伊能 図 に基 づ い た イギ リス製 日本 沿海 図
保
柳
睦
美*
British Preliminary " Chart of Japan and Part of the Korea " Compiled from Map
By
Mutsumi HOYANAGI*
Abstract
In 1861, following the Treaty of Yedo in 1858, HMS Actaeon and Dove , assisted by
the gunboats
Algerine
and Leven, visited Kanagawa
(Yokohama)
and asked the
Toku-gawa Government
the permission of surveying the coast south and westwards
to
Naga-saki.
The Government
was in a difficult situation, because it was well aware that
anti-foreign feeling ran in the coastal districts.
Therefore,
Japanese officials were appointed
to serve on each of the four ships to meet emergencies.
The officials took with them a
copy of the Japanese
map-a
small-scale
map in three sheets produced
by Tadataka
(Chilkei) Ino's survey-which
attracted
the attention
of Commander
Ward,
captain
of
Actaeon.
He found that the map was so correct
and that he could hardly
improve on
it.
Through
Sir Rutherford
Alcock,
the Ambassador,
he obtained a copy and it was
used to complete the coastline
on the relevant
Admiralty
charts,
without
getting
into
trouble with the people of the coastal districts of Japan.
The story was certified by a diary of one of the appointed officials and it has been
told with great pleasure in many biographical publications
of Tadataka Ino since Meiji
era, placing
the emphasis upon the fact that the scientific accuracy and reliance of Ino's
map were proved by the British
surveyors
and cartographers.
Unfortunately , the fire
caused by the Kanto Earthquake
in 1923 destroyed the archives Hydrographic
Department
of Japanese Navy, of Tokyo Geographical
Society, etc., and many charts and documents
were lost, and little has been known about the copy of Ino's map brought to England by
the squadron and the chart produced according to it.
In 1951, N. Pye and W. G. Beasley informed
in the article of " An Undescribed
Manuscript Copy of Ino Chukei's Map of Japan " (Geogr. Journal,
117, p. 178-187) that
the coastline of the chart produced by the Admiralty
(Chart No. 2347, published 15 May
1863) was based on the Ino's map and that the manuscript map of Japan is now on
per-manent loan to the National Maritime Museum at Greenwich,
and geographers
and
car-tographers of Japan have been very much pleased by this information.
Recently, through
*
立教 大学文学部地理 学教授
伊 能 図 に基 づ い たイ ギ リス 製 日本 沿 海 図 225
the kindness
of Mr. L. N. Pascoe of Hydrographic
Department,
Ministry
of Defence,
United Kingdom, the photographic
copies of that chart as well as of " Seto Uchi " were
sent to Hydrographic
Division, Maritime Safety Agency of Japan, and the author had an
opportunity
to examine these charts (Fig. 3, 4, 5, 6.).
The author illustrated firstly how the coastline of Japanese Islands was correctly
im-proved in these charts as compared
with the former Admiralty chart of Japan, which
was compiled from Krusenstern's
Atlas in 1827 with some corrections
afterwards
and
published
in 1862 (Fig. 1, 2.).
Secondly the author reviewed some part of the
discus-sions made by N. Pye and W. G. Beasley in 1951 and answered to the questions
concern-ing Ino's survey and the map raised by them. And lastly reviewed relevant part of L. N.
Pasco's detailed report in 1969 under the title of " The British Contribution
to the
Hyd-rographic Survey and Charting of Japan 1854 to 1883 ".
The author is indebted to Dr.
Kiyoshi Kawakami,
Chief Hydrographer,
Maritime Safety Agency of Japan for his
kind-ness in making available the sources.
1. 日 本 側 の 資 料 明 治 15 年 (1882) に 当時 の 元 老 院 議 長 佐 野 常 民氏 が,東 京 地 学 協 会 で行 つ た伊 能 忠 敬 に 関 す る講 演1)の な か で, 「わ が 国,英 国 と和 信 条 約 を締 結 す る の ち,同 国人 わ が沿 海 を測 量 せ ん こ と を請 う。 幕 府 こ れ を 拒 む に,強 い て 止 ま ず 。 こ こに お い て幕 府, 翁 が 図 を与 え た り しに,か れ これ を実 験 す る に,毫 末 の差 な き を もつ て,す な わ ち測 量 を止 め,大 い に わ が 国, 早 くす で に こ の精 密 な る測 量 を な した る 者 あ る に 驚 嘆 せ り。 当 時, 鎮壤 の説, 盛 ん に わ が 国 に行 わ る 。 も し翁 の 図 な か りせ ば,英 人 測 量 の こ と を止 めず 。 そ の船 艦 わ が沿 海 の港 湾 に進 航 し,諸 藩 との葛 藤 を生 じ,つ い に和 親 を破 る に至 りし も ま た測 るべ か らず 。 然 る に そ の こ とな か り しは,ま こ とに翁 の余 功 とい わ ざるべ か らず 。 数 年 の の ち,英 人 わ が 沿 海 の 測 量 図 を製 す るに あ た り,た だ そ の深 浅 を測 る に と どま り,他 は こ と ご と く翁 の図 に よ り,も つ て そ の 労 を省 くとい う。 これ す な わ ち こ こに 陳列 す る とこ ろ の英 図 に して,そ の表 題 中, 日本 政 府 の 測 量 図 に よ る と 明 記 せ り。」 と述 べ て い る。 この こ とは,明 治16年 1 月に東 京 地 学 協 会 長 能 久 親 王 の名 にお い て上 呈 され た 。 忠 敬 に 正 四 位 を追 贈 す る こ とを請 願 した文 中 に も簡 潔 な が ら挿 入 され て い るが, さ らに大 正 3 年 (1914) に 長 岡 半太 郎 博 士 が東 京 地 学 協会 で行 つ た講 演2)の な か で も。 「そ れ か らま た お も しろ い こ とが あ ります 。 文 久 元 年 にイ ギ リス の測 量 船 エ クテ オ ン 号 が 参 りま して, 日本 近 海 を 実測 い た しま した とき に, 1 つ の地 図 を渡 して,つ い に 測 量 をや め させ た とい う こ とが あ りま す 。 そ の とき の幕 吏 荒 木 済 三 郎 の 日記 と い うのが あ りま して,文 久 元 年 7 月 12 日の と ころ に そ の 地 図 を渡 した〓 末 が書 い て あ る。 7 月 12 日, … 津 々浦 々 の地 名,御 料 私 領 の弁 別,浦 々 港 湾 の 模 様 等, 英 将 そ の 外 よ り 問合 有 之 候 て も,乗 組 一 同心 得 不 申,此 後,上 陸 測 量 等 取 計振 に も拘 り不 都 合 に つ き, 伊 能 勘 解 由著 候 測 量 絵 図,御 軍 艦 に有 之 趣 に付,右 御 廻 し方 儀,御 用 状 に て 申上 候,
1)
佐 野 常 民 述, 故 伊 能 忠 敬 翁 事 蹟, 東 京 地 学 協 会 報 告, 4 巻, 4 号, p. 1- 14, 明 治 15 年 9 月 の な か の 一 節( 当 用 漢 字, 現 代 か な つ か い に 改 め た も の)。2)
長 岡 半 太 郎 述, 伊 能 忠 敬 の 事 蹟 に つ い て, 地 学 雑 誌, 26 年 ,308, 309 号 (大 正 3 年 8 月, p. 587-596, 10 月, p. 678 - 690) 317 月 15 日, 伊 能 勘 解 由の 測 量 絵 図,御 伺 済 の上,御 渡 相 成 候, 7 月 19 日, 此程,江 戸 表 よ り 御 廻 し 相 成 候 伊 能 勘 解 由測 量 絵 図, 船 将 一 見 致 し,経 緯 度 並 沿 海 津 々浦 々,詳 細 に測 量行 届 候趣 に て,彼 方 に於 て 今 度 測 量 絵 図 仕 立 候 と も,此 上 精 密 に は相 成 問 敷 … 」( 注, 前 文 の続 き,「 就 て は右 絵 図 面 大 中 の 中,一 部 御 貸 渡 相 願, 右 え今 般 測 量 い た し候 浅深 暗礁, 其 外 書 入 候 は は,速 に功 業 相 成 申可 間, 右 の趣, 神 奈 川 在 留 の ミニ ス トル ・ア ー ル コ ック を 経 て 願 上 の 御 用 状 を差 出 す 。 7 月 22 日, 大 中 の部 は御 炎 上 の砌,御 焼 失 に相 成, 御 貸 渡 難 相 成, 就 て は 此程 御 廻 し相 成 候 小 の部 は, 其 儘 船 将 へ 可 被 差 遣 旨,対 馬 守 御 沙 汰 に付, 右 の心 得 を以 て彼 方 へ渡 し,取 計 可ト, 尤 乗 組 御 用 中,右 絵 図 無 之 候 て は差 支 可 申間,入 用 の節 は互 に用 弁 可 致 旨,左 衛 門尉 殿 よ りア ー ル コ ック へ, 御 引合 済 の趣 御 達,」 以 上, 内 閣文 庫 蔵, 開 国起 源 か ら。) これ らの こ と は,さ らに 大 谷 氏 の 名 著 に も く り返 して 述 べ られ て い る3)。 そ ん な こ とも あつ て か, こ の 事 件 は そ の の ち の 忠 敬 の 業績 に 関 す る記 述 の なか に は,ほ とん ど例 外 な く引 用 され, しか も これ を国 威 宣 揚 に まで結 び つ けて い た 人 が 多 か つ た。 こ ん な と こ ろ国 威 まで も ち 出す こ とに は賛 成 で き な い が, 問 題 は この 伊 能 図 を基 に して 作 られ た イ ギ リス 製 の海 図 は どん な も ので あつ た のか 。 佐 野 常 民 氏 の 講 演 に さ い し て 。 この海 図 が 示 され た こ と は明 らか で あ る。 そ れ に これ は ア ド ミラル テ ィが 1863 年 5 月 15 日に 発 行 した Chart No. 2347, で あ る こ と だ け はそ の後 の調 査 でわ かつ た。 しか し大 正12年 の関 東 大 震 災 に よつ て, 海 軍 水 路 部 や 東 京 地 学 協 会 そ の 他 の 機 関 に蔵 され て い た もの が 失 わ れ, も の他 で も実 物 が 見 当 らず, た め に 具 体 的 な こ とが わ か らず に現 在 に至 つ て しまつ た。 II. 原 海 図 を中 心 と して 今 般,伊 能 忠 敬 の業 績 調 査 に関 連 して,海 上 保 安 庁 水 路 部 長 川 上 喜 代 四氏 の尽 力 に よつ て, イ ギ リス 水 路 部 か ら問 題 の 海 図 の実 物 大 写 真 を入 手 す る こ とが で きた 。 そ こ で これ を 中心 と して, 前 後 の事 実 を述 べ て み る。 第 1 図 は,問 題 の海 図 が 作 製 され る以 前 にイ ギ リスで 発 行 され て い た も の の表 題 で あ る。1827 の クル ー ゼ ン ステ ル ンの 図 に基 い た と記 して あ る。 こ の図 の作 製 の い き さつ につ い て は ま た別 な話 題 を 提 供 す る こ と に な るが,こ れ につ い て は こ こで は論 じ ない 。 た だ注 意 を要 す る こ と は,こ の原 図 は,そ の の ち幾 度 も 部 分 的 修 正 が 行 わ れ, こ こ に掲 げ た海 図( 第 2 図) は 1862 発 行 の修 正 図 で あ る。 こ の部 分 的 修 正 の 資 料 の な か に は,シ ー ボ ル トの 日本 国 図(伊 良 湖 岬 か ら相 模 湾 へ か け て)も あ る し,津 軽 海 峡,佐 渡,能 登,隠 岐 な ど につ い て は, 1855 の Richards の測 量,九 州 の南 岸,西 岸 にか け て は 1859 のオ ラ ン ダ測 量 者 の 報 告 に よ る こ とな どが 注 記 に含 まれ て い る。 そ れ に し て も海 岸 線 は全 体 と して甚 だ不 出 来 な部 分 が 多 い ば か りで な く,海 図 とい い なが らも測 深 点 数 は少 な く,津 軽 海 峡,九 州 北 西 部 沿 海 並 び に 朝 鮮 半 島 南 西 部 沿 海 な ど に 数 え るほ ど記 入 され てい る だ けで あ る。 わ ず か に 図 の右 下 隅 に伊 豆 半 島 の小 湾(下 田 を含 む)や 房 総 半 島 南 端 の測 深 図 が付 加 され て い る にす ぎ な い 。 こ の図 を眺 め て,わ れ わ れ の側 か ら考 え て不 思 議 な こ と は,せ つ か く1840に 公 表 され た シー ボル トの 図 が,局 部 的 に しか 参 考 に資 せ られ て い ない こ とで あ る。 こ の こ と は,シ ー ボ ル トの諸 地 図 や1852出 版 の そ の くわ しい 説 明 文4)も,当 時 の ヨー ロ ッパ 諸 国 で は そ う信 頼, 普 及 され て い なか つ た こ と を示 す 。 とい う よ りも,水 路 学 者 クル ーゼ ン ス テル ンの名 声 が, ア ジ ア沿 海 に関 して はい か に高 か か つ た か, これ に対 し て 日本 か ら帰 国 した一 医 師 で あ る シ ー ボル トの報 告 が ヨー ロ ッパ 諸 国 に信 頼 され る まで に は, 相 当な 年 月
3)
大 谷 亮 吉 編 著, 伊 能 忠 敬, p. 193 -194, 大 正 6 年, 岩 波 書 店 。4)
SIEBOLD, von : Geschichte der Entdeckungen
in Seegebiet von Japan nebst Erklarung
des
Atlas von Land-und Seekarten von japanischen
Reichs und dessen neben und Schtitzlandern.
Leyden, 1852.
伊 能 図 に基 づ い たイ ギ リス製 日本 沿 海 図 227 を要 した こ とを暗 示 す る もの で あ る。 これ が 1863 年 5 月発 行 の 2347 号 図 に な る と,そ の表 題 の 最 初 に 「日本 政 府 の 図 か らの編 集 … 」 と 明記 され て い る だ け に(第3図), 少 な くと も 日本 沿 岸 に関 して は以 前 とは 見 違 え るほ ど改 善 され て い て, い か に伊 能 図 の正 しさ が認 識 され た か を示 す 。 これ に対 して 図 の 右 下 隅 に付 記 して あ る 諸 湾 図 は依 然 と して ロ シ ア の測 量 図 の ま まで あ る し,こ と に朝 鮮 半 島 沿 海 に至 つ て は全 くも との ま ま で,目 本 沿岸 に 関 す る改 善 とは対 照 的 で あ る。 ま た メル カ トル 図 法 に描 き改 め られ て い る とは い え,伊 能 図 に み ら れ た 経 度 の狂 い も,ク ロノ メ ー タ を使 つ て測 定 した 資 料 に よつ て, ほ とん ど修 正 され て い る。 の み な らず 北 九 州 か ら瀬 戸 内海 へ か け て,お よ び東 京 湾 を 中心 と して測 深 点 が 多 数 と なつ てい る こ と も 目だ つ 。特 に 問題 の ア ク テ オ ン号 や ワ ー ド中佐 の名 が 出 て くる瀬 戸 内 図(表 題 は第4図, 全 図 は第 6 図, No. 2875) で は, 瀬 戸 内海 の 測 深 は驚 くほ ど多 数 で, こ とに関 門海 峡, 来 島海 峡 近 傍,鳴 門 海 峡 付 近 な ど,航 行 に 危 険 や 困難 を伴 う部 分 に つ い て は,航 行 上 の諸 条 件 に関 連 す る注 意 も与 え られ てい る。 これ か ら もわ か る よ うに, ア ク テ オ ン 号 そ の他 の乗 組 員 は,伊 能 図 の写 しを与 え られ て,海 峡 線 の 測 量 は不 要 と思 つ た が,測 深 の 方 は で き る だ け 多数 の 点 で 実施 して い た の で あ る. な お こ れ らの海 図 に よ れ ば, 1862 ∼ 63 に か け て の 磁 角偏 差 は,32°N で 2°45/W, 33°N で 2°0'W, 38°Nの 仙 台 湾 付 近 で も2°15/Wに す ぎな い 。 した が つ て 忠 敬 が測 量 した 当 時 は,偏 差0° の線 が 関東 か ら北 九 州 へ か け て走 り,そ の北 は西 偏,そ の南 は東 偏 で あつ た 可 能 性 が 十 分 に 考 え られ る5)。 しか し これ を無 視 した こ とが伊 能 図 に お け る経 度 に狂 い を生 ん だ1つ の原 因 ら しい が,主 原 因 で あ る とは 思 え な い 。
5)
M. HOYANAGI, Re-apprecition of Ino's maps, the first maps of Japan based on actual survey. Geogr. Reports, Tokyo Metroploitan Univ. No. 2, July 1967.Fig . 1 1855 刊 行1862修 正 の イ ギ リ ス 製 日本 沿 海 図 の 表 題
Fig . 2 ク ル ー ゼ ン ス テ ル ン の 海 図 (1827) を 基 と し, 1855 刊 行, 1862 修 正 の オ ギ リ ス 製 日本 沿 海 図
俳 能 図 に基 づ い たイ ギ リス製 日本 沿 海 図 229
(広 瀬 博 司 氏 蔵, 大 日本 測 量(株) 複 製 。95.8cm × 65・5cm)
Fig . 3 伊 能 図 を 基 と し た イ ギ リ ス 製 日本 沿 海 図 の 表 題 (1863 年 5 月 15 日刊 行) Fig . 4 伊 能 図 を 基 と し た イ ギ リ ス 製 瀬 戸 内 海 図 の 表 題 (1862 年 12 月 10 日刊 行 。1865 年 1 月 修 正 。
伊 能 図 に基 づ い たイ ギ リス製 日本 沿 海 図 231 ま た勝 海 舟 がイ ギ リス の海 図 を入 手 して,慶 応 3 年 (1867) に 「大 目本 沿 海 略 図」 の名 で発 行 した も の を 第 4図 と比 べ て み る と,全 くこ の写 しで,た だ 陸上 に お もな街 道 と河 川 を少 し付 加 した も の に す ぎ な い こ と も明 らか に な る。 III. イ ギ リス側 の 当時 の 測 量 事 情 以 上 の よ うに測 深 が行 わ れ た 当 時 は,派 遣 され た イ ギ リス船 艦 は ど うい う 状 態 にお か れ て い た の か, そ れ ま で は幕 府 が あ ん な に秘 密 に して い た 伊 能 図(小 図)の 写 し を,ど う して与 え た の か, こ れ をイ ギ リス 側 で は実 際 に ど う評 価 した の か,そ の 伊 能 図 は 現 在 ど うな つ て い るの か, な どが 最 後 の 疑 問 と して 浮 び 上 つ て くる。 これ につ い て は幸 に して, 1951 に N. Pye W. G. Beasley が イ ギ リス 側 の 諸 記 録 に よつ て書 い た 文6)が あ る の で,こ の な か か ら上 記 の こ とに 関係 が深 い部 分 を抜 き 出 して紹 介 す る 。
「ロ ン ドンの 王 立 地理 学 協 会 (Royal Geographical Society) の 図書 室 に は,原 図 を彫 刻 版 に した 日本 図 が あ る。 文 字 は漢 宇 で書 かれ て い るが7)こ れ は シ ー ボル トが 1841 に 「目本 帝 国 図一 目本 人 の 原 図 と天 文 観 測 に よ る一 」 の名 で刊 行 した もの で あ る 。 これ に は伊 能 忠 敬 の名 が載 つ て い な い し,シ ー ボル トは こ れ を 高 橋 作 左 衛 門景 保 の功 績 に帰 して い る 。 そ して この誤 りは,さ らに テ レキ (Count Teleki) の 日本 地 図研 究 に も うけ つ が れ て しま つ た もの で あ る。
とこ ろ が こ れ とは全 く別 に,い ま私 の前 に は3葉 の非 常 に大 き な 肉筆 の 日本 地 図 が あ る 。 こ れ らは 目本 の 北部,東 部,南 西部 を描 い た もの で,そ の大 き さは そ れ ぞ れ 5ft. 5in. × 8ft. 6in. 5ft. 5in. × 6ft. 1in. 5ft. 5 in. × 6ft. 11 in. の大 き な も ので あ る。 これ らは以 前 にAdmiralty の水 路 部 の文 庫 に あ つ た もの が, 現 在 は グ リニ ジ の 国 立海 事 博 物 館 (National Maritime Museum) に 永 久 に移 管 され て い る もの で あ る。 これ が入 手 され た 当時 の 事 情 を調 べ て み る と,た しか に これ は伊 能 忠 敬 の 偉 業 に よつ て 生 れ た 小 図 か ら, 直 接 に写 され た もの で あ る こ とが わ か つ た 。 しか し これ に は署 名 も題 名 もな い 。 そ れ だ け に こ の歴 史 を記 し,か つ これ が,正 確 な 日本 地 図 の最 も 古 い も の の1つ と して,そ の果 した重 要 な 歴 史 的 役 割 を 記 録 に と どめ て お くこ と は,意 味 が あ る と信 ず る。 そ れ に東 洋 学 の 専 門 家 に とっ て特 に興 味 が 深 い こ と は,い ま まで 知 られ て い る限 りで は,こ れ が 日本 以 外 の国 に存 在 し て い る伊 能 原 図 か らの唯 一 の 写 しで あ る点 で あ る 。 水 路 部 海 図課 の 目録 原 簿 に記 入 され て い る とこ ろ に よ る と,こ れ らの地 図 は 1864 年 4 月 11 日に, 軍 艦 ア ク テ オ ン (Actaeon) 号 と ドー ヴ (Dove) 号 か ら水 路部 へ 納 め られ て い る。 そ し て 地 図 の 裏 面 の張 り紙 に は,こ れ は 日本 政 府 か ら 日本 駐 在 イ ギ リス全 権 大 使 アル コ ック (Sir Rutherford Alcock) へ 贈 られ た も の で あ る と書 い て あ る 。 これ らの こ とは,外 務 省 の 記録 と も,日 本 側 の 話 と も一 致 す る。 1861 年 5 月 に ア ル コ ッ クが 長 崎 を訪 れ た と き,軍 艦 ア クテ オ ン号 と3隻 の 砲 艦 とが 寄航 し てい た。 これ は そ の前 年 に結 ば れ た 協 定 に 基 い て 測 量 を 行 うた めで あつ た 。 そ こで か れ は 目本 の役 人 に,通 訳 を は じ め,あ らゆ る便 宜 を与 え て くれ る よ うに依 頼 して,陸 路 で 江 戸 へ 帰 つ た。 こ の 間 に測 量 船 隊 は江 戸 湾 の神 奈 川 へ 直 航 し,長 崎 まで の 日本 南 岸 の測 量 を は じ め る許 可 を待 っ こ とに な つ た 。 しか し最 後 の 許 可 を得 る まで に は 目が か か り,8月 上 旬 に なつ て しま つ た 。そ れ とい うの も 目本 政 府 は,測 量 を 実施 し よ う とす る
6)
Norman PYE and W. G. BEASLEY : An undescribed manuscript copy of Inô Chukei's mapof Japan. Geogr. Jour. Vol. 117, p. 178- 187, 1951, な お 本 文 に 掲 載 し た こ の 原 文 の 抄 訳 は,同 雑 誌 の 編 修 者 か ら 許 可 ず み で あ る 。
7)
こ の 一 句 が 非 常 に お か し い 。 シ ー ボ ル ト の 「日 本 帝 国 図 」 に は, 漢 字 な ど は 1 つ も な い は ず で あ る 。 し て み る と こ れ は 長 久 保 赤 水 図 で あ る と 思 わ れ る 。 赤 水 図 は 当 時 の 外 国 へ は 広 く 行 き 渡 つ て い て, 多 く の 人 々 の 問 で は Originalmap (原 図) の 名 で 通 つ て い た く ら い で あ る 。 だ か ら こ の 筆 者 た ち は 次 に シ ー ボ ル トの 図 の こ と を 書 き な が ら, 実 は 文 献 に 頼 り, 実 物 は 見 て い な か つ た の で は な い か と疑 い さ え 起 る。 し か し こ の 文 の 主 体 は シ ー ボ ル ト の 図 の 研 究 で は な い の で, こ こ で は こ れ 以 上 の せ ん さ く は 避 け る こ と に す る 。 37保
柳
睦
美
沿 岸 地 方 で は,懐 夷 感 情 が 強 い こ と と を よ く知 つ て い た の で,測 量船 に 日本 の 役 人 を 同乗 させ る こ と を主 張 した か らで あ る。 この 役 人 た ちに は,通 訳 と して の 役 目ば か りで な く,各 藩 侯 や そ の 家 来 た ち との衝 突 が お こ る こ と を防 ぐ役 目 も果 た させ よ う と考 え た の で あ る。 つ い に こ の こ とがイ ギ リス側 に 同 意 され て, 役 人 た ち は4隻 の船 にそ れ ぞ れ 乗 り組 む こ と に なつ た8)。 こ の と き 目本 の役 人 た ち は,伊 能 の 実測 に よ る最 小 ス ケ ール の 3 葉 1 組 の地 図 を持 つ て き た が ,こ れ は当 然, ア クテ オ ン艦 長 ワー ド中 佐 (Commander Ward) の 注 意 をひ い た。 か れ は これ らの 地 図 が そ の 仕 事 に大 き な価 値 が あ る ら しい こ とに気 づ き,こ の地 図 を よ く検 査 で き る よ うに取 りは か らつ て も ら う 手 紙 を,同 乗 の 日本 の役 人 か ら江 戸 の同 僚 宛 に書 かせ て か ら,ア ル コ ック に面 会 した。 こ う して 1861 年 8 月 24 日付 で,ア ル コ ック か ら 日本 政 府 宛 に,ワ ー ドが 見 た3葉 の 地 図 の 写 し を 請 求 す る よ うに なつ た の で あ る。 中佐 は次 の よ うに書 い て い る。 『自分 は,わ れ わ れ 自身 の 測 量 に よ る地 図 と,こ れ らの 地 図 と を注 意 深 く比 べ て み た 。 こ れ ら の 地 図 は,自 分 た ちが 使 つ て い る よ うな 測 量 器 具 に よつ た り,天 文 観 測 に よつ た もの で はな い に もか か わ らず, 実 に正 確 に描 か れ て い て,十 分 に信 頼 で き る もの で あ る。 この こ と を知 つ た と き は,非 常 に うれ しか つ た 。 これ が入 手 で きれ ば,い ろ い ろ 心 配 され て い る 困難 や 不 幸 を避 け るこ とが で き る と 思 つ た か らで あ る。』 「日本 政 府 に対 す る アル コ ック の 説得 が効 を奏 して,つ い に地 図 の入 手 が で きた 。 こ れ か ら 測 量 隊 は こ の地 図 を基 と して,こ れ に航 行 上 の資 料 を補 充 す る作 業 に と りか か つ た。 しか し一 方 で は, 1861 に は, さ らに詳 細 な測 量 を遂 行 す る見 込 み が立 た な くな つ て しまつ た 。 も うす ぐに冬 の 季 節 風 の シ ー ズ ンに入 る の で,測 量 は10月 で 切 上 げ な けれ ば な らな くなつ た か らで あ る。 そ れ に9月 に は 目本 政 府 は政 治 的 理 由 か ら,測 量 をや め て くれ,ど う して も必 要 な ら 日本 側 でや る か ら と申入 れ て き た。 そ こ で アル コ ック も これ に同 意 しない わ け に は行 か な くなつ て し まつ た ので あ る。 伊 能 図 の海 岸 線 が 正 確 で あ る こ とが 証 明 され た こ とに 関連 して,ア ドミ ラル テ ィが 作 つ た海 図 (Chart No. 2347, 1863 年 5 月 15 日発 行, こ の コ ピー は水 路 部 の 文庫 に保 管 され て い る)の 海 岸 線 が,日 本 の 地 図 に 基 い て 作 製 され た もの で あつ た の は, 以 上 の よ うな 事 情 か らで あ る。 グ リニ ジ に保 管 され て い る 目本 地 図 に は, い まで も 鉛 筆 で 書 き入 れ た 方 眼 が 残 つ て い るが,こ れ は正 弦 曲線 図 法(サ ン ソ ン ・フ ラム ス チ ー ド図 法)の もの か ら,も つ と 小 縮 尺 の メル カ トル 図 法 の 海 図 に 内容 を 書 きか え た あ と を示 す もの で あ る。」 IV. 現 代 の イ ギ リス の学 者 の伊 能 図 観 以 上 が伊 能 図 を基 に した新 しい海 図 作製 の い き さつ で あ る が,当 時 の 資料 と総 合 す る と イ ギ リス 側 の伊 能 図入 手 の い き さつや,日 本 側 と して は,せ め て小 図 の写 しだ け で火 急 の 窮 状 を しの こ う と した こ と( 本 文 第32ペ ー ジ注 記, 7 月 22 日の項 参 照)な どが よ くわ か る 。 な お この 報 告書 に は 海 事 博 物館 に 保 存 され て い る伊 能 図 の ロー マ字 入 りの局 部 的 写 真 も挿 入 され て い る し,さ らに著 筆 者 た ち が行 つ た 伊 能 図(小 図)に 対 す る調 査 や 感 想 もつ け加 え られ て い る。 そ こ で外 国人 向 け の こ ま か い説 明部 分 は抄 略 し,現 代 のイ ギ リ ス の学 者 が 伊 能 図 を ど うみ てい るか に焦 点 を し ぼつ て,お も な点 を あ わせ て付 記 し紹 介 す る 。8)
岡 田駒 吉: 海 路 図 の研 究, 歴 史 地理, 58 巻, 4 号, 昭 和 6 年 10 月 の P. 308 に 「時 恰 も 英 国海 軍 の 本 邦 沿 岸 測 量 の要 求 と なつ た の で, 同年 7 月, 立 会 人 兼 保 護 役 と して,荒 木 済三 郎,立 石 得 十 郎, 栗 島彦 八 郎 は英 国 測 量 艦 ア クテ ヲ ン に, 福 岡 金 吾,斉 藤 卯 太 郎 は附 属 砲 艦 レーベ ン に, 又 砲 艦 ドー ブ に は塚 原 銀 八 郎 が各 乗 組 み, 一 行 は館 山湾, 八 丈 島, 伊 豆 西 岸 諸 港, 清 水 港 を測 量 し, 紀 州 大 島港, 紀 伊 西 岸 諸 港 を経 て瀬 戸 内 海 へ 入 り,下 之 関海 峡 を測 量 し,呼 子 港 を経 て 10 月, 3 艦 共 に長 崎 に 入 港 し た。 此 英 式 測 量 の見 学 は後 目に稗 益 す る処 多 大 で あつ た」 と記 して あ る。 しか し荒 木 済 三 郎 日記 に は, 荒 木 済 三 郎 ・立 石 得 十 郎 ・栗 島 彦 入 郎 の 3 人 は ア クテ ヲ ン号 に, 塚 原 銀 八 郎 は アル ジ ェ リン号 に, 斉 藤 卯 太 郎 は ドー ブ号 に, 福 岡 金 吾 は レー ベ ン号 に 乗 り組 ん だ と書 い て あ るが,分 乗 につ い て は こ の方 が 正 しい よ うで あ る。( 船 の 名 に つ いて は,不 文 の Abstract の最 初 の 部 分 参 照)伊 能 図 に基 づ いた イ ギ リス 製 日本 沿 海 図 233 「こ の 日本 地 図 は 明 らか にサ ンソ ン ・フ ラ ム スチ ー ド 図 法 で 描 か れ,0° の 中央 経 線 は 京 都 を通 つ て い る。経 緯 線 は 1。 ず つ の 間隔 で,中 央 経 緯 線 上 で の緯 度1。 の距 離 は9.9inch .で あ る。 した が つ て 縮 尺 は 1/441,000 とな り,伊 能 図 の小 図 の縮 尺 で あ る 1/432,000 よ り少 し小 さい。 これ はお そ ら く 紙 の 縮 み に よ る もの で あ ろ う9)。」 「日本 の大 部 分 の土 地 につ い て は, 各 地 点 の 緯 度 は 非 常 に 正確 で あ る。 こ と に 30°N と4 3°N との 間 で は,そ の数 値 は 現在 の そ れ とほ とん ど違 わ な い。 誤 差 が割 合 に大 き い 北方 地 方,た とえ ば44°N以 北 で も,わ ず か に4'の 相 違 に す ぎ な い。」 「経 度 の測 定 に は非 常 な困 難 が伴 つ た と 思 わ れ るの に,日 本 の 南 半 分 に お け る 各 地 点 の 経 度 は 驚 くほ ど正 確 で あ る。 こ の部 分 で最 近 の数 値 と の 差 が 大 きい と こ ろ は,遙 か 南 方 海 上 の 八 丈 島 あた りだ け で あ る。 こ こ で は,京 都 を通 る経 線 を標 準 にす る と,約13'ば か り小 さす ぎ る。 本 州 北 半 や 蝦 夷 で も,同 一緯 線 上 にお け る諸 地 点 の経 度 関 係 は一 般 に良 好 で あ る。 けれ ど も京 都 を規 準 にす る と,そ の 絶 対 値 には か な りの誤 差 が認 め られ,こ の誤 差 は緯 度 が 高 くな るに した が つ て大 き くな る。 た とえ ば 36。N で は そ の 誤 差 は無 視 で き る程 度 で あ る が, 37°N の諸 地 点 の経 度 は6'ば か り東 へ 偏 し て い る。 そ して 38°N, 39°N , 40°N, 41°N, 42°N, 43°N 44°N の各 緯 度 で調 べ て み る と,そ れ ぞ れ に お い て 11', 12,, 15,, 23', 40,, 42',48'も 東 偏 して お り,蝦 夷 の 北端,す な わ ち 45.5°N で は誤 差 は 54' に も な る。 地 図 描 写 の精 粗 に関 して は,測 量 に 際 して,実 際 にそ の 地 方 へ 行 け た か ど うか とい う こ とが, 最 も重 要 な 役 割 を果 して い る。 だ か ら海 岸 線 や そ の 後 背 地 は 連続 して よ く描 か れ て い るの に対 して, 内 陸 地方 で は 起 伏 の特 色,集 落,そ の 他 地 形 的 な こ とは,測 量 した道 路沿 い の 地 帯 の こ とが こま か に 描 か れ て い る だ け で あ る。 もつ と も地 方 に よ る描 写 の 精 粗 に は,こ の ほ か に測 量 当 時 の種 々 な事 情 に も よつ た ら しい。 た と えば 東 日本 の 測 量 の と きは,か れ は 浪 人 に す ぎな か つ た。 これ に対 して,そ の の ち 間 もな く西 日本 の測 量 に従 事 した と きは,幕 府 の 役 人 に 任 命 され て い た の で,種 々 な便 宜 も得 られ た し,出 張期 間 も 長 くか け ら れ た の で, こ まか な測 量 が で きた わ け で あ る。 次 に事 物 の 描 写 法 の 特 色 の 要 点 を述 べ る と,丘 陵 地 は緑 色 で 塗 られ,高 い 山 地 は 褐 色 で,ま た これ らの 山地,丘 陵 地 の 多 くは横 か ら眺 めた 形 で描 か れ て い る。 こ れ に 淡 い褐 色 を付 加 して,谷 す じを 示 す くふ う も され て い るが, 海 岸 付 近 の もの は 海 岸 か ら眺 め た よ うに,道 路 の 両 側 の もの は,海 岸 か ら内 陸 へ進 む と き に道 路 か ら眺 めた よ うに な つ て い る。 未 測 量 の 地 方 は 淡 い緑 色 で 塗 りつ ぶ され て お り,当 然 の こ とな が ら蝦 夷 の内 陸 部 に は, 空 白な 部 分 が 最 も広 く残 され て い る。」 「測 量 の 道 す じか らは ず れ た と ころ で は,遠 望 で きる 山地, 丘 陵 地 だ け が示 され て い る が, そ の位 置 は 道 線 測 量 中 に交 会 法 を用 い て 定 め られ て い る。 した が つ て道 路 の諸 点 か ら,お もな 山頂 に 向 か つ て方 位 線 (赤色)が た くさん にひ い て あ るの が 目だ つ。 これ らの 方位 線 に は数 字 が つ い て い るが, これ は各 線 の方 位 の数 字 で あ る。」 「地 図 の 緑 の 部 分 に,陸 地 とは離 れ て コ ンパ ス ・ロー ズ が書 き入 れ て あ る。 しか し 伊 能 が採 用 した投 影 法 で は,中 央 経 線 か ら離 れ るに した が つ て,経 緯 線 が 次第 に斜 交 す る よ うに な る。 とこ ろ が コ ンパ ス ・ロ ー ズ の 方 で は ,こ の ことに特 に考慮が払われていない。」 「これ を 要 す るに 伊 能 図 で は, た しか に観 測 で きた もの だ け が正 確 に描 かれ て い る。 こ の こ とはそ の全 作 業 を通 じて,そ の 基 盤 に横 た わ る科 学 的 良 心 を 表 わ す もの で あ る。」 「最 後 に,こ の 地 図 の歴 史地 図 と して の価 値 に つ い て付 言 した い。 精 密 に描 かれ て い る の は 実 測 し た線 に沿 う とこ ろ,す な わ ち 道 路 と海 岸 沿 い だ け で あ る か ら, 当 時 の 陸 上 交 通 条 件 は よ く 描 き出 され て い る が,集 落 や 人 口分 布 状 態 は,こ の 地 図 か らは あ ま りよ く読 み とれ な い。 ま た 当時 の 政 治 的 情 勢 をみ よ うと す る場 合 に も不 適 当 で あ る。 国境 も部 分 的 に しか書 かれ て い な い し,郡 境 は全 く記 入 し て ない。 もつ と も
9)
こ の 筆 者 た ち は, R. OTANI: Tadataka Ino, the Japanese land- surveyor. Tokyo, 1932, を 一応 は 読 ん で い て,こ の 小 図 の 縮 尺 も こ れ に 基 づ い て い る の で あ る。
こ うい うこ とは,必 要 な とき に は他 の資 料 か ら得 られ る で あ ろ う。歴 史 学 者 に とつ て, お そ ら くこれ よ り も関 心 を ひ く こ とは,城 下,陣 屋,宿 工 な どの位 置 が,相 互 関 係 に おい て は正 し く 記 入 し て あ る こ とで あ る。 た とえ ば東 海 道 の い ろ い ろ な宿 場 な どは,目 本 の版 画 で外 国 に まで 有 名 に なつ てい るが, こ の位 置 は 案 外 に知 られ て い な い の で あ る 。 さ らに こ の地 図 を よ くみ て ゆ く と,お も しろ い い ろい ろ な 疑 問 も湧 い て く る。 た とえ ば伊 能 が薩 摩 に つ い て精 密 な調 査 が で き た こ とに は,ど ん な 政 治 的 背 景 が あつ た も の であ ろ うか 。九 州 南部 の薩 摩 藩 は強 力 で あ つ た上 に,伝 統 的 に外 部 の人 に封 鎖 的 であ り,こ の こ とは 幕 府 の役 人 に対 して も例 外 で な かつ た と思 われ る か らで あ る 。 ま た こ の地 図 に は寺 院 よ りも神 社 の方 が 多 く記 入 され て い る が,こ れ は18世 紀 に は じ まつ た 神 道 の復 活 に よ る も の で あ ろ うか。 も しそ うな ら,こ れ に は実 測 者, あ る い は 当時 の 国 の意 向 が反 映 され てい る とみ て よ い も の で あ ろ うか。 もつ とも こ うい う疑 問 は, 問 う方 はや さ しい が, 答 え る こ とはむ ず か しい 。1 つ の 地 図 を検 討 し た く らい で は,答 工え られ ない 難 問 だ か らで あ る 。」 以 上 の 論 評 の うち,地 図 そ の もの に 関 す る部 分 は N. Pye 教 授 に よ る も の らし く,地 図 学 の講 義 も受 持 つ て い る学 者 と して,ま ず穏 当 な 見 方 で あ る。 ま た これ に は 大谷 著,伊 能 忠 敬 (英文, 1932) の 影 響 が あ つ た こ と も うか が わ れ る。 これ に対 して最 後 の部 分 は,近 世 ア ジ ァ 吏,目 本 史 の研 究 家 で あ る Beasley が 抱 い た 疑 問 ら しい が,こ れ に は 納 得 で きな い 点 が あ る。 まず,幕 府 も一 目 をお い て い た ほ ど強 力,排 外 的 であ つ た 薩 摩 の島 津 藩 内 に お い て, 忠 敬 が ど うして 何 の 妨 害 も うけ ず に こん な 精 密 な 測 量 が で きた の か との疑 問 は,一 応 もつ と もな こ とで あ る。 しか し この 疑 問 は す で に 大谷 氏 の 「伊 能 忠 敬 」 に お い て,多 少 の 誤 解 を 招 きそ うな 部 分 もあ るが, 忠 敬 が 島 津 藩 内 で は,む しろ 厚 遇 され た こ と を記 して い る10)。そ れ に もか か わ らず,か え つ て そ の後 の 日本 の郷 土 史 家 の な か に は,史 料 の勝 手 な 解 釈 や 想 像 を加 え て,い か に も島 津 藩 が 忠 敬 の仕 事 に対 し て疑 い と 警 戒 の態 度 を と つ た よ うな 書 き方 を して い る も のが あ り,こ れ を孫 引 き した 少 年 文 庫 本 な ど を通 じ て この 誤 解 を 広 めて い る人 す らあ る。 この 現 状 を憂 え て, 島津 藩 は 以 前 か ら幕 府 の 仕 事 に 協 力 的 で あ つ た こ と を 信 頼 で き る資 料 に 基 い て 証 明 し,こ とに 当 時 は 藩 の 財政 が 窮 迫 状 態 に陥 つ て い た の に もか か わ らず, 無 理 を して まで も忠 敬 の仕 事 を助 けた 根 本 は,徳 川 幕府 藩 体 制 に お い て は, 島 津 藩 に とつ て も,幕 府 こそ 「最 も憚 るべ き」 存 在 で あつ た こ と を諸 論 文11)のな か で 明 らか に され た のが 増 村 教 授 で あ る。 最 後 の社 寺数 に 関 す るこ とか らの 推測 に 出 会 う と,む しろ こち らが 驚 き,か つ 当惑 す る。 い か に も18世 紀 末 には 宗 派 神 道 が 起 つ た こ と は事 実 と して も,こ れ は 何 も神 道 が 重 ん ぜ られ て 復 活 した わ けは な い し, 全 国 的 に 神 社 数 が 増 加 した の で もな い 。 した が つ て この 推 測 は 全工く当 らな い 。 の み な らず,果 た して 伊 能 小 図 には 寺 院 の 記 号 よ りも神 社 の そ れ の 方 が 多 く記 入 され て い るの で あ ろ うか 。試 み に 開 成所 版 の 官板 実 測 目本 地 図 ― 蝦 夷 地 を 除 き,か つ 内容 的 に は方 位 線 の 消去 の件 を除 け ば,あ とは 伊 能 小 図 と ほ ぼ 同 一 と 仮 定 して― に よつ て,伊 能 図 の範 囲 内 に記 され て い る社 寺 の 記 号 を数 え て み る と, 神 社 51, 寺 院 56 (記 号 は ない が, 社 寺 名 が 書 い て あ る もの を加 算 す れ ば, 前 者 57, 後 者60) とな つ て, や は り寺院 の方 が少 し 多 い 。 そ の分 布 は,寺 院 は近 畿 地 方 に最 も多 い の は 当然 で あ り,中 部 日本 が これ に 次 ぐ。 これ に 対 して神 社 の方 は特 に 目だ つ て 多 い地 方 は な く,強 い て あ げ れ ば,山 陰 と北 九州 ぐ らい に す ぎな い( た だ し 壱 岐 島 を除 く,こ れ に つ い て は あ とで 述 べ る。)し て み る とイ ギ リス測 量 隊 へ与 え た 小 図 の 写 しで は, 社 寺 の記 号 の よ うな こ ま か い 点 に つ い て は, そ う厳 密 に考 え ず に描 か れ た もの で あ つ た の か も しれ な い 。 10) 大 谷 亮 吉 編 著 : 伊 能 忠 敬, p. 214 - 216. 11) 増 村 宏: 伊 能 忠敬 の屋 久 島 ・種 子 ケ 島 測 量, 鹿 児 島 大 学 文 理 学 部 研 究 紀 要, 文 科 報 告, 1 号, p. 1- 36, 1952. ― :薩 摩 ・大 隅 の 国 絵 図, 享 保 図 な ど, 鹿 児 島 大 学 法 文 学 部 紀 要, 文 学 科 論 集, 3 号, p. 35- 64, 1967. ― :大 谷 亮 吉 編 著 「伊能 忠 敬 」 の 日本 測 量 に つ い て, 地 学 雑 誌, 77 巻, 1 号, p. 24- 36, 1968。
伊 能 図 に基 づ い た イ ギ リス 製 日本 沿 海 図 235 しか し実 測 日本 地 図 を調 べ て少 し く奇 異 に感 ず る く らい 目だ つ の は壱 岐 島 で あ る 。 こ こ で は 寺 院 記 号 が 0で あ る の に対 して,神 社 は8も 記 入 され て い る 。 しか しこ れ は癸 酉 測 量 記(測 量 日記,巻21) を通 して, 壱 岐 で の 測 量 状 況 を調 ペ れ ば わ か る。 す な わ ち こ こで は,神 社 の 位 置 が そ の と きの 測 量 の 打 止 め 点 とな つ て い る場 合 が 多 い の で あ る。 これ か ら も判 断 され る よ うに,社 寺 も測 量 の と きの 目 じ る し と して 用 い られ た場 合 が 多 かつ た も ので,伊 能 図 は何 も社 寺 の分 布 まで も こ まか に描 い た も ので は ない 。 こ の こ と は現 在 は少 数 しか残 つ て い ない 大 図 に よつ て調 べ て もわ か る。 諸 城 下 町 内 で も社 寺 は特 別 な 位 置 の も の以 外 は あ ま り見 当 らな い し。 諸 町 村 に存 在 す る いわ ゆ る町 寺 は ほ と ん ど記 入 され ず に,か えつ て 沿 道 か ら離 れ て 目 じる し とな る よ うな社 寺 が記 され て い る場 合 が 多 い の で あ る 。 そ して こ の こ とは, 何 に限 らず 古 い地 図 の 読 み方 の む ず か し さ を教 え る一 例 とな る 。 補 遺 海 上 保 安 庁 水 路 部 に は,イ ギ リス海 軍 水 路 部 の L, N. Pascoe に よ る 「目本 の 水 路 測 量 お よび 海 図 作 製 に イ ギ リス が 果 した初 期 の役 割12)」と題 す る詳 細 な資 料 的 書 簡 が とどい てい る。 これ を一 覧 させ て も らつ た が,こ の な か に例 の ア ク テオ ン号 や 伊 能 図 に関 す る こ とも含 まれ て い る の で, 川 上 水 路 部 長 の好 意 に よ つ て,本 文 に直 接 に 関係 の あ る部 分 だ け を抜 き 出 して紹 介 させ て も ら うこ とにす る。 「1858 (注, 安 政 5 年)の 江 戸 条 約 に よつ て,長 崎 と横 浜 とが 外 国 貿 易 港 と して 開 港 され, 1861( 注. 文 久 元 年) に は外 国 の公 館 が設 け られ た。 そ こ で 駐 日大使 Sir Rutherford Alcock の 名 にお い て, イ ギ リス の海 軍 省 に手 紙 が届 け られ た 。 これ は 当時 飛 躍 的 に拡 大 され た 交 易 が,ど ん な に 重 要 な意 味 を もつ て い る か, こ の た め に は 日本 沿 岸 の測 量 が さ し迫 つ た 問題 となつ て い る こ と,ま だ測 量 され て い な い 日本 沿 岸 お よ び港 湾 が,ど ん な に航 海 の安 全 確 保 と貿 易 の発 展 に支 障 とな つ て い る こ とを 強 調 した もの で あ つ た 。」 「目英 修 好 条 約 が締 結 され た 当時 に は,イ ギ リス が刊 行 して い た 日本 に 関 す る 海 図 は 2 図 に す ぎな か つ た。 2347 日本 ・九 州 ・四 国 1827 の Krusenstem の Atlas か ら編 修 し, 1855 ま で改 訂 した もの, 2415 長 崎 湾 1828 の Siebold 図 を, 1855 に Richards 艦 長 が改 訂 した も の, この ほか 下 田 ・箱 館 横 浜 な ど の海 図 は,ア メ リカ合 衆 国 水 路 部 の海 図 の写 しで,こ れ らは 1854 の Perry の調 査 に基 き, 1859 と 1860 に刊 行 され た もの で あ る。」 「1859 (注. 安 政 6 年) スル ー プ型 帆 船 艦 Actaeon 号 の Ward 中佐 は,シ ナ沿 岸 お よ び揚 子 江 を測 量工し て い た が, 60 馬 力 の 小砲 艦 Dove 号 を伴 つ て 長 崎 に寄 港 した …。1861 にお け る Actaeon と Dove の 最 後 の 測 量 は,東 洋艦 隊 か ら派 遣 され た 砲 艦 Algerine 号 と Leven 号 と と も に,玉 之 浦 と 長 崎 付 近 の諸 点 で行 わ れ た が,こ の 地 方 で の 測 量 の 実 施 に は か な りの 困 難 を伴 ない,船 は しば しば 武 装 し な けれ ば な ら な か つ た 。 そ こで 測 量 船 団 は黒 汐 に沿 つ て 神 奈 川(横 浜)へ 直 航 し,長 崎 まで の南 海,西 海 沿 岸 の 測 量 が す ぐ にで き る よ うに,目 本 か ら の許 可 を求 め る こ と に した。」 「日本 の役 人 た ち が,そ れ ぞ れ の船 に分 乗 す る こ と を命 ぜ られ た。 かれ ら は外 国人 が 上 陸 す る よ うに な つ た国 際 情 勢 の変 化 を住 民 た ち に説 明 す る た め で あつ た。 船 に は 目本 国 旗 も揚 げ られ た が,か れ らは ま た 目本 の地 図 を も つ て い た。 こ れ は 三角 法 に よる非 常 に 正 しい もの で, Ward 中佐 に も, ほ とん どこ れ を修 正 す る必 要 が認 め られ な か つ た。 Ward 中佐 は Sir Rutherford Alcock 大 使 の手 を経 て, 3 枚 1 組 の地 図 の写 しを入 手 した。 こ れ は 日本 全 体 を約 1/44 万 の縮 尺 で 描 い た もの で あ つ た。 これ らの 地 図 は, 1861 に Actaeon 号 が 止 む な く測 量 で き なか つ た 空 白 の部 分 を埋 め るた め に十 分 に活 用 され た 。 この 地 図 は京 都 を 通 る経 線 を基 と し て正 弦 曲 線 図 法 (sinusoidal proj.) で描 かれ て お り, Actaeon 号 が 任 務 を終 えて か ら海 軍 省 に納 め られ た が,現 在 は 国 立 海 事 博 物 館 に永 久貸 出 品 とな つ て い る。 これ は伊 能 忠 敬 の地 図 の 小 図 で
12) L. N. PAscoE(1969) : The British contribution to the hydrographic survey , and charting
of Japan, 1854 to 1883.
あ る こ と が あ とで わ かつ たが,こ れ は こ のへ ん のイ ギ リス海 軍 製 海 図 の海 岸 線 を完 成 す るた め に 大 い に利 用 され た の で あ る。 水 路 誌 に も,シ ナ海 水 路 誌 第4 巻 (1873) に, 本 図 に関 して次 の よ うに 記 し て あ る。 わ れ わ れ の測 量 と どの点 を比 較 して も,こ れ は非 常 に正 確 で,大 い に信 頼 で き る も の で あ る。 日本 列 島 ・朝 鮮 海 峡 ・瀬 戸 内 海 の諸 海 図 は,こ の 他 図 の写 しで あ る,と 。」 「こ の年 に実 施 した測 量 と,こ れ に利 用 した 日本 の地 図 は,実 に 日本 に お け る水 路 測量 の 基 礎 とな つ た も の で あ る。 本 州 南岸,西 岸 の 主 要 点 が決 定 さ れ,平 戸 海 峡 ・下 関 海 峡 ・紀 伊 水 道 が 測 量 さ れ,吃 水 16-18ft級 船 舶 の航 路 も開 け た。 こ う して香 港 ・上 海 か らの イ ギ リス の 通 商 の た めに 課 せ られ た全 水 路 の 測 量 が果 され た の で あ る。」