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メルス・エル・ケビール(1940ネン7ガツ3カ)

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

メルス・エル・ケビール(1940ネン7ガツ3カ)

伊藤, 昌司

九州大学法学部教授

https://doi.org/10.15017/2077

出版情報:法政研究. 63 (3/4), pp.603-625, 1997-03-21. 九州大学法政学会 バージョン:

権利関係:

(2)

メルス・︐エル・ケビ︐ール一︵一九四〇年七月三日︶

伊藤 昌 司

 一 紙数が許せば何百回でもおことわりしたいことは︑本稿を論説として読まな恥で欲七いことである︒政治学の

素人が︑公的な学術雑誌にこのような一文を書くには︑理由の釈明が要る︒その第一は︑・私の勝手な解釈では︑還暦

記念号の企画には︑すでにして何ほどかの﹁祭り﹂気分が漂っているので︑少々の座興は許されるのではないかとい

うこ之︑第二には︑この記念号の名宛人はいつものように法学者を含む数人ではなく︑しかも︑.この同僚は政経学部

出身の政治学者であるというのに︑私の専門の︵砂を噛むような︶法解釈論文を捧げても喜んではもらえまいと思っ

たことである︒そして第三には︑これも牽強付会ながら︑私もまた第二次世界大戦の無数の当事者の一人ではあるの

で︑専門家ではなくとも︑それに関心を持ち︑論議を開陳する多少の権利があろうからである︒私は︑一九四〇年に

は二歳の嬰児であったけれども︑終戦時には立派な﹁少国民﹂であったのであり︑現今の学童とは違い︑戦場で闘う

意志を持ち︑敵を憎み︑自軍の勝利を信じていた︒敗戦を知った時には全身の水分が涙に変わり︑力が抜けて立てな

かった程︑この世界史的事件に身も心も捧げて参加していたのである︒

 標題に掲げる事件は︑第二次世界大戦史の重要な節目を画するものである︒ところが︑その重要性のわりには知ら

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れていない︒︐私自身も︑この事件のこ乏を知って﹂一〇年にもならない︒セロシマ︑ナガサキが日本人の︑.パ71〃.

ハーバ﹂がアメリカ人の記憶から消えることがない■ように︑メルス︐エル・ケビール寓︒お①一−閑⑪げマという地名も大

戦世代のフランス人の心に消七難く刻みこ・まれていて︑世々語り継がれていくに違いないのであるが︑・政治学者を適

含め︑︐われわれ旧本人の多ズはこの事件を知らない︒これを知ることは︑第二次世界大戦の欧州戦争部分を独伊枢軸

対論糟米ツ連合函という単純な二分法︵ならまだしも︶︑もっと単純化して︑反フデッシ﹁ヨ統一戦線勝利の物語とし

て理解するような議論が︑いかに多くのこ乏をスッ飛ばしたり歪劫九りしているかに気付く二之になる9とあみれ︑

私は︑︐一〇年南丘に︑畏友福元啓二郎氏︵鹿児島大学教授︶.から贈られ売アンリ.アムールー氏のラジオ講演の子音

テープによって︑この海戦を初めて知ったのであるが︑凸﹄︐九九一年の秋のフラツス滞在時に︑:次に述べ渇はうな書物

を入手してへより詳し加記述に接する之とができた︒幽九八九年似後の数年間のフランス臓︑毎々が大革命の諸事件

から二〇〇年月で︑.同時に第二次世界大戦の諸事件からの五〇年月でもあったρ私が滞在ルた二ヵ月溶着貸書店の將

別コーナ↓に億︑づ五〇欝血を記念する新しい本がいつも山積み患立ていた︒表紙だけであ誕ぷ出そうなそういう本の

山のなかに︑私は︑日本でいえば防衛大学校の戦史部朽担当者に当るマッソン氏の新著﹁フランス海軍と戦争︵一九

        ソ三九〜一九四五︶﹂を見付け︑その最も早い読者になることができた︒本稿の記述のほとんどが︑この本の受け売り

である︒知ったことは誰かに話したい︒要するに︑これが︑尊敬する小山教授の還暦祝いにかこつけて本稿を草する

理由の全てである︒       ︑︑ .遣. −も隔 ∴︑

63,(3マ:4,・604)・ 1064

︵畿器解躍碁盤︐韮響経講馨%賄難語飾師器隷隔肇﹃ヴのほう嫉

=㊦自駒

(4)

 二 一九四〇年七月三日︑アルジェリアのオラン近郊のメルス.エル適ケビール軍港に集結してい売フランス艦隊

は︑イギリス海軍の精鋭機動艦隊の奇襲攻撃を受け︑=一八五名の将兵が戦死︑三七一名が負傷するという大損害を

被った︒この二〇分間の交戦により︑ジャンスール提督指揮下のフランス艦隊は︑重巡洋艦三隻︵ダンケルク︑ブル

ターニュ︑プロヴァンス︶と大型駆逐艦一隻︵モガドール︶を失ったが︑ダンケルク︵二六五〇〇屯︶とモガドール

︵二八八四屯︶は︑それぞれ︑一九三七年と一九三八年に建造されたばかりの新鋭艦であり︑第一次世界大戦用に建

造された他の二二とは比較にならない戦略的価値を有した軍艦であった︒戦死者のうちの二一八名はダンケルクの︑

三八名はモガドールの乗組員であったが︑沈没した旧式の装甲艦ブルターニュの乗組員は一〇一二名が戦死し︑真珠       湾で沈没したアメリカの戦艦の一つと同様︑そのうちの一〇数人が数日間水底で生存していたことも後に判明する︒

そのエピソードだけでなく︑この一二五年振りの英仏交戦は︑一方が入念な作戦計画によって宣戦布告なしに相手の

不意を打ったとUう点において︑一つの真珠湾事件であったのである︒

 フランス側にとっての不幸中の幸いは︑ダンケルクと同型の最新鋭重巡ストラスブール︵一九三九年建造︶が︑駆

逐艦五隻とともに脱出に成功してトゥーロン港に帰投できたことであった︒その詩律は︑いずれも一︐一〇〇〇屯級の

ヴォルタ︵一九三八年建造︶︑テリィブル︵一九三五年建造︶︑ケルサン︵一九三三年建造︶︑ランクス︵一九二七年

建造︶︑ティーグル︵一九二六年建造︶の各艦である︒飛行艇搬送艦コマンダン・テスト︵一九三二年建造︑一〇〇       ヨ ○○屯︶は︑港内に無傷で残った︒

 イギリス海軍側の陣容は︑﹁H戦隊﹂と呼ばれることになる精鋭艦隊であり︑巡洋戦艦フッドを旗艦とし︑戦艦

ヴェーリヤント︑戦艦レゾリューション︑航空母艦アーク・ロイヤル︑その他︑巡洋艦二隻と駆逐艦一〇隻からな

 る る︒この機動戦隊の司令官はウェルズ提督であったし︑出撃基地ジブラルタルの司令官ノース提督はアレクサンドリ

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アに司令部を置く地中海艦隊司令官のカニンガム提督の管轄下に置かれていたが︑この奇襲作戦は海軍省の軍令部直

属となってサマヴィル提督が指揮をとっていた︒この奇襲作戦は︑カタパルトと名付けられた大規模な作戦計画の一

部であり.アレクサンドリア︑ポーヅマスその他のイギリスの軍港でも︑ノルウェー支援や北海での共同行動のた

め︑あるいは北フラン・スの軍港から避難してきて錨を下ろしていたフランスの全艦艇を対象に実施されたものであ

る︒︐それらイギリス軍港内での襲撃作戦は︑大きな衝突にはならずに︑おおむね平穏に終わった︒他ではダカ㌃ル港

で戦艦リシュリュー−︵未完成︶への航空魚雷攻撃が行なわれて︑同異が破壊されたけれども︑.メルス.・エル臥ケピ9ー

ルのような大きな悲劇にはならなかった︒五月一〇日のドイツ軍の大攻勢以後の数週間で陸空軍が壊滅し︑かってな

い国難に忍釘していたフランスに対して︑いままた同盟国イギリスが泣き面に蜂の攻撃を加えたわけである︒げに︑

軍事的な同盟関係ほど︑.・当てにならないものはない︒

63 (3「4 .606) 1066

︵2︶戦死者数等は竃﹀ωωOZ︐μO㎝艦艇が受けた損傷等は︐μお艦艇の建造年代は︐躰︒︒ω圏9︐⑩イギリス軍の損害は航空機五機

9﹁と飛行士二名のみ︵︽﹀切ω02讐勺蝉曾︶︒...      ゴ

麗・鑑鋸捲藁ル﹃第二次最長羅⑥晃五︒年・管範山ハ茸寒しい騒訳蓬この艦

隊名は﹁H軍﹂となっており︑駆逐艦数は=︑隻になっている︒・ネルソンという艦が︑♂作戦開始までにジブラルタル.に︐到着で

 きなかったようである︵︼≦﹀ωωOZぜ娼﹄bの蔭︶︒・ ﹁    冒 ン        國 へ  層 ・・− ご   嗣ひ

三 一九四〇年七月三日︑フランスの悪夢億︑まだ始まったぜかりであった︒周知のよう忙︑伺年増月一℃旧寵始

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まったドイツの電撃作戦により︑フランス陸軍は大混乱に陥っていた︒フランス陸軍の予想では︑戦車部隊の進撃に

は砲兵隊の支援が必要であるので︑アルデンヌの沼沢地を抜けて敵の主力部隊が侵入することはないはずであった︒

ところが︑敵は︑急降下爆撃機と戦車を組み合わせた新戦術で︑そこを突破して侵入し︑フランス軍の防御線はズタ

ズタにされてしまった︒その翌週には︑.フランス軍の航空機の三分の二が失われる︒敵の機甲師団の快進撃を航空攻

撃でのみ食い止めようとしたためである︒五月二八日にはベルギー軍が抵抗を止めた︒.五月二七日から六月四日まで

が︑史上有名なダンケルク作戦であり︑三〇万を越えるイギリスの欧州派遣部隊とともに多数のフランス将兵もイギ

リスに逃れた︒この作戦の奇跡的成功は戦史上の語り草ではあるが︑当時の戦闘局面から言えば北部戦線の消滅を意

味し︑その後のドイツ軍は大挙して南と西に向かう︒このドイツの大勝利を知って︑洞ケ峠で眺めていたムッソリー

ニ政府が六月一〇日に英仏連合軍に対して宣戦を布告し︑ドイツ軍は六月一四日にパリに入った︒フランス政府は︑

パリ防衛戦を行なわないことを決めて︑賢明にもパリを戦火から救ったのである︒フランス政府諸機関は六月一〇日

にはパリを捨て︑トゥールを経てボルドーに移った︒ポール・レイノーからペタン元帥への政権交替は︑六月一六日

から一七日にかけてであったが︑同日にスターリンのソ連軍がバルト三国に進撃して︑一週間で此処を占領し了え

た︒ペタン政府の発足により︑独仏間の休戦交渉が開始されるけれども︑その間も両国軍隊間の戦闘は続いた︒ロン

メル魔下のドイツ軍第七戦車師団が六月一七日にはシェルブール港に達し︑ブレストやロリアンのような海陸の要衝

が次々にドイツ軍の手に落ちる︒メルス・エル・ケビールの海戦は︑その翌週なのである︒そして︑その次の週の七

月一〇日に︑フランス政府はヴィシーに本拠を移し︑﹁自由・平等・博愛﹂に代えて﹁労働・家族・祖国﹂を掲げるフ       ランス国家が発足することになる︒海戦の前後の軍事・政治状況は︑このようなものであった︒

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(7)

右の状況のなかで︑あらゆる政略・軍略・策謀の焦点になっていたのは︑フランスの海軍力であった︒

 第二次世界大戦の開戦当時︑フランス倣︑・世界第四位の海軍力を擁していた︒つまり︑イギリス︑アメリカ︑日本

に次ぐ数の大憲巨砲を有していて︑ドイツ︑イタリア︑ソ連の三国と並ぶ第二級海軍掴家中の筆頭であった︒もっと

も︑当時のフランスは︑大英帝国に次ぐ大植民帝国であって︑世界中に多くの海外領土を有していたし︑シリアやレ

バノンを国際連盟の委任統治地域として支配していた︒フランス本土周辺や西地中海のみでなく︑遠︽は西イン下諸

島からヴェトナム︑西アフリカの海外領土や東地中海の権益を確保するためにも︑多くの兵員や軍艦を配置していな

ければならなかったが︑その事情は大英帝国にも共通する︒それゆえ︑大西洋と地中海の制海権に必要な海軍力とい

う見地では︑英仏連合野と独伊枢軸側の戦力は拮抗状態にあった︒周知のように︑ドイツ海軍は潜水艦の数において

優っていたし︑最新式の戦艦ビスマルクの完成も予定されており︑イタリア海軍の新鋭戦艦カヴール式二隻もやがて

就役することになっていたので︑艦艇の攻撃力において英仏連合側が圧倒的に優位とはいえなかった︒ただ︑ドイツ

の軍艦が北海から大西洋に出る出口はイギリス海軍によって半ば封鎖されていたし︑地中海の制海権は英仏連合側に

あったので︑その限りでは︑後者側の海上補給路は確保されていた︒イギリスもフランスも︑その宗主権に服する諸

国家や地域からの物資︑食料︑兵員︑労働力の補給がなければ第一次世界大戦を戦い抜くことはできなかったが︑そ

の事情は第二次世界大戦でも変わってはいなかった︒エジプト︑エチオピア︑インド方面とイギリス本土セを結ぶ海

上補給路は︑ジブラルタル軍港︑アレクサンドリア軍港を主基地として大西洋と地中海を遊ざするイギリスの海軍力

にようて確保されていたし︑アルジェリア︑モロ﹂ッコ︑シリア︑レバノン方面とマルセイユを結ぶフランスの生命線

は︑セネガルのダカールとボルドーを結ぶ生命線上ともに︑トゥ高士ン軍港とメルス・エル︑・ケビ﹂ル軍港に拠るフ

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ランス海軍が維持する構図になっていた︒しかし︑この構図が決して万全でないことは︑開戦直後の一九三九年中に

大西洋の海上補給路がドイツのUボートや装甲巡洋艦アドミラル・グラフ・シュペーに掻乱されて︑護送船団方式で

前者の脅威に対抗したり︑英仏の共同作戦で後者を捜索し自沈に追い込んだりするまで︑相当手こずった事実によっ

てすでに確かめられていた︒したがって︑独伊仏三国間の休戦協定においてフランスの海軍力がどのように扱われる

ことになるかは︑大西洋と地中海での制海権に大きく影響する︒万一︑フランスの艦艇がイタリアの手に渡ったりす

れば︑地中海は枢軸側の湖水に変わり︑エチオピア︑リビア地域とジェノア︑パレルモを結ぶ枢軸側の補給路が太く

安全なものになるばかりか︑ドイツ軍によるイギリス本土への上陸作戦も容易になる可能性があった︒イギリス政府

が神経を尖らせるのも当然であったのである︒

︵5︶竃>GoGっOZ︐器簿ω.⁝罎9︒霞討Φ>Odい寓02い鋤鳳εぴ一δ⊆ρ寓潜︒げ象一ΦHOOOも︐卜︒︒︒︒︒−N︒︒O旧W・チャーチル︑前掲書⑤︑四三

頁以下︒

 四 六月一〇日︑パリを逃れたフランス政府は︑いったんボルドーに本拠を置いた︒その後は︑さらにロンドンま

たはアフリカに移って海外領土の兵力を糾合しながら戦争を続けるか︑それともドイツとの和平の道を探るか︑その

選択をめぐる政府部内の対立が深刻化する︒軍首脳部は後者を支持したが︑その選択は英仏軍事同盟の破棄を意味す

る︒その一月前の五月一〇日︑まさにドイツの大攻勢開始の当日にチェンバレンから政権を継いだチャーチルは︑フ

ランスの敗色濃厚な五月一六日︑敗勢が決まった五月二二日︑ダンケルクの撤退作戦中の五月置一日の三回にわたっ

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(9)

      

浜ツ蕩製しい六月輿望凍ゆ協のフラ亥致鷹峯て訳載蓄潔コ乏切言イ考禰膣護︑男 あ馨に鱗ランス獲窒艦艇をヨギリスの耀塔省筆著.芝︑・決して敵毒筆事書.︑乏を鳶せ

は毒う潟であ罹︒そルスツランス政府も梅軍当局吃︑渋←て敵には婆な逡断 ℃続属望︒

 フラツスぷ載線を難脱す乃.湘とへ切明確な危惧越︑六月一︑三日の両国間の首脳書画で︑チ㍗腰湯ル遊子略暦たまう

である︒最後まで抗戦論をつらぬ恥たセ困ノーも︑その時にはつい弱音を吐いて︑閣内の単独講和論に押破れている

      ハア 印象を与えたようである︒相手はチャーチルである︒涙を浮かべて同情を示したとしても︑その瞬間に︑この帝国主

義大魔神の脳細胞に後のカタパルト作戦がイン・プットされたとしても.不思議ではない︒このチャーチルの危惧は︑

彼の帰国後にフランスから届いた公式通知︵アメリカ合衆国が参戦を拒否したとの通知︶により︑イギリス戦争内閣

全体に拡がった︒この通知には︑≒フランス政府は︑−休戦条件が受け入れ難い性質であることが確認されろ場合億別      ハき として︑海外での戦闘を追求する決定を行なわない﹂旨が書かれていたからである︒チャーチルの記述では︑この六

月一⊥ハ臼午前の会議は︑H英仏協定の義務からフランスを公式に解除してくれというレイノーの要請が前夜きていた      ねのでふまずそれに与える回答について協議したゆ﹂その結果∵フランスに送られ旋次の回答文は︑︑懸案のフランス艦

隊にも言及七ている汐畠・∵  .  ・:  ︑.. : ∴τ     ・ !q・︑鎖減∴レ㌧:.し.一急氏︑

・−﹁休戦と講和め別なく単独交渉を禁じたるわれちの協定は︑・.フランス共和国と締結せる適のに七て∵特定のフランス

略政府ま乖虐政治家妻締結せゐ為φ起あらずコ.ゆえに事はフラツスの名誉に議す︒しかしながち団交渉中︑フラ2ス艦隊

!老婆澄ちに英国の海港に送るべきことを条件乏七て寸ただこの条件においてのみ∵英国政府はフランス政府の休戦条件

∴を確ゆむべき媚会を行なうで乏甚対し完全なゐ同意を與うみあのなり︒.英国政府は戦争継続費決意七おるを為ゆて.上

63』(3ボ4 ●610) ユ070

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       り 記の休戦に関する照会のいずれの部分にも全然関係なし︒﹂

 ごの三々リ体側の回答にある要求は︑しかしをがら︑フランス側⁝には通用しない︒レイノーの反応も︑フランスが

海軍を手離せばチゴニ凱ア0ビゼルトをイタリアに対して放棄することにつながるので︑これは問題外であるどいう

ものであっ穣レ〜しに・政府蔀内で抗戦論が少数と奪たのを知り・六旦六日にルブラン大統領に辞表を提出

する︒政権はペタン元帥に移り︑新政権は︑その夜のうちに枢軸側に和平交渉の開始を呼び掛ける︒

 フランス海軍の問題についてはアメリカ合衆国政府も無関心ではおれなかった︒チャーチルの要請に促されて︑

ルしズヴェルト大統領は︑六月一七日に駐米フランス大使にフランス艦隊の買い取りを提案したが︑フランス側は合

衆国が参戦するならば隅この提案を受け入れる・と回答したゆ同じ日に︑ハル国務長官億︑フランス政府が艦隊を下イ

ツ側に渡すようなことがあれば︑フランλの海外領土は保証しないし︑合衆国を敵にまわすことを覚悟するように警

    ・︑﹁︐−︑    ︵12︶告する覚書を手交した︒

︵6︶ W︐レチャーチル︑前掲書⑤︑.六八頁以下︑九八頁以下︑一七一頁以下︑二四三頁以下参照.        ︑

︵7︶︐.ζ﹀︒りωozも・刈刈●

︵8︶ ︼≦﹀ωω02戸謬●

︵9︶ W︐劇チャーチル︑前掲書㈲︑一四頁︒マッソンによれば︑この日︑︑チャーチルは︑地中海艦隊司令官カニンガム提督とジブ

 テルタル基地司令官ノース提督に対して︑﹁万一アランスが単独講和を結ぶ方針を採る場合には︑アルジェとメルス・エル・・ケ

 ビールにある攻撃部隊をジブラルタルに送るようフランス海軍軍令部に要請した︒︐同部隊は︑同地においてわが軍の監視下に

 おかれることになろう︒この提案が受諾されない場合︑さらには︑これら艦艇が敵の手におちる恐れのある場合にはなおのこ

63 (3−4 ●611) 1071

(11)

 と︑貴下等は︑最終的にはこれら艦艇︑とりわけダンケルクとストラスブールの撃滅に至ることを得る︒その手段はレゾ

リ凋ーションを用いた砲撃または駆逐艦を用いた魚雷でもよい﹂という背筋の寒くなるような指示を与えていた︵寓﹀ωωoZ導

ロ湧け幽山一α︶︒数あるイギリス軍艦のケち︑レゾリューショ冴の名を挙げている点にも何がしか処断的な感じがある︒翌一七日 から一八日にかけて︑海軍軍令部は︑イタリア攻撃伶戦を補完するという名目で巡洋戦艦フッド︑空母アーク・ロイヤル噛およ

び駆逐艦九隻の塔援部隊をジブラルタルに向かわせた︵ζ﹀ωω畠nV7ご口.H同㎝︶︒

︵10︶ W・チャーチル︑前掲書㈲︑一四頁︒竃﹀ωωOZ噛︐刈O・後者は︑この日の午後一二時三五分に打電されたこの文書から一時

三半後に︑もう一本︑﹁休戦条件が分かり次第︑英国政府に意見を求めること﹂との要請が打電されたそうであり︑第二信は第.一信の認子を緩和する意味を含んでいたが︑耳垂大使館の処理が適切でなく︑第一信のみがレイノーに手交され︑第二信は手

交されずに口頭で伝えられたにとどまった︒そのため︑レイノーは︑第二信については国民評議会に報告する必要はないと判

﹁.断したようである︵署・﹃㌣︒︒O︶︒︵11︶寓﹀ωω07P︒︒ρまた︑W・チャーチル︑前掲書⑥︑一六頁以下に書く﹁英仏両国民の永久結合宣言﹂の件が在ロンドンの

ド免ゴールかむレイノー︐への電話で伍達された件についてもかマッズ区は︑この件がアランス政府内に何の反響も呼ばず︑親英

抗戦派のカンパンキやマンデルでさえ︑﹁われわれは英連邦の自治共和国の一つになる気はない﹂と述べたと書いている︵登

眉・︒︒O︶︒

︵12︶ 竃﹀ωω07︐︒︒P

63 (3−4 ●612) 1072

 五当時のフラ図又海軍の軍政ど軍令を一︐手に握って統率していたのは︑ダルテン提督であったが︑ダルテンば︑

チャーチルからの親書に答えで︑万Mの場合には艦艇をイギリスの軍港に帰投さぜるか自沈するかして︑.決して敵に

は渡さないことを確約しでいたし︑海軍部内にその旨を通達した文書︐︵︶︻黒く一①賊ω刈刈︶をイギリス側に開示したりもし

た︒この指令は︑二年半後のトゥーロン港においてフランス艦隊を瞬時に消滅させる程の準備と決意の産物であった

(12)

が︑その時点での政治的保証にはならない︒イギリス側は︑フランス大統領ルブラン等の政治家たちが誰も海外植民       お 地に脱出しようとしない状況に不信感を募らせていた︒そのようななかで︑六月一二日に︑フランス海軍の誇る最新

鋭戦艦︵砲は未装備︶のリシュリューとジャン・バール︵いずれも三五〇〇〇屯︶の二艦が︑要人を載せずにアフリ

カに向かったことが疑心を生み︑続いて︑六月二二日の午後九時半にイギリス政府が入手した独仏の休戦協定案第八      レ 条がイギリス側に衝撃を与える︒この案文が英仏協議の場で示されなかったことも︑イギリス側の疑惑を増幅させた

のである︒

休戦協定案の第八条は︑以下のように書かれていた︒

 ﹁フランス艦隊は︑その植民地帝国内のフランスの利益を護るためにフランス政府の処置に委ねられる部分を除き︑

次に定める港に集められ︑ドイツの︑そして各別に分担参加するイタリアの監視統制の下にωo⊆ωす08嘗2ΦαΦ一.≧げ

ヨ鋤σqロΦΦけ﹁ΦωOΦ〇二くΦヨΦ昌叶αΦ一.一富一一Φ兵員の任務を解き︑武装を解除されなければならない︒

 上記の港の指定は︑平時における艦艇の所属港にしたがって為される︒

 ドイツ政府は︑フランス政府に対して︑ドイツの監視統制下に置かれた港内に停泊するフランス艦隊を︑戦時におい

て自らの目的に利用する意図を有しないことを厳粛に宣言する︒ただし︑沿岸警備と掃海に必要な部隊は︑その限りで

ない︒ ドイツ政府は︑講和締結の際に︑フランス艦隊に関する引渡し要求を行なう意図を有しないことを付言し︑厳粛かつ

公式にこれを宣言する︒フランス艦隊のうち︑植民地帝国内のフランスの利益を護る任務に就くべく定められる部分を

63 (3−4 ・613) 1073

(13)

除き・フランスの領海外にある全ての軍艦はフランスに呼び戻されなければならな撃﹂

 この条項中︑とりわけ注目されるべきは︑第二項であった︒それは︑前記の新鋭戦艦リシュリューの所属港がプレ      め ストで︑・ジャン・バールの港がサン・ナゼィルであったことである︒前者はブルタ三二・ユ半島の先端︑後者は南側の

付け根に位置する要衝であるから︵イギリスとは目と鼻の距離にある︒イギリス本土への上陸作戦に︑この強力な両

艦が使用されるかもしれないとの恐怖がイギリス政府をとらえたのは当然であった︒六月二一日の両艦の慌ただしい

出航叡武装解除問題と関係していたに違いないし︑・協定案の末尾も︑.ダカールに退避したこの自衛の処置に関わる︒

チギーヂルの阿穴倉には︑この条項のゆえに︑.﹁如何なる代価を払っそもへ如何なる危険を冒しても︑如何にして

も︑われわれはフランス海軍が敵の手に入って︑あるい︐ばわれわれを︑または他のものを滅亡に導くことのないよう      レ にせねばならなかった﹂と書かれている︒

 イギレλ側かちフランス政府に対して︑.協定案への抗議や修正要求がなされたのは当然ながら︑英仏関係の事実上

の決裂は︑との瞬間であったろう︒六月二三日には︑チャーチルは休戦協定非難のラジオ演説をし︑滞婦中のド・

ゴLルによる非難放送もそれに加わったので︑こんどはペタンの七二非難演説が放送されるというふうに事態が進行

しへ・英仏連合は瓦解レ蛉㌍しかし・・両国が戦争状態に入うたわけではない︒.

..︐︵13ゾζ︾ωωO呂︐冒す︒︒県︒︒9画面ザス政府は︑心証一八日には︑全艦艇︵7ラ渚ス商船も含む︶に対しアランスの港に寄港しない

﹂..ことを命令し︑フランス軍艦が英個から咄航するの噛阻止する措置を秘密に講℃た︒ .. ・    9︑∴  一・高∴

「(

S1︶回忌︒超榎溜9       

63 (3−4 。614) 1074

(14)

︵15︶ 寓﹀ωQり07も﹂お︵︾目︒×o一一⁝↓o×け①9冨08<oコ賦8マ雪8−動一一Φヨ9︒&①α︑9§凶ω鉱8︶・W・チャーチル︑前掲書⑥︑五七

頁に休戦協定案に触れた叙述があり︑﹁⁝⁝第八条には︑フランス植民地の利益を擁護するために︑拘束外におかれる部分を除

 いたフランス艦隊は︑﹃指定サルベキ海港二集合サレ︑同所ニオイテ︑ドイツマタハ︑イタリアノ支配下二解隊サレ︑武装解除

 サレルコト﹄と規定されてあった︒であるから︑フランスの軍艦が完全武装のままそうした支配下に入るであろうことは明ら

 かであった︒ドイツ政府は右め条項において︑戦争中それらの軍艦を自己の目的に使用する意図のないことを正式に宣言した

 のは事実である︒しかし︑ヒットラコの恥ずべき記録と当時の諸事実の背後に︑精神に狂いのない以上︑何人がかれの言に信

 をおいたであろうか︒のみならず︑同条項は︑﹃海岸監視オヨビ掃海ノタメニ必要ナル艦艇﹄をこの宣言から除外した︒これを

どう解釈するかはドイツの任意であった︒最後に︑休戦条約は何時にても不履行の口実の下に無効にすることができた︒事実

上われわれのためには全然保障はなかった︒﹂と書いている︒この翻訳と拙訳との間にもある8暮﹁20という言葉の英仏両国語

義の微妙な相違も︑イギリス側の感情をこじらせる一因になったらしい︵︼≦﹀ωω○﹈Z℃冒︒Q◎①︶︒

︵16︶ ﹈≦﹀ωω07℃層・o︒①−◎︒8や軽Q︒心●

︵17︶ W・チャーチル︑前掲書⑥︑五八頁︒六月二二日夜の休戦協定第八条をめぐる審議の際の主要関心がリシュリューとジャ

 ン・バールの両艦にあったことは︑マッソンの記述するところである︵ζ﹀ωωOZも・一嵩︶︒この両点の問題につき︑ノース提督

 がオランのエスティヴァ提督のもとに急派されたが︑不運にも︑このフランス海軍のナンバー3はビゼルトに居て不在で︑メ

 ルス・エル・ケビールの戦隊司令官であるナンバー4のジャンスール提督にしか会えなかった︒

︵18︶ ド・ゴールは︑史上有名な抗戦のアピールを︑六月一八日の午後六時頃にBBCのラジオを通じて放送したけれども︑この

放送は︑英仏軍民の戦意をかきたてる数多くの措置の一つとしか考えられていなかったので︑録音もされなかったことは余り

知られてない事実である︒情勢の変化によって二回目以後の放送が歴史的価値を増していったことによって︑第一回目の放送

 も歴史に残ることになった︒

  ド・ゴールは︑五月二七日に英仏軍が行なった絶望的反攻に際して急編成の機甲部隊を指揮し︑敵の進撃を食い止めた功績に

 よって陸軍大佐から少将になり︑参謀本部に配置されていたが︑ガムラン参謀総長の辞任に伴う人事異動で︑最後のポール・

 レイノー内閣の陸軍次官に任命され︑この時期には︑フランス政府機構のアフリカ移転に要する船舶の調達交渉のためにロン

 ドンに派遣されていた︒そして︑前記の英仏連合国家構想︵注11参照︶について口頭で説明するために一時帰国したけれど

も︑六月一七日にフランスからイギリスに戻った︒そのため︑レイノー内閣の他の抗戦派閣僚たちのように拘束されずに済ん

63 (3−4 ・615) 1075

(15)

だのであるく以上は︑アンリ.アム﹂ルーのラジオ講演にま乃︶︒

 六﹁ペタン政権にまる英仏連合破棄・対枢軸和平路線は︑フランスの大部分によって支持惑れ距︒・フランス海外植

民地の行政当局や海軍の軍人たちが叛意を示すことを望んだイギリス政府やフランス抗戦派の期待は見事に裏切ら

塵温畢は凛艦ナルヴスル莞二七年希望︶拳︑ニジアを出るルタ島のヨギリ量に帰璽おみ蓄.

た︒・・ メルス・.エル・ヶビレルのフテンス艦隊を攻撃する作戦がイギリスの戦争内閣で最初に正式討議されたのは︑六月

二四aの午後であ!っ鳶しか玄﹄この段階で遺チャ﹂チルなな諮フラン入切海堺植民地の羅洞慢言たち八ψ期待遊施

いていたし︑キロッコのラバ墨に移ったマンデル他の抗戦派元閣僚達に別政府を作らせて︑−フランス海軍をペタンか

ら雪ぎ離す可世智も検討ざれ繍㌍しかし・これらの幻想は・どれも泡のように消えたので︑実力行使の是非と可否が

真剣北検討されるζとんなゑ7ヴンス分海外埴民地軍と海畢ガペタンに従う①が確実になったの濾六月二池月翼

なってであったが︑・二六日正午の戦争内閣で︑﹁H戦隊﹂一の編成が決定され︑サマヴィル提督に指揮権が与えられ

普選重態アレ童イ轟墨還御びン湯簿より悔空陸の言人⑳軍盗作戦羅を

評価工て六月三〇旧慣慮児を提出する亡どになワたコ亡の評価忌まれぜ︽作戦は︵①アメリカ合衆個の世論遊参戦の

方向に動かす効果があるさ②作戦中に首都方面のドイツ軍の攻撃で駆逐艦二隻と軽巡洋艦ご隻程度を失い馬北アフリ

カ方眼嘉輩笹書悪婆蓄蚤︐⑫董大喜黛擁謄誘ぞ暴落爵看撃書し導電

も掴難な海上輸送路の護衛が≒層むずかしくなる可能性があるこ孝であみ汐これちの理由で︑・フランス艦稼への武力

63 (37−4・616)1076

(16)

攻撃が是非とも必要とは思われないというのが︑三人の結論であった︒海軍の委員︵ダニエル海軍大佐︶の意見は明

確な反対論でかフランス海軍を敵にまわすことになれば海上輸送路の維持は到底できないと述べていた︒海軍省部内      ぬ では︑軍令部長パウンド三二名のみが積極論であった︒

 しかし︑六月三〇日の戦争内閣では︑フランスの艦艇がボイツまたはイタリアの手に渡ることの危険のほうが重視      ︵23︶され︑また︑それら艦艇を連合軍側で使用する利益も考慮されたようである︒最終決定がなされた七月一日の会議で

も︑地中海艦隊司令官のカニンガム提督は︑イギリス軍に好意的なフランス海軍の気持ちを敵意に変えることの不利

益を述べて反対したし︑ジブラルタル軍港内での艦上会議では︑・基地司令官のノース提督も実行部隊司令官のサマ

ヴィル提督も・なお反対であったけれども・チャーチルの強い意志によって実行されることになつ煽㌍後年のドレス

デン空爆でも︑軍人たちは︑軍事的に意味のない殺鼠のために自軍将兵を危険にさらすことに反対したが︑チャーチ

ル首相のシヴィリアン・コントロールに屈した︒・この経過を想起させる一幕である︒

︵19︶竃︾ωωOZ葛・︒.この段階では︑海軍軍令部長のパウンド提督は︑①フランス海軍の一部を破壊しても全体の憎しみを買う

 のは得策でない︑②フランス艦艇が蓄蔵軍で使用されるまでには二〜三ヵ月を要するので恐れなくてもよい︑③ただし︑敵の

潜水艦数が増えるのは防止しなければならないし︑④ダンケルクとストラスブールの両界がイタリアの手に渡れば︑地中海作

戦は困難になるので︑この警守の除却は必要である︑⑤フランス艦隊の攻撃でイギリス軍艦が被弾すれば︑右両戦艦の武装解

除戦力を失うことになるので︑そうなれば以後の地中海作戦は困難になる︑という理由で︑結論的には反対という立場であっ

 た︵﹈≦>Q∩ωOZロ●一一刈︶︒

︵20︶ ζ︾ωωOZ暑bω−罐.六月二七日の会議では︑機雷封鎖︑潜水艦による封鎖︑海上攻撃の三つの案が比較検討された︒会議

終了後︑サマヴィルに指揮権が委ねられ︑軍令部直属作戦となる︒翌二八日にサマヴィルはジブラルタルに出発した︵竃﹀ω−

 ω07b・Hb︒O︶︒

63 (3−4 .617) 1077

(17)

︵21︶ 竃﹀ωω070b戯.

︵22︶ ︼≦︾ωω07層・逡・

︵23︶ 言﹀ωω07ロb9

︵24︶ 竃﹀ωωOZも︐綜−O刈も戸H漣− Nα・W・チャーチル︑前掲書㈲︑六二〜六七頁︒イギリス海軍の軍人たちは︑フランス海軍が

枢軸側の手に渡ることをフランスの同僚が受け入れるはずはないと考えていたし︑イギリス軍に対して本気で抵抗することも

あるまいと考えていた︵寓﹀ωωOZ噛︐旨α︶︒      畠・

  七月一日置ロンドンからの訓令に対しては︑サマヴィルは︑﹁皆が最も強く主張するのは︑我が側の攻撃行動は現状の全フラ

 ンス人の気持ちを変え戦に敗けた同盟国を戦に敗けた敵国に変えることになるだけであるβわが軍が攻撃行動をとることなく

 オランから離れるとしても︑﹂わが軍の威信は強められこそすれ︑.弱まるものではないと皆が考えている︒これらの意見は︑最

近のフランス海軍との接触に基づくものである︒﹂という第一信を発して抵抗し︑それが抗命と受け取られないように︑﹁戦争

内閣がわれわれ以上に情報を持っていることは承知しているが︑ごく最近にフランス側と接触した将校たちが最大の確信で表

明する意見を可能なかぎり完全に伝えなければ職務を怠ることになると思量するものである﹂との第二信を送った︒この電報

 に対七て︑ロンドンからは︑﹁フランス側が︵前電で伝えた選択肢を︶拒否すれば攻撃すること︑これが政府の不動の意志であ

ると心得よ﹂との返電を出す︒選択肢は︑①戦争継続︑②イギリスの港に帰投︑③現在地での武装解除︑④自沈である︒もつ

 とも︑第三の選択肢は︑チャーチルにより︑時間を要するので不得策と判断され︑これがフランス側の受け入れる唯一の選択

︐と主張したパウンドの意見も通らずに︑その除外がサマヴィルに打電されることになる︵竃﹀ωω02も︐一ミー旨O︶︒

63 (3−4 ●618) 1078

七 かくして︑攻撃は決定され︑サマヴィル提督は気の進まない作戦を指揮することになった︒その陣容は前記の

とおりであり︑戦艦プリンス・オヴ﹁・ウエールズは未だ就役していなかったので︑旗艦はフッドである︒この艦は︑

後年︑北海の海戦でドイツの戦艦ビスマルクによって撃沈される︒メルス・エ.ル・ケビールでの海戦では︑全てはイ

ギリス軍に幸いし︑フランス艦隊は不意を打たれた︒イギリス軍は︑フランス軍からは視認できない位置に陸地を挾﹂

(18)

んで展開し︑空母から発進した航空機により上空から目標を観測し続けていたので︑砲撃戦に移ればフランス側に勝

ち目のないことは双方にとって明らかであった︒結果も冒頭に書いたとおりである︒しかし︑勝敗が決まった両軍の

対時状態のなかで︑なおかつ一二時間近い息詰まる交渉が行なわれ︑結局は政治の壁に阻まれた軍人たちが意に染ま

ぬ戦闘に突入し︑殺し︑殺される︒

 サマヴィルに対しては︑ロンドンは︑七月二日の返電で︑フランス側に軍使を送って考慮時間を与えることには反

対である旨の訓令を発していた︒しかし︑サマヴィルは︑現地に軍を展開するとすぐに︑ジャンスール司令官への軍

使として空母アーク・ロイヤル艦長のホランド海軍大佐を駆逐艦フォックス・ハウンドで派遣した︒フランス軍は︑

休戦協定の発効を前にして︑兵員の一部をすでに下船させていたほどで︑イギリス軍の来襲を予期していなかった︒

ジャンスール提督は︑イギリス軍との距離を置くよう命じられていたので︑軍使との面談には応じなかった︒した

がって︑交渉は全て副官のデュフェイ海軍大尉とホランド海軍大佐を通して︑両軍の司令官の間で行なわれることに

なる︒このルールが確立したのが午前七時一五分であった︒もちろん︑その時には︑フランス軍も戦闘配置について

いた︒サマヴィルは︑攻撃を避けるために文書を送ったのであるが︑その第一項の調子が強すぎて︑ジャンスールに

は最後通告の印象を与えてしまう︒第一項は︑チャーチル案であり︑第二項以下がサマヴィルの工夫であった︒そし

て︑その工夫のなかには︑艦隊がフランス領土インド諸島に退避する案が含まれていた︒しかし︑ダルラン提督の判

断を求めたジャンスールからの電報も︑当時のフランス政府が置かれた状況下で︑避難民溢れる道路上にあったダル      あ ランには届かないままであった︒

 午前九時に︑ジャンスールはホランドに文書を渡し︑フランス艦艇が無傷でドイツ︑イタリアに渡ることはないこ      め と︑最後通告には武力で応戦することを回答した︒また︑九時三〇分の文書では︑ジャンスールは︑﹁貴軍が我軍に

63 (3−4 ・619) 1079

(19)

対して一発でも打てば︑全フランス艦艇が二軍に刃向かうであろう﹂と警告する︒しかし︑サマヴィルは︑二二時半

に設定した期限を二時間延長して︑ジャンスールの態度が軟化するのを待つた︒この期限は︑ロンドンからの攻撃命

令にもかかわらず︑さらに延長され続ける︒午後三時一五分に至り︑ホランドはダンケルクの艦上に迎え入れられ︑

ジャンスールとも会見できた︒後者は︑前者がレジオン・ドヌール勲章を付けて会見に臨んだのに対して戦闘服で現

われ︑全艦が戦闘配置に付いていることを印象づけ︑フランス海軍部内の命令書を見せて米国帰投ないし自沈の方針

であること︑すでに兵員の除隊を開始していること︑しかしイギリス軍に強制されての武装解除やイギリス艦艇に導

かれての米国行きはありえないことを述べた︒午後四時三五分にホランドはダンケルクを退去する︒その時︑午後五

時半を最終期限とする最後通告が︑フッドのサマヴィル提督からフランス側に発信された︒フランスの士官たちは手      を振ってホランドを見送ったそうである︒武士たちの美学は︑洋の東西を問わず︑愚かしくも哀しい︒ ほ.

・︵25︶ζ﹀ωωOZもワ一ω一山ω9留守居役からの返電は︑﹁武力で答えよ﹂であった︒ ・︑   〜 ⁝    .!  ・叩

︵%︶蚤︒︒加︒7巳・.ρホランド遺︽先葦傍心たサマヴヨルからの蕎は最後通此︒で長く︑希望裂明で碧と逸し︑再

  考を促した︒

 ︵27︶国財QりωOzも巳ω刈−碁㌦.        ︐. ・   ︑・ ︐︐ 一  ︐・︐  ︐ド︐

63層(3−4 ●620) 1080

︑八︑凶ルス・エルザケビールの海戦後︑.ヨL旦グパには︑.誰も予期しなかヶた奇妙な軍事的均衡状態が生浮れる︒.

それまでは一〇σ%親英的であったフランス海軍が↓σ○%反骨的になったのを知って︑−ドイ助どそタリアは伽︑ペタ

(20)

ン政権に対して海軍艦艇の引渡しを求めなくなうたゆ休戦楊定の第八条が事実上凍結されたのである︒カタパルト作

戦によって嗣ぐの艦艇を失ったどは6煽Wトウーロン港にあるフラン︑ス艦隊の実力は︑なお世界第四位であることに

変わレはなぐ︑ヴィシーに首都を移したフランス国家の︑戦時下における存在を支えている︒ドイツもイタリアも︑

下手にこれを敵にまわす愚は冒したくはな︐い︒そして︑ペタン政権はイギリスに対して報復はしない︒海外領土への

イギリスの野心や一時的併合を警戒したからでもあるが︑チャーチルの決め付け程にはペタンは親独的でなかったか

らである︒ペタン派にとっては︑休戦は講和ではなかった︒第一次大戦以来の主群を打倒し領土を回復するのがその       目標であったことは︑ド乾ゴール派と変わるところはない︒それゆえにこそフランス︐の軍民の多くがペダンを支持

し︑ド・ゴールを支持したのは一部でしがなかった︒ド・ゴールは︑フランス人の目にはイギリスのエレジェントと

映った時期が長かった︒ド・ゴール派は︑一九四〇年八月二六日にチャド全部とカメルーンの一都市を入手したけれ

ども︑同年九月二三日から二五日号かけてイギリス海軍の支援の下にダカールを帰順させようとした時には︑港を守       回するフランス海軍の手強い抵抗に遭って撃退されるはめになる︒

る菰  0)

1

 、ノーベル文学賞を受賞した大戦の回顧録で︑メルス・エル・ケビールについて自慢たらたら書いて

︐﹁七月四日︑私はわれわれがとった措置を詳しく下院に説明した︒⁝⁝われわれのとった措置はドイツの主要計算か

らフランス海軍を除去した︒私はその日の午後︑一時間︑あるいはそれ以上演説し︑この暗い出来事のすべてについて

知っているかぎり詳細に説明した︒今日といえども︑当日議会と世界に提供した陳述以上に何もいい足すことはない︒︐

63 (3−4 ●621) 1081

(21)

しかし︑私は事柄の釣合い上︑この悲しい挿話を︑当時のわれわれの窮状との正しい相対関係におく言葉をもって報告

演説の結びとした方がよいと考えた︒そこで︑内閣の同意を得て︑.その前日政府要路の前に回覧された論告を読み上げ

た﹄︐一﹁こ︑の朗読の間へ議場は静まり返っていたが︐終わウに私の経験では初めての光景が起こった︒全員がこぞって立

ち上り拍手した時間はかなり長いものに思われた︒⁝⁝﹂

 ﹁大事な要素としてのフランス艦隊が烈しい行為の一挙で殆ど消滅したことは各国に深い印象を与えた︒もはや打ち

のめされたものと非常に多くの人々に思われ︑−眼前に迫った強大な力に降伏する一歩手前でふるえているものと外国人

たちに想像されていた英国は︑重日までもっとも親しかった友に今無慈悲な攻撃を加え︑しばらくの間絶対的制海権を

︑・確保したのだった︒英国の戦争内閣は何もめをも恐れず︑何事にもたじろがぬことが明らかにされた︒それは本当だっ

た︒﹂卜       P︐      ・   F    ・       −       ・ =−.⁝  −

63 (3「4 ●622) 1082

 しかし︑マッソンば︑﹁ガタパルド作戦によって提起されたあらゆる問題のなかで︑次の二つが特に注意を要す

る︒違う振る舞いをしたなら︑︑ロンドンはアランス帝国の一部︑または艦隊の一部の再帰順を獲得できていたのでは

ないか︒︐チャ墨チルとド・ゴールは︑・ペタン元帥に対して︑軽蔑的に︑攻撃的調子をとり︑︑ボルドー政府の正統性を

争ケ誤ヴを犯したのではないか﹂と書いてい恥㌍前記のように・この事件で政治的に最も痛手を受けたのは・ド

ゴレル派であ01屯︑ロンドンのアランス人の間でも︑休戦反対派のコルバン︑レジェ︑モネ等が︑自由フラとス委具会

の結成を非難することにな翰磐だが・国際政治の大舞台では・ルーズヴェルト大統領の支持さえ得られれば・チャー

         あ チルには成功である︒︑帝国主義者の流儀では︐﹁イギリスの威信が当時は最低であっだのを︑︐︑大英帝国が常に戦う決

意にあるごとを示すことになろう行動によって世界的に高めるごとを欲し嬬﹈のである以上︾他の虫けらどもが何を

(22)

語り︑φかに惑い苦しもうとも︑構うことはない︒虫けらの一匹であるホランド艦長は︑フランス人戦友の命を救お       み うと努力しすぎたために︑5ただちに降格処分を受けた︒しかし︑イギリス海軍軍人たちは︑サマヴィル︑ノース等の

作戦実施者たちのみでなく︑無名の士官たちまでも︑自由フランス軍の軍人や自分の監視下におかれたフランス海軍      士官たちに対して負い目を隠さなかったそうである︒地中海艦隊司令官のカニンガムは︑この作戦の誤りを終始批判

    お し続けた︒フランス海軍の協力なしには︑ドイツ軍はリビアに進出できなかったであろうから︑﹁砂漠の狐﹂ロンメ

ルの機甲師団に悩まされたアフリカのイギリス軍将兵が︑メルス・エル・ケビールのつけを払わされたことになろう漫

 その後︑国際政.治の大舞台では︑さらに大きな事件が起こった︒一九四一年六月二二日にドイツ軍がソ連軍を攻撃

して両国間の協定が破られたことである︒これによって︑フランス共産党も対独レジスタンスに参加するようにな

 れ る︒その後の事情によって︑勝者たちは臭い過去を互いに封印し︑不都合な記憶は暗闇に追われる︒メルス・エル・

ケビールの悲劇も︑そのような歴史の一こまであるが︑国家間の底流の澱みに潜んで︑時が来れば頭をもたげるかも

しれない過去である︒

︵28︶ プリマス港では︑戦艦パリ︵一九一四年建造︶︑駆逐艦ル・トリオンファン︵一九三五年建造︶︑水雷艇三隻︑砲艦三隻︑駆

潜艇四隻︑潜水艦三隻︑その他五〇隻︒フォルマス港では︑小型艦一九隻︒ポーツマス港では︑戦艦クールベ︵一九=二年建

造︶︑駆逐艦レオパール︵一九二六年建造︶︑水雷艇五隻︑砲艦七隻︑掃海艇一隻︑駆潜艇一一隻︑潜水艦二隻︑その他九隻︒

サザンプトン港では︑小型艦艇合一〇〇隻︒アレキサンドリア港では︑戦艦ロレーヌ︵一九一六年建造︶︑巡洋艦デュケーヌ

 ︵一九二八年建造︶︑トゥールヴィル︵同年︶︑デュゲイ・トゥルーアン︵一九二六年建造︶︑水雷艇三隻︒このうち︑ポーツマ

 ス港の水雷艇ミストラルが自沈し︑潜水艦シュルクゥフ︵一九三四年建造︶が砲門を開いてイギリス兵一名を戦死させた

63 (3−4 ●623) 1083

(23)

 ︵竃﹀ωωOZも切・おO山ω同も●呂N︶︒

︵29︶ ペタン政権下のフランスは︑ピエール・ラヴァルがドイツの後押しでヴィシー政府に復帰し︵一九四二年四八一︐一〇日︶︑そ

 の後¥休戦協定を破ったドイツ軍のトゥーロン港急襲︵リラ作戦︶によりフランス海軍全艦艇が自沈して︵同年一一月二六

日︶軍事的に無力となるまでは︑国土の主要部を敵に占領されているとはいえドイツとの敵対関係を捨てたわけではなかっ

た︒占領地域でレジスタンスの組織をゲシュタポに売ったフランス人がフランス軍情報部によって逮捕ざれ︑ドイツのスパイ

 として軍事法廷で裁かれ︑ラヴァル復帰の前日に銃殺刑に処せられたという逸話などは︵踏Φ嵩ユ﹁嵩Z諏暑い帥建謬h凶昌貯P

閑︒びΦ暮い臥ho三一鶏ωもO・Hミー嵩Nも●一①①︶︑この間のヴィシー政権の姿勢を最もよく表している︒︐

  トゥーロン港では︑四〇隻の戦列艦と一二隻の潜水艦︵合計二五万屯︶が自沈した︒そのなかにはメルス・エル・ケビールを

生き延びた重巡ストラスブール他も含まれている︒潜水艦五隻のみが︑上空のドイツ軍航空機の眼をかすめて脱出に成功し︑

その後は別々の運命をたどる︵ζ﹀ωωOZ眉・ωOO︶︒ポーランドの破局のなかでバルト海を脱出した二隻の潜水艦ヴィルク

 ︵狼︶とオジェル︵鷲︶のドラマにも比すべき逸話である︒

︵30︶ 駆潜艇サヴォルニャン・ド・ブラッザ︵一九三二年建造︑一九六〇屯︶︑機雷布設艦−コマンダン・ドミネ︵一九四〇年建

造︑六三〇屯︶︑・同型のコマツダン.デュロック︵一九三九年建造︶にトワ﹁ル船二隻という陣容の自由フランス軍を支援した

 イギリス海軍は︑戦艦レゾリューションが大破炎上︑戦艦バーラム︑巡洋艦カンバーランド︑巡洋艦フィジィが被弾損傷︑空

母アーク・ロイヤルの艦載機一九機が撃墜された︒フランス政府軍側も潜水艦二隻を失う︵ン臼﹀ωω︵︶ZN一ω一N目N︶︒

  ペタンとド・ゴールの優劣が逆転するのは︑一九四二年を過ぎてなおペタンが政権に留まりヴィシー政府と運命を共にするな

 かでのことである︒ド・ゴールは︑フランス国内で政治的な力を蓄えた非共産党のレジスタンス運動︑とりわけコンパの組織と

 の提携に成功したので︑解放の最終局面で国内的正統性を獲得することができた︒コンパの中心人物が︑注29に引用した文献

 の著者アンリ・フレネェである︒これら非共産党レジスタンス組織に加わった人々の多くはペタンの支持者でもあった︒︐

  一九四踊年六月にイギリス軍と自由フランス軍がシリアのフランス軍を攻撃して降伏させた時も︑停戦条件に従って︑フラ

 ンス将兵は以後自由フランス軍の戦列に入るかヴィシー政府の下に帰るかの選択を許されたが︑前者を選んだのは三分の一以

︐下でしがなかった︒

︵31︶ W・チャーチル︑前掲書㈲︑六七〜六九頁︒同︑七〇頁には御機嫌取りから耳にした逸話まで引用して︑まさに虫酸の走る

ような手前味噌である︒他方︑この回顧録は︑︵ダカール作戦のように︶軍事的にも政治的にも失敗七た事件については何一つ

63 (3一4 ・624) 1084

(24)

触れていない︒

︵32︶ ︼≦﹀ωω070・一〇一●

︵33︶ ︼≦﹀ωω07P一〇H・

︵34︶ 竃﹀ωωOZも・嵩Pハル国務長官は当初は批判的であった︒

︵35︶寓︾ωωOZ℃や嵩ρ一九四一年にハル長官に述べた言葉である︒当時のイギリス政府は︑ドイツ軍の上陸作戦に対する本土

防衛の問題だけでなく︑スペイン政府の応援の下にドイツ軍が陸上からジブラルタル基地を攻撃してくる可能性や︑アイルラ

 ンド政府がドイツに便宜を図るのではないかということも危惧していたので︑それらの国への見せしめ効果を狙ったとすれ

ば︑作戦の目的は確かに達成された︒

  日本での報道については︑東京朝日新聞の昭和一五年七月五日号しか参照していないが︑ベルリン特電を前面に出して︑第

 二面の四分の一盛を使い︑﹁北阿オラン港で英仏大海戦・英艦隊軍港内を猛撃・仏主力艦以下三隻撃破﹂といった見出しで伝えて

 いる︒翌六日からは︑英仏関係の断絶を伝え︑﹁ド・ゴール政権を豪語﹂といったロンドン発の記事も載せられていて面白い︒

︵36︶ζ﹀ωωOZ℃O.嵩県ジャンスールと魔下の将兵たちは︑ホランドらのイギリス海軍軍人たちにとっては︑シュペー討伐戦そ

 の他の作戦で︑開戦以来緊密に協力し合っていた戦友であった︒

︵37︶ ﹈≦︾ωω07bO・一お山謹.

︵38︶ ︼≦﹀ωω07ロ・H謡・

︵39︶ 休戦後もフランス軍はアルジェリア︑モロッコ︑シリアに布陣していたし︑ドイツの指揮下に入ったわけではなかった︒

 ハリウッド映画﹁カサブランカ﹂にはドイツ軍人が登場するけれども︑アルジェリアとモロッコにドイツ軍の支配は及んでい

 ない︒したがって︑米英連合軍の北アフリカ上陸は︑フランス政府軍との戦闘を引き起こし︑双方が多大の損害を被った︒フ

 ランス海軍は︑一九四二年=十八〜九日のカサブランカ攻防戦で戦艦ジャン・バールを失い︑巡洋艦プリモウゲ︵一九二六年

建造︑七二四九屯︶︑その他駆逐艦二隻︑水雷艇四隻を失う︒オランでは︑戦闘で潜水艦二隻が行方不明となり︑一水雷艇︑四

潜水艦︑その他七隻が自沈した︵ζ︾ωQりOZもO●︒︒♂山①︒︒︶︒

︵40︶ それまでは︑フランス共産党はドイツ占領下の合法政党であって︑機関紙ユマニテが街のキオスクで売られ︑紙上ではド

 イツ総統はムシュウ・イトレェルと敬称付きで呼ばれ︑攻撃の標的は侵略者ドイツではなく︑帝国主義の代表者であるイギリス

政府であったそうである︵アンリ・アムールーのラジオ講演による︶︒

63 (3−4 ●625) 1085

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