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研究を必要とする場合が多い さらにそのうえ, 教科書の内容量が膨大であることを考え ると, 1 つの作品内容の研究に, 多くの時間を充てる余裕はないことになる こうした文 化単元の特殊性が, 教師の授業実践を消極的にしてきていると考えられる しかしながら, 文化単元の授業展開上の位置に着目した場合,

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(1)

凵本社 会科教 育研 究会

1

社 会科 研究

1

33

号 1985 (pp .101 − 108)

中学校

鎌 倉 時 代

文化

授業 構 成

1

  は じめに  今日の歴史授 業の 中で 文化の単元 ほど実 践が困 難な もの はない。広島 大学附 属 中 ・高 等 学校における教 育 実習の 中で,実 習生が授 業担 当の割 り当て を避 けたがる単元は,必 ず 文化の単 元で ある。 実 習生にその理 由を尋ね る と, 授 業と して の印 象がほ とん ど残っ てお らず,た だ暗記 を強い ら れ た とい う体験原 因っ てい る ようで ある。 その た めに, 教 材 研究の方法に見 当がつ の よ う に調べ れ ばい の か さ え わ か ら ない のが 現 状 と なっ て い る。 し た がっ て, 教材 構 成や授 業構 成の段 階 で は, ほ とん ど その イメ ージ さ えつ か めない場 合が 多い 。  こ した大学 生の態 を生み 出 した原 因が 高校 までの 文化単元の授 業にあるとす れば, それ はどの よ うな形で実践 され てい るの で あろ うか。 現実に実施 されてい る と考 えら れる 授業は,次の

4

つ のパ ターン に類型 化さ れる であろ う。   まず第

1

に,授業を実施 しない とい 型 がえ ら れ る。 家 庭 学習や 自習課 題 とい っ た 形 で, 生徒に教科書の内容を まとめ さ せ る とい う方 法である。  第

2

の型は教 科書に記 述 され てい る事 項や作 品名 ・人物名 を項目 ごとに整理 ・分類 し、 簡単 な説明 を加 える方法で ある。 高校や大学 受験 を第

1

の 日的とする授 業で は, プリ ン ト を用い て 生徒にその一部分を記 入させ る形で実 施され てい る。 生徒の暗記とい う点で は 最 も効 果的で あ り,現 在実践さ れて い る授 業の 典型 的なパ ーンである。  第

3

の パ ターンは, 教科書 に 記 述 さ れ た 作 品の 中 か らい くつ か を選び, 写真やス ラ イ ド を使っ て, 内容 を詳 しく説 明する もの である。 こ の 方法は,教 師が興 味 ・関心を持っ てい る作品 ・教材の場合 に 限 ら れ る た め,作品の 内 容 は 個別的 な 形で説 明 さ れて い る。  第 4 の型と して, 生活文化 を重視して実践する方 法が 考えら れ る。 この 方法は,特に高 等学校の 現 代社 会」で要 請さ れて い る もの で あるが,歴史学 習の分 野実践 化さ れ た 例 は, ま だ 発表さ れ てい ない 。  以 上の ように, 今日の文 化単元の授 業状況を捉 えた場 合, 実践 を困難と させ てい る原 因 は,教 育 内容の過 剰性と教材 研 究の 不足に ある と考え ら れ る。 文化単元 は,文学 ・美 術 ・ 建 築 ・思想 ・生活等のくの分 野で構 成さ れ るとともに そ れ ぞ れの 中に数多くの作 品 を 含ん で い る。 し か も,その中の

1

つ の作 品につ い て さ え,教 師が 理解す る には充分な教材 一

101

(2)

研究を必 要とする場 合が多い。 さ らにその うえ,教 科書の内容量が膨 大で ある こ と を考 え る と, 1つ の作品内容の研 究に,多くの時 間を充て る余裕は ない こ とに な る。 こ うし た文 化単元の特殊性が, 教師の授 業実践 を消極 的に し てきてい る と考えら れ る。  しか し な が ら, 文化単元の授 業 展開上の位置に着目 した場合, そ れ ぞ れの 時期 ・時代の 最後の段階 に設 定さ れてい こ とが指摘で きる。 とすれば, そ れ ま で学習 して きた 時 代の 総合学習として,時代 構造に関連 させ る形で文 化単 元 を構成 する方法が考 えら れる。  本論 文で は,こ う した仮 説に基づい て,鎌 倉時代の文化 を単元 例とし て とりあ げ,二 支配の社 会構造に対応 する文 化と して の性 格を,教 材構 成を 中心に考えて行 きたい 。

 

H

  中学校

鎌倉

文化」

教材

1

,小単元 「鎌倉 時代の 文化」

2

,小 単元の 目的 鎌倉 時代の文 化が二元 的構 造D を持っ てい る こと を理解さ せ る。

3

,到達 目標  (1) 鎌倉時代の 文化の構造     知 識の構 造一 説 明的 知識   東大寺は 公 家 ・武家 ・民 衆の協 力 に よっ て 再 建 さ れ た もの で あ り, 鎌 倉 文 化 を象徴 す  る建 築物である。  ア ,東大寺再 建の術は重 源 が宋か ら学ん だ 大 仏様を 基 本 と して, 奈 良仏師の伝統的       一

102

(3)

   な技 術 を利用 して い る。  イ ,東 大寺再 建の資金は 源 頼朝の 寄付や民衆の進 が中心 と なっ てい る。  ウ.東 大寺は, 国 家 を守る象徴と して信 仰さ れて い た。   円覚 寺舎利 殿は,武 家の 文化 を象徴 する禅宗 様の 建築物 である。  ア .臨 済宗は鎌 倉 幕 府の 保護 を受 け, 鎌倉 を中心 とし た 武士の 間 に広め ら れ た宗教で    ある。  イ.鎌倉幕府は,臨済宗の 渡来僧 を保護す る た め に寺 院を建立 し た。   新古今和歌集は, 公家の 文化 を象徴す る最後の勅撰和 歌集で ある。  ア.後 鳥羽 上皇は, 公 家の文 化の優 位性を示す た め に勅 撰和歌集の編纂を命 じた。  イ.藤 原定家は, 和歌 を作る技 術に よっ て公家 とし ての生活 を維持 し てい た。   鎌 倉新仏 教は, 農民や地方の武士の 問に広まっ た。  ア.浄 土真 宗 ・日 蓮宗 ・時宗は,撰 択 ・易行 ・専 修のた め旧仏教か ら迫 害 を受 けた。   鎌倉時代の文 化は.公家と武 家の 二元 的性格を もっ てい る が, 後期になり武 家の勢力  が拡 大する と, 武 家文化の 性格が 強 くな る。 4 授業展開 発 問 (1凍 大寺の再 建  ア金剛力士像の完成   ・鎌倉 時代 を代表 する こ   の彫 刻 は何か。誰の作    品か。 どの くらい の 大   きさ か。   ・こ の彫 刻はどの くらい    の期 間で作ら れ た か。   ・金剛力 士像はなぜ 短期    間で 作 る こ とが 可 能    だっ のか。  イ東大寺南 大門の 再 建   ・金剛力士像は どこ に安     置さ れてい か。 その    建 物は どの く らい の 大    き さ か。   ・南 大門は どの ように し    て作 られ たか。 資   料   写真 「金 剛  力士像」   金剛 力士 像  の成   奈 良仏師 集   団の構造 教授 ・学 習活動

T

,写真 提示

P

.発表す る 到 達 目  標   写真 「東大   寺南 大門」   大 仏様

P

.予想する

T

.説 明す る

P

.予 想する

T

.説 明する

T

,写 真提 示 旨

P

.発表 する       

I

T

.説 明する   ・運慶 ・快 慶が作 っ た 金剛 力 士 像で, 高さ が

836

  の木彫である。 ・約

2

か月の短期 問で完成  し てい 。 ・集団各部 分  り,最後に組み合わせ る とい う方法で作ら れ た。 ・南 大左 右  り, 南 大 門の 高 さは 約

26m

,横は約

29m

ある。 ・新 し 術 を使 っ て 作ら れ た た めに,安価で 短期 間に成 した。 一

103

(4)

ウ東大寺の再 建

  

な ぜ

1

      」 T ,課 題提示

聞に安価で作るの

i

・東大寺は どの ように し   東 大寺の再

T

.説 明する ・

1180

年に焼失 し,翌年か て 再 建 さ れ た か。 建 ら再建 が始 まっ た。 ・なぜ再建を急 ぐのか。   大仏と東大

P

.発表する ・大仏や東大寺は国を守る 大仏は どんな 目 的で作 寺 象徴と して作ら れた もの られ てい た で あっ た。 ・再 建用 は ど   勧 進

T

説 明源 頼 朝 寄 付 に の よ うに して集め られ の寄付 よっ て建立 さ れ, 大 仏が た か。 完成し た時は, 頼朝や多 数の民衆が参列 し た。 ・なぜ寄付に よっ て資金   年表

P

.発表 する ・源平の 争乱の時期にあた が集め ら れ たのか。 り, 公家の力だけで は再 建で きなか っ た。 (

2

)円覚寺 舎利殿 ・こ の 建築物 。 南   写真 「円覚 T .写真提示 ・円覚 寺舎利殿で, 細かい 大門と較べ て どん な違 寺 舎利殿」

P

.発表 する 所まで精巧 ・優 美に作ら い が見ら れ る か。 れて い る。 ・舎利 殿はなぜ建立 され   舎利殿の建

T

.説 明する ・南宋か ら渡 来した無 学祖 たのか。 立 元の た め に,北条時宗が 建立し た。 ・無学祖元はな ぜ 日本へ   無学祖 元の T .説 明 す る ・元 は 南宋を滅 ぼ し,その 渡 来 し たのか。 渡 来 文化を保護し な かっ た。 ・条 氏は な ぜ無学 祖元   鎌 倉幕 府

T

.説 明す ・北条臨済宗武 家 を保 護し たの か。 臨済宗 思想 と して 保 護 して お り, 祖元は高名な禅 僧で あっ た。 (3)新古今和 歌集 ・鎌倉 時代に 公 っ   新古今 和歌

P

.発表 する ・後鳥羽 上 皇の勅撰で,藤 た文 化に は, どん なも 集 原定 家らが編 纂した新古 のがあるか。 今和歌集 が あ る。 ・後鳥羽 上皇は新古今 和   後鳥羽 上 皇 T .説明する ・承久の乱後に隠岐 島へ 歌集をい かに大事に し と新古今和 さ れ た時に も新古 今和歌 てい た か。 歌 集 集の編纂を行っ てい た。 一

104

(5)

… ・新古今和を編   T .す る E ・位階 に よ る収入,荘園か た藤 原定 家は, どん な 生活

1

らの 年貢 収入 が減少 し, 生活を送っ てい た か。 和歌 を作る技術によっ て 生活 を維持 してい ・後 鳥羽上皇や藤原定家   公家と和歌

P

.発表 する ・社会 的に衰退する 公家に は, な ぜ新古今 和歌 集 とっ て, 和歌 を作る技術 を大事に したの か。 が 独 自の文化で あっ た。 (4)鎌倉 新仏教 ・ 広 ま っ た宗   鎌 倉新仏教 P .発表する ・法然の浄土宗, 親鸞の浄 教に は どんな ものがあ 土真宗, 日蓮の 日蓮宗, る か。 一時宗 な どが あ 。 ・なぜ これ らの宗教は地   撰択 ・易行

T

.説明 する ・念仏や題 目や踊 念 仏 な ど 方のの 問に広まっ ・専修 の易 しい 方法で,だ れで たのか。 も救わ れ る とい う教 え だっ た。 ・武家な ど   旧 仏 教 T ,説 明 す る旧 仏公家武家 広ま ら な かっ た の はな きか けて 新仏教 を迫 害 ぜ か。 し, 京都や鎌 倉で の布教 を制限 し た。 ・鎌倉時代の文化の 特徴 P .発表する ・鎌倉時代の文化の造図 をまとめ てみ よう。 ・室 町時代の文化は ど ん P .予想す る ・武 家や 地方の民衆が 中心 な 性 格に な る だ ろ う と な る だろ う。 か。

5

.資 料2)一 個 別 的事 実的 知 識          これ らの 作品は ほと ん ど すべ ての美 術書に掲載さ れ てい る。 教 具 と して の 有効性は, 「日本史写真集』山川出版社の ものが高い と考え ら れ る。    

2

体の金 剛力士像は

1203

7

24

日に製作が依頼 され,

10

3

日に奉 納さ れて い る。 彫刻 ・彩 色を含めて,

72

日間で完 成 した こ とになる ( 

p

247

)。     2体の金 剛力士 像は

4

人の 大 仏 師 (運慶, 備中法 橋, 快嵐 越後 法橋 )と, そ の下に従っ た

16

人の小仏 師に よっ て製作さ れてい る。 絵仏 師や塗師を含め る と,百数十 名の仏師集団に よっ て製 作さ れ た と考え ら れ てい る。

1

体の 像は, まず計画の段 階 で

2

つ の 部分に分 けら れ る。 さ らに, その部 分 を細か く分解し, 計画に基づ い て集団で製作 一

105

(6)

し, 最後に組み合わ せる とい う方法 (定朝の木寄 法の伝統を発 展 させ た もの)が使わ れ てい こう した技 術は, 巨大 な仏像を 短期 間に作る た め に, 奈 良仏 師の 問 で 発 展 させ ら れて きたもの で あっ た。

2

体の金 剛力士像が,わずか6   の違い しか ない とい う点に も, こ うし た技術の正確 性を み るこ と が で き る ( 

p

248

−251>。   南大 門 に使用 さ れ てい る建築 資材は

5

種類の材 木が その

80

%を占め てい る。 こ れは,

18

本の柱に

2

種 類だ けの規格の穴をあ け,その規格に合っ た材木を大量にそろえ, 組み立て る とい う方 法で作 られ た か ら である。 こ うした技 術が大仏様であ り, 巨大 な建 築物を, 少ない 用材, 単純 な工法, 短期 間で完成 させ る た めの方法であ り, 再 建の責任 者で あっ た重源が, 宋か ら学ん だ技術で あっ た ( 

p

.245 −246 )。    東大寺は, 1180年12月

28

日に平重衡によっ て焼 失させ られ た。 翌年

6

月に再 建計 画が たて ら れ,

61

才の 重源が東 大 寺勧進職に任命さ れ た。

1185

8

25

日に は大仏が完 成 し, 後 白河法 皇が,聖武天 皇 が使い 正倉 院に保 存さ れてい た筆を用いて,大 仏の開眼 供 養を行っ てい る。

1190

10

月 に は,高さ

37m

,横

86m

,奥行

50m

の大 仏殿が 上棟さ れ てい

1195

には, 後鳥羽天皇や源 頼朝が参列 し, 数万人の鎌倉武士 が警備する中で, 東大寺の 完成を 祝う落慶供養が 実施さ れてい 南大の再建は 1199年に上棟さ れて いる (  p.

243

247

)。    

1185

年 ,源 頼朝は重源の依頼に応 じて, 米

1

万石,砂金千両 ,上絹 千疋 を奉 納 し てい る。 これ は,平氏追討のた め に 派 遣 さ れ た 源範頼の軍勢が, 西 国の飢饉に 苦 しみ, 鎌倉に救援 を求め てい た時であっ た。 ま た, 重源の依頼を受け た 西 行法師は, 鎌倉 を経 て奥州藤原氏を訪れ, 勧 進 を行っ て い る。 さら に, 山伏の姿 をした勧進僧たちは諸 国 を 回り, 民衆の寄付 を募 り, その 名前 を勧 進帳に記録 した。 人々 の名前は, 大仏殿の瓦 や 屋根板 などに残 されて い る (  p.

145

)。   

1180

年か ら

1185

年にかけて源平の争乱が行わ れてい る た めへ 集め ら れ た税 は少な かっ た。 争 乱 が 終 了 し た1186年 に なっ て , 周防 国 が東大寺の 造営 料 にあて ら れ, 重 源に よっ て大量の木 材が集め ら れ た。 他方, 藤原氏の氏 寺で あっ た興福 寺は,東大寺 と と もに焼 失し た が, 1182 年に は金堂 が 再建さ れ, 東大寺よ り も1年早い 1194年に落慶 供養が行わ れ てい   p ,

146

149

   無学祖 元は,

1179

8

月 に 南宋か ら渡 来 して きた禅 僧である。 彼 を敬っ た北条 時 宗は,文 永 ・弘安の両 役の戦死者を弔 うた め に,

1282

年に円覚寺を 建 立 し,祖 元を 住 職 とし た (  p.

106

204

)。    無 学祖 元は,元 軍の侵入後も南宋に残 り,禅宗の化を維 持 し よ う と し た が,元 兵耽 殺害さ れ か か っ た。 南 宋の滅亡 後, 南宋の文化や民衆を無視 する 元の 支配制度のた め, 日本へ の渡航 を決 意 し た と言わ れて い る (  p.

106

)。    鎌倉幕府は, 栄 西の ために寺 院 健 仁 寺)を建 立するなど, 最 初か ら臨済宗 を保 護し た。

1253

年に は, 渡来して きた禅 僧 〔蘭 渓 道隆)の た めに,北条 時頼が建 長寺を建 立 してい る。 これは, 禅 宗の修 業方 法が 武 家 の気風に合っ て い た た めだ と考え ら れてい 一

106

(7)

る。 無 学祖元 は, こ うし た幕府の保 護の 下で , 南 宋で 用い ら れ ていた禅宗 様と よ ば れ る 新 しい 建築様 式で 円覚 寺 を建 立して い る (  p.40 )。   

1201

7

月, 後鳥羽上皇は和歌所を開設 し, 藤原定家ら

5

人の 歌人に命じ て, 時 代や身分に こだわ らず, 優れ た 和歌 を集め させ た。 彼等が 選んだ和歌は, 上皇が検討 ・ 精選し た後, 再 び彼等に よっ て部 類分け さ れ,

1205

3

月に完成した (  p.

270

271

。    後 鳥羽 上 皇 は,その後 も機 会のあるご とに和 歌の入 れ替え ・精選を行い ,承 久の 乱で隠岐 島へ 流さ れ た後も検討を行っ た。 上皇が新古今 和 歌集を完成 さ せ たの は, 1253 年頃で あ り, 1900 首余の和歌は, 1600 首に精選 さ れ てい る (  p.

271

−272)。    藤原定家は白家 (九条兼家の 司)えてい 。 しか し関白家が交替すると, 彼の位階は上昇 し な くなり,

50

才に なっ て ようや く公卿 (従三位)に就任 した。 彼の主 要 な収入は 4 ケ所の荘園 か ら集め られ る年貢で あっ たが , 荘官の反乱や有力 公家に荘 園 を奪わ れか か り, 「日夜 只天 ヲ仰グ』と 日記 (明 月記 )に書 くあ りさ まで あっ た。 こ うし た 中で 子女

10

人 と下 人 ・下女を あ わ せ

30

人 を 越 え る 家族を養 うた め,和 歌 を作 り 続けた (  p.329 −331 )。   後鳥羽 上皇は, 古今和歌集が 編纂さ れ た 天皇 親政の 時 期 を, 文化的 に も 政治的に も理想と考えて いた (  p.

270

)。  貴族 社 会が 衰 える 中 で, 貴族 文 化の象 徴で ある和 歌の技 術 を高め ,専 門 歌人と して 自分の家を維 持 し ようとする中流貴族が現わ れ る よ うに なっ た, 彼 等は,鎌倉幕府が 成 立する と,武家に ない 貴族独 自化 と して和歌 を考 える よ うになっ た。 藤原定家は, こた専門歌 人の 家柄代表的な人物である (  p.

325

328

)。    比叡山 で 天台宗を学ん だ法然は くの修業方 法の中 か ら, だれで も簡単に で き て,そ れ だけ を行 えば救わ れる修業方 法と して,称 名 念仏を選び出した (  p.

261

264

。    法然の浄土宗が,民衆だけで なく,貴族や僧の 間に も広 ま る ようにな る と,天台 宗の憎 達は院 に働 きかけて,布教を禁 止する ように要 求した。 その ため, 法然は四国へ , 彼の子で っ た親鸞は越後へ 流 され た (  p.

269

)。 皿  お わ り に  本単元は, 現 行の歴史授業の 中で, もっ と も授 業化が 困難 と なっ て い る文 化単元につ い て,授 業改善 とい う極め て実 践 的 な課題意 識か ら行っ た もの である。  教材構成の方法論 と して ,で きるだけ 具 体 的事実へ 還 元 し得る教材で あるこ と,教材が 探究 的に組織で きる こ と,教 材が構 造性 を持つ だでな く,社 会構造と関連させ得るこ と の

3

点を考え た。 3) まず 第

1

題 につ い て は,教 材 をエ ピソ ー の形で提 示 し,既 習内 容と関連させ る方法 を採用 した 。 中学校 1 年生である とい う発達段 階で は, 具体 的で なけ れ ば 興味 を示さ ない で ある。 第

2

の点につ い て は,「なぜ 短期 間で 作 り得たのか」「な ぜ寺 院 を作るのか」 「な ぜ和 歌 集を作 るのか」「な ぜ 地方の 人々 に 広 ま るの か」とい う 問い を 中 心 に構 成し た。 具体的事実が 示 さ れ, その中か ら 問い が構成 され た場合に, 子どもの 一

107

(8)

思考 活動 ・知 りたい う要 求が 深る と考 えられるため である。 4)  

ag

 

3

問題つ い て は 武家文化, 公 家文化 ,民衆へ 広 まる文化 とい う視 点か ら,教材 をそれぞれ抽 出 し,社 会構 造へ と関連 さの を選び出 した。 もちろん,教科 書レベ ルで は,数多 くの教材 が提 示さ れ てい る。 例え ば,公家文化 と して は,従然 草,方 丈記な ど が あ る。 しか し,承 久の 舌し 貴族の 園支配の 弱体 化とい う社 会的 要 因エ ピソ ード と し ての面白さ とい う観 点か ら新古今和歌集のみ をと りあげた。 教材と して の有効性とい う点で は,さ らに実証 的 な形で 比較検討 を行っ てい きたい 。 教 材化 とい う点で, 今後の 大きな検 討課 題 と なっ てい るの は. 仏教の問題である。 内容面で考 えると、中学校

1

年 生の段階で , どこ まで捉 えさ せる ことが可能 なの だろうか。 思想 内容は,高校 生の段 階で さえ難しい のが実情である。

1

入の人物だけ を取 り上げる とい う視点か ら , 今後検 討 して行 きたい 。 <注>

1

) 宝月圭吾, 「時 代 区分 と文化の特 質」(図説日 本文 化 史大系  

1957

年。

2

) 教材 資料は次の もの を参考に した。   石 井進 『鎌 倉幕 府』 (日本の歴史 

7

)  中央公論 社 

1971

年。    黒田俊雄 『蒙古襲 来』(日本の歴 史 

8

>  中央公 論社 

1971

年。   大 山喬平 『鎌倉 幕府

1

旧 本の歴史 

9

)  小学館 

1974

年。

3

)  森 分孝 治 「現 代社 会科 授業 理論』

4

6

 鎌倉時代)小学館  こ うした視 点 を設 定 するうえで 次の もの を参考に し た。       明治 図書 

1984

年, p .

186

189

。  こ うした仮 説を設定 する理 由は, 授 業実践の 体験の中 か ら学んだ。 こ うした 一事例 して,次の感 想 文をあげて お きたい 歴 史 て い の は, どん どん今 あるこ とが らを 追求してい っ て, つ い に真 実をつ きと め た りして,お どろ くようなこ とが い っ ぱい あっ てすごい。 改新の詔 も大化の改 新の 時の もの だ と 思っ て い た し,そ れ が実際 あっ た もの だ と 思っ てい た。 なの に,そ れ がある こ と さ えうた が わ しくなっ て きたりして……。 ホ ン トに歴史っ て お も し ろい な あ。 勉強す る ほ ど, ぎも ん がふ えて い くかん じで,おもし ろい だ か ら , もう少し深 くまで くわ し く しりたい ですej (

1984

6

28

.授業日 誌, 品 川牧子) 一

108

参照

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