<研究論文>「多文化共生」という言葉の生成と意味の変容─「多文化共生」を問い直す手がかりとして
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(2) し. 二 のかを明らかにすることである。. る。つまり,エスニックマイノリティのみならず,被差別部落出身者や障. ここでは,文献・行政資料・新聞記事等を分析するという方法で, 「多. 害者,高齢者なども「多文化共生」の対象に含めるべきだという考えであ. 文化共生」という言葉の生成時にさかのぼってその意味を確認し,その後. る。. どのように意味が変容しているかを明らかにすることで,現在の「多文化. これは,欧米の多文化主義や多文化教育が,エスニックマイノリティ問. 共生」を問い直す手がかりとしたい。この作業が,今後の多文化共生社会. 題だけではなく,障害者,ジェンダー,先住民等,他のマイノリティ問題. の形成をめざす多文化共生施策や多文化共生教育をすすめるにあたって重. も射程にいれているので,それと同じように,日本の「多文化共生」も,. 要であると考えるからである。. エスニックマイノリティのみを対象にした狭いものではなく,もっと広い 射程にすべきだという主張だと思われる。 三つ目は,マジョリティも「多文化共生」の対象であるはずだ,という. 1. 「多文化共生」への批判と問題の所在. 批判である。多文化共生教育のカリキュラムが必要だとする森茂は, 「マ. 1.1. 「多文化共生」の対象に関する批判. ジョリティである日本人児童生徒を含むすべての児童生徒に多文化共生に. 「多文化共生」に対しては,研究者によって多くの批判が展開されており,. 向けての資質をいかに育成するかという視点で考えることが重要である。. すべてを網羅することは不可能であるため,ここでは今後の多文化共生施. なぜならばマジョリティの意識(価値)変革なしに多文化共生はあり得な. 策や多文化共生教育を実施するにあたり重要だと思われる視点を中心に整. いからである」 (森茂2011p,22) 。 「多文化共生」の対象はすべての人たち,. 理していくこととする。. すべての子どもたちであるにもかかわらず,現在の「多文化共生」は,. まず, 「多文化共生」の対象をめぐっていくつかの視点からの批判があ. ー. 1 1. ―壬}. 「在日外国人が地域社会で生きていくための具体的取り組みが,日本語支. る。. 援や多言語情報提供に偏重している」 (竹沢2009p.92)という現状がある. 一つは,ニューカマー に対象が限定され,オールドカマーへの視点が. からである。つまり,外国人支援をすれば「多文化共生」になると考えら. ないというものである。たとえば「オールドカマーと呼ばれる在日コリア. れ,マジョリティの日本人を対象にしていない。. ンたちの問題が,なぜ切り離されて扱われることが多いのか」(馬渕. 「中心にいる不可視のマジョリティが自らを根本的に変革することなく,. 2011p. ⅱ),「現在の日本で『多文化共生』のスローガンは, 「日本語が不. 自分たちに有利な文化多様性だけを許容するなら,社会の一員として共に. 自由なニューカマー外国人住民への支援や,異なる文化をもった人々への. 社会を構成してより包括的な社会へと変革していく共生の発想とは根本的. 寛容の奨励に限定されがち」で,多文化共生の課題は,「1990年代以降に. に異なるだけでなく,それを抑圧するものでさえある」 (岩渕2010pp.16. 生じた新しい社会的課題と見なされる」(塩原2012pp.27-28)など,多文. 17) , 「 『日本人』が多文化共生は, 『彼ら / 彼女ら』の問題であり,自分は. 化共生の対象の中にオールドカマーの視点が抜け落ちている(金侖貞. 当事者ではないと考えている限り,共生は実現しない」 (栗本2016p.82). 2011pp.66-67)という指摘である。. との指摘があるように,マジョリティの日本人が変わろうとしない限り,. 二つ目は,対象をエスニックマイノリティだけに限定するのではなく,. 多文化共生社会は実現できないだろう。. 3. もっと広く取るべきだという主張で,竹沢は,「アイヌや被差別部落出身 者,沖縄の人々については,多文化共生の対象とされることはない」 「 『外. 1.2. 「文化の共生」 で重要なことが隠蔽されるという批判. 国人』だけでなく,地域社会における障害者,高齢者等の社会的弱者を多. 3F(Food,Fashion,Festival)に代表されるように,「文化」が楽しいもの. 文化共生に包摂した取り組みが弱い」(竹沢2009pp.92-93)と指摘してい. として提示され,構造的差別や偏見という根源的な問題を覆い隠す(竹沢. 136. 研究論文. 「多文化共生」 という言葉の生成と意味の変容. ----E~. 137. F.
(3) し. 二 2009 p.91)という問題性の指摘は数多くある。早くには,金泰泳が,ま. 配の意志』が不問にされてしまう」(戴2003p.45)と端的に指摘している。. だ「多文化共生」という用語がそれほど広まっていない時期に,「マイノ. 「はじめに」で引用した総務省(2006)の「多文化共生」の定義の中には,. リティの子どもたちがいくら自民族の文化的素養を学び,またマジョリテ. 「対等な関係を築く」という言葉がある。しかし,「多文化共生」という美. ィの子どもたちが『異文化理解』の名のもとに,民族的マイノリティの子. しい言葉の陰で,「対等な関係」ではない現実が隠蔽されているのである。. どもたちの民族文化を学んだとしても,ホスト社会における『差別・抑圧. 「対等な関係の構築を謳いながら,在日南米日系人の圧倒的多数が非正規. の構造』が残りつづけているかぎり,『共生』は, 『絵に描いた餅』に終わ. 雇用にある状況を問題視しない」 (樋口2009 p.5)という現実は, 「多文化. ってしまう。また,多文化教育は,文化間の相互理解を強めることを目的. 共生」が脱政治化,脱歴史化されており,マイノリティとマジョリティの. とすることによって,『文化的差異の強調』と『支配関係や差別関係の隠. 権力関係が見えなくなっている(栗本2016p.70)からであり, 「日本人の. 蔽』という危険性を持つ」(金泰泳1999p.45)と指摘していた。また,ブ. 中心性や優位性が揺らぐことはなく,その社会的特権が前提視される傾向. ラジルに生まれ日本の「多文化共生」を研究しているハタノは,民族衣装. は依然根強く続いて」 (竹沢2009 p.91)いるのである。そして,藤岡は,. や民族料理には興味を示しても,在日外国人の生活を左右する在留管理シ. マジョリティとマイノリティの非対称的な力関係を等閑視していることを. ステムには関心をもたない現状について,「3F イベント等に参加しながら. 指摘しつつ,日本社会で継続している植民地主義からの脱却が重要であり,. 在留管理システムについて知る機会すらなかったとしたら,外国籍住民と. その端的な例として,北朝鮮バッシングに「ノー」と言えないような「多. は表面的な関係しか築けていなかったためだと言えるだろうし,あるいは,. 文化共生」はうそではないか,といっている(藤岡2007pp.68-77)。. それらのイベントによって重要な情報を見えなくされてしまったためとも 言えるかもしれない。」(ハタノ2011p.131)という。. 1.3. 結果としての「同化」. では, 「文化の共生」の陰で,どんな重要な情報が見えなくなっている. 差別・支配の構造を問わず,マジョリティが変わろうとせず,マイノリ. のであろうか。それは,「構造的差別や偏見」(竹沢・前掲)であり, 「競. ティに頑張らせることは,結果的に在日外国人に「同化」を迫ることにな. 争原理が生み出す格差や矛盾」(加藤2008p.27)であり,「現実に存在し続. る。ハタノは「日本語教育では,何よりも, 『日本人化』を要求する傾向. ける民族差別や植民地主義」(藤岡2007p.67)である。. が強い。 (中略)日本人らしく振る舞うことが褒め言葉のように使われる. 今日まで継続する「植民地主義」について,塩原は「敗戦後の日本社会. 現実がある」 (ハタノ2006p.70)といい, 「学習者をエンパワーするための. でも,日本人(ヤマトンチュ・和人)による在日コリアン,アイヌ民族,. 道具に過ぎない日本語が,前述したように同化の道具として教えられる傾. 琉球・沖縄に対するオリエンタリズムの視線は継続している。オリエンタ. 向が強いことに,危機感を感じる」 (前掲書 p.72)と指摘する。また塩原. リズムは単なる差別や偏見の問題ではなく,人々にそのような意識をもた. は「多文化共生というスローガンは,外国人を教え導いて日本社会に適応. らす言説と,それを形成した歴史や社会構造の問題」であり,さらに「ニ. 『させてあげる』という同化主義的態度と共謀する」 (塩原2012pp.52-53). ューカマーの外国人たちもまた多文化共生の名の下に,日本社会における. という。. 日本人よりも劣った存在としてオリエンタリズムの言説に取り込まれてし. 「同化」の別の側面としては,外国人と「共に生きる」のではなく,外国. まう」(塩原2012p.52)と説明する。. 人を地域社会の構成員として利用してやろうという姿勢が見える。それも,. 「文化の共生」で見えなくさせられているものについて,戴エイカは「多. 資源(貴重な人材)と見なされる「外国人」と社会的底辺で3K 職種に従. 数者の『文化』を少数者の『文化』に並列させ,多様性の尊重を唱えるな. 事する「外国人労働者」とに分断して利用している(竹沢2009 p.91)現. ら,文化の政治性は隠蔽され,この間にある差別構造や『他者に対する支. 状がある。. 138. 研究論文. 「多文化共生」 という言葉の生成と意味の変容. ----E~. ー. 1 1. ―壬}. 139. F.
(4) し. 二 「文化」についても,マジョリティの豊かさのためにマイノリティの文化. 「多文化相生」を使うことを提案している(中村2015)。. が消費されるだけだ,という指摘がある。戴は「多数派日本人は,自分た. さらに,川村らは, 「多文化共創」の実践を提案する(小泉・川村2016,. ちの『文化』を自明なものとして問題視しないまま,他の『文化』の観察. 川村2016) 。多文化社会で「共に生きる」を越えて,多文化社会を「共に. 者,理解者,消費者になろうとする傾向にある」(戴2003p.45)といい,. 創ろう」という提案である。. 藤岡は,「『文化の多様性』の名を借りて,マジョリティ(=日本人)の消 費社会を『豊か』にすることだけのためにマイノリティの諸文化(食,音. 1.5. 問題の所在──先行研究から明らかになった 「多文化共生」の問題点 . 楽,芸術……)が利用される危険性」(藤岡2007p.68)を指摘する。. 先行研究を整理すると,現在の「多文化共生」には次のような問題点が あることがわかる。. 1.4. 「多文化共生」 という用語そのものへの批判. ①対象が新たに渡日したいわゆるニューカマーのみで,オールドカマー. 「多文化共生」という概念の問題性が指摘される中で,「多文化共生」と いう用語を使用すること自体が問題だ,という指摘もいくつかある。. の外国人が対象になっていない。結果としてオールドカマーは不可視. たとえばハタノは,「『多文化共生』という言葉はマイノリティ,または. 化されている。. 社会的に弱い立場に置かれている人たちの側から発生した言葉ではない」. ②外国人支援が中心になっていて,マジョリティが対象にされず,マジ. (ハタノ2006p.55)といい,「マイノリティがマジョリティ側に何かを要求. ョリティの変容が意識されていない。結果として,在日外国人の「同 化」が進むことになる。. する場合,『多文化共生』といった抽象的で丸みを帯びた言葉を使って 『多文化共生を実現してほしい』と言うことはない。マイノリティの立場. ③「文化の共生」の陰で重要なことが隠蔽されている。重要なこととは,. からすれば,むしろ『自分たちのこの権利を認めてほしい』『侵害しない. 構造的差別(在留資格などの法制度,雇用等における日本人の優位. でほしい』 といった形で切実な要求を掲げるのが自然なのである。」 (前掲. 性)や偏見,植民地主義のことである。その結果,在日外国人は,日. 書 p.56)とその理由を述べている。. 本社会に「利用」されたり,「消費」されるだけになっている。. ー. 1 1. ―壬}. ④そもそも「多文化共生」はマジョリティから出てきた言葉であり,他. また, 「多文化共生」ではなく「多民族共生」や「多文化相生」 , 「多文. の言葉に代えた方がよいのではないか。. 化共創」を使うべきだという論者もいる。 栗本は,共に生きるべきなのは,文化ではなく,文化の担い手である人 間であるはずであるから,意味不明の「文化の共生」を使わず, 「多民族. このように批判される「多文化共生」であるが,これらの問題点がなぜ. 共生」を使うべきだと主張する。文化の問題に還元することで,集団間の. 生じているのかを明らかにするために, 「多文化共生」という用語が使用. 権力関係とマイノリティの人々の権利の問題を見えにくくする。多民族共. されはじめた1990年代から,このような形で批判されるような内容だっ. 生という用語を使えばすっきりするのに,それを使わないのは,日本が多. たのか,次章では,歴史をさかのぼって,「多文化共生」という言葉がど. 民族社会であることを認めることになるからだ(栗本2016pp.76-77)とい. ういう意味で使用されてきたのかを考察したい。. う。 中村は, 「多文化共生」という言葉のイデオロギー性を問題にする。そ して,もともと生物学上の用語である「共生」を吟味し, 「相利共生」 「片 利共生」 「寄生」の3つの意味のうち,「相利共生」と多文化を合わせて 140. 研究論文. 「多文化共生」 という言葉の生成と意味の変容. ----E~. 141. F.
(5) し. 二. の「双子の目標」―多文化共生の社会と教育 』だとわかる5。この著作は. 表1 「多文化共生」使用年表 年. 〈類語〉 「多民族・多文化の共生」 「多民族共生社会」 「民族共生」. 「多文化共生」 「多文化共生教育」. 1990年8月刊で,アメリカの教育改革運動について書かれたものである。. 1990. カラバオの会「多民族・多文化の豊かな共生の 地」. 今村令子『永遠の「双子の目標」―多文化共生の社会 と教育』. しかし,なぜ副題に「多文化共生」を使ったのか本文のどこにも説明がな. 1991. 横浜市教委「民族共生の教育をめざして」. 1992. アジア太平洋資料センター 『オルタ』創刊号「多 民族共生社会」 全朝教東京大会「民族共生の教育をめざして」. 1993. 川崎新時代2010プラン 「共生のまちづくり」. 1994. 神奈川人権センター 『多民族・多文化・共生』 「民族共生教育をめざす東京連絡会」結成 神奈川県在日外国人にかかわる教育研究協議会 『民族共生の教育を拓こう』. い。 「終論」に「多文化社会」という言葉は出てくるものの, 「多文化共 岡村「多文化共生を目ざして―地域に暮らす外国人を 理解するために」. 生」の説明はおろか,その単語も出て来ない6。なぜ副題に「多文化共生」 を使用したのか不明であるため,その意味を検証することができない。た. 毎日新聞 (1月12日) 「多文化共生」 ふれあい館民族文化講座「多文化共生社会をめざして」 (10月~12月) 「多文化共生の街づくり」 朝日新聞 (12月17日). だ,当時すでに,欧米の多文化主義や多文化教育を紹介した書物,論文が たくさん出ている中で, 「多文化共生」という用語を使ったのはとても珍 しいと言える。. 東洋大学「多文化共生教育の課題」. 次に古いのが1992年の「多文化共生を目ざして―地域に暮らす外国人. 「多文化共生センター」の設立. 1995. を理解するために―」という論文である。この論文で,日本国際ボランテ. 川崎市「多文化共生の街づくり」 全外教「多文化共生シンポジウム」 大阪府外教「多文化共生教育の展開」 曽和信一「多文化共生社会をめざして」 神奈川高教組教研集会「多文化共生」 がテーマ. 1996. 1998. 川崎市教育基本方針「多文化共生社会をめざして」 が 副題に 「多文化共生教育ネットワークかながわ」設立 全朝教セミナー 「多文化共生教育の取り組み」. 2005. 「川崎市多文化共生社会推進指針」制定 総務省「多文化共生の推進に関する研究会」設置. ィアセンター(JVC)の岡村は,インドシナ定住難民や外国人労働者との 関わりの中で感じた,日本語を「教える,教えられる」という一方的な関 係はまずいのではないか, 「私達はただ彼らが日本に同化することにだけ 荷担してきたのではないのか」という疑問を感じるようになり, 「日本語 ができない人がそれを理由に医者にも行けないとなれば,定住者の勉強不. 総務省「多文化共生の推進に関する研究会報告書」 総務省「多文化共生推進プラン」. 2006. 足に問題があるのではなく,定住者が住む地域の受け入れシステムの方に. 「群馬県多文化共生推進指針」制定. 2007. ー. 1 1. ―壬}. 問題がある」 (岡村1992p.77)と指摘する。そして, 「外国人問題」は外国 人に問題があるのではなく,同化を強いる日本社会の問題であるとし,最 後に,「多文化共生をめざして」という見出しをつけ,「弱い人が弱いこと. 2 「多文化共生」の生成と意味. を理由に圧迫されることがない社会をめざして,私達の挑戦ははじまった. 2.1 「多文化共生」の初出. ばかりである」(前掲書 p.83 )と結んでいる。. 「多文化共生」という用語の使用は,毎日新聞1993年1月12日夕刊が初出. ここに「多文化共生」の定義はないが,日本語を教えることが「同化」. だとされるのが定説である(山脇2005,田村2007,岡本2010,ケント. に荷担することになるのではないか,問題は日本社会の方なのだ,という. 2014,栗本2016)。また行政が公的に使った最初は,同じく1993年の川崎. 問題意識が伺える。. 市の「川崎新時代2010プラン」だとされる(加藤2008,栗本2016) 。. 付け加えると, 「多文化共生」という言葉が広がったきっかけとされる. 「多文化共生」という用語がいつから使用されたかを年代順に簡単に整理. 「多文化共生センター」を1995年に設立した田村太郎が, 「多文化共生」. したものが表1である。なお,この表には,「多文化共生」に類する「多. という言葉と出会ったのは,1994年に山形で開催された JVC の会員の集. 民族共生」「民族共生」「多民族・多文化の共生」等も入れた。. いにおいてであろうということを,竹沢が伝えている(竹沢2009p94注8)。. 国立国会図書館サーチ で「多文化共生」を検索すると「多文化共生」. その次に古いのが,神奈川人権センター編の『多民族・多文化・共生』. が,本や論文のタイトルとして最初に使用されたのは,今村令子の『永遠. (1994)である。これには,1994年4月29、 30日に横浜で行われた「第4回. 4. 142. 研究論文. 「多文化共生」 という言葉の生成と意味の変容. ----E~. 143. F.
(6) し. 二 東日本外国人労働者問題フォーラム」で講演したドイツ・フランクフルト. 表現はあるものの, 『多文化共生』という表現は見出せない。新聞記者に. 市の多文化局長の講演記録が掲載されており(pp.67-86) ,そのタイトル. よる誤記(あるいは省略表記)か,フォーラムでは口頭では用いられたが. が「多民族・多文化・共生」であり,それがこの書籍のタイトルにもなっ. 報告書の段階で脱落したかのどちらかではないか」と紹介している(竹沢. ている。この集会のテーマは「多民族共生社会をめざして」であり,フォ. 2009p.89) 。ではこの竹沢の指摘が正しいかというと,桜本地区のフィー. ーラムのアピール文には「現在の日本における,政府による排外主義政策. ルドワークは6カ所の「体験トリップ」の一つとして実施され,そのタイ. とその背後にあるものを分析し,それを克服して多民族・多文化共生への. トルは「多文化・異文化,多価値」であった(開発教育協議会1994p.4) 。. 道 を 開 く に は ど う し た ら い い か を 考 え 合 い ま し た 」( カ ラ バ オ の 会. いずれにせよ,「多文化共生」ではなかった。. 1994p.1)という表現がある。さかのぼると,この集会の主催団体の一つ. その川崎では,1991年11月に「おおひん地区街づくり協議会」が発足し,. カラバオの会(寿・外国人出稼ぎ労働者と連帯する会)が,1990年に出. 2年後には「おおひん地区街づくりプラン」をまとめ,川崎市に提出して. した書籍の「むすび」は「共生の未来をめざして」であり,そのなかには. いる。そのことを紹介したのが,1993年12月17日の朝日新聞川崎版の記. 「多民族・多文化の豊かな共生の地となる未来への出発」という記述があ. 事であり,その中に「緑化,環境整備と多文化共生の街づくり」が必要だ. る(カラバオの会1990p.332)。. とするプランの内容が紹介されている。. このことから,1990年くらいから,外国人労働者の支援活動をしてい. 川崎南部のおおひん地区7は,在日韓国・朝鮮人の多住地域であり,こ. たカラバオの会周辺では,多民族・多文化・共生といった用語を使ってお. こに1988年,在日外国人と日本人との交流施設「川崎市ふれあい館」が. り,その問題意識が1994年のフォーラムのテーマにつながったのだと思. 設立されている。ふれあい館では,市民向けの多彩な講座が開催されてい. われる。. るが,1993年の10月から10回連続の民族文化講座「多文化共生社会をめ. また,カラバオの会も,神奈川人権センターを構成する諸団体も,外国. ざして―在日コリアン文化のルーツを探る―」が開催されている(ふれあ. 人への差別や排外に反対し,人権を守っていこうとする団体であり,1章. い館2008 p.141)。. で考察した,構造的な差別を隠蔽する「多民族・多文化共生」ではなく,. 先出の毎日新聞が紹介しているフィールドワークには,ふれあい館での. 日本人や日本社会が変わることで差別をなくし,対等な関係をめざす「多. 「おおひん地区街づくり協議会」の理事長の講演が含まれている(開発教. ー. 1 1. ―壬}. 育協議会1994 p.5)ことを考えると,2つの新聞記事とふれあい館の講座. 文化共生」であったと考えられる。. は結びつく。川崎南部のおおひん地区では,1991年には「共生の街づく 2.2. 川崎での「多文化共生の街づくり」 . り」が地域からはじまっており,そのフィールドワークが行われたのが. 1993年1月12日の毎日新聞夕刊には, 「開発教育国際フォーラム『“ 地域 ”. 1993年1月であり,10月には「多文化共生社会をめざして」という講座が. は “ 世界 ” を変えて行く』が29日から3日間,横浜市で開催される」という. ふれあい館で開催され, 「多文化共生の街づくり」のプランを朝日新聞が. 案内が載っており,そのなかで,「人権,環境,多文化共生,地域協力な. 記事に取り上げたのが1993年の12月だと一連のつながりで考えることが. どをめぐる10の分科会での討論や体験学習を行う」と紹介されている。. できる。おおひん地区やふれあい館周辺では, 「多文化共生」という言葉. 分科会の一つとして「多文化共生」が設定されたようである。新聞記事か. がこの時期から使用されていたことがわかる。ここでの「共生」は,オー. らはこれだけしかわからないが,田村(2007p.13)によれば,この多文化. ルドカマーの外国人と日本人との「共生」である。. 共生の分科会は,川崎市桜本地区へのフィールドワークだったようだ。し. 尚,おおひん地区でなぜ「共生の街づくり」がはじまったのかについて. かし,竹沢は「フォーラムの報告書には『多文化・多価値の共生』という. は,橋本が,「おおひん地区」の戦前からの地域形成史を辿り,そして2. 144. 研究論文. 「多文化共生」 という言葉の生成と意味の変容. ----E~. 145. F.
(7) し. 二 つの商店街の活性化や生き残りのために,「共生の街づくり」が生まれた. 族共生」 「多文化共生」などが使われはじめた。それは,一つの場所で使. ことを論証している(橋本2013)。. い始めてそれが広がったというより,何カ所かで同時多発的にはじまった という方が当たっているだろう。栗本は,毎日新聞1993年1月12日や川崎. 2.3. 行政での「多文化共生」の使用. 市の『川崎新時代2010プラン』(1993)などから,「川崎市は,多文化共. 政府や自治体などの行政の中で「多文化共生」が使用されたのは川崎市. 生の起源の地という名誉に値する場所であることを,ここで確認しておき. が最初だと考えられる。ただ,加藤(2008p.23)は,1993年の『川崎新時. たい」 (栗本2016p.72)と書いているが,川崎市は多文化共生の「起源の. 代2010プラン』が,川崎市が多文化共生を使用した最初だとしており,. 一つ」という方が当たっていると考える。オールドカマーとの「共生」を. それを引用している研究も見当たるが(栗本2016) , 『川崎新時代2010プ. めざした川崎だけでなく,JVC の中や,横浜でもほぼ同時期にニューカマ. ラン』にはどこにも「多文化共生」という用語はない。「民族文化にふれ. ーとの「共生」を意識した「多文化共生」という言葉が使用されはじめて. あえる共生のまちづくり」(川崎市1993 p.102 )という用語は載っている. いたのである。なぜこの時期に「多文化共生」という用語が使われるよう. ので,それとの混同であろう。また,同プランには「国際理解教育の推. になったかであるが,1994年に「多文化共生教育」がはじめて使用され. 進」(川崎市1993 p.109)が目標にされており,多文化共生教育という言. ていることも含め,今後研究を深めていく必要がある。. 葉もない。横浜市が1991年の時点で「民族共生」 を使用していたのに比. 1990年代の「多文化共生」の意味は,例えば川崎の地域や行政で使用. べるとこの時点での「先進性」は感じられない。. された「多文化共生」のように,外国人と日本人の「共生」を目指したも. 川崎市がはじめて「多文化共生」という用語を使用したのは,1996年. のであり,後述するように,マジョリティの日本人が差別や偏見を克服し. の『仮称・川崎市外国人市民代表者会議調査研究報告書(答申) 』が最初. ていくという明確な目標があった。ニューカマーの外国人が増え始めて. であると考えられる。このときは,文章の中に「地域文化創造の主体とし. JVC や横浜で使用されるようになった「多文化共生」や「多民族共生」も,. て,外国人市民と日本人市民の共同と協力こそが,多文化共生の街づくり. 同化にならないようにという問題意識や,日本社会の差別構造や排外的な. の理想の姿といえる。」(p.19)と出てくるだけで,他にも「同化と排外を. 社会を変えていこうという方向性を持ったものであった。この時点での. 克服して,多民族・多文化による豊かな共生の市民社会に移行」(p.20). 「多文化共生」は,1章で批判されるような意味ではなかったと考えられる。. や「外国人市民の統合と多文化・多民族共生の市民社会実現にむけて」. さらに,この時点での「多文化共生」は,ハタノのいう「『多文化共. (p.22)などの表現もあり,まだ「多文化共生」という言葉が定着してい. 生』という言葉はマイノリティから発せられた言葉ではない」という批判. たとは言い難い。その後,1998年の「川崎市在日外国人教育基本方針」. は当たらないと考える。なぜなら,金侖貞が指摘するように,「日本にお. の改訂で, 「多文化共生社会をめざして」という副題がついた。これが,. ける多文化共生は,在日コリアンとの関係で形成されたものであり,多文. 川崎市が方針として「多文化共生」を打ち出した最初になるだろう。. 化教育が1980年代に流入する前の『原型』としてすでにあった」のであり,. 8. ー. 1 1. ―壬}. 川崎での「共生」という言葉は,1970年代の「日立就職差別裁判闘争」 2.4. 「多文化共生」の意味. の中から,在日コリアンと日本人との「共闘」 「共生」の理念が生成した. このように考えると,「多文化共生」という用語の初出はアメリカの教. ものだからであり(金侖貞2011pp.70-73),その延長線上に「多文化共生. 育改革運動を紹介した今村(1990)であるが,これは「多文化共生」に. の街づくり」があったからである。. 特別な意味を含ませたものではなかった。ほぼ同時期の1990年代前半から, 「多民族・多文化の共生」や「多文化・多価値の共生」 , 「民族共生」 「多民 146. 研究論文. 「多文化共生」 という言葉の生成と意味の変容. ----E~. 147. F.
(8) し. 二. 住都市会議」が開催されるようになり,その動きにおされる形で,2005. 3. 「多文化共生」の定着と広がり. 年に総務省に「多文化共生の推進に関する研究会」(以下,「研究会」)が 設置され,2006年3月に『多文化共生の推進に関する研究会報告書』(以下,. 3.1. 「多文化共生センター」の設立. 2章で述べてきたように,「多文化共生」という用語は1990年代前半か. 「研究会報告書」 )が出された。そして,同じ3月に, 『地域における多文. ら使われはじめたが,「多文化共生」という用語が広まったのは,1995年. 化共生推進プラン』(以下,「推進プラン」)が策定され,地方自治体に対. に大阪で「多文化共生センター」が設置されてからだとされている(田村. して,「推進プラン」にそって多文化共生を推進するように促したので,. 2007,山脇2009,岡本2010,ケント2014,栗本2016) 。 「多文化共生セン. その後,多くの地方自治体が「多文化共生」という用語を使って施策を展. ター」は,阪神淡路大震災後の1995年1月に「外国人地震情報センター」. 開することになった。. が設立され,その後同年10月に「多文化共生センター」に発展的に改称. 総務省の「研究会」の座長であった山脇啓造は,多文化共生を目指した. したものである。「多文化共生センター」の設立目的は, 「国籍,文化,言. 取組みが本格化する2005年を「多文化共生の意義が社会的に認知され『多. 語などの違いを越え,互いを尊重する『多文化共生』の理念に基づき,在. 文化共生元年』となるだろうか」 (山脇2005p.34)と期待を寄せ,佐久間. 日外国人と日本人の双方に向けて『多文化共生』のための事業を創造し,. は「推進プラン」が出された2006年を「多文化共生元年」としている(佐. 実践することを目的とする」であった。「多文化共生」を定義づけたのは. 久間2009p.45) 。つまり,この時期から, 「多文化共生」が全国的に使用さ. これが初めてであるとされる(田村2007p.13 )。また,田村は,多文化共. れるようになる。同時に意味内容も変化したのではないかと考えられる。. 生を名称に使った背景として,. ここでは,群馬県の例をとりあげて検討したい。. ①震災で被災した外国人への多言語による情報発信の経験. 3.3. 群馬県の「多文化共生」. ②ボランティアとしても多くの外国人が参加した経験. 総務省の「推進プラン」に基づいて,「推進指針」を策定した自治体は. ③地域社会が共生へ舵を取らなければ,外国人支援だけでは本当の解決. いくつもあるが,ここでは,外国籍者の比率が16%を越える大泉町をは. ー. 1 1. ―壬}. じめ,伊勢崎市や太田市など,ニューカマーの外国人の多く住む県である. にならないという視点. 群馬県を取り上げたい。 以上の3つをあげている。そして, 「多文化共生」と既存の「外国人支援」. 群馬県には, 「群馬県多文化共生推進指針」 (2007年10月制定 2012年7. の概念の違いは,外国人と日本人の間に「支援する側」と「される側」に. 月改訂)がある。ここでの「多文化共生」の定義は「国籍や民族などの異. 分けるのではなく,共に影響を及ぼしあい,共に変化する関係として位置. なる人々が,互いの文化的ちがいを認め合い,対等な関係を築こうとしな. 付けている点である」(前掲書 p.14)とする。. がら,地域社会の一員として,その個性と能力を発揮し,共に生きるこ. ここでいう「多文化共生」は,「外国人支援」とは違い, 「在日外国人と. と」とあり,総務省の定義を踏襲している。そして「基本目標」として,. 日本人双方に向けた」ものであり,「共に変化する関係」であることが意. 「多文化共生社会の形成による豊かな地域づくり」を掲げ,「すべての県民 が,国籍や民族などのちがいを超えて,互いの個性を尊重し,ともに地域. 識されている。. 社会を支える主体としてその持てる能力を十分に発揮しながら社会に参画 3.2. 総務省の「多文化共生」. することにより,活力のある豊かな地域づくりを目指すため,以下につい. 2001年から,ニューカマー外国人の多い自治体が集まって「外国人集. て推進する。」として,以下の具体策を掲げている。. 148. 研究論文. 「多文化共生」 という言葉の生成と意味の変容. ----E~. 149. F.
(9) し. 二. 4. 分析と考察──「多文化共生」の意味の変容. ・「県民の多文化共生への理解を深める」 ・ 「外国人県民の自立と社会参画を進めるための環境を整備する」. 4.1. 川崎市と群馬県の「多文化共生」の比較. ・「多文化共生を推進するための体制を整備する」. 2章で触れた「川崎市外国人教育基本方針―多文化共生社会をめざして ―」(1986年制定の基本方針を1998年に改定 以下「98基本方針」とす. 〈教育〉 外国人児童生徒については,日本語学習や指導教材の整備,家庭と. る)には,「Ⅱ . 本市の外国人市民の成り立ちと現状」で,在日外国人が. 学校とのコミュニケーション,不就学・進路対策等の課題がある。. 居住するに至った歴史的経緯と国際化の動向が述べられた後, 「Ⅲ . 多文. 県は,日本語等の学習支援や不就学対策等,指導担当者の研修など. 化共生の社会をめざして」という項目の中に次のような記述がある。. の施策に市町村と役割分担をしながら取り組むとともに,総合特区制. 「在日外国人教育は,多文化共生の社会をめざす教育の営みでもあり,日. 度を活用した日本語教育の検討等,子どもたちが健全に成長し,将来. 本人と外国人の双方の豊かさを育み,違いが豊かさとして響き合う人間関. 適切な進路を選択し,社会を支える存在となるよう,子どもたちの教. 係や社会をつくりだしていくことをめざさなければならない。そのために. 育環境を充実する。. は,日本社会に根強い同化と排外意識からの脱却をはかり,過去の歴史的. また,学齢期以外の外国人県民に対する日本語や生活に必要な知識. 経緯をしっかり認識することが,偏見や差別意識を取り除く上で欠かせな. 等の学習支援についても,大学や NPO 等関係機関と連携して取り組. い視点となる。 」とあり,さらに「多文化共生をめざす教育は,日本人と. んでいく。(下線は筆者による). 外国人の間だけに限らず,あらゆる人が,相互の違いを認め合い尊重しあ. ー. 1 1. ―壬}. い,ともに生きていく地域社会をつくりあげていく力になるように展開し この指針の特徴は,アンダーラインにあるように外国人支援が中心で,. ていかなければならない」とある。. マジョリティ側に求められるのは「理解を深める」だけであり,差別や人. また,「Ⅳ . 教育関係者の役割と目指すべき方向性」として,. 権についての記述がまったくないことである。 群馬県では2010年10月にフィリピンルーツの上村明子さんが,クラス. 1 基本的な考え方. メイトによるいじめにより自殺するという痛ましい事件 が起こっている。. (3) 日本人と外国人の相互の豊かさにつながる共生の教育をめざし,. 9. その後の2012年に改訂されているこの指針のどこにも,そのことを踏ま. 過去の歴史的な経緯をしっかりとおさえ,同化と排除意識からの脱. えて改訂された記述はない。全国に報道され,裁判にもなったこの外国人. 却をはかる。. の子どものいじめ自死はまるでなかったかのように素通りである。. 3 児童・生徒に対して. 2章での「多文化共生」に対する批判─たとえば「マジョリティの子ど. (3) すべての児童・生徒に対して,豊かな人権意識や感性を育み, 民族差別や偏見を見抜き,それを批判し,許さない力を養う。. もたちが『異文化理解』の名のもとに,民族的マイノリティの子どもたち の民族文化を学んだとしても,ホスト社会における『差別・抑圧の構造』. (4 ) 全ての児童・生徒に対して, 「日本と外国,特に韓国・朝鮮と. が残りつづけているかぎり,『共生』は,『絵に描いた餅』に終わってしま. の歴史的・文化的関係を理解させ,国際理解,国際協調の精神を養. う」 (金泰泳1999)といった批判―が当てはまる典型的な事例だと考えら. うとともに,ともに生きる態度を養う。 (5 ) 在日外国人児童・生徒に対して,その民族としての歴史・文. れる。. 化・社会的立場を正しく認識することを励まし助け,自ら本名を名 150. 研究論文. 「多文化共生」 という言葉の生成と意味の変容. ----E~. 151. F.
(10) し. 二 のり,民族差別や偏見に負けない力を身につけることができるよう. 「多文化共生推進」は,総務省の「推進プラン」に基づいているものが多. 支援する。(下線は筆者による). い。総務省の「推進プラン」は,オールドカマーは意識されておらず,偏 見や差別意識について触れた箇所はない。外国人支援が中心であり,マジ. としている(川崎市総合教育センター 2011) 。. ョリティに関しては「多文化共生の地域づくり」 「多文化共生の視点に立. ここには,群馬県の「推進指針」と違って,「偏見や差別意識を取り除. った国際理解教育の推進」があるだけであり,日本社会の「同化と排外意. く」ことが重要であり,そのためには「過去の歴史的経緯をしっかり認. 識からの脱却」という視点はない。 「研究会報告書」では,オールドカマ. 識」し,「同化と排外意識からの脱却」が必要だと書かれている。第1章. ーや子どもたちのアイデンティティの問題に触れた箇所があるが, 「推進. で整理した先行研究で批判されている点―①対象がニューカマーに限定さ. プラン」にはそれもない。. れ,オールドカマーが不可視化されていること,②マジョリティが対象に. 「推進プラン」が出される背景には,ニューカマー外国人の多い自治体が. されずマジョリティの変容が意識されていないために,結果として在日外. 集まって「外国人集住都市会議」が2001年から開催されるようになり,. 国人の「同化」が進むこと,③「文化の共生」の陰で,構造的差別や植民. その声におされる形で総務省が動き始めたという経緯があるため,ニュー. 地主義が隠蔽されていること―はすべて当たっていないことになる。. カマーの課題しか意識されていないし,また戦後一貫して,政府は,日本. 一方で,群馬県の「推進指針」は,3.3で示したように,先行研究で指. に移民は存在せず,だから移民政策は必要ないという理念の元で政策を展. 摘された問題点が当てはまっていた。. 開してきたことを考えれば,対象がニューカマーに限定され,内容も日本. 以上のことから,1990年代から使用されはじめた「多文化共生」は,. 語教育や適応教育になっているものも当然のなりゆきかもしれない。. 2000年になって意味が大きく変容したと考えられる。. 金侖貞は「多文化共生」には,「上」からの「官製的概念」と下からの. ー. 1 1. ―壬}. 「実践的概念」の両義性があるという(金2011p.68) 。この金のいう「両義 4.2. 1990年代から2000年代への「多文化共生」の意味の変容. 性」を使用すれば,1990年代に「下」からの多文化共生─「実践的概念」. 1990年代前半に使用されはじめた「多文化共生」は,外国人労働者と. から出発した「多文化共生」が,2000年代に「上」からの多文化共生─. の共生であれ,オールドカマーとの共生であれ,単なる「外国人支援」で. 「官製概念」に取って代わられ,意味が変容したとみなすことができる。. はなく,マジョリティの日本人がどのように受けとめるか,日本社会がい. 結果として,1章での批判にあるように,オールドカマーは再び「不可. かに変わるか,ということが意識されていた。それは,1970年代から80. 視化」され,構造的差別が隠蔽されたままニューカマーの「同化」が進ん. 年代にかけて起こった日立就職差別裁判闘争10 や指紋押捺制度反対の運. でいる。. 動11など,日本人と在日外国人との「共闘」による運動の成果の反映だと. 川崎市は総務省の「推進プラン」に先駆けて,2005年に「川崎市多文. 考えられる。これらの運動の中で,戦後長く「見えない存在」とされてき. 化共生社会推進指針―共に生きる地域社会をめざして―」 (以下「05推進. たオールドカマーの在日韓国・朝鮮人が可視化され,川崎のようにオール. 指針」とする)を制定している。. ドカマーと日本人との「共生」をめざした自治体も存在するようになっ. 基本目標として「多文化共生社会の実現」が掲げられ,「国籍や民族,. た 。課題は,日本社会の差別構造であり,人々の偏見や差別意識の克服. 文化の違いを豊かさとして生かし,すべての人が互いに認め合い,人権が. であり,そのために過去の歴史的経緯の認識が重要だとされたのである。. 尊重され,自立した市民として共に暮らすことができる『多文化共生社. その後2000年代に入り,ニューカマーの外国人の急増した都市を中心に,. 会』の実現をめざします」としている。. 12. 「多文化共生」が広がることになる。群馬県に限らず,多くの自治体の 152. そして,①人権の尊重 ②社会参加の促進 ③自立に向けた支援という. 研究論文. 「多文化共生」 という言葉の生成と意味の変容. ----E~. 153. F.
(11) し. 二 3つの基本理念のもと,施策推進の基本方向として,①行政サービスの充. 移民排斥や排外的ナショナリズム,多様性の否定といった風潮が日本で. 実 ②多文化共生教育の推進 ③社会参加の促進 ④共生社会の形成 ⑤. も世界でも広がる中で,多文化共生社会をめざす「多文化共生施策」や. 施策の推進体制の整備があげられている。. 「多文化共生教育」の重要性は増している。有効な施策や教育のためには. 「98基本方針」は教育分野に限定したものであり,行政全体の指針であ. 何が必要か,まず現在の「多文化共生」を問い直すことからはじめる必要. る「05推進指針」と単純に比較はできないが,2005年の「指針」は,「異. がある。. なる文化的背景をもつ市民が差別や人権侵害を受けることがないように」 という「人権の尊重」が基本理念の一つとして謳われているものの,日本. 本研究の限界と今後の課題. 人や日本社会が変わるという視点が後退し,「外国人支援」の比重が大き. この論稿では,日本での「多文化共生」という言葉の生成と意味の変容. くなっていることがわかる。この点から考えると,「多文化共生」の意味. を明らかにしてきたが,いくつかの限界と課題がある。. の変容は,自治体間の違いより,時代の違いの方が大きいと考えられる。. 一つは,文献・行政資料・新聞記事等を分析するという方法で, 「多文. このように,先行研究での「多文化共生」への批判は,2000年代以降. 化共生」という言葉の生成時にさかのぼってその意味を確認し,その後の. に使用されている「多文化共生」の意味に対する批判であると考えられる。. 意味の変容の検証を試みたが,こういったサーベイ調査では実際の実践現 場での使用とは食い違いがあり,見落とされているものもあるだろうとい. 4.3 多文化共生社会をめざすために 「多文化共生」 を問い直す. う限界である。また,今回は「多文化共生」という言葉のみにこだわって. 以上みてきたように,この論稿では,1990年代から実践的概念として. 分析をしてきたが,「共生」あるいは「共生施策」「共生教育」という言葉. 使用されるようになった「多文化共生」が,2000年代になって官製概念. が, 「多文化共生」と同じ意味で使用されている場合もある。そこまで広. として使用されるようになり,意味が大きく変容したことが明らかになっ. げての検討も必要であろう。. た。1990年代は,日本社会の「差別・抑圧構造」を射程にいれ,日本人・. そしてこの論稿で明らかにできなかった重要な課題は,1990年代と. 日本社会の変容をめざした取り組みが行われていたのに,2000年代は「外. 2000代で, 「多文化共生」の意味がなぜ変容したのか,ということである。. 国人支援」に限定されていったことが明らかになった。その結果,多くの. つまり,1990年代にはあった「日本人・日本社会が変わること」という. 研究者から「多文化共生」批判が展開されている現状がある。. 問題意識が薄れ, 「外国人支援」中心の「多文化共生」になってしまった. 日本を多文化共生社会にしていくためには,川崎市の「98基本方針」. のは何故か,「同化と排外意識からの脱却」「偏見や差別意識を取り除く」. にあるように,「日本社会に根強い同化と排外意識からの脱却をはかり,. という視点が失われたのは何故か,を明らかにしていくことである。そこ. 過去の歴史的経緯をしっかり認識すること」で,偏見や差別意識を取り除. には単に対象がオールドカマーからニューカマーに移ったということに留. き,制度的な差別も変えて,「共に生きられる社会」にしていくことが必. まらない原因があるのではないかと考えられる。1990年代の「差別・抑. 要である。この課題はオールドカマーだけの課題ではない。ニューカマー. 圧構造」を射程に入れた教育が広がらなかったことや,中島智子が指摘す. の場合も, 「桐生いじめ自死事件」のように偏見や差別から日々苦しむ子. る「オールドカマーを対象にしていた在日朝鮮人教育とニューカマーの子. どもたちの存在がある。また,南米から渡日した日系人や中国帰国者など. どもたちの教育の切断」 (中島2007)がなぜ起こったか,ということに,. も,歴史的な課題を抱えている。そこを見ようとしないで,日本語教育の. その答えのヒントが隠されているのではないだろうか。その「切断」 (問. 支援や表面的な「文化の共生」だけを「多文化共生」とするなら,1章で. 題意識が引き継がれなかったこと)がなぜ起こったか,という問にこたえ. 指摘された批判が続くことになる。. ることと, 「多文化共生」の意味の変容の原因を分析するのと同じ検証作. 154. 研究論文. 「多文化共生」 という言葉の生成と意味の変容. ----E~. ー. 1 1. ―壬}. 155. F.
(12) し. 二 業になると考えるが,今後の課題としたい。. pp.55-80 ハタノ,リリアン・テルミ2011「 『共生』の裏側に見えるもう一つの『強制』 」馬淵仁編 著『 「多文化共生」は可能か―教育における挑戦』勁草書房 pp127-148. 1.4では「多文化共生」概念そのものに対する批判的な意見を紹介した が,筆者は「多文化共生」という用語を使用する意義はあると考えている。. 樋口直人2009「『多文化共生』再考―ポスト共生に向けた試論」『アジア太平洋研究セン ター年報』2009-2010アジア太平洋研究センター pp.3-10. 竹沢は,「多文化共生が,単一民族神話や社会の同化圧力に対抗する啓. 今村令子1988「アメリカの教育改革,展開とイシュー②―永遠の『双子の目標』」『季刊 教育法70号』1988年冬エイデル研究所 pp.107-113. 蒙的役割を果たしてきたことは,まず積極的に評価されるべきであろう」. 今村令子1990『永遠の「双子の目標」―多文化共生の社会と教育 』東信堂. (竹沢2009p.90)と述べているが,それに加えて, 「多文化共生」という概. 石垣貴千代・斎藤里美1994「大学における『多文化共生教育』の課題―東洋大学を事例 として」東洋大学教養課程委員会『東洋大学紀要 教養課程篇』33号 pp.247-291. 念は,強者が弱者に行う一方的な支援ではなく,マジョリティの日本人の 変容も求める双方向性のものであるからだ。戴がいうように「反差別や人. 岩渕功一編著2010『多文化社会の〈文化〉を問う―共生 / コミュニティ / メディア』青弓 社. 権という言葉では焦点を当てにくかった『多数派性』 『日本人性』 『日本文. 開発教育協議会1994「開発教育ニュースレター」No.46 1994年1月号開発教育協議会. 化』を批判する視点を与えてくれる」(戴2003p.46)からである。. 神奈川人権センター編1994『人権ブックレット No.1 多民族・多文化・共生』(社) 神 奈川人権センター. ただ, 「多文化共生」という概念を,現在の状況に有効な形でよみがえ. カラバオの会編著1990 『仲間じゃないか外国人労働者―取り組みの現場から』明石書店. らせるためにはさらにいくつかの考察が必要となる。一つには,「多文化. カラバオの会1994『外国人出稼ぎ労働者新聞きりぬき帳』No.36カラバオの会. 共生」の意味を明らかにするために,欧米で使用されている「多文化主. 加藤千香子2008「『多文化共生』への道程と新自由主義の時代」崔勝久・加藤千香子編 『日本における多文化共生とは何か―「在日」の経験から』 新曜社 pp.11-31. 義」や「多文化教育」との共通点,相違点を明らかにする必要がある。さ. 川崎市1993『川崎新時代2010プラン―川崎市総合計画―』川崎市. らに,教育に関して言えば,「国際理解」や「異文化理解」 「在日外国人教. 川崎市外国人市民代表者会議調査研究委員会1996 『仮称・川崎市外国人市民代表者会議 調査研究報告書(答申)―川崎らしい外国人市民の市政参加の仕組みづくりを―』 川崎市. 育」との違いを明らかにし,「多文化共生」という言葉を使うことの意義 を歴史的に位置づけ直して,「多文化共生」「多文化共生教育」の概念をは. 川崎市総合教育センター編2011『かわさき外国人教育推進資料 Q&A ともに生きる―多 文化共生の社会をめざして(第12版) 』川崎市教育委員会. っきりさせる必要もある。それらを通じて,多文化共生社会とはどういう. ケント,ポーリン2014「多文化共生政策が誰との『共生』をめざしているか?」 『国際文 化研究』(18) 龍谷大学国際文化学会 pp.53-60. 社会であり,多文化共生社会を作っていく人間を育成する「多文化共生教 育」はどんな教育であるべきかが明らかになると考えるが,今後の課題と. 金泰泳1999『アイデンティティ・ポリティックスを超えて―在日朝鮮人のエスニシテ ィ』世界思想社. したい。. 金侖貞2007『多文化共生教育とアイデンティティ』明石書店 金侖貞2011「多文化共生をどのように実現可能なものとするか―制度かのアプローチを 考える」馬淵仁編著『「多文化共生」は可能か―教育における挑戦』勁草書房 pp.6584. 引用・参考文献. 小林哲也・江淵一公編 1985『多文化教育の比較研究―教育のおける文化的同化と多様 化』九州大学出版会. 崔勝久2008「 『共生の街』川崎を問う」崔勝久・加藤千香子編著『日本における多文化共 生とは何か―「在日」の経験から』新曜社 pp.151-190. 小泉康一・川村千鶴子編著2016 『多文化「共創」社会入門―移民・難民とともに暮らし, 互いに学ぶ社会へ』慶應義塾大学出版会. 藤岡美恵子2007「植民地主義の克服と『多文化共生』論」中野憲志編『制裁論を超えて ―朝鮮半島と日本の「平和」を紡ぐ』新評論 pp34-77. 栗本英世2016「日本的多文化共生の限界と可能性」『未来共生学』第3号大阪大学 pp.6988. ふれあい館2008『だれもが力いっぱい生きていくために―川崎市ふれあい館20周年事業 報告書』川崎市ふれあい館・桜本子ども文化センター. 川村千鶴子2016「グローバル・ケア・スケープ―移民政策の土台となる多文化共創の実 践―」 『環境創造』第22号大東文化大学環境創造学会 pp.11-20. 橋本みゆき2013「共に生きるコリアンな街づくり―川崎「おおひん地区」の地域的文 脈」在日朝鮮人運動史研究会編『在日朝鮮人史研究』No.43緑陰書房 pp.147-171. 馬渕仁2011『 「多文化共生」は可能か―教育における挑戦―』勁草書房. ハタノ,リリアン・テルミ2006「在日ブラジル人を取り巻く「多文化共生」の諸問題」 横田晃次・山下仁編著『 「共生」の内実-批判的社会言語学からの問いかけ』三元社. 156. ー. 1 1. ―壬}. 森茂岳雄2011「多文化共生をめざすカリキュラムの開発と実践」馬淵仁編著『 「多文化共. 研究論文. 「多文化共生」 という言葉の生成と意味の変容. ----E~. 157. F.
(13) し. 二 生」は可能か―教育における挑戦』勁草書房 pp.22-42. 註. 中島智子2007「 『オールドカマー』と『ニューカマー』をつなぐ」『解放教育』2007年11 月号. 1. 国際結婚で生まれた人,日本国籍取得者(いわゆる「帰化」をした人だけでも53万 人) ,中国や南米からの帰国者で日本国籍をもつ人などのことであり,外国籍者も含 め「外国にルーツのある人」 「外国につながる人」と言う。. 中島智子2008「連続するオールドカマー/ニューカマー教育」志水宏吉(編)『高校を生 きるニューカマー-大阪府立高校にみる教育支援』明石書店. 2. 文部科学省の学校基本調査によれば,公立学校に在籍する外国人児童生徒は73289人, 日本語指導を必要とする外国籍児童生徒が29198人,日本語指導を必要とする日本国 籍の児童生徒数が7897人(いずれも2014年5月現在)となっている。. 中村廣司2015『戦後日本の在日コリアン教育政策と運動における「多文化共生」のイデ オロギー性』韓国外国語大学校国際地域大学院博士論文 岡本耕平2010「多文化共生をめぐるいくつかのキーワードと日本の状況」『中部圏研究 2010年6月』 名古屋大学環境学研究科『中部圏研究』 調査季報 ( 中部圏研究 ), 173, pp.19-24.. 3. 1990年前後から急増する新渡日の外国人を「ニューカマー」 ,日本の植民地支配が原 因で戦前から日本に住む人々とその子孫を「オールドカマー」というが,今やニュ ーカマーの2世も多数存在する時代になっており, 「ニューカマー」 「オールドカマ ー」という分類そのものが成り立たない,という意見もあるが,この論稿は,歴史 的なことを扱うため,この用語を使用することにする。. 岡村達司1992「多文化共生を目ざして―地域に暮らす外国人を理解するために―」日本 福祉大学社会福祉学会編『福祉研究』No.67日本福祉大学社会福祉学会 pp.75-83. 4. 文献サーチにはかからない「多文化共生」の使用が考えられるため,文献サーチだ けで「多文化共生」の初出を検討するのは限界があるが,ここでは,先行研究にな らって文献サーチによる方法で初出を確認した。. 佐久間孝正2009「多文化共生」社会における教育のありかた」学術の動向編集委員会編 『学術の動向』2009年12月号(財)日本学術協力財団 清水睦美2011「権力の非対称性を問題化する教育実践―社会状況とマイノリティ支援の 関係を問う―」馬淵仁編著『 『多文化共生」は可能か―教育における挑戦』 勁草書 房 pp.43-62. 5. 国会図書館サーチでは,これより前に『木苺』(1978-2007)と『多文化教育の比較 研究―教育のおける文化的同化と多様化』 (1985)がヒットするが,前者は在日韓 国・朝鮮人の教育を考える会の機関紙であり,創刊年は古いが,「多文化共生」を使 用するのは1997年からである。また後者は,もっとも早く日本に「多文化教育」を 紹介した書籍であるが,「多文化・多民族社会」「多文化教育」という用語を使用し, 「多文化共生」はない。. 塩原良和2012『共に生きる―多民族・多文化社会における対話』 弘文堂 曽和信一1996『人権問題と多文化社会―自立と共生の視点から』 明石書店 多文化共生教育ネットワークかながわ2010『ME-net 外国につながる子どもへの教育・進 路サポート事業活動報告』多文化共生教育ネットワークかながわ. 6. 「終論」の初出である今村(1988)にもあたってみたが, 「多文化共生」の用語は使 用されていない。. 戴エイカ2003「 『多文化共生』とその可能性」『人権問題研究』(3) 大阪市立大学 pp.41-52. ー. 1 1. ―壬}. 7. 「おおひん地区」というのは,川崎市川崎区の大島,桜本,浜町の地名からとったも ので,在日韓国・朝鮮人の権利獲得運動のリーダー的存在であった大韓基督教川崎 教会の故李仁夏牧師の命名である。. 高橋敏道1996「21世紀をめざした多文化共生教育」 『解放教育』No.346 1996年12月 明治図書 pp.16-24 竹沢泰子2009「序―多文化共生の現状と課題」 『文化人類学』74-1日本文化人類学会 pp.86-95. 8. 1991年に横浜市教育委員会が制定した「在日外国人(主として韓国 . 朝鮮人)にかか わる教育の基本方針」では,「民族共生の教育をめざして」という表現が使用されて いる。. 竹沢泰子2011「序論 移民研究から多文化共生を考える」日本移民学会編『移民研究と 多文化共生』御茶の水書房 pp1-17. 9. 自殺の原因をいじめだと認めようとしない桐生市,群馬県に対してご両親が提訴さ れ,「桐生いじめ裁判」と呼ばれ,全国的に注目された。地裁で原告の勝訴,高裁で 和解となった。. 田村太郎他2007『多文化共生に関する現状および JICA での取り組み状況に関する基礎分 析』独立行政法人国際協力機構国際協力総合研修所 山下晋司2012「一つの世界にともに生きることを学ぶ―滞日外国人と多文化共生―」『東 京大学アメリカ太平洋研究』第12号 東京大学アメリカ研究資料センター pp.44-53. 10.日立製作所戸塚工場を受験した朴鐘碵氏が,韓国籍だとわかると内定を取り消され たため,就職差別だと提訴した裁判。在日韓国・朝鮮人と日本人の共闘組織「朴君 を囲む会」が作られ,1974年に原告全面勝訴の判決が確定した。. 山脇啓造2005「2005年は多文化共生元年?」 『自治体国際化フォーラム187号』2005年5 月自治体国際化協会 pp.34-37. 11.1980年からはじまった外国人登録法による指紋押捺制度撤廃を求める闘い。. 山脇啓造2006「多文化共生社会に向けて」『月刊 自治フォーラム』2006年6月号 第一法規 pp.10-15. 12. 川崎市は外国人市民代表者会議の設置(1996)や公務員の国籍条項の一部撤廃 (1996 ) を全国に先駆けて実施したことなどから「多文化共生の先進市」とされるが, 「川崎方式」による「多文化共生」は,崔勝久らによって,差別を固定化するものだ と批判されている(崔2008) 。. 山脇啓造2009「多文化共生社会の形成に向けて」移民政策学会『移民政策研究』第1号明 石書店 pp.30-41 群馬県多文化共生推進指針 http://www.pref.gunma.jp/04/c1500176.html. (都市イノベーション学府博士後期課程・都市イノベーション専攻). 158. 研究論文. 「多文化共生」 という言葉の生成と意味の変容. ----E~. 159. F.
(14) J ―壬. The Creation of the term “multicultural coexistence” and the transformation of its meaning. 研究・制作ノート. Research on the Development of Sound Art in Asian Countries: On “Sound Effects Seoul” Series. a clue to reconsider “multicultural coexistence”. (Interviews with Ji Yoon Yang and Chulki Hong). Toshihiko Yamane. KANEKO, Tomotaro and NAKAGAWA, Katsuhi. The objective of this paper is to, first, review the criticisms of the “multicultural. coexistence” and identify its problems, second, clarify whether the term was criticized from the beginning or the issues were raised after its meaning has been transformed.. At present, the term “multicultural coexistence” is used to mean various concepts. As one of the significant sound art exhibitions in the late 2000s in South Korea,. ー. depending on the group and purpose. Many critiques from various viewpoints have. this paper outlines “Sound Effects Seoul” series (“SFX Seoul”). The authors have. also been developed.. been engaged in research on the development of sound art in Asian countries, and. By analyzing books, administrative documents, and newspaper articles, identify. have already interviewed the director of “Around Sound Art Festival” in Hong Kong,. the meaning of the term “multicultural coexistence” at its creation and study how the. Yang Yeung, and published an article on the Festival.1 This paper was constructed. meaning evolved over time, as a clue to reconsider the current “multicultural. from interviews with one of the directors of “SFX Seoul,” Ji Yoon Yang and one of. coexistence”.. the participating artists, Chulki Hong, in Seoul on July 26 and July 28 2016. The. authors express their profound appreciation for their kind support.. The “multicultural coexistence” of the 1990s, whether coexistence with foreign. workers or coexistence with old comers, was not simply about “support for foreigners”. but about how the majority of Japanese population accept people with diverse. has also branched out to “Sound Effects Taiwan 2010”. This series was directed by. backgrounds and Japanese society should evolve. However, the meaning of. Baruch Gottlieb, a Canadian-born media artist, and Ji Yoon Yang, an art curator. “multicultural coexistence” has been altered and the term, which became widely used. currently working as the director of Corner Art Space. “SFX Seoul 2007” was. in the 2000s, is now limited to mean coexistence with newcomers, and the content is. described as “The first exhibition that actively introduces Sound Art to Korea,”2. mainly about support for foreigners such as Japanese language education and adaptive. with the series focusing on the different aspects of sound art practices by domestic. education.. and international artists.. The importance of “multicultural coexistence policies” and “multicultural. “SFX Seoul” has been held three times in Seoul (2007, 2008, and 2010) and. The first section of this paper examines the antecedents of “SFX Seoul” in the. mid-2000s, in which Hong discusses his experiences with sound art. A brief history. the tide of immigration exclusion, xenophobic nationalism, denial of diversity spreads. was also given in Yang’s essay, “Korean Sound Art,” in “SFX Seoul 2007” catalog.3. even in Japan and the world. In order to make Japan a multicultural coexistence. The second section of this paper gives details of the 2007 Seoul sound art exhibitions.. society, it is necessary to start from exploring the cause of the transformation of the. 2007 could be seen as a significant milestone in sound art in Seoul as there were three. meaning of “multicultural coexistence“ from the 1990s to the 2000s and reconsidering. international sound art exhibitions held by domestic institutions, including “SFX. what is necessary to achieve a multicultural coexistence society.. Seoul.” The final section surveys the subsequent development of “SFX Seoul” series. ー. coexistence education” aiming for a multicultural coexistence society is increasing, as. 160. Research on the development of sound art in Asian countries: On Sound Effects Seoul series. 研究論文. ―壬. 161.
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