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武蔵国秩父札所三十四観音霊場の形成にみる中世後期禅宗の地方展開―特に曹洞宗陸奥国黒石正法寺末、広見寺とその末寺を中心に―

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全文

(1)

武蔵国秩父札所三十四観音霊場の形成にみる中世後

期禅宗の地方展開―特に曹洞宗陸奥国黒石正法寺末

、広見寺とその末寺を中心に―

著者

小野澤 眞

雑誌名

国史談話会雑誌

53

ページ

57-73

発行年

2012-12-21

URL

http://hdl.handle.net/10097/00127076

(2)

武蔵国秩父札所三十四観音霊場の形成にみる中世後期禅宗の地方展開

││特に曹洞宗陸奥悶黒石正法寺末、広見寺とその末寺を中心に

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はじめに 筆者はこれまで、律的とならび中世時衆が葬式仏教などと して、仏教庶民化にはたした実態を追究してきた。鎌倉新仏 教は、鎌倉期に激餓があるものの、律僧時衆の蛍為を承け て、実態は室町戦闘新仏教とよぶべき性格をもっ。その中 で仲長著しいのは浄土、真、臨済、官洞、法議宗であり、真 言宗のが改革派 H ともいえよう新義真言宗である。 さ て は 叫 玉 県 秩 父 郡 市 ( 秩 父 市 お よ び 秩 父 郡 間 町 ・ 一 村 を 併 せ た 総 称 。 旧 武 球 関 秩 文 部 ) は 禅 宗 寺 院 の 比 率 が 非 常 に , 同 い ( 第 一 表 ) 。 秩 父 札 所 一 一 一 十 四 観 音 露 場 寺 院 ( 以 下 全 体 を 滋 明 、 個 別 寺 院 を札所と記す)をみても、曹洞宗寺続が大半で、あとは臨済 宗 南 禅 寺 建 長 寺 派 と 新 義 真 一 一 一 一 回 也 市 の 盛 山 派 で あ る 。 霊 場 は 中 世前期の修験者の活動を母胎とするとみられるが、その形成

過程は官洞宗および臨済宗の伸張と大いに重開山する。これら 護町・戦国新仏教各宗は、議場に入りこんで勢力を鉱大さ せ、さらにそれを足がかりに武蔵劉秩父郡全域に末寺を建立 し て い く 。 曹洞宗の地方股聞については、鈴木泰山(珂間洞宗の地械的 展 開 ﹄ 忠 文 郎 出 版 一 九 九 一 一 一 年 l 八 月 ) 、 広 瀬 良 弘 ( ﹃ 禅 宗 地 方 展 開 史の研究﹄古川弘文館一九八八年二一月)両氏を中心に、あま たの先行研究が存在する。本稿ではそれらを承けつつ、埼玉 県秩父地方において、曹洞宗が札所議場をとりこむ工(行) 程と、その背景に山岳修験水場があることを追っておきた い。曹洞宗・臨済宗が新仏教として地方展開する手法の例証 とすることができよう。 なお、札所守院にはその番号を算用数字で附す。秩父郡吉 田町、荒川村、大滝村は秩父市に、秩父郡河神村は小鹿野町

(3)

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仲の刊行物はない)。 な お 一 般 に 寺 世 に は 宗 教 法 人 格 を も た な い も の が あ り 、 枇 究 霊 場 に 桜 故 あ る 。 逆 に 新 寺 も 存 恋 し 、 斑 を 附 し た も の は ﹁ 1 説 会 ﹂ の 践 で 、 戦 後 の も の で あ る 。 こ れ ら の 点 技 認 を 型 L 、 数 設 は あ く ま で 目 安 と し て ご 覧 い た だ き た い 。 自 治 体 依 分 は 大 合 酔 後 。

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事 表 秩 父 郡 市 に お け る 寺 院 宗 派 一 覧

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宗 時 名 ※;.:~ 法人数 2 1 1 1 51 8 6 1 12 2 1 6 2 3 1 秩 父 札 所 観 音 霊 場 の 寺 名 一 覧 主 役 本 ゐ 刻 剖 一 削 白 川 川 川 け 川 川 同 同 比 l l同 運

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に つ い て も 掛 か れ て も る が 省 略 し た 。 第二表

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五年合併されているが、わかりやすさの ため以前のままで用いる。近世の{目撰地誌﹃新編武磁風土記 秘 ﹄ ( 以 下 ﹃ 記 稿 ﹄ と 略 J Y ) は﹃新編武蔵風土記稿﹄門大日本地 誌 大 系 ⑬ ] 第 十 二 巻 ( 雄 山 問 。 一 九 九 六 年 六 月 ) に よ っ た 。 一 、 秩 父 霊 場 の 成 立 秩父周辺地密(椅円は札所分布域) 秩父地方は m 東 平 野 西 端 の 山 ま た 山 を 越 え た 山 間 同 地 で あ る が、平安後期、雨宮地として武士聞が割拠した。これは勅旨牧 である秩父牧や荒川上流で信淡上野甲斐に通ずる交通の 要衝を確保する怒味があったようである。秩父平氏は在庁官 人の長にあたる武蔵総検校の臓を有した。また中世東悶で膝 行した板碑の石材産地としても重要であった。 そ の 秩 父 の 一 一 一 十 四 霊 場 は 西 国 一 一 一 十 三 観 音 、 坂 東 一 一 一 十 三 観 音 と併せ百観音とされている。しかし後二者の諮寺院が週間お よび坂東に広範囲に依賞する名利、毘利、古利であるのに対 し、秩父霊場は範囲が狭院で個々の寺読も淵源が峻昧な貧寺 が 多 い 。 ま た 帰 属 宗 派 も 問 国 坂 東 同 町 議 場 と 大 き く 間 関 な る 。 秩父町議場は夜間坂東滋場とは多くの点で好対照な存在であ る。秩父に霊場が成立したのは、自然発生というよりは、そ れを意図した勢力の存主を想定するほかないのである。 札所幻小鹿野町般岩・法性寺に長官ザ二年(一四八八)付 ﹁ 長 官 千 二 年 秩 父 札 所 番 付 ﹂ ( 内 外 題 は な く 仮 称 ) が 伝 わ る 。 一 第一図

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紙、状で、札所寺名を列挙している。 門 史 料 ︼ ﹁ 長 官 ず 二 年 秩 父 札 所 番 付 ﹂ ( 以 下 ﹁ 番 付 ﹂ と 略 す 。 ス ラ ッ シ ュ は 改 行 を 示 す ) ( 後 鍛 ) ﹁ 党 政 十 二 段 中 年 八 月 古 口 鮮 日 瞥 寺 現 住 東 水 代 一 一 表 装 セ シ モ ノ ナ リ ﹂ ( 以 下 番 号 と 寺 名 と そ の 本 時 の 綴 音 の 級 制 酬 が 続 く 。 こ れ は 第 二 表 上 設 に そ の ま ま 該 当 す る た め 略 す ) 右 此 窓 越 者 性 空 上 人 冥 途 討 結 / 七 日 御 説 法 あ ツ て 一 百 一 一 一 十六地獄罪人/御たすけあツて炎隊玉より布施に/給ハ ツて第一秩父巡礼二番坂東巡礼/三番西劉巡礼あり熊野 権現殊者/伊勢諸制悉討召性空河弥仏ノ化身也/是ヲ奔 殺 者 現 世 安 穏 後 生 替 市 蝿 無 疑 也 文 治 一 ニ 年 一 一 一 月 十 八 日 行 基 盤 口 際 之 作 道 行 四 百 八 十 一 ニ 常 一 筆者七十五才 長 官 十 二 年 州 五 月 二 日 設体などから年紀に疑念はなさそうだが、文なが滅裂であ り、記した人聞の知識水準や階層を筏わせる。ここでは霊場 を 行 法 菩 薩 が 文 治 三 年 ( 一 一 八 七 ) 選 定 し た と さ れ ( 原 文 マ 二 年 代 が 数 百 年 も ず れ て い る ﹀ 、 長 官 ? の 時 点 で す で に 一 一 一 十 一 一 一 番 ま で諮問怖が確立していた。一方で近世以降の順番とはまったく 奥なっている。近世の順喬は、江戸からの参詣答をみこんで 江戸に近い l 秩父市栃谷妙音寺(通称四万部寺)からはじ まり、左回りの渦巻き状に秩父盆地を綴る形になるが、﹁番 付﹂では、秩父の中心地大宮郷が一番になっている。長野県 佐久市鳴瀬の岩尾滅祉に﹁大永/大井弾圧入道/五天﹂︿大 永 五 年 日 一 五 二 五 ) ﹁ ( 阿 弥 陀 一 一 一 尊 積 子 ) 酋 閤 一 一 一 十 一 一 一 番 / 判 明 父 一 ニ 十 四 帯 / 坂 東 一 ニ 十 一 一 一 番 ﹂ と す る 古 柳 が あ り 、 こ の ご ろ ま で に は 三十閉鎖所に増えていた。秩父の資料では却荒川村白久法 窓寺に巡る順礼札に﹁奥溺葛凶住赤荻伊豆守平清定/西濁坂 東 秩 父 百 所 順 礼 只 一 人 / 為 二 親 諮 問 提 出 入 文 五 夫 一 一 一 月 吉 良 ﹂ と あ る 。 白木利幸氏によれば、﹁番付﹂の版番や含まれる霊場を分 析すると、大宮棚仰を拠点に夜家信者が何度かに分けて巡拝で きるようになっているから、修験が起源にあるにせよ、修験 者の修行順路として札所が設けられたわけではないらしいと いう。当初から、非山山家者の信仰をも怒識しつつ設定された 札 所 だ っ た と み ら れ る 。 そもそも中世秩父地方の宗教情況をみると、まず中心にあ るのは延答式内・秩父神社である。中世妙見宮とよばれた悶 日 そ 社は﹁枠の森﹂という荒川の段丘上にあり、古代以来の祭杷 巡跡を逃していた武甲山を遥拝する立味があったといわれ

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る。札所もまた、武甲山のみえる筒劉内に集中していること が指摘されている。そして武甲山の男神と妙見宮の女神が年 に一度逢う祭礼が日本一ニ大曳山祭﹁秩父夜祭﹂である。秩父 神社が妙見信仰を袋縫にするようになったのは、秩父平氏が 上 野 悶 花 関 息 災 寺 ( 群 馬 県 高 崎 市 、 現 天 台 宗 山 内 派 妙 見 寺 ) か ら 勧諭したことによるという。﹃記硝﹄によれば天資年中(九 三 八 1 羽 b)妙見が秩父に勧箭されたという。起源は平将門 との関係を瓶、つ下総千葉氏による妙見信仰と同様であり、秩 父にも城峰山など将門伝承は多い。このように妙見宮には当 地の豪族の影務が強くおよんでいたことを確認しておきた は U ぞ い。そして妙見官は、境内に日時巣山放福寺(廃仏殴釈で廃 寺。柳島少林寺が縦承)、足下に鴻水を祭認する本山派修験の は今宮坊などを指え、秩父盆地の中心にあって一大信仰闘を 確 立 し て い た 。 そ の た め 、 真 言 系 か ら 天 文 二 年 ( 一 五 一 三 一 一 ) 本 山 派 修 験 に 移 行 す る 一 一 一 峯 山 観 音 院 高 雲 寺 ( 現 一 一 一 架 神 社 ) と の微妙な競合関係が疑われる。文危二年(一五

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一 一 ) 雨 雲 寺 中興遊満以降、各地の史料に尚宏寺 H 一 ニ 峯 社 は 登 場 す る が 、 信 仰 闘 が 重 愉 悦 す る 秩 父 箆 場 と 三 峯 両 者 に 接 点 は み ら れ な い 。 ﹁番付﹂における札所寺世間が多くは寺号をもたないことか らもわかるように、各札所自体はもともと寺院としての体を なしていず、小堂・悲踏を近隣の寺院が管恕・内包している ( 現 在 も 近 隣 住 民 が 偲 守 般 を し て い る 札 所 は 多 い ) 。 札 所 は 草 創 の 地より移転していることが多く、もとは水辺や岩窟にあり、 修験者の修行場におかれた本増としての観音に夜監が設けら 上こぜ れ た 程 度 で あ っ た ろ う 。 6 横瀬町横瀬・卜雲寺はもと武甲山 の熊野椛現社、のち麓の池の畔にあり、 M 秩 父 市 別 所 法 泉 寺が﹁番付﹂に﹁十二番白山別所﹂(傍点策者)とあるのは わ か り や す い 例 で あ る 。 秩父札所の成立は、特定の意図に恭づくものであろうとい うことを指摘した。妙見宮と関係を有し、なおかつは今宮坊 に代表される修験者が巡錫して廻った小設が庶民に聞かれる 形で札所に指定されたのであろう。秩父神社の秩父夜祭では 今宮神社(旧今宮坊跡地)の湧水を用いている。他方で当地 の領主、丹党中村氏の作為を推定する説も有力である。﹁番 付﹂に記された時縁起によれば、性向エが冥土で七日併説法を し皿作人を救済した布施として、閥路大王から秩父、坂東、商 問巡礼のことを教えられたので、熊野機現など十三の権者と ともに順礼したとある。このように性空が前面に押し出され ている。性空(九

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七)は西の叡山とも喰えられる 嬬謄図説写山門教寺(兵庫県姫路市、天台宗山内派)の閉山で あ り 、 法 華 経 の 持 経 者 で あ る 。 門 教 寺 は 西 国 三 十 一 ニ 筒 所 市 議 場 の一つであり、その怒場開創伝説にも伎笠は現れる。﹁番付﹂ と似た設定であるものの、主人公は長谷寺関山の徳道であ り、中間四の主人公は法皇入党(追号。花山)で、そこに巡礼

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62 紹介者として性空が登場するにすぎない。なぜ秩父で性安な のか。丹党中村氏は承久の乱の論功行賞によるものか、嬬隣 国 出 ハ w m 郡 三 万 閤 郷 ( 兵 隊 県 出 ハ 架 市 ) に 所 僚 を え た こ と で 西 川 砧 御家人となり下中村と過称される。秩父にとどまった上中村 は下中村を通じ橋脚附と関係を生じ、このことから嬬熔困惑写 山性祭を淵源とする秩父札所縁起が生成されたとみられてい る。札所が上中村氏の勢力組問とどのように関係している か 、 今 後 検 討 の 裂 が あ る 。 各札所の名称からも、その原初形態をみてとることが可能 である。例えば犯秩父市宮地・神門寺は、妙見官の広義での 境内地にあたる立地である。﹁宮地﹂は妙見宮地内の怒であ ろう。﹁神門﹂の訓はゴウドであり、神処や神戸という訟で あろう。また 5 横瀬町横瀬・語歌堂には、間越が観音の化身 と駄について語り合ったという近世の縁起があるが、﹁番付﹂ で は ﹁

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六番五悶堂﹂になっている。伽援のさまを表現し た五悶裳の方が正しい表記と思われるので、音当てから歌に からめた絞起が作られた過程がみてとれる。 なお蛇足ながら、﹁武蔵秩父ノ之巡総﹂とある腕応策申 ︿ 明 応 九 年 ︿ 一 五

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﹀ ) 五 月 戊 寅 付 ﹃ 稽 阿 ︿ 十 七 代 同 阿 ) 瑞 夢 記 ﹄ ︿ ﹃ 品 開 土 宗 本 山 巡 業 寺 史 料 ﹄ ) を 中 世 史 料 と し て 挙 げ て お こ う 。 一 一 、 秩 父 札 所 に 対 す る 禅 宗 の 渓 透 秩父札所における禅宗寺続の比率はきわめて高い。むろん 現夜の問刷版宗派は近位あるいは廃仏殴釈前後に礁定したもの であり、曹洞宗が無宗派ないし他宗派の観音堂を笈食した開聞 が多いことを考慮すべきではある。例えば凶秩父市下宮地 町 ・ 衿 間 川 寺 ︿ 境

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洞 宗 ) と M 秩父市別所法泉寺(現臨済宗南 禅 寺 派 ) 、 お 秩 父 市 上 影 森 ・ 橋 立 堂 ( 現

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澗宗)は本山派修験 の け 日 秩 父 市 中 町 今 宮 坊 ( 現 臨 済 宗 南 禅 寺 派 ) 末 寺 で あ り 、 日 秩父市熊木町常楽寺(現

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洞宗)はもと天台宗山門派、別 小 鹿 野 町 飯 間 ・ 観 点 日 院 ( 現

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宗 ﹀ も 本 山 派 修 験 で あ っ た 。 とはいえ、このことを考え合わせても、廃仏銭釈でなくなっ た官洞宗寺院も多いから、秩父郡市の全寺院に占める禅宗寺 続 の 高 比 率 と 有 怒 の 設 は な い も の と 忠 わ れ る ( 第 一 表 参 照 ) 。 ちなみに全宗派の寺院総計の変化は、幕末限五一←一八八五 年 末 一 一 六

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年 現 従 一 六 回 抑 制 寺 と い う ( ﹃ 秩 父 市 誌 ﹄ ) 。 秩 父 で の 禅 宗 寺 続 は 、 乱 削 除 顕 日 が 正 和 二 年 ( 一 一 一 二 三 ) 問 聞 いたと伝える臨済宗池宮山寺派の大滝村大滝大陽寺が古い。 寺伝では顕日が渉想八年をすごし、もとは天台宗修験道眠切だ ったともいう。秩父市山田光明寺は旧真言宗で、建長寺か ら法位協師物外を迎え文保二年(一一一二八)臨済宗に改宗し た。山間基の関口丹後守は丹党の末商という。のち天正十五年

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(一五八七)さらに瞥洞宗に転ず。ほか波長寺派の秩父市下影 森金仙寺は応永十五年(一四

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八 ) 寂 の 脊 庵 道 虎 が 関 山 、 丹党中村友術門公行開基。河派では荒川村上限野治家寺が 応 永 二 十 年 ( 一 四 一 一 一 一 ) 閲 か れ 、 近 代 に 日 札 所 に な る 秩 父 市 需場町(札所指定以前は同市柳島)少林寺もそうである。そ れに続く南禅寺派の秩父市田村内福寺は、門弟による﹃白 刷 協 和 尚 話 相 部 ﹄ に よ れ ば 、 白 出 陣 宝 生 が ﹁ 丹 氏 ﹂ ( 丹 党 一 派 の 窓 刀 ) に設われ附く。二世商岩夫揚は大滝村大連原内通寺を中 興、秩父市久那・宝林寺、幻秩父市寺尾・音楽寺、小鹿野町 長 向 団 長 福 崎 の 問 問 山 。 三 世 竹 印 田 間 務 は 8 横 瀬 町 横 瀬 西 善 寺 、 5 横瀬町仲間瀬・長興寺、小鹿野町伊一旦沢・雲竜寺音防 く。ほか限禅寺派の長瀞町本野上'総持寺は法灯国師無本党 心によるという。多くの寺銭は村落の耕作地の一角にある が、大阪寺は余地から附絶し背後を三山市山に通ずる深山幽谷 の 山 山 鎖 中 腹 に あ る 。 禅宗のうち臨済宗が習洞宗より先に秩父に展開したのは、 おもに鎌倉との郁郎往来が関係するのではあるまいか。秩父 往地の武家(丹党ヵ)による導入や、禅僧が鎌倉に近い修行 場として秩父を選んだのであろうか。 さて、念のため他宗の綴抑制を概観すると、秩父市東町の浄 土 宗 鎮 西 派 惣 円 寺 は も と 秩 父 市 叩 仰 山 に あ り 、 議 開 光 寺 仏 を 有 し ている。その信波善光寺は秩父札所のあと、坂東‘西闘を含 む日本百観音給阪の寺とされている。秩父は山峡に閉ざされ た 盆 地 で は な く 、 仙 町 道 を 通 じ て 、 上 野 、 信 淡 、 甲 斐 の 三 一 凶 に 閃かれていたことを井出孫六氏は突体験から諮っている。 とはいえ浄土宗は秩父に一寺のみ、真宗と時宗は皆無であ る。一見、浄土教不毛の地のようであるが、丹党中村一族に よ る 延 援 肌 ( 一 一 一 年 ︿ 一 一 三

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﹀ ﹀ 中 秋 廿 日 付 の 板 碑 ( 秩 父 市 寺 尾 、 真 言 宗 盛 山 派 光 王 寺 飛 地 境 内 。 市 指 定 文 化 財 ) に ﹁ 同 生 西 極 楽 之 悶﹂とある。﹃記稿﹄によれば 8 四議寺、拓政福寺、お久島 寺などは弥陀三尊を本時としていた可能伎が高く、浄土系寺 院が禅宗に転宗させられたとみられる。曹洞宗広見寺末の荒 川 村 被 川 ・ 阿 弥 沈 寺 は 、 貞 治 二 年 ( 一 一 三 ハ 一 一 一 ) 広 見 寺 二 世 東 雄朔方の関山による。本尊は阿弥陀であり、寺名ともども気 になるところである。このように、本尊阿弥陀と禅との整合 性がみられない禅宗寺院が少なくない。さらに時宗況下で夜 地民間宗教者(学的半俗)の鉦打が大宮郷(秩父市中心部)や 大野原(秩父市。現市街地の北に隣接)にいたのである。かれ らは武蔵国秩父郡に隣り合う上野悶甘楽郡談原満福寺(群馬

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じよう 県藤間市)を小本寺としていた。秩父神社のすぐ下に道生町 があり、以前は﹁道場﹂とも密かれていた。秩父市教育委員 会文化財保護採の教示によれば議源は不明とのことである が、全国各地にある時衆寺院をさす﹁道場﹂地名と同類の可 能 性 が あ る 。

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中世の石造物といえば板碑が想起される。秩父から平野部 の山山口にあたる、荒川沿岸の大壁郡寄居町波久礼廃辺は、板 前 畔 の 素 材 で あ る 線 、 泥 片 岩 ( 通 称 背 石 ) の 産 地 で あ り 、 す で に 古墳時代には千葉県木実体市金鈴塚古墳の石棺などに用いら れていた。秩父山地の東端の比企郡小川町下恩割谷も近年、 採招跡地として注院されている。悶内政大の板柳は秩父郡長 瀞 町 野 上 下 郷 の 応 安 二 年 ( 一 一 一 一 六 九 ﹀ 銘 の 五 一 一 一 七

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で あ る 。 一 、 薗 源 泉 広 晃 寺 の 誕 生 今閲注目するのは曹洞宗である。末寺一二

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を有し総持 寺 、 永 平 寺 と な ら ぶ 曹 洞 宗 一 一 一 大 本 山 の 一 つ 、 陸 奥 国 黒 石 正 法 寺 ( 岩 手 県 奥 州 市 水 沢 医 ) 一 一 世 月 泉 良 印 の 門 弟 天 光 良 産 は 、 兄 弟子通海良殺により貞治五年(二一一六六)に創建されたと伝 える埼玉県飯能市臨竹(那波紋)長光寺二世をへて、妙見宮 の 北 に あ た る 大 宮 郷 宮 地 の 地 に 広 見 寺 を 明 徳 一 一 年 ( 一 一 一 一 九 一 ) に 捌 い た 。 延 卒 倒 依 然 γ 卯 ( 一 七 一 ニ レ い ) 冬 十 一 月 七 日 付 十 回 世 大 梁 禅 棟 町 大 林 山 腹 見 考 記 ﹄ ( ﹃ 埼 玉 淡 お ﹄ 綿 一 一 一 。 以 下 ﹃ 際 見 守 記﹄と略す)には、良鐙による神人化度伝承があり、その対 象となった能は、妙見菩艇であったという。その内容はまさ に広見寺に有利に解釈された妙見官の神託にほかならない。 妙見宮社家額田家は河寺を菩提寺としたという。明治以前ま で毎年二月初寅の日に末寺住職率いて妙見官で﹁虎倣法﹂を 修した。毎年七月、秩父神社の川瀬祭御輿洗いを妙見淵で行 うのも寺側は化度誠に出来すると伝える(寺側の自称の可能性 もある)ロ寺の門前には妙見堂がある。また広見寺三位瑞山 内 寸 的 は 妙 見 宮 と 一 体 で あ っ た MH 今宮坊の境内に末寺満光院を 放いたという。﹁番付﹂では一番となっているげ定林寺(通 称 林 寺 。 現 W 洞宗)は、平将門の子とされる壬生良門の家医林 定 一 苅 の 遺 児 良 一 五 が 河 親 の た め 建 立 し た 、 名 の と お り 林 家 の 持 仏設とされる寺である。同時に林家は妙見官の触役であった と い う 。 ﹁ 番 付 ﹂ で は 一 一 番 の 日 放 福 寺 は 妙 見 渡 境 内 に あ り 、 広 見 寺 二 世 策 雄 朔 方 ( 明 応 一 一 年 ︿ 一 四 九 二 ﹀ 絞 ) が 関 山 と い う 。 年 来 詳 六 月 十 八 日 付 ﹁ 上 杉 房 顕 怒 状 ﹂ ︿ 吋 新 編 埼 玉 県 史 ﹄ 資 料 編 5 ︹ 中 世 1 古 文 お 1 ] 、 九

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七 ︿ 号 文 設 ﹀ ) に 放 福 寺 が み え て いて、房顕が残する一四六六年までには放福寺が存夜してい た こ と に な る 。 ここで注目したいのは、本寺である正法寺に巡されている ﹃ 正 法 年 諸 住 山 記 ﹄ で あ る 。 河 誌 は 永 正 十 年 ( 一 五 一 一 エ ) 、 も と 同 寺 世 間 十 五 位 で あ り 、 住 職 を 退 い た の ち 同 寺 一 一 代 月 泉 良 印 塔 頭 の 統 灯 庵 の 五 代 附 地 主 と な っ て い た 寿 町 町 民 良 憾 の 手 に よ る も の で あ る 。 十 問 丁 オ は 正 法 寺 二 代 同 月 泉 良 印 の 法 網 の 交 名

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ニ 代 月 泉 大 和 尚 之 法 問 削 之 御 人 数 記 之 ﹂ で あ る 。 月 泉 良 印 の 第 一 二 番 法 嗣 と し て 武 絞 悶 長 光 寺 ( ﹁ 武 版 関 那 波 紋 ﹂ ヵ ) 閉 山 の 通 海 良 義 、

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第十六番に﹁十六番超怒都守天光良産本寺閉山見寺﹂ と あ る ( 趨 恕 の 左 の 傍 習 は ﹁ 毘 雪 ﹂ ) 。 ﹁ 都 寺 ﹂ は 禅 涜 の 役 職 ( 都 寺監寺別寺とある寺務経位突務の統括者)であり、毘雪細胞 怒と名のっていたようである。﹁古代不相知﹂﹁天光良産﹂ ﹁本寺広見寺武州秩父郡﹂はすべて後筆と考えられ、筆 者良橋は永正十四年(一五一七)に入寂するまで、一度書き 上げた﹃正法年割問住山記﹄に若干の補筆をしており、筆跡か ら、このときの策とみられる。司正法年譜住山記﹄編纂後、 何らかの新たな情報をえて、﹁背は知らなかったけれども今 闘改めて付け出す﹂として毘雪超窓に広見寺関山の﹁天光良 産﹂をあてたということであろうが、その新たな情報がどの 稜度のもので、広見寺からの届け出によるのものかどうか、 戦劉郊正法寺教団における一つの解釈という程度のものなの か、等は現時点では未詳とするほかない。 通海良殺の下の﹁長覚寺﹂は群馬県富岡市上高尾にある長 学守である。寺伝では応安二年(一一ニ六九)に通海良議が来 た り て 真 言 宗 寺 院 を 前 回 洞 宗 に 改 宗 、 上 野 国 一 宮 冊 以 前 明 神 に 授 戒 し た と い う ( ﹃ 群 馬 県 の 地 名 h 日 本 歴 史 地 名 大 系 第 一 O 巻 ) 。 武 蔵のガは﹁長光寺﹂であったとする江戸時代の別の史料があ る。それは曹洞宗瑞雲院(山形県米沢市、正法寺末)にある ﹃正法二世瑞缶百関山月泉良印禅師行状記﹄で、前半が正法寺 二世月泉良印の伝記、後半がその法嗣を列挙した法嗣娠であ る ︿ 前 半 の 伝 記 は 中 世 の も の だ が 、 後 半 の 法 嗣 仮 に は 江 戸 時 代 以 降 に な ら な い と 成 立 し な い 地 名 や 語 句 が 現 れ る 。 も と は 伝 記 だ け が あ り 、 江 戸 時 代 以 降 に そ れ に 法 附 帳 を 新 た に 書 い て 附 加 し た も の ヵ ) 。 ここに﹁一ニ番通海良毅上洲高尾長学寺、武州霞竹長光 守、常州佐竹天徳寺、此之防山也﹂とみえる。ゆえに史料解 釈としては﹁長覚寺﹂は上野国の方につくのではないか。た だ し 字 留 が 似 て い る ︿ ﹁ 光 ﹂ と ﹁ 党 ﹂ の 混 同 は し ば し ば あ る ) こ とから、あるいは良椿ないし戦濁刻庇法寺教団が上野と武蔵 とに向名寺院がそれぞれあったと認識していたのかもしれな い が 、 や は り 米 詳 で あ る ( 以 上 、 正 法 寺 関 連 に つ き こ こ ま で 佐 々 木 徹 氏 の 大 い な る 教 示 に よ る ) 。 埼 玉 県 で も 阿 武 光 寺 と 広 見 寺 は 曹 洞 宗 の れ 棋 士 同 級 で あ る 。 さて、誉回慶信氏は、出羽悶の事例から、一見すると禅宗 が山岳信仰を包摂し草深い段付を志向していたかのようにみ えるが、貨幣経済商業への関心があり、陵上河川交通の 婆地にて弘通している事実を指帰している。それを参照すれ ば、札所も秩父盆池の辺縁にあって決して前人未織の深山幽 谷のような場にあるわけではなく(その後人里に移転してきた 例も多い)、大宮郷は妙見宮門前町であり、荒川(寛永六年目 一 六 二 九 に 付 け 替 え ら れ て 入 間 川 と 一 緒 に な る が 、 そ れ ま で は 現 在 よ り 西 の 地 峨 を 流 れ て 古 利 恨 川 に 注 い で い た ) を 使 っ た 水 上 交 通 が可能であった。ただし人間や物資の集散する水陵の交通商討

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路ゃ都市的な場を時半握しようとしたのは浄土教諸宗も法本宗 も悶様である。したがって伊藤克己氏が指織するように、禅 宗に限って水利権水源(合温泉地)の確保に努め、山岳に 閲執した事由を明らかにしなくてはならない。 そこで﹃正法年欝住山記﹄十七丁ウをみると、通海良義の 関東での活動の説話が載せられている。上野国一宮冊以前明神 への神人化度の形態をとり、ここに上野悶,両足と武蔵濁那波 紋が登場する。ちなみに前述臨済宗建長守派大阪寺にも妙見 宮との神人化皮伝承があり、さらに三謀、諏訪まで登場して い る の で Q 秩 父 市 誌 ﹄ 一 一 六 ペ ー ジ 。 た だ し 問 寺 に よ れ ば 史 料 は 巡 っ て い な い と の こ と で 変 調 弦 ) 、 秩 父 池 方 で は 宗 派 関 係 な く 神 人化度部が流行していたらしい。 紫 骨 日 熔 哉 、 広 抑 制 良 弘 氏 が 挙 げ る 事 例 に 識 か れ る と 、 金 槌 の 異称﹁玄翁﹂の語源となった源翁心昭(二一三九

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一 四 O O ) と下野国那須殺生石(栃木県那須泌那須町)や狐(茶収尼天) と蝦川稲荷妙厳寺の畑山で知られるように、禅僧が在地の神々 を技終の霊力によって帰伏させることで、その土地の人々に 承認されたことを描く伝承が神人化度認である。禅僧が神や 権力者におもねらず(結果として支持を受ける方便となるがて ときに威圧する力をもつことが、新たな土地開発などによる 在来神祇(を銭敬サる勢力)との札機を克服する手段とみなさ れたのではあるまいか。また禅僧が独自の人脈情報絡によ って治水に関する帥裕カをもっていたのではないかと広瀬氏 は示唆する。技術力という点では、密教刷出もそれを有してい た ら し い が ( 民 主 加 の 丹 生 ︿ 水 銀 ﹀ 伝 承 が 端 的 な 例 ) 、 積 教 が 臨 済 宗法灯派(法灯居間無本党心)や白山信仰をへてのちに曹洞宗 に流入していることを考えれば、自然な推祭かもしれない。 また単なる着怨ではあるが、禅僧は律州出ともども同時代の 宋・一苅との関係があり、そこから鉱業・土木終梁技術を会 得した可能性もあるかもしれない。水には蹴いの効果があ り、修験で設問官祝された。白山など山岳修験とも通じていた 禅宗にふさわしい。け凶今宮坊のように、修験と曹洞宗とは親 和 性 が 高 い ( 前 述 の と お り 今 宮 坊 旧 尻 市 内 に 湧 水 が 確 認 で き る ) 。 ﹁喰﹂や﹁泉﹂の文字を寺号とした守院が禅宗に多いことを 伊藤氏は例読としている。水場確保を信仰獲得の手段とした のは禅宗の独自性であり、これは修験街教に由来するでは あるまいか。いずれにせよ神人化度部における水神たる屯神 済 度 は 、 当 地 の 土 町 議 や 杷 { 自 の 帰 依 な ど 、 何 ら か の 事 実 の 投 影 であろう。﹃耐倒見寺記﹄に妙見宮の神人化度部、広見寺の飽 灯松の説話がある。新仏教のうち、禅宗に限って秩父札所へ の参入を果敢に試みたのは、﹁信者獲得﹂﹁償問拡張﹂に笠場 包渋が有効であることを知っていたからである。 ちなみに河野議太郎氏によれば、古代修験者が岩殿正法寺 ( 東 松 山 市 、 現 内 以 内 同 宗 智 山 派 ) 都 幾 川 慈 光 寺 ( 比 企 郡 と き が わ 町 、

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現 天 台 宗 山 門 派 ) を へ て 武 甲 山 、 両 神 山 、 一 一 一 峰 山 へ 入 っ て い るという。秩父地方は顕密寺院の空白地で、禅宗と親和性の 向い修験笠叫切であったことも作用していたのであろう。荒川 の水上交通で下流まで把握できる効果もあった。禅定をうる 修行の場として、禅僧もそのあとをたどったのであろう。秩 父山地の辺縁を基地とし、そこから秩父に分け入る行程も両 者 は 似 て い る ( 飯 能 市 長 光 寺 儲 岡 市 長 学 寺 ← 秩 父 市 広 見 寺 ) 。 こうして秩父の精神間での中枢である妙見宮に接近するこ とで曹洞宗は勢力拡大に成功した。それと並行して、水場 温泉地への進出も行われた。秩父札所は水、辺の綴音堂がその まま寺院となったものが少なくないようである。日成下慈限

4 寸 ( ハ ケ は 関 東 方 言 で 慌 の 意 ) 、

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他 石 寺 ( 旧 称 溜 石 寺 ) 、 お 長 福

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寺 ( 品 川 称 菊 水 寺 ) 、 鈴 水 潜 寺 ( 以 上 市 町 洞 宗 ) な ど で あ る 。 ま た 温 泉と札所も重複するところがあり、 8 西 善 寺 ( 臨 済 宗 荷 禅 寺 派 ) は 秩 父 七 湯 の う ち 大 指 の 溺 ( 横 瀬 町 柄 欄 刷 。 現 在 洞 渇 ) 、 初 法 雲 守 ( 臨 済 宗 建 長 寺 派 ) は 胞 の 溺 ( 荒 川 村 自 久 温 泉 ) に き わ め て 近い。秩父七湯自体は近世成立だが、開湯伝承などからほか に中枇後期には荒川村日野・鳩の湯、河村縫川・柴原の湯な ど も 禅 宗 寺 院 や 札 所 に 近 い 。 四、広晃寺の札所包摂 各札所の成立と別当寺の成立は竣別しなければならない。 例えば二十二番は秩父市寺尾・箭一子堂栄一福寺となっている が 、 正 確 に は , v 弘子堂と永福寺は別個で、後者が前者を内包し ていったのである。札所寺院と綴音堂はほとんどが別々に誕 生 し た と み ら れ る 。 広見寺は、問問山天光良産のあと明応二年(一回九二)寂の 二 世 東 雄 朔 方 が 源 政 寺 、

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相 出 石 寺 、 日 慈 源 寺 、 日 放 循 寺 、

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大 慈 寺 な ど 七 筋 寺 を 聞 き 、 弘 治 元 年 ( 一 五 五 五 ) 寂 の 一 一 一 股 瑞 山守的が l 妙 音 寺 ほ か 七 箇 寺 、 一 沌 危 三 年 ( 一 五 じ 二 ) 絞 の 五 世 真 雄 正 顛 が お 久 日 間 寺 ほ か 問 箇 寺 を 問 問 く な ど 、 ﹃ 記 稿 ﹄ に よ る と 一 一 一 六 の 末 寺 が あ っ た と い う 。 広 見 寺 に は 近 批 で も 早 い 段 階 の 寛 永 十 年 附 ( 一 六 一 一 一 一 ニ ) 卯 月 十 五 日 付 ﹁ 広 見 寺 ・ 末 寺 寺 領 目 録 ﹂ ( ﹃ 新 編 埼 玉 県 史 ﹄ 資 料 銅 山 ︹ 中 枇 近 世 宗 教 ︺ ) が 巡 り 、 そ こ に も ほ ぼ 同 数 の 一 ニ 問 問 末 寺 が 載 る 。 末 寺 は 三 五 ( う ち 廃 寺 一五)、孫米六(うち廃寺五)でニ筒寺は近代に法人絡をえて い る ( い ず れ も 合 小 路 ) 。 寺 伝 に よ れ ば 二 世 東 雄 燃 方 ( 羽 応 二 年 目 一 四 九 二 寂 ) か ら 六 世 天 秀 拶 盛 ( 文 禄 二 年 目 一 五 九 三 寂 ) ま で に 三 間 筒 寺 が 聞 か れ て い る 。 末 寺 は 、 北 は 恩 ⋮ ' 谷 か ら 聞 は 一 ニ 峰 口まで、荒川、横瀬川、浦山川沿いに分布している。閥剖刷年 代の寺伝はあくまで近世以降のものであるが、ありがちな ﹁行基開山﹂などという突拍子もないものと異なり、広がり 方といい時代設定といい、史実とみてよいと思われる。禅宗 の 場 合 ﹁ 紹 訪 問 閉 山 ﹂ と い っ て 間 閉 山 し た 僧 の 姉 僧 を 名 義 上 の 閲

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山に仰ぐことがあるが、それでも年代が槌端にずれることは ない。﹁番付﹂をみて気づくのは、広田川寺の米となっている 寺は、政福寺をはじめとして寺号を議初からもっている(す な わ ち ﹁ 番 付 ﹂ 当 時 か ら 札 所 と 寺 が 一 体 ) こ と で あ る 。 恕 閉 山 し て 札所に介入したとみられる。また土問部・愛淡クラスは広見守 秘 家 な が ら 隠 寺 末 寺 間 間 選 と し て 惑 は 末 士 法 制 内 に あ る 。 末 寺 は 個々の家の持仏堂のごとくである。 佐藤久光氏によれば、秩父札所は大氷五年(一五一一五)こ ろ 三 一 一 一 か ら 一 増 え て 一 一 一 四 に 確 定 し た と み ら れ る 。 し か し 地 方 霊場であった秩父笠場を坂東や商閣の議場に比潟しうるまで に成長させたのは、氏のいう﹁修験他、 m 地 図 的 ﹂ の 努 力 で は なく、時期を考えれば、曹洞宗の力が大きかったと思われ る。奥羽では中世、すでに会津、相馬に議場があって、巡礼 が行われていた。広見守は奥羽に本山、関東に末寺という数 少ない例であり、秩父は奥羽の人々に巡拝しやすい位置関係 にあった。前掲の順礼札は奥羽に多いこともこの傍証とな る。もっとも、議洞宗は武士とも結びつくので、純粋な庶民 信仰として中枇の笠場巡礼は考えにくい。これら順礼札も武 家のものが多い(秩父の禅宗寺院も土夜開法が多い)。ともあ れ、曹洞宗は縫った札所を霧場として強化していった。広見 守の拡大路線を進めた京総朔方の在枇とまったく問時期に作 成された﹁番付﹂は、その成立年代をふまえると、曹洞宗に よる問地場把握のための備忘録か末寺帳に準ずるものにあたる の か も し れ な い 。 白木利率氏は、一五世紀にはあった音楽寺長興寺はまだ 別 当 た り え て い ず ( 吋 記 稿 ﹄ ) 、 ﹁ 番 付 ﹂ 当 時 に 禅 宗 が 札 所 を 支 配していたのは三十一番別当西禅寺(現 8 西善寺)のみとし ︻ 叩 } て い る 。 し か し 河 野 義 太 郎 氏 は 各 寺 を 紡 紋 に 分 析 し 、 一 一 一 段 階 を提示している。すなわち﹁番付﹂当時の禅院としては、 M 却 法 雲 寺 、 8 困 惑 寺 、

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龍石寺、白球福寺。﹁番付﹂成立後か ら江戸開府までの時期には、すでにあった音楽寺が﹁小鹿坂﹂ ( の ち 幻 ) を 吸 収 、 す で に あ っ た 長 興 寺 が ﹁ 切 地 ﹂ ︿ の ち 9 ) お よび五閣堂(のち 5 ) を 吸 収 、 叩 山 内 融 寺 、 刊 日 慈 限 寺 、

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大 慾 寺 、 お 久 田 同 寺 、 幻 長 泉 鏡 、 7 法長寺。これ以外の禅寺札所は 江戸期以後の改宗か境内への包摂などによる成立としてい る。広見寺についていえば、﹁番付﹂当時すでに寺号をもっ ていた札所寺院百一泊石寺、日放福寺、山大慾寺)を中興閉山 し末寺としているので、河寺の目ざすな図は明確であろう。 お わ り に 臨済宗では、台密業上流祖でもある明裕栄商が衝数初勝を 行ったり﹃興科慾殴論﹄で迷踏家を批判し浄戒を主張、門閣 弁円が京都東山東福寺を天台以言との兼学としたことが知 られる。このように旧来の顕密八宗とは対立しなかった。他

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方禅宗の中では、﹁臨済将積、首相川土民﹂といわれ弘通対象 が 棲 み 分 け ら れ て い た 。 曹洞宗は第四祖祭山紹理(二一六八 i 一 一 一 一 二 五 ) が 大 転 換 を行う。紹砲は弘安九年(一二八六)紀伊国由良興国寺の心 A m 白 地党心の許で参禅し、白山系天台宗寺院の改宗を J 9 る。これ を契機に曹洞宗は葬祭、祝勝、受戒によって戦国期に拡大し A 引} た。この動向は、祖師道元希玄が﹃正法限政﹄仏道巻で﹁禅 宗﹂﹁首相公示﹂といった宗派性を拒否し、修証一等とそれに よる只管打坐を唄えた孤立性とは大いに異なる方法である。 東 北 地 方 で は 、 縁 起 な ど の 分 析 か ら 、 顕 宮 山 か ら 首 相 削 宗 へ の { n v 改 宗 寺 院 が 多 く 、 一 ニ 本 山 の 一 つ で 広 見 寺 の 本 寺 、 陸 奥 悶 里 山 石 正 法 寺 は 、 市 岡 摘 出 宗 が 顕 密 寺 院 に 入 り こ み 共 存 し 、 や が て 凌 駕 する過穫をみせる。関東では律続から臨済宗への移行がみら れる。新潟県下越地方では土俗的な﹁妻帯宗﹂が曹洞宗にな っているとされる。震知県知多半島北半の山崎緋儀礼虫供養 は、融通念仏信仰や時衆道場主体のものが曹洞宗寺涜主導に { m w 変化している。神奈川県足柄上郡山北町役附(ダム造成のた め水没移転)の百万遍念仏が営まれるのは、念仏とは無縁 A 訂 } であるはずの曹洞宗能安寺である。昨吋衆最大の道場というべ き膝沢清浄光寺(神奈川県除沢市)の根源の地である俣野(藤 沢市および徽浜市戸際区)周辺には、同寺が戦国期に百年あま り活動停止していた悶隙を縫って、時宗寺院は皆無で宙洞宗 寺 院 ば か り が 広 が る の で あ る ( 藤 沢 市 妥 昌 寺 、 東 勝 寺 、 花 応 悼 師 、 横 浜 市 戸 塚 区 潟 泉 寺 、 総 長 院 、 泉 区 東 泉

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時衆の活動拠点の 戸 m e A m ) 一つであった温泉や竜神信仰を介して、やがて禅宗が鉱大し ていくという。本稿で指摘した秩父霊場以外でも、近世にな ると回閣議場の十一番は臨済宗妙心寺派藤井寺、十五擦は曹 洞宗叡分寺、一一一十三番は締済宗妙心寺派雪燦寺となってい ヲ 恒 。 死者をホトケとして崇敬するのは、直接には禅宗の受戒成 も つ { 初 ) 仏・没後作刷出を死者に適用したものである。浄土教の H 誰し も生身仏となる H こと(却使役生)が禅宗の H 誰しも死後仏 となる u 思怨に後退したとはいえ、禅僧が将来した北宋崇 学 二 年 ( 一 一

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一 一 一 ) 円 禅 苑 清 規 ﹄ に よ る 葬 儀 の 形 式 が 定 め ら れ 、 通宗派となったことは、葬式仏教確立に一つの罰則をなし た。もともと来世観をもたない禅宗が葬送儀礼に参入したこ との意味は大きい。これにより中世前期に葬送に従事した律 僧・時衆から、曹洞宗やその他の宗派に、資践の信仰が移行 し て い く 。 こうした禅宗の流れの上に、本摘を簡単にまとめてみる。 秩父札所は当初、妙見宮と修験者が中心となり、丹党中村氏 の 怠 士 山 の 下 に 成 立 し た 、 一 一 一 一 一 一 の 小 観 音 堂 を 巡 礼 す る も の で あ った。やがて神人化度の縁起を携えた方法によって妙見宮に 接近した曹洞宗正法寺の天光良産により、広見寺が閃創さ

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れ、霊場の末寺化が進む。そこからは時衆、友宗など浄土教 は排除される一方、臨済宗も問機に前後して山岳露場に入り こ み 、 新 議 真 喜 一 口 宗 も 同 調 し て い く 。 具体的には、陸奥閏奥山石正法寺の末寺である宮地広見寺が 室町期に秩父余地に入り、それを拠点に末寺が拡散していっ た。札所寺院の末寺化に成功している。禅宗が山岳や水の信 仰と親和的であることが背景にある。このことが正法寺の ﹃正法年譜住山記﹄で明らかとなった。そしてそれを有利に 進めるために、妙見宮社家勢力との協一調関係がみてとれる。 そ し て 一 一 一 一 聞 に 地 え た 秩 父 の 札 所 観 音 弘 場 信 仰 は 、 近 世 に 江 戸 庶民の信仰と遊興をかねて盛行することになる。統一した怒 息はなかったにせよ、結果として、丹党中村氏、修験、禅宗 の 協 同 聞 し た 成 楽 が 秩 父 札 所 と み る こ と が で き る 。 秩父郡市が稀にみる禅宗主国となったのは、山岳、修験、 神社(式内社)、水場、温泉といった存在を足がかりに H 旧 仏 教 H の地盤を換骨奪胎していく曹洞宗相伝の手法がもっとも 成功しやすい土壌であったことにあろう。 禅僧は修験者の足跡をたどって秩父山地の山総から盆地の 中央に進出していった。一方で、秩父山地のつけ根の埼玉県 入間郡越生町龍ケ谷龍認寺は、山由民に進まず、逆に中世後 期に平野部に数多くの末寺を展開していき、やがて関東曹洞 { 羽 ︼ 宗で一一一指に数えられる名刺となる。しかも広見寺と同じく屯 神 ( 神 人 化 度 ) 伝 承 を 携 え て ( こ れ に つ き 別 稿 の 用 意 が あ る ) 。 もともと秩父盆地には波厚な浄土信仰があり(前拘註 ( 8 ) 吋 秩 父 市 誌 ﹄ 一

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二 四 ペ ー ジ か ら の 市 内 各 寺 院 の 沿 革 ) 、 中 世 の 色 彩を巡す時衆の在地宗数者たる鉦打も存復したが、浄土系寺 院は今わずかに一箇寺しかない。

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横 瀬 町 横 瀬 卜 雲 寺 に は、商大寺流(黒衣方)律宗が好んだ清涼寺式釈迦如来があ る 。 市 岡 洞 宗 に 目 だ つ 帝 国 神 伝 承 に せ よ 、 施 出 前 ( 温 泉 ) に せ よ 、 もともと時衆が得怒とした。﹁室町・戦殴新仏教﹂というべ き曹洞宗は、﹁旧仏教﹂からはもちろん、﹁鎌倉新仏教﹂たる 浄土教諸宗の基盤をも超越ないし奴収しつつ拡大していった の で あ る 。 故後に一言、従来の秩父札所研究に、曹洞宗なかんづく広 見寺を意識した切り口がなかったのは、大変不可思議に思わ れた。今後の研究に本稿が新祝点を提供できたのではないか と 考 え る 。 註 ( l ) 州 刑 者 ﹃ 中 世 時 衆 史 の 研 究 ﹄ ( 八 木 諮 応 一 一

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一 二 年 六 月 三 時 衆 が ﹁ 鎌 倉 新 仏 教 ﹂ ( 実 際 に は ﹁ 室 町 a 戦 国 新 仏 教 ﹂ ) の 接 線 と なったことを指摘する一方、従来の鎌倉新仏教諭捌涜体制論 な ど に 批 判 を 加 え た 。 ( 2 ) 秩 究 議 場 に 閲 す る 研 究 は 多 く な い 。 後 拘 註 (3)(4)( 日 ) 議 文 獄 が 挙 げ ら れ る 。 ほ か に 即 応 凡 海 綿 ﹃ 秩 父 綴 音 霊 場 の 文 化

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財 ﹄ ( 秩 父 新 聞 社 ・ 一 九 五 八 年 一 一 一 月 ) 、 田 島 編 ﹃ 秩 史 観 背 霊 場 の 創始とその文化財﹄(秩父新附社一九五八年一一一月)、矢島浩 ﹃ 秩 父 観 点 岡 市 川 止 場 研 究 序 説 ﹄ ( 妓 昭 学 問 同 一 九 六 六 年 八 月 ) 、 秩 父 札 所の今昔刊行会編吋秩父札所の今世﹄(同会。一九六八年一一 月)、清水武甲﹃秩父浄土﹄(春秋社一九じ六年二月)、門別義 一編著明江戸氏と秩父流一践と秩父札所に関する考察﹄(円相私 家版一九九七年︿月表記なし﹀)などがある。ただしこれらは、 古典に苅るいわば練説で特に新味はない。宇高良哲﹁秩父札所 の成立﹂埼玉県編集﹃新編埼玉県史恥通史編 2 中 世 ( 向 田 附 一 九 八 八 年 一 一 一 月 ) は 、 成 立 背 景 へ の 言 及 が 少 な く 、 宇 高 ﹁ 戦 闘 期 の 仏 教 教 団 ﹂ 吋 悶 ﹄ は 、 曲 目 洞 宗 に 関 し 言 及 が 十 全 で な い 。 清 水 史 郎吋秩父札所綴音霊場への誘い

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﹄(さきたま出版会・一九九 八年四月、のち改訂版、ニ

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年 一 一 一 月 ) と 埼 玉 県 立 歴 史 資 料 舘線集﹃歴史の滋調査報告設第十五集秩父巡礼道﹄︿岡県教 育委員会一九九二年一一一月、のち服部英雄磯村幸男 e 伊藤正 義編集﹃隆史の道総資報告部集成﹄凶関東地方の歴史の道 ︿ 日 ﹀ 埼 玉 3 、 海 路 部 院 ニ

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七年七月に所収)、国際日本文 化研究センター﹁観音霊験記秩父三十四所﹂宮苦 ¥ ¥ d q d ヨ タ ヨ n Z VNH ロ m w n 也 ¥ 四 日 間 以 叩 M M 2 0 3 5 M M ¥ 円F B O ¥ E F E E ¥ 岳 問 。 } 回 目 σロ ¥ E 品 o x Z E -(肉センターによれば紙媒体での公刊なし)は、使覧としてきわ めて有用である。ほかに引上袈﹃秩史丹党考﹄(埼玉新聞社 e 一 九 九 一 年 八 月 ) が 寺 院 沿 革 に つ き 捜 史 言 及 。 ( 3 ) 佐藤久光﹁秩父札所の三十四ヵ所制﹂佐藤明遍路と巡礼の社 会学恥(人文治院ニ

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四年八月、のち佐藤明秩父札所と巡礼 の歴史﹄者問書院ニ

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九年九月に所収)によれば、秋田県 雄勝郡羽後町杉宮の一一一輪神社(別当吉祥院廃寺)納札彩写に ﹁(阿弥陀三尊師明子)坂東三十三所在日口口/部悶三十三所 一 瓦 コ 泣大慈挺/荷無正八岬駒大菩薩/扶父三十三所/文句 Z 一 年 l 八 月 日 開主式部 h y 舗網政﹂、和歌山県新宮市熊野述玉大社滅。永正十 一附(一五一四)十一月十五日付銅造怒仏に観音順礼をさすと 思われる﹁九十九所服礼﹂とみえる。ここまでは秩父も三十三 所であった。一方、岩手県大船渡市一ニ綾町新山神社(宗珠銭路 寺)の順礼札には﹁奥燃認間住横押印平重持/車中頂礼百ケ所/

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時天文十一年羽今月自﹂とある。中尊寺瑠稿光鋭にも霊持寄進 の 新 山 神 社 と 同 じ も の が あ る 。 ( 4 ) 白木利幸﹁﹃長芋番付恥当時の秩史観音巡礼﹂﹃密教学研究﹄ 第 3 0 号 ( 日 本 街 数 学 会 事 務 局 一 九 九 八 年 一 一 一 月 ) ( 5 ) 村 上 春 樹 ﹃ 平 将 門 伝 説 ﹄ ( 汲 十 川 被 院 。 一 一

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一年五月三後述 のげ秩父市桜木町定林寺も。 ( 6 ) 千嶋市舟﹁秩父の股史略年表﹂﹃秩父武甲山総合調査報告書﹄ [下巻︺人文編(武申山総合調査会︿百議祉制作

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一 九 八 七 年 一 一 一 月 ) 、 小 野 文 雄 ﹁ 埼 玉 の 文 化 の ル l ツを考える﹂埼玉県県民部 保史編さん蛮編集吋埼玉県史研究﹄第二八号(岡県一九九一一一 年 三 月 ) ( 7 ) 井出孫六吋峠の廃道明治十七年秩父災民戦争党えお

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﹄ ( 一 一 月社一九七五年一月、のち﹃秩父困民党﹄講談社現代新湯問、 向社・一九む九年一月と﹃峠の時泡秩父悶民党紀行加と改題 し平凡社ライブラリー川、同社一九九五年八月)。一八八四年 の秩父事刊では上州と倍州佐久の運動家が参加し、事刊は秩父 ではなく長野県佐久郡東馬流にて終駕を迎えているのである ( 佐 久 戦 争 ﹀ 。 ( 8 ) 秩父市誌編纂委員会編纂吋秩父市誌加(埼玉県秩父市一九六 二年五月、のち名選出版一九七四年六月)一一八ページから 浄土教の残縮、寺院一覧一

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一 一 四 i 七ページおよび小鹿野町誌

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編 集 委 員 会 編 句 小 鹿 野 町 誌 恥 ( 河 町 一 九 七 六 年 一 一 一 月 ) 1 一 円 一 ペ ー ジ ﹁ 新 編 武 放 風 土 記 柑 刷 所 械 の 寺 院 一 覧 表 ﹂ 。 ( 9 ) 高野修﹁時宗教聞における沙弥について附・淡原崎揃寺所 政の沙弥文治﹂藤沢市文お館編集﹃藤沢市文お館紀要﹄第六号 (同館一九八一一一年三月三これによると、武州秩父郡大官郷孤 玉阿弥組下に悶名いたが、主阿弥含め二人だけになってしまっ たので、毎年の本山清沖光寺への挨拶議務を減らしてほしいと い う 文 化 一 一 一 年 二 八

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六 ) 八 月 付 文 様 が 満 街 寺 に あ る と い う 。 (凶)町田康文﹃腕見寺ものがたり恥(宗教法人演見寺一九九九年 一 一 月 ) (日)雲仙術﹄で定林寺は﹁附田筑前関下組訪社人丹生兵部持﹂とあ るのみで、宗派本来の記事なし。 ( ロ ) ﹃ 水 沢 市 文 化 財 削 査 報 告 書 一 ' r u e 拠の正法寺正法寺総合調査 報告書

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﹄(岡市教背番員会一九八じ年一一一月)﹁合文訂寺宝 総 ﹂ 一 ニ 01 一 ペ ー ジ 。 (日)誉田慶信﹁中世後期出羽の宗教﹂伊藤清郎誉回慶信網﹃中 世出羽の宗教と民栄﹄奥羽史研究議書 5 ( 向 士 山 市 凶 院 ・ 一 一

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二 年 一 一 一 月 ) ( U ) 伊藤道己﹁中世の温泉と﹁温泉寺﹂をめぐって﹂際史学研究 会編集﹃陛史学研究﹄尚 639( 苛木沼府一九九二年一一月) (日)葉県鹿哉﹁洞門禅僧と神人化度の説話﹂﹃駒沢史学﹄第十号 (同会一九六二年一一月、のち護持吋 I 中 世 禅 林 成 立 史 の 研 究 恥 古川弘文館一九九三年二月に所収)、広瀬良弘﹁

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洞禅僧にお け る 神 人 化 度 恕 設 鋲 圧 ﹂ 日 本 印 皮 肉 サ 俳 救 間 取 合 編 集 ﹃ 印 度 問 中 俳 数 感 研 究 ﹄ 第 一 一 一 十 一 巻 第 二 蹴 ︹ 通 各 第 印 税 ︺ ( 隠 会 一 九 八 一 一 一 年 一一一月、のち広瀬﹃禅宗地方展開史の研究﹄古川弘文館一九八 八 年 一 一 一 月 、 第 二 章 第 九 節 に 所 収 )

( は 山 ) 河 野 若 太 郎 ﹃ 秩 父 一 一 一 十 四 札 所 考 ﹄ ( 地 玉 新 聞 社 一 九 人 間 年 一 一 一 月 ) (げ)なお現在荒川が流れ秩父鉄道が巡る前出の寄鹿町波久礼

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秩 父郡長瀞町矢那縮刷飽辺は、近世以前の路でもあったが(熊谷通 りて平野部から秩父盆地に行く場合、今の秩父鉄道のように荒 川沿いに寄居町方聞の北方から入るのではなく、東方から釜伏 誌 乙 峠 ( も う 一 つ の 熊 谷 通 り ) 、 粥 新 限 峠 ( 川 越 通 り ) や 正 丸 山 町 ( 亙 日 野通り)を越えるほうが主だったらしい。中山道熊谷抱方面か ら 分 か れ て 秩 父 郡 大 宮 か ら 日 本 一 一 一 大 峠 の 一 つ 服 坂 峠 か ら 甲 斐 留 に入る秩父往還もある。これ以外に定峰峠、山伏仙町、婆坂峠、 出 牛 峠 ほ か 無 数 の 時 と 山 道 が あ る 。 ( 凶 ) 新 域 協 一 ニ ﹃ 新 稿 社 寺 参 織 の 社 会 経 済 史 ﹄ ( 取 引 税 房 ' 一 九 八 ニ 年 五 月 ) ( 印 ) 前 胸 註 ( 日 ) 文 献 一 一 一 二 二 ペ ー ジ 以 下 。 ( 却 ) 佐 藤 俊 同 地 ﹁ 問 洞 宗 教 団 に お け る 白 山 信 仰 受 容 史 の 湖 周

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﹂ ﹃ 宗 学研究﹄第三十号(問宗宗学研究所一九八八年三月) ( 別 ) 前 拘 江 ( リ 凶 ) 広 制 則 市 川 。 (幻)佐々木燦﹁出羽図の宗教世界﹂伊藤前郎・誉回開出前総﹃中枇 出羽の宗教と民衆﹄奥羽史研究縫お 5 ( 士 山 市 叫 院 ニ

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二 年 一 一 一 月 ) (幻)佐々木徹﹁由民の正法寺の開創﹂入羽田宣夫総﹃日本来アジ アの間出家地成人間 1 陛史学と文化人類学の方法から

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︿ 入 間田立夫先生還暦記念論集編集委民会一一

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一 一 年 三 月 ) ( 剖 ) 桃 崎 祐 輔 ﹁ 中 投 閉 山 ケ 時 間 沿 岸 に お け る 律 宗 の 活 動 ﹂ 市 村 尚 男 監 修茨城県立歴史館編﹃中世山県悶の内海枇界

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出ケ浦筑波山 利根川

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尚志溺院一一

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七 年 一 一 一 月 ) ( お ﹀ 井 上 鋭 夫 ﹃ 一 向 一 挟 の 研 究 ﹄ ( 古 川 弘 文 館 一 九 六 八 年 一 一 一 月 )

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(お)鈴木泰山﹁尾州知多郡阿久比谷の虫供獲について﹂珂愛知大学 総合郷土研究所紀要﹄第九緋(同所一九六一一一年一一月、のち 鈴 木 ﹃ 開 澗 宗 の 地 域 的 開 問 問 ﹄ 忠 文 閣 出 版 一 九 九 一 一 一 年 八 月 に 所 収 ) (幻)﹃神奈川の民俗芸能﹄神奈川県民俗芸能堅調査報告訴(悶川町 教育委員会ニ

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六 年 三 月 ) ( お ) 鴎 尾 正 仁 ﹁ 時 衆 と 温 泉 ﹂ ﹃ 御 影 史 学 論 集 ﹄ 第 一 一

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号(御影史学 研究会一九九五年一 O 月 ) (却)秋月俊也﹁遊行仰と屯神(一一一)﹂﹃苛社と民衆恥第 5 特 別 号館七斡(民衆宗教史研究会︿山有限山続発売﹀ e ニ

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九 年 二

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一 一 年 一 一 一 月 ) (初)佐々木宏幹﹃仏と怒の人類学

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仏教文化の深約構造│﹄(春秋 社 台 一 九 九 一 一 一 年 一 月 、 の ち 新 装 版 、 二

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年 九 月 ) 、 消 池 勢 主 ﹁真宗の葬送儀礼﹂品開土真宗教学研究所。本願寺史料研究所綿 ﹃ 縦 断 遁 如 ﹄ 第 一 一 巻 ( 平 凡 社 ・ 一 九 九 じ 年 一 日 一 月 ) ( 刷 出 ) 近 世 の 的 録 所 、 関 三 殺 の 一 。 ﹃ 甲 山 抑 制 ﹄ で は 広 見 奇 は 正 法 寺 末 だ が、寺院本来帳研究会締明江戸幕府寺世間本末帳集成﹄上(雄山 閲刷版一九八一年一一月)に影印が載る内閣文郎(現悶立公 文治館)政白究永十年ご六三一一一)仲夏﹃飽穏寺末寺帳﹄によ れ ば 、 長 光 寺 ( 飯 能 市 ) 、 光 明 寺 ( 秩 究 市 山 田 ) 、 3 常泉寺(広 見寺末。吋記稿﹄では光明寺末)が龍穏寺直末となっており、広 見寺は無極派のうち一州派の上野州白井鎚林寺(群馬県渋川市) 末となっている。段林寺と龍穏寺の関係は刑判かれていないが、 ﹃他穏寺末寺帳﹄にあることから、広見寺は龍穏寺の孫米という 位 低 づ け か 。 こ れ は 、 曲 目 洞 宗 文 化 財 調 査 委 員 会 編 集 ﹃ 首 相 川 宗 文 化財調査目録解題集﹄ 6 関東智広編(問宗宗務庁一一 O O 一 日 一 年 一 一 一 月 ) に よ る と 文 禄 二 年 ( 一 五 九 一 一 一 ) 1 延事三年(一七四六) の問、一州派に属していたためという。六世絞後、清泉寺(吉 凶町下吉田)米、挫林寺客末となっていたもの。吋際見守記﹄は こ の 本 来 相 論 時 の 制 政 物 な の で あ る 。 の ち 延 卒 一 一 一 年 正 法 寺 米 に 復 し て い る 。 ︹附記︺本稿は寺社縁起研究会関東支部第

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悶 例 会 ( 二

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年 六月一一五日、於早稲田大学早稲羽キャンパス)における同名報 告を基礎とした。当日質問者ならびに佐々木徹氏、広見寺(町 凹 版 文 住 職 ) 、 大 阪 寺 ( 浅 見 宗 迷 住 臓 ) よ り 一 市 教 を 頂 戴 し た こ と に溺認を表す。なお秩父新附社主催で石間茂作、田島凡海氏ら により調査が行われ、山口平八﹃秩父札所の文化財を探る続 出 臼 霊 場 一 一 一 十 四 所 秩 父 札 所 学 術 調 査 報 告 ﹄ ( 一 九 五 じ 年 三 月 ﹀ が まとめられている(埼玉県立浦和問書館崎玉資料室担当︿伊勢 谷 氏 ﹀ 教 示 ) 。 ﹃ 秩 史 観 背 笠 間 切 の 創 始 者 と そ の 文 化 財 ﹄ ( 秩 父 観 音 奉 焚 会 。 一 九 五 八 年 一 一 一 月 ﹀ も そ の 関 連 刊 行 物 と 忠 わ れ る 。 と も に稀仰木で蚊見する機会がないが、備忘のためここに記す。広 見 守 過 去 帳 は 元 位 一 一 一 年 ( 一 五 七 二 ) か ら 記 紋 が あ る よ う だ が 、 ご 住 職 に よ れ ば 、 す で に 一 間 一 一 一

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年ころの戒名もあるといい、 今 後 の 検 討 が 必 要 と な る 。 隠 じ く 一 一 一 枇 端 山 守 的 の 事 禄 周 年 ( 一 五 三 一 ) 吋 武 州 秩 父 札 所 第 一 番 法 草 山 間 前 部 寺 大 脇 餓 鬼 悶 副 総 記 ﹄ ( 吋 埼 玉 淡 諮 ﹄ 第 六 ) も 要 検 討 。 埼 五 胤 川 県 民 部 m m A 史編さん室編集 ﹃荒川人文 I ﹄荒川総合調査報告書 2( 向 県 一 九 八 じ 年 一 一 一 月 ) 、 秩父市教育委員会編吋秩父市の文化財恥(河委員会一九九六年 一 月 ) に も 注 障 し た い 。

参照

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