亮
恵
の
事
績
に
つ いて
増
山
賢
俊
はじ
め
に
亮恵の事績につ い て (増 山)平
安
時
代 後 期( 院 政 期 ) か ら 鎌倉
時 代初
期
に お い て 、南
都
、京
都
、高
野 山 を 含 め た 地 域 に おけ
る 、真
言宗
関 係 の寺
院 で活
躍
し た 人物
の事
績
を解
明
す
る こ と を通
し て 、 院 政期
か ら鎌
倉
時
代
初 期 の真
言宗
の 全体
像 を 明 ら か に し よう
と 試 み て い る 。今
ま で 、 仁 和寺
と 関 わ り を 持 つ海
恵
大 僧 都 (=
七 二 〜 一 二Q
七 ) 、東
大
寺 と仁
和 寺 に 関 わり
のあ
る 仁 和 寺華
厳 院 景 雅 ( 一 一 〇 三 〜 一 一 八 七 〜 一 一 八 九 ? 〜 ) 、 景 雅 の弟
子 であ
り 、仁
和
寺 ・ 勧 修寺
・石
山寺
と 関 わり
のあ
る文
泉房
朗澄
(=
三 二 〜 一 二 〇 九 ) を 取 り 上げ
て き た 。今
回 は醍
醐
寺
と興
福
寺
に接
点
を持
ち 、 内 山 永 久寺
開 山 に 関 わ る 真 乗 房亮
恵
( 一 〇 九 八 〜 一 一 七 三 〜 ? ) の事
績 に つ い て検
討
し て い く 。 ま た亮
恵 は先
に 取 り 上げ
た朗
澄 に も授
法 し て お り 、 そ の よう
な 面 か ら、 人 的 繋 が り に つ い て も検
討 し て い く 。亮
恵
が 住 し た 興 福寺
末
内 山永
久 寺 は 、 石 上神
宮
の 南 、 奈良
県 天 理市
杣
之内
町 と 園 原 町 に ま た が る 地 に か つ て存
在
し た大
寺
院 で あ る 。廃
仏毀
釈
の影
響
か ら 現在
本
堂池
と呼
ば れ る 池 を残
し て 果 樹 園 と な り 、 現 地 に は礎
石 を残
す
以外
何
も 残 さ れ て い な い 。廃
寺
に な っ た結
果
、 資 史料
・美
術
品
は喪
失
又 は散
逸
し た 。 そ の た め 、亮
恵 に つ い て の資
史
料
はあ
ま り 残 っ て い な い 。 こ の こ と は 、 東京
国 立博
物
館
編 『 内 山 永久
寺
の歴
史 と美
術
』 「 研 究 編 」 掲 載 の大
脇
潔
氏
「堂
塔
・ 子 院 の 配 置 と そ の復
元 」 に詳
し い 。亮
恵
お よ び 関係
が深
い人
物
の事
績
を見
て い く こ と で 、亮
恵 の 立 場 を 明 ら か に し た い 。 た だ し 、亮
恵
の著
作
、書
写活
動 に つ い て は 別稿
を 予定
し て い る の で、本
稿
で は省
略 す る 。智山学報 第六十三輯 一
亮
恵
受
法
の法
脈
に つ い て亮
恵 に関
す
る 重 要 な 史料
は 「内
山永
久 寺 置 文 」 、 「内
山 之記
」 であ
る 。 「 内 山永
久寺
置 文 」 は現
在
東
京 国 立 博物
館 に 、丙
山 之 記 L は寨
の 水 図 書館
に 所蔵
さ れ ・ 『 内 山 永 久寺
の 歴史
と 美 術 』 ・史
料概
L に 翻 刻 さ れ て い る ・ な お ・ 同 書 以 前 ( 2 ) ( 3 ) に も 『校
刊
美
術
史
料
寺
院
編 』 下巻
、 『 改 訂 天 理市
史
史
料
編 』 一 巻 に収
録
さ れ て い る 。 「内
山永
久
寺
置文
」 の 成 立 は文
保元
( 一 三 一 七 )年
と さ れ、 「内
山 之 記 」 は 文 保 元 ( =一 = 七 )年
ま で の 記 述 し か な い た め 、 そ れ に 近 い時
期
の成
立 と 推定
さ れ て い る 。 両書
と も、亮
恵 の存
命 中 の 成 立 で は な く 、 完 全 に 信頼
で き る 史 料 で は な い が 、亮
恵
の法
流
・事
績
を知
る手
が かり
( 4 ) に欠
か せ な い 。 先 行 研究
で は 皆 こ の 文 献 を 挙 げ て い る ( 以 下、 引 用 の 中、 傍 注 は ( ) に 括 り、 本 文 の 中 に 入 れ る 。 一 部 左 右 に 表 記 す る 。 [ ] は 割 書 、 朱 書 は 『 』 で 表 記 す る ) 。 〔 5 > 「内
山 之 記 」 に よ れ ばへ
一 亮 恵 上 人 御 房 御 誕 生 、 承 徳 二年
、 灌 頂 、 天 承 元年
二 月 十 二 日 [庚
辰 ] 、 御 入 滅 、 文治
二 年 五 月 廿 八 日 、 八 十 九歳
、 と あ り 、 承 徳 二 ( 一 〇 九 八 )年
に 生 ま れ 、 天 承 元 (=
= = 〉年
二 月 十 二 日 に灌
頂 を受
け
、 文 治 二 ( = 八 六 ) 年 五 月 二十
八 日 に 八 + 九歳
で 入滅
し た こ と が 分 か る ・ 入 滅 に 関 し て は・ 「内
山 永久
寺
置 文 」禾
願
亡昇
墓 処等
郭
L に も亮
恵 聖 人 亡 日 五月
廿 八 日 、年
紀
不詳
[ 追 つ て 勘 合 之 れ を す べ し 、養
和
、寿
永 の 比 か ] 、 墓 所 白 墓 西端
北 辺東
頗 云 々 、 聖 人 は 元 興寺
々 僧 、 俗姓
当
国 々 民 、 地黄
源 藤 三 の 一 族 な り 。 本 願 前大
僧
正真
言 師 範 な り 。 と あり
、養
和
(=
八 一 〜 = 八 二 ) ・ 寿 永 ( = 八 二 〜 一 一 八 四 )年
間 の 頃 で は な い か と さ れ て おり
、 亡 く な っ た 日 は 五 月 二 十( 7 ) 入 日 と 】 致 し て い る が 、 没 年 は 不
明
とあ
る 。 没 年 に つ い て は 、 他 に も 「 内 山 永 久 寺 縁 起 」 に166
亮恵の事績につ い て (増山)
一
十
三重
の 石塔
、 御影
堂 の巽
の 山 に あ り 、 是 本 願 亮 恵 上 人 の廟
な り 、 文治
二年
五月
廿
八 日 入滅
、 于時
行
年
八 十 九歳
。 と記
述
があ
り
、文
治
二年
と な っ て い る 。 「 内 山永
久寺
置
文
」 で は 元 興寺
の僧
と さ れ て おり
、河
野
昭
昌
氏 に よ っ て紹
介
さ れ た 江 戸 時代
成 立 の 「 内 山 上 乗 院系
伝 」( 8 ) の
巻
首
部
分
にケ イ
阿
闍
梨
亮
恵
( 『 先 徳 畧 名 』 ) [伝
法
正統
二十
代
院 家住
職初
代
]モ ト
真
乗
房 と 号 す 、姓
は源
氏 、 元法
相宗
元 興寺
の 人 、後
に 醍 醐 三 密 房 聖賢
闍
梨
に 随 つ て密
法 を受
く 、竟
に 門 人 五 哲 ( 『 雑秘 録 』 ) の 一 と
為
す
。 又勧
修
寺
の 淳寛
闍 梨 に 遇 ひ 、受
法
払底
す
。当
山密
教
弘 通 の 開基
、鳥
羽 法 皇 ( 『 土 去 抄 』 ) 及 ひ知
足院
関
白
0
( 『 左 府 頼 長 公 』 )御
帰 依 無双
の 人 な り 、 付 法 五 人 。 とあ
る が 、 元興
寺
僧
で あ っ た と いう
確
実
な史
料 は な い が 、 「内
山 永 久寺
置
文
」 にす
で に 見 ら れ る の で あ る か ら 、 信 頼 し て良
い であ
ろう
。 ま た 、 「 内 山 上乗
院
系
伝
」 に お け る亮
恵 の事
績
は『 古 記 』
承
徳
二戊
寅
年
月 日誕 生
『 印 信 』 三 十 四 才
天
承
元年
二月
十
三 日受
伝法
灌
頂 [大
阿 三密
房
色衆
六
口 ]『 秘 記 』
『
康
治
元
年
三月
日 於 東 小 田 原
水
丁 重受
大
ア淳
寛
ア サ リ 』『 官 府 』 六 十 七 才
長
寛
二年
七月
二 十 日補 阿
闍
梨
醍 醐 + 一 口 之 内『 血 脈 抄 』 七 十 四 才
承
安
元年
八 月 廿 二 日授
潅
頂
弟
子 慈 信167
智 山学報 第 六 十 三 輯 『 恵 厳 口 伝 』
同
年
十 二月
廿
四 日 山 階 寺 相 応院
鎭
壇 『 古 記 』 八 十 九 才文
治
二年
五 月 廿 八 日卒 ◎ ( 『 旧 来 用 治 承 二 年 説 ヲ 誤 也 』 ) と な っ て い る 。 ( 9 ) 灌
頂
に 関 し て は 、 『 血 脈 類 集 記 』 の金
剛 王 院 流 祖 三密
房 阿闍
梨
聖賢
( 一 〇 八 三 〜 一 一 四 七 ) の付
法
の 一 人 と し て亮
惠[ 阿
闍
梨
内 山眞
乘 房 と號
す 。 天 承 元 年 二 月十
三 日 入 壇 。師
四 十 九 。資
三 十 四 ] と 記 さ れ 、 金剛
王 院 流 を受
法
し た真
言 僧 であ
り
、師
は 聖賢
で あ る こ と が 分 か る 。 ま た 、 醍 醐 寺 蔵 本 『伝
法
灌
頂
師
資 相 承 ( 10 ) 血 脈 』 の 金剛
王 院 流 の付
法
に お い て 聖賢
の付
法
に亮
惠 [ 眞 乗房
阿 闍梨
内 山
『 天 承 元
二
十
三 入 壇四 十 四 ( 廿 五 イ ) 師 四 十 九 ( 六 □ ) 』 凵 と あ
り
、受
法
は 同 じ く 天承
元 ( = 三 一 )年
二月
十 三 日 と な っ て い る 。 灌 頂 を受
け た 日 が 「 内 山 之 記 」 で は 「 二 月 十 二 日 」 と記
さ れ て い る事
か ら 、 『 血 脈類
集
記 』 ・醍
醐 寺蔵
本
『伝
法
灌頂
師 資相
承 血脈
』 と は 一 日違
い と な っ て い る が、 天 承 元 ( 11 ) ( 一;
= )年
に受
け た こ と は 間 違 い な い 。 聖賢
が 亮 恵 の師
であ
る こ と は 、 『 野沢
血脈
集
』 に も 内 山 眞 乘論
課
嘩
『
臥華
賢 圓 少 別 當 子此
朗
澄 任 玄 ( 以 下 略 )168
と 記 さ れ て い る 。 『 醍 醐 寺 新 要録
』 「 金 剛 王院
篇
( 12 )法
流 血 脈事
L に も聖 賢 三 密 房 阿 闍 梨 ( 罫 線 朱 筆 ) 源
蘿
醐騰
談
鞴
繊
孺 朗澄
任玄
慈信
蓮 惠 亮恵の事績につ い て (増山)亮
惠範 嚴
( 13 ) と 、 聖 賢 付
法
の 一 人 と 記 さ れ て い る 。 『 続伝
灯
広
録 』 「 醍 醐 山 金 剛 王 院 開 祖 聖 賢伝
」 の 中 に も 付法
二 十 三 人 [今
三 人見
えず
]付
法
淳 寛 [
重
受
、前
に 見 え たり
]宗
賢 [ 高 野 ]貞
實
[ 醍 醐 ]亮
慧 [ 内 山 ] 淳 覺 [醍
醐
、字
は 遠 江 の 阿 闍梨
凵快
勝
[ 同 じく
字
は 高 禪 ]行 淳 [
醍
醐
、字
は 觀乘
]濟 助 [ 仁 和 寺 、 後 に 和 州 内 山 に 居 す 、 上 野
守
季
安 之子
]深
賢
[ 醍 醐 ]源
蓮行
朝
[ 遍智
院
法 橋 ]宗
海 [字
は 民部
阿 闍梨
]蓮
覺 [字
は式
部
の 上 人 ]賢
幸 [字
は 圓 淨 ]隆
俊 [和
州 内 山 ]定
賀
[字
は 淨教
]奪
惠 [後
に 慶 蓮 と 改 む 、字
は法
性 ]祐
海
[ 戒 を犯
す
]秉
勝
[ 醍 醐 山 龍華
房闍
梨
]1
信
阿 [ 字 は行
地 ]房
覺
[ 和 州 壺坂
美
濃
の 上 人 付 法 一 人 ]蓮 顯 [
字
は大
納
言 ] と 、 亮 恵 の名
が記
さ れ て い る 。 こ れ に よ れ ば 、亮
恵 以外
に も 永久
寺
の僧
と し て済
助 ( 一 一 〇 一 〜 一 一 三 六 〜 ) 、 隆俊
( 生 没 年 未 詳 ) の名
が 挙 げ ら れ る 。( 14 ) 『
密
宗
血脈
鈔
』 「 金 剛 王 院 流 血 脈 次第
」 に も智山学報 第六十三輯
鑞
餅
簿
難
ー
( 15 ) と あ る 。 同様
に 『 野 沢大
血 脈 』 「 総 合 三 宝 院 流 勝 賢 三 流 分 」 に も 聖 賢∴
∵
警
∵
罎
と あ る 。 ( 16 ) 一 方 、 『 野 沢大
血脈
』 「 金 剛 王 院 流 血 脈 次第
」 の み 蓮 花 院 僭 正 と 號 す 聖 臥 . 源 蓮継
亂挙
∴
軅
息 と あ り 、 摂 津僧
都 源 運2
一 一 二 〜 】 一 八 〇 ) か ら受
法 し て い る と さ れ て い る が 、 他 の史
料 で は 見 ら れ な い 。170
亮恵の事績 につ い て (増 山) ( 17 )
亮
恵
の付
法
に つ い て は 『 血 脈 類 集 記 』 に 醍、 十 二 代 。 聖 賢 阿 闍 梨 弟 子大
法
師
亮
惠
付 法 七 人
園
圏
「亮
惠
事
金剛
王 院 聖賢
阿 闍梨
灌 頂 資 。内
山藁
乘
房
阿 闍梨
と號
す
。 」 慈信
中 納 言 爲 逋 宰 相 息 。 承 安 元 年 八 月 二 十 二 日 之 を 受 く 。 澄 。 乎 朗
朝
文 泉 房 、 重 受 任 玄
改 名 蓮 惠 、 大 輔 上 人 慈 源
禪 臺 房 覺 心
靜 觀 房 敏 惠
越 前 得 業 圓 海 已 上 二 人 同 日 に 之 を 受 く 。 ( 18 ) と 、 七 人 に
法
を 伝 え て い る 。 『 続伝
灯
広 録 』 「和
州 内 山 阿闍
梨亮
慧 伝 」 に も付
法 の弟
子 が 記 さ れ て い る が亮
慧 、 字 は眞
乘
、傳
詳
な ら ず 。當
時
の 大 徳 に し て 雷名
人 を 駭 か す 。 付法
五 人 あり
。 謂 く慈
信
、尚
書
侍
郎
爲 通 の 子 な り 。 圓 海 [内
山 ]敏
惠 、 字 は 越前
の 得業
と 日 ふ 。 覺 心 、 字 は 静 觀 、法
橋 上 人 位 に 任 ぜ ら る 。 天幅
年
間播
州 書寫
山 の 俊源
上 人 、諸
國 を勸
進
し て 二階
堂 七 間 を 建 立 し 、 ( 覺 ) 心 を請
し て 落 慶 唱 道 ( 導 ) と爲
す
。 朗澄
、字
は 文 泉 、 石 山 に住
す 。 任 源 、後
に 蓮 惠 と 改 む 、 字 は 大輔
上 人 。 ( 以 下 略 ) と あ り 、慈
源( 〜=
七 三 〜 ) の 名 は 記 さ れ て い な い 。 ( 19 ) 『 伝法
灌
頂
師
資
相
承
血脈
』 に お け る亮
恵
の付
法
の弟
子
に つ い て は 171智 山学報第六十三輯 聖 賢 ・ ・ 内 山
亮
恵 『 治 承 ニ ー 夏 任 玄改 名 蓮 恵 随 念 房 法 相 宗 禪 臺 房 慈 源 信 源
善 順 房 覺 心
靜 観 房 慈 信 中 納 言 公 為 通 宰 相
1
興 然 理 明 房 円 教 海 惠 と な っ て お り 、 勧 修寺
理 明 房興
然 ( 一 ま た 、勧
修 寺 流 に 関 し て は 越 前 得 業 満 月 房 『 四 巻 鈔 』範
俊ー
嚴
覺−
寛 信−
淳
寛 [宰
相
阿 闍 梨 ]1
亮
惠 [内
山眞
乗
房 ]ー
興然
−
榮 然 − 聖濟
−
榮
海
と あり
、宰
相
阿 闍梨
淳
寛
二 一 一 〇 〜 一 一 五 〇 〜 ) か ら付
法
を受
け た こ と が 分 か る 。淳
寛
か ら の受
法 は 『 四 巻鈔
』 「 聖観
音
軌 ( 21 )最
秘 」 の 血 脈 に も範
俊
−
嚴
覺
−
寛
信
−
淳
寛−
亮 慧−
朗 澄−
成寶
−
榮 然 −榮
奠−
信 忠−
榮 海1
寛
胤 と あ る 。淳
寛
は小
野方
に お い て安
祥
寺
流 ・ 勧 修寺
流 、醍
醐
方 に お い て 金 剛 王 院 流 ・ 理 性 院 流 を幅
広 く受
法
し た 醍 醐寺
僧 で あ り 、淳
寛
が 勧 修寺
法
務
寛
信( 一 〇 八 四 〜 一 一 五 三 ) か ら受
け
た法
脈 は 亮 恵 を 経由
し て興
然 に 流 れ て い る が 、醍
醐
に 流 れ た 亮 恵 の法
脈
も
ま た勧
修
寺
流 の 中 で 重要
な法
脈 と し て受
け 止 め ら れ て い た と い え よう
。 こ の こ と か ら、 興然
も ま た亮
恵
か ら 教 え 一 二 } 〜 一 二 〇 三 ) が 入 る 代 わ り に朗
澄
の名
は 見 ら れ な い 。 ( 20 ) 「 聖観
音
印
信
」 の 血 脈 に172
亮 恵の事 績につ い て (増 山) を 受 け た の で
あ
ろう
。 ま た 、 勧 修寺
流 で あ っ て も朗
澄 を経
て成
宝 、 栄 然 、栄
尊
、信
忠 と続
く
流 れ もあ
る 。( 22 ) ま た 、 『 四 巻 鈔 』 「
具
支 灌 頂式
相 伝事
」 に は 予 、私
に 云く
、先
師
の 口 傳 に 云 く 一傳
一 兀杲
−
常
寂
−
寂
圓−
成甼
範俊
−
嚴
覺
麟
實
任
興 然瀦
舞
又傳
。元
呆
ー
廣
壽
−
常
寂
−
懷 尋−
勝 覺−
聖寶
−
亮
惠−
興然
云 々 此 の傳
醍
醐
傳 なり
賢 。 カ と い
う
興 然 が 実任
( 一 〇 九 七 〜 一 一 六 九 ) か ら伝
え た 血脈
と亮
恵 か ら伝
え
た 血 脈 を 挙 げ た 上 で 、 さ ら に 口 伝 に 云 く と し て 、 良 勝 ( 一 〇 七 九 〜=
五 九 〜 ? ) の 相伝
に つ い て は 我専
〔 生 没 年 未 詳 ) が こ れ を伝
え 、亮
恵 の 伝 に つ い て は浄
覚
房行
慈 ( = 四 七 〜 一 二 二 六 ) が こ れ を 伝え
た と し 、 そ れ に対
し て本
願 興然
は寛
信 、良
勝 、亮
恵 の 三伝
を伝
え て い る と し て い る 。 す な わ ち 、勧
修寺
相
伝 の 具支
灌頂
儀
式
を実
任 に受
け 、我
専
に 伝 え、 醍 醐 流 相 伝 の 具 支 灌 頂 儀式
を亮
恵 に 受 け て 、 行 慈 に 伝 え た こ と に な る 。 以 上 か ら 、寛
信−
淳
寛−
亮
恵
と伝
え
ら れ た 勧修
寺 流系
統 の伝
が 醍 醐 に 伝 わ り 、 あ ら た め て受
法
し た も の で あ る の か 、 元 々 元 呆 か ら伝
わ る醍
醐 寺 流系
統
の伝
を淳
寛−
亮
恵 を 経 由 し て 受 法 し た とす
る 二 通 り 考 え ら れ る が 、特
定 は 難 し い 。( 23 ) 興 然 は 『 血 脈 類
集
記
』 に よ れ ば 幼 稚 に 從 ひ 寛信
法
務 に 隨 ひ、 兩部
大
法
護
摩 諸覃
儀 軌等
を受
け 了 ん ぬ 。念
範
已講
灌
頂 の資
な り 。 理 明 房 阿 闍梨
と號
す 。 又 慈覃
院 阿 闍梨
と 云 ふ 。 又大
法
房
実
任
に 値 ひ 、 保 元 二年
重 受 す 。 又 内 山 眞乘
房
亮
惠
阿闍
梨
に値
ひ 應 保 二年
重
受
す 。 建 仁 三年
十 一月
三 十 日卒
す
。 [ 八 十 四 ] と あ り 、 応 保 二 (=
六 一 一 )年
に亮
恵
より
灌
頂 を受
け て い る 。( 24 ) ま た 、 興
然
付
法 の覚
禅
(=
四 三 〜 = = 三 〜 ) が 記 し た 『覚
禅
抄
』巻
二 十 九 「 理 趣経
下 」 の 「 十 八 会曼
荼
羅 図 」 を挙
げ
173
一智山学報 第六十三輯 て 「
寫
本 に 云く
」 と し て 以 下 の記
事
が載
せ ら れ て い る 。 應保
二 年 五 月 二 十 二 日眞
乘房
阿 闍 梨 に 之 を 傳 へ奉
り畢
ん ぬ 、 興( 然 ) 。 但 し 「 法 務 御 記 」 は
後
日 之 を書
き加
ふ 興1
( 然 ) 。 こ れ に よ れ ば 、 応保
二 (=
六 二 )年
に亮
恵 か ら 興然
が 『 理 趣 経 』 「 十 八会
曼 荼 羅 図 」 を受
け
た こ と が知
ら れ る 。 「法
務
御 記 」 は そ の前
に 記 さ れ て い る 「先
師
法
務
御
口 傳 に 云 く 、常
途 本 有 十 七會
、 小野
御 本本
有
十 八 會 」 を 指 し 示 し て い る と 考( 25 ) え ら れ る 。 そ れ 以
外
に 『 覚 禅鈔
』巻
二 「 仏 眼 」 の護
摩
の諸
尊
段 の箇
所
に亮
惠 の 云 く 、 三層
の 諸 尊 、佛
部 、 蓮花
部 、 金剛
部 な り 。 三 部 の 言 を 以 つ て 次第
に こ れ を供
養
す
る な り 。 と いう
記事
が 見 え る 。 こ の よ う に 『覚
禅鈔
』 に は 、 興然
が亮
恵 か ら受
け
た と考
え ら れ る 口訣
類
を見
る事
が で き る 。〔 翆 同 じ く
勧
修
寺
僧 であ
る文
泉 房 朗 澄 は 、 『 石 山寺
年
代
記 録 』 永 暦 元 (=
六 〇 )年
の条
に 六 月 廿 日 朗 澄初
め て 内 山 眞 乘 房 阿 闍 梨亮
惠 に依
付 し て 、 諸 覃 の法
を受
く
。首
尾 廿年
の 間、隨
分 の受
法
『 石文
抄
』 に有
り 。 其 の 口傳
を 記 さ る 。 時 に 年 廿 九 。( 27 > ( 28 ) と あ る よ
う
に 、 亮恵
か ら長
期 間 に わ た り 教 授 を 受 け 、 そ の内
容 は 『 石文
抄
』 に 記 し た と さ れ る 。 月本
雅幸
氏 に よ れ ば 、 永 暦 二2
一 六 一 )年
に 、醍
醐
寺
柏
森
に て朗
澄 に 内 山 の 許 可 を授
け ( 『 石 文 相 承 』 ) 、応
保 二 (=
六 二 )年
に も 内 山 の灌
頂
を 授 け て い る ( 『 石 文 相 承 』 ) 。長
寛
元(=
六 三 )年
に も 、 醍 醐 寺 蓮蔵
院 に て内
山秘
密
灌 頂 を 授 け た 、 と さ れ る ( 『 石 文 相 承 』 ) 。 ま た 、誰
か ら伝
授
を受
け
た か 不 明 で あ る が 、承
安
二 (=
七 二 )年
に 慈 信( 〜 一 一 七 一↓
が 内 山大
房 に お い て灌
頂
次
第
を 受 伝 し た事
が 石 山寺
校
倉
聖 教 目 録 の 「 胎蔵
界 伝法
灌
頂
作
法 」 「 三昧
耶
戒
式
」 「胎
蔵
界
伝
法 灌頂
作
法 」 「 金 剛 界伝
法
灌頂
作
( 29 )法
」 合 一 巻 の奥
書
に『 奉 受 』 『 朗 澄 』 承
安
二年
八月
十
一 日 於 内 山大
房
圉
了
金剛
佛
子鬮
膕圓
之 本 と あ る こ と か ら 分 か る 。 「 之 之 」 と 「 慈 信 」 の 部分
は 朱 書 に よ っ て重
ね書
き さ れ 、 そ れ ぞ れ 「奉
受
」 と 「 朗 澄 」 と改
め174
亮恵の事績につ い て (増山) ら れ て い る 。 そ れ ら の こ と か ら 、 承
安
二 (=
七 二 )年
に慈
信 が受
法
し 、 書 写 し た 本 を後
に朗
澄 が 譲り
受
け た こ と が わ か る 。朗
澄 が何
時
誰
か ら伝
授
さ れ た か 不 明 であ
る が 、 お そ ら く 慈 信 か ら受
法
し た 可 能性
が高
い 。 場 合 に よ っ て は慈
信
の本
を持
ち 、亮
恵
自
身
か ら受
け た 可能
性 も 考 え ら れ る 。( 30 )
ま た 、 『 血
脈
類集
記 』 の 勧 修寺
法 務寛
信
の 付 法 の 裏 書 に 、 「 寛 信事
」 を 記す
中 に勧
修
寺
四 天 王 を 載 せ 、 そ の 一人
と し て 「文
泉
房
[朗
澄
亮
惠弟
子 ] 」 を 挙 げ る 。( 31 )
『 野 沢 血
脈
集
』 の醍
醐
寺 座 主覚
洞 院勝
賢
2
=一天
〜 一 一 九 六 ) の 付法
の弟
子 に も 「 朗澄
」 の 名 が 見 ら れ 、 そ の傍
注
に 「文
泉
房
律
師 」 とあ
り 、 そ の 下 に は割
書
き で 「 石 山 。 文 泉 房 。勝
賢
僭 正 に 入壇
受
法 す 。 『實
歸
鈔
』 に見
え たり
。 又 聖 賢 の 弟〔 32 ) 子
亮
惠
の受
法
な り 」 と亮
恵 の名
が 見 ら れ る 。 『密
宗
血 脈鈔
』 に も 聖賢
−
亮
恵−
朗
澄
と亮
恵
の 付法
の弟
子
と し て 「 朗 澄 」 の名
前
が見
ら れ る 。〔 33 )
ま た 、 「
内
山永
久
寺
置
文
」 「 山 務 管 領 次 第 」 に は亮
恵
の弟
子 と し て蓮
恵
[大
輔 上 人 随 念 房 ]亮
恵
上 人 弟 子( 34 ) と 蓮
恵
( 〜 一 一 七 三 〜 一 一 八 六 〜 ) の名
前
が 見 ら れ る 。 「 内 山 寺 院 補任
次
第 」 に も蓮
惠
[ 大輔
阿闍
梨
、 口 院亮
惠 上 人 、附
法
弟 子 、 隨 念 房 ] と同
様
に蓮
恵
の名
前
が 見 ら れ る 。以 上 こ れ ま で 見 て き た こ と を ま と め る と 、
亮
恵
の 生 ま れ は 承徳
二 ( 一 〇 九 八 )年
で 、 天承
元 (=
三 一 )年
二月
に 聖 賢 よ り 三十
四歳
で灌
頂
を 授 け ら れ た こ と が 分 か る 。年
次 は 不 明 で あ る が淳
寛
より
勧
修
寺
系
統
の法
流 を 授 け ら れ て い る こ と が 知 ら れ る 。淳
寛
自
身
は 、 勝覚
( 一 〇 五 七 〜 一 一 二 九 )1
聖
賢
と 流 れ る 金 剛 王流
を受
法
し て い た と考
え ら れ る が 、亮
恵
が 淳 寛 か ら受
法
し た 血脈
に つ い て は勧
修
寺
流 し か 確 認 さ れ て お らず
、亮
恵
が淳
寛
か ら 金剛
王院
流 を受
け 直 し て い た か は不
明 で あり
、 お そ ら く 聖 賢 よ り受
法 で き な か っ た 勧修
寺
流 の 血脈
を 兄弟
子
淳
寛
より
受
法 し た と考
え ら れ る 。175
智山学報 第六十三輯
没
年
に つ い て は 文治
二 ( 一 一 八 六 )年
五 月 二十
八 日 に 八十
九歳
で 入 滅 し た説
も あ る が 、 確定
で き な い 。付
法
の 弟 子 と し て 慈信
、 朗澄
、 蓮恵
( 任 玄 ) 、慈
源 ( 玄 ) 、覚
心 ( 〜 一 一 七 八 〜 一 二 三 三 ?↓
、 教恵
星
没 年 未 詳 ) 、 円 海 ( 生 没 年 未 詳 ) 、 興 然 の 名 が見
ら れ る 。確
定
的 で は な い が 、 『 四 巻鈔
』 に お け る具
支
灌
頂
儀
式
の相
伝 に対
す
る 口伝
で は、 浄覚
房
行
慈
の名
前 が 見 ら れ る こ と か ら 、 行 慈 も含
ま れ る 可能
性
が あ る 。 聖賢
付
法
の 済 助 、 隆 基 も亮
恵 と 共 に永
久
寺 の 僧 で あり
、亮
恵 と 密接
な 関 係 が あ っ た と考
え ら れ る 。 二亮
恵
の事
績
に つ い て 亮恵
は 『 伝 灯 広 録 』 に お い て 「當
時 の大
徳 に し て雷
名
人 を駭
か す 」 と言
わ れ た僧
で あり
、 そ の名
を 「 内 山 永 久寺
置文
」 、 「 内 山 之 記 」 に多
く 見 る事
が で き る 。〔 35 )
内
山永
久
寺 に お け る 亮 恵 の 活 動 を 見 て い く と 「永
久
寺
置文
」 で は 「 仏事
勤
行
事
」 の布
薩
の 記録
に承
安
三 年 五 月 十 四 日 之 を 始 む 。 日 来 之 を修
す と雖
も 相 ひ続
かず
、多
く 断絶
す
と 云 々 。 上 座亮
恵
阿闍
梨
、 説 戒 随 念 房 、唄
静観
房 、 維 那 禅 台 房 、見
参 二 十 三 人 [ 内 、 未受
一 人 ] 、結
界 同 じく
之 を始
む 。施
物
論
浄房
の寄
進
、尊
勝
陀 羅 尼 三 反之 れ を 誦
す
、施
主滅
罪 の為
な り 。 承 安 三 年 十 一月
廿
九 日 布 薩 、 本 願前
大
僧
正井
に 信1
( 円 )僧
都
[菩
提
山本
願 ] 御 結 縁 。[ 云 々 、 『 在 暦 記 』 、 ] と あ
り
、承
安 三 ( 】 一 七 三 )年
五月
の布
薩 に 上 座 と し て 出仕
し て い る こ と が わ か る 。 ま た 、亮
恵 の付
法 の 弟 子 の 蓮 恵 が 説戒
師 、覚
心 が 唄 師 、 慈 源 が 維 那 を 勤 め て い る 。( 36) ま た 、 「
雑
事
」 の項
目 に本 願
僧
正 『 御 暦 記 』 に 云 く 、嘉
応 元 年 七 月 廿 八 目 、 蝕 祈 、 仁 王講
、 五大
虚 空蔵
法
之 を修
す
、亮
恵、行
浄
[ 云 々 ] 、 ( 中 略 )同 ( 承 安 三 )
年
十 一 月 十 三 日 、内
山 に於
て 形 の 如く
慈
恩 講 を修
す
、当
日 之 を 思 ひ 立 つ 。講
師
円
長 [ 侍従
] 、 間者
蓮 恵176
亮恵の事績につ い て (増山)
[ 随 念
房
大
輔
U 、唄
慈
玄
、散
花客 阿
闍
梨亮
恵
、請
僧
五 人 な り 、 形 の 如く
捧
げ
物
あ り 、 予参
上す
、僧
都信
ー
( 円 ) 同じ く 云 々 。
同
十
四 日 、多
門内
山 に於
て 出 家 す 、後
夜
鐘 の 後 な り 。 戒 師 阿 闍 梨 亮 恵 、 明 日 阿 闍 梨 請 用 の 上 、 忌事
に 依 る な り 。 と あ り 、 嘉 応 元(=
六 九 )年
七月
二 八 日 に 本 願前
大
僧
正 興 福 寺 大 乗 院第
三代
尋範
( 一 一 〇 一 〜=
七 四 ) が 、仁
王講
と 五 大 虚 空 蔵法
を修
し て い る 。 こ こ に亮
恵 が 出仕
を し て い る 。 そ し て、承
安
三 ( 一 一 七 三 )年
十 一 月 十 三 日 に 慈 恩 講 が 修 さ れ た が 、尋
範
が 当 日急
に 思 い 立 っ て行
わ れ た も の で 、 そ の中
で散
花
を亮
恵 が勤
め て い る 。 ま た 、 亮 恵 の 弟 子 蓮 恵 が 間者
、 慈 源 ( 玄 ) が 唄 を そ れ ぞ れ勤
め て い る 。請
僧
は 五 人 と さ れ る が 、 四 人 の名
し か挙
げ ら れ て い な い 。亮
恵
は法
相宗
兼
学
の も と 元 興寺
僧 で 金 剛 王院
流
を伝
え て い る 。永
久
寺
が興
福寺
大
乗
院
の末
寺 で あ る こ と か ら 、尋
範
は こ こ で 慈恩
講 を執
り行
っ た の であ
る が 、亮
恵
が 「客
阿 闍梨
」 と さ れ る の は 、亮
恵 が内
山 に お け る法
流伝
授
の た め に外
か ら招
か れ た か ら と も推
察
さ れ る 。 翌十
四 日 に も多
門 の出
家
得 度 に あ た り 、亮
恵
が戒
師 阿 闇 梨 を勤
め て い る 。( 37 )
次
に 「内
山 之 記 」 に 「 口 … 口 預 解 状 御 外 題案
( 僧 亮 恵 、 睿 俊 連 署 解 ) 」 が載
せ ら れ て い る 。 そ こ に は殊 に は 恩 裁 を 蒙 り 、 内 山
東
西 谷 を 供僧
三昧
等
に 付 し 、 堂 塔修
理井
に雑
役等
に催
し 勤 め ら る を請
ふ子
細
の状
、 ( 右 ) 謹 ん で案
内
を検
す る に 、故
本
願
僧
都
御
房
、 内 山御
庄 を 以 つ て ( 灯 )油
供 田等
に 配 せ 被 る の 時 、東
谷
を持
せ る禅
実
有 り 。 睿 俊 に 於 て 之 を充
て行
ふ 由 を 聞 こ し食
し 、仰
せ ら れ て 云 く 、 容 俊 山 寺 の 住 僧 な り 。汝
知 る べ し 、 山寺
の 為 に 返す
返す
神
妙
なり
、他
所
の輩
に 於 て は定
ん で 山寺
の為
に疎
略 を致
す
者 か 。 而 る に 近年
堂舍
・ 宝 塔 漸く
破
損を
被
る の み 。爰
に亮
恵 ・睿
俊
懸
杖
の齢
に 及 び て 、 沙汰
を催
す
能
は ざ る体
に罷
り 成 り 候 の 上 は余
命
幾 ば く な らず
。 又残
り の 山僧
等
の中
に於
て は 別 し て仰
せ付
け無
き 輩、又
他
所
に付
せ ら れ ぬ の輩
は 、 本 願 の仰
せ の 如 く 実 に 疎 略 を致
す者
か 。 嘆 く事
少
な か ら ざ る が た め に 口 、 之 に 依り
余
の山
寺
の法
を 尋 ぬ る に 、多
分
住
僧
等
に 付 し て 、毎
年 番 口 口沙
汰 云 々 。 此 の傍
例 に准
じ 、当
山毎
年
供
僧
三昧
各
口・ : 口両
谷
の 下 人井
び に 山僧
等
を廻
し修
理 を 加 へ更
に 口 … 口 か 。 又 亮 恵長
寛
二177
智 山 学報 第六 十 三 輯
年
の 比 を 以 つ て 、 内 山 に於
て 、 是 の 堂 口数
多
に し て 由寺
の勢
分 に 過 ぐ 、 仍 つ て修
理料
有
る べ き の 由言
上 せ し む れ ば 、申
請
に随
つ て蔵
. 垣 内 の水
田 を 以 つ て 施 入 し奉
ら し め 御 し 了 ん ぬ 。 其 の 田数
、 六 段 な り 。残
る 二 段 、房
地 な り 。 毎年
所
当
の 本斗
定
ん で 四 石 四 、 五斗
な り 。 其 の後
去年
に 至り
、 四 ヶ年
の駈
禺
を 以 つ て 御所
修
理 せ し め畢
ん ぬ 。 又 、 去年
の所
当 を 以 つ て今
年 の 春 より
丈
六 堂 を修
理 せ し む べ き な り 。今
よ り 以後
、 年 を 追 つ て修
理 を加
ふ べ し ( 葺朔
寺 ) なり
。寺
、亮
恵等
の辞
退 許 さ ば 、 両 谷 等 を 以 つ て供
僧
三昧
等
に 付 し て修
理 せ し む れ ば 、永
代 を 限 り て破
壊
無
き
春
か 。 望 み請
ふ ら く は 、 恩 裁 早く
解 状 の 旨 に 任 せ て 下 さ る れ ば 、将
に 正 理 の貴
き を 締 ぐ べ し 。 仍 つ て 録 す る こ と状
に在
り
、 以 つ て解
す
。仁
安
四年
[ 己 丑 ] 二 月 七 日僧 亮 恵 僧 睿 俊
申
状
の如
き 供 僧 盗 昧等
闕 の 時 、 山 僧 の挙
状 に 任 せ て 其 の職
に補
す べ き の 状件
の如
し 。権
大
僧
都
在 御 判 と あ り 、故
永
久寺
本 願 僧 都 頼 実 ( 一 〇 五 〇 〜 一 一 四 二 ) が 、 堂 塔修
理 の た め に所
有
し て い た 供 田 を睿
俊
( 生 没 年 未 詳 ) に 配 分 し た 。 そ の後
、亮
恵 ・ 睿 俊 も 高齢
に な り 、 山内
の 沙 汰 が 出 来ず
、余
命
も
幾 ば く も な い と 述 べ て い る 。 一 方 で 山 僧 の 中 で 本 願 の 仰 せ付
け を 受 け て い な い者
や 他 所 の 輩 で は 、 本 願 の 揮 せ つ け が疎
略
に な る 恐 れ があ
る 。 そ こ で多
く の住
僧
等
に 対 し て 、毎
年
順番
に 修 理 を し て いく
よう
に 改 め て 沙 汰 を し て 貰 い た い と尋
範
に対
し て解
文
を
上奏
し て い る 。後
半
に は 、亮
恵 が長
寛
二 (=
六 四 )年
の頃
に内
山 の 堂塔
が寺
の勢
分
と し て は多
過
ぎ
る よう
に なり
、尋
範
に修
理料
の中
請
を 行 な い 、 修 理 が 行 わ れ てき
た 。 し か し 、 高 齢 で あ る た め 睿俊
と共
に修
理 を 辞 退 し 、東
西 両 谷 の 田 をも
っ て 供 僧 ・ 三 殊僧
等
に 付 す こ と で 彼等
に修
理
さ せ る よ う に改
め て 沙 汰 を し て貰
い た い と解
文 を奉
っ て い る 。 な お 、 解文
の 最後
に は亮
( 銘 ) ( 39 )恵
、睿
俊
の名
前 が 連 署 さ れ て い る 。末
尾 の御
在
判 は 「内
由永
久
寺
置文
」 、 『 興福
寺
別当
次
第
』 に お け る 尋範
の事
績 か ら 河霾
( 41 ) 野氏
の指
摘 に あ る よう
に 尋範
の印
で あ ろう
。 こ れを
受
け て 、 「内
山 永 久毒
置 文 し の 「 代 々 起請
御教
書
等
肝
要
事
」 に は178
一亮葱の事績につ いて (増由〉
東
西 両 谷 を 付 せ る 供僧
三味
等
、 笠 し く 堂塔
修
理拜
び に 雑 役等
を
催
し勤
め ら る べき
子細
の事
、 仁 安 四年
二 月 七 日亮
恵 睿 俊等
解
状申
し錆
ふ 如 く 沙 汰致
す
べ し と [ 云 々 ] 、法
務
僧
正 [御
判
] と 、 仁安
四 (=
六 九 )年
に東
西両
谷
を付
せ る供
僧
二 二昧
僧
等 に 堂塔
の修
理 、雑
役
等
を 行 わ せ た い と の亮
恵 、 睿俊
の解
文
に対
し、 「 沙汰
致
す べ し 」 と 認 め ら れ て い る 。 こ の 文書
の後
に あ る 「 以 上 両 通本
願 蔑 大僧
正 尋i
御
証判
也 」 の 「 尋1
」 と は尋
範
であ
ろう
Q ( 42 ∀ ま た 、先
に挙
げ た 「 内 山永
久
寺
置文
」 「本
願
亡 日并
墓処
等
事
」 の 中 で 、亮
恵 は 元 興寺
僧 と な っ て い る が 、 元 興寺
僧
と さ れ る資
史
料
は こ れ の み で あ る 。 「 地黄
源藤
三 の 一族
」 に つ い て は 明 ら か で は な い 。 た だ 贋 当国
々民
し と あ る こ と か ら 大和
国 の 出身
と 思 わ れ る 。 そ し て 、頼
実
の真
言
密
教 の 師 範 と さ れ 、 頼 実 が亮
恵 か ら真
言
密
教
を学
ん で い た事
が知
ら れ る 。 『 血脈
類集
記 艶等
に見
ら れ な い が 、頼
実
も
付
法
の 一 人 であ
っ た と 思 わ れ る 。 ・亮
恵 の略
年
譜
以 上 が こ れ ま で に確
認
で き て い る亮
恵
に 関す
る資
史
料
で あ る 。 こ れ ら を 踏 ま え て略
年
譜
を 作成
し た 。 承 徳 二 ( 堀 河 天 蠱 〉 一 〇 九 八 年 大 冶 六 / 天 承 元 ( 崇 徳 天 皇 ) 一 = 二 一 年 保 延 二 一 一 三 L ハ 血 + 永 治 二 / 康 治 元 ( 近 衛 天 皇 ) 一 一 四 二 年 仁 平 二=
五 二 年 保 禿 三 ( 後 白 河 / 一 一 条 天 皇と
} 五 八 年 誕 生 三 四 歳 三 九 歳 四 五 歳 五 五 歳 六 一 歳 俗 姓 等 来 詳 。 聖 賢 よ り 灌 頂 を 受 け る 。 ( 給 ) 永 久 寺 真 雷 堂落
慶 。 こ の と き 亮 恵 永 久 寺 に 来 る か 。 東 小 田 原 に て淳
寛 よ り 灌 頂 を 重 受 す る 。 「 胎 蔵 指 事 」 ・ 「 金 剛 界 指事
」 を 書 写 す る 。 醒 醐 嵜 蓬 蔵 院 に て 興 然 に 『 降 三 世 法 ( 鍮 滅 経 説 ) 』 ・ 糊 降 三 世 法 ( 瑜 祇 経 説 ) 口 伝 』 を 授 け る 。179
智山 学 報第六 十 三 輯 平 冶 二 /・ 永 暦一 兀 ・ 水 暦 二 /L 応 保】 兀 応 保 二 応 保 一 二 / 長 寛一 兀 長 寛 二 一 一 亠 ハ
O
年 ⊥ ハ 三 歳=
六 一 年 六 四 歳 一 六 二 年 六 五 歳 一 六 三年
六 六 歳 = ハ 四 年 六 七 歳 仁 安 四 / 嘉 癒 元 ( 高倉
天 皇 )=
六 九 年 七 二 歳 嘉 応 三 / 承 安 元 承 安 三 文 治 二 一 七 】 年 七 四 歳 一 ・ て一 二 年 ・ 七 ⊥ ハ 止 戚 ( 後 鳥 羽 天 皇 )=
入 六 年 八 九 歳 朗 澄 に 『 諸 尊 法 』 を 授 け る 。 醗 醐 寺 柏 森 に て 朗 澄 に ( 内 山 の 許 可 ) を 授 け る 。 興 然 に 『 仏 舎 利 法 ( 息 災 行 之 〉 』 ・ 「 修法
口 伝 」 ・ 『 御 修 法 諸 法 隰 ・ 『 滅 悪 趣 尊 法 ( 滅 罪 息 災 行 之 ) 』 ・ 『 雨 宝 陀 羅 尼 経 法 』 を 授 酵 る 。 興 然 に 『 地 蔵 法 ( 増 益 行 之 滅 罪 ご ・ 『 伎 芸 天 法 ( 増 益 行 之 福 徳 法 也 ) 』 ・ 『 諸 尊 理 趣 会 壘 荼 羅 』 ・ 『 般 若 菩 薩 怯 ( 息 災 行 之 ) 』 ・ 『 理 趣 経 法 』 を 授 け る 。 朗 澄 に 内 山 流 の 灌 頂 を 授 け る 。 醍 醐 寺 西 光 院 に て 興 然 に 醍 醐 流 の 具 支 灌 頂 を 授 け る 。 醍 醐 寺 蓮 蔵 院 に て 朗 澄 に 内 山 流 秘 密 灌 頂 を 授 け る 。 醍 醐 寺 十 一 口 阿 闍 梨 に 補 任 さ れ る 。 長 寛 二 年 の 頃、 永 久 考 堂 塔 修 理 料 を 尋 範 に 串 請 す る 。 亮 恵、 睿 俊 と 連 署 で 永 久 寺 堂 修 理 を 辞 退 し 、 東 西 両 谷 の 住 僧 に 蓬 せ る 解 文 を 尋 範 に 提 出 し 、 認 め ら れ る 。 永 久 寺 に て 、 仁 王 講 ・ 五 大 虚 空 蔵 法 に 出 仕 す る 。 慈 信 に 灌. 頂 を 授 け る 。 山 階 寺 相 応 院 に て 鎮 壇 す る 。 永 久 寺 に て 布 薩 に 上 座 阿 闍 梨 と し て 出 仕 す る 。 永 久 寺 に て 慈 恩 講 ( 導 師 尋 範 ) に 散 花 師 と し て 出 仕 す る 。 永 久 専 に て多
門 出 家 す る 。 戒 師 を 勤 め る 。 入 滅 か ? 養 和 ・ 寿 永 年 問 の 説 も あ り 。18e
こ の略
年
譜 を見
る と 、亮
恵 は 、保
延 二 (=
三 六 )年
に永
久
寺
に移
っ た と 考 え ら れ る 。 そ れ 以 前 は 、醍
醐寺
で 活動
し て亮恵の事績につ い て (増 山) い た の で あ ろ