近世演劇に描かれた菅原道真
一浄瑠璃作品を中心に一挑 偉 麗
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以 菅 原 道JI!均七人公的i高多浄琉璃作品中.人IfJ分 析 研 究 得 最 多 的 是 〈 天 神 記 〉 和 以 { 天 神 記 } 均 息 拙 改 編 而 成 的 《 菅 原 伝 授 手 習 鑑 } (以下略称均《伝授})。本文通iょI分 析 和 比 絞 三 郎 日 本 近 代 的 浄 琉 璃 作 品 ({天干111御111生記》、《天神記〉、〈伝授))和 一郎歌舞伎作品({天満宮3再検御供}). 考 察 了 各 作 品 中 日 本 国 学家背原道真的イ、│司形象。fEj主的作品中都有不少i主自菅原道真所吟 i~目的和歌手日以 li 現有研究成果中却彼少分析作者在 i主拝 i主
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近│出資庫JIに捕かれた菅原道真 一浄瑚耳著作品を中心にー は じ め に 本稿は近世演劇に描かれた菅原道真像を、四つの 演 劇 作 品 ( ﹃ 天 神 御 出 生 記 ﹄ ・ ﹃ 天 神 記 ﹂ ・ ﹃ 菅 原 伝 授 手習鑑﹄・﹃天満宮莱種御供﹄)の比較・分析を通し て 考 察 す る も の で あ る 。 道真を主役としてたびたび上演されてきた浄瑠璃 作品の中の道真像について、盛んに言及された作品 は 、 ﹃ 天 神 記 ﹄ 及 び ﹃ 菅 原 伝 授 手 習 鑑 ﹄ ( 以 下 ﹃ 伝 授 ﹄ 註 ー と略す)である。﹃伝授﹄は﹃天神記﹄を元に作ら れたと言われている。しかし、近松の﹃天神記﹄の 前に﹃天神御出生記﹄という作品がある。私が考察 した結果、﹃天神御出生記﹄も﹃伝授﹄に影響を与 えていたことが分かった。また﹃天神記﹄と﹃伝授﹄ の両作品を書替えた歌舞伎脚本の﹃天満宮菜種御 供﹄もあるが、あまり考察されていない。道真が作 品の中で詠んだ詩歌の引用のし方はそれぞれ作者達 の意図を示すものになるが、詩歌自体の研究はある が、それらが浄瑠璃作品で道真像を作り上げるに果 たした役割についての考察は見られない状態である。 したがって、私は﹃天神御出生記﹄と﹃天満宮菜種 御供﹄をも視野に入れて、この点を追求した。考察 した道真像をまとめて見ると、次のようになる。 ﹃天神御出生記﹄での道真は父性に満ちた一人の 人間である。作者はこのような人聞が神となった過 程を描き、桜が枯れることで道真の失脚を暗示し、 桜のような運命をたどった道真を強く印象付けよう 桂ー とするのである。﹃天神記﹄では、近松の対﹁異国﹂ 意識も入れられて、蓑文籍の登場によって、唐風雰 囲気が漂うようになっている。いわゆる当世風をも 配慮し、道真の手習いの神という近世の庶民に親し い一面を舞台に持ち込み、観客に共感を覚えさせて もいる。さらに学問の神でありながら、恐ろしい復 謹 3 讐の神である一面も印象的になったのである。 一方、﹃伝授﹄は先行作品を集大成し、三つ子兄 弟の巷説と﹁梅は飛び﹂の歌との一体化によって、 さらに道真を庶民にとって身近な存在にしたのであ る。﹃天神記﹄だけではなく、﹃天神御出生記﹄の
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三木の構造を取り入れ、﹁松﹂を重点に置いている。 全体的には、学問の神という高潔なイメージが強く、 復讐ではなく天皇を守るために雷神となったとする のは道真の天皇への﹁忠誠心﹂を描こうとするため で あ る 。 第19号 ﹃天満宮菜種御供﹄は前記三作品と比べて、新し いイメージを出すため、時平を中心として作劇して いる。その分、道真が作品中で影が薄くなってしまっ た。親友紀長谷雄の登場によって、道真の人間性を 追求していると思われる。﹃伝授﹄とあわせて天神 撞 -物 の ﹁ 双 壁 ﹂ と い わ れ る が 、 ﹃ 振 袖 天 神 記 ﹄ な ど 、 ﹃ 伝 授﹄以後の作品の影響も見られる。 以上のことを各作品中に引用されている漢詩と和 歌の効果を検討することによって確かめていきたい。 文 教 大 学 言 語 と 文 化 1主 内山美樹子氏﹁﹃菅原伝授手習鑑﹄などの合 作者問題﹂(﹃浄瑠璃史の十八世紀﹄所収)宮 本 瑞 夫 氏 ﹁ ﹃ 天 神 記 ﹄ を め ぐ っ て ﹂ ( ﹃ 近 松 論 集 ﹂ 注 2 第 五 号 ) 白 瀬 浩 司 氏 ﹁ ﹃ 天 神 記 ﹄ 小 老
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松 ・ 竹 ・ 梅 の 登 場 │ ﹂ ( ﹃ 文 学 研 究 ﹄ 七 二 巻l
日本文学 研究会)原道生氏﹁浄瑠璃に描かれた道真像﹂ (﹃国文学解釈と鑑賞﹂平成十四・四)松崎 仁氏﹃舞台の光と影│近世演劇新孜﹄(平成 十 六 ・ 五 ) ほ か 。 原道生氏﹁近松の対﹃異国﹄意識﹂(﹃国文学 解釈と教材の研究﹄第四五巻第二号二月号) 注2
の稿において原氏も指摘されている。 ﹃振袖天神記﹄は修士論文中に言及したが、 ここでは触れないこととする。 -174-(17) 注 注 4 3A 何と さむ くめ てらは 松はと lま?が,J:; つる れる な世 かの る中 らに 道 行 文 ん 近世演劇に描かれた皆目i道!IG 一浄f摺璃作品を中心にー :A"我な あにこ か や 君 しはが るほち くどが が み れ じひふ るのす らずとくゆ なをか るこむ み く しこば 迄 ず と とせ lこゑ なな てよ かを りり はむ へゆ てぬ るめ りく と共 なの みゆ ど わ花 第かしもく 道 行 文 めよ 三第すれ コな 段そ F主 春な主匂風吹東 柵君と筏 流 なひ は行れく わしを 波 す と こ か なに れ て せ ば り沈む そ よ て 第 梅 第止共 の ごめ 段 花 段よ A B 何と桜は梅 春梅風東吹 晩も 鳥な は な の のけ て枯飛ぴ わ花主 が 音 ば 松る 第 す か なのこ のる 四 れ な ば 閉そ 松王台所御道真つれの世 とひ え な中 てを ぬを 筑かに 、 皇 急。く 寺子屋北嵯峨段紫のんるら せ 第 の の よ 二 段 手交 B 主 匂 東Jl次'ft¥. 開別な 君我な なひ これけ しはが としを え を ぱ が み れ こか ぬ急鳥ぐこ らずとくゆ て せ ば 里 そ み く 華太高
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授Lけカ宮こし 習鑑 の り 春霞 段 3 春のこ日日昨跨街霞章段余草鏡砂只 天 立山に早年暮そは 三分計 撃法伝綬にけ句 が春霞L σコ 段作品中の漢詩と和歌の効果 四作品に取り入れられている漢詩と和歌をまとめ てみると表一のようになる。このうちから、今回は 三首の漢詩 ( l ・ 2 ・3 ) と二首の和歌 ( A と B ) を 中心に考察していきたい。 第19ザ ーの詩(月夜見梅花)について この詩は道真が十一歳の時に父に言われて詠んだ もので、次の引用一はこの詩の詞書である。 ア -r~f 訴と文化 { 引 用 一 ︼ 子時年十一。厳君、令田進士試之。予始言詩。 故載篇首。(﹃菅家文草﹄﹁月夜見梅花﹂) 本詩は、以下引用こから引用五までに示すように、 天神伝説の中で、実在した漢文学者である道真を描 写するために欠かせないものになっていた。 ︻ 引 用 二 ︼ ﹁さるほとに生年十一歳になりたまひけるに相 公斗斗叫判叫謝剖倒対計叫寸刈吋斗叫制川 文教大学 詞もかはかぬに月曜如晴雪梅花似照星 金鏡転庭上玉房馨とそ作ましましける﹂ ( ﹃ 天 神 縁 起 絵 巻 ﹂ ) 可 憐 ︻ 引 用 三 ︼ ﹁やがて十一歳になった時、相公がためしに﹁詩 剖倒寸寸ゴ叫刈斗け制叫叫利社。相公のことばが 終わるか終わらぬうちに、月光のもとで紅梅の色 を見て、にこにこしながら詩を作り上げた。月煙 如 晴 雪 梅 花 似 照 星 可 憐 金 鏡 転 庭 上 玉 房 馨 すこしも恐れげなく、さらりと作ったものであ る。矧劃柑到凶出制 U D 附 刻 、 引 料
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ま て│カ,、 ご長 こ│の と│むl は│め の!の し│、 たlかl近世演劇に拙かれた背広i道真 一浄瑠璃作品を中心lこー にて、カくっつりまたふ月曜如晴雪梅花似照星 可憐金鏡転地上玉房馨ちちのせうかうなみ たをなかし、ひさのうゑにかきのせ奉り、せんた んはふたはよりとそ、よろこひ給ふ﹂ ( ﹃ 天 神 本 地 ﹄ ( 横 山 重 ・ 太 田 武 夫 氏 校 訂 ﹁室町時代物語集﹄第一所収) ︻ 引 用 五 ︼ ﹁いまだ習はざるに道を得て、御才覚世にまた 比類なしと見え玉ひしかば、七歳の春のころ、刈 割桐到側割引州剖制廿剰叶寸 1 ↓割叫リ割引倒叫 叶 到 叶 刷 叫
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問叶討材叶剖制叫叶刈司、すこしも 案じ玉ふ御気色もなくて月曜如晴雪梅花似照 星 可 憐 金 鏡 転 庭 上 玉 房 馨 寒 夜 の 即 事 を 言 葉明らかに五言の絶句にぞ作らせ玉ひける。﹂ ( ﹃ 太 平 記 ﹂ ) ところで、﹃天神御出生記﹂では、父の是普も登 場しているのに、父に言われて詠んだのではなく、 天皇の勅誌によって詠んだ(引用六)というふうに なっている。これは、おそらく道真が小さい時から 天皇とかかわりを持つ存在であるということを表わ そうとしているのだろう。それまでの伝説より天皇 との関係をもっと深く結びつけているということが 言えよう。この点はまた第三段に、流罪と決めた道 真に対して宇多上皇が対面せず、道真が孤立してい るところと結びつくと思う。のちの三作品の中には 父親の是善という役は登場せず、もちろんこの詩も 取り入れていない。この作品では道真と宇多上皇と の深い関係が伺えるのである。 ︻ 引 用 六 } ﹁ す で に 年 月 か き な り て 。 か ん し ゃ う ぜ う 十 一 一 一 歳に成給ふ 0 ・ ・ ・ 中 略 ・ ・ ・ 内 よ り の せ ん じ に は 。 誠に其ものいまだようちの比よりならはざるに 道をさとり。さいち世にまれ成よし上ぶんにたつ したり。引什剖叫U
剖 寸 什 ゴ 寸 刻 叶 叶 刈 叫 引 剖 パ 判 吋剖科目引判什叫引引制刈叫叶刈刈リ引引剖引叫 叶叫料引刈引判川同州パ川。月のひかりははれたる 雪のことし。ばいくわはてれるほしににたり。あ はれむべききんきゃうめぐってていしやうにぎ -171 (20)よくほうのかうばしき事と。かんやのそくじをこ とばあきらかに。五ごんのぜっくにつくらせ給へ ば。みかどぎよかんななめならず。﹂ ( ﹃ 天 神 御 出 生 記 ﹄ )
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の詩(託宣詩)について 近松の﹃天神記﹄に取り入れられているこの詩は 道真の作ではない。一条天皇朝に正一位太政大臣を 追贈された時の天神の託宣(御神託)と伝える詩で ある。﹃菅家後集﹄、﹃北野天神縁起﹄などには収録 されている。引用七から引用十まではこの託宣詩と 呼ばれている詩を取り入れている先行作品である。 ︻ 引 用 七 ︼ ﹁群議にて、剛到制珂↓倒対制対回剖引樹剰川 副司斗叫劇同州閣制例剖紺川副叫引叶対 1 制 剖 劃 謝刻川川引。昨為北開被悲士今作西都雪恥屍 生恨死歓其我奈今須望足護皇基可制割引同出 川↓劇制誠明副者割引同1
斗出制厨明調剖刈剖剖 桝例記U
割引制創出引倒出別叫向調叫州制刷出 イ 第19号 言語と文化 文教大学 に 霊 ( ﹃ 天 神 縁 起 絵 巻 ﹄ ) ︻ 引 用 人 ︼ ﹁同じく延暦五年、つづいて正一位太政大臣大 相国を贈位されたが、これも石の面に彫って、御 廟の上に立てられていたということである。この 時になって天神の心は平静に戻り、剰倒制制叫べ川 剖川矧湖刷剖司リ割剖寸剖制対剖劃州剖討。昨は北 闘にして悲しみを被る士となり今は西都にし て恥をそそく屍となる生の恨み、死の悦び、そ れ我いかん今はすべからく望み足りぬ、皇基を 護 る ベ し 。 ( ﹃ 神 道 集 ﹄ ) { 引 用 九 ︼ ﹁昨為北開被悲士今作西都雪恥屍生恨死歓 其我奈今須望足護皇基 御はう御きたういみしく、かんたんをくたきて 申させたまひけれは、かんせうしゃう、御心やは らかせたまひけるにや、ゃうやうそらはるるかと -170-(21)近!止法庫JIに描かれた菅原道真 一浄f留硝作品を中心にー おもへは、いなつまいかっちも、すこししつまり ぬ、御はうすいきのなみたをなかしたまふところ に、雲のうちより、かんせうしゃう、にうなんの 御すかたにて、みえさせたまひて、きのふはほっ けつにして、かなしみをかふむり、いまはせいと にして、はちをきよむかはねとなり、いきてのう らみ、ししてのよろこひ、それわれをいかん、す へからく、くわうていをまもりたてまつるへしと て、雨はれぬ、かみそあからせたまふなる。﹂ ( ﹃ 天 神 本 地 ﹄ ) 弘誓の海深うして、群生済度の船かの彼岸に至ら ずといふ事なし。垂紘一を問ひ奉りし者は、天万天 神の応化の身、利物日新たに一たび来る結縁の人 は、所願心に任せて、成就せずといふ事なし。こ れも以て上一人より下万民に至るまで、渇仰の頭 を 傾 け ず と い ふ 事 な し 。 ﹂ ( ﹃ 太 平 記 ﹄ ) 次に﹃天神記﹄の引用箇所を見ておきたい。 ︻ 引 用 十 一 ︼ ﹁黒雲さっと晴れ渡り日輪光り明らけき。帝は 菅家の一家を召れ御悦有所に。劃矧矧剖闘凶リ寸 昨日は北闘に。悲しみを蒙る士と成。今日は西都 に恥を清むる屍と成。生ての恨み死しての悦び。 共に我を如何今すべからく。皇基を守るべしとの 給ふ息は金色に。南無天満大自在天神と。九字の 文字に顕はれ異香花降り光放ち。音楽天に響きけ り。雲は錦の帳と覆ひ。文字は則束帯の。御正体 尊くも老松。飛梅。色香を添へ生けるがごとくに。 拝 ま る る ・ ・ ・ ・ ・ ・ 司 ↓ 倒 対 制 対 回 訓 叶 劇 倒 瑚 割 削 司 刊 は り川町北野に一夜の千本松。﹂(﹃天神記﹄) -169ー (22)
第19号ー ﹃天神記﹄がなぜこの詩を用いたのかというと、 道真が恐ろしい復讐の神となったという本作の設定 から見て、神詠ともいうべきこの詩を利用したほう がより効果的だと近松が考えたからかもしれない。 作品の中では、まず﹁悲しみを蒙る士﹂として無実 の讃言を受けた道真の悲しさを描写し、その後﹁恥 を清むる屍﹂としての道真の復讐を鮮明に描いてい る。最後に﹁皇基を守る﹂天神となったのである。 言い換えれば、この漢詩は物語の流れを導き、﹁画 竜点晴﹂のような役割を果たしていると考えられる。 ﹃天神記﹂という作品は漢文学者である道真を強 調し、全編に唐風の趣が漂っていると思う。これを 証明するには、この託宣詩だけでは足りない。引用 十二に﹁二葉より芳し﹂という表現がある。引用三 の波線部を見ると分かるように、この表現は﹃神道 集﹄で、道真に対する父親のほめ言葉となっている。 近松はこの表現を受けながら、さらに、一番目の詩 を合意させ、さらに引用十二の波線部分で、引用 十三に示す﹃菅家後集﹄にある﹁梅花﹂の詩の一部 言語と文化 文教大学 をも採り入れている。このように近松は四作品中一 番多く漢詩を意識し、漢学者道真を描こうとしてい る と 思 わ れ る 。 ︻ 引 用 十 二 ︼ ﹁出最開制判制対叫耕配所千金の吟ゴ割判り 割リり。口帝劇刷困酎劃州開。王佐の文一天に輝 き。梅が香深き菅原や。天満神の威徳こそかしこ き国の。守りなれ。﹂(﹃天神記﹂・第一段) ︻ 引 用 十 三 ︼ 宣風坊北新栽処 人是同人梅異樹 -168ー (23) 3 ﹁春浅帯軽寒﹂の詩について この漢詩は﹃菅家文革﹄にあり、道真五十三才、 寛平十年の作である。﹃和漢朗詠集﹄にも引用十四 のごとく撰集されている。和歌は﹃拾遺和歌集﹄一 に﹁霞をよみ侍りける﹂とあって山辺赤人の歌とす るが、﹃和漢朗詠集﹂では人麻呂の歌となっている ウ
近世演劇に捕かれた菅原道真 一浄瑠璃作品を中心にー も の で あ る 。 ︻ 引 用 十 四 ︼ 鑓沙草只三分計 跨樹霞韓半段余。﹁春浅帯軽案、﹂菅原道真 昨日こそ年は暮しが春霞春日の山に早立にけり 柿本人麻呂(﹃和漢朗詠集﹂春霞) まず、﹁伝授﹂では引用十五の点線部により、﹁和 漢朗詠集﹄から取り入れたと考えられる。この詩歌 は当時の人々によく知られていたものだと思われる。 おそらく寺小屋の習字の授業ではこの詩歌が使われ たのかもしれない。本作に引用された詩歌全体から 見ると、この組み合わせ以外道真の詩を使っていな い。しかもこの組み合わせにある漢詩はただの筆法 伝授のための道具に過ぎない。引用十五にあるよう に、この詩歌の内容が劇の進行と関わらず、それほ どたいした役割を果たしたとはいえない。ここに道 真のほかの詩句を入れ直しても、道具としては全体 的なバランスに影響はないと思う。題名の通り、手 習いの神という道真を強調しているのである。 ︻ 引 用 十 五 ︼ ﹁ここにて書かせ道真が所存は跡にて云聞きん。 認置いたる真字と仮字。詩歌を手本に写し見よ﹂ ﹁丞相清書を取上給ひ。錆沙草只三分計。跨樹 霞綾半段余。是は我作れる詩。昨日こそ年は暮し が 春 霞 春 日 の 山 に 早 立 に け り 。 是 は ま た 川 判 例 日 目 詠 明。パオ刈叫判制州叫剖制川村吋ぺ叶斗吋割引剖 d 剥 割 引 司 剥 叫 捌 リ 割 叶 刻 叫 パ 川 o ﹂ ( ﹃ 伝 授 ﹄ ) 次に﹁天満宮菜種御供﹄ではどのように書替をし た の だ ろ う か 。 ︻ 引 用 十 六 } ﹁久方・・オォ、源蔵、そなたの嘆きは道理道 理。さりながら嘆きの中の悦びとは、 そなたの身の上。菅原の家の秘書を 伝授なされんと、自らにお渡しなさ れた。そなたに渡し、道真が心を推 量せよとの、くれぐれのお言葉。 菅秀才・・コレ、源蔵。この一巻をそなたに遺 る程に、どうぞ父上様の御座なさる -167 (24)
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原 る、配所とやらへ連れて往てくれい。 頼むわいやい。 蔵・・ァ、申し申し。そりゃ御伝授の一巻 久 でござりますか。 方 ・ ・ さ う ぢ や わ い な う 。 蔵 菅 原 の 御 伝 授 の 秘 書 を 下 さ る る か ら は、昔に変わらぬ主従。御勘当はお 赦しでござりますか。 方・目さればいの。伝授は伝授、勘当は勘 当と事を分けたるお言葉。マア、何 にもせよ、その書物を披見しゃいなう。 蔵・ハア、然らば。 砂を切る草只三分ばかり、村叫剖間引 霞僅か半段余り。これは御前様の唐 歌。昨日こそ年は暮れけれ春霞、春 日の山にはや立にけり。これは人丸 の詠歌。いづれも早春の心を詠み叶 へ、此伝授の巻を我に与へ、道真公 の御心底を察せよと。ムウ、真名とi
原 久 j原 仮名を認め、源蔵へ下されしは。君 叫剰刺りリ寸1
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削り倒﹄叫刑制剖剖叶、我君 の心を龍め給ひし此一番、此一巻も 伝授の巻。ェェ、有難や、恭や。 方--オオ、さすがは源蔵、我君の御安心。 御心底を察せし上は、いよいよ菅秀 才 が 事 を 頼 む ぞ や 。 ﹂ ( ﹃ 天 満 宮 菜 種 御 供 ﹂ ) ここでは源蔵がこの詩と和歌に託した道真の真意 を見事に解き明かすことになっている。この筆法伝 授の場面は、もちろん﹃伝授﹄をそのまま踏襲して はいるのだが、詩歌の内容を現実の菅秀才の身の上 にたとえ、また詩歌を通して、道真の心底を推し量 -166-(25) 久近世ti京劇lこ儲かれた'1"j=!I;(j[f点 -i'Mli'lJ,出作品を小心に ることなど、前後の場面のつながりと物語の進展を 意識した取り入れ方で、作者が書替をした機知が伺 える。ただ、ここでなぜか﹁木に跨る﹂が﹁木に誇 る﹂と変わっている。後に﹁無実の難は木にほこる 霞に似たり﹂とあるので原詩を誤読したか、あるい は、説明の内容が、﹁菅家の誇りである菅秀才﹂を 表明しようとしているから、わざと変えたのかもし れない。いずれにしても、 3 の、漢詩と和歌との組 み合わせは﹃伝授﹄以前の作品では取り入れていな いから、道真像を描き出すに当たっての作者たちの 工 夫 が 感 じ ら れ る 。 次に和歌の部分に入りたいと思うが、この五首の 和 歌 の 中 の 、 A と
B
は初期の天神記物には見えない ものである。ここでは、私の発見といえる部分に絞っ て 進 め た い と 思 う 。 ﹁梅は飛ぷ﹂の歌について ﹁梅は飛ぶ﹂の歌は文字通り、道真にまつわる飛 び梅伝説、追い松伝説、枯れ桜伝説に基づいたものエ
A である。﹃天神御出生記﹄では、道行文の中に出て い る 。 { 引 用 一 七 ︼ ﹁誠にやさしゃふるさとにのこせしむめのねん つうじて。我にしたがひとびくる事。さうもくな がらきどくやと御悦びはかぎりなし。今の世迄も さいふのとぴむめ是とかや。心なきひじゃう也と はいひながら。叫叫叫叫UU
り判川剖剖判叶倒叫 叫叶剖科叫刈叫ォ﹂リ州叫制叫州り剖 むめはとぶさくらはかるる世の中に何とて松 はつれなかるらん と詠じ給へは。ふしぎゃなはるかのおきにみへ けるは。それかあらぬかいかにぞと。おのおのそ らをみ給へは。ゑだもたははにおひ松の。風した がひ来りしはなふきたい成ける有様也。まっせに 残るしんぼくの。おひ松とはこれ也けり。﹂ ( ﹃ 天 神 御 出 生 記 ﹄ ) 道真は飛んできた梅の木をみて、この和歌を詠む のである。その直後松も飛んできたので、ただ単に -165-(26)第19ザ 従来の﹁飛ぴ梅伝説﹂と﹁追い松伝説﹂の説明となっ ているが、梅と松が道行く船に止まり、ともに配流 の地に向かうことは、いかにも主人と難儀をともに する有情で忠義な家来のように思われる。 一方、この歌の前後に桜の話は出ていない。一見 桜を忘れているようであるが、実は作者は忘れてい ないのである。第三段では、道真が無実の罪で配流 の身となったことを御台所に知らせる前に次のよう な 光 景 が 描 か れ て い る 。 ︻ 引 用 一 八 ︼ ﹁かくとはしらで。きたのの御所には。みだい 所や若君は。こうばい殿に立入て。花をながめて おはせしが。判
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剖劇州剖剖州川剖刈 のこずゑ。たちまちか し だ い 也 。 ﹂ 言語と文化 文教大学 しさくら し﹄みしはきたい成ける ( ﹃ 天 神 御 出 生 記 ﹄ ) 咲いている桜が急に枯れてしまって、そこへ道真 の知らせがきたのである。つまり道真の失脚した時 点で、桜は枯れてしまうのである。よって私は本作 品で道真の失脚の前触れとして桜が枯れてしまうこ とになると思う。ここでは道真の運命は、桜が枯れ ることを通して物語られている。この点では、従来 の枯れ桜と違って、桜 H 道真というような発想にし たのである。三木が出る順番をいうと、 桜が枯れる←梅が飛んでいく(﹁東風吹かば﹂の 歌による)←松が追ってくる(﹁梅はとぶ﹂の歌に よ る ) の よ 、 つ に な る 。 次に﹁伝授﹄でのこの歌は、どのような役割なの だ ろ 、 っ か 。 ︻ 引 用 一 九 ︼ a ﹁側側劃樹州叫可ポリ剖制州樹刊剖州司剖 謝州制凶制伺州樹到﹃﹂羽瑚叫判斗寸剰刺剖相同 調閣制附樹川村叶討伺剰倒叫岡剖り剖剥柑剖剥 叫け剖斗柑叫調劃引制司州剰。梅は飛。桜は枯 る世の中に。何とて松のつれなかるらん﹂ (第四筑紫配所の段) b イヤなふ山伏の業ではない恐ろしい夢を見て。 -164-(27)近 世 演 劇 に 怖 か れ た
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・HR道 真 -i争ImJ~.JiHI,を小心にー 動気が今に納らぬ。其夢の物語。春も八重も聞 てたも。所は宰府安楽寺。連合の御秘蔵が筑 紫へ飛梅。梅王丸も一時下り合せた御悦び。梅 は飛桜はかる、世の中に。何とてまつのつれな かるらんと即座の御詠歌。一字も忘れず覚しは。 物の知らせの正夢か。 (第四北嵯峨隠れ家の段) C ﹁小太郎が母涙ながら。若君菅秀才のお身代り。 お役に立て下さったか。まだか様子が聞たいと 言ふにびっくり。それはそれは得心か。得心な りやこそ。この経雌子六字の幡。ムウして其元 は何人の御内証と。尋る内に門口より。梅は飛。 桜は枯るる世の中に。何とて松のつれなかるら ん。女房悦べ。世体はお役に立ッたぞと。﹂ ﹁菅丞相には我性根を見込給ひ。何とて松のつ 刈剖村叫判制との御歌を松はつれないつれない と 。 世 上 の 口 に か か る く や し さ 。 ﹂ ( 第 四 寺子屋の段) ﹃伝授﹄においては﹁梅は飛び﹂の歌が三回詠ま れていて、まず三木の伝説を示し、そのあと御台所 が口にしてもう一回イメージを強くさせて、最後に なぞを解くというように、本歌はこの作品でもっと も重要な役割を果たしている。﹃天神御出生記﹄か らヒントを得たことは次の図 A-B で 分 か る と 思 う 。 図 A 桜が枯れる(道真の失脚)←梅は飛ぶ が喜ぶ)←松はなぜかつれない(松も飛んで く る ) │ ﹃ 天 神 御 出 生 記 ﹂ 桜が枯れる(桜丸切腹)←梅は飛ぶ(梅王が 到来、道真が喜ぶ)←松はなぜかつれない(松 王 実 は 忠 義 ) │ ﹁ 伝 授 ﹄ 163-(
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( 道 真 図 B ﹃伝授﹄では﹁梅は飛ぶ﹂ではなく、﹁梅は 飛び﹂と連用形になっているが、これにはどのよ うなニュアンスが含まれるのだろうか。﹁梅は飛ぶ﹂ とは梅、桜、松のそれぞれの状況を同じレベルで述 べる。それに対して、﹁梅は飛ぴ桜はかるる﹂とは、 ま た梅と桜をひとつのグループにいれたのである。つま り、従来の三木の比較ではなく、﹁梅桜﹂と比べて 松はどうなるかという問題になっていると私は考え て い る 。 第19号 この歌を道真の悲しみと嘆きを強調するのに使う ﹃天神御出生記﹂と比べ、﹁伝授﹄は天皇に忠誠であ る道真の春属の﹁忠誠心﹂を表すのに使われている の で あ る 。 言諾と文化 文教大学 ﹁鳴けばこそ﹂の歌について この歌は室町期の﹁道明寺記﹂の中の記事が典拠 で あ る と 思 わ れ る 。 ︻ 引 用 二 十 ︼ ﹁ ﹄ 叫 吋 寸 叫 淵 斗 什 剖 訓 叫 劇 尉 叫 財 閥 斗 刈 叶 刈 叶、丞相、なけはこそわかれも、つけれ鳥の音のな からんさとのあかつきもかなと詠したまひて、立 オ B ( ﹃ 道 明 寺 記 ﹂ ) また延宝七年(一六七九)﹃河内国名所鑑﹄四の ﹁道明寺﹂にも見える(引用二こ。 出 た ま へ り ﹂ ︻ 引 用 二 ニ ﹁菅丞相つくしへさすらへの時、御いとまごひ に立よらせ給ひしとなり、其夜鶏かしがましくや おほしけん、なけばこそ別れをいそげ鳥の音の聞 こえぬ里のあかつきもがなと詠じ給ひけると ぞ、それより此里に鶏をかはずと申伝ふる﹂ ( ﹃ 河 内 国 名 所 鑑 ﹂ 四 の ﹁ 道 明 寺 ﹂ ) この歌については次の引用二二で、﹁瑠璃天狗﹄ が菅公の作であることを否定している。 ︻ 引 用 二 二 ︼ ﹁これは決して菅家の御詠にはあらず後の世の 人 の 別 恋 の 歌 な る べ し ﹂ ( ﹃ 瑠 滴 天 狗 ﹄ ) ここでこの歌が道真の作かどうかについて言及で きないが、なぜこの歌が生まれて、道真と結びつい たのかは探っておきたいと思う。確かに天神信仰の 諸形態の中に鶏と天神を結びつけたものはないが、 道真の漢詩集﹃菅家文草﹄を見ると、鶏が鳴くこと、 暁になることを恨めしく思う漢詩が、以下三首挙げ
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ら れ る 。近 世i寅車JIにj8i7'J、れた菅原道-1¥ 一浄瑠 f~4 作品を 11~1 心 l こ ︻ 引 用 二 三 } ① 巻 第 三 一 九 六 秋 夜深山路樵歌罷閥附憐隙隙陣恒 (殊に恨むらくは隣鶏の暁を報ぐることの遅き こ と を ) ② 巻 第 五 三 四 六 各分二子、鷹製 恐結橋思傷鵠趨陳惟同険阻悌陣 (駕を催さむことを嫌ひては鶏の聾を唖ならし めまく欲りす) 三 八 O 七月七日 代 牛 女 惜 暁 更 、 ③ 巻 第 五 賦 雨 夜 紗 燈 磨 製 紗燈一鈷五更廻杯闘闘閥岡阿附一 (紗燈一貼五更廻る索、鶏暁漏の催すことを 要 せ ず ) ( ﹃ 菅 家 文 草 ﹄ ) 三首とも鶏と関係している。①の詩は八八六年左 遷された讃岐で始めての秋を迎えた時期の詩であ る。鶏が鳴くのを遅く感じ、早く夜が明けて欲しい と、左遷の地のわびしい夜を生々しく表している。 ②と③は道真が再び京に戻ってからの応制の詩であ る。このうち②の詩は牽牛織女を代言するつもりで はあるが、﹁嫌催駕欲唖鶏撃﹂(鶏鳴を合図にして牽 牛星との別れのときがきて、織女のために乗り物が 用意されるのを嫌って、鶏を唖にしてしまいたいと 思う)の意味は﹁鳴けばこそ﹂の歌の意味とはほぼ 同じなので、﹁鳴けばこそ﹂の歌はこの詩からでき た可能性も高いと考えられる。 ﹃菅家文革﹄と﹃天神記﹄│﹁夢・詩・衣冠﹂
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最後に、近世において浄溜璃は古典をどのように 利用し、作品に変化をもたらすのかを見てみたいと 思う。その一つの例として、﹃天神記﹄を上げるこ と に し よ う 。 冒頭に書いたように、﹁天神記﹄は唐風趣味に満 ちている。この点については、これまであまり指摘 されていない。近松が﹁梅﹂に象徴される道真を描 こうとしているのは初段初めのせりふからも分かる。 ﹁好文木﹂、﹁渡唐天神﹂などの伝説のほかに、斐文籍という人物の登場は作品の﹁中国的雰囲気﹂をさ らに徹底させているようである。 装文籍とは、融海国の使節だった装顧(文籍院少 監正四品)のことを指している。道真の詩集﹃菅家 文草﹄に装顧と関係のある詩が以下の如く十四首見 ら れ る 。 ︻ 引 用 二 四 ︼ 一
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四去春詠湖海大使、輿賀州善司馬、贈答之 数篇。今朝重吟、紀十二丞見和典客国子 寄之長句、感而翫之。柳依本韻。 重依行字、和装大使被訓之什 過大使房、賦雨後熱 酔中脱衣、贈装大使、叙一絶、寄以謝之 二十八字、謝酔中贈衣。蓑少監、訓答之 中、似有謝言。更述四韻、重以戯之。 依言字、重訓装大使 夏夜於鴻臆館、銭北客帰郷 訓斐大使留別之什 見湖海装大使真図、有感 E言語と文化第 19-~J一
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九 文教大学 O一
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( 以 上 巻 客館書懐、同賦交字、呈湖海装令大使 自此以後七首、予別奉勅旨、輿吏部紀侍 郎詣鴻臆館、柳命詩泊。大使思奮日主客、 将賦交字。席響磨、唱和往復。来者宜知之。 答装大使見訓之作 重和斐大使見訓之詩 和装大使交字之作 夏日銭湖海大使帰、各分一字 ( 以 上 巻 五 ) これらの詩は蓑大使が二回融海国の使節として、 来日したときの詩である。一回目のとき、当時道 真は三十九歳で、加賀権守を兼ねる。その三年後 (八八六)に讃岐国へ左遷された。二回目は寛平六 年(八九四)のことである。当時の道真は五十歳で、 遣唐大使に任ぜられたが、自ら遣唐大使派遣中止を 進言し、二陛紀にも渡った遣唐使を廃止させたので ある。遣唐使廃止の書状には寛平六年九月十四日と 書いている(引用二五)。 四 九 四 二 O 四 四 四二五 -160-(31)近世演劇に捕かれた菅原道県 i~持E留7出作品を rj'{、 lこ ︻ 引 用 二 五 ︼ ﹁寛平六年九月十四日大使参議勘解由次官従 四位下兼守左大弁行式部権大輔春宮亮菅原朝臣 某 ﹂ (﹁菅家文草﹂│﹁請令諸公卿議定遣唐使進止状﹂) 一方、斐顕は遣唐使廃止まもなく十二月二十九日 (同川口氏による)に来朝した。道真の唐に対する 思いはおそらく湖海国の使節で親友である装大使に 寄せたのだろう。 ﹃天神記﹄の第一段に、夢の中で唐に渡って、装 文籍と詩を交わし、唐の衣冠を貰ったという場面が ある。道真が唐に渡るのは従来﹁渡唐天神﹂の伝説 によると考えられているが、道真の詩には﹁夢・詩・ 衣冠﹂というキーワードの詩が見える。 ︻ 引 用 二 六 ︼ 自送斐公万里行 員圃針我無詩興 相思毎夜夢難成 恨写衣冠不写情 ( ﹃ 菅 家 文 草 ﹄
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、、~ この詩から、道真は斐顧と別れてから、いつも彼 の絵を見て、友人を慕っていたことが伺える。そ のような日々を送る道真なので、﹁天神記﹂のよう な仕組みが生まれるのも当然だと考えられる。また、 衣冠をもらうことについては、巻二の一O
八の﹁酔 中脱衣、贈斐大使、叙一絶、寄以謝之﹂の詩から、 道真が酒を飲んでいるとき自分の服を脱いで斐文籍 に送っていることがわかる。近松はこれらをもとに して作品を作り上げたといえよう。 このように、道真は湖海使節である斐大使とは非 常に親しい友人であったことがわかる。近松はこの ようなことを承知の上で、斐文籍を登場させたりだ ろう。しかし、唐風に満ちているといっても、異様 な感じがする。斐文籍は史実で道真とは仲のいい友 達にもかかわらず、彼に悪役を担わせたのである。 これについては、近松の﹁対奥田意識﹂にかかわる と思うが、ここでは触れないことにしよう。-159-(
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第 19-~j・ ︻ 追 記 ︼ このたび、小論を仕上げることができ、指導して くださった平田澄子先生に感謝申し上げたい。また 文化財研究所で研修したことはとても浄瑠璃の勉強 に役立った。鎌倉恵子先生と内山美樹子先生にもご 指導をいただいた。ここで感謝の意を表したい。今 後も浄瑠璃の勉強を続けていこうと思う。 n;;f~ と文化 参考文献
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印 は 引 用 一 1 二六の本文資料として用いたもの) ﹃アジア遊学﹄四勉誠出版一九九九年五月発行 ﹁怨霊と修験の説話﹂南里みち子ぺりかん杜 一九九六年十一月発行O
﹃菅家金玉抄﹂国文研究資料館内閣文庫所蔵O
﹁菅家瑞応録﹄東北大学図書館蔵マイクロフィルムO
﹃菅家文草菅家後集﹄川口久雄注目本古典文 学 大 系 岩 波 書 庖O
﹃源平盛衰記﹂神田陣朗 文教大学 芸林舎 昭和五十年 十二月発行 ﹃講座日本の演劇四近世の演劇﹂諏訪春雄・菅 井 幸 雄 編 勉 誠 杜 一 九 九 五 年 発 行O
﹁古浄瑠璃正本角太夫編第二﹂古浄瑠璃正本集 刊 行 会 大 学 堂 書 庖 平 成 四 年 十 月 二 十 四 日 初版発行O
﹃今昔物語集﹄新日本古典文学大系岩波書店 一九九六年一月発行 ﹃浄瑠璃史﹄黒木勘蔵青磁杜一九四三年発行O
﹃ 浄 瑠 璃 集 ﹄ 日 本 古 典 文 学 全 集 小 学 館 昭 和 六十一年三月発行O
﹃ 神 道 集 ﹄ 貴 志 正 造 平 凡 社 一 九 六 七 年 発 行 ﹃神道集説話の成立﹂福田晃三弥井書庖 五十九年五月発行O
﹃近松浄瑠璃集﹂新日本古典文学大系 一九九三年九月発行 ﹃近松の天皇劇﹂森山重雄 年一月発行O
﹃ 天 神 縁 起 絵 巻 ﹄ -158-(33) 昭 和 岩波書店 一三書房 九 /¥. 新修日本絵巻物全集・別巻ilJ:III:i'cifl~IJ I ニ ~.Ni かれたれI!;(j百六 一i争fmJ/}.if'I=,ldlを小心にー 在外篇)島田修二郎角川書庖 ﹃ 天 神 縁 起 の 歴 史 ﹂ 雄 山 閤 笠 井 昌 昭 四十八年十月発行 ﹁天神信仰﹂村山修一一編雄山間出版一九八三 年発行 ﹃天神信仰の成立│日本における古代から中世へ の 移 行 ﹂ 河 音 能 平 塙 書 一 房 二
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三年三 月発行 ﹃ 日 本 漢 詩 人 選 集 菅 原 道 真 ﹂ 研 文 出 版 一九九八年発行 ﹃日本三大実録﹄新訂増補国史大系四吉川弘文 館 一 九 六 六 年 発 行 ﹃日本庶民文化史料集成﹄第七巻芸術史研究会 編一二一書房O
﹃日本霊異記﹄日本古典文学全集六 和五十年十一月発行 ﹁念仏芸能と御霊信仰﹄大森恵子 一九九二年六月発行 ﹃振袖天神記﹄狩野文庫 昭 和 小学館 名著出版 H百 ﹁ 御 霊 信 仰 ﹂ 発 行O
﹃室町物語集上﹂新日本古典文学大系 岩波書店一九八七年七月発行 ﹁和歌威徳物語﹂橘つり編古典文庫一九八O
年出版 ﹁近世の文学と信仰﹂諏訪春雄著毎日新聞社 昭和五十六年五月発行 ﹃国文学解釈と鑑賞﹄第六十七巻四号至文堂 二OO
二年四月発行 ﹁国文学解釈と教材の研究﹄第三十七巻十二号 学燈社平成四年十月発行O
﹃ 新 編 日 本 古 典 文 学 全 集 太 平 記 ﹂ 小 学 館 一九九六年三月発行O
﹃ 新 編 日 本 古 典 文 学 全 集 大 鏡 ﹄ 小 学 館 一九九六年六月発行 ﹃菅原道真物語と史蹟を尋ねて﹄嶋岡最著成 美 堂 二OO
二年発行 ﹃天神様の美術﹄東京国立博物館・福岡市博物館・ -157-(34) 柴田賓 雄山間 昭和五十九年五月 五 四大阪市立美術館二