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徳島県下における岐神信仰に関する言説

─一九七〇年代から二〇〇〇年にかけて─

 

 

 

一、はじめに 本稿は、 「岐神信仰論序説─徳島県下の特異性について─」 (二〇一二年三月刊、 『徳島地域文化研究   一〇号』所 収( 以 下「 別 稿 一 」 と 略 記 す る )) と、 「 一 九 五 〇 ~ 一 九 六 〇 年 代 の 徳 島 県 下 に お け る 岐 神 進 行 に 関 す る 言 説 」 (二〇一三年三月刊『徳島地域文化研究   一一号』所収(以下「別稿二」と略記する) )に次ぐ一連の考察の姉妹編 である。これらの併読によって徳島県下全域の岐神信仰の研究史に関する全容が明らかになる。 二、 一九七〇年代の岐神信仰に関する言説 『 岐 神 信 仰 関 連 に 記 述 は、 一 九 七 〇 年 代 が 最 も 多 く、 全 体 で 一 五 編 に 及 ぶ。 一 九 五 〇 年 代 の 五 編 と 比 べ て 三 倍、 六〇年代の七編と較べても二倍以上と増えている。それだけ研究環境が質量ともに整備された結果であり、喜ばし い限りである。この間で最初に公刊されたのは、一九七一年刊の三木寛人編著の『木屋平村史』であった。 一

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 お舟戸さん   わが村で山神社に次いで多いのがお舟戸さんである。舟戸神とは防障いわゆる防病災の神で、祭神 は 猿 田 彦 命 と か さ ま ざ ま の 説 が あ る。 も と も と 疫 病 や 悪 霊 風 水 害 の 防 障 の 役 割 り を 果 た す 神 様 と さ れ て い る が、 時 世 の 移 行 と と も に 人 々 は 困 難 な 事 態 に 当 面 す れ ば、 そ の 都 度 に 自 分 の 信 じ て い る 神 仏 を お 舟 戸 神 と し て 祀 る。 こうした事柄などさまざまの性格を織り込んで今日に至っているところもある。村内に残るこの種の神様は一戸 か二戸で祀り、すべて個人の家の守護神となっている。祭日は旧正月一六日と旧 二 ママ [近藤注 : 一一の誤りか] 月一六日である。お舟戸様に 供 え 物 を す る と き は 一 切 も の を 言 っ て は い け な い と い う 俗 説 が あ る。 お 舟 戸 さ ん に は 一 二 人 の 子 供 が あ る の で、 供物を供えるときにものをいうと、子供達がそれを知ってお先に供物を食べてしまうからだという。お舟戸さん を祀る場所は屋敷の中とか、 屋敷の前かまたは屋敷より下で祀るのが普通であるという。川上(五座) ・太合(八 座 )・ 谷 口( 二 座 )・ 森 遠( 七 座 )・ 弓 道( 三 座 )・ 八 幡( 二 座 )・ 日 々 宇( 二 座 )・ 内 川 地( 五 座 )・ 川 原( 一 座 )・ 竹 尾( 三 座 )・ 川 井( 七 座 )・ 麻 衣( 三 座 )・ 檪 木( 四 座 )・ 大 北( 五 座 )・ 南 張( 八 座 )・ ビ ヤ ガ イ チ( 一 座 )・ 貢 ( 二 座 )・ 三 ツ 木( 四 座 )・ 杖 谷( 一 座 )・ 樫 原( 一 四 座( 延 べ 一 六 座 )) ・ 桑 柄( 一 座 )・ 市 初( 三 座 )・ 菅 蔵( 四 座) ・二戸(三座) ・木中(一座) ・野々脇(二座) ・今丸(六座)   合計一〇七座(延べ一〇九座) [近藤注:実際 は個人名が総て入っていたが煩瑣にわたるため座数に置き換えた] (略)  綿着   旧一一月一五日にその年に生れた子のある家で子供の祝いの宴を張る。この日、親類や縁者が祝いの品を もっておしかけてくる。客は勝手に着物、布、酒、金子、家重、ほかいなどをもって集まり、御馳走を食べてど んちゃん騒ぎをする。このため祝いをうける家では婚礼と同じぐらいの経費がかかるといわれる。これは本村で は三ツ木方面にかぎられている。① 木屋平村は、吉野川の支流の穴吹川最上流部に位置する村であるものの、近世以前から美馬郡には属さず麻植郡 であり続けた。一九七三年以降は美馬郡に属したものの、文化圏的には麻植郡の領域と考えていい。特に岐神信仰 に関しては、麻植郡内のどの町村よりも突出している。これは岐神の一〇七座という数の多さでも証明し得る。こ の数は、七六七座という神山町には及ばないものの、村の東端の川井峠を越えればそこは神山町上分村であり、昔 二

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か ら 人 や 物 の 往 来 は 頻 繁 で あ っ た。近藤の神山町での聞き取り調 査でも、木屋平村から嫁入りされ た伝承者に何度かお会いした。神 山町に次いで岐神信仰が盛んなの は木屋平村である。供物としての 綿着と紙子が無いだけで、その他 は神山町とほぼ同一である。両者 の異同を検証する意味で、 『村史』 の内容を再確認しておきたい。 「 山 神 社 に 次 い で 多 い の が お 舟 戸さん」とある 条 くだり は、皮膚感覚と してその多さを示している。この 項の最後に大字毎の事例数を示し ているが、樫原が一四座で最多を 示すものの、村内総ての地区にほ ぼ万遍なく分布しており、地域的 偏 り は 無 か っ た( 地 図 1 参 照 )。 「 祭 神 は 猿 田 彦 命 と か さ ま ざ ま の 説がある」というが、猿田彦命と 岐神は基本的に背景を全く異にす 地図1.木屋平村内所在の岐神祠分布図 ・麻植郡木屋平村内の岐神107座(延べ109座)分布図。各字の数字は岐神祠の数を示す。 ・‥‥(点線)は村内の旧村境界線。 ・旧二戸(ふたど)村は、昭和30年に中江田村(現美郷村)から吸収合併。 麻植郡 山川町 麻植郡 美郷村 名西郡 神山町 那賀郡 木沢村 美馬郡 一宇村 東祖谷山村 美馬郡 穴   吹   川 北 穴吹町 木屋平村全図 徳島県 燧峠 野々脇 = 木中 二 戸 菅蔵 旧二戸村 (昭和30年以前は 中枝村(現美郷村  に属す。) 今丸 市初 ビヤガイチ 三ツ木 杖谷 貢 桑柄 樫原 旧三ツ木村 南張 大北 川井峠 麻衣 川井 檪木 旧川井村 川原 内川地 森遠 谷口 太合 日々宇 弓道 穴 吹  川 川上 (剣山) 1954m 旧木屋平村 木頭村 = 竹尾 八幡 1 2 3 4 3 1 2 6 5 7 4 3 8 2 2 1 14 (16) 4 1 5 3 1 7 2 8 5 三

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る神であり、両者を混同する事は許されない。これを見逃せば岐神信仰追窮の 矛 ほこ 先 さき は完全に鈍ってしまい、全くあ らぬ方向に暴走してしまう。後に詳述するが、この僅かな 隙 すき によって先学の多くの研究者達は 陥 かん 穽 せい にはまり、二度 と抜け出せなくなって終幕を迎えてしまうのであった。油断は禁物なのである。猿田彦命は、 瓊 に に ぎ の み こ と 瓊杵尊 が日向国高 千穂峰に 降 くだ った時の道案内の神であり、 天 あめのうずめのみこと 鈿女命 と一対で語られる。一方、 岐神は先に別稿一で詳述した如く、 キ・ ミ 神 話 の「 絶 と ど 妻 之 誓 」 渡 わた し の 条 くだり で 登 場 し た 防 塞 の 神 な の で あ っ た。 道 案 内 と 防 塞 は そ の 機 能 に お い て 真 逆 で あ り、 その混同は絶対に許されず、もしこれを犯せば両者ともにその存立基盤を根底から 覆 くつがえ してしまう。自殺行為なので ある。これ程の大きな意味がある事を 努 ゆめ 々 ゆめ 忘れてはなるまい。 元来「防障の役割りを果たす神様」という点はほぼ 正 せい 鵠 こく を得ているが、時世の移行と共に、困難な事態に直面し た時に「自分の信じている神仏をお舟戸神として祀る」とはどういう事であろうか。額面通り解釈すれば、あらゆ る神仏の中で岐神が優先する事になるのだが、現実にはそうはなっていない。天照大神や八幡神ならどこの神社で も鳥居があり社殿も備わっている。岐神には殆どこのようなものはなく、せいぜい木または石製の小祠があれば立 派な方であり、中には御神体が 剥 む き出しのまま風雨に 晒 さら されているものも珍しくない。岐神とは元来このようなも のであり、 「自分の信じている神仏」と混同してはならない。次元が違うのであり、 先に言及した如く猿田彦命と岐 神を同一視する誤りと同等であり、同じ 轍 てつ を踏む事になる。一〇七座もの岐神が村内各地に分布するためにこのよ うに表記したのであろうが、 これでは岐神を説明したことにはならない。岐神は、 基本的に 来 く な と の さ へ の か み 名戸祖神 なのであり、 あの世とこの世のケジメをつける神であり、これを「自分の信じている神仏」として簡単に置き替える事はできな いのである。 一一月一六日と正月一六日という年二回の祭日、そして一二人の子沢山や沈黙裏の参拝ならびにその理由なども 神山町と全く同一であり、明らかに神山町の文化が木屋平村に流入したと断言し得る。伝わらなかったのは岐神へ の供物としての神綿着と紙子だけである。この点から、両者の前後関係が理解できる。 岐神を祀る場について、 「屋敷の中とか、 屋敷の前かまたは屋敷より下で祀るのが普通」とあるが、 これは神山町 四

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の場合も同様である。両者は共に山村であり、その度合いは木屋平村の方が強く、水田は殆ど無い。山の斜面に家 が南面するように建てれば、当然背後に山を負う形になる。家へのアプローチは、坂道を登る事になり、家の入口 の手前に岐神を祀ればどうしても「屋敷より下で祀るのが普通」となる。これは、山村の特性であった。 一方、子綿着についてであるが、神山町と同様に木屋平村にもあった。但し、これは三ツ木方面限定である。木 屋平村は、明治二二年以前は上流から木屋平村・川井村・三ツ木村と称していたが、特に最下流の三ツ木村は麻植 郡美郷村や名西郡神山町と隣接していたため、両方面から子綿着文化が流入したものと考えられる。しかも注目す べきは、その内容が文化一四年(一八一七)頃成立した『高河原村風俗問状答』とかなり似通っており、他地区の それとは明らかに一綿を画している点である。 文章の構造を表1に 纏 まと めたが、 『問状答』は大きくa~cの三節に分かれるが、 『村史』はそれをなぞるような形 で a’~ c’の三節に対応する。当初、この項の執筆者が『問状答』を下敷きにして記したのではなく、偶然の一致だ と考えていたが、これは誤りであった。 『村史』をより詳細に検討すれば、  川 井 峠 と 燧 ひうち 峠 は 大 正 四 年 に 車 道 の 穴 吹 線 が 通 ず る ま で 文 化 移 入 の 大 動 脈 で あ っ た 。( 略 ) 川 井 峠 を 利 用 し た 村 人 は 主 と し て 現 在 の 川 井 通 学 区 と 木 屋 平 村 通 学 区 で あ り 、 燧 峠 を 利 用 し た 村 人 は 、 二 戸 、 三 ツ 木 通 学 区 で あ る 。( 略 ) こ の こ と は 交 通 圏 内 に 於 け る 風 習 に よ っ て も 推 測 さ れ る 。 そ の 一 つ に 「 綿 着 」 と い う 年 中 行 事 が 三 ツ 木 一 帯 に は ま だ 残 っ て い る が 、 川 井 ・ 木 屋 平 に は な く 、 燧 峠 を 越 え た 美 郷 村 に は そ の 風 習 が あ る 。 綿 着 と は 旧 暦 一 一 月 一 五 日 に 、 そ の 年 に 生 ま れ た 子 供 の お 祝 い を す る 行 事 で 、 山 瀬 ・ 川 田 ・ 阿 波 郡 な ど で 行 な わ れ 、「 高 川 原 風 俗 問 状 答 4 4 4 4 4 4 4 4 」 (傍点近藤) の 中 に も こ の こ と は 記 さ れ て い る の で 、 県 内 で は 相 当 広 範 囲 に わ た っ て 行 な わ れ た も の に 違 い な い 。 但 し ど う い う 理 由 か 川 井 ・ 木 屋 平 に は 行 な わ れ て い な い 。 こ れ を ど う 意 味 づ け て よ い か 。 忌 部 氏 族 の 研 究 家 、 池 上 徳 平 は 「 こ れ は 忌 部 一 族 の 風 習 の 一 つ で あ る 」 と 書 い て い る 。 ② 五

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とある、傍点部にある如く、村史執筆者は既に風俗問状答の存在を認識しており、更に該書所載の「綿着」の 条 くだり に関しても熟知していたのだった。この点を念頭に置けば、妙に両者が重なるため、思わず近藤が表1に纏めた比 較対照表は 強 あなが ち 見 けん 当 とう 違いではなかった。村史執筆者は、文化一四年(一八一七)頃記された名西郡『高河原村風俗 問状答』を下敷きにし、その一五四年後に村内独自の要素(布・酒・金子の項目と、婚礼と同じぐらいの経費がか かる事)を追加して「綿着」を解説していた。現在の旧三ツ木村内の「綿着」の説明に、換骨奪胎して近世末の名 西郡高河原村(現石井町高川原)の記事を援用するのは 如 い か が 何 であろうか。このように「綿着」を説明するのであれ ば、原典は明記すべきであろう。 更に注目すべきは、綿着の村内における分布範囲である。先に地図1で明示した如く、村内最下流部の三ツ木地 区にしか見られず、旧川井村・旧木屋平村には綿着祝いが行なわれていないという現実がある。執筆者は、この理 由を村内を貫流する交通の二大動脈の一つである 燧 ひうち 峠を越えて美郷村や山瀬村の綿着文化が伝播したためであると 説明する。だが、この説には賛同できない。何故なら、もう一つの大動脈である川井峠越えの神山町にも綿着習俗 (子綿着・神綿着の両方を含む) が分布しており、 この峠を通じて伝播する可能性も十分あり得るからである。むし ろ、神山町の方が綿着に関しては強烈な分布地域であり、美郷村や山川町の比ではない。執筆者は、神山町に綿着 綿 着   旧 暦 一 一 月 一 五 日 に そ の 年 に 生 ま れ た 子 の あ る 家 で 子 供 の 祝 い の 宴 を 張 る 。 こ の 日 、 親 類 や 縁 者 が 祝 い の 品 を も っ て お し か け て く る 。 こ の た め 祝 い を う け る 家 で は 婚 礼 と 同 じ ぐ ら い の 経 費 が か か る と い わ れ る 。 客 は 勝 手 に 着 物 、 布 、 酒 、 金 子 、 家 重 、 ほ か い な ど を も っ て 集 ま り 、 御 馳 走 を 食 べ て ど ん ち ゃ ん 騒 ぎ を す る 。 表1『高河原村風俗問状答』と『木屋平村史』の比較対照表 文 化 一 四 年 ( 一 八 一 七 ) 頃 成 立 『 高 河 原 村 風 俗 問 状 答 』 此 月 十 五 日 は 綿 着 の 祝 儀 日 と 申 て 、 男 女 誕 生 御 座 候 家 は 、 親 類 の 家 よ り 色 々 成 着 物 に 、 闍 行 家 重 肴 添 て 送 り 、 某 家 々 に は 客 を 仕 、 村 内 重 の 内 に 披 露 仕 仕 儀 に て 御 座 候 。 対応 対応 対応 昭 和 四 六 年 ( 一 七 九 一 ) 成 立 『 木 屋 平 村 史 』 aʼ bʼ cʼ a b c 六

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が濃厚に分布する事実を知らなかったためこのような説を立てたのであろうが、再考を要する。 前述の如く岐神一〇七祠は村内に満遍なく分布しておりながら、 子綿着の分布は旧三ツ木村内限定であった。 「こ れをどう意味づけてよいか」と執筆者は悩み、 「忌部一族の風習の一つ」とする池上説で解釈しようとするが、 ここ にも一つの大きな問題がある。旧三ツ木村の庄屋を代々務めていた三木家には、中世以降の大嘗祭に 麁 あらたえ 服 を献上し た古文書が数多く保存されており、この中に「山崎の市」で年二回会合を持ち、麁服献上の打合わせをした記録が 残っていた。これを明治初年に見出し、 『延喜式』 所載の阿波忌部神社が山瀬村 (現山川町) 山崎忌部所在の天日鷲 神社である事を論証したのが、当時名東県の職員であった小杉 榲 すぎ 邨 むら であった事は先(別稿一参照)に言及した。 池上説はこの小杉説を祖述したものであるが、三木家と旧川井村の庄屋と旧木屋平村の庄屋とは互いに親戚同志 であり一族であった。従って、 大局的にみれば彼らは全員忌部の末裔なのであり、 「綿着」が「忌部一族の風習の一 つ」であるとするならば、これは旧川井村と旧木屋平村にも分布しないとおかしいのである。加えて、川井峠を越 えて名西郡神山町から綿着文化が流入しても当然なのだが、そうはなっていない。これらから判断すれば、綿着の 風習を忌部一族の風習の一つとする池上説は誤りとなる。綿着分布圏の西端がたまたま旧三ツ木村であり、そこか ら上流の旧川井村や旧木屋平村には伝わらなかっただけである。綿着文化の流入は、全体の分布状況から判断すれ ば木屋平村にとって比較的新しい現象であり、恐らく近世末頃に燧峠を越えて最初に旧三ツ木村に流入したものと 考えられる。本来ならばここから上流に向けてジワジワと伝播して行くのだが、明治維新の激動期を迎え、ここで 停止してしまったようである。 一九七二年刊の『板野町史』には二件の綿着が記されている。一つは通過儀礼の項であり、他は年中行事の項で ある。地元では、両面から記述する程の大切な催事なのであろう。 綿着   初めて迎える冬に、綿入れの着物を母里より贈って祝う。 (略) 十一月十五日   綿着祝   七五三の祝ともいう。親戚や嫁の里から子供の晴着を送る習わしがある。③ 先の「初めて迎える冬」とは一一月一五日を指すが、年中行事に重きを置かない「出産」の項のためにこのよう 七

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な表記となった。嫁の実家から「綿入れの着物」を贈るという点に注目しておきたい。これが本来の綿着のあるべ き姿なのであった。ところが、 年中行事の項では「七五三の祝ともいう」とあり、 綿着が七五三に埋没してしまい、 本 来 の あ る べ き 姿 を 失 な い つ つ あ る。 即 ち、 嫁 の 里 か ら は 元 来「 綿 入 れ の 着 物 」 を こ そ 贈 る べ き な の に、 こ れ が 七五三の祝いを意識した「晴着」に置き替わるのであった。綿着とは、元来神綿着と紙子に見られる如く、一一月 一五日から一月一五日に至る二ケ月間の忌みを伴う当歳児の冬越しの神事であった。この綿着と七五三の晴着は元 は異質なものであり、混同してはならないのであるが、元の意味が忘れ去られると残念ながらこのようにいとも簡 単にえたいの知れない近世中期起源の行事に吸収合併されるのであった。 金 沢 治 氏 は、 一 九 七 三 年 発 表 の「 徳 島 県 の 民 間 信 仰 」 の 中 で 岐 神 を 紹 介 し て い る。 先 述 の「 阿 波 北 方 年 中 行 事 」 以来、三七年ぶりで二回目の言及である。  道 祖 神   阿 波 で は 舟 戸 さ ん( 様 )、 オ フ ナ ツ さ ん と 呼 ば れ て い る。 猿 田 彦 命 に 付 会 さ れ て い る が、 外 か ら く る 疫 病、悪霊などを、村境・峠・橋のたもとなどで防ぐために祀られたものである。また行路の神、旅の神としての 信仰も加わり、さらに手や足の痛みを治す神として信仰されている。木頭村では農業神、さらに子どもを守る神 として信仰されている。  祭日は十 二 ママ 月十六日で、お綿着と称して箸または竹に綿を巻きつけて祀り、正月十六日には「カタビラ」といっ て紙型を着物状に切って祀る。昭和三十四年の調査によると神領地区だけで百十二のオフナツサンが祀られてい る。   木頭村南宇では舟戸さんは「チンバの神様」だといわれている。十月十日に神々が全部出雲へ集合するが、舟 戸さんはちんばのため、あとに残って子どものお守りをする。正月のお供えはこっそりまつらないと、子どもた ちが目をさまして食べてしまって舟戸さんにはあたらない。そのため夜遅くか朝早くお供えする慣習が残ってい る。④ 見出しが「道祖神」となっているが、これは出版社の編集方針でつけたまでである。全国的には「道祖神」で通 八

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用するのだが、徳島県下では「道祖神」と呼ばれる神は殆ど存在しない。そのため、氏は冒頭で「阿波では舟戸さ ん (様) 、 オフナトさんと呼ばれている」 と断わらざるを得なかった。阿波の独自性を暗に示唆している。また、 「猿 田彦命に付会されているが」として岐神の本来の防塞性を明言し、簡単には 陥 かん 穽 せい に 填 はま らない学術的姿勢を高く評価 したい。 一方、 「祭日は十 二 4 月 (傍点近藤) 十六日」として神山町神領地区の事例を紹介しているが、 この点は九年前の飯田氏の「船戸 神考」 と同じ誤りを繰り返している。金沢氏も 『神領村誌』 の 「民間信仰」 だけしか見ず、 「年中行事」 の項との比 較 対 象 を 怠 っ て い た。 抑 々、 氏 は 一 九 三 六 年 の「 阿 波 北 方 年 中 行 事 」 の 中 で「 十 一 月 十 六 日   ◦「 お ふ な た は ん 」 といふ」と報告された御本人であり、これが年中行事としての岐神信仰の初見史料であった。このため日取りの間 違いには是非気付いて欲しかったのだが、誤りはここでも放置されたままである。 この他氏は那賀郡木頭村南宇の事例を紹介されているが、岐神は足が不自由なため一〇月一〇日に出雲へ参集で きず、居残って子守りするという事例を紹介している。後に詳述するが、岐神足悪伝承は那賀郡から海部郡にかけ て 見 ら れ る も の で あ り、 名 西・ 名 東 郡 以 北 に は 分 布 し な い。 独 自 の 文 化 圏 を 形 成 し て い た。 一 方、 沈 黙 裏 の 参 拝・ 子沢山伝承は神山町と同じであった。この点から推せば、足悪伝承は子沢山伝承の一変化型であり、居残っての子 守りの理由付けとして該地方で考案されたものであろう。管見では、これが岐神足悪伝承の初見であった。  一九七五年刊の板野郡『 土 ど 成 なり 町史』には、綿着(十一月十五日)七五三の祝ともいう。誕生して初めて綿入れの 衣服を着用するの意で綿着という。氏神に参詣し赤飯をむして祝いをする。⑤ とある。先述した如く、綿着の基本は生後初めて一一月一五日を迎える嬰児に綿入れ着物を着せるのが本来の意 味であり、七五三の祝いとは無関係であった。 偶 たま 々 たま 日取りが一一月一五日であったため七五三の祝いと混同される のだが、綿着の背景には古代以来続く岐神信仰があり、近世中期始源の七五三の祝いとは異質なものである。岐神 の子沢山伝承に裏打ちされた結果、子綿着神事が醸成された事を忘れてはなるまい。 「七五三の祝ともいう」では、 古 代 以 来 の 由 緒 正 し い 行 事 が 近 世 中 期 始 源 の 都 市 伝 説 に 呑 み 込 ま れ、 自 ら の ア イ デ ン テ ィ テ ィ を 見 失 う 結 果 に 陥 九

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る。  一 九 七 六 年 一 〇 月 刊 の 板 野 郡『 松 茂 町 誌   下 巻 』 に は、 綿 着   旧 一 一 月 一 五 日、 子 供 が 生 ま れ て 初 め て の 冬 に、 綿入れの着物を嫁の実家から贈り、贈られた家では赤飯を配る。これは今も農家では行なわれている。⑥ とある。年中行事の項目でありながら、七五三行事には一切触れず、一一月一五日を「綿着」で書き切ってしまう 点は高く評価したい。地元固有の行事を重視している表れであり、 先の『土成町史』とは好対照である。また、 「今 も農家では行なわれている」とする 条 くだり は、綿着に込める思いがしっかりと伝わってくる。 こ の 他、 同 書 に は 約 一 五 〇 件 程 の「 町 内 の 屋 敷 神 調 」 一 覧 表 」 が 纏 め ら れ て あ る。 住 所・ 管 理 者・ 祭 神・ 祭 日・ 建立年の順に記されているが、岐神に関するものを抜き出すと七社を確認する事ができた。 (大字中喜来字) 中かうや三八   村田巌   船戸の神   旧一一 ・ 一六   不明(略) 南かうや中の越   片山重幸   船戸の神   一〇 ・ 二四   不明(略) 南かうや南の越一   福田吉治   船戸の神   一二 ・ 一六   不明(略) 南かうや北の越一   加島誉義   船戸の神   なし   不明 南かうや北の越三   富士田正之   船戸の神   適期日   不明(略) 南かうや北の越一一   三木カガノ   船戸の神   適期日   不明(略) (大字広島字) (略) 北ハリ二二   鈴江隆男   船戸の神(石像)   なし   不明   ⑦ 地元の歴史民俗資料館学芸員の松下氏のお話によれば、この辺は屋敷神信仰が盛んで、特に 中 なが 喜 ぎ 来 らい 地区は殆どの 家で祀っているとのこと。これを反映してか、一覧表でも半数以上が同地区のものであり、岐神限定では七分の六 が中喜来に集中し、残り一例は広島地区所在であった。中でも村田巌氏宅の岐神は旧暦一一月一六日を例祭日とし ており、神山町の岐神祭祀とも同日であり、最も古風を留めていそうである。実際にお話を伺うと、今でも御夫婦 一〇

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写真1-1    松 38の 幟。 り、 11月 16日 事。 主巌氏からは詳しくお教え戴いた。記して謝意を表したい。 写真1-2   一一

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で毎日屋敷地の一隅で神祀りをされ、毎年一一月一六日には 鏡餅を搗いて供えているとのこと (写真1参照) 。 更に戦前ま では、近所の人々数人が一一月一六日にお参りに来て各々綿 を鏡餅の 縁 へり に供えていた。岐神は子沢山の神で、冬を迎える に際して子供に綿入れを着せるのに綿が無くて不自由してい るので供える。特に妊婦がこの綿を供えると、オフナトサン は子育ての神さんなので安産と子供の生育に御利益があると いう。 綿を箸に巻きつけて供えたり、 「綿着」 という名称は聞けな かったものの、一一月一六日の祭礼日、子沢山の神で子育て の神、綿の供物という三点では神山町の伝承と共通する。松 茂町内における他の六社の「船戸神」も、元はこれと似通っ た伝承を持っていたと推測し得る。管見では、岐神に対する 綿の供物の東限はここにあり、一一月一五日の子綿着との関 連と相俟って七五三の祝い以前の古風を考える上でこの事例 は重要な意味を持つのであった。 一九七六年一〇月刊の『阿波郷土会報   年譜第十集   丙辰』には、植村芳雄氏の「阿波の性神考」が掲載されて いるが、岐神への言及がある。 「鴨島町にある舟戸神社」と題して、  鴨 島 町 飯 尾 の 工 藤 瑞 一 氏 の 屋 敷 内 に 男 根 石 の 舟 戸 神 社 が あ る。 約 三 千 年 前 位 前 の も の で あ る と い は れ、 鳥 居 龍 蔵・喜田貞吉両博士の調査で折紙付の品物であるという。 (略)鴨島町にはもう一基麻植塚に舟戸神社があるが、 (略)藩政時代建立の庚申塔の横にあり、 昭和五年再建と横面に刻字してあるが、 元の形等は今の所はわからない 写真1-3 船戸大明神の御神体。かつては、11月16日の大祭に は、餅が供えられ、近所の人々は餅の周囲に綿を供えて 子供の成長や安産を祈願していた。村田家の庭の一隅に 祀られているため、近所の人々は自由にお参りできた。 一二

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が、ここのは此の位置が吉野川の川岸段丘になってゐるので、渡船の安全を祈った船渡神ではないだろうか。⑧ とある。男根石を舟戸神と称して崇拝する例は県下では珍しく、管見ではここだけである。一一六九年頃成立した 『 梁 鹿 秘 抄 』 に は、 「 380遊あ そ び 女 の 好 この む 物 もの 、 雑 ざ ぶ げ い つ づ み こ は し ぶ ね 芸 鼓 小 端 船 、 簦 おほかさかざしともとりめをとこ 翳 艫 取 女 男 の 愛 あい 祈 いの る 百 大 夫 ⑨ 」 と あ る が、 こ の「 百 大 夫 」 こそが男根の形をした遊女の守り神であった。またこれより八二年前の一〇八七年成立の『 傀 く ぐ つ 儡子 記』には「夜は 百神を祭りて、 鼓 こ ぶ く わ ん か 舞喧嘩 して、 福 さいはひ の 助 たすけ を祈れり」⑩とある。 「百神」とは「百大夫」の事であり、 遊女だけでなくあ やつり人形で生活の 糧 かて をえていた 傀 く 儡 ぐ 子 つ 達も百大夫を守り神としていた。この両者を考え合わすと、前述の『貞光 町史』 (別稿二参照)にあった人形芝居の座元であった平松一統が奉祭していた。 「船戸神社」との関連も当然視野 に入ってくる。少なくとも、祭神が言われる如き「 石 いしこりどめのみこと 凝姥命 」ではなかった事は確かである。飯尾の船戸神社とし ての男根石が、約三千年以前のものか否かは確証が無いので何とも言えないが、平安期の 百 ひゃくだゆう 大夫 神との関連はほぼ 確実である。加えて、先に詳述したが『本朝世紀』所載の天慶元年(九三八)九月二日の岐神に関する記事で「刻 繪陰陽」した男女像が道の辻々に祀られていた部分とも密接に関連する(別稿一参照) 。これは、先の『傀儡子記』 よりも一四九年も前の記事であり、岐神と性器崇拝の関連は九三八年当時の平安京では直接繋がり大流行していた が、その名残りが鴨島町飯尾に現存していたのである。 (五三頁写真5参照) もう一つの麻植塚の舟戸神社であるが、吉野川の河岸段丘上に位置するため「渡船の安全を祈った船渡神」とし ているが、前述した如くフナトは元来「 来 く な と の さ へ の か み 名戸祖神 で邪悪の侵入を阻止する神であり、文字に惑わされ船で説明し てはならないのである。ここも、元は結界の意味で建立された神石であったと考えられる。 一九七七年刊の『小松島市史   風土記』編には、一一月一五日の項に「七五三」として、  昔は、男女三才の髪置、男五才の袴着、女児七才の帯祝いをし氏神へ参った習わしが今も姿をかえ益々盛んにに 行われている。 子供が生まれて初めての冬に嫁あるいは、 婿の実家から綿入れの着物が贈られる習わしがあった。 ⑪ とある。前半部分は、現在進行形の所謂七五三の祝いで氏神祭りの事柄を記しているが、後半は「綿着」の文言は 一三

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無いものの、明らかに子綿着に関する記述である。岐神に綿を供える神綿着こそないものの、かつて小松島市にお いても子綿着が存在していた事がこれによって明らかになる。管見では、子綿着分布の南東限であった。これより 南の勝浦郡・那賀郡・海部郡には分布していない。子綿着の分布範囲を確定する意味で、この史料は極めて重要な 意味を持つ。 一九七八年六月刊の『吉野町史   下巻』には「道祖神」の項に  道祖神に三つの源流がある。 (1) 遣唐使が招来した 「旅を守る神」 (2) 神道における道の神 (黄泉比良坂で追っ て来たイザナミの 命 みこと を千引の石で塞いだ) という塞ぎの神、 (3) 生殖器崇拝 「偉大な生殖の威力を農耕の上に及 ぼし、増産豊作を祈る呪術的祈り」外に本町の場合藤原祗園社にある、道祖猿田彦命にみられるように庚申信仰 とあわされたものもある。   この外に 船 おふなと 戸 はんといわれる神が多い。 祭神は一般的に次の二種とされている。 (1) 伊弉諾尊の子である久那 斗 神、 天 神。 ( 2) 猿 田 彦 命、 地 祗。 し か し、 ふ な と の 神 で あ る か ら、 川 の 舟 航 可 能 最 上 限 の 地 点 な ど に 祀 ら れ る、 比較的大形の構造を持ち、 時に完全な神社であると考えたらどうであろう。よく「子だくさんの人に対して、 お 船 戸 さ ん が お 辞 儀 す る 」 と い う 俗 説 が あ る が、 こ れ は、 お ふ な と さ ん は 子 供 が 十 二 人 あ る 神 様 で あ る と さ れ、 子どものない人がさずかるようおまいりしたという。⑫ とある。なぜ道祖神に 「三つの源流」 があるのか不明であるが、 (1) は 『和名抄』 所載の 「道祖」 をイメージした と解釈し得る。同書には、 『風俗通』を引用し、 天神で人面蛇身の共工氏の子が遠遊を好み、 死後その霊を道祖(さ へのかみ)として祀ったとある。この伝説を遣唐使が招来したか否かは定かではないが、中国伝来である点は首肯 し得る。 一方、 (2)と(3)は一つの神話を表と裏の両方から眺めた結果であり、 両者を別者のように見 做 な すのは間違い である。キ・ミ両神はあの世とこの世の境目に杖を立てた折のコトドワタシに際し、ミ神が一日千人殺すと 言 こと 挙 あ げ すれば、キ神は一日千五百人の子作り宣言で応酬する。即ち、一日五百人ずつ人口が増えるようになったため地上 一四

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にこれだけ多くの人が増えたと説明しているのであり、形を変えた人類起源神話である。杖の化生が 来 く な と の さ へ の か み 名戸祖神 に なったのは言うまでもないが、 一日五百人の人口増こそ「生殖器崇拝」の根源をなす。従って、 (2)と(3)は元 来二つで一個の神話を形成していたのであった。 また、 「道祖猿田彦命にみられるように庚申信仰とあわされたものもある」の 条 くだり は、 理解に苦しむ。文脈から推せ ば、現実に「道祖猿田彦命」なる祭神が現存する(近藤も三好郡山城町茂地で同名の 御 み 先 さき 神 がみ に遭遇した)ようであ るが、 先にも詳述した如く 道 さへのかみ 祖 と猿田彦命とは全く異質な神であり、 神話上でも登場する場面は完全に違っている。 両者を合体させた神など、本来有り得ない。加えて、これらと庚申信仰とも全く異質である。同信仰は、 庚 かえのさる 申 の晩 に 三 さん 尸 し が人が犯した罪を上帝に告げて寿命が縮むため、眠ることなく夜通し起きて、これを防ぐものであった。庚 申の「 申 さる 」が猿田彦命の「 猿 さる 」に通じ、両者が混同されたまでであり、元来は 道 さへのかみ 祖 と猿田彦と庚申信仰の三者は全 く異質な存在なのであった。 吉 野 町 内 に お い て は、 こ の「 道 祖 神 」 と さ れ る も の は む し ろ 少 数 派 で あ り、 大 多 数 は 岐 ふなとがみ 神 で あ っ た。 「 こ の 外 に 船 おふなと 戸 はんといわれる神が多い」の 条 くだり は、この事を暗に示している。岐神を(1)の「久那斗神、天神」と(2)の 「 猿 田 彦 命、 地 祗 」 の 二 種 と す る 点 は、 先 に 詳 述 し た 飯 田 義 資 氏 の「 船 戸 神 考 」( 別 稿 二 参 照 ) か ら の 借 用 で あ る。 当時からすれば、 一四年前に氏の論考は公刊されていた。加えて、 「川の舟航可能最上限地点などに祀られる、 比較 的大形の構造を持ち、時に完全な神社」と「よく『子だくさんの人に対して、お船戸さんがお辞儀する』という俗 説があるが、これは、おふなとさんは子供が十二人ある神様であるとされ、子どものない人がさずかるようおまい りした」とする二ケ所も飯田論文の引き写しであった。 一九七八年一二月刊の『上分上山村誌』には「おふなとさん」の項がある。該村は、一九五五年に他の四村と合 併して、 「神山町」と称して現在に至っている。合併後二三年を経て編纂されたものであるが、 内容は合併以前の旧 村の領域限定である。ここは鮎喰川最上流部に位置し、現在の上流部の数集落は過疎のため既に消滅している。  一戸か二戸、または数戸で共同しておまつりしているのが普通である。屋敷の入り口、道端、畠のあぜ、茶樹の 一五

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下など家の近くが多い。薄い平石で「おかまご」を作り、丸い石を御神体としているのが殆んどであろう。山分 の各村では最も多くまつられている神さんである。おふなとさんに参拝する時は、家を出る時から誰ともいっさ い言葉を口に出してはいけないという話がある。おふなとさんには十二人の子供がいるので、参拝するときに口 をきくと子供達が目をさまして、供え物など先に食べてしまうのだといわれている。帰るときに初めて口をきく ということである。おふなとさんは、道祖神(どうそじん)衢神(クジンまたはチマタガミ) 、塞神(さいじん) と同じとされているが、名西山分の信仰、祭祀の方法、願い事、祭日などから考えると他地方とはすこし異るよ うである。祭日は旧十一月十六日の御綿着 (おわたぎ) で、 箸に綿を巻いて供える。正月一六日には 「カタビラ」 といって紙で着物の型を切って奉納する風習がある。⑬ 先に『神山のおふなとさん』の項で詳述したが(別稿一参照) 、 この地区は悉皆調査の結果、 全四七三戸中一四二 基のが祀られていた。単純計算すれば、 三 ・ 三戸で一基の岐神を祀る計算になるが、 分家とか新しい家は岐神祭祀に 参加しない場合が多く、 実際に岐神を祀る戸数は一二一軒であった。従って、 一戸が一 ・ 二基の岐神を祀る計算にな る。つまり、自宅の岐神だけでなく近所の共同で祀る岐神にも参拝していたのである。近藤が該村を歩いた感想で あるが、旧家には必ず岐神を祀る祠が一基以上あると考えてよい。 三三年後の二〇一一年現在においても、一二人の子沢山・目覚めた子供が供物を全部食べてしまうために沈黙裏 に参拝する事などの伝承は健在であり、どの地区でも聞かれる。また、一一月一六日の御綿着と一月一六日のカタ ビラ伝承は、往時の半分か三分の一に減少しているがまだ辛うじて残されている。一般的な道祖神・塞神と比較す れば、 「名西山分の信仰、 祭祀の方法、 願い事、 祭日などから考えると他地方とはすこし異るようである」としてい るが、尤もなことである。特に、供物を一二人の子供に食べられてしまうため沈黙裏に参拝しなければならない点 など考慮すれば、岐神としての威厳は一体どこへ行ったのかと常識を疑いたくなる程である。この謎を解くヒント は、 神山町神領青井夫の杉丸家に祀られている岐神にある。即ち、 町内で一、 二を争う大規模な岐神であるが、 この 神のルーツは名東郡(現徳島市)一宮村の船盡比咩神社にあるという。つまり、一宮の船盡比咩神社の分霊を勧請 一六

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してここに祀ったというのである。本宮の神も一一人の子沢山で、供物が子供に食べられたらいけないため黙って 参拝する。また、一一月一六日の祭礼には小豆粥が子供を始め氏子たちに振舞われ、子供の成長を護る神と言われ ている。綿着・カタビラの供物こそ無いものの、かつては祀られていた可能性は、板野郡松茂町や鳴門市での分布 状況から推せばかなり高い。青井夫の伝承は、ほぼ真実を語っていると評価してよい。上分上山村を含めた現神山 町全域の岐神は、子育に手を焼く女神であり、冬の寒さから一二人の子供を守るために綿着やカタビラを必要とし たのである。これらの伝承の根源に、 『三代実録』 所載の船盡比咩神の存在が大きく影響していたのである。一口に 岐神と称しても「他地方とはすこし異る」 所 ゆ え ん 以 はこの点にあった。 『村誌』は、この点にまだ気付けず、 「山分特有 の信仰があるようで、研究の余地が多分にある」として結論を保留している。 最後に「旧十一月十六日の御綿着(おわたぎ)で、箸に綿を巻いて供える。正月一六日には『カタビラ』といっ て紙で着物の型を切って奉納する風習がある」と言及しているが、翌年に刊行された『神山のおふなとさん』の悉 皆 調 査 の デ ー タ を 見 れ ば、 両 方 を き っ ち り 供 え る 事 例 は 全 一 四 二 基 中 二 例 し か な く、 全 体 の 一 ・ 四 % に す ぎ な か っ た。 こ れ に 綿 着 ま た は カ タ ビ ラ の ど ち ら か 一 方 の み を 含 め て も 一 三 例 に し か 達 せ ず、 全 一 四 二 基 中 の 九 % で あ り、 上分の綿着・カタビラの供え率は思いの外少なかった。 一九七九年三月刊の麻植郡『川島町史』には「おふなたさん( 舟 ふなどのかみ 戸神 )」の項がある。  田畑の畦路や、屋敷の隅に、石で囲んだ石室に神をまつった祠や、石積みの上に祀った石や、祠がなくなって石 のみになって信仰せられているのをみることがあろう。俗におふなたはんと称する俗信仰で、増産の神、悪病除 けの神、 舟の神として信仰せられている。この神は、 一二人の子持ちであるから、 供物はこっそりと供えないと、 こどもみんなの口に入らないといわれ、 一三人以上の子福者になると、 「おふなたはんがおじぎに来る」と 揶 や 揄 ゆ さ れるといわれている民俗信仰の一つである。   大字久保田の旧美濃屋(酒造業)の屋敷跡には、おふなたはんを祀った石室が残されており、おふなたはんの 代表的なもので、その石室内に宝篋印塔の宝珠かと思われる石が祀られ、子のない婦人が、これをこっそり持ち 一七

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帰ると子宝に恵まれるという伝説がある。⑭ 該 町 内 で は 四 基 の 岐 神 が 別 表 で 紹 介 さ れ て い る が、 詳 細 に 調 べ れ ば こ の 数 は も っ と 増 え る 可 能 性 が あ る。 岐 神 が、 増 産・ 悪 病 除 け・ 舟 の 神 と し て 信 仰 さ れ て い る よ う で あ る が、 舟 の 神 は「 舟 戸 」 の 文 字 か ら の 連 想 で あ り、 元 の 来 く な と の さ へ の か み 名戸祖神 からは大きく逸脱している。民間信仰だから変化すると言ってしまえばそれまでであるが、本稿の岐神 の 本 質 を 探 究 す る と い う 姿 勢 上、 こ こ は き っ ち り と 襟 を 正 し て お き た い。 「 一 二 人 の 子 持 ち 」・ 「 供 物 は こ っ そ り 供 え」る・ 「おふなとさんがおじぎに来る」の条(くだり)は、 元祖としての一宮の船盡比咩宮とほぼ同一であり、 伝 承が旧名東郡一宮村から麻植郡川島町まで伝播している事がわかる。 子宝を切望する人が御神体の石をこっそり持ち帰る風は、今でも生きた信仰として人々に継承されている 証 あかし であ り、岐神の根強さが 偲 しの ばれる。 さて、 「『おふなとさんがおじぎに来る』 と、 揶 や 揄 ゆ 」 の 条 くだり であるが、 類似の表現は先述の一九五五年刊の阿波郡 『八 幡町史』にもあり(別稿二参照) 、「多産を喜ぶのか、嫌うのかはっきりわからない」と言う。両者が郡こそ異にす るものの、吉野川を挟んで対岸に置位しており、共に一つの「揶揄」文化圏を形成していたようである。 一九七九年一一月刊の『阿波町史』には、 「綿着」と「おふなたはん」の項がある。  綿着   生れてはじめての十一月十五日、里から一つ身の綿入に肌着などを添えて婚家へ持参した。婚家では赤飯 を炊いて親戚を呼んで吸物、三つ丼等をつくり酒を出してもてなしをした。呼ばれた親戚は反物半反を贈ること が普通とされた。 (略)おふなたはん   「おふなたはん」には、いろいろないわれがあり、神代の昔 伊 い 弉 ざ 諾 なき 尊が亡 妻 伊 い 弉 ざ 冉 なみ 尊恋しさに 黄 よ 泉 み の国へ会いに行ったところ断りを受けた。そこを曲げてと依頼すると、それではといっ て現れたのは、なつかしい昔の妻とは似ても似つかぬ恐ろしい 黄 よ も つ し こ め 泉醜女 だった。尊は驚いて一目散に逃げたがど んどん追いかけてきた。尊はしかたなしに持っていた杖を投げつけると、その杖が 久 く な と の か み 那斗神 となって助かったと いわれている。その久那斗神がおふなたはんであるという説と、猿田彦命の別名、道祖神のこと、 塞 さいのかみ 神 、 舟 ふなとのかみ 止神 等の諸説がある。おふなたはんは十二人の子福神で、 十三人産むと、 おふなたはんが、 「おそれ入りました」とお 一八

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じぎするといわれ、村で十三人できるとその内の戸口へ、村の悪戯者がわざわざ「おふなたはん」を担いでいっ て戸口に立てかけたともいわれている。町内のおふなたはんは拾数か所祀られている。⑮ 子綿着に関しては、管見では阿波町が分布の西北限であり、これより西には類似の伝承は見出し得なかった。子 綿着は神綿着とほぼ同一の分布範囲を示しており、赤児と子神の違い、また一一月一五日と同一六日という日取り の一日の違いがあるものの、共に「綿着」の呼称を持つため、両者間には密接な繋がりが認められる。 一 歳 未 満 の 赤 児 に 着 せ る 綿 入 れ 着 物 で あ る か ら 当 然 一 つ 身 で あ る が、 実 家 か ら は こ れ に 肌 着 を 添 え て 贈 ら れ る。 この日は他の親戚も招き、 赤飯の他に縁起物の三つ 丼 どんぶり ( 蒲 かま 鉾 ぼこ ・ 田 たづくり 作 ・葱のぬた和え) と吸物などでもてなしていた。 親戚衆は祝いの品として「反物半反」を持参するのが普通とされていたが、これは実家が持参する綿着と肌着にあ わせたものであろう。 「半反」の部分に赤児または小児用の着物料が反映されている。 一方、 岐神祭祀に関しては日取りが明示されていないため不明であるが、 先述の「阿波北方年中行事」では、 「お ふなたはん」が一一月一六日になっており、加えてこの日に阿波郡林村(合併されて阿波町に属す)で「紙を着物 の形に裁ち、手際がよくなります様にといひて拝む」とあった。岐神に紙で着物形に切って供える姿は、現在は神 山町以外に認められず、 これを 紙 かみ 子 こ または 帷 かた 子 びら と称し、 一月一六日に供えていた。一一月一六日の「おふなたはん」 の日に紙の着物を供える場合、その対象が明記されていないため不明であるが、文脈から推せば岐神に供えるのが 自 然 で あ ろ う。 こ の 場 合、 子 供 の 成 長 で は な く、 「 手 際 が よ く な り ま す 様 に 」 と の 願 い で あ る か ら、 裁 縫 の 上 達 を 願ったものである。今でこそ紙綿着と帷子(紙子)のセットは神山町内でしか分布しないが、かつては阿波町方面 でも分布していた可能性は否定できない。旧阿波郡林村では、岐神に供えていた 帷 かた 子 びら の元の意が忘れられ、串に挟 ん だ 紙 製 の 着 物 の 模 型 か ら 着 物 の 裁 縫 が 連 想 さ れ、 赤 児 の 生 育 で は な く 裁 縫 技 術 の 上 達 祈 願 に 転 じ た も の で あ ろ う。一一月一六日という日取りと、この日を「おふなたはん」と呼ぶ慣習、さらに紙 帷 かた 子 びら の雛型を供えるこれら三 項目は決して偶然の一致とは考えられないのである。 阿波町内の岐神は一〇数ケ所で祀られているとあるが、妥当な数であろう。管見では、西に隣接する美馬郡脇町 一九

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でも一八基の岐神を確認し得た。これらの数字からすれば、神山町の七六七基がいかに抜群に多い数字かが理解で きよう。 この事と、 神山町の東端部をかすめるように半径二 ・ 五km圏内に三つの船盡比咩神社が点在する事とは密 接に関連していたのである(別稿一参照) 。 さて、 『阿波町史』 ではキ神がミ神への 「恋しさに黄泉の国へ会いに行ったところ断りを受けた。そこを曲げてと 依頼すると、それではといって」恐ろしい 黄 よ も つ し こ め 泉醜女 として姿を現わしたとあるが、この表記では神話が持つダイナ ミズムがかなり損われてしまう。基本的には、キ・ミ神の近親相姦による国生み・国造りの途上において火神を生 み、これによって焼き殺される。子による親殺しである。次に、怒ったキ神が子の火神を八つ裂きに斬殺する。父 親による子殺しである。その後、黄泉国訪問の段で死の恐怖の発見となり、次であの世とこの世の境界に立って邪 霊の侵入を防ぐ岐神が杖から化生し、キ・ミ神の互いの言挙げによって一日に五百人ずつ人口が増えるという創世 神話の完結を導くのであった。この辺のダイナミズムをしっかり踏まえておかないと、岐神が持つ本質を見失って しまうのである。岐神は、単なる邪霊防禦の神ではなく、創世神話の根拠に密接に活連動する重大な意味を持つ神 なのであった。 来 く な と の さ へ の か み 名戸祖神 が、九州の北半分(五四例)や中部関東地方(八一例)で近親相姦伝承を伴いながら現 存する事実を考慮すれば、また南西諸島(六二例)で近親相姦を伴った創世説話が分布する事実を考慮すれば、神 話の時代だけに留まらず現在進形で今なお活き続けている事がよく理解できよう(別稿一参照) 。 従って、岐神を「猿田彦の別名」とか「舟止」で説明してはならないのである。猿田彦は天孫降臨時の道案内の 神であり、キ・ミ神の創世神話とは無関係である。また、岐神をフナト神と訓むものの、これを「舟止」で説明す れば、その段階で自動的に岐神の本質究明を大きく逸脱してしまう危険性を 孕 はら むものであった。類似の神名を羅列 して、説明理解したような錯覚に陥ってはならないのである。 岐神が一二人の子沢山であり、一三人生まれた子福者の家に「おそれ入りました」とお辞儀するという伝承に因 み、村の悪戯(いたずら)者がわざわざ石製の岐神を担いで戸口に立てかけたとする記述があるが、これは先述の 『川島町史』の 揶 や 揄 ゆ 伝承、 更に『八幡町史』の「多産を喜ぶのか、 嫌うのかはっきりわからない」との報告とも繋が 二〇

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る所がある。阿波町は吉野川左岸で八幡町に隣接し、その対岸に川島町が位置するため、三者を一括して岐神を利 用した多産揶揄文化圏としておきたい。オジギ伝承は神山町を始め各地で聞かれるが、これ程強く揶揄的姿勢を示 すのはこの地域にしか見られない。 一九七九年一一月刊の『神山のおふなとさん』の中で、 大 おおあわれいぞう 粟玲造 氏は「舟戸神について」と題する論考を掲載さ れている。その概要は岐神信仰の基準形成のために既に別稿一で紹介したが、ここでは氏の考察部分に限定して再 び言及しておきたい。氏はこの論考の中で、 『記』 ・『紀』所載の岐神が時間的・空間的に拡散して行く中で、  岐神、道俣神、衢神、衢祖神、道神、道祖神、道陸神、八衢神、衢神大神、久那戸神、手向神、幸神、塞神、才 神、境神、障神などそれぞれの変化に対応して、名称もまた多種多様である。 二、このほかに、意味が異なり、発生の違った同音の「ふなとのかみ」がある。   その神名を舟止神 (ふなとのかみ) といい、 この神は港や舟が河川をさかのぼっていった終点に祭られている。 広い社地と立派な社殿があって完全な神社である。阿波誌の名東郡の項に 船盡祠…一宮祠の東百八十歩船渡神あり、或は以て船盡と為す之石楠船神又の名は天島船神、大宜都姫の兄弟也   名西郡誌には  船盡神社…広野大字長谷名にあり、船盡比売尊、天手力雄尊の二神を祭る。俚俗歯の辻神社と称へ歯痛を癒する 神として箸を納むること多し…とある。   前者は現在の徳島市一宮町に鎮座しておられる船盡比売神社であり、後者は一般にとなえられている歯の辻神 社である。一宮町の船盡比売神社は、一宮のオフナトサンと一般に呼ばれ、舟戸神と同じ発音であるためにオフ ナトさんの元宮と間違えられているようである。⑯ と述べている。 『紀』の一書第九で、 「 岐 ふなとのかみ 神 」の 本 もと 號 のな を「 来 く な と の さ へ の か み 名戸祖神 」と称する点を念頭に置いてか、 「 来 く 名 な 戸 と 」系と 「 祖 さへ 」 系の神名を中心に一六種の異称を列挙している。氏はこれらの中に猿田彦尊や庚申を加えていないが、 これは 従来の郷土史家と異なり、岐神を猿田彦尊や庚申信仰と峻別する姿勢を示しており、高く評価しておきたい。既述 二一

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したが、岐神信仰研究に際して猿田彦尊や庚申信仰と混同すれば、その段階で 陥 かん 穽 せい に 嵌 はま ってしまいそこから脱け出 せなくなる。第一関門はクリアされている。 だが、 「このほかに、 意味が異なり、 発生の違った同音の『ふなとのかみ』がある」とする 条 くだり から、 徐々に雲行き が怪しくなる。この文脈は、 先述の飯田論文の進め方と同一であり、 恐らくこれを下敷きにしたものと考えられる。 意味と発生が違う同音の「ふなとのかみ」として、氏は二つの「船盡」宮を念頭に置いている。一つは徳島市一宮 のそれであり、もう一つは神山町広野のそれであった。別稿一で詳述した如く、正確には徳島市 入 にゅうた 田 所在の、広野 の 船 盡 宮 に 対 す る 遥 拝 所 と し て の 第 三 の 船 盡 比 咩 神 社 も あ っ た 事 を 氏 は 明 言 さ れ て い な い。 加 え て、 明 治 三 年 ( 一 八 七 三 ) 刊 の『 神 祗 志 料 』 や 明 三 三 年( 一 九 〇 〇 ) 刊 の『 大 日 本 地 名 辞 書 』 に お け る 一 連 の「 慶 長 十 二 年 棟 札 文」騒動に関しても全く言及されていない。 しかも、 「船盡」の文字から「舟止神」を類推し、 「この神は港や舟が河川をさかのぼっていった終点に祀られて い る 」 と 述 べ、 飯 田 氏 が 提 唱 す る 一 九 六 四 年 初 見 の「 舟 航 可 能 最 上 限 地 点 」 説 を 採 用 し て い る。 飯 田 説 の 登 場 は、 一九七八年刊の『吉野町史』を含めてこれで三例目であるが、 縷々詳述した如く岐神は元来 来 く な と の さ へ の か み 名戸祖神 であり、 「 来 く 名 な 」を「 舟 ふね 」で説明すべきではない。ましてや、 「戸」は通路を示す言葉であり、 これを「止」で説明すれば、 本来 の岐神から大きく逸脱したものになってしまう。飯田説を採用したばかりに、この時点から本質究明への道を大き く踏み 外 はず すのであった。 このためもあり、大粟氏は「一宮町の船盡比売神社は、一宮のオフナトサンと一般に呼ばれ、舟戸神と同じ発音 であるためにオフナトサンの元宮と間違えられているようである」と結論する。別稿一で詳述したが、慶長一二年 (一六〇七)銘の棟札に名東郡にある船盡比咩神社とあれば、これは名西郡広野村でもなく、同郡入田村でもない。 名東郡一宮村所在の船盡宮以外考えられない。しかも、ここは祭日が一一月一六日であり、黙って参拝するルール が あ り、 子 育 て の 神 で 子 供 が 一 一 人 も い る 神 と な っ て い る。 神 綿 着・ 帷 子 の 供 物 を 欠 く 程 度 で、 他 は 神 山 町 内 七六七基で伝承されている岐神信仰の条件をほぼ満たしている。このため、ここは神山町全域に分布する七六七基 二二

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の「オフナトサンの元宮」と断言してほぼ間違いない。同名の広野・入田村所在の宮は、祭日が一〇月二八日であ り、歯痛鎮めの神であり、祭日、御利益とも岐神信仰とは全く隔絶している。大粟氏は、一宮の船盡宮が「オフナ トサンの元宮と間違えられている」と述べているが、信仰・伝承内容から推せば、一宮の船盡宮こそが神山町所在 七六七基の岐宮の本宮なのであった。氏は、一宮船盡宮の信仰・伝承内容を認識していなかったふしがある。もし 識っていれば、少なくともこのような結論は下さなかったであろう。 更 さら に、一九六〇年刊の『神領村誌』には、青 井夫の杉丸氏宅前にある岐神祠が村を代表するものであり、 「一宮舟止神社の分霊との伝説」 があると付加されてい るのである (別稿二参照) 。神山町七六七基の岐神とその信仰内容を知悉している大粟氏ではあるが、 飯田説を鵜呑 みにしたばかりに、最初の段階から真実を究明する機会を逸するのであった。今一歩、文献・伝承両面からの追究 に対して集中力が求められる。 『阿波志』の引用に際しては前述の通りであるが、現文のままの引用ではない(表2参照) 。原文はa~eの順で 文章が並ぶが、引用時に何故かb・c・dの三ケ所を欠損し、aのすぐ後にeを繋ぐのであった。これでは、大き く元の意を歪曲する事になる。dとeは元は一文であり、 「 島 ママ 之石楠船神」とすべきであるが、 「 島 ママ 」の部分を不自 然に削り取って、 e’の如くにして a’の下に繋げている。意図的なのか不注意なのか不明であるが、 『阿波志』の著者 佐 野 之 憲 が 最 も 強 調 し た か っ た の は b の「 是 な り 」 で あ る。 即 ち、 「 船 盡 祠 」 に は「 船 渡 」 神 を 祀 っ て い る の で あ り、 船 ふな 盡 はて と訓むのではなく 船 ふな 渡 と と訓むべき事を提唱しているのである。この思いを込めるため、bの「是なり」が あ る。 こ の 趣 旨 を 理 解 せ ず、 「 是 」 と「 之 」 を 取 り 違 え た の か( 両 者 と も「 こ れ 」 と 訓 め る が、 「 之 」 は こ こ で は 「の」と訓まねばならない) 、b・c・dを骨抜きにしてaのすぐ下にeを繋ぐのである。これでは元の文意を正確 に理解して引用したことにはならない。 大粟氏には、 一宮のオフナトサン (船盡宮) が神山町全域に祀られる七六七 基の 岐 おふなとさん 神 と同じ音であるため、 「元宮と間違えられている」という先入観があった。これが作用して、 表2の如く極 めて不自然な引用になった。原典の文章を正確に把握しておれば、また船盡宮三社の棟札騒動の経緯を時系列に理 解しておれば、少なくともこのような初歩的ミスは犯さなかったはずである。 二三

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さて、 『神山のおふなとさん』には該書の心臓部ともいえる「調査結果表」が各大字毎に纏められているが、 各表 毎に岐神の数だけ1から起算されている。 これでは各大字ごとの動向が把握しにくいため、 上分の1番を起点とし、 阿川の 109番を終点として、全七 大 おお 字 あざ (上分一四二基・下分一二七基・左右地六一基・神領一二七基・鬼籠野一一四 基・広野八七基・阿川一〇九基の順) に通し番号を打ち、 最終が 767番になるようにした。 縦軸には左端から部落名・ 所 在 地・ 祭 者・ 形( 御 殿・ お か ま ご・ 他 )・ 石 の 数・ 供 物( 綿 着・ カ タ ビ ラ・ し め 縄・ 斎 木・ 神 酒・ ご は ん・ 箸 )・ まつる日(正月・十一月・十二月・紋日) ・備考の順に並んでいる。 岐神の性格並びに特性を知る上で最適と思われる「備考」欄から考察を進めたい。性格・特性に関する記述は延 べ七〇例あった。そのうち、 331番が三種、 11・ 171・ 250・ 253・ 277・ 391が各々二種の伝承を含むため、実質は六二地区 (全七六七地区の八%)での伝承となる。性格・特性重視のため、延べ数を分母として解析を進める。 a・足神(足痛を治す神・足を丈夫にする神)1 91・ 171・ 180・ 237・ 276・ 277・ 354・ 492・ 680・ 689・ 753・ 763(一二例) a・草履をまつる。2 11・ 277・ 423(三例) 表2『阿波志』所載「船盡祠」記事と大粟氏の同箇所引用文の比較対照表 船 盡 祠 … 一 宮 祠 の 東 百 八 十 歩 、 船 渡 神 あ り 或 は 以 て 船 盡 と 為 す         是 な り 三 代 実 録 貞 観 十 四 年 十 一 月 二 十 九 日 従 五 位 を 授 く 、 旧 事 紀 云 ふ 島 之 石 楠 船 神 、 又 の 名 は 天 島 船 神 、 大 宜 都 姫 の 兄 弟 也 船 盡 祠 … 一 宮 祠 の 東 八 十 歩 船 渡 神 あ り 、 或 は 以 て 船 盡 と 為 す 之 石 楠 船 又 の 名 は 天 島 船 神 、 大 宜 都 姫 の 兄 弟 也 対応 対応 欠如 欠如 欠如 aʼ eʼ a b c d e 『 阿 波 志 』 の 原 文 大 粟 氏 の 引 用 文 マ マ マ マ マ マ 二四

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a・わらじをまつる。3 171・ 354(二例) a・手足の神(手足通を治す神)4 。 11・ 175・ 178・ 391(四例) a・足腰痛を治す神。5 331(一例) [延べ七〇例中a群二二例・三一%] b・子1 供 の 守 り 神 。 174・ 177・ 182・ 188・ 196・ 220・ 231・ 239・ 240・ 249・ 250・ 253・ 258・ 459・ 509・ 663( 一 七 例 ) b・岩上より子供が落ちても怪我させない。2 32(一例) b・子供が衣類に不自由せん。3 461(一例) b・子授け。4 495(一例) b・子供が三歳になるまで祀り、以後まつらない。5 618(一例) [延べ七〇例中b群二一例・三〇%] c・家族の守り神。1 201・ 233・ 239・ 244・ 245・ 720(六例) c・家族の健康を祈る。2 249・ 306(二例) c・主人の身体を守る。3 543(一例) c・屋敷の守り神。4 192・ 199(二例) [延べ七〇例中c群一一例・一六%] d・なめくじが御神体だから塩はまつらない。1 285(一例) d・塩はまつらない。2 283・ 750(二例) d・塩ぬき赤飯祭る。3 122(一例) [延べ七〇例中d群四例・六%] e・岐神が祟った結果、祀るようになった。 356・ 396・ 418・ 712(延べ七〇例中四例・六%) f・講中に災難がない様に又健康祈る。 306(一例) g・悪病を防ぐ。 253(一例) h・畑の守り神。 250(一例) i・文久元年(一八六一)の銘。 20(一例) j・この辺で船をつないだとの話。 26(一例) 二五

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k・一宮の舟戸にこんもとがある。 331(一例) l・石の上でみこが踊った。 331(一例) m・だまって祭ろうとするのによその人はものを言わそうとする。 391(一例) 全七六七基中の六二基(約八%)にしか性格・特性を知り得る備考欄への記述は無かったが、それでも延べ七〇 例の伝承群は明確かつ雄弁に神山町内の岐神の本質を語り尽くしている。これら七〇例を大別すれば、a群からf ~mのその他群の六群に分類し得る。分母を七〇例とすれば、最多はa群二二例で全体の三一%を占める。a群の 中でも a’の 「足神 (足痛を治す神・足を丈夫にする神) 」 一二例が最多であり、 a群中では五五%を占める。岐神と 言えば、神山町内の人々は即足神を連想するのであった。二〇一一年の近藤の調査でも、足痛を治してくれる神と か、 祈 願 や お 礼 の 意 味 で 藁 草 履 を 供 え る と い う 伝 承 を 何 度 か 聞 き 得 た。 a4 四 例 で は「 手 足 の 神( 手 足 痛 を 治 す 神 ) として、足だけでなく手の部分も加わっているが、a群二二例全体では四例で一八%しか占めておらず、少数派で あった。足の神の連想から手が追加されたものであろう。 更に a5 一例では「足腰痛を治す神」と変化しているが、足痛を治してくれるならば、ついでに腰痛もという庶民 の願いから派生したと言える。これが証拠に、 祈願や報賽時に a2 三例の「草履をまつる」 、 a3 二例の「わらじをまつ る」があり、両者を合算すれば五例でa群全体の中で二三%を占めるに至る。これら報賽物は総て草履・草鞋(わ らじ)など足に関する履き物ばかりであり、手や腰に関する品物は一切無い。この点からも、岐神は元来「手」や 「腰」ではなく、 専 もっば ら「足」に特化された神であったと断言し得る。 次いで目立つのは「子供の守り神」関連のb群二一例で、全体の三〇%を占める。b群二一例全体の中で特に多 いのは b1 一七例(八一%)の「子供の守り神」であった。残りの四例は、 b2 b5 に各一例あるに過ぎず、岐神とい え ば「 子 供 の 守 り 神 」 と す る 強 烈 な 思 い は 町 民 の 共 通 認 識 と し て「 足 神 」 と 共 に 併 存 し て い た。 近 藤 の 調 査 で も、 この伝承は 度 たび 々 たび 聞き得た。 b一例の「岩上より子供が落ちても怪我させない」とする伝承の主語は、文脈から推せ2 ば明らかに岐神であり、岐神が子供好きであり、子供と遊ぶ事を好んでいた様子が透けて見える。これは、一宮の 二六

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船盡宮の伝承とも共通する。町内では畑の中や屋敷のまわりにたまに巨岩があり、往々にしてここは 格 かっこう 好 の子供の 遊び場になるのだが、その巨岩の根元によく岐神が祀られている。珍しい巨岩に因んで、これを顕彰する意味で岐 神が祀られる。普通であれば、岩上から滑落すれば子供は大怪我をするのだが、岐神の御神徳により、見えない力 で子供はしっかり守られていると考えられているのであった。 bの「2 子 供 が 衣 類 に 不 自 由 せ ん 」 と い う 伝 承 は、 明 ら か に 一 一 月 一 六 日 の 串 に 綿 を 巻 き つ け て 供 え る 神 綿 着 と、 一月一六日の紙製の着物を串に挟んで供える 帷 かた 子 びら ( 紙 かみ 子 こ )を念頭に置いたものである。岐神に供えるこの両者の儀 礼の根源にこのような伝承があってみれば、岐神の子供が一二人いる母子神家庭の 逼 ひっ 迫 ぱく の状況がより鮮明に浮かび 上がる。先に言及したが、沈黙裏に参拝しないと一二人の子神が目を覚まして供物を全部食べてしまい、親神に当 たらない (供物が届かない事により、 願いも聞き届けられないという結果に終わる) とする伝承とこれは連動する。 岐神ともあろうものが子供の 躾 しつけ 一つできないのかと思うかもしれないが、子沢山の母子神家庭であってみれば、こ れも致し方ない所なのである。神山町民は、近所の生活苦の家庭に何かと細やかな手助けを行なう如く、岐神には 格別に親近感を抱いていたようである。これは、子沢山の家に対して「岐神がおじぎする」という伝承にも裏付け られる。実際の子沢山の家庭を 揶 や 揄 ゆ するだけでなく、このように生活苦や子育て苦労を共に分かち合ってくれる最 も身近な頼りがいのある神なのであった。旧家であれば殆どどこの家にも祀られているという言説は、恐らくこの 事を意味するのであろう。 bの「4 子 授 け 」 一 例 は 大 字 鬼 お 籠 ろ 野 の の 字 日 浦 地 区 で の 伝 承 で あ る が、 近 藤 も 大 字 下 分 字 樫 谷 地 区 で こ れ を 聞 い た。 ( 写 真 2 参 照 ) 岐 神 が 子 供 一 二 人 の 子 沢 山 で あ る た め、 子 宝 に 恵 ま れ な い 人 は 丁 てい 重 ちょう に こ れ を 祀 り、 実 際 に 子 宝 を 授 かっていた。 bの如く「子供の守り神」だけでなく、1 より根源的に岐神は、 「子授け」の段階から深く関与していた のである。 b一例では「子供が三歳になるまで祀り、以後まつらない」と言うが、これは5 b1 の「子供の守り神」と密接に連 動したものである。即ち、七五三の祝いに象徴される如く、三歳は通過儀礼上大きな一つの関門であった。三歳児 二七

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