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現 代 イランにおける 暦 からみえる ペルシア イランに 存 在 するイスラーム 以 外 の 要 素 目 次 はじめに...3 第 一 章 宗 教 と 共 に 見 るイランの 歴 史...4 第 一 節 イランの 興 りとゾロアスター 教...4 第 二 節 イスラーム 流 入 直 後 のイラン.

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卒業論文

現代イランにおける暦からみえる「ペルシア」

イランに存在するイスラーム以外の要素

指導教官:八木久美子 東京外国語大学 外国語学部 南・西アジア課程 ペルシア語専攻 8407209 三浦由佳理 総合文化コース 2012 年 1 月 5 日

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現代イランにおける暦からみえる「ペルシア」

イランに存在するイスラーム以外の要素 目次 はじめに...3 第一章 宗教と共に見るイランの歴史...4 第一節 イランの興りとゾロアスター教...4 第二節 イスラーム流入直後のイラン...5 第三節 パフラヴィー王朝期...6 第四節 イラン・イスラーム革命後...7 第二章 「暦」とは...9 第一節 暦の分類と成り立ち...9 第二節 日本の暦...14 第三章 イランの暦と革命前後での暦に対する国民の態度の変化...17 第一節 イランで使用されている暦...17 第二節 パフラヴィー王朝期...22 第三節 イラン・イスラーム革命後...23 結論...27 参考文献...28

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3 はじめに ペルシア語を学習している時にいつも、不便だと思うことがある。それは文献の中にもし ょっちゅう登場する「日付」である。イラン暦の日付と西暦の日付が混ざって登場するため に混乱してしまうし、イラン暦の日付を西暦に直したり、西暦をイラン暦にするのにどうし ても時間が掛かってしまうからだ。しかも、イランには上記の二つの暦以外にもう一つ、イ スラーム暦という暦が存在するのである。 三つの暦を使い分けるのはさぞ大変だろうと考えたところで、あまり意識していないが、 日本にも同じような暦の問題があることに気がついた。年月日を尋ねられたときに、西暦と 元号を使う和暦のどちらで答えるかということである。何故二つも暦があるのかと思うとこ ろだが、不思議な事がある。和暦は天皇制に関わっており、日本独自の暦ということが出来 る。しかし、西暦は紀元がキリストの生まれた年とされているところからもわかるように、 キリスト教の暦である。日本はという国は、キリスト教が国教のわけでも、キリスト教徒が 多いわけでもない。では何故、日本では西暦が使われているのか。そこまで考えたところで 意識はイランの暦に戻った。イランにおいて国教であるイスラーム固有の暦、イスラーム暦 は確かに使用されているが主流ではない。その座はイラン暦に奪われている。絶対的なイス ラーム国家であるはずのイランで、イスラーム暦がもっとも重要な地位を占めていないのは 何故なのか。イラン暦という暦に、イスラーム暦以上にイラン人を惹きつける何かがあるの だろうか。 イランはイスラーム国家であるが、イスラーム諸国の中でもその独自性は際立っている。 シーア派であるということだけでなく、イラン民族独自の文化との融合が見られるのだ。イ ランの歴史において、良くも悪くもイスラーム流入後とそれ以前のペルシア文化は比較され、 その趨勢によって時代が築かれてきた節がある。ここに謎を解く鍵が隠されている気がした。 この答えを知るために、イランの宗教面の歴史と「暦」とはどういうものかということ、イ ランでの暦の扱われ方に焦点を絞り、調べてみることにした。 第一章ではイランにおいてゾロアスター教が誕生し力を持つ過程とイスラームが流入し、 どのようにイスラーム国家になったかという過程を含めた歴史について述べる。第二章では 「暦」とはそもそも何のためにどのように作られたのかということと、どのような暦が存在 するのかということを述べた。そして第三章では、イランで使用されている暦の説明と、国 民からの暦の扱われ方について考察する。

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4 第一章 宗教と共に見るイランの歴史 イランという国は近代に至るまで、対外的には「ペルシア」という名前で知られてきた。 パフラヴィー朝(西暦1925-1979 年)の初代皇帝レザー・シャーによって、古くからイラ ン人自身が称してきた、アーリア人を意味する「イラン」に国名が変更されたのは、西暦 1935 年のことだった。ペルシアという名前は世界史でもよく見かける名称である。ではこ の国はどのように誕生し、どのような文化を保持してきたのだろうか。特に宗教の面を重視 してみてみることにしよう。これ以降、特に強調する箇所以外のペルシアという名称をイラ ンに統一して記すことにする。 第一節 イランの興りとゾロアスター教 イラン文化は、西暦紀元前八世紀にイラン高原におけるイラン民族の出現を始点に始まる。 アーリア人の一派であったイラン民族は、西は小アジアから東はウイグル自治区までを舞台 に活躍した。イラン民族はやがて王朝を設立した。それはキュロス 2 世によって興された アケメネス朝(西暦前550-330 年)である。アケメネス朝ではカンビュセス 2 世の古代オ リエント統一や、ダレイオス1 世のペルセポリス建設、クセルクセス 1 世のギリシア征服 計画などが知られている。繁栄を謳歌したアケメネス朝だったが、しかし西暦前 330 年に アレクサンドロス大王との戦いに敗れたダレイオス 3 世を最後に滅亡した。アケメネス朝 滅亡後はセレウコス朝シリアの支配下におかれたが、続いて興ったアルサケス朝(西暦前 247-西暦 224 年)がセレウコス朝の支配を破り、約 450 年の歴史を刻んだ。そしてアル ダシール1 世によってササン朝(西暦 224-651 年)が興り繁栄したが、西暦 651 年にイ スラーム軍の攻撃を受け滅亡し、ヤズデギルド 3 世が最後の王となった。このときからイ ランはイスラーム化の道へと進む。 この間の宗教を語る上で欠かせないのが、ゾロアスター教である。ゾロアスター教は、世 界最古の提唱者といわれるゾロアスター(ザラスシュトラ)が創始した宗教である。彼の在 世年代は西暦前600 年頃という説から西暦前 1300~1200 年頃という説、さらにはもっと 古く西暦前 1700 年頃まで遡るという説まで諸説ある。1だがゾロアスター教研究の第一人 者であるメアリー・ボイスによると、西暦紀元前1400~1200 年頃に生きたとするのがもっ とも有力だとされる。2ゾロアスター教は、善と悪の対立を軸とした考え方を持つ宗教であ る。その善の代表は、創造されたのではない唯一の神で、永遠に存在し、他のすべての慈愛 1 キャターユーン・マズダープール、「ゾロアスター教とゾロアスター教徒の変遷」、森茂男 編、『イランとイスラム』、春風社、2010 年、p.40 2 メアリー・ボイス著、山本由美子訳、『ゾロアスター教 三五〇〇年の歴史』、講談社、2010 年、p.28

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5 深い神々を含むあらゆる善なるものの創造主であるアフラ・マズダーであり3、その下に彼 の創造した六人の神が存在する。そしてさらにその下に数多の神々が創造されたのである。 アフラ・マズダーと六神を合わせた七大神の呼び名はアムシャ・スプンタといい、その六神 はウォフ・マナ、アシャ・ワヒシュタ、スプンタ・アールマイティ、フシャスラ・ワイルヤ、 ハウルワタート、アムルタートと呼ばれ、それぞれがゾロアスター教の特性を表わしている。 また、ゾロアスター教ではゾロアスターが信奉者たちに課した義務の一つとして、七大神 に捧げられた七つの祭りを祝うことがある。そのうちの六つは後にガーハーンバールとして 知られ、元々は牧畜や農耕に結びついた祭りだったとされる。その内容はマイドヨーイ・ザ ルマーヤと呼ばれる中春の祭り、マイドヨーイ・シュマという盛夏の祭り、パイティシャフ ヤという収穫の祭り、アヤースリマという家畜の群れの牧草地からの帰郷の祭り、マイドヤ ーイルヤという真冬を祝う祭り、そしてハマスパスマエーダヤという春分の前日である一年 最後の夜にフラワシの祭りである。残りの一つはノウルーズと呼ばれる春分の日の祭りであ る。ノウルーズとは現在のペルシア語で「新しい日」という意味で、新年が始まる日はこの 春分の日である。 現在、ゾロアスター教を信仰する者は大半がイラン国外に居り、国内ではゾロアスター教 徒を見かけることはあまりない。だがゾロアスター教の教えの片鱗が、イスラームで染め上 げられているはずの文化のそこかしこにまだ残っている。 第二節 イスラーム流入直後のイラン イランにおけるイスラームの流入は、前述のとおり西暦 651 年のイスラーム軍によるサ サン朝滅亡が契機となっている。西暦 610 年頃にアラビア半島で創始された一宗教は、そ れまで続いてきたゾロアスター教を飲み込みイランにイスラームを浸透させた。そのイスラ ームのイラン流入は、イランでよく知られるビービー・シャフルバーヌー伝説で後世に伝え られている。その内容はササン朝(西暦226―651 年)最後の王ヤズデギルド三世の娘であ るビービー・シャフルバーヌーが第三代イマームであるホセインに嫁ぎ、第四代イマームの 母となったというものである。この出来事が事実であったとは言い切れないが、この伝説か ら確かに言えることはササン朝が滅ぼされた時代にイラン文化にイスラームが流入し、混ざ り合ったということである。ササン朝が滅びた後西暦七世紀後半~九世紀後半、イランはウ マイヤ朝(西暦661-750 年)の支配下に置かれ、公用語としてアラビア語が定められるな ど政治的・言語的に独立性を失い、この時代に描き表わされた文献がほとんど残されていな いことから、この時代は沈黙の 2 世紀と呼ばれた。そのためこの時代に何が起こったのか を詳しく知る術はあまり残されていないが、イスラームがイランに広がり、後のイスラーム 3 メアリー・ボイス著、山本由美子訳、『ゾロアスター教 三五〇〇年の歴史』、講談社、2010 年、p.57

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6 国家の基盤が生まれたのはこの時であるに違いない。その後、イランは様々な王朝支配下に 置かれ、その中には「イスラームの黄金時代」を築いたアッバース朝なども含まれた。そし て西暦1501 年に興ったサファヴィー朝において、イランは初めてシーア派の十二イマーム 派を国教に任命したのである。これ以降イランでは、十二イマーム派の信仰が支配的になっ た。 第三節 パフラヴィー王朝期 パフラヴィー朝はガージャール朝を倒し、レザー・シャー(在位西暦1925-1941 年)に よって西暦1925 年に建国された。民族主義的な傾向を持っていたレザー・シャーは、聖職 者たちの影響力を弱めイスラーム以前のイランの文化を讃えた4。ヘジャーブの不着用を強 制し、アーリア人種である「イラン人」を強調して、ゾロアスター教はイラン固有の宗教で あるということに価値を見出した。ペルシア語からは、徹底的にアラビア語由来の単語を排 除しようとした。独裁的なレザー・シャーはイランからなるべくイスラームの要素を削ろう としたのである。 図1 パフラヴィー王朝下での女子大生、ヴェールを被らず肌も露出している 西暦1941 年にはレザー・シャーの後を継ぎ、モハンマド・レザー・パフラヴィーが二代 目皇帝に即位した。彼は、父の政策を受け継ぎ脱イスラーム型の近代化を目指した。西暦 1963 年には西欧化・近代化をうたい様々な分野で改革を行った白色革命を決行するが、貧 富の差が広がっていた国内においてはあまり歓迎されず、同年、大規模な反王制暴動が発生 4 宮田律、『物語 イランの歴史 誇り高きペルシアの系譜』、中央公論 新社、2002 年、 p.134

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7 した。この時、首謀者だと思われたホメイニー師は国外追放の処分を受けている。またモハ ンマド・レザー・パフラヴィーは、西暦1971 年にイランの世界遺産ペルセポリスにおいて、 キュロス大王がアケメネス朝ペルシアを建国した年から 2500 年が経ったことを祝い、「イ ラン建国2500 年祭」を開催した。 このようにパフラヴィー王朝期においては、脱イスラーム・西欧化を目指す皇帝に対し、 その恩恵を享受できない貧困層がイスラーム思想を熱烈に支持し、脱イスラーム思想に反感 を抱いていた宗教界と合流することによって王政を批判した。この結果、皇帝の考えとは反 対に、イスラーム思想を支持する声は高まっていき、ついに西暦1979 年に人々の想いが爆 発してイラン・イスラーム革命が発生したのである。 第四節 イラン・イスラーム革命後 導師イマーム・ホメイニーの指導の下、イラン国民がパフラヴィー王朝を倒し、イスラー ム共和政を打ち立てたのは西暦1979 年のことだった。革命の中心となったのは、近代化を 目指し西欧化・脱イスラームを勧めたパフラヴィー王朝への反発心を持つ人々であり、その 中にはイスラーム宗教界の人間も多く含まれた。革命後、政権を握った彼らは、それまでの 政策の多くを廃止し、新しい政策を実施した。まず始めにイスラーム共和国憲法が発布され、 その第四条において「民法、刑法、財政、経済、行政、文化、軍事、政治ならびにその他の 法律と規則は、イスラームの基準に基づかなければならない」という規定がなされた。その 結果生まれた規則には、次のようなものがある。まず有名なものに、女性のヴェール・イス ラームコート着用義務化と髪の露出の厳しい禁止が挙げられる。最初の頃、これを守る女性 は尐なかったが、革命防衛隊による厳しい摘発を受け、次第に女性たちはヴェールを被り始 めた。この時のイランの様子について、人権擁護弁護士でありエッセイストでもあるイラン 人女性、メーランギーズ・カールは次のように述べている。 ヴェールを着用したくない女性たちは、イスラーム革命の指導者らの命令にすぐには従 わなかった。仕方なく承認するまでに数年かかった―――私たちが承認した一番の理由は、 従わないと罰せられるという恐れからだった。イスラーム風のヴェールの着用を最初に強 要されたのは、女性マネキンだった。こうしたマネキン人形が、私たちの国の社会的、政 治的歴史の変化がわが身に降りかかりつつあることを、じわじわと実感させるようになっ た。 だが、最初のうち、マネキンの衣装が一夜にして変わったことが、イラン女性にヴェー ルの着用を強要する重要な兆候とは思われていなかった。そこで体制側は、常套手段とし て、女性の顔や素肌の露出している部分に酢を吹きかけるようになった。新たに設置され た“政府検閲センター”の標的にまだなっていなかった新聞、雑誌は、こうした狂暴な事

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8 件をイラン人に知らせはじめた。恐怖の影が、すでに無数の女性たちから希望の輝きを奪 ってしまっていた。イラン女性はやがて、新体制下では、権威者が昼夜を問わず、公私両 面で監視していて、自分らしい活動がまったくできないため、命のない物体以外の何もの でもなくなったと感じるようになった。5 彼女の言葉からは、革命の成功に湧きたっていた国内にじわりと広がる不信感が読み取れ る。厳しいイスラーム体制への最初の布石はこのようにして敷かれたのである。その他の改 革では、法的制度がイスラーム法に基づいて裁判もイスラーム法によって行われるようにな ったことや宗教・アラビア語の教育が重視されるようになったこと、テレビやラジオの番組 の内容が監視され宗教的なものに偏っていったことなどがある。特に西暦1980 年に勃発し たイラン・イラク戦争の後には、イスラーム体制の強化が行われたようである。 だが最近、ヴェールの着用をとってみても、さすがに屋外でヴェールを着けずにいる女性 は見かけないが、色が派手になってきたり、髪が見えていたりと以前比べるとイスラーム体 制の締め付けが緩やかになってきている。革命後、イスラーム体制をとることをはっきりと 周囲に知らしめたヴェール着用義務の緩みは、イスラーム体制が革命直後より力を失ってき ていることを示していると思う。 5 メーランギーズ・カール、「マネキンの死」、レイラ・アーザム・ザンギャネー編、『イラ ン人は神の国イランをどう考えているか』、草思社、2007 年、p.68

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9 第二章 「暦」とは 第一章ではイランと宗教、特にイスラームとの関係性を時代ごとに辿ってみたが、この章 では、暦について述べようと思う。「暦」とはもともと天体観測に基づく年月日の数え方の ことをいう。英語のカレンダーは「宣言する」という意味のラテン語calendae に由来する らしい。それは太陽暦が導入される前の古代ローマにおいては、祭司が月の満ち欠けを観測 し、新月が出現すると「月が出た」と人々に知らせて、一カ月の始まりを宣言したからだと いう6。では、月の満ち欠け以外を用いて作られた暦はないのだろうか。イランの暦の話を する前に、まず暦とはどのようなものなのか、人々にとってどのような働きを果たしてきた かを考えてみよう。 そのために、第一節では世界に存在する暦とその成立過程について軽く述べ、第二節では 日本で使用されている暦についても改めて学びなおしてみる。そして、その知識を前提に第 三章ではイランで使用されている暦を見てみることにする。 第一節 暦の分類と成り立ち それではまず暦とは一体どのようなものなのかというところから述べることにする。暦は 西暦前八世紀から三世紀ごろの、東西交流がなかった時代に各地域で同時多発的に誕生した と言われている7。人々が生活する上で、生きていくためのサイクルを知るために暦は欠か せないものであり、それはどの文明にも共通して言えることなのである。 暦はその成り立ちから大きく4 つに分けることが出来る。 Ⅰ 太陰暦 Ⅱ 太陽暦 Ⅲ 太陰太陽暦 Ⅳ 自然暦・恒星暦を含むその他の暦 その中でも特に、Ⅰ~Ⅲを総じて三大暦法と呼ばれることもある8 以下では、それぞれの詳細とどのような暦があるかについて述べる。 6 吉岡安之、『おもしろくてためになる 暦の雑学事典』、日本実業出版社、1999 年、p.42 7 吉岡安之、『おもしろくてためになる 暦の雑学事典』、日本実業出版社、1999 年、p.98 8 大岩川嫩、「暦の歴史をめぐって」、小島麗逸・大岩川嫩編、『「こよみ」と「くらし」-第 三世界の労働リズム-』、アジア経済出版会、1987 年、p.245

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10 Ⅰ 純粋太陰暦 初めに誕生した暦はどの地域においても、月の満ち欠けに基づいた太陰暦であった。 灯りの数が尐ない時代に、人々は夜間の闇の中、空を見上げ月を見ることが日常的であ ったと考えられる。そして、満ち欠けを繰り返す月から暦を編み出したのである。一か 月が満ち欠けの周期に当たるほぼ29.5 日であり、一年はほぼ 354 日となる。そのために 一年が太陽暦に比べ11 日短くなり、季節とずれが生まれるため、日にちを数えることは 出来るが、季節が重要な意味を持つ農業などに使用することは出来なかった。このずれ を解消するため、数年に一度、閏月を置いて利用するものあったが、それは太陰太陽暦 と呼ばれるため後に記す。具体例としてはイスラーム暦(ヒジュラ暦)、ジャワ暦、ユリ ウス暦以前のローマ暦が挙げられ、特に以下ではイスラーム暦について詳細を述べる。 イスラーム暦 現在でもイスラームの国々で使用されている純粋太陰暦であり、イランで使用されてい る暦の一つである。イスラームの預言者ムハンマドがメッカからメディナにヒジュラ(聖 遷)した西暦 622 年を紀元としている。この純粋太陰暦とは、閏月などを置いて日にち を調整しないため一年が 354 日のままであり、行事などが季節とずれていく暦のことで ある。イスラーム暦においては、ラマダーン(断食月)の時期が真夏にあったり真冬にあ ったりすることになる。西暦2011 年 1 月現在は、イスラーム暦紀元から数えて 1389 年 目にあたるが、イスラーム暦では1431 年になるのである。この閏月を置かないというシ ステムは、当時政治に利用され混乱していた暦を安定させるためにムハンマドが決定した ものであり、それはクルアーンにも記されている。 まこと、(一年の)月の数は、アッラーが天地を創造された日に定め給うたところ によって十二あり、そのうち四ヶ月が神聖月。これが正しい宗教(の掟)じゃ。 されば、この期間には汝らお互いに害し合ってはならぬぞ。だが、多神教徒は徹 底的に攻撃するがよい。向こうでも汝を徹底的に攻めて来るからは。アッラーは あくまで懼神の心敦い者の味方をし給うことをよく心得ておけよ。 (第九章 三十六節)9 ムハンマド以前の暦では閏月が用いられ、季節と月がずれていなかったという証拠があ る。イスラーム暦の月名を見てみよう。 9 井筒俊彦訳、『コーラン (上)』、岩波書店、2004 年、p.256

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11 イスラーム暦の月名 意味 1 月 ムハッラム (戦いを)禁じる月 2 月 サーファール (戦いで)虚ろな月 3 月 ラビー・ウル・アウワル 春の月1 4 月 ラビー・ウッ・サーニー 春の月2 5 月 ジュマー・ダル・アウワル 寒い月1 6 月 ジュマー・ダッ・サーニー 寒い月2 7 月 ラジャブ (ムハンマドの昇天)神聖な月 8 月 シャーバーン 預言者の月、離散の月 9 月 ラマダン 断食の月、暑い月 10 月 シャウワール 尾の月 11 月 ズルカイダ (戦のない)安住の月 12 月 ズルヒッジャ 巡礼月 表1 イスラーム暦の月名とその意味 イスラーム暦は太陰暦であるため、毎年何月がどの季節に来るかということは尐しずつ 移動する。だが上記のように、月名の意味を見ると「春の月」や「寒い月」、「暑い月」と いう表現をみつけることが出来る。ここから、ムハンマド以前では月名が毎年ある季節と 大体の一致をみせていたということが言えるだろう。 Ⅱ 太陽暦 太陰暦に続いて誕生したのは、季節の巡りに基づいた、すなわち太陽の周期に基づいた 太陽暦である。見かけ上、太陽が地球の周りを一周して元の場所に帰った長さを一年とす る暦であり、太陽が春分点を通過し、次にまた春分点を通過すると一年が経過している。 この太陽暦は、人類が農耕を始めたことにより生まれた。季節の移り変わりがもたらす雤 期や乾期、日光の差し具合、大河の氾濫など農業を行う上で、指針になるサイクルを太陽 に求めた結果である。一年はほぼ 365 日であり、年始のとり方や毎月の日数は各々の太 陽暦によって異なる。現在グローバルスタンダードとなりつつあるグレゴリオ暦(日本の 西暦)やイラン暦、フランス革命暦、ソヴィエト連邦暦などこれにあたる。グレゴリオ暦 を例に挙げて説明しよう。 グレゴリオ暦(西暦) 元々ユリウス暦と呼ばれた暦を改良して作られた。ユリウス暦は西暦前45 年にローマ のユリウス・カエサルによって導入されたものであり、彼は愛人であったクレオパトラ7

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12 世の治めるエジプトのシリウス暦を手本にしたと考えられている。現在、西暦1528 年と 呼ばれる年にローマ教皇グレゴリウス十三世が制定した。一年が 365 日であり、四年に 一度、四で割り切れる年に閏日を置くが、百で割り切れても四百で割り切れない年だけが 閏日を置かないとしたものである。西暦2000 年は、百で割り切れさらに四百でも割り切 れる年にあたるため閏日を置くのだが、混乱が起こった。現在世界で使用されている暦の 中でもグローバルスタンダードとされているものである。 Ⅲ 太陰太陽暦 太陽暦は一年が約365 日であり、太陰暦は約 354 日であることから、二つの暦の間に は三年で約 1 カ月の誤差が生まれてしまう。これを解消するために太陰暦に随時閏月を 置いて、太陽暦とのずれを解消した暦である。月の運行に従っているため、月を観測す ればその日が月のどのあたりなのかがわかる。世界で最も早くこの暦が用いられたのは メソポタミア文明とされ、古代ギリシアなどでも使用された。日本でいう旧暦もこれに あたる。旧暦の説明は、この次の節で行う。 Ⅳ その他の暦 Ⅰ~Ⅲの暦以外にも、自然暦や恒星暦といったような暦が存在する。北海道のアイヌ 民族の暦を例に自然暦をみてみよう。 アイヌ民族の暦の月名 ・祝月(または、日がそこから長くなる月) ・鳥が出て鳴く月 ・ヒメイズイを採り始める月 ・ヒメイズイをさかんに採る月 ・ハマナスを採り始める月 ・ハマナスをさかんに採る月 ・木の葉の初めて落ちる月 ・木の葉がさかんに落ちる月(または、サケの来る月) ・足の裏が冷たくなる月 ・たいまつでサケを捕る月 ・弓が折れるほど狩をする月 ・海が凍る月 自然暦は季節感を頼りにした原始的な暦であり、月名からもわかるように、採取・狩

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13 猟を中心とした生活を送っていたアイヌ民族では、植物や動物の生態を基準に暦が決め られていた。「ハマナスを採り始める月」など、このような知識がない人間から見るとま るで暦が分からないが、アイヌ民族にとってみればこれで立派に通用するのだから問題 はないのである。これが農耕を中心とした民族になると、種まきや刈入れなどを基準に した自然暦を作成したと考えられる。 また恒星暦とは、太陽と星との関係性から作られた暦である。時が巡り、太陽とある星 との位置関係が同じになった時に、一年が経過したとみなすのである。 シリウス暦 人類最古の太陽暦とされ、エジプトで用いられた。恒星の中で最も明るいシリウス(お おいぬ座のアルファ星)が日の出直前に東の地平線に出現する現象が365.25 日ごとにあ ることに着目して案出された。しかし、その意味でこれを恒星暦とする意見もある。 このシリウス暦も一年に0.25 日ずれていたが、西暦紀元前 238 年にプトレマイオス三 世が誤差に気づき四年に一度、閏日を置くようにした。 何度か登場した、暦と季節のずれを解消するために閏を置く置閏法は、西暦前八世紀頃 に発見され西暦前五世紀頃にギリシアで確立された。この暦が著しい発達を遂げた時代は、 インドで釈迦、中国で孔子、ギリシアではソクラテスが誕生するなど「哲学の基軸時代」 と呼ばれた時代と一致する。 また暦は宗教と切っても切り離せない関係にある。元来、宗教の発生理由には以下の二つ が挙げられると考える。一つは、死に対する恐怖感であり、もう一つは自然に対する畏怖心 からの自然崇拝である。特に世界中どの地域の古代神話においても見られるのが、太陽と月 の化身である神々だ。例えば、日本の神話にも天照大神という太陽神が存在するし、よく知 られているところだとギリシア神話のアポロンやエジプト神話のアメンが思い浮かぶ。月の 神だと月読命やギリシア神話のアルテミスやローマ神話のルナなどが挙げられる。そしてこ の章でも述べてきたように、暦はもともと天体を観測し、月と太陽の動きを観測して作られ たものなのである。月名や曜日名などに神々の名前が用いられていることも多い。よって暦 を語る時に宗教の要素を排除して語ることは不可能であると言える。そして暦は、その神々 がつかさどり流れゆくものであり、ある宗教の内面を表現しているものに他ならない。以上 のことから、ある暦を使用することは、ある宗教の世界観を覗き、触れていることに値する と思う。 暦を学ぶうちに感じとったもう一つのことは、時の流れを自由に裁断出来る暦は、時すら も己れの支配下に置きたい支配者たちにとって大変重要なものであったということだ。その 時代の暦を見れば、支配者がわかると言っても過言ではない。

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14 第二節 日本の暦 では次に日本ではどのような暦が使用されているかを見ることにしよう。まず思いつくの は、西暦と元号を使う和暦であろう。現代の日本での利用頻度からは尐し意外に思えるが、 日本で西暦が使用されるようになったのは明治5 年、西暦でいうと 1872 年のことである。 日本で改暦というとこの時のことを表すことが多い。これは、西暦1854 年の日米和親条約 で日本の鎖国が終わり、西洋の暦に合わせる形で施行された。その時代に掲げられた「富国 強兵」「脱亜入欧」「文明開化」などのスローガンの下で、その一環として施行されたのだ10 しかし、実際に国民の間で使用され始めたのは第二次世界大戦(西暦1941-1945 年)後で あったとされる。また同時期の近隣の国々を見ても、韓国が西暦 1895 年に、中国が西暦 1912 年に太陰太陽暦から太陽暦であるグレゴリオ暦(西暦)に改暦していることが分かる。 和暦の歴史はかなり時代を遡り、飛鳥時代の西暦 645 年に孝徳天皇が定めた大化がその 始まりであったとされる。その後、天皇の代替わり時や不吉な出来事が起こったとき、病が 流行したときなどを契機に元号は変わり、2012 年現在までに約 250 の元号が使用されてき た。西暦1868 年に採用された明治以降は、一人の天皇につき一つの元号が使用されている。 西暦1979 年には元号法が定められ、その中で「元号は、皇位の継承があつた場合に限り改 める。」11との一文がある。これにより、現代では天皇が代替わりする時にのみ元号が変わ ることとなっている。また、この元号法に関して、「元号法は、その使用を国民に義務付け るものではない」という政府答弁が出ており、日本国民は必ずしも元号だけを利用する必要 はないということがはっきり言明されているのである。しかし、日本の役所を訪れ、書類を 見てみると必ず和暦が使われている。いくつもの元号を併記し選択させるよりも、西暦を用 いた方が表記しやすいのは明らかであろう。昔から使われてきた日本文化を主張したいので あろうかとも考えられたが、これは年配の方への配慮であるらしい。先述の通り、西暦は第 二次世界大戦後に一般の人々にも普及し始めたため、現在の年配の方々は西暦より和暦の方 が馴染みが深いと言う。若者たちの間では当たり前の西暦も、日本で使用されるようになっ たのは昔のことではないと思い知らされるようである。では日本のマスコミではどちらが使 用されているのだろうか。代表して新聞を見てみると、全国紙 5 紙のうち和暦を用いてい るのは産経新聞のみであり、残りの朝日新聞、日経新聞、毎日新聞、読売新聞の 4 紙は西 暦を用いている12。ここから、どちらかというと右派寄りである産経新聞のスタンスが読み 取れると思う。やはり暦は宗教や文化を読みとらせる鍵だろう。 今まで西暦と和暦について語ってきたが、日本には忘れてはならない暦があと一つある。 旧暦と呼ばれる暦である。これは西暦1872 年の改暦より前の暦のことを指し、一説には太 10 小林弦彦、「日本の旧暦 見捨てられた文化遺産」、『アジア遊学 カレンダー文化』106 号、勉誠出版、2008 年、p.30 11 http://law.e-gov.go.jp/cgi-bin/strsearch.cgi 12 筆者調べ。2012 年 1 月 1 日現在。

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15 陰太陽暦であった天保暦(西暦1844-1872 年)のことを指すと言われるが、置閏法などが 同じなだけであり厳密に言うと天保暦のことではない。この旧暦は4000 年以上前に中国で 開発された太陰太陽暦であり、一年が 354 日ある。これだけだとイスラーム暦などに代表 される太陰暦なのだが、四季がある中国では季節のずれを修正するために19 年に 7 回閏月 を置いたのである。すなわち19 年のうち 7 年は 1 年が 13 カ月あったのだ。ところでこの 旧暦、名称だけは聞いたことはあるが実態はよくわからないという日本人も多いと思う。し かし、実は現代でも行われている行事の多くが旧暦からきているものなのである。現代の新 暦(太陽暦)においてそれぞれの行事の日取りは、以下の三つに分類され決められている。 Ⅰ 旧暦の日付をそのまま新暦の日付としたもの Ⅱ 旧暦の日付を一カ月遅らせ新暦に適用したもの Ⅲ 旧暦をそのまま用いるため毎年日付が変わるもの13 Ⅰ 旧暦の日付をそのまま新暦の日付としたもの 五節句が挙げられる。陰陽思想では奇数が陽とされ、節句はその陽の数字が重なり、 力が強くなり過ぎる日を抑えるため祝われるようになった。内容は七草(1 月 7 日)、 雛祭り(3 月 3 日)、端午(5 月 5 日)、七夕(7 月 7 日)、重陽(9 月 9 日)であり、こ れらの節句は旧暦の日付のまま新暦でも祝われている。 Ⅱ 旧暦の日付を一カ月遅らせ新暦に適用したもの お盆が挙げられる。もともとお盆は旧暦の7 月 15 日だったが、一カ月遅らせ、新暦 の8 月 15 日に行われるようにした。 Ⅲ 旧暦をそのまま用いるため毎年日付が変わるもの 仲秋の名月が挙げられる。仲秋の名月は旧暦の8 月 15 日であるが、それを新暦に合 わせると当日にほとんど満月があたらなくなってしまうので、旧暦のまま行われる。 そのため毎年日にちが違い、それは新暦・旧暦対応表で調べることが出来る。例えば 西暦2011 年の仲秋の名月は 9 月 12 日であり旧暦の 8 月 15 日にあたるのだが、それ は次の表からも読みとることが出来る。 13 小林弦彦、「日本の旧暦 見捨てられた文化遺産」、『アジア遊学 カレンダー文化』106 号、勉誠出版、2008 年、p.33

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16 表2 西暦 2011 年(平成 23 年)9 月中旬 新暦・旧暦対応表14 新暦 9/10 9/11 9/12 9/13 9/14 9/15 9/16 9/17 9/18 9/19 9/20 旧暦 8/13 8/14 8/15 8/16 8/17 8/18 8/19 8/20 8/21 8/22 8/23 以上の行事のほかに、季節を表す言葉も旧暦が使用されている。旧暦で表すと、1 月 1 日 に新年を迎えたあと1~3 月は春にあたり、4~6 月は夏、7~9 月は秋、10~12 月は冬にあ たる。これは実際に冬が始まる12 月に、冬物売りつくしバーゲンが行われたりするなどの 矛盾を生んでいる。また梅雤の時期にあたる六月を水無月と呼ぶことからも、この呼び方が もともと旧暦を指していたことがわかる。では旧暦からもたらされた月名を見てみよう。 表3 日本の月の別名(旧暦から由来するが新暦にも適用) 月名 由来 1 月 睦月 親類知人が互いに往来し、仲睦まじくする月。 2 月 如月 寒さで更に着物を重ねて着ることから「着更着」 3 月 弥生 「弥」は「いよいよ」、「生」は「生い茂る」。草木が芽吹く 月。 4 月 卯月 卯の花が咲く月。 5 月 皐月 耕作を意味する「さ」から、稲作の月。 6 月 水無月 水の無い月。 7 月 文月 書道の上達を祈った七夕の行事に因み「文披月」の略。 8 月 葉月 葉落ち月の略。 9 月 長月 夜がだんだん長くなる月で、夜長月。 10 月 神無月 全国の神々が出雲大社に集まり、いなくなることから神無し 月。 11 月 霜月 霜降り月の略。 12 月 師走 師匠の僧がお経をあげるため東西に馳せる月で、「師馳す」 先ほども述べたように、水無月はもともと暑くなり水が足りなくなる季節の月であったが、 今では梅雤の季節にあたり、矛盾が生じてしまう。他の月もみると、卯月の由来である卯の 花は5-7 月に咲く花であるし、葉月の由来である葉落ちは 10-12 月頃に起きるものであ る。如月や神無月、霜月も季節とそぐわない点が見受けられる。 このように普段何気なく使っている言葉からも、旧暦の片鱗が読みとれるのである。 14 http://www4.plala.or.jp/zao2/life/calender2011.xls より抜粋

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17 第三章 イランの暦と革命前後での暦に対する国民の態度の変化 第二章では「暦」がどのようなものなのかと世界で使われている暦の紹介、そして日本の 暦について述べてきた。暦とは、生活するうえで人類が欠かせない、時のサイクルを知る手 段であり、またその時代の暦をみると人物であれ、宗教であれ時代の支配者がわかるという 文化を学ぶ上で非常に重要な要素である。イスラーム共和国であるイランでは、果たして支 配者は「イスラーム」なのだろうか。 では第一章・第二章で述べたことを念頭に、イランの暦を見ていこうと思う。第一節では イランで歴代使用されてきた暦と現在も使用されている暦の概要を説明し、第二節・第三節 ではイランがイスラーム共和国となった西暦1979 年のイラン・イスラーム革命前後で、指 導者と国民が暦に対してどのような態度をとり、それは何のためかということを考察する。 第一節 イランで使われている暦 それではイランで使用されている暦について見てみることにしよう。イランでは公式 に 3 つの暦が併用されて使われている。一つ目はイラン暦、二つ目はイスラーム暦、三つ 目は日本で西暦と呼ばれるグレゴリオ暦である。イラン暦が国内において一番多く使用され、 イスラーム暦はイスラームの宗教行事において、西暦は外国との外交時においてのみ使用さ れている。またこれらの暦に至るまで様々な暦がイラン民族のもとで使用されてきた。オー ルド・アヴェスター暦、オールド・ペルシア暦、ヤング・アヴェスター暦、ジャラーリー暦 などが挙げられる。またパフラヴィー王朝下ではわずかの期間、帝王暦という暦が使用され た。この暦については第三章で述べる。では、イラン民族に使用されてきた暦の歴史を簡単 に辿ってみよう。 一番初めに誕生したのはオールド・アヴェスター暦である。この暦は、一年が12 カ月× 30 日の 360 日である太陰太陽暦で、太陽年との誤差の修正が行われなかったため、次第に 正月がずれていった。この暦は、六つの大きな祭りを節目とし一年を決めたものである。こ の暦は、通常の暦の成立形態と同じように月の観測から誕生し、そこに農業的要素と宗教的 要素が加わったものと考えられる。 次に生まれたのがオールド・ペルシア暦と呼ばれる暦である。この暦は、キュロス二世が 創始したアケメネス朝(西暦前550~西暦前 330 年)で使用された。オールド・アヴェス ター暦と同じく太陰太陽暦であり、バビロニアやアッシリアの影響を受けていたとされる。 この暦も太陽年との誤差修正が行われず、正月がずれていった。

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18 その後登場したのが、アケメネス朝のエジプト征服の結果、エジプト太陽暦の影響を受け て生まれたヤング・アヴェスター暦である。またゾロアスター教の影響も強く見られ、ササ ン朝(西暦224~651 年)で広く用いられた。現在のイラン暦の土台となっている暦であり、 一年が 365 日の四年に一度閏日を置くものであったが、閏が軽視されたため正月はずれて いった。各月にゾロアスター教の神の名前、各日にもそれぞれ神の名がつけられ、これは現 在におけるイラン暦でも使用されている。 ジャラーリー暦は西暦1079 年にセルジューク朝(西暦 1038~1194 年)のマリク・シャ ーの命により、詩人でもあるオマル・ハイヤーム15らがつくりあげた暦である。春分を新年 とした太陽暦である。これは当時普及していたイスラーム暦が太陰暦であったため、様々な 不具合が生じたために作成に至ったと考えられる。ジャラーリー暦の名前は、マリク・シャ ーの称号「ジャラール・ウッ・ダウラ」に由来している。このジャラーリー暦でもヤング・ アヴェスター暦の月名が使われ、ゾロアスター教の神の名は残った。 それでは現在も使われているイラン暦を見てみよう。イラン暦は国内で一番使用頻度の高 い暦である。ジャラーリー暦に改良を加えて、西暦1925 年にパフラヴィー朝(西暦 1925 ~1975 年)のもと施行された。一年が 365 日ある太陽暦であり、西暦 622 年を紀元として いるこの暦は、春分の日(3 月 21 日前後)を 1 月 1 日とすることで知られており、その新 年を迎える瞬間は正確に秒単位で計算されている。春分の日を新年とすることは、ササン朝 から始まったという説が有力である16。その由来にはすべての植物が芽吹く新しい時の始ま り、ということが挙げられ、これは日本の新年1月からを春とする暦と似ている。先述のと おり、月の名前、日の名前はゾロアスター教の神々の名前を使用したヤング・アヴェスター 暦のものがそのまま使用されている。以下の表がイラン暦の月の名前を一覧にしたものであ る。今回、由来になった神々の名前はアヴェスター語で示した。 15 オマル・ハイヤーム(西暦 1048-1131 年)、代表作は『ルバイヤート』 16 中西久枝、「イランの暦に見るイラン人の世界観と生活文化」『アジア遊学 カレンダー 文化』106 号、勉誠出版、2008 年、p.124

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19 表4 イラン暦の月名 月名 ペルシア語 由来になった神 西暦での該当期間 1 月 ファルヴァルディーン نیدرورف フラワシ 3/21-4/20(31 日) 2 月 オルディーベヘシュト تشهبیدرا アシャ(ワヒシュタ) 4/21-5/21(31 日) 3 月 ホルダード دادرخ ハルワタート 5/22-6/21(31 日) 4 月 ティール ر تی ティール 6/22-7/22(31 日) 5 月 モルダード دادرم アムルタート 7/23-8/22(31 日) 6 月 シャフリーヴァル رویرهش フシャスラ(ワルヤ) 8/23-9/22(31 日) 7 月 メフル رهم ミトラ 9/23-10/22(30 日) 8 月 アーバーン نابآ アナーヒター 10/23-11/21(30 日) 9 月 アーザル رذآ アータル 11/22-12/21(30 日) 10 月 デイ ی د アフラ・マズダー 12/22-1/20(30 日) 11 月 バフマン نمهب ウォフ・マナフ 1/21-2/19(30 日) 12 月 エスファンド دنفسا スプンタ・アールマ ティー 2/20-3/20(29 日) ゾロアスター教において信仰される神々は多い。その中でも月名の由来になった神々は、 いずれもゾロアスター教において重要な地位を占める神である。創造主アフラ・マズダーと 六大神、そしてそれに準じる神々。それぞれの神がその月の神に任ぜられたのはそれぞれ理 由があるとされる。ゾロアスター研究の第一人者であるメアリー・ボイス氏の言葉を借りる と、たとえば悪の力が最強になる真冬の月には創造主が献じられ、ペルシアで雤が待ち望ま れる10~11 月には水の女神アナーヒター、古い火の祭りサダがあった 11~12 月には火の 神アータルが任じられたのである。17それぞれの日の神は、月の神に任ぜられた神々に、20 人ほどの神々が加えられ任ぜられた。これにより、それぞれの神の月に、それぞれの神の日 が存在することとなった。その月と日の名前が一致する日は、その神を祝うための日となっ たのである。たとえば、メフル月のメフル日は太陽神ミトラに感謝を捧げる秋の収穫祭でメ フルガーンと呼ばれ、デイ月アフラ・マズダー日には冬至に関係したデイガーンという祭り が行われた。エスファンド月のエスファンド日は大地を守護する女神スプンタ・アールマテ ィー(旧名セパンダルマズ)を祝い、スプンタ・アールマティーが象徴する女性を称え、男 性が女性の言いつけを聞いたりするセパンダルマズガーンの祭りが開かれた。ちなみにこの 17 メアリー・ボイス、『ゾロアスター教 3500 年の歴史』、講談社、2010 年、p.151

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20 祭りは、現在では西欧から入ってきたバレンタインと重ねられて行われることが多いという。 下の写真は、イラン国内で使用されているゾロアスター教のカレンダーであるが、それぞ れの日にちのところに、イラン暦・イスラーム暦・西暦の日付とそれぞれの日の神の名前が 書かれている。 図2 イラン国内で使用されているゾロアスター教カレンダー (イラン暦1389 年アーバーン月) 18 現在、新聞やラジオ、公文書などでも一般的に使われているイラン暦は、イスラーム国で あるイランで使われているとは思えないほど、その成り立ちや名前をたどるとイラン民族の 伝統やゾロアスター教の信仰などのイスラーム以外の要素が見出される。イランの行事につ いても見てみることにしよう。 イランにはいくつもの行事が存在するが、それはシーア派・スンナ派問わずイスラームに 関連して生まれた行事と、イスラーム流入以前の古代ペルシアの時代から行われていた行事 という二つに大きく分類することが出来る。今回は古代ペルシアから受け継がれてきた行事 のみに焦点を当ててみるが、その一つにもっとも有名なノウルーズがある。 18 イラン暦 1389 年(西暦 2010-2011 年)カレンダー、

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21 ノウルーズとはペルシア語で「新しい日」、すなわち新年のことを指し、先ほども述べた ようにそれは春分の日のことである。ササン朝から始まったという説が有力であるという話 からもわかるようにイスラーム以前の行事である。この行事に関して、『ノウルーズ・ナー メ』という書が存在する。その意味は「新年の書」であり、内容は誰が何のためにノウルー ズという祭りを制定し、何故後世に伝えられたかを示すものである。これはおそらくセルジ ューク朝で執筆され、その作者はオマル・ハイヤームとされる説があるが真偽のほどははっ きりしない。では、ノウルーズはどのような意味を持っている行事なのだろうか。ノウルー ズはゾロアスター教の思想の中に在る「光」が象徴的に表されているとされ、暗い冬のあと の光溢れる春の到来は、暗黒時代から光の時代への移行であり、また悪なる暗い冬に春と言 う善なる光が打ち勝つという二重の意味を持っているのである19。ノウルーズはイラン・イ スラーム革命後、公式の場で祝うことが一旦禁止されていたが、国民に根付いた文化を取り 除くことは出来ず、しばらくして禁止が撤回された。 またこのノウルーズに関連した行事が二つある。一つはノウルーズ前の最後の水曜日に、 火を焚きその上を飛び越す行事であり、チャハールシャンベスーリーという名前である。こ れは無病息災を祈り、悪と不幸を払って願いを叶えるための行事で、古代のイラン人の中で 行われてきたものである。この日、人々は日が暮れると火を焚き、大人も子どもも火の上を 3 回飛び越え次のような歌をうたう。 私の黄色はお前に、お前の赤色は私に 悲しみよ去れ、喜びよ来い、不幸よ去れ、運よ来い さぁ水曜の夜よ、我が願いを叶え給え20 黄色とは不健康を、赤色は健康を表している。こうすることで、自らの黄色(不健康) を火に与え、火から新鮮さの象徴でもある赤色(健康)をもらうのである。この行事も革 命後、一時期禁止されたがイラン国民がこの行事を行い続けたため、禁止は撤回された。 だが最近でもイラン政府はこの行事を快く思っていないらしく、西暦2010 年には日本の 読売新聞でも「最高指導者ハメネイ師は、イラン国民にチャハールシャンベスーリーへの 不参加を呼びかけたが多くの国民がこれを無視し参加した。現イスラーム体制は以前から この行事の実施に批判的だった。」という記事が掲載された。ただここ数年は、この日に 若者たちが路上で爆竹を鳴らして騒ぎ、無病息災を祈る行事の要素はあまりみられなくな った。 もう一つの行事はスィズダベダルと呼ばれ、イラン暦の1 月 13 日に行われる。この日 はとにかく家の中にいることが悪いことが起こるとされ、人々は誘いあって街の郊外へピ 19中西久枝、「イランの暦に見るイラン人の世界観と生活文化」『アジア遊学 カレンダー 文化』106 号、勉誠出版、2008 年、p.123 20 http://www.hamshahri.net/news-17711.aspx

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22 クニックに出掛ける。これもイスラーム流入前からの伝統行事である。 図3 スィズダベダルの様子 以上のノウルーズに関連する諸行事のほか、冬至など多くの年中行事がイラン暦に基づい て行われている。 これらのイラン暦・行事に関するイスラーム以外の要素は、イスラームが進入し、イスラ ーム革命を経て現在に至るまで、どのように扱われてきたのか。また、この暦に対し、近現 代のイランの為政者たちはどのようなアクションを起こしてきたのか。 第二節 パフラヴィー王朝期の暦 パフラヴィー王朝(西暦1925-1979 年)の前のガージャール朝(西暦 1794-1925 年) において、使用されていた暦はイスラーム暦である。先述のようにセルジューク朝(西暦 1038-1308 年)下でオマル・ハイヤームらによって作成されイスラーム暦に代わって施行 されたジャラーリー暦は、セルジューク朝の衰退とともに再びイスラーム暦にとって代わら れガージャール朝期に至るまでその体制が続いたのである。しかし、パフラヴィー王朝初代 皇帝レザー・シャーによって西暦1925 年に、ジャラーリー暦は再度イランの公式の暦とな る。そしてそのジャラーリー暦は以前のものに改良が加えられ、現行のイラン暦と同じもの になった。改暦の背景には、レザー・シャーが推し進めた近代化政策である西欧化があると 思われる。その後、第二次世界大戦が勃発し、枢軸国側のドイツについたイランは戦争で敗 北して、イギリスとソヴィエト連邦の進駐を受けることになった。そしてこの二国の圧力を 受けレザー・シャーは退位し、長男であったモハンマド・レザー・パフラヴィーが新たな皇 帝となった。彼は、強力な近代化政策を推進し、脱イスラーム・ペルシア返りの政策を多々 実施したのである。西暦1976 年には、新たな暦への改革が行われた。これはアケメネス朝

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23 ペルシアのキュロス大王の即位年である西暦紀元前 559 年を紀元とした暦を作成し施行す るというものであった。つまりこの年は帝国暦2535 年ということになったのである。この 改革の狙いは誇り高きペルシアへの回帰だと思われるが、それはイラン国民には受け入れら れなかった。その理由を岡崎正孝は次のように語る。「イラン人にとって、アケメネス朝は 栄光の過去であった。古い歴史をもつことを、イラン人は誰しも誇りとしてきた。しかし、 長く慣れ親しんできた暦の変更に人々はとまどった。レザー・シャーの改正時もイスラーム 暦の1344 年がイラン暦 1303 年に変わった。けれども当時は、庶民の生活に「年」はたい して重要ではなかった。50 年間でイラン人の生活は大きく変わっていた。「年」は生活に必 要不可欠となっていた。21」 またその他にも、近代化を進める王朝下では貧富の差が広が り、近代化の意識を持ちその恩恵を受けていた人々が富裕層を中心としていたため、貧困層 は近代化を嫌い敬虔なイスラーム信仰を主張して反王制の態度を示した。その結果、改暦に より暦からイスラーム要素が完全に取り除かれることに反発した宗教界と貧困層は共に、帝 王暦に反対した。結局、反パフラヴィーの革命運動のなか、西暦1978 年に帝王暦は 2 年 5 カ月の短い歴史に幕を下ろした。 第三節 イラン・イスラーム革命後の暦 西暦1979 年に起きたイラン・イスラーム革命はこれまで見てきたパフラヴィー王朝を倒 し、導師イマーム・ホメイニーのもとイランはイラン・イスラーム共和国へと名前を変えた。 同年、憲法においてイスラーム暦とイラン暦の両方が公用暦と定められた。しかし官庁で使 われる暦はイラン暦である。「イスラーム共和国」となった国で、ゾロアスター教の要素を 持つイラン暦を公用暦にし、あまつさえ官庁暦にまでするのは何故なのだろうか。女性にヴ ェールの着用を義務付けたように、イスラーム暦を強制しなかったのは何故なのか。第一節 でも述べたように、イランにはチャハールシャンベスーリーという伝統行事がある。ペルシ ア語で赤い水曜日という意味であり、これはイランの新年であるノウルーズ前の最後の水曜 日の夜に行われ、その内容は、火を焚き健康祈願のうたをうたいながらその火を飛び越える というものである。この行事は遡ればイスラーム流入前からイランにある行事で、イスラー ム教となんら関わりがないため、イラン・イスラーム革命後に政府によって禁止されていた。 火を使ったり、人々が無暗に集うことを警戒したという一片もあるように思われる。しかし、 人々は政府の禁止を鑑みず、チャハールシャンベスーリーを行い続けたため、ついに西暦 2004 年に政府は禁止令を撤回した。だが、イスラーム国であるイランでこの行事が行われ ることにいまだに不満を持つ政府は、西暦2010 年のチャハールシャンベスーリーにおいて も苦言を呈したと言われている。 以上の話から見ると、やはりイラン政府はイスラームに 21 岡崎正孝、「イランの暦法―イラン暦とイスラーム暦と西暦」、小島麗逸・大岩川嫩編、「こ よみ」と「くらし」-第三世界の労働リズム-』、アジア経済出版会、1987 年、p.168

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24 起因しないイランの伝統行事を快くは思っていない様子だ。先ほどの話に戻るが、ではなぜ ゾロアスター教の要素が色濃いイラン暦は、政府から禁止されないのだろうか。ここでイラ ン国歌の歌詞に尐し面白い点があるので見てみたいと思う。現在のイラン国歌は、1989 年 にイラン・イスラーム革命の指導者であったホメイニー師が逝去したことをきっかけに 1990 年に制定された。 ではその歌詞を見てみることにしよう。 دورس روهمج ی ملاسا ی قفا زا دز رس ، رهم . نارواخ غورف د ی هد ی قح نارواب نمهب ، رف ا ی نام تتسام پی تما ا ی ماما ، للاقتسا ، دازآ ی شقن ناج تسام هش ی ناد ، پی چ ی هد رد شوگ نامز رف ی ناتدا اپ ی هدن نام ی و نادواج روهمج ی ملاسا ی ای نار イラン・イスラーム共和国国歌 東の地平線より太陽は昇り 信仰ある者たちの瞳は輝く バフマン月、それは我らの信仰の輝き イマーム・ホメイニーよ、あなたの言葉、独立、自由は我らの心に刻まれている 殉教者たちよ、あなたの叫びは時代に聞き届けられた 永遠に不滅たれ、イラン・イスラーム共和国22 この国歌の中にはバフマン月という歌詞が登場する。これはイラン・イスラーム革命がイ ラン暦 1357 年バフマン月 22 日(西暦 1979 年 2 月 11 日)に起きたことから、歌詞に使用さ れている。イランでは国営放送のニュースやラジオが放送される前には必ず国歌が流される ことが決まっている。そのようなイランをイランたらしめる重要なアイデンティティーの一 つである国歌にまで、イラン暦の暦が使用されているのである。ただし、この国歌はホメイ ニー師の死後に制定されたものであり、イラン革命からホメイニーの死までの間には別の歌 が国歌として制定されていた。以下はその歌の歌詞である。 ناریا اداب هدنیاپ 22 拙訳

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25 اپ هب یملاسا یروهمج دش مه هک ام هب ایند مه دهد نید رگد ناریا بلاقنا زا ربز و ریز هتشگ متس خاک ، وصت ی ر آ ی هدن ی ام شقن دارم تسام ، نی ور ی اپ ی هدن ی ام ای نام و داحتا تسام ی را ی رگ ام تسد تسادخ ام ار رد ا ی ن دربن وا تسامنهر رد اس ی ه ی نآرق نادواج اپ ی هدن اداب ا ی نار 永遠たれ、イラン イラン革命によって 信仰と世界を我らに与えた イラン・イスラーム共和国は生まれた 圧政の宮殿は転覆した 我らの未来図は 我らの願い次第 我らの永遠なる力は 我らの信仰と団結 我らの助けは偉大なる神の御手 御方がこの戦いの我らの導き手 クルアーンの保護の下 永遠たれイラン23 この歌詞を見てみると、イラン革命の成功をひたすら喜び称えていることが窺える。現在 のイラン国歌と比較してみると、現在の国歌はイラン革命と共にホメイニー師を称え、イラ ン革命そのものを強調する要素は『永遠たれ、イラン』よりも減っているように見受けられ る。そして現在の『イラン・イスラーム共和国国歌』においてそのイラン革命を遠回しに表 現しているのが、歌詞の中に表れるバフマン月という表現なのである。 23 拙訳

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26 ホメイニー師が存命していた頃の国歌の歌詞にバフマン月という言葉が使用されていな いのに、彼の死後に作られた国歌の歌詞にはイラン暦の月名が使用されているというのはた だの偶然だろうか。筆者の考えでは、これはやはり偶然ではないだろう。イラン・イスラー ム革命後イスラーム化の政策が推し進められ、パフラヴィー王朝で推進された古代イランを 崇拝する風潮は、王朝に対する反動から嫌悪された。ホメイニー師も革命後、初めてのノウ ルーズにおいて祝いのメッセージを発表することに難色を示したと言われる。だが結局、メ ッセージは発表された。このことは、ホメイニー師の気持ちに反して、イラン暦を禁止する ことが出来なかったということを示しているように思える。暦とは生活を支配する時の流れ が表されたものであり、いくらホメイニー師といえどもその伝統的な流れを止めることは出 来なかったのである。ただ、古来より支配者は自分の支配力を示すために暦を用いてきた。 自分の制定した暦を使わせることで、支配される側の「時」をも支配してきたのである。例 を出すならば、日本の元号制度もこの要素を持っていると思う。つまり、ホメイニー師は暦 を支配することが出来ず、ある意味においては古代からの伝統に負けてしまったと言うこと が出来ると思う。 現在、イラン国内で発行されている新聞のうち有名な 6 紙24でどの暦が使われているかを 調べたところ、すべての新聞において、その日の日付には西暦・イラン暦・イスラーム暦が 併記されているが、文中で使用される日付はすべてイラン暦を使用している。ここから、ど れだけイラン国民がイラン暦を使用しているかが読み取れるだろう。

24 Sharq 紙、Hamshahri 紙、Iran 紙、Jam-e Jam 紙、E’temad-e Melli 紙、Mardomsalari

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27 結論 イランでイスラーム暦が主流にならない理由を調べてみたいという気持ちから、イラン の歴史と暦について今まで学んできた。イランの歴史と共に、イランで使われている暦を見 た時、そこからは何が見えてくるのかということを軸に、第一章では主にイスラーム流入後 に重点を置きイランの歴史を辿った。第二章では「暦」について、その歴史と成り立ち・意 味を知り、イランでどのような暦が使われてきたのかを学んだ。そして第三章では、イラン の人々が暦に対してどのような態度を取って来たかを述べた。そして今、すべてをまとめて 言えることは、「イランはイスラームという宗教だけが存在する国ではない」ということで ある。私たち日本人は、イランをイメージする時にイスラームの国だと決めつけ、他の要素 をみようとはしない。それは大げさにいえば、日本人が海外に行った時に仏教徒だと決めつ けられ、日本は仏教の国だと思われているのに似ている。だが、暦ひとつを見てもわかるよ うに、イランではイスラームがすべてではない。イスラーム流入以前の古代ペルシアの歴史 は、イスラーム教徒であろうとなかろうとイラン人にとって誇るべき歴史であり、イスラー ムのために犠牲にされてもいいものではないのだ。祖先や血統を尊ぶイラン人から見れば、 ゾロアスター教など他の宗教の要素があるとはいえ、それも含めてイラン人が古代から築き 上げた文化なのである。これは日本にもよく似たところがあると思う。神道を信仰していな くても、八百万の神々を大切にし、その文化をないがしろにしようとは思わない。むしろ、 そのような考えに至らないくらいそれは日本人の意識に定着し、他の要素と混ざり日本の文 化となっている。このことを思い起こせば、イランの状況を理解するのは容易になるだろう。 イランでもイスラームの行事や慣習のところどころにゾロアスター教の影響が表れている のだ。 「暦」という漢字の意味は、一日一日の時の並び、つまり「流れてゆく時」のことを指し ている。一方、歴史の「歴」という漢字には、時の流れの中を順に足で歩くという意味があ り、それをわかりやすく言うと、「人が刻む時の流れ」ということである。人々は古来より、 自分たちが刻む歴史のなかで、絶対的に流れる時を支配するために暦を利用してきたのであ る。 そのような意味を持つ暦であるのに、イスラームが国教であるイランにおいてゾロアスタ ー教の要素が色濃いイラン暦が使われているのは不思議であった。けれど、イランという長 い歴史を持つ国にとって、ある意味、支配者はイスラームではなく、「ペルシア」という文 化なのだ。暦からみえたイランの中のイスラーム以外の要素、これは暦以外の文化からも 様々に読みとれることだろう。現代イランには、イスラームのヴェールに覆われた「ペルシ ア」が隠れている。

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28 参考文献 ・『アジア遊学 カレンダー文化』106 号、勉誠出版、2008 年 ・井筒俊彦訳、『コーラン (上)』、岩波書店、2004 年 ・岡田恵美子・北原圭一・鈴木珠里編著、『イランを知るための 65 章』、明石書店、2004 年 ・岡田芳朗、『アジアの暦』、大修館書店、2002 年 ・小島麗逸・大岩川嫩、『「こよみ」と「くらし」-第三世界の労働リズム-』、アジア経済 出版会、1987 年 ・暦の会編、『暦の百科事典』、新人物往来社、1986 年 ・桜井啓子、『シーア派 台頭するイスラーム尐数派』、中央公論新社、2006 年 ・佐野東生、『近代イラン知識人の系譜 タキーザーデ・その生涯とナショナリズム』、ミネ ルヴァ書房、2010 年 ・ジョン・R・ヒネルズ著、井本英一・奥西峻介訳、『ペルシア神話』、青土社、1993 年 ・新藤悦子、『チャドルの下から見たホメイニの国』、新潮社、1992 年 ・ハミッド・ダバシ著、田村美佐子・青柳伸子訳、『イラン、背反する民の歴史』、作品社、 2008 年 ・林茂雄、『イスラム熱 西欧的価値観からの脱出』、柏書房株式会社、1992 年 ・広河隆一編、『燃える石油帝国・イラン』、第三書館、1979 年 ・前嶋信次、『生活の世界歴史7 イスラムの蔭に』、河出書房新社、1991 年 ・宮田律、『物語 イランの歴史 誇り高きペルシアの系譜』、中央公論新社、2002 年 ・メアリー・ボイス著、山本由美子訳、『ゾロアスター教 三五〇〇年の歴史』、講談社、 2010 年 ・モハメド・ヘイカル著、佐藤紀久夫訳、『IRAN イラン革命の内幕』、時事通信社、1981 年 ・森茂男編、『イランとイスラム 文化と伝統を知る』、春風社、2010 年 ・柳川啓一、『宗教学とは何か』、法藏館、1989 年 ・吉岡安之、『おもしろくてためになる 暦の雑学事典』、日本実業出版社、1999 年 ・レイラ・アーザム・ザンギャネー編、白須英子訳、『イラン人は神の国イランをどう考え ているか』、草思社、2007 年

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29 画像 ・図1 http://labaq.com/archives/51192903.html ・図2 筆者撮影 ・図3 http://fa.wikipedia.org/wiki/%D8%B3%DB%8C%D8%B2%D8%AF%D9%87%E2 %80%8C%D8%A8%D9%87%E2%80%8C%D8%AF%D8%B1

参照

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