論 説
「運の平等主義」の一側面
――様々なドゥオーキン像
細 見 佳 子
1.はじめに――運の平等主義とは何か
2.ロナルド・ドゥオーキンの平等論3.「ドゥオーキンと運の平等主義――比較」
4.むすびにかえて
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1 .はじめに――運の平等主義とは何か
本稿は、「運の平等主義」(Luck Egalitarianism )の潮流の中で、主潮流と目されるロナルド・ドゥオーキン(Ronald Dworkin)とリチャード・アーネソン(Richard Arneson)の二人に着目し、まずドゥオーキンの議論を検討し、ドゥオーキンと同時代を生きて議論を展開したアーネソンによるドゥオーキン論を紹介することによって、運の平等主義の一側面を浮かび上がらせることを目的とする。運の平等主義は、近年の「平等論の展開に大きな役割をはたしている」(川崎 2014: viii)とも言われ、良く知られるようになっているが、ここで若干の説明をしておこう。運の平等主義は、エリザベス・アンダーソン(Elizabeth Anderson)が「平等論の論点は何か」(“What Is the Point of Equality?”)という論文において、アーネソン、G.A.コーエン(Gerald A. Cohen)、ドゥオーキン、トマス・ネーゲル(Thomas Nagel)、ジョン・ローマー(John Roemer)、エリク・ラコウスキー(Eric Rakowski)、フィリップ・ヴァン・パリース(Philippe Van Parijs)等の主要な平等主義者による理論的アプローチを特徴づけるために導入した用語である(Anderson 1999:287-8, 290)。この運の平等主義という考え方によると、例えば、道を歩いている人に流星が衝突するというような、人々が制御しえない「自然的運」(brute luck)から生じる不平等は不正である。よって、そのような不平等は、匡正されるべきである、ということになる。しかし、例えば、勤勉に働くか、ギャンブルをするかといった事柄について、人々が選択をすることによって生じる不平等(「選択的運」(option luck)から生じる不平等)は正当である。よって、これについては人々が自由に行動をするためにも、尊重されるべきである、ということになる(Dworkin 2000: 73-4、邦訳:105;White 2007: 78-80)。この運の平等主義について、アーネソンは、「分配的正義の関心は、個人に不運を補償することにある。ある人々は幸運に恵まれ、ある人々は不運に苦しめられている。善と悪の分配を変えることは、社会すなわち集合的に捉えられる
「運の平等主義」の一側面(細見)
私たちすべての責任である。周知のように、人間生活を構成するめぐり合わせの寄せ集めから、善と悪は生じる。……分配的正義は、幸運な者は幸運から得たいくつか、あるいはすべてを不運な者へ移転すべきだと要求する」(Arneson 2008 :80 )と述べている。また別の説明を付記すると、「運平等主義の考え方の原型は、通常、ロナルド・ドウォーキンによるロールズ分配的正義論の建設的批判に帰される」(Hirose 2015: 41、邦訳:49)、「ドウォーキンの基本的な動機は、責任感応的(responsibility-sensitive)な平等主義の分配的正義論を提案することにある。これを承けて、リチャード・アーネソンとG.A.コーエンのそれぞれが、ドウォーキンの建設的なロールズ批判に基づいて、運平等主義として知られるようになったものを発展させたのである」(ibid: 42、同:50)。以下では、2でドゥオーキンの「厚生の平等」 (1)(equality of welfare)と「資源の平等」(equality of resources)を筆者なりに読み解いてみる。そして、3ではアーネソンの比較的最近の業績である「ドゥオーキンと運の平等主義――比較」(“Dworkin and Luck Egalitarianism: A Comparison”)を紹介する。
注(1)‘equality of welfare’の訳語については、「福利の平等」という訳語が使われることも多いが、酒匂一郎教授は「厚生の平等」という訳語を使用されており(酒匂 2019:256-7)、本稿もそれにならうこととする。なお、川本一九九五、亀本二〇一五においても、「厚生の平等」という訳語となっている。
2 .ロナルド・ドゥオーキンの平等論
ジョナサン・ウルフ(Jonathan Wolff)は、「ドゥオーキンの『至高の徳』(Sovereign Virtue:邦訳名『平等とは何か』)
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に関するシンポジウム」の特集での序文にて、『至高の徳』の第一章・二章の元になった論文(“What Is Equality? Part 1: Equality of Welfare”(1981) &“What Is Equality? Part 2: Equality of Resources”(1981))について次のように述べる。「一九八一年のロナルド・ドゥオーキンによる平等に関する二つの論文の公表は、振り返ってみると、二〇世紀後半における英語圏の政治哲学にとって最も重要な貢献のひとつになった」(Wolff 2002:5)。この「平等とは何か」という二つの論文は、ドゥオーキンの主要な主張を述べたPart 2「資源の平等」に限っても、ウィル・キムリッカ(Will Kymlicka)も述べるように、「オークション、保険機構、自由市場、課税を使用した複雑なもの」(Kymlicka 2002: 75、邦訳:110)である。ここでは、ドゥオーキンの議論を辿りながら、資源の平等を中心として、ドゥオーキンの平等論を検討していきたい。まずは、ドゥオーキンの「平等な配慮と尊重」(equal concern and respect)についての考え方、次に、「厚生の平等」批判をそれぞれ簡単に紹介し、さらに、ドゥオーキン平等論の中核ともいうべき「資源の平等」論を検討していくこととする。
2.1.「平等な配慮と尊重」
『権利論』を著し、権利基底的理論の代表的論者と目されるドゥオーキンが、自らの権利論の基底に据えているのは、「平等な配慮と尊重への権利」(the right to equal concern and respect)という抽象的な自然権である(Dworkin 1977:180-3、邦訳 1986:238-241)。これをドゥオーキンは万人が受け入れている政治的道徳の要請であるとして、「政府はその支配に服する人々を配慮(concern)をもって……扱わなければならず、また尊重(respect)をもって……扱わなければならない。更に政府は……彼らを平等な配慮と尊重をもって扱わなければならない」(ibid:272-3、邦訳2001:65)と言う。そして、政府が人々に財や機会を分配する際には、不平等な分配を行ってはならず、さらに、政府
「運の平等主義」の一側面(細見)
は特定の集団に属する個人が抱く善観念の良し悪しを理由にして自由を制限してはならない。「これらの要請を一つの総体として捉えたとき、それは平等のリベラルな観念と呼びうるものを述べていることになる」(ibid: 273、同)。ドゥオーキンは、『平等とは何か』(Dworkin 2000 )でも、政府が、市民全体の運命(fate )に対して平等な配慮を示さないならば、その政府は正当ではないと述べ、平等な配慮は政治共同体の至高の徳であると主張する(Dworkin 2000:11-64、邦訳:1)。さらに続けて、国家の富が極めて不平等に分配されているとき、その国家が平等な配慮を示しているか疑わしいと言う。なぜなら、富の分配は法秩序によって生み出され、市民の富は共同体の制定法によって左右されるからだとするのである。そして、平等な配慮は、資源の平等という実質的平等の一形態を政府が目指すことを要求する、と主張するのである(ibid:3、同:10)。
2.2.厚生の平等批判
ドゥオーキンは、自説である資源の平等が、厚生の平等に比べて優位な理論であることを、厚生の平等を詳細に検討することによって導こうとする(ibid:11-64、同:19-93)。まず、個別的な厚生の平等の諸観念を一つ一つ検討して、それらすべてを論駁した後、それらのいくつかを統合させた理論を検討する。組み合わせて理論化して、改良を図った統合理論も、やはり問題があると結論づける。そして、厚生の平等理論はすべて破綻していると批判して、自説の資源の平等を展開するわけである。ドゥオーキンは、厚生をある人間の選好や目的や企図を実現しようとする際の成功(success)の問題であるとする理論(「成功理論」)や、厚生を喜び(enjoyment)と捉える考え方について詳細な検討を加え、次のように述べる。「喜びとか相対的成功の向上や低下だけに注目して、これらを人々が平等な存在として扱われているか否かの測定規準にす
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ることは正しいと思われない。なぜなら、人々はこのような特定の観念において理解された福利〔=厚生(筆者注)〕を、夫々異なった仕方で評価するからである」(ibid:63、同:91)。また、全体的な成功を測定規準にするには独立したテスト規準が既に存在することを前提にするから役立たないと切り捨てる。そうして、人々を平等な存在として扱うことに関する理論として理解された厚生の平等は、一般に想定されるほどにはしっかりした理論ではないと主張する(ibid:64、同:92)。
2.3.資源の平等
資源の平等はドゥオーキンが信奉する考え方である。ドゥオーキンはまず、資源の平等に関する概念の説明から始め、この資源の平等の検討を、無人島に漂着した人々による競売による分配という仮想事例を用いて検討していく。競売によって、平等な分配が実現したとしても、その後、人々が生活していくにつれ、差異が当然生じる。その一因として運もある。様々な運を保険という装置を使用して、平等を目指しうるのかについての検討がなされる。さらに、労働と賃金、能力の相対的欠如に対処する保険、保険料としての税金、他の正義理論という順に検討される。
2.3.1.資源の平等を考察する前提条件
(1)資源の平等の定義と私的所有ドゥオーキンは、「資源の平等とは、それがどのような資源であろうと個人によって私的に所有されうる資源に関す
「運の平等主義」の一側面(細見)
る平等のことである」(ibid :65 、同:94 )と述べる。私的所有は、ドゥオーキンによると、人間と物との間の単一的で固定的な関係ではなく、政治的に確定されなければならない。そのため、資源の平等な分割という問題は、資源を割り当てられた者が、どのような権力を獲得するかという問題を包含するという。
(2)資源の平等と市場ドゥオーキンは、「資源の平等な分割は、……何らかの形態の経済市場を前提とする」(ibid:66、同:95)ことを議論したいと述べる。彼は、一八世紀以降、市場は、社会の目標を達成する装置として賞賛され、個人の自由の必要条件として賛美されてきた観念であるが、他方でそれは、平等の敵と見なされるようになったと述べる。原因は、産業国家において発展した市場が、所有の広範な不平等を許容し、促進させてきたことである。市場や自由に対抗するものとして平等が描かれるようになり、結果として、賢明で中庸をえた政策とは、市場を制約し、対抗する価値の間で均衡の取れた妥協を見出すこととされてきたと述べる。その上で敢えて、ドゥオーキンは、「極めて多様な財やサーヴィスの価格を決定する装置としての経済市場の観念が、資源の平等についての魅力ある理論展開の中心に置かれるべきであると、提案することを試みよう」(ibid:66、同:95-6)と述べる。
(3)競売ドゥオーキンは、船の難破で漂流した大勢の人々が、資源豊富な無人島に漂着したという仮想事例を用いて、検討している(ibid:66-69、同:96-99)。平等な分割のために、羨望テスト(envy test)が導入される。それは、分割の完成後、すべての移住者が、自己の資源の束よりも他人の資源の束を羨望・選好しない状態となるかのテストである。
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ドゥオーキンが強調するのが、各人の選択相互間の影響である(ibid :69-70 、同:99-100 )。彼によると、資源の平等のもとでは、人々は、自分の選択によって他人が負うコストを背景に、追求すべき生活を決定する。資源の平等は、各人の資源が平等に割り当てられることを要請するので、計量器が必要となる。羨望テストは、一人の人間の生涯に割り当てられるべき社会的資源を測定する真の尺度は、当の資源が現実に他人にとってどれほど重要なものかを問うことにより定まると想定しており、この測定を行うのが競売である。この平等な競売という装置が、仮想事例では有益であったとしても、果たして資源の平等についてのより一般的な説明を発展させる際にも役立つかどうかをドゥオーキンは問題にする(ibid:71-73、同:101-104)。労働や投資や商取引を伴うダイナミックな経済体制をもつ社会において、資源の平等を展開できるように、競売の装置を精密化できるかを問うべきだと主張するのである。また、競売の装置は、現実の政治制度を計画するときにも役立つと主張する (1)。まずは満足できるモデルを作り、制度をモデルに近接させていくことで改善することができると言うのである。
2.3.2.運と保険
(1)選択的運と自然的運この平等な競売の思考実験で、ドゥオーキンは運の平等主義についての「看板概念」とも言うべき、選択的運と自然的運を提唱する(ibid:73、同:104-105)。この説明は、冒頭で述べた。ドゥオーキンは、この二つの運をきれいに線引きすることができない微妙な事例もあることを認める。さらに、保険が利用できる限りでは、この選択的運と自然的運という二つの運を保険が連結する(ibid:74、同:105-106)。保険加入者が災害にあった場合、自然の不運を被ったことにかわりがないが、保険に非加入であった場合に比べれば、より良
「運の平等主義」の一側面(細見)
い選択的運に恵まれていたことになる。
このように述べたうえで、ドゥオーキンは二つの運をさらに詳しく検討している(ibid :74-76 、同:106-109 )。
①選択的運と再分配まず、異なった選択的運から生じる、異なった収入や富は、資源の平等に合致するか、と問う。ⅰ
ⅱ できないと言う。 な方策を選択した人が、賭けに勝って富を取得した人よりも少ない富を持つ結果となっても、異議を唱えることは 危険を冒すことに喜びを感じ、他の人々はこれを嫌う。この性格の相違も尊重されるべきであろう。よって、安全 ibid74106安全な方策をとった人々と、賭けに勝った人々との間の富の相違を考察する(:、同:)。ある人々は ibid76108ような異なった取り扱いを断罪するどころか、これを支持する」(:、同:)。 る。「資源の平等は人々が自ら送る生活の真のコストを支払うべきことを要求する、という原理は、人々に対するこの 賭けで損をする可能性は、賭けで得をする可能性をも含むような人生を送るために支払うべき正しい代価であると述べ るならば、誰も賭けなどしないだろうし、そうすると勝者と敗者の双方が選好する人生も送れないことになると言う。 さらに、賭けの勝者から敗者への事後的な再分配を行うべきかと、彼は問いを立て、勝者が敗者への分与を要求され ibid74-75106-107得をする可能性の公正なる代価であると言うことができると言う(:、同:)。 賭けの勝者と敗者、および事後的な再分配について、ドゥオーキンは、負けて損をするかもしれない可能性は、
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②自然の不運と再分配次にドゥオーキンは、自然の不運の事例を取り上げる(ibid:76、同:108-109)。二人の人間がほぼ同じ人生を送っていたが、一人が突然に失明してしまった。この結果として両者の収入に生じる相違を、リスクを冒して選択したとは説明できないし、選好する生活を否定することになるから再分配が不可能ということもできない。不慮の出来事は、人々の選択とは何の関連もないし、リスクを冒すことと再分配は関係ない。生得的な失明ならなおさらである。
③保険による二つの運の架橋ここでドゥオーキンは、保険が二種類の運を架橋すると言う(ibid:76-77、同:109-110)。競売においては、障害に対する保険が利用可能と想定される。例えば、失明は、おおかたは自然的運と言えるだろうが、失明に備えて保険に加入するかどうかは選択的運である。保険契約者は、担保範囲のレヴェルを自由に選択でき、失明する事故にあう可能性は同等である。加入を選択する者、選択しない者、あるいは担保範囲に関しても高い保険に加入する者としない者、といった相違が現れるだろう。この相違した態度は異なった見解を反映しており、端的に言えば、視力に大きな価値認めるかどうかを反映していると言う。すなわち、一方は失明の悲劇的状態の下では、金銭補償は無価値だと考えるのに対し、他方は、援助や特殊訓練に関心を向けていると言うのだ。あるいは、リスクの価値づけの相違であるかもしれず、資源を犠牲にして慎重な生活を送るよりも、今の生活を輝かしいものにしたいと思っているのかもしれないと言う。このことについて、ドゥオーキンは、資源の平等の考え方からすると、罹災した加入者と非加入者の間で再分配を要求しないと言う。保険が利用可能だった事実は、選択的運に属する事柄であることを意味し、先行するリスクが平等である条件下では、選択的運から生じる結果を乱すべきでないからである。罹災しなかった加入者と非加入者についても、加入者の場合は保険のために資源を消費したため選択的運が悪かったとも言えるが、それをもって非加入者に再分配を
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要求することはもちろんできないとする。
(2)運・リスク・嗜好と保険①障害のリスク・人生観・保険市場ここから、障害のリスクの話になる(ibid:77、同:110)。災害を被り身体障害者になるリスクが平等に存在し、それに備えて保険に入る機会を有しているなら、身体障害は資源の平等にとって何ら特別な問題を提起することはない。問題は、生まれながらの身体障害者、保険に入る知識や資金を持つ前に障害を負う人がいるからである。しかも、将来において身体障害者になる可能性は、遺伝的な経路で偏在している。しかし、保険市場の観念は、反事実的な指針を与えてくれるため、この指針に従って、資源の平等は問題に対処できると言う。まず、もしすべての人が特定の年齢に達すると身体上・精神上の障害を被る同一のリスクを有しており、障害者となる人の総数は現在と同じままとした場合、社会の平均的な成員は、障害に備えてどの担保範囲の保険に入るだろうかと問う(ibid:77-78、同:110-112)。ドゥオーキンは、その平均的な人は、平均的なレヴェルで保険に加入したであろうし、これに応じたレヴェルで障害への補償がなされるだろうと答える。しかし、人々は各々の人生観(送りたい人生)を前提にして、どの程度の資源を保険料に使用するかを決定する。しかしながら、生得的あるいは子供のときに障害を負った人が、もし障害がなかったら、どの程度の保険に加入したかを判断するのは難問である。まず障害がなかったとしたら、いかなる人生計画をしたかの判断を下さなければならないが、これには解答はありえない。しかし、この反事実的な判断は必要ないとドゥオーキンは言う(ibid:78-79、同:112-113)。なぜなら、保険市場は、たいていの人々が一般的な方法で保険をかけるリスクを示すカテゴリーによって構造化されており、ほとんどの災害上のリスクは、現実の保険市場によって無作為に分配されているとみなされているからだと言う。そして、ほとんどの人
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は、障害に対して保険加入する際、保険の価値をほぼ同じ仕方で評価していると想定してよいと言う。ただし、ドゥオーキンは、なぜそのようなリスクに対する一般化をして、保険市場に任せておけばよいと考えてよいのかについては、ほとんど理由を述べていない。
②予めの金銭補償次に、資源の平等の立場から見て、身体障害の問題に関して採りうる別のアプローチが考察される(ibid:79-80、同:113-114)。それは、身体的・精神的能力は各人の資源の一部と見なされるべきであり、よって生得的な障害者は他者より少ない資源で出発することになるので、予め金銭(payments)を移転して同じレヴェルにすることが許されるべきであり、その後、残りの資源を平等な市場で競売にかけるという想定である。この予めの金銭補償は、厄介な問題を提起するとドゥオーキンは言う。一つには、補償の標準としての役目を果す「通常の」力に関する何らかの基準を必要とすることである。誰の力が通常の力とみなされるべきかという厄介な問題である。更に、厚生の平等で問題にされた類似の補償と同一の欠陥を含むと言う。いかに補償額を増やしても、生得的に障害をもつ人々の肉体的・精神的資源を、「通常」と判断された人と平等にしていくことは不可能である。それゆえ、この議論は当初の補償に上限を規定しないで、政治的妥協に規定を委ねなければならない。その政治的妥協は、仮想的保険市場が命じるよりも少ないような補償を与えることになると主張する。もう一つ別の厄介な問題は力であると言う。力は操作したり移転させたりすることができないため、通常の資源と同じような意味で、平等理論の対象となる資源と考えることはできない。そうすると、資源の平等が、肉体的・精神的な資源を可能な限り平等にするようにすべきと主張することは、身体障害の問題を誤って捉えることになるとドゥオーキンは言う。そして、問題とすべきは、独立した物的資源の所有が、身体的・精神的な力に存在する差異によって、どの
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程度まで影響されるべきかを決定することだと主張する。
③奇抜な嗜好さらに、ドゥオーキンは、移住者が強制保険を通じて仮想保険市場を現実化していくと想定して、検討を進める(ibid:80-81、同:114-115)。障害のリスクが事前に同等なら、どの保険を購入したかを推量し、保険料を定め、これを強制保険として仮想的な保険市場を実現すると想定する。ここで、一つの問題を検討する。その問題とは、身体障害と、選好や企図・野心に関する偶然的事情との区別である。この偶然的事情――資源が現実に入手可能なものかどうか、どれくらい人気のある嗜好かどうか等――も厚生に影響するが、資源の平等では補償の対象外となる。この奇抜な(eccentric)嗜好、たまたま入手するのが困難なため高くつく嗜好を、障害と見なすことが公正と考えられないかと問うのである。ドゥオーキンによる答えは、こうである。生得的に重大な障害を持つ人は、他者よりも少ない資源しか与えられていないのだから、資源の平等のもとでは、このことこそ補償を正当化する根拠となり、矯正の対象となる。しかし、原因は何であれ、高価な嗜好を有する場合には、その者が自由に利用できる資源は、他者に比べて少ないとは言えない。嗜好や選好が平等に分配されている場合を表現することができないからである。現在する資源と人々の選好に関する情報を集中させる競売は、平等の資源を誰もが自由に利用できているかどうかを測定する唯一の尺度である。もし競売が平等なものなら、奇抜な嗜好を持つ人であっても、平等な物的資源を与えられたことになる。嗜好や選好の平等な分配を、ドゥオーキンが先に退けた厚生の平等論に依拠せず、ドゥオーキンのとる資源の平等論から、表現できないのはその通りであろう。そうだとしても、なぜ平等な競売を通しての分配が平等な結果をもたらすかについての説明はここではない。たぶんドゥオーキンは、競売の良さについては十分説明したと述べるだろうが。この後で、ドゥオーキンは、以上の議論は、人格(person)とその環境(circumstances)を区別したものであり、
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ある個人の嗜好や企図を彼の人格に割り当て、身体的・精神的能力を彼の人格の環境に割り当てていると述べる(ibid :81-82、同:116)。これは、自分の企図が他人にどれほどのコストを与えるかを考慮しながら、自分の企図を形成していくような人間の捉え方であり、資源の平等の中核にある構図であると述べる。
④望まない嗜好なおもドゥオーキンは次のような問題を検討する(ibid:82-83、同:116-117)。人間はあることを熱望しているが、実のところは熱望しないことを欲していることもあるのではないか。熱望が人生の障害となり、叶えられないとフラストレーションや苦痛さえ感じることもあるのではないか。この種の嗜好を持つことを本人は残念に思うが、これを無視することも苦痛である場合、それは障害に近接しないか。ドゥオーキンは次のように応答する。「資源の平等が要求する区別は、人生の成功はいかなるものかを規定し、その理想が人々に与える信念や態度と、その成功にとっての手段や障害となるものをあてがい、その理想が個人の環境に与える身体的・精神的・人格的な特徴との区別である」(ibid:82、同:117)。たまたまこの種の欲求を持つ蓋然性がすべての人に同等であると想定したとして、このリスクに対して一般的に保険加入するだろうか。ドゥオーキンは、おそらく多くの人は、精神疾患に入るほどの重度で能力喪失させる欲求以外は保険加入しないだろうと応答する。そして、ここでも保険市場の考え方が有効だということを強調する。
(3)小括このように、無人島への漂流者による競売という仮想事例に端を発したドゥオーキンによる運と保険についての検討は、市場への信頼に基づいて、個人の人生計画や企図を重視しながら、できる限りの補償をしていくというものであった。
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こうして運と保険に関するドゥオーキンの思考の流れを詳しく辿ってみると、彼の考え方の中心にあるのは、平等というよりも、むしろ自由なのではないかと感じるのではないだろうか。平等の中での自由の尊重が、主眼ではないのかという疑念である。それが様々な他の論者から批判を受ける一因でもあろう。自由な選択の重視、市場への信頼が随所に表れている。しかし、なぜ市場なのかの説明は見当たらない。結局、個人の人格(person)に関するところの選択――生き方、人生観等の選択――は、測りようがないから、市場に任せるしかないという判断のように思われる。
2.3.3.労働と賃金
ドゥオーキンは、資源の平等が競売により実現され、障害への補償もなされたとしても、生産活動と商取引によって、やがて平等の状態が維持できなくなくなってしてしまうと言う。彼は例をあげて次のように言う(ibid:83、同:118)。まず、移住者の生産能力が同等であり、同じ資源から同じ財を生産でいると想定する。しかし、人生設計は各人によって異なる。ひたむきな企てをもって資源を選択し、懸命に労働する者は、結果として、蓄財が多くなる。ところが、他の移住者はひたむきで懸命に生産することを好まない。ゆえに、個人の財の束の一部に滅私奉公的な就労をも含めるならば、誰も勤勉なエイドリアンを羨望することはないし、分配が不平等と言われることもない。このように、ドゥオーキンはただ財のみならず、その財を生産した人生の送り方をも含めた通観的な視点を採用すべきだとする。ドゥオーキンは、勤勉に働くのを好むというのも、一種の高価な嗜好だとする。そう捉えたとしても、彼の人生を全体として誰も羨むことがない限り、人々の選択は資源の平等のもとでは差異のないものと見なされるべきであると言う(ibid:85、同:120)。
は、出発点では誰も資源を所有していないので平等原理は平等な分配を必然的に決めるが、競売後は資源が人々に所有 ゲイト論に立つ者が、出発点での初期的分配と出発後の再分配には、重要な相違が存在すると答えるとする。その理由 ここでドゥオーキンは、このスターティング・ゲイト論と、自身の資源の平等論を比較する。まず、スターティング・ るのか理解できないと言うのである。 らない単なる一時点であるのに、なぜ特別扱いをして出発点のみに、レッセ・フェール原理ではなく平等原理を要求す ある。つまり、出発点でもレッセ・フェール原理による分配でもかまわないはずである。出発点は他の時点と何ら変わ るロック的財産論あるいはレッセ・フェール原理を正当化する他の正義論は、出発点でも使用することができるはずで は相互にしっくり共存することができない。ドゥオーキンの言い分によると、スターティング・ゲイト論に含まれてい ところが、ドゥオーキンによると、これら二つの原理――出発点での平等原理と出発後のレッセ・フェール原理―― 発した後は正義がレッセ・フェールを要請することをも主張する。 分の労働を財などに混入させることによって所有権を獲得するというある種のロック的理論におそらく従いながら、出 考え方である。スターティング・ゲイト論においては、正義は出発点において平等な資源を要請するが、その論は、自 という考え方である。しかし、このスターティング・ゲイト論はドゥオーキンによると、資源の平等とはまったく違う 態から出発して、詐欺や窃盗がなければ、人々が自分の技能で獲得したものを各自が保持することは公正に適っている、 ト論なるものを受容しているからである、と想定している。スターティング・ゲイト論とは、もし初期条件が同一の状 提示したが、反論はこの結論を誤解している。その反論は、彼が資源の平等の基礎として公正のスターティング・ゲイ ibid87-89123-126 だという(:、同:)。彼は、能力がほぼ平等なら、競売は資源の平等を提供してくれるという結論を 論 説ドゥオーキンは、彼に対する反論の中でも、彼自身が最も重要な論点であるとするのは、スターティング・ゲイト論 (2)スターティング・ゲイト論をめぐる検討
「運の平等主義」の一側面(細見)
されているので平等原理は所有権の尊重原理に取って代わられてレッセ・フェール原理になったのである、と答えたとする。この答えについてドゥオーキンは、明らかに論点先取りした言い方だと批判する。なぜなら、どの所有体制がどの時点で確立され、あるいは変更されるべきかという問題をまさに考察しているからであると言う。ドゥオーキンは、スターティング・ゲイト論を、当初は平等の資源で出発しなければならないが、その後は努力次第で資源の多寡が決まるという、非常に異なった二つの正義論の結合体であり、このような結合がまとまった一つの政治理論を構成することは不可能であると主張する。そして、ドゥオーキン自身の自身の原理は、平等の能力をもつ人々が人生において違った選択をしたのであれば、その生涯の途中で再分配を行うことは不公正であるという原理であり、スターティング・ゲイト論へ訴えかけるものではない、と述べる。自身の原理である資源の平等は、人々の生涯全体へと向けられており、首尾一貫していると主張する。つまり、資源の平等な分割は一時点では適正であるが、それ以外の時点では適正ではないということを想定していないと述べる。ただし、ある時点で個人にとって利用可能な資源は、他の諸時点で彼にとって利用可能であった資源、あるいは彼によって消費された資源の関数でなければならず、それゆえ、今の時点で或る個人に金がないのは、彼が過去において高価なレジャーを楽しんだことによって説明されうると言う。こうして、ドゥオーキンは、資源の平等がスターティング・ゲイト論ではないと主張する。ただし、平等に反することを承知の上で、資源の分配が個人の企図に敏感であることを容認しなければならないとも主張するのである。つまり、資源の分配は、行う選択が他人に及ぼすコスト、ないし他人に与える利益を反映するものでなければならず、その結果、選択によって利得が生じたならば、それを保持できることが許容されねばならないとも述べる。このように、ドゥオーキンが自身の資源の平等がスターティング・ゲイト論とは似て非なるものだと述べる理由は、自論の首尾一貫性と、スターティング・ゲイト論の非‐首尾一貫性にある。これについて、エリザベス・アンダーソンは、ドゥオーキンが自論を「スターティング・ゲイト論」であることを否定する理由は、生涯の過程を通して不平等な
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才能に対して補償を配分するからというだけの理由である(Anderson 1999 :308 )と述べるが、より端的に言うならば、その理由は首尾一貫性の問題であるように思われる。ともあれ、ドゥオーキンが頑なに主張するように、資源の平等とスターティング・ゲイト論は違うものであろうか。理論的には、ドゥオーキンが述べるような違いがあることは否めない。ドゥオーキンの資源の平等は、出発点である競売時から出発後の人々の人生の過程全般を通じて首尾一貫した資源分配の平等を求めるのに対して、スターティング・ゲイト論は出発点では平等を求め、その後はレッセ・フェールに転じるハイブリッドである。しかし、実際には、ドゥオーキンも認めるように、資源の平等は、出発点では平等な資源の分配を行うが、それ以後は、資源の平等を追求するにせよ、個人の企図・人生計画・選択に敏感であることを是とするために、強制的に介入して平等化を図ることはほとんどなくなる。キムリッカがドゥオーキンを「『驚くべき保守的』傾向がある」(Kimlicka 2002: 82-3, 92:邦訳:121-2, 135)と認める一因がここでも垣間見れる。ただし、これはキムリッカが整理するように、「『意欲を反映しやすく』『資質を反映しにくい』という目標」(ibid:75, 同:110)、あるいはドゥオーキンが「選択の反映しやすさと状況の反映しにくさの双方を備えた政策を作りたいと望んでいる」ことから派生する問題とも言える。ドゥオーキン自身も次のように述べる。
「我々はスターティング・ゲイト論を拒否すべきであり、(少なくとも現実の世界においては)平等の要請はこれと逆の方向に働くことを認めなければならない。一方で我々は、平等に違背することを覚悟のうえで、いかなる特定の時点においても資源の分配が(こう言ってよければ)企図に敏感(ambition-sensitive)であることを容認しなければならない。つまり、資源の分配は、人々の行う選択が他人に及ぼすコスト、ないし他人に与える利益を反映するものでなければならず、その結果、例えば消費よりも投資を選択する人々や比較的に安価な消費を選択する人々、あるいは他人にとってより利益になる仕方で仕事をすることを選んだ人々に対しては、平等な競売と、これ
「運の平等主義」の一側面(細見)
に引き続く自由な取引で為されたこの種の決定から生まれる利得を保持できることが許容されねばならない。しかし他方我々は、ある時点における資源の分配が才能に敏感(endowment-sensitive)であることを許容してはならない。つまり同じ企図を抱く人々の間で営まれる自由放任主義の経済において所得の相違を生み出すような能力上の差異が、資源の分配に影響を及ぼすことを我々は許容してはならない」(Dworkin 2000:89、邦訳:126)。
(3)能力ある者の奴隷状態このように、ドゥオーキンは、自らの理論がスターティング・ゲイト論ではないことを主張する中で、いかなる時点においても資源の分配が企図に敏感であることを容認しなければならないと述べる。しかし他方、ある時点での資源の分配が才能に敏感であることを許容してはならないとも述べる。そこで、ドゥオーキンは、この競合する二つの要請の間の妥協をはかる何らかの処方を案出することができるかを、次に検討している(ibid:89-92、同:126-130)。ドゥオーキンは、次のような検討を行う。ここでも仮想事例が用いられる。競売での資源に労働力が含まれることを認めたと想定すると、自分や他人の労働力を支配する権利に値をつけることができる。中でも、特殊技能は、社会全体を益するものとなる。ドゥオーキンは、能力ある者が奴隷状態に陥ることは、許容できないとする (2)。そのため、禁止のための論拠を模索する。ドゥオーキンによると、人々が自分の能力のために罰せられるようなことがあってはならないという原則は、人々は自分の優れた能力から生じる利益の独占を許容されるべきという観念を拒絶する際に依拠する原則の一部である。羨望テストは、どちらも禁止する。エイドリアンが詩の才能のための権利を獲得するために、他の資源を放棄することになれば、エイドリアンが他者の資源の束を羨むことになるからである。それゆえ羨望テストを成り立たすために、能力が及ぼす影響力を消去しなくてはならない。
論 説
ここで、ドゥオーキンは、所得税による資源の定期的な再分配という考え方に注目する。ドゥオーキンによると、所得税が適切な手段と思われるのは、それは能力の相違から生じる効果を消し去るが、ある個人が職業を選択することで生じる結果は維持するような再分配の体制を導きうるからである。続けてドゥオーキンは言う。税制が魅力的である為には、妥協を正確に実現する税率を確定できるか否かが問題となる。それを確定するためには、富における、能力に起因する要素と、企図に起因する要素を区別して、能力の相違に起因する要素だけを徴収する税を考案したいが、これは不可能である。なぜなら、能力と企図は相互に影響し合うものだからである。能力というものは培われ発展していくものであり、いちどきに開花するものではない。さらに転じて、万人の生産能力が平等と仮定した場合、各人が得たであろう所得を各人に残すよう税率を確定することも不可能である。この場合、どの種の能力をどのレヴェルで万人が平等に持つかを決定する必要があり、さらにこの平等な能力を異なった程度の努力で活用した人々が、いくらの所得を入手することになるかを決定する必要がある。このような困難を確認した後で、ドゥオーキンは再度、課題の検討に戻る。見出したいものは、職業の相違から生じる富の不公正な差異を公正な差異から区別する方法である。不公正な差異とは、遺伝的な運に起因する差異であり、ある人々を裕福にするが他の人々には拒否されている能力に起因する差異である、と。そうであるならば、能力の相違の問題は、ある意味で身体障害の問題に似てくると指摘する。
2.3.4.保険料としての税金
ドゥオーキンは、仮想保険の構造を税制度へと転換させうるかどうかを検討する(ibid:99-109、同:140-152)。結果として、次のようにドゥオーキンは言う(ibid:108、同:151-152)。いかなる分配理論も企図や人生計画に敏感に反応
「運の平等主義」の一側面(細見)
するものでなければならない、という要請が資源の平等において重要な意味をもつこと、分配や再分配のどんな体制も共同体のすべての人が送ることを欲し、かつ送ることを許されている人生に広範な影響を及ぼすことを理解したならば、資源の平等はこれを無視するような仕方で定義されるべきであるという単純な言明を我々は疑いをもってみつめなければならない。資源の平等は複雑な理念であり、一定の範囲内で、相互に異なる多様な分配を是認する不確定な理念なのだろう。しかし次のことだけは明らかである。この理念をいかに解釈しようと、解釈が擁護可能なものとされるためには、理念の様々な様相に留意しなければならず、どんな解釈も、ある人間の送る人生が他人に及ぼすコストに気を配らねばならないという要請を頭から拒否することがあってはならない。
2.3.5 他の正義理論 第二章の「資源の平等」での最後で、ドゥオーキンは他の正義理論と自身の理論の比較を行っている。比較の前に、彼は、複雑な現実世界で通用する理論を構築することを目指したが、実際には単純な状況設定の中ですら、完全な理論化には程遠いと告白する。そして、自身の単純な状況設定では、贈与や相続による財の移転は入っていなかったと述べる(ibid:109、同:152-153)。さらに、「政治的平等を経済的平等とは全く異なった問題とみなすことは完全な誤りである」(ibid、同:153)と強調する。
比較では、最初に功利主義との関係が述べられる。ドゥオーキンの資源の平等における競売は、財を同等に分割する機械的で単純な分割方法に比べて、効用を恐らくよく促進するとして、功利主義的な傾向が見られると自己評価する。そして、功利主義的な「公正な基礎的分配から出発して総体的な限界効用を極大化する」(ibid:110、同:154)ような分配は、自身の平等概念でも推奨されると述べる。
論 説
次に、ロック的な正義論として、ロバート・ノージック(Robert Nozick )が挙げられる。ドゥオーキンは、ノージックとは類似より相違が顕著なのは確かだが、「市場観念に卓越した地位を与えており、……市場によって達成される分配を推奨する」(ibid :111 、同:154 )点は共通しており、説得的だとする。しかし、ノージックにとって「分配を正当化する際に市場が果たす役割は消極的であると同時に偶然的なものにすぎない」(ibid:112、同:156)し、「ノージックにとって正義は、合理的人間が営む公正な市場で到達されるような分配でなく、……歴史的な出来事として現実に生ずる分配に存するのであり」(ibid、同)、分配の過程に市場取引が含まれる必要はないとする。そして、「これに対して資源の平等のもとで市場が登場するとき、それはより一層積極的である」(ibid、同)。最後に、ロールズとの対比である。大きな違いは、ロールズは、「経済的に最も恵まれない社会集団より上位の諸集団の間で分配が相互にどれほど異なっているか、という点について格差原理が十分な注意を払っていない」(ibid:113、同:158)として、「資源の平等は、このような特別の立場におかれた何らかの集団を取り上げるようなことはしない」(ibid:114、同:159)とする。
2.3.6 まとめ こうして見ると、キムリッカも認めるように、ドゥオーキン理論には「驚くべき保守的」傾向があり(Kymlica 2002:82-3, 92-94、邦訳:121-2, 134-7)、ドゥオーキンの政策提言は不平等な状況の改善に、さほど役立たないように思われる。それは、選択して得たものには絶対的に所有する権利があるという考えから生じるのかもしれない。
「運の平等主義」の一側面(細見)
2.4.至高の徳再論
冒頭で述べた「ドゥオーキンの『至高の徳』に関するシンポジウム」の特集で、ドゥオーキンは、マイケル・オオツカ(Michael Otsuka)らの批判に応えている。ここでもドゥオーキンの保守主義的な傾向が批判されていたのだが、これに対しドゥオーキンは、激しい社会的副作用を無視して平等を追求する愚を警める。平等化しても社会全体の活力が低下する危険は避けなければならず、副作用を考慮するならば、普通の人間が自身の人生計画を追求しつつ、無理なく加入できる保険の枠内で一定の格差是正を目指すことの適切さを説いている(Dworkin 2002:122-129;飯田2006:29-30)。
注*この章の文章は、筆者が二〇一一年に書いて未公表であったものを、本稿の規程の長さに合うように縮めたものである。(1)一方で、ドゥオーキンは、現実の決定において確定することが困難な事例では、政治的手段によって選択するよりも、競売にかけるほうが公正な場合があるが、この場合でさえ、理論的な探求が奨励する構想(design)で、現実の競売を遂行することはほとんど可能でもなく、望ましくもないとする。(2)しかし、考えてみるに、社会的な動物たる人間は、社会的な評価を得たいと通常は思うはずであり、社会において「能力がある」と評価されることに喜びを得るのが一般的であろう。農業の才能があるエイドリアンが、農業に従事して莫大な収入を生み出すことに何ら喜びを見出さないというのは稀なケースかもしれない。もっと言えば、評価自体が社会的なものであって、ある程度は、社会の評価に従って生活せざるをえないであろう。そのうえ、労働は生活のための糧であり、自分がやりたいと思う仕事に就くことができるとは限らない。社会がある程度評価をする仕事によって生活を維持して、余暇で自分が本当にやりたいことをやるということも十分にありえる話である。
論 説
3 .「ドゥオーキンと運の平等主義――比較」
ここでは、アーネソンが二〇一八年に公刊した論文を簡単に紹介する。まず、アーネソンは、「一九八一年にロナルド・ドゥオーキンは「平等とは何か」に関する厳然とした論稿を公刊し、その論稿は、後に「運の平等主義」と呼ばれることになる政治哲学のトレンドを引き起こした」(Arneson 2018:41)と述べる。そして、「右派ロック的リバタリアニズムの支持者であるロバート・ノージックによって提起された異議に直面して、ドゥオーキンは、平等主義の社会正義観で強力な擁護論をはっきりと述べた功績がある」(ibid)とする。アーネソンは、ノージックについて説明を始める。ノージックは、思考実験を提示して、その実験の中でまず、分配的正義論が十分に実行されたと仮定し、話を単純化するために、この正議論はすべての者が同じものを持つべきという平坦な平等であるとする。その仮説による公正な分配から始めて、人々が生活の過程で行動を選択していくと、奇跡がなければ、後には不平等が生じる結果となる。しかし、人々が公正に行動して、自発的に自分の目標を追求する選択をするならば、後の不平等な分配は公平とすべきであろう。この矛盾を回避するためには、分配的正義は平等な分配を要請するという初期の仮定を放棄すべきであると、ノージックは駆り立てる(ibid:41-2)。アーネソンによると、「「平等とは何か」という問いへのドゥオーキンの答えはノージックへの回答としてみることができる」(ibid:42)。「私的所有財を分配する際に平等に配慮する限り、物的資源の初期分配を支持すべきである。初期分配は、オークションの均衡結果であり、そのオークションで、そういう資源が全て競りに出され、全ての人は競りのための平等な資源を持ち、市場的価値のある才能を持たなかったり、障害を負ったりすることに備える二つの仮想的保険市場によって補われる。市場的価値のある才能については、自分が持つことになる才能を予知できない個人は、低い市場価値の才能を持つことに備える保険を購入する機会をもつ。障害に備える保険の市場では、人々に起こりうる様々
「運の平等主義」の一側面(細見)
な障害の発生や、そのような障害のための救済方法(例えば、近視のための眼鏡)を知っているが、自分がどのような障害をもつかについての可能性が分からない個人は、障害をもつことになる場合に備える保険を購入する機会を持つ。保険市場は、帳尻が合うように運営される」(ibid )。ドゥオーキンは、ノージックの懸念、つまり、いかなる公平な分配も個人の自由を侵害するということ、そして、平等主義は個人の責任に非敏感であるということに対処するために、保険という切り札を使ったということである。アーネソンは言う。「ドゥオーキンがチャンピオンとなった社会正義観は批判者を魅了した。彼は二〇〇〇年に『至高の徳――平等の理論と実践』を出版し、社会的正義の要請についての広範な解釈を提示した」(ibid:43)。その出発点は、(私的な個人とは違い)政府はその管轄下にある市民各人を平等な配慮と尊重で処遇する義務があるということである。このことはいくつかの信念からの行為を要求する。第一に、政治共同体の各成員の生活はうまくいくべきであるということが重要だという信念であり、第二に個人が自分の生活を自分で作る譲渡できない責任があるという信念である。ドゥオーキンが立役者である運の平等主義に対する批判をアーネソンは、三つに分類する。第一に、「運主義」自体に対する批判、第二に「個人責任」であることに対する批判、第三に平等主義自体を嫌うことから生じる批判である。ところが、続けてアーネソンは言う。ドゥオーキンを運の平等主義の創始者であり、その中心人物として扱ってきたが、ドゥオーキンの作品を、運の平等主義一族の中で標準的な一員としてみなす批判者への、ドゥオーキンの魅力的な応答は、運の平等主義に、彼の見解が属さないということである。批判者に応答して、彼は「非選択的な特徴から生じた、人々の状況の不平等は不正である」という運の平等主義のコアになる考え方に固執することを否定した。そうではなく、彼のコアになる考え方は、分配的正義が、人々の状況を適正な型の「羨望テスト」の元で平等にすることを要求するということだ。このテストを正しく理解すれば、「可能な限り、悪い運が起こる前に悪い運に対して保険をかける
論 説
機会を平等にするべき」ということを要求し、「そのことが不可能なら、彼らに機会があったなら、補償する保険をかけただろうというような補償を与えられるべき」ということを要求する(ibid:44)。これに対して、アーネソンは興味深い感想を述べる。「(本章の著者である私を含める)彼の追随者らに対する、自分は運の平等主義者ではないというドゥオーキンの抗議は、まるでローマ法王が実際はローマカトリック教徒ではないと宣言することで、総本山に対する異議へ法王が応答したのと同じくらい衝撃的に聞こえる。しかしながら、社会正義の候補概念にどんなラベルを貼るかについて気にしすぎるべきではない」(ibid:44-45)。
最後に、アーネソンは、ドゥオーキンの洗練された公正な保険アプローチは、状況や見込みの平等へのコミットメントを避けており、それゆえ運の平等主義とは明らかに異なる。これがドゥオーキンの立場のメリットだとする(ibid:63)。
4 .むすびにかえて
ステュワート・ホワイト(Stuart White)は、運の平等主義について紹介した文章の最後の部分で、運の平等主義とその批判理論とのバランスを保たせながら統合するような理論を見出す必要があると述べる(White 2007:95-7;細見2014:74)。ドゥオーキンとアーネソンは、論争しながらも、目指すところは、人々の行動における自由の妨げにならず、かつ社会正義に適い公正な制度を維持することで、援助が必要な人に手を差し伸べることができることである。それは、どの平等主義者も望むところであろう。巡りめぐり終わりのない探求であっても、理想に向かい考え続けることが肝要なのかもしれない。
「運の平等主義」の一側面(細見)
参考文献Anderson, Elizabeth, 1999 “What is the Point of Equality?,” Ethics 109.Arneson, Richard, 2008 “Rawls, Responsibility, and Distributive Justice,” in M. Fleurbaey, M. Salles, and J. Weymark (eds.) Justice, Political Liberalism, and Utilitarianism: Themes from Harsanyi and Rawls, Cambridge University Press. ---, 2018 “Dworkin and Luck Egalitarianism: A Comparison”, in S. Olsaretti (ed.) Oxford Handbook of Distributive Justice, Oxford University Press.Dworkin, Ronald, 1977 Taking Rights Seriously, Duckworth. [木下毅・小林公・野坂泰司訳 一九八六年『権利論』木鐸社; 小林公訳 二〇〇一年『権利論Ⅱ』木鐸社]。---, 1981 “What is Equality? Part 1: Equality of Welfare”; “What Is Equality? Part 2: Equality of Resources”, Philosophy and Public Affairs, 10 3/4.---, 2000 Sovereign Virtue: The Theory and Practice of Equality, Harvard UP.[小林公・大江洋・高橋秀治・高橋文彦訳 二〇〇二年『平等とは何か』木鐸社]。---, 2002 “Sovereign Virtue Revised,” Ethics 113.Hirose, Iwao 2015 Egalitarianism, Routledge.[齊藤拓訳二〇一六年『平等主義の哲学』勁草書房]。Kymlicka, Will 2002 Contemporary Political Philosophy: An Introduction 2nd edition, Oxford UP.[千葉真・岡崎晴輝他訳 二〇〇五年『新版 現代政治理論』日本経済評論社]。White, Stuart, 2007 Equality, Polity.Wolff, Jonathan 2002 “Symposium on Ronald Dworkin’s Sovereign Virtue”, Ethics 113.飯田文雄二〇〇六「運命と平等」『平等と政治(年報政治学二〇〇六―Ⅰ)』木鐸社。亀本洋二〇一五「R.ドゥオーキンの「厚生の平等」論を真剣に読む⑴~⑷」法学論叢一七七巻二~五号。川崎修編二〇一四『岩波講座政治哲学6政治哲学と現代』岩波書店。川本隆史一九九五『現代倫理学の冒険』創文社。酒匂一郎二〇一九『法哲学講義』成文堂。細見佳子二〇一四「『運の平等主義』をめぐって――ステュワート・ホワイトによる検討」『九大法学』第一〇九号。