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『平家物語』における漢籍の受容

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「平家 物語」における漢籍の受容

r平 家物 語 』 にお け る漢 籍の 受容

謡 口 明

The Reception

of Classical

Chinese

Works

in the "Heike

Monogatari"

Hajime Utaguti

It is thought that those who created and transmitted the "Heike Monogatari" had a profound knowledge of works in Classical Chi-nese. However, when they inserted a character from the Chinese classics into the "Heike Monogatari" they judged that character from a uniquely Japanese perspective and value system. From the standpoint of comparative literature, research must center on the differences in the portrayal of each character in the original Chi-nese and as received in this Japanese classic.

「平 家 」 の 原 話 を生 成 ・流 伝 した 人 々 は 、漢 籍 に造 詣 の深 い 人 々で あ っ た と思 わ れ る。 しか し、漢 籍 に掲 載 され る人 物 を 「平 家 」 に取 り入 れ る際 に は 、 わ が 国 の 特 有 な 人 物 評 価 や 価 値 観 を も って 取 り入 れ て い る 。比 較 文 学 ∂)観点 に立 っ て 考 え る と、漢 籍 にお け る 人 物 の 実 像 とわ が 国 の独 特 な 受 容 の あ り方 の 比 較 検 討 が 研 究 の 中心 に据 え られ るべ きで あ る。 一i

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文教大学 言語 と文化 第8号 は じめ に 『平 家 物 語 』 の 研 究 は 、 精 密 な研 究 が な され専 門 外 の立 場 か ら研 究 動 向 を 概 観 す る と 、考 究 、 考 察 の 余 地 の ない ほ どに研 究 成 果 が 蓄 積 さ れ て い る。 と こ ろ で 、 『平 家 物 語 』 に は 漢 籍 の影 響 が 大 きい と言 わ れ 出 典 ・引 用 等 の 調 査 は厳 密 に な され て い る に もか か わ らず 『平 家 物 語 』 に お け る 人物 造 型 と漢 籍 に お け る 人 間 実像 との 比 較 、 及 び 中 国 の 時 代 背 景 等 につ い て言 及 す る 論 文 は 少 な い 。 更 に 『平 家 』 の研 究 に は読 み 本 系 ・語 り本 系 と諸 本 間 の 校 勘 ・比 較 研 究 に重 点 が お か れ 、漢 籍 にお け る 人 物 像 の評 価 が 等 閑 に付 さ れ て い る傾 向 が あ る よ うに 見 受 け られ る。 そ こ で 、 『平 家 物 語 』 に 登 場 す る 、 中 国 の歴 史 上 の 人 物 に つ い て 、漢 籍 の 立 場 か ら、 歴 史 的 な評 価 、 人 物 評 価 につ い て 考 察 し、 『平 家 物 語 』 の 人物 造 型 の 一 端 を究 明 して み る こ と に す る。 そ こ に は 日 ・中 に お け る文 学 観 ・価 値 観 の 相 違 も見 い 出せ る で あ ろ う と考 え られ るか ら で あ る 。 第 一 章 『平 家 物 語 』 に お け る歴 史 解 釈 『平 家 物 語 』 巻 頭 の 厂祇 園精 舎 」 で は 、 「遠 く異 朝 を と ぶ らへ ば 」 と名 指 し さ れ 、非 難 され る 人物 が 四 人登 場 す る。 その 中 で、秦 の趙 高 ・漢 の王 莽 ・ 唐 の禄 山 につ い て は 、仕 え た 王 朝 に対 す る忠 誠 の 点 か ら考 え れ ば 、反 逆 ・ 悪 人 の レ ッテ ル を貼 ら れ た と して も当然 で あ る 。 と こ ろが 、梁 の 朱 昇 に 関 して は 、 主 君 と して 仕 え た梁 の 武 帝 の 意 を汲 み 、 武 帝 の た め に力 を尽 くし た こ とが 、梁 の 崩壊 につ な が った と非 難 さ れ る の で あ る 。 つ ま り、歴 史 事 実 と して の 不 忠 者 で あ る と糾 弾 され る 人物 像 と、 『平 家 』 に お け る 「皆 舊 主 先 皇 の 政 に も した が はず … … 」 とい う意 識 の くい 違 い が 明 瞭 に表 れ る の は 、 梁 の 朱 舁 に顕 著 な特 徴 を見 い 出 す こ とが で き る の で あ る。秦 の趙 高 は 、 始 皇 帝 の 遺 書 を改 竄 して 長 子 扶 蘇 が 二 世 皇 帝 とな る べ きで あ るの を 、 暗 愚 な胡 亥 を二 世 皇 帝 と した た め に 、 秦 帝 国 は 崩 壊 の道 をた どる こ と と な っ た 一2一

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「平家物語」における漢籍の受容 の で あ る 。漢 の 王 莽 は 、伯 父 王 鳳 の 力 で 列 侯 の 爵 を与 え ら れ て昇 進 し、 元 帝 の 王 皇 后 が 、太 皇 太 后 と して摂 政 した の を助 け 、平 帝 を即 位 させ 国 政 を 総 括 した 。 そ の平 帝 を毒 殺 して 漢 王 朝 を 滅 ぼ し新 王 朝 を創 設 した 。唐 の 安 禄 山 は 詳 述 す る まで もな く、玄 宗 皇 帝 ・楊 貴 妃 に と り入 り范 陽 で 反 乱 の 火 の 手 をあ げ 、玄 宗 皇 帝 を退 位 に 追 い や り、 楊 貴 妃 を死 に追 いや っ て い るの で あ る 。 彼 らの 所 業 は 王 朝 に対 す る反 逆 ・反 旗 を翻 す とい う具 体 的 な 行 動 で 知 られ て い る 。 と こ ろ が 、朱 昇 は梁 の 武 帝 が 中原 を平 定 した夢 を見 、 そ の折 偶 然 な こ とに 東 魏 の侯 景 が 武 帝 に帰 順 を 申 し入 れ て きた 。梁 朝 で は侯 景 の 帰 順 に対 す る 意 見 が 賛 否 両 論 に分 れ た 。武 帝 の 心 の 中 の 思 い(中 原 の 地 を統 一 す る 野 望)を 察 し、 武 帝 の意 向 にそ う発 言 を した 。 武帝 も夢 に こ だ わ り、侯 景 の 帰 順 を受 け 入 れ た 。 しか し侯 景 は東 魏 の 討 伐 軍 に破 られ 、 寿 春 に退 却 。翌 年 東 魏 と梁 が 友 好 関係 を結 び か け た の で 、梁 に 背 き、 都 の 建 康 を陥 落 させ 武 帝 を殺 して 自 ら帝 位 に つ い た の で あ る 。昇 に対 して 梁 書 お もね り で は 、 「善 く人 主 の 意 を窺 い 曲 り、 阿 謖 を能 く して 以 て 上 旨 を承 り、 故 に 特 に寵 任 せ らる」 と述 べ て 、朱 昇 の 臣 下 と して の 不 忠 を述 べ て い る 。 が 、 侯 景 を受 け入 れ た の は武 帝 が夢 を見 、 中 原 統 一 の野 望 を もち 、 決 断 した か らで 結 局 梁 王 朝 の 興 亡 に対 す る 責 任 は 武 帝 に あ る は ず で あ る 。 と りわ け 厂平 家 」 で 極 悪 非 道 な 人 間 の 四 人 に挙 げ られ る の は 、 武 帝 の 長 子 、 昭 明 太 子 は 『文 選 』 の撰 録 に深 く関 わ り、 わ が 国 の 平 安 宮 廷 で は 『白氏 文 集 』 『文 選 』 は貴 族 の 必 読 書 と言 われ る ほ ど愛 好 され 親 しま れ て き た 書 物 で あ る 。 そ の 『文 選 』 の 編 者 で あ る 昭 明 太 子 の 属 した梁 王 朝 が 侯 景 に よ って 滅 亡 させ ら れ た 。 そ の 侯 景 を梁 王 朝 に引 き入 れ る要 因 を作 っ た の が 朱 昇 で あ り、 この 上 な い 大 悪 人 で あ る と して い る の で あ る 。 歴 史 事 実 に照 ら して 考 え れ ば 、侯 景 を窮 鼠 の 立場 に追 い や っ た の は 、他 な らな い 武 帝 で あ り、梁 の外 交 政 策 に一 貫 性 が な か った こ とが 滅 亡 の最 大 の 理 由 で あ る 。侯 景 は東 魏 の高 観 の 部 将 で 、 高 観 の 死 後 、 そ の 子 高 澄 に服 せ ず 、 西魏 に くだ ったが 、

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文教大学 言語と文化 第8号 西 魏 が 受 け 入 れ な か っ た の で 、 梁 に 降 り、梁 は河 間 王 に封 じた。 と ころが 、 東 魏 は西 魏 と争 っ て い た の で 、梁 に講 和 を求 め 、 梁 が これ を認 め た た め 、 侯 景 は 立 場 が な く、梁 か ら東 魏 に つ き出 され な い と も限 らな い とい う不 安 感 に追 い や られ 、 そ の 不 安 か ら転 じて 兵 を あ げ 、 南 下 して建 康 を包 囲 し、 梁 軍 は 包 囲 され る こ と五 ケ月 に して 開 城 し、八 十 六 歳 の武 帝 は監 禁 され て 餓 死 同然 で 死 ん だ の で あ る。 つ ま り 厂平 家 」 を生 成 ・流 伝 す る に あ た っ て わ が 国 で 愛 好 さ れ て い る 『文 選 』 に対 す る特 別 な 思 い が あ り、 そ の 思 い とは梁 王 朝 に 対 す る 判 官 び い きに 近 い 感 情 が こめ られ て い る 。 そ れ を滅 亡 に追 い や っ た 元 凶 と して 朱 昇 を大 悪 人 の 中 に 列 挙 す る の で あ る 。 こ の よ う な 、 わが 国 の み にお け る特 別 な 思 い が 含 ま れ て い る と考 え られ る叙 述 は 次 の 『平 家 物 語 』 巻 二 の 蘇 武 に 見 られ る 。 中 国 の 歴 史事 実 と は大 き く異 な る表 現 が 随 所 に あ る 。 「平 家 」 で は、 「は じめ は李 少 卿 を大 將 軍 に て 三 十 万 騎 む け ら れ た りけ るが 、」 と述 べ て い るが 、 天 漢 二 年 の 遠 征 軍 は 貳 師 将 軍 が 三 万 騎 に将 と して 酒 泉 を出 る こ とに な っ て い た 。 この 時 、李 少 卿 、 つ ま り李 陵 は 、 漢 の 武 帝 よ り軍 旅 の 輜 重 の こ と を命 ぜ られ た 。李 陵 に割 くべ き騎 馬 の余 力 が ない の で 、李 陵 は 歩 兵 五 千 人 で 、 この 遠 征 軍 に 参 加 した の で あ る 。漢 文 は 誇 張 表 現 が あ る と 言 わ れ るが 、 「平 家 」 の この 箇 所 は途 方 もな い誇 張 で あ る 。 更 に 「次 に 蘇 武 を大 将 軍 に て 、 五 十 万 騎 をむ け らる 。」 とあ る が 蘇 武 は捕 虜 交 換 の た め の 平 和 使 節 と して 派 遣 され て い た が 、平 和 使 節 団 の 副 使 が 匈 奴 の 内 紛 に 関 係 した ため 、使 節 団 全 員 が 囚 わ れ て し まっ た の で あ り、蘇 武 は大 将 軍 で も な く、 ま して五 十 万 騎 を率 い た 事 実 は な い の で あ る 。 最 後 に李 陵 の 祖 父 李 広 が 百 万 騎 を率 い て胡 国 を破 り、蘇 武 を救 出 して 、 漢 につ れ も どす と 「平 家 」 で は叙 述 す る 。 こ の蘇 武 の 記 述 を考 察 して み る と 、飛 将 軍 と して 辺 境 の 地 で 部 下 の責 任 を一 身 に 受 け て 自刎 した 名 将 李 広 に対 す る 判 官 び い き に 類 す る特 別 な 思 い 入 れ が あ り、李 広 とそ の 孫 、李 陵 を用 い る こ と に よ って 一4一

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「平家物語」における漢籍の受容 蘇 武 の 「漢 節 十 九 年 」 の 人 間 ドラマ を盛 りあ げ よ う と した と思 わ れ る 。 こ の 蘇 武 は 、鬼 界 が 島へ 流 罪 とな っ た平 康 頼 が 二 首 の歌 を書 きつ け た 卒 塔 婆 千 本 流 した も の の一 本 が 漂 着 して都 の 噂 とな っ た とい う 「薩 摩 潟 よ りは る ば る と都 まで つ た は りけ る こそ ふ し ぎ な れ 。 あ ま りにお もふ 事 は か く しる しあ る にや 。」 と述 べ た例 証 と して用 い ら れ て い る た め 、 歴 史 的 事 実 よ り も劇 的 な 展 開 を 考 慮 に入 れ て い る 傾 向が あ り、 誇 張 や 事 実 に 反 す る 表 現 を 用 い て展 開 して い る よ うに も考 え ら れ る 。 これ に対 して 、巻 五 、咸 陽宮 は 、 「史 記 」 荊 軻 列 伝 の 記 述 に 、 か な り忠 実 で 、 しか も燕 の 太 子 丹 の記 述 は 、 「史 記 」 正 義 注 に 基 づ き記 述 して い る の で あ る 。 「平 家 」 を生 成 した 人 々 が 、 『史記 』 を丹 念 に 読 み 、 内 容 を把 握 した 上 で 、 「平 家 」 の 原 話 と して作 成 して い る よ う に考 え られ る 。 なお 比 較 研 究 に あ た って は 、岩 波 古 典 文 学 大 系 の 「平 家 」 を中 心 に考 慮 す る こ と とす る。 第 二 章 咸 陽 宮(平 家 巻 之 五)と 『史 記 』 荊 軻 列 伝 の 比 較 第 一 節 類 似 す る内 容 の 資 料 1.燕 の 太 子 丹 とい ふ もの 、秦 始 皇 に と らは れ て 、 い ま しめ をか う ぶ る事 十 二 年 、 太 子 丹 涙 を なが ひ て 申 け る は 、 「わ れ 本 国 に 老 母 あ り、 い と ま を 給 は ッて か れ をみ ん 」 と申 せ ば 、始 皇 帝 あ ざわ ら ッて 「な ん ぢ にい と ま を た ば ん事 は 、 馬 に角 お ひ 、烏 の 頭 の 白 くな らん 時 を待 つ べ し。」 (正 義 注)燕 丹 子 云 、 太 子丹 質 於 秦 、 秦 王 遇 之 無礼 。 不 得 意 、欲 帰 。 秦 王 不 聴 、 謬 言 日、 令 烏 頭 白 、馬 生 角 、乃 可 。丹 仰 天 歎 焉 。即 為 之烏 頭 白、 馬 生 角 。 (燕 丹 子 に云 ふ 。太 子 丹 秦 に 質 た り。 秦 王 之 を 遇 す る に礼 無 し。 意 を得 ず 、 帰 らん と欲 す れ ど も、 秦 王 聴 か ず 。謬 言 して 曰 は く、烏 を して 頭 白 く、 馬 を して 角 を 生 ぜ しめ ば 、乃 ち可 な り。丹 天 を仰 ぎ歎 ず 。 即 ち之 が

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文教大学 言 語と文化 第8号 為 め に 烏 の 頭 白 く 、 馬 の 角 生 じ た り。) 2.始 皇 帝 、 鳥 頭 馬 角 の 変 に お ど ろ き、綸 言 かへ ら ざ る事 を信 じて 、太 子 丹 をな だ め つ つ 、本 国 へ こ そ か へ され け れ 。始 皇 な を くや しみ て 、秦 の 国 と燕 の 国 の さか 井 に 楚 国 とい ふ 国 あ り。大 な る 河 なが れ た り。 か の 河 に わ た せ る橋 を ば楚 国 の 橋 といへ り。 始 皇 官 軍 をつ か は して 、 燕 丹 が わ た る 時 、 河 な か の 橋 を ふ ま ばお つ る 様 に した た め て 、 燕 丹 をわ た らせ け る に 、 な じか は お ちい ら ざ るべ き。 (正 義 注)燕 太 子 云 … … 王 不 得 已 、遣 之 。爲 機 発 橋 、欲 陷 。 丹 過 之 、爲 不 発 。 (王 已 む を得 ず して 之 を遣 る。 機 発 の橋 を為 り、 陥 い ら しめ ん と欲 す 。 丹 之 を過 ぐる も 、為 に発 せ ず) 3.又 范 於 期 とい ふ 兵 あ り。 これ は秦 の 国 の もの な り。 始 皇 の た め にお や ・ お ち ・兄 弟 をほ ろ ぼ され て 、燕 の 国 に に げ こ もれ り。 秦 皇 四 海 に宣 旨 を くだ い て 、 「樊 於 期 が か うべ はね て ま い らせ た らん物 に は 、 五 百 斤 の 金 をあ た へ ん」 とひ ろ ふ せ らる 。 荊 軻 こ れ を き き、 樊 於 期 が もとに ゆ ひて 、 「わ れ き く。 な ん ち が か うべ 五 百 斤 の金 に ほ うぜ らる 。 な ん ち が 首 わ れ にか せ 。取 て 始 皇 帝 に た て まつ らん 。 よ ろ こ ん で 叡 覧 へ られ ん 時 、 つ る ぎを ぬ き、胸 を さ さん にや す か りな ん」 と い ひ け れ ば 、樊 於 期 お ど りあ が り、大 い きつ い て 申 け る は 、 「われ お や ・お ち ・兄 弟 を 始 皇 の た め に ほ ろ ぼ さ れ て 、 よ る ひ る是 をお もふ に 、骨 髄 に と を ッて忍 が た し。 げ に も始 皇 帝 を ほ ろ ぼす べ くは 、首 を あ た へ ん こ と、塵 あ くた よ りも な をや す し」 とて 、手 つ か ら首 を切 て ぞ 死 に け る 。 (史 記 、本 文)私 見 樊 於 期 日、 秦 之 遇 将 軍 、 可 謂 深 矣 。 父 母 宗 族 、 皆 為 戮没 。今 聞 購 将 軍 首 金 千 斤 、 邑 万 家 。将 奈 何 。 於 期 仰 天 太 息 流 涕 日 、 於 一6一

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「平家物語」における漢籍の受容 期 毎 念 之 、 常 痛 於 骨 髄 。 顧 計 不 知 所 出耳 。荊 軻 日 、今 有 一 言 可 以 解 燕 国 之 患 、 報 将 軍 之 仇 者 、何 如 。於 期 乃 前 日 、為 之 奈 何 。荊 軻 日、 願 得 将 軍 之 首 以 献 秦 王 。秦 王 必 喜 而 見 臣 。 臣 左 手 把 其 袖 、 右 手 糂 其 胸 。 然 則 将 軍 之 仇 報 、 而 燕 見 陵 之愧 除 矣 。将 軍 豈 有 意 乎 。樊 於 期 偏 袒 播 椀 而 進 日、 此 臣 之 日夜 切 歯 腐心 也 。 乃 今 得 聞 教 。 遂 自勁 。 (私 か に樊 於 期 に見 え て 曰 は く、秦 の 将 軍 を遇 す る こ と、深 し と言胃ふ べ し。 父 母 宗 族 、皆 為 に戮 没 せ ら る 。今 、 聞 く将 軍 の首 に 金 千 斤 、 邑 万 家 は たい か ん に購 ふ 、 と。 将 奈 何 せ ん と。 於 期 、 天 を仰 ぎて太 息 し 、流 涕 して 曰 は く、 於 期 、 之 を念 ふ 毎 に 、常 に骨 髄 に痛 む 。顧 だ 計 、 出つ る所 を知 ら ざ る の み 、 と 。荊 軻 曰 は く、 今 、一 言 に して 以 て燕 国 の 患 ひ を解 き、将 軍 の 仇 に 報 ゆ べ き者 有 ら ば 、何 如 、 と 。於 期 、乃 ち 前 み て 曰 は く、之 を為 す こ い か ん と奈何 せ ん 、 と。 荊 軻 曰 は く、 願 は くは 将 軍 の 首 を得 て 、 以 て秦 王 に献 ぜ ん 。 秦 王 、 必 ず 喜 び て 臣 を見 ん 。 臣 、左 手 に其 の袖 を把 り、右 手 に其 しの の 胸 を推 さ ん 。然 らば則 ち将 軍 の仇 は報 い られ 、 而 う して 燕 の 陵 が る る はち の 愧 は 除 か れ ん。 将 軍 豈 意 有 らん や 、 と。 樊 於 期 、偏 袒 播 椀 して 進 み て 曰 は く、 此 れ 臣 の 、 日夜 切 歯 腐 心 す る とこ ろ な り。 乃 ち今 教 へ を 聞 くを 得 た り、 と。 遂 に 自勁 す 。) 4.又 秦 舞 陽 と い ふ兵 あ り。 こ れ も秦 の 国 の物 な り。 十 三 の 歳 か た き を う ッ て 、"燕の 国 に に げ こ もれ り。 な らび な き兵 な り。 か れ が 嗔 て むか ふ 時 は、 大 の男 も絶 入 す 。 又 笑 て む か ふ 時 は 、 み ど り子 もい だ か りけ り。 これ を 秦 の 都 の 案 内者 に か た ら うて 、 ぐ して ゆ く。 (史 記 本 文)燕 国 有 勇 士 秦 舞 陽 。 年 十 三 殺 人 。 人 不 敢 忤 視 。 乃 令 秦 舞 陽 為 副 。 (燕 国 に勇 士 秦舞 陽 有 り。 年 十 三 に して 人 を殺 す 。 人 、 敢 て忤 視 せ ず 。 た 乃 ち秦 舞 陽 を して 副 為 ら しむ 。) 一7一

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文教大学 言語 と文化 第8号 5.荊 軻 は燕 の 指 図 を も ち 、秦 舞 陽 は樊 於 期 が 首 を も ッて 、 珠 の き ざ橋 を の ぼ りあ が る 。 あ ま りに 内裏 の お び た た し き を見 て 、 秦 舞 陽 わ な わ な とふ る ひ けれ ば 、 臣 下 あ や しみ て … … …荊 軻 た ち帰 ッて 、 「舞 陽 ま ッた く謀 反 の 心 な し。 た だ 田 舎 の い や し きに の み な ら ッて 、 皇 居 に な れ ざ るが 故 に心 迷惑 す 」 と申 け れ ば 、 臣下 み な しづ ま りぬ 。 (史 記 本 文)荊 軻 奉 樊 於 期 頭 函 、而 秦 舞 陽 奉 地 図 匣 。 以 次 進 、至 陛 。 秦 舞 陽色 変 振 恐 。群 臣 怪 之 。荊 軻顧 笑 舞 陽 、 前 謝 日 、北 蕃 蛮 夷 之 鄙 人 、 未 嘗 見 天 子 。 故 振 慴 。願 大 王 少 仮 借 之 、使 得 畢 使 於 前 。 は こ (荊 軻 、樊 於 期 の頭 の 函 を奉 げ 、 而 う して 秦 舞 陽 は地 図 の 匣 を奉 ぐ。 次 を 以 て 進 み 、 陛 に 至 る 。秦 舞 陽 、色 変 じて 振 恐 す 。 群 臣 、 之 を怪 しむ 。 荊 軻 、顧 み て舞 陽 を笑 ひ 、前 み て 謝 して 曰 は く、北 蕃 蛮 夷 の 鄙 人 、 未 だ 嘗 て 天 子 に見 え ず 。 故 に振 慴 す 。 願 は くは 大 王 、少 し く之 を仮 借 し、 使 ひ を前 に畢 ふ る を得 しめ よ、 と。 6.指 図 の入 ッた る櫃 の そ こ に 、氷 の 様 な るつ る ぎ見 え け れ ば 、 始 皇 帝 これ をみ て 、や が て に げ ん と し給 ふ 。 荊 軻 王 の御 袖 を むず とひ か へ て 、 つ る ぎ を むね に さ しあ て た り。 (史 記 本 文)秦 王 発 図 。 図 窮 而 匕 首 見 。 因左 手 把 秦 王 之 袖 、而 右 手 持 匕 首 椹 之 。 あ らは (秦 王 図 を発 く。 図 窮 ま りて 匕 首 見 る 。 因 りて 左 手 もて 秦 王 の袖 を把 り、 而 う して右 手 に匕 首 を持 ち て 之 を推 す 。) 7.始 皇 の給 く 「わ れ に暫 時 の い と ま を え させ よ。 わが 最 愛 の 后 の 琴 の 音 を 今 一 度 きか ん」 との給 へ ば 、荊 軻 しば し をか した て まつ らず 。始 皇 は三 千 人 の きさ き を もち給 へ り。其 な か に花 陽 夫 人 と て 、 す ぐれ た る琴 の上 一g一

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「平 家 物 語 」にお け る漢 籍 の受 容 をよそ 手 お は しけ り。凡 この 后 の琴 の ね を きい て は 、 武 き もの の ふ の い か れ る もや は ら ぎ、飛 鳥 もお ち 、草 木 も ゆ る ぐ程 な り。况 哉 い ま をか ぎ りの 叡 聞 にそ なへ ん と、 な くな くひ き給 ひ け ん 、 さ こ そ は お も しろか りけ め 。 ほ とん ど 荊 軻 も頭 を う な だ れ 、 耳 をそ ば だ て 、 殆 謀 臣 の お もひ もた ゆみ に け り。 后 は じめ て さ らに 一 曲 を奏 す 。 「七 尺 の屏 風 は た か く と も、 お ど ら ば な どか こへ ざ らん 。 一條 の羅 穀 は つ よ く と も、 ひ か ば な どか はた え ざ らん」 とそ ひ き給 ふ 。荊 軻 は これ を き き しらず 、始 皇 は き き知 て 、御 袖 を ひ ッ き り、七 尺 の 屏 風 を飛 こ えて 、 あ か が ね の柱 の か げ に に げ か くれ させ 給 ひぬ 。 (正 義 注)燕 丹 子 云 、 左 手 椹 其 胸 。 秦 王 日 、今 日之 事 、 従 子 計 耳 。 乞 聴 瑟 而 死 。 召 姫 人鼓 琴 。 琴 声 日 、羅 穀 単 衣 、可 裂 而絶 。 八 尺 屏 風 、 可 超 而 越 。鹿 盧 之 剣 、可 負 而 抜 。 王 於 是 奮 袖 、 超 屏 風 走 之 。 (燕丹 子 に云 ふ 、左 手 に其 の胸 を糂 す 。秦 王 曰 は く、 今 日の事 、 子 の 計 に従 ふ の み 。 乞 ふ 瑟 を聴 きて 死 せ んO姫 人 を召 して琴 を鼓 せ しむ 。 琴 声 に 曰 は く、羅 穀 単 衣 、裂 きて絶 つ べ し。八 尺 の 屏風 は超 へ て 越 ゆべ し。 鹿盧 の剣 は 負 ひて 抜 くべ し。王 是 に 於 て 袖 を奮 ひ 、屏 風 を超 へ て 之 よ り 走 る。 第 二 節 資 料 の 分 析 ・考 察 「平 家 」 巻 五 咸 陽 宮 にお け る荊 軻 の 叙 述 の典 拠 と して 『史 記 』 ・ 『燕 丹 子 伝 』 そ れ ぞ れ を うけ て生 成 ・流 伝 した説 話 とす る説(1>と『日本 見 在 書 目録 』 に 「晋 、 処 士 斐 啓 撰 」 と記 さ れ る 『燕 丹 子 伝 』 に よ る と い う説2>があ る 。 「平 家 」 の研 究 に は 、 延 慶 本 ・八 坂 本 ・源 平 盛 衰 記 等 の 各 テ キ ス トの 比 較 が 必 要 と され る よ う で あ るが 、 中 国 の 典 籍 か ら見 た 「平 家 」 とい う視 点 に た ち 、岩 波 古 典 文 学 大 系 に よ る 「平 家 」 との 比 較 を中 心 に考 察 を して み る こ と とす る 。 一g一

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文教大学 言語 と文化 第8号 資 料1に 関 して 「平 家 」 で は 、 燕 の 太 子 丹 の 親 孝 行 譚 と烏 白 頭 馬 生 角 の 奇 瑞 とが 記 述 され て い る。 後 半 の 烏 白頭 馬 生 角 の 奇 瑞 に 関 して は詳 細 な研 究 書(3}もあ り、論 考 は そ れ らの研 究 に委 ね る こ と とす る 。 燕 の 太 子 丹 が 、 帰 国 を望 む理 由 と して 、 親 を恋 い慕 う と い う恩 愛 の情 が 日本 系 の もの の 中 心 に据 え られ て い る 。 『史記 』刺 客 列 伝 の記 述 に よ れ ば 、 秦 王 政(始 皇 帝) は 、 趙 の 都 邯 鄲 で 、 趙 に 人 質 と して 送 られ て い た 子 楚(の ち の荘 襄 王)の 子 ど も と して 生 まれ た と され る 。 しか しなが ら、 『史記 』 呂 不 韋 列 伝 を 見 れ ば 、秦 王 政 は呂 不 韋 の 子 で あ る と記 述 され て い る 。詳 述 は さ け る が 、 秦 か ら捨 子 同然 に趙 に 人 質 に 出 され て い た子 楚 を大 商 人 、 呂不 韋 が 「奇 貨 居 くべ し」 と 目 をつ け 、 昭 襄 王 の 太 子 、安 国 君 の 養 子 とす る こ とに成功 す る。 と ころ が 、 調 子 に の っ た子 楚 は 呂不 韋 の 愛 人 を妻 に した い と強 引 に取 って い っ て しま う 。 そ の 時 、 そ の 女 性 に は 呂 不 韋 の 子 をや ど して い た とす る 司 馬 遷 の記 述 に は説 得 力 が あ り、事 実 で あ っ た と考 え られ る。燕 の太子 丹 は、 趙 に 生 まれ た 秦 王 政 と趙 で 交 友 が あ り、 秦 王 政 が 帰 国 して 王 と な り、 旧 知 の 間柄 で 秦 の 国 で の 人 質 生 活 を 、期 待 して い た が 、 期 待 はず れ だ と 失 望 し て 「怨 み て 亡 げ帰 る 」 の で あ る 。 幼 く して 王 位 に つ い た 秦 王 政 に は ぐ 呂 不 韋 が 宰 相 で 、 しか も も との 愛 人(秦 王 政 の 実 母)と の ス キ ャ ン ダ ル等 、 秦 国 内 で 内 憂 外 患 に さ ら さ れ る とい う時期 で もあ っ た 。 燕 の太 子 丹 は 「情 に も ろ い」 側 面 を もっ て い て 、刺 客 列 伝 に は 、情 に流 され 、 燕 国 全 体 を視 野 に 入 れ た 判 断 が 下 せ ず 、荊 軻 の 始 皇 帝 暗 殺 失 敗 の要 因 は燕 の太 子 丹 に あ る と 言 っ て も過 言 で は ない 。 中 国系 で は燕 の 太 子 丹 は 決 して 善 玉 と して 扱 わ れ て い な い の で あ る 。 資 料2は 、 『史 記 』 正 義 注 引 「燕 丹 子伝 」 が 中 心 と な っ て い る 。 こ こで は 徹 底 して 始 皇 帝 を悪 玉 と して 、 燕 の 太 子 丹 が 始 皇 帝 の 奸 計 に陥 入 らず 、 困 難 な状 況 が あ る と奇 跡 が 起 こ り、無 事 帰 国す る こ とが で きた とす る 。 これ も親 孝 行 譚 の 延 長 と して 「これ も孝 行 の こ こ ろ ざ しを冥 顕 あ は れ み 給 ふ に 一io一

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「平家物語」における漢籍の受容 よ ッて な り。」 とむ す ん で い る の で あ る 。 『史記 』 の本 文 で は 、 そ の 内 容 は す べ て削 除 され て い る 。 と こ ろ で 、 「史 記 正 義注 」 の 撰 者 、 張 守 節 に つ い て は 、新 ・旧 の唐 書 に 記 載 が な く、 学 問 の系 統 等 、 詳 しい こ と は 明 らか で は な い 。 厂史記 正 義序 」 で 見 る 限 り、三 十 余 年 の 歳 月 をか け て 「史 記 正 義 」 三 十 巻 を完 成 した とい う。 た だ 、 「正 義 」 の 注 文 の 中 に 、 「張 先 生 の 旧 本 に 『士 』 字 有 り、先 生 疑 ふ ら くは 是 れ 衍 字 な らん と 、又 敢 て 除 か ず 」 と張 守 節 の 師 と され る 人 が 同 姓 の 張 先 生 と呼 ば れ る 人 の 名 と して記 され て い る 。 張 先 生 を誰 と特 定 す るか につ い て は諸 説 もあ り、特 定 す る こ と は困 難 で あ る が 、 張 守 節 の学 問 の 傾 向 の 一 端 を伺 う こ とが で き る。 司 馬 遷 が 刺 客 列 伝 の 末尾 の 論 賛 で 、 「太 史公 曰 は く、世 に 言 ふ 、 荊 軻 其 の 太 子 丹 の 命 を称 す る や 、 天 粟 を雨 ふ ら し、 馬 角 を生 ず と太 だ 過 れ り」 と、 あ り得 べ か ら ざ る こ と と して 否 定 して い る に も か か わ らず 、 張 守 節 は 「烏 頭 白馬 生 角 」 の 奇 瑞 を掲 げ た の は 、 張 守 節 の 師 の 張 先 生 の 学 説 に従 っ た か らで あ る 。張 先 生 は信 頼 に足 る と思 わ れ る テ キ ス トに 恐 ら く衍 字 ・衍 文 で あ ろ う と思 わ れ る もの が あ っ て も後 世 に判 断 を委 ね る とい う態 度 で 掲 載 す る ほ どで あ り、唐 代 にで ま わ っ た テ キ ス トに は 、燕 の 太 子 丹 の 「鳥 頭 白馬 生 角 」 が 、掲 載 さ れ て い た と思 わ れ る 。唐 代 は伝 奇 小 説 の 全 盛 期 に もあ た り、索 隠 注 を撰 し た 司 馬 貞 も取 りあ げ て い る こ とか ら考 えて も、唐 代 に特 有 な現 象 の よ う に 考 え られ る。 資 料3に つ い て は 、 『史記 』 の叙 述 内容 と 「平 家 」 の 叙 述 内 容 が 極 め て 共 通 して い る 箇 所 で あ る。 た だ 、 「范 於 期 」 「樊 於 期 」 の表 記 が 混 在 して い るが 、 これ は 諸 本 の 間 の 異 同 もあ る よ う で 問 題 と して 取 りあ げ る ほ どで は なか ろ う。 樊 於 期 に か け ら れ た 懸 賞 金 に つ い て 、 「史 記 」 で は 厂金 千 斤 、 邑 万 家 」 とな っ て い る の を 「平 家 」 で は 「金 五 百 斤 」 と して い る 。 この こ とに つ い て 今 成 元 昭 氏 は 「書 承 過 程 で の 変 化 と は考 え に くい 。 〈 莫 大 な 賞 金 〉 とい う 関節 が はず れ て い な けれ ば 、 そ の 額 の 詳 細 な どは ど うで も よい の で あ る 。」 と述 べ て い る 。 この 資料3は 「史記 」 を うけて生 成 ・

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文教大学 言語と文化 第8号 流 伝 した説 話 で あ る と考 え られ る資 料 で あ る 。 資 料4に つ い て 「平 家 」 で は秦 舞 陽 は 、 勇 気 あ る 、 そ して 心 や さ しい 人 物 と して描 か れ て い る 。 岩 波 大 系 本 に引 く田村 麻 呂 記 の 「怒 っ て 眼 を廻 ら せ ば猛 獣 忽 ち斃 れ 、 咲 っ て 眉 を舒 れ ば稚 子 早 くも懐 く」 とい う、 わが 国 の 英 雄 、 豪 傑 の 理 想 像 と して 人 物 造 型 が な さ れ て い る 。 しか し 、 『史 記 』 で は 、 街 中 で 喧 嘩 沙 汰 ば か り起 す 無 頼 漢 と して 、秦 舞 陽 は扱 わ れ て い る 。 燕 の太 子 丹 か ら秦 舞 陽 との 同 行 を勧 め られ た荊 軻 は 、 別 の 人 物 を待 ち決 行 す る と言 う ほ ど秦 舞 陽 に信 頼 を置 い て い なか っ た。太子 は荊 軻 が決 行 を しぶ っ て い る の で は と疑 い 、秦 舞 陽 を先 発 と して 派 遣 す る と言 う と、 荊 軻 は 「往 きて 返 ら ざ る者 は 豎 子 な り」 と太 子 丹 を叱 責 して い る の で あ る 。 資 料5・6は 資 料3で 同様 に 「史 記 」 に基 づ き 「平 家 」 が 生 成 さ れ た と考 え られ る資 料 で あ る 。 資 料7は 「史 記 」 正 義 注 引 く 「燕 丹 子 伝 」 で あ る が 、 「史記 」 本 文 の 緊 迫 した 荊 軻 と秦 王 政 との息 づ ま る よ う な 追 跡 劇 と は 異 っ た 、 劇 的 な 展 開 が 「燕 丹 子 伝 」 に は あ る 。 わ が 国 の 「平 家 」 の諸 本 に お け る こ の 場 面 の 考 察 に つ い て詳 細 な研 究 書 もあ る の で(4)、別 の 観 点 か ら考 察 して み る 。 そ れ は 、 侍 医夏 無 且 が 実 際 に 、暗 殺 現 場 を 目撃 した とい う、 『史 記 』 の 記 述 内 容 に つ い て触 れ て み る 。刺 客 列 伝 の論 賛 に 、 「始 め 公 孫 季 功 ・董 生 ・夏 無 且 と い 游 ぶ 、具 さ に其 の 事 を知 る 。 余 の 為 に 之 を道 ふ こ と是 の 如 し」 とあ る 。 余 に つ い て は 、 司 馬 遷 ・司 馬 談 の い ず れ か とい う議 論 の あ る もの の 、 王 国維 の 『太 史 公 行 年 考 』 ・顧 頡 岡 の 「司 馬 談 作 史」 に よ り、 司 馬 談 で あ る と さ れ る 。公 孫 季 功 は伝 未詳 。 董 生 は 董 仲 舒 だ とす る説 が 有 力 で あ る 。荊 軻 が 秦 王 政 を刺 殺 し よ う と した の は前 二 二 七 年 で 、 董 仲 舒 の在 世 は前 一 七 九 ∼ 前 九 三 。 司 馬 談 の在 世 は?∼ 前 一 一 〇 。 司 馬 遷 の在 世 は前 一 四 五 ∼前 八六 。 「史 記 」 本 文 の 記 述 内 容 か ら考 え る と夏 無 且 → 公 孫 季 功 ・董 生 → 司 馬 談 と そ の歴 史 的 現 場 の 話 が 伝 承 され た と考 え る の が妥 当 で あ ろ う。 してみ る と、 一12一

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「平家物語」における漢籍の受容 秦 の 宮 殿 で 荊 軻 が 秦 王 政 を追 い ま わ した とい うの は 『史 記 』 本 文 の 叙 述 が そ の 様 子 を正 確 に伝 え て い る こ とが 理 解 で きる は ず で あ る 。正 義 注 引 「燕 丹 子伝 」 は小 説 ・ドラマ と して の 観 点 か ら見 る と興 味 をそ そ られ る 場 面 で あ る。 吉 川 幸 次 郎 氏 は 、 中 国文 学 と 日本 文 学 との そ れ ぞ れ の特 質 を 中 国文 学 は政 治 を、 日本 文 学 は 愛 をそ の根 底 に お くと喝 破 さ れ て い る が 、 「燕 丹 子 伝 」 に お い て 、別 れ の場 面 にお い て 愛 す る花 陽 夫 人 に琴 を ひか せ 、死 出 の は な む け とす る テ ー マ の 設 定 は わ が 国 の愛 の 文 学 に つ なが る もの で あ り、 「平 家 」 を生 成 した人 々 に 強 く印 象 づ け られ 、 取 りあ げ ら れ た もの と思 わ れ る。 最 後 に 『史 記 』 の 記 述 と 「平 家 」 の 内 容 の先 後 の 順 序 が 甚 し く異 っ て い る箇 所 が あ る 。 これ につ い て は今 成 ・山 下 両 氏 の 克 明 な 分 析 ・考 察 の な さ れ た 論5)が展 開 され て い る の で 、 そ れ に委 ね る こ と と して 、 「平 家 」 の そ の 部 分 を資 料 と して掲 げお くに と どめ る 。 1.荊 軻 、 「この 事 あ な か しこ、 人 に ひ ろ ふ す な 」 とい ふ 。先 生 申 しけ る は 、 「人 に う たが は れ ぬ る にす ぎた る恥 こそ な け れ 。此 事 もれ ぬ る物 な ら ば 、 わ れ うた が は れ な ん ず 」 とて 、 門 前 な る李 の 木 にか し ら をつ きあ て 、 う ち くだ い て ぞ 死 に け る 。 2.荊 軻 い か ッて 、 つ る ぎ を な げ か け た て まつ る 。お りふ し御 前 に番 の 医 師 の 候 け るが 、薬 の 袋 を荊 軻 が つ る ぎに な げ あ はせ た り。 つ る ぎ薬 の 袋 を か け られ な が ら、 口六 尺 の銅 の 柱 を な か ら まで こそ き ッ た りけ れ 。荊 軻 又 剣 も もた ね ば つ づ い て もな げ ず 、 王 た ち かヘ ッて わが つ る ぎ を め し よ せ て 、荊 軻 を八 ざ きに こそ し給 ひ け れ 。 以 上 の 分 析 ・考 察 の 結 果 を ま とめ て み る と、 「燕 丹 子 伝 」 が 我 が 国 に 流 布 して 、 広 く読 まれ た とす る形 跡 は見 あ た らな い 。 中 国 にお い て も現

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文教大学 言語と文化 第8号 存 す る 厂燕 丹 子伝 」 は 、 清 の 紀 陶 が 明 の 永 楽 大 典 か ら抄 出 した も の を孫 星 衍 が 校 定 して 、 平 津 館 叢 書 に は じめ て 収 め られ た もの だ と言 わ れ て い る 。(6)我が 国 にお い て も 、 中 国 に お い て も 「燕 丹 子 伝 」 は 広 く読 者 層 を 持 っ て 、読 まれ た書 で は な い と考 え られ る 。 そ の よ うに 考 え る と 『史記 』 及 び 『史記 』 所 載 の 正 義 注 ・索 隠 注 に基 づ き、 「平 家 」 の 咸 陽 宮 は 生 成 さ れ た とす るの が 、 妥 当 と思 わ れ る。 お わ りに 『平 家 物 語 』 にお け る 漢 籍 中 に 登 場 す る 人物 に つ い て は 、 わ が 国 独 得 の 人 物 に対 す る 、 思 い 入 れ や 価 値 評価 が あ り、 中 国 の 歴 史事 実 や 人 物 評 価 を度 外 視 して 、人 物 造 型 をす る傾 向 が あ る 。 た と え ば 、 中唐 の 文 壇 で は 、韓 愈 の 古 文 復 興 運 動 が 主 流 と な り、 白居 易 ・元 槇 は民 衆 及 び多 くの 支 持 が あ る もの の 、 文壇 の 主 流 か ら阻 害 さ れ 、 「元 軽 白俗 」 と蔑 視 され る よ う な 状 況 が あ る に もか か わ らず 、 わ が 国 に お い て は 「白氏 長 慶 集 」 は 、清 少 納 言 の 自慢 話 の 例 を あ げ る ま で も な く、文 学 と して教 養 と して平 安 貴族 社 会 に あ っ て は金 科 玉 条 の書 と して重 宝 が られ て い た の で あ る 。 更 に中 国の 歴 史 書 は 、 「述 べ て 作 らず 」(『論 語 』 述 而 篇)と い う 「事 実 は正 確 に述 べ 、創 作 しな い」 とい う基 本 的 な 姿 勢 で 貫 れ て い る。 とこ ろが 、 そ れ を我 が 国 に移 入 す る 際 、 わが 国 固有 な価 値 観 で 感 情 移 入 し、 人 物 造 型 をす る傾 向 が あ る 。 わ が 国 固有 な価 値 観 とは 、 一、判 官 び い き 。戦 い敗 れ た り、 滅 亡 の 憂 き 目に あ っ た 人 物 に対 して 、 特 別 な 同情 を よせ る 。 二 、現 実 を直 視 せ ず 、 情 緒 的 な把 握 をす る 。 政 治 状 況 の 背 景 や 織 烈 な 人 間 の 確 執 を度 外 視 して 、 愛 の ドラマ 、 人 間 の 善 的 要 素 を過 大 視 す る 。 『平 家 物 語 』 の漢 籍 の 受 容 に つ い て概 観 して み た だ けで 、 こ れ だ け の差 異 を見 い 出 す こ とが で きた 。 日中比 較 文 学 の研 究 熱 が 高 まって い る中 で、 一14一

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「平家物語」における漢籍の受容 本 質 的 な 部 分(人 物 評 価 ・人 物 造 型 等)に つ い て 、 考 究 の 時 期 に きて い る よ うに 思 わ れ る 。今 回 の 論 考 は 「平 家 」 に 限 定 して 事 例 を考 察 して み た もの で 、周 辺 文 学 に つ い て は後 日稿 を改 め て 考 察 の 機 会 を も らい た い と考 え て い る 。 「平 家 」研 究 の専 門 家 の御 批 正 を受 け な が ら 、 更 に 考 察 を深 め て い く所存 で あ る 。 (1)今 成 元 昭氏 『平 家 物 語 流 伝 考 』 一 九 五 頁 (2)青 木 正 児 氏 『支 那 文 学 芸 術 考 』 四 七 頁 (3)今 成 元 昭氏 『平 家 物 語 流 伝 考 』 二 〇 〇 頁 ∼二 〇 四 頁 (4)山 下 宏 明氏 『平 家 物 語 の 生 成 』 二 八 一 頁 ∼二 八 六 頁 (5)今 成 ・山 下 両 氏 の前 掲 書 (6)今 成 氏 の前 掲 書 一15一

参照

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