表現したかったということか」とする。読み 方 は「 ま が つ 」 で あ ろ う が、 「 ま が つ び 」 の 語 は「 一 百 篇 」 に ば か り 何 度 か 登 場 する語。これは日本神話にみえる神の名で、 マガはよくないこと、 ツは助詞で 「の」 の意味。ヒは神霊を示す。古事記や日本書紀によれば、 伊 いざな ぎのみこと 弉諾尊 が黄泉国のけが れを清めるための禊をした際に生まれたとされる。凶事を引き起こす神とされる が、後にこの神を祀ることで災厄から逃れられると考えられるようになり、厄除 けの守護神として信仰されるようにもなった。 火の鱗 夕陽で赤く染まった 鱗 うろこぐも 雲 (巻積雲)のこと。秋を代表する雲で、天気が下 り坂の時に出やすい。秘 呪 『 定 本 語 彙 辞 典 』 は「 秋 の 冷 た い 西 風 が、 荒 々 し く 人 間 の 秘 密 の 呪 力 を そ な えて吹く」としているが、下書稿㈢には「ひとの秘呪」を「きみが名を」に改め る段階があり、下書稿㈠には「西風きみが名をとりて」とあることから、秘密に している恋人の名前を西風に奪われたという意味だろう。 粟の垂穂 古くから食用に用いられた雑穀で五穀の一つに数えられる。ただ、作品 の舞台は街中なので、同種の雑草エノコログサ(ネコジャラシ)のことだろう。 評釈 黄 罫( 60 2 行 ) 詩 稿 用 紙 に 書 か れ た 下 書 稿 ㈠( 藍 イ ン ク で )、 そ の 裏 面 に 書 か れた下書稿㈡、下書稿㈡を削除した後、すぐその下に書かれた下書稿㈢(タイトル は「判事」 。その後「帰途」に変えようとして中止) 、黄罫( 22 2 2 行)詩稿用紙に書 かれた下書稿㈣(タイトルは「検事」 、後に「判事」 。㊢の印はどの原稿にもない) 、 定稿用紙に書かれた定稿の五種が現存。定稿の一行目末尾には読点がない。生前発 表 な し。 『 新 校 本 全 集 』 に 指 摘 は な い が、 島 田 隆 輔( 後 掲 ) は、 「〔 冬 の ス ケ ッ チ 〕」 の第四四葉が元になっていると指摘している。 まず、島田が指摘する「 〔冬のスケッチ〕 」から見てみたい。 寂まりの桐のかれ上枝 点々かける赤のうろこぐも ※ 火はまっすぐに燃えて あるひは見えず このとき 鳩かゞやいて飛んで行く。 ※ 灰いろはがねのいかりをいだき われひとひらの粘土地を過ぎ がけの下にて青くさの黄金を見 がけをのぼりてかれくさをふめり 雪きららかに落ち来れり。 最後の章は 「未定稿」 の 「〔卑屈の友らをいきどほろしく〕 」 の下書稿であると 『新 校本全集』にも記されているものだが、稗貫農学校時代の学校周辺を舞台にしたも のとして、本作との関連も深いと思われる。 さて、 〔猥れて嘲笑めるはた寒き〕の下書稿㈠は次のようなものとなっている。 寂まりの桐のかれ 上 ほ づ え 枝 翔くるは赤きうろこ雲 あゝまた風のなかに来て かなしく君が名をよべば あけびのつるのかゞやきて 鳥は汽笛を吹きて過ぐ 「〔 冬 の ス ケ ッ チ 〕」 が 元 に な っ て い る の は 明 ら か だ が、 こ の 後 は「 う ろ こ 雲 」 と いう言葉以外は消えてしまう。新しく加わった後連のモチーフは、奥本淳恵(後掲 B ) も 指 摘 す る よ う に『 春 と 修 羅( 第 一 集 )』 所 収 の「 マ サ ニ エ ロ 」 と 関 連 が 深 い ようである。 城のすすきの波の上には 伊太利亜製の空間がある そこで烏の群が踊る 白 し ろ う ん も 雲母 のくもの幾きれ (濠と 橄 かんらん 欖 天 び ら う ど 蚕絨 、杉) ぐみの木かそんなにひかつてゆするもの 七つの銀のすすきの穂
(お城の下の桐畑でも、ゆれてゐるゆれてゐる、桐が) 赤い 蓼 たで の花もうごく すゞめ すゞめ ゆつくり杉に飛んで稲にはいる そこはどての陰で気流もないので そんなにゆつくり飛べるのだ (なんだか風と悲しさのために胸がつまる) ひとの名前をなんべんも 風のなかで繰り返してさしつかえないか (もうみんな鍬や縄をもち 崖をおりてきていゝころだ) いまは鳥のないしづかなそらに またからすが横からはいる 屋根は矩形で傾斜白くひかり こどもがふたりかけて行く 羽織をかざしてかける日本の子供ら こんどは茶いろの雀どもの抛物線 金属製の桑のこつちを もひとりこどもがゆつくり行く 蘆の穂は赤い赤い (ロシヤだよ、チエホフだよ) はこやなぎ しつかりゆれろゆれろ (ロシヤだよ ロシヤだよ) 烏がもいちど飛びあがる 稀硫酸の中の亜鉛屑は烏のむれ お城の上のそらはこんどは支那のそら 烏三疋杉をすべり 四疋になつて旋転する 制作日付は大正十一年十月十日となっているが、まだ稗貫農学校から花巻農学校 に改称する以前、若葉町に移転する以前で、文語詩も季節は秋でイメージは繋がっ て い る。 「 お 城 の 下 」 や「 赤 い 蓼 の 花 」、 「 蘆 の 穂 は 赤 い 赤 い 」 と い う 言 葉 も 関 連 性 があるかもしれない。何より「ひとの名前をなんべんも/風のなかで繰り返してさ しつかえないか」は決定的だと思う。 この「ひとの名前」について、恩田逸夫( 「補注(春と修羅) 」( 『日本近代文学大 系 36 高 村 光 太 郎・ 宮 沢 賢 治 』 角 川 書 店 昭 和 四 十 六 年 六 月 ) は、 タ イ ト ル の マ サ ニ エロ(オーベール「ボルティチの唖娘」の主人公の名前)から、兄と妹の密接なつ ながりを思わせ、また前行の「悲しさのために」から妹トシを指すのではないかと する。しかし、恩田は『春と修羅(第一集) 』所収の「松の針」に、 「おまへがあん なにねつに燃され/あせやいたみでもだえてゐるとき/わたくしは日のてるとこで たのしくはたらいたり/ほかのひとのことをかんがへながら森をあるいてゐた」と あ る こ と か ら、 賢 治 の 恋 人 を 指 し た 可 能 性 に つ い て も 書 い て い る。 『 春 と 修 羅( 第 一 集 )』 を 書 い て い た 頃 の 賢 治 に は、 例 え ば「 第 四 梯 形 」 で「 青 い 抱 擁 衝 動 や / 明 るい雨の中のみたされない唇が/きれいにそらに溶けてゆく/日本の九月の気圏で す」と書き、また「一本木野」で「こんなあかるい穹窿と草を/はんにちゆつくり あるくことは/いつたいなんといふおんけいだらう/わたくしはそれをはりつけと で も と り か へ る / こ ひ び と と ひ と め み る こ と で さ へ さ う で な い か 」 と 書 く よ う な、 具 体 的 な 恋 愛 対 象 が い た よ う で、 栗 原 敦( 「 資 料 と 研 究・ と こ ろ ど こ ろ ⑪ 新 校 本 全 集 訂 正 項 目・ 「 き み に な ら び て 野 に た て ば 賢 治 の 恋 」 の ∧ 詩 ∨ 読 解 の こ と 」 「 賢 治 研 究 115」 宮 沢 賢 治 研 究 会 平 成 二 十 一 年 十 月 ) も、 「『 春 と 修 羅 』 の 時 代 に、 賢 治 に 交際のあった女性が実在したことは、かつて小沢俊郎が記したとおり事実です。旧 校本全集編纂時にそれが紹介されようとしていたことも事実です。そして、事情が あって公表の機会が失われたことも小沢の直話(昭和 54・ 9・ 24)として承知して います」と書くとおりである。ここでも、 恋人説を取りたいと思うが、 だからといっ て解釈がこれ以上に進むというわけでもない。ただ、風の中で恋人の名前をつぶや くというようなことが、実体験としてもあったようだということは記憶しておいて もよいかと思う。
し か し、 下 書 稿 ㈠ を 手 入 れ す る 段 階 で は、 「 土 木 主 幹 の せ な ひ ろ く / 線 路 に 添 ひ て帰り行く」と第三者を主人公にする構想が立てられ、以降、下書稿㈢ではタイト ル が「 判 事 」、 下 書 稿 ㈣ で は「 検 事 」 と、 文 語 詩 に つ い て よ く 指 摘 さ れ る 私 性 の 排 除がなされている。定稿になるとタイトルもなくなって、誰を視点にしたものなの か、どのような相手への思いなのかも分かりにくい作品になっている。 ただ、 注意しておきたいのは、 恋愛感情を描くのに 「猥」 、「嘲笑」 、「凶つ」 、「火の鱗」 、 「 秘 呪 」 と、 プ ラ ス の イ メ ー ジ で は 捉 え に く い 語 が 用 い ら れ て い る こ と だ。 妹 ト シ が病床にあったことからくるやましさ、 また、 「小岩井農場」で書かれたように、 「じ ぶんとひとと萬象といっしょに/至上福しにいたらうとする/それをある宗教情操 とするならば/そのねがひから碎けまたは疲れ/じぶんとそれからたったもひとつ のたましひと/完全そして永久にどこまでもいっしょに行かうとする/この変態を 恋愛といふ」という宗教的な思いからする恋愛に対する禁忌の意識がそう書かせた のかもしれない。しかし、文語詩制作中の賢治は、森荘已池に「草や木や自然を書 く よ う に エ ロ の こ と を 書 き た い。 」( 「 昭 和 六 年 七 月 七 日 の 日 記 」 『 宮 沢 賢 治 の 肖 像 』 昭 和 四 十 九 年 十 月 津 軽 書 房 ) と 語 っ て い る よ う な 思 い を 抱 い て も い た よ う で、 文 語詩定稿には、その表れとも思えるような作品が散見されることから、賢治には恋 愛や性をむしろ謳歌する意識があったように思われる。だとすれば、本作は恋愛を 批 判 的 に 描 こ う と し た の で は な く、 さ ま ざ ま な 人 々 を 描 く 中 で の 一 つ の 例 と し て、 過去の自分を第三者のように客観的に描こうとしているように思えてくる。 それにしても、賢治の恋愛経験などが具体的にわかると、単に興味深いというだ けでなく、文語詩の解釈にも大きな発展が望めるのではないかという気がする。新 しい資料の発見や紹介がされる日を待ちたい。 先行研究 島 田 隆 輔「 〔 冬 の ス ケ ッ チ 〕 散 逸 稿 /《 文 語 詩 稿 》 へ の 過 程 か ら 迫 る 試 み 」( 「 島 大 国文 26」 島大国文会 平成十年二月) 奥 本 淳 恵 A 「 宮 沢 賢 治 文 語 詩 稿 ∧ 双 四 聯 ∨ の 表 現 手 法 詩 篇「 母 」 の 場 合 」( 「 論 攷宮沢賢治 7」 中四国宮沢賢治研究会 平成十八年七月) 奥本淳恵 B「宮沢賢治の詩における外来語 口語詩篇 「マサニエロ」 と文語詩篇 「〔あ か つ き 眠 る み ど り ご を 〕」 の 場 合 」( 『 安 田 文 芸 論 叢 研 究 と 資 料 第 二 輯 』 安 田女子大学日本文学科事務局 平成二十二年三月)
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岩頸列
①西は箱ヶと 毒 ドグ ヶ森、 椀コ、南昌、東根の、 古き 岩 ネ ツ ク 頸 の一列に、 氷霧あえかのまひるかな。 ②からくみやこにたどりける、 芝雀は旅をものがたり、 「その小屋掛けのうしろには、 寒げなる山にょきにょきと、 立ちし」とばかり口つぐみ、 とみにわらひにまぎらして、 渋茶をしげにのみしてふ、 そのことまことうべなれや。 ③山よほのぼのひらめきて、 わびしき雲をふりはらへ、 その雪尾根をかゞやかし、 野面のうれひを燃し 了 おほ せ。 大意 西には箱ヶ森と毒ヶ森、 椀コ、南昌山、東根山の、 古い岩頸の一列が並び、 真昼だというのにほのかに氷霧が出ているようだ。 あ ち こ ち を 巡 り 歩 い て よ う や く 都 に た ど り つ い た 、 旅 芸 人 の 芝 雀 は 旅 に つ い て 語 り 、 「その小屋の後ろには、 寒々しい山々がにょきにょきと、 立っていて気味が悪かったよ」とだけ喋ると口をつぐみ、 笑いに紛らせながら、 渋茶をひんぱんにすすったというが、 それもまことにもっともだ。 山よそろそろはっきりと姿を見せて、 わびしい雲を振りはらってしまえ、 その雪の積もった尾根を輝かせ、 野のどんよりした思いを燃やし尽くしてくれ。モチーフ 箱ヶ森から東根山に連なる岩頸列の景観の奇妙さについて、芝雀という(おそら くは)架空の旅芸人の視点を借りながら表現した作品。岩頸がにょきにょきと伸び ていくものだというイメージは、賢治に親しいものだったようだ。唐突な旅芸人の 登場は、永くここに住んだ者よりも、訪問者にこそ、その特異な風景が新鮮に感じ られるものだと思ったからではないかと思う。 語注 箱ヶ 盛岡市、 雫石町、 矢巾町にまたがる箱ヶ森(八六五 ・ 五 m )のこと。 「はこが」 と 読 ま せ た か っ た の だ ろ う。 細 田 嘉 吉( 後 掲 B ) に よ れ ば、 南 東 の 平 地 よ り に ある赤林山(八五五 m )と一緒に矢筈森と呼ばれ、また、本来は鉢ヶ森と呼ばれ るべき赤林山と箱ヶ森が混同されていたという。平地から見れば当然目に着くは ずの山を賢治が書かなかったのは「大正時代には「赤林山」の名称はまだまだ浸 透 し て い な か っ た 」 か ら だ と す る。 大 石 雅 之( 後 掲 ) や 加 藤 碩 一( 「 岩 頸 」 『 宮 沢 賢 治 地 学 用 語 辞 典 』 愛 智 出 版 平 成 二 十 三 年 九 月 ) が 書 く よ う に、 大 正 五 年 三 月 発行(大日本帝国陸地測量部)の五万分の一地形図「日詰」には赤林山とあるこ とから「浸透していなかった」とは言えないにしても、賢治が現在の赤林山のこ とを箱ヶ森と呼んでいた可能性は高い。松本隆(後掲)も、土地の古老が現在の 赤林山を箱ヶ森と呼び、現在の箱ヶ森を枕森と呼んでいたという証言を紹介して いる。 毒 ドグ ヶ森 雫石町にある毒ヶ森(七八二 m )のこと。賢治が自ら「経埋ムベキ山」と した県内三十二の山のうちの一つにリストアップされている。 椀 コ 他 の 山 は 実 在 す る の に( い く つ か の 説 が 分 か れ て い る 場 合 も あ る が )、 一 つ だ け 実 在 が 確 認 で き な い の が「 椀 コ 」 で あ る。 ① 毒 ヶ 森 の 南 西 約 一 ・ 二 キ ロ 地 点 に あ る 大 石 山( 五 二 七 m ) を 指 す と い う 説( 『 語 彙 辞 典 』( 平 成 元 年 十 月 東 京 書 籍 )、 奥 田 博( 後 掲 A )、 村 上 英 一( 後 掲 )、 『 新 語 彙 辞 典 』( 平 成 十 一 年 七 月 )) 、 ② 平 地 側 か ら 見 て 最 も 近 く に 大 き く 聳 え て い る 赤 林 山( 八 五五 m ) だ と す る 説( 大 石 雅 之( 後 掲 )、 ブ ロ グ「 宮 沢 賢 治 の 里 よ り 」( h t t p : / / b l o g . g o o . n e . j p / s u z u k i k e i m o r i / 平 成 二 十 三 年 二 月 二 十 八 日 ~ 三 月 三 日 )) 、 ③ 南 昌 山 の 北 側 に あ る 七 七一 m の ピ ー ク( 木 津 ヶ 山。 山 頂 に は 薬 師 岳 と い う 札 が あ る と い う ) を 指 すという説 (細田 (後掲 A 、B )、『新語彙辞典』 初版 補遺 (平成十二年八月) 、『定 本 語 彙 辞 典 』( 平 成 二 十 五 年 八 月 )) 、 ④「 椀 コ 」 は「 お 椀 の 形 の よ う な 」 と い う 意味なので南昌山の愛称だとする説 (宮城一男 (後掲 A 、B 、C )、 加藤碵一 (後掲) 、 松本隆(後掲) )が出ている。また、 『新校本全集』では、 「五十篇」の「 〔月の鉛 の雲さびに〕 」の下書稿㈤~㈦の余白にある岩頸列の線画について、 「連山は明ら かに箱ヶ森 ・ 毒ヶ森 ・ 南昌山等の岩頸列の山々である」とし、 「ただし、 このスケッ チでは、右から、箱ヶ森・毒ヶ森・南昌山・椀コ・東根山と並んでおり、文語詩 「岩頸列」とは、南昌山・椀コの順序が食い違っている」とある。 「椀コ」が、何 山を指すのかという論議ではないが、①~④の論者の共感は得られそうにない見 解を提出している。 まず①の大石山説から検証してみたい。 大石山は標高も低く、 岩 頸 で も な さ そ う で、 「 一 列 」 の 語 も ふ さ わ し く な い。 ま た、 東 方 の 矢 巾 町 の 側 からは見えないという意味からも却下してよいかと思われる。②の赤林山説につ いて、大石(後掲)は地図上で見て、箱ヶ森と毒ヶ森という西の列と、赤林、南 昌、東根の東の列があるのだとするが、一望できるのは岩手山の頂上付近だとい う し、 「 岩 ネ ツ ク 頸 の 一 列 0 0 」 と い う 言 葉 に も そ ぐ わない。 賢治が赤林山を書いていないのは、 「 ア カ バ ヤ シ 」 と い う 五 音 を 使 っ て し ま う と他の山に言及できないからであろう。③ の 七 七一 m の ピ ー ク 説 は、 地 図 等 に も 名 前が載っていないマイナーさが問題になる かと思う。④の「椀コ」を愛称とみる説に つ い て は、 山 名 が 列 挙 さ れ る 中 で「 椀 コ 」 のみが愛称で、単独の山を指していないの はバランスが悪いように思う。どれも一長 一 短 だ と 思 う が、 ③ の 七 七一 m の ピ ー ク 説、つまり木津ヶ山(または薬師岳)だと 木津ヶ山(または薬師岳・右)と南昌山(左) 手代森小学校前から
するのが一番無難であるように思う。細田 の言うように、順番からしてここが最もふ さわしいということ、そして写真を見れば わかるように「椀コ」のような形になって いると思われるからである。ただ、地図か ら立体的な山の仮想写真を作成できるソフ ト( カ シ ミ ー ル 3 D ) に て、 い ろ い ろ 試 してみたが、箱ヶ森、毒ヶ森、薬師岳、南 昌山、東根山が一列にうまく並び、しかも 薬 師 岳 が「 椀 コ 」 の よ う に 見 え る 場 所 は、 見つけることができなかった。 「〔月の鉛の 雲 さ び に 〕」 の 下 書 稿 ㈤ ~ ㈦ の 余 白 に あ る 岩 頸 列 の 線 画 を 見 て み る と、 「 椀 コ 」 に あ たる山が描かれておらず、東根山は花巻あ たりからでなくてはあそこまで山頂部が平 らには見えないはずだし、南昌山と思われる山との距離も近すぎ、ピークの数や 高さも実際とは異なっていることから、あくまで記憶の中のものであってスケッ チではなく、位置関係まではっきり描かれたものではなさそうだ。つまり、賢治 が岩頸を愛したことは違いないにしても、どこの地点から見た時にどう見えるか についてまで、写真のように正確に把握しきれていたわけではないことを示して いよう。従って、③説が最も無理がないもののように思うとしたが、順序の認識 があいまいであったとすれば、それも絶対的なものだとは言えない。 南 昌 雫 石 町 と 矢 巾 町 の 境 に あ る 釣 鐘 型 を し た 南 昌 山 ( 八 四 八 m ) の こ と 。 盛 岡 で は 「 南 昌 山 に 雨 が 降 れ ば 盛 岡 も 雨 」 と 言 わ れ る 。 こ の 山 の 洞 窟 に 青 竜 が 住 ん で お り 、 毒 気 を 吐 い て 雲 を 呼 び 、 雨 を 降 ら せ た と い う 。 元 は 毒 ヶ 森 と 呼 ば れ た が 、 元 禄 十 六 年 に 南 部 久 信 が 毒 の 字 を 嫌 っ て 南 昌 山 に 改 名 し たと 言 わ れ る 。 頂 上 に は さ ま ざ ま な 石 塔 や 石 碑 が あ り 、 地 元 の 人 た ち の 信 奉 も 篤 か っ た よ う だ 。 賢 治 が 「 経 埋 ム ベ キ 山 」 と し た 県 内 三 十 二 の 山 の う ち の 一 つ 。 東 根 紫 波 町 と 雫 石 町 に ま た が る 東 あ ず ま ね 根 山 (九二八 ・ 四 m )のこと。ここも「経埋ムベ キ山」のうちの一つ。 岩 ネ ツ ク 頸 童 話 「 楢 の 木 大 学 士 の 野 宿 」 で は 、 大 学 士 に 次 の よ う に 説 明 さ せ て い る 。「 岩 頸 と い ふ の は 、 地 殻 か ら 一 寸 頸 を 出 し た 太 い 岩 石 の 棒 で あ る 」「 ど う し て そ ん な 変 な も の が で き た と い ふ な ら 、 そ い つ は 蓋 し 簡 単 だ 。 え ゝ 、こ ゝ に 一 つ の 火 山 が あ る 。 熔 岩 を 流 す 。 そ の 熔 岩 は 地 殻 の 深 い と こ ろか ら 太 い 棒 に な っ て の ぼ っ て 来 る 。 火 山 が だ ん だ ん 衰 へ て 、 そ の 腹 の 中 まで 冷 え て し ま ふ 。 熔 岩 の 棒 も か た ま っ てし ま ふ 。 そ れ か ら 火 山 は 永 い 間 に 空 気 や 水 の た め に 、 だ ん だ ん 崩 れ る 。 た う と う 削 ら れ て へ ら さ れ て 、 し ま ひ に は 上 の 方 が す っ か り 無 く な っ て 、前 の か た ま っ た 熔 岩 の 棒 だ け が 、 や っ と 残 る と い ふ あ ん ば い だ 。 こ の 棒 は 大 抵 頸 だ け を 出 し て 、 一 つ の 山 に な っ て ゐ る 。 そ れ が 岩 頸 だ 」。 岩 手 県 の 矢 巾 や 雫 石 の 近 辺 には こ の 岩 頸 によ る 奇 妙 な 形 の 山 が 多 い 。 岩 手 山 に 比 べ て 古 い 火 山 で あ る と さ れ て お り 、『 春 と 修 羅 ( 第 一 集 )』 の 「 小 岩 井 農 場 」 で は 、「 あ れ は き っ と / 南 昌 山 や 沼 森 の 系 統 だ / 決 し て 岩 手 火 山 に 属 し な い 」 と あ る 。 氷 霧 「 細 か な 氷 晶 が 多 数 空 気 中 に 浮 か ん で、 霧 の よ う に あ た り が ぼ ん や り 見 え る 現象。顕微鏡で氷晶を調べると、 針状、 柱状、 板状などさまざまな形をしている。 普通、気温が氷点下 10℃あるいはさらに低いときに発生する。氷霧を通して太陽 が 見 え る と き は、 そ の 周 り に 暈 かさ が 現 れ た り、 上 下 に 延 び る 光 柱 が 見 え た り す る。 手代森小学校から岩頸群を臨む(カシミール 3D による) 「五十篇」の「〔月の鉛の雲さびに〕」の下書稿㈤~㈦の 余白にある線画(宮沢賢治記念館蔵)
氷晶の数が比較的少ないときは 細 さいひょう 氷 とよばれる」 (『日本大百科全書』 )。 「一百篇」 の「 〔うたがふをやめよ〕 」等にも登場する。 芝 雀 歌 舞 伎 役 者 の 三 代 目 中 村 雀 じ ゃ く え も ん 右 衛 門 ( 明 治 八 年 ~ 昭 和 二 年 ) は、 四 代 目 中 村 芝 し ば じ ゃ く 雀 として明治末年から大正にかけて上方を中心に活躍した。細田 (後掲 B )は、 芝 雀 が 盛 岡 劇 場 か ら 岩 頸 を 見 た の だ と し、 松 本( 後 掲 ) は、 「 賢 治 が 東 京 に 出 て いた時に、たまたま歌舞伎を見に出かけた。その時舞台に立った歌舞伎役者の芝 雀が」 、「興業がうまく行かなかったことを、自分たちの失敗を棚に上げ、周りの 山までけなして、後は渋茶を飲んでごまかした」のだとする。ただ、岩頸のにょ きにょきした様子は盛岡からではリアルに感じられないと思われるし、 「西は箱ヶ と 毒 ヶ 森 」 と あ る の に、 盛 岡 か ら だ と「 西 」 の 方 角 と は な ら な い。 ま た、 賢 治 の 経 験 に 基 づ い た も の だ と す る 必 要 も な い と 思 う。 村 上( 後 掲 ) は、 「 田 舎 ま わ りの役者と考えられる。詩の音律を考えると読みは「しじゃく」 」としているが、 それに従いたい。 評釈 黄 罫( 20 2 行 ) 詩 稿 用 紙 に 書 か れ た 下 書 稿( タ イ ト ル は「 岩 頸 列 」。 鉛 筆 で ㊢ )、 定稿用紙に書かれた定稿の二種が現存。生前発表なし。先行作品や関連作品の指摘 はない。 一連は岩頸が並ぶ冬の或る日の状況をそのままに詠み、二連ではこの地での経験 を旅芸人が別の場所で第三者に語る場面、三連では再び岩頸を前にして、山に語り かけるような言葉がつづられるという構造の作品である。 賢治が岩頸を愛していたことは、その景観や特性だけでなく、松本隆(後掲)が いうように、中学校時代の友人・藤原健次郎と何度も訪れた記憶とも関わっていた と思われるが、 童話「楢の木大学士の野宿」にも、 その魅力は充分に語られている。 「歌稿〔 B 〕」の大正四年四月の項に、賢治は「 240 毒ヶ森/南昌山の一つらは/ ふ と お ど り た ち て わ が ぬ か に く る 」 と い う 短 歌 を 残 し て い る が、 鈴 木 健 司( 後 掲 ) は、 「 毒 ヶ 森、 南 昌 山 の う ち の 一 つ が 突 然 踊 り 立 ち、 伸 び る よ う に し て、 遠 く 離 れ た自分の額に向かってくる、という内容の短歌」だと捉え、 「楢の木大学士の野宿」 に も「 四 人 兄 弟 の 岩 頸 で、 / だ ん だ ん 地 面 か ら せ り 上 っ て 来 た 」 や、 「 注 文 通 り 岩 頸は/丁度胸までせり出して」 といった描写があり、 岩頸四人兄弟の末子である 「い たづらの弟」が、 「そんなら僕一つおどかしてやらう」と、 「光る大きな長い舌を出 して/大学士の額をべろりと嘗めた」といった記述があることに関係を見出してい る。 「 岩 頸 列 」 で は、 芝 雀 に「 寒 げ な る 山 に ょ き に ょ き と、 / 立 ち し 」 こ と を 報 告 させているが、これは岩頸が伸びていることの表現であり、芝雀は、これに驚いて みやこに逃げ帰ったのだろうと言う。 賢治は見間違いや思い違いについて、 好んで詩にしている。例えば 『春と修羅 (第 一集) 』の「高原」には、 海だべがど、おら、おもたれば やつぱり光る山だたぢやい ホウ 髪 か み け 毛 風吹けば 鹿 しし 踊りだぢやい と あ る。 間 違 い で は あ っ て も、 「 海 の よ う に 思 え た 」 と い う 錯 覚、 心 の 動 き こ そ が重要なのだろう。しかし、二度目に同じ場所を訪れれば、もうその「光る山」は 山にしか見えず、決して「海」だとは思わないだろう。つまり、経験を重ね、学習 することによって、心の動きは抑制されてしまうのである。 『注文の多い料理店』の「広告ちらし」で、賢治は、自分が書いた物語は、 「卑怯 な成人たちに畢竟不可解」ではあっても、 「純真な心意の所有者たち」ならば、 「ど んなに馬鹿げてゐても、 難解でも必ず心の深部に於て万人の共通である」と書いた。 経験や知識が乏しいゆえに、 「純真な心意」 の持主である子供は多くの誤りを犯すが、 それゆえに感じるはずのものが感じられなくなってしまう大人よりも、ずっと本質 を見抜ける、ということなのだろう。 『 注 文 の 多 い 料 理 店 』 所 収 の 童 話「 ど ん ぐ り と 山 猫 」 で は、 山 猫 か ら の ハ ガ キ を もらった一郎は、うれしくて夜も寝られず、朝になって「おもてにでてみると、ま
はりの山は、みんなたつたいまできたばかりのやうにうるうるもりあがつて、まつ 青なそらのしたにならんでゐ」るのを発見する。山を生命感にあふれたものにする のは、人間の心、すなわち「純真な心意」である。村上(後掲)は、この「うるう る」 と本作における 「にょきにょき」 に類縁性を見出していたが、 これは岩頸がにょ きにょきと伸びるように感じられるという鈴木(後掲)の論にも繋がっていきそう だ。純真な心意の持ち主にこそ、岩頸は恐ろしいものに感じられやすいのだ。 さて、本作では旅芸人が岩頸をにょきにょきと伸びていくように感じたとしてい るが、旅芸人は子どもではない。しかし、いつも同じ風景を見ているわけではない 人 間 で あ る か ら こ そ、 新 鮮 な 感 覚 で 風 景 に 向 き 合 う こ と が で き、 そ の 結 果 と し て、 子どものように「純真な心意の所有者」になり得たということなのだろう。 日 本 中 を 歩 き 回 り、 さ ま ざ ま な 土 地 の 名 勝 や 奇 景 を 見 て き た 旅 芸 人 で あ っ て も、 この岩手の奇景は珍しく、驚くべきものなのだ。賢治は岩手の人々に対して、自分 たちが見慣れてしまった光景を再発見させようとしていたのであろう。古くは海外 における浮世絵ブームが日本における浮世絵の見直しに繋がり、近年では、海外に おけるクールジャパンの声が、日本のオタク文化を再評価させた例もあるが、賢治 はそんな効果を、この旅芸人・芝雀に負わせたかったのだと思う。 賢 治 は 北 海 道 へ の 修 学 旅 行 に 農 学 校 の 生 徒 を 引 率 し た 際 の「 〔 修 学 旅 行 復 命 書 〕」 (大正十三年)に次のように書いている。 車窓石狩川を見、 次で落葉松と独乙唐檜との林地に入る。生徒等屡々風景を賞す。 蓋し旅中は心緒新鮮にして実際と離るゝが故に審美容易に行はるゝなり。若し生 徒等この旅を終へて郷に帰るの日新に欧米の観光客の心地を以てその山川に臨ま んか孰れかかの懐かしき広重北斉古版画の一片に非らんや。実に修練斯の如くな ら ざ る よ り は 田 園 の 風 と 光 と は そ の 余 り に 鈍 重 な る 労 働 の 辛 苦 に よ り て 影 を 失 ひ、 農業は傍観して神聖に自ら行ひて苦痛なる一の s k i m m e d m i l k たるに過ぎず。 旅人の目で見直してみれば、この岩手は驚くべき景観に満ちている。そんな思い が、本作にも込められていたのではないだろうか。気味の悪いぞっとする山。それ こそが、賢治がこの一連なりの岩頸列に対して送った最大限の〝賛辞〟であったよ うに思うのである。 先行研究 宮 城 一 男 A 「 南 昌 山・ 葛 丸 川 」( 『 宮 沢 賢 治 地 学 と 文 学 の は ざ ま 』 玉 川 大 学 出 版 部 昭和五十二年四月) 小沢俊郎「賢治原稿雑見」 (『小沢俊郎宮沢賢治論集 1』 有精堂 昭和六十二年三月) 宮 城 一 男 B 「 文 語 詩 稿 の 地 質 学 」( 「「 雪 渡 り 弘 前・ 宮 沢 賢 治 研 究 会 会 誌 5」 弘 前・ 宮沢賢治研究会 昭和六十二年九月) 奧田博 A 「毒ヶ森・椀コ(大石山) 」( 『宮沢賢治の山旅』 東京新聞出版局 平成八年 八月) 奧田博 B 「東根山・南昌山」 (『宮沢賢治の山旅』 東京新聞出版局 平成八年八月) 村上英一「岩頸列」 (『宮沢賢治 文語詩の森』 柏プラーノ 平成十一年六月) 宮城一男 C 「〝農民の地学者 〟 としての生活」 (『宮沢賢治 農民の地学者』 築地書館 平成十一年七月) 細 田 嘉 吉 A 「「 椀 コ 」 は こ こ だ 」( 「 宮 沢 賢 治 記 念 館 通 信 67」 宮 沢 賢 治 記 念 館 平 成 十一年八月) 細 田 嘉 吉 B 「 文 語 詩「 岩 頸 列 」 の 〝 椀 コ 〟 考 証 」( 『 石 で 読 み 解 く 宮 沢 賢 治 』 蒼 丘 書林 平成十八年五月) 加 藤 碵 一「 賢 治 の 地 質 学 と そ の 背 景 」( 『 宮 沢 賢 治 の 地 的 世 界 』 愛 智 出 版 平 成 十 八 年十一月) 大石雅之「宮沢賢治の『岩頸列』のある山地に関する一考察」 (「岩手の地学 39」岩 手県地学教育研究会 平成二十一年六月) 松 本 隆「 賢 治 の 詩「 岩 頸 列 」 の「 椀 コ 」 に つ い て の 考 察 」( 『 童 話『 銀 河 鉄 道 の 夜 』 の舞台は矢巾・南昌山』ツーワンライフ 平成二十二年十一月) 鈴 木 健 司「 「 岩 頸 」 意 識 に つ い て 」( 『 宮 沢 賢 治 に お け る 地 学 的 想 像 力 ∧ 心 象 ∨ と ∧現実∨の谷をわたる』 蒼丘書林 平成二十二年五月)
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病技師〔一〕
①こよひの闇はあたたかし、 風のなかにてなかんなど、 ステッキひけりにせものの、 黒のステッキまたひけり。 ②蝕む胸をまぎらひて、 こぼと鳴り行く水のはた、 くらき炭素の 燈 ひ に照りて、 飢 け か つ 饉 供養の 巨 おほいし 石 並 な めり。 大意 今宵の闇はどこかあたたかい、 風に吹かれて泣いてこようかなどと、 ステッキをひいた、偽物の、 黒いステッキをまたひいた。 肺病からくる音と交りあって、 コボッと鳴る水の脇で、 暗 闇 の 中 の ア ー ク ラ イ ト の あ か り に 照 ら さ れ て、 飢 饉 を 供 養 す る た め の 巨 石 が 並 んでいる。 モチーフ 「〔 冬 の ス ケ ッ チ 〕」 か ら、 複 雑 な 過 程 で 成 立 し た 作 品 だ が、 岩 手 の 飢 饉 に 立 ち 向 か う べ き 技 師 が 思 い 半 ば で 肺 病 に 罹 っ て し ま っ た 無 念 さ を 詠 ん で い る よ う に 思 う。 「 風 の な か に な か ん 」 や「 ス テ ッ キ ひ け り に せ も の の 」 は、 賢 治 自 身 に は 思 い 入 れ のある句であったのかもしれないが、ニュアンスがつかみにくい。 語注 病 技 師 「〔 冬 の ス ケ ッ チ 〕」 に 発 し た 若 い 時 代 の 作 品 で あ る た め、 賢 治 を モ デ ル と した人物ではないのかもしれないが、文語詩が晩年に書かれたことを思うと、賢 治 そ の 人 の 行 状 や 思 想 も 託 さ れ て い る と 考 え る べ き だ と 思 う。 尚、 読 み 方 に つ い て、 三 谷 弘 美( 後 掲 ) は「 び ょ う ぎ し 」、 萩 原 昌 好( 「 病 技 師〔 二 〕」 『 宮 沢 賢 治 文語詩の森 第二集』 柏プラーノ 平成十二年九月)は、 「やまいぎし」と読ませて いる。ここでは「びょうぎし」としたい。 ステッキ 洋風の杖のこと。 「 17世紀から 19世紀にかけて、イギリスではスナッフ ・ ボックス s n u f f b o x (かぎタバコ入れ)とともに、 紳士の最も重要なアクセサリー と考えられていた。とくに休日の散策や礼装には欠かせないものとされた。フラ ンスでは女性の散歩のさいのアクセサリーとして流行した。 19世紀には女性は長 柄のパラソル、男性は洋傘をステッキ兼用のアクセサリーとした。これらの風習 は 徐 々 に 衰 え な が ら も 1960年 代 ご ろ ま で つ づ い た が、 70年 代 に は 完 全 に 消 滅 し た。 日本では明治時代に輸入され、一時はかなりの普及をみた」 (『世界大百科事典』 ) と あ る。 ま た、 巌 谷 小 波 の エ ッ セ イ「 指 輪 と ス テ ッ キ 」( 『 女 子 処 世 ふ と こ ろ 鏡 』 大 倉 書 店 明 治 四 十 年 十 一 月 ) で は、 「 指 輪 と ス テ ッ キ。 前 者 は 女 の 飾 り で、 後 者は男の伊達、 共に文明的贅沢品なのである」 とあり、 「この頃はわざと 半 なかほど 程 を握っ て、 鈕 つまみ の方を下へ向けて提げたり、またちと手の冷たい時には、外套の胸の鈕の 所へ引かけたり、又手と一所に 衣 か く し 兜 へ突込んだりして行く。これでは無い方がよ さゝうなものだが、それでも矢張り持つて居る所、即ち紳士の伊達とする所と見 える」 。「兎に角今日のステッキなる物は、もはや護身の実用を離れて、紳士の容 儀を作る道具、 或は歩行中の無聊を紛らす、 一種の玩具たるに過ぎない」とされ、 歩 行 の た め の 補 助 用 具 と し て の イ メ ー ジ は ほ と ん ど な か っ た よ う だ。 た だ、 「 病 技師」というタイトルを持つ作品であり、また賢治が盛岡高等農林学校の卒業生 であったことを考えれば、土性調査の時に使う 検 けんどじょう 土杖 のことをステッキと呼んだ 可能性も考えられてよいだろう。 長さは約一 m ほどで、 地中にこれを差し込んで、 先 端 に つ い た 土 壌 を 採 取 す る。 英 語 で は「 ボ ー リ ン グ ス テ ッ キ 」 と い う ら し い。 「未定稿」 の 「〔霧降る萱の細みちに〕 」 に 「検土の杖はになへども」 とある。また、 童話「さいかち淵」には「手にはステッキみたいな鉄槌をもって」歩く人物が登 場 し て い る。 宮 城 一 男( 「〝 農 民 の 地 学 者 〟 と し て の 生 活 」 『 宮 沢 賢 治 農 民 の 地 学 者』 築地書館 昭和五十年一月)によれば、 弟の清六は、 賢治が愛用したハンマー は六十センチほどあったというので、これを指した可能性もあろう。 にせもの 三谷弘美(後掲)は、本作におけるこの言葉が下書稿から定稿まで活かされていたことから、 「だいぶ気に入っていた」のだろうとし、 他の用例から「 〝に せもの〟といっても決して悪いニュアンスではない、ということ。共通している のは、光に関連があるということだ。 「病技師〔一〕 」の下書稿にも「ステッキひ かるにせものの/黒のステッキまたひかる」とあり、いずれも光っている状態が 一瞬のうちに存在し、 それが最高潮の状態として 〝にせもの〟 に相対している。 光っ ている状態は、まるでスポットライトを浴びたかのように浮かび上がり、他の周 りの物全てが闇に沈む、そういった状況ではあるまいか。本来は日常の中に埋も れて目立たぬものでも、光を媒体としてよりレベルアップする一瞬があり、その 一瞬だけが ほんもの 4 4 4 4 になる──ゆえに にせもの 4 4 4 4 なのである」 とする。島田隆輔 (後 掲 B )は、 「技師としてこれまでにその身をあずけ、 なしてきたことが、 結局「に せもの」であったことを、ステッキというものに託して示唆しているのではない か」とする。賢治にとってこだわりのある表現ではあったようだが、両者の解釈 も決定打とは思いにくい。両者の意見とは異なるが、視点人物は何らかの理由で 「 風 の な か に て な か ん 」 と し て 家 を 出 た の だ が、 そ の よ う な こ と を 家 人 や 町 の 人 に知られないようにするために、 ステッキ(あるいは検土杖? ハンマー?)を、 そのカモフラージュのために用いた(つまり「にせもの」 )、という可能性もあろ うかと思う。あるいはもっと即物的に、検土杖やハンマーは、いわゆるステッキ で は な い の だ か ら、 そ れ を「 に せ も の の 」「 ス テ ッ キ 」 で あ る、 と 書 い た の か も し れ な い。 「 病 技 師 」 の タ イ ト ル か ら す れ ば、 案 外 こ れ が 一 番 ス ッ キ リ し た 考 え 方なのかもしれない。 ま ぎ ら ひ て 「 ま ぎ ら ふ 」 は 入 り 混 じ っ て 見 分 け が つ か な く な る こ と。 肺 結 核 で 胸 を 蝕 ま れ た 結 果、 呼 吸 す る た び に コ ボ コ ボ と い う 水 泡 音( 湿 性 ラ 音 ) が 聞 こ え、 それが小川の水音と交じってしまったということだろう。昭和八年九月十一日の 柳原昌悦宛書簡に「今度はラッセル音容易に除こらず、咳がはじまると仕事も何 も手につかずまる二時間も続いたり、或は夜中胸がびうびう鳴って眠られなかっ たり、中々もう全い健康は得られさうもありません」とある。 炭素の 燈 ひ 炭素棒を放電させ、弧形(アーチ型)の強い光を出させたもの。アーク ライト。 飢 け か つ 饉 供 養 の 巨 お ほ い し 石 花 巻 市 双 葉 町 に あ る 浄 土 宗 ・ 松 庵 寺 に あ る 供 養 塔 の こ と 。 宝 暦 、 天 明 、天 保 と い っ た 大 飢 饉 の 際 に 施 粥 釜 で 救 済 に あ た り 、北 は 八 戸 か ら 、南 は 若 柳( 宮 城 県 ) か ら 訪 れ る 者 が い た と い う 。 そ れ で も 餓 死 す る 者 も 多 く 、 彼 ら を 弔 っ て 埋 葬 し 、 供 養 塔 が 建 て ら れ る こ と と な っ た 。 大 き い も の は 一 五 〇 セ ン チ ほ ど に な る 。 評釈 「〔 冬 の ス ケ ッ チ 〕」 の 第 十 三 葉 に 鉛 筆 で 手 入 れ し た 下 書 稿 ㈠、 「〔 冬 の ス ケ ッ チ 〕」 第三八葉(下書稿㈢にそのまま生かされている)に書かれた下書稿 (一’)、黄罫( 60 2 行 ) 詩 稿 用 紙 に 書 か れ た 下 書 稿 ㈡( 赤 イ ン ク で )、 黄 罫( 60 2 行 ) 詩 稿 用 紙 に 書 かれた下書稿㈢ (藍インクで 。手入れ段階で 「春」 のタイトル案) 、黄罫 ( 20 2 行 ) 詩 稿 用 紙 に 書 か れ た 下 書 稿 ㈣( タ イ ト ル は「 夜 」、 次 い で「 亡 友 」) 、 そ の 裏 面 に 書 か れ た 下 書 稿 ㈤( こ れ 以 降 の 全 て に「 病 技 師 」 の タ イ ト ル )、 そ の 余 白 に 書 か れ た 下 書 稿 ㈥( 鉛 筆 で ㊢ )、 定 稿 用 紙 に 書 か れ た 定 稿 の 七 種 が 現 存。 生 前 発 表 な し。 下 書 稿 ㈡ の 後 半 が「 一 百 篇 」 の「 〔 ひ か り も の す と う な ゐ ご が 〕」 に、 ま た、 『 新 校 本 全集』で下書稿㈢の内容が「未定稿」の「 〔郡属伊原忠右エ門〕 」に類似しているこ とが指摘されている。 下書稿㈠の初期形態から見ていこう。 ※ 風の中にて ステッキ光れり かのにせものの 黒のステッキ。 ※ 風の中を なかんとていでたてるなり 千人供養の 石にともれるよるの電燈
※ やみとかぜとのなかにして こなにまぶれし水車屋は にはかにせきし歩みさる 西天なほも 水明り。 下書稿㈡では、 下書稿㈠の後半の二連 (「風の中を」 と 「なほさながらに」 ) を元に、 風の中を なかんとていでたてるなり 千人供養の 石にともれる二燭の電燈 やみとかぜとのかなたにて 光りものとも見えにける こなにまぶれし水車屋は にはかにせきし身を折りて 水明りせる西天に いとつゝましく歩み去る とされ、下書稿㈢は、下書稿㈠の前半一連( 「風の中にて」 )と下書稿 (一’)とされる 「〔 冬 の ス ケ ッ チ 〕」 第 三 八 葉 の「 眩 ぐ る き / ひ か り の う つ ろ、 / の び た ち て / い ち じくゆるゝ/天狗巣のよもぎ。 」が合体されて成立する。 めまぐるきひかりのうつろ のびたちて いちじくゆるゝ天狗巣のよもぎ 風のなかにて ステッキ光れり かのにせものの 黒のステッキ ただ、これ以降の段階では、下書稿㈡にあった「光りものす」や「水車屋」のモ チーフが「一百篇」の「 〔ひかりものすとうなゐごが〕 」に引き渡される。参考まで に同詩の定稿をあげておこう。 ひかりものすとうなゐごが、 ひそにすがりてゆびさせる、 そは高甲の水車場の、 こなにまぶれしそのあるじ、 にはかに咳し身を折りて、 水こぼこぼとながれたる、 よるの胡桃の樹をはなれ、 肩つゝましくすぼめつゝ、 古りたる沼をさながらの、 西の微光にあゆみ去るなり。 残った要素が「夜」と題された下書稿㈣になるが、だいぶ定稿に近づいている。 こよひの闇はあたゝかし 風のなかにて泣かんなど ひとステッ ト ママ をとりこしに こぼと鳴り行く水のはた 饑 ケ カ ツ 饉 供養の石の上に あかくともれる二燭の 電 ひ 燈 下書稿㈢に 「いちじくゆるゝ天狗巣のよもぎ」 とあるが、 三谷弘美 (後掲) は 「天 狗巣のよもぎ」について「寄生した菌のため、そこから多数の枝がほうきのように 生える病気」であることを指摘し、それを「胸を蝕む病巣のイメージそのもの」だ
とするが、その可能性は十分にあるだろう(ちなみに、三谷が指摘するように「い ちじく」 は果物の 無 イ チ ジ ク 花果 ではなく、 「著しく」 の賢治流表現なのだろう) 。そして 「〔ひ かりものすとうなゐごが〕 」や下書稿㈣の「夜」における「こぼ(こぼ) 」という水 の音も、やはり三谷や赤田秀子(後掲)が指摘するように、肺病のイメージが重ね られているのだと思われる (もっとも 「こぼこぼ」 は賢治が愛した擬音語のようで、 「春と修羅 第二集」 の 「一九五 塚と風 一九二四ヽ九ヽ一〇ヽ」 や 「未定稿」 の 「〔こ んにやくの〕 」、散文「 〔或る農学生の日誌〕 」などに、ただ水の音として登場する) 。 「〔 冬 の ス ケ ッ チ 〕」 が い つ 書 か れ た の か は わ か ら な い が、 稗 貫 農 学 校 で 教 鞭 を と るようになった大正十年冬が含まれていることは確かだと思う。賢治には自分が肺 をやられているという自覚が、大正七年に肋膜炎を病んだ時以降にはあったと思わ れるが、農学校教員時代の賢治が、果して自分が結核を発病し、肺の音をコボコボ と さ せ て い た と は 思 い に く い。 生 徒 へ の 感 染 を 気 に し た だ ろ う し、 昭 和 七 年 二 月 十九日の杉山芳松宛書簡の段階でも、 「肺炎后の気管支炎」と書き、 「今度も幸に肺 結核にはならずに済みました」としているからである。 では、なぜ「なかんとていでたてる」のかとなるが、即座に判断はできない。た だ、 「〔 冬 の ス ケ ッ チ 〕」 に は 恋 愛( と 宗 教 ) の 悩 み の よ う な も の が 多 く 書 き 記 さ れ ていることから、 そんな思いからステッキを手に外に出たのではないかと思われる。 そ こ で、 千 人 供 養 塔 を 改 め て 見 て( 生 家 か ら 一 五〇 m ほ ど の 所 に あ っ た の で、 普 段ならその存在を気に留めることもなかっただろうと思う) 、飢饉によって命を失っ た多くの人と、今、恋愛(?)の悩みで感傷的な気分になっている自分とを比較し たのではないだろうか。 その向こうに、粉にまみれているために咳をしているのか、あるいは肺病であっ た の か、 こ れ も 判 然 と し な い が、 「 あ る じ 」 が 咳 を し て い る 姿 を 見 る。 先 述 の と お り、 このモチーフは文語詩「 〔ひかりものすとうなゐごが〕 」に引き渡されるのだが、 肺病のイメージは下書稿㈣にもしっかりと受け継がれ、 「こぼと鳴り行く水のはた」 と 暗 示 に と ど め る こ と な く、 「 夜 」 と あ っ た タ イ ト ル 案 を「 亡 友 」 に 書 き 換 え さ せ てもいる。 かくして「病技師」のタイトルが下書稿㈤で付けられることになるのだが、この 頃には、肺病を病んだ人間としての自分自身を語っている側面があっただろう。 こよひの闇はあたたかし 風のなかにて泣かんなど 蝕む胸を立ちいづる 闇と風とのなかにして ステッキひかるにせものの 黒のステッキまたひかる こぼと鳴り行く水のはた 饑 ケ カ ツ 饉 供養の石の上に 円くともれる二燭の 電 ひ 燈 こ こ で は も う、 粉 で む せ た だ け か も し れ な い「 あ る じ 」 の こ と も、 「 亡 友 」 の こ とも消えている。賢治自身とも思われる「病技師」が、胸の病をおして飢饉供養の 石を見る姿だけが残る。 「〔 冬 の ス ケ ッ チ 〕」 で は 自 ら の 恋 愛 で 悩 ん で い た よ う だ し、 肺 病 の モ チ ー フ も 明 らかではなかった。しかし、 この段階以降、 岩手の飢饉を救うべく奔走した技師が、 思い半ばで胸を病んだというようにも読めてくる。定稿では、これをさらに凝縮す る が、 賢 治 の 思 い 入 れ の 強 い 詩 句 が 読 者 の 理 解 を 妨 げ て い る き ら い は あ る に せ よ、 晩年の自分の心境を託した作品になったと言えるように思う。 先行研究 吉見正信「修羅のふるさと」 (『宮沢賢治の道程』八重岳書房 昭和五十七年二月) 佐 藤 勝 治「 〝 冬 の ス ケ ッ チ 〟 の 配 列 復 元 と そ の 解 説 」( 『 宮 沢 賢 治 青 春 の 秘 唱 〝 冬 の スケッチ 〟 研究』 十字屋書店 昭和五十九年四月) 山 口 逵 子「 賢 治「 文 語 詩 篇 定 稿 」 の 成 立 」( 「 大 谷 女 子 大 学 紀 要 20 − 2」 大 谷 女 子 大
学志学会 昭和六十一年一月) 小 川 金 英「 「 銀 河 鉄 道 の 夜 」 と 花 巻 の 習 俗・ 信 仰 」( 「 宮 沢 賢 治 7」 洋 々 社 昭 和 六十二年十一月) 三谷弘美「病技師〔一〕 」( 『宮沢賢治 文語詩の森』 柏プラーノ 平成十一年六月) 赤 田 秀 子「 文 語 詩 を 読 む そ の 5 声 に 出 し て ど う 読 む か? 〔 天 狗 茸 け と ば し 了へば〕を中心に」 「ワルトラワラ 16」 ワルトラワラの会 平成十四年六月) 中路正恒 「宮沢賢治と飢餓の風土 「捨身の思想」 とそのありか」 (『東北学への招待』 角川書店 平成十六年五月) 島田隆輔 A「初期論」 (『宮沢賢治研究 文語詩稿叙説』 朝文社 平成十七年十二月) 島 田 隆 輔 B 「 原 詩 集 の 発 展 」( (「 宮 沢 賢 治 研 究 文 語 詩 集 の 成 立 鉛 筆・ 赤 イ ン ク ∧写稿∨による過程」 〔未刊行〕平成二十二年六月)