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(1)

わが国情報産業政策の展開過程と特質 : 産業政策 論の分析枠組の相対化を求めて

著者 粕谷 信次

出版者 法政大学経済学部学会

雑誌名 経済志林

巻 54

号 2

ページ 1‑38

発行年 1986‑09‑15

URL http://doi.org/10.15002/00008461

(2)

N・t砥i・…MITIl通産省は「日本株式会社」の〈;クォーターとして悪名をはせてきた.し

(1)

かし、それは誤解である、と当事者はいい、また産業政策の研究者からも「(通信に関して)通産省が外資規制の撤廃を含めてほぼ完全な自由化路線をうち出したことは、まことに印象的である。政府による保護や行政指導とい

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う、かつて論じられた産業政策の問題は、通産省から離れて郵政省や運輸省の問題へとはっきり移っている」と最近の通産省の自由化の旗手へのドラマチックな変身振りを讃えられている。 一、はじめに二、わが国情報B第1期・ロ第Ⅱ期・ロ第Ⅲ期・三、産業政策の わが国情報産業政策の展開過程第1期・保護育成の初期段階□九五五’六四)第Ⅱ期・保護育成の本格化段階C九六五-七五)第Ⅲ期・ポスト自由化段階C九七五I)産業政策の評価と分析枠組についての若干の検討

わが国情報産業政策の展開過程と特質

l産業政策論の分析枠組の相対化を求めてIはじめに

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いま、「民間活力」「小さな政府」など、ポスト・ケインズの新保守主義的風潮にのって、日本経済の.ハフォーマンスの良さは、日本が「新古典派」の世界に近かったからだという議論が一段と勢いを増している。

(3)

しかし、他方では、同じくケインズ主義の行き二明りの打開を求めて『通産省と日本の奇跡』(C・ジョンソン)、すなわち「発展指向型国家」の産業政策に対する関心が国際的に高まっている。日本でも産業政策論議における「第一一一世代」が登場してきた。「第一一一世代」とは自らは「第二世代」に属するという小宮隆太郎教授の命名であるが、「第二世代」と対比してのぎのように特徴づけられている。「産業政策は資源配分における『市場の失敗』に応ずる政府の介入、という認識では両世代とも一致している。しかし『第二世代』が、現実の日本経済を構成する市場は概して健全に機能しており市場の失敗は少ないというイデオロギー、また日本経済の発展について『楽観的な日本経済観』をもち、反独占、反政府介入、競争・自由化の促進といったイデオロギーをもっていたのに対して、『第三世代』は市場が失敗する病理的状況はかなり多いはずだと、また日本経済の発展について『楽観』『悲観』のいずれか一定の日本経済観をもたず、反独占、反政府介入……といったイデオロギーにもあまり染っていない

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(要約l引用者ピ

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彼等は、まだきわめて抽象的な議論しか展開していないが、おそらく「第一世代」のイデオロギーに支蝮えられた産業政策のかなりの部分(「産業構造高度化」政策まで含めて)は経済学的に合理的であったとする結論を導く可能性をもっている。〃産業政策べったり〃という批判が投げかけられたというのも頷ける。しかし、他方で彼等も

「敗戦後のかぎられた時期を除いて、基本的に高度成長を支えたしのは競争を通じた価格機構の働きであり、旺盛な企業者精神であった」ことは大前提にしており、「『日本株式会社論』とは反対に……産業政策の歴史は、民間のイニシャティブと篝〈イタリティによって、統制的な直接介入を行おうとした政策当局の意図がしばしば覆されてい

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3わが国情報産業政策の展開過程と特質

まず、「市場と組織の相互浸透」という概念を提示する。「市場」とその「市場の失敗」に応じて登場する政府は、通常、「市場」か「計画」という伝統的な二項対立の一方の項にとどまっているが、それらを両極の特殊ケースとして、中間にさまざまな相互浸透領域をもつ、いわば一般理論を提示するのである。そして、日本の場合、この相互浸透が絶妙で、組織が市場の失敗を補い、市場機能をより効果的にしたというのである。つぎには、市場の本来の効率性は勤学的な局面で発揮されていると考えるべきだとして、ネオ・シュン.ヘータリ

ァンのエポリューショナル・モデルをもち出す。このモデルでは外部効果をも十分配慮することができるという。すなわち、このモデルではシナーシズム(相剰効果)という概念が一つの核心となっているが、たとえば「不確実性」に応ずる「政府の情報交換システム」は、このシナーシズムを生糸出すが、それは経済学の用語でいえば、正の外部効果に他ならない、という。

ところで、市場は本来的に動態的である。それを説明するために「市場の失敗」に応ずる組織や外部効果が必要になってくるというのはむしろ「ミクロ理論の失敗」というべきであろう。因糸に、マルクス経済学の最も抽象的な理論次元に位置する「原理論」においてさえ、イノベーションの問題は、相対的剰余価値の生産として論理展開

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った過程であったとさえいえるかjもしれない」とjもいう。ここに一つの矛盾が生じているようにみえる。彼等はそれを認識しているかどうか定かではないが、いわば「第二世代」と「第一一一世代」の間に立って、両者に理解を示す今井賢一教授は「教科書の世界では市場の失敗と考えられるケースが現実の世界では成力に転じているのはなぜ

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か」「市場の失敗の存在によって、日本の市場はこれまで成功して当ごたという逆説」をどう理解したらよいかを積極的に問題にする。そしてこの矛盾を止揚すべく、分析枠組の拡張をつぎのように二通りのいい方で提示されてい

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ヲ○ように思われる。

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の基軸に位置づけられ、さらに市場価値論や特別剰余価値論として展開され、やがて生産力水準の上昇と価値体系をトータルに再編する景気循環論に行き着く。市場は、いわばその表層として理解される。それはさておき、右のような分析枠組の拡張によって、「ミクロ理論」と「計画的統制論」を相対化し、現実への接近に一歩迫まったことは、高く評価されるべきであろう。さて、今井教授は、これを新たな武器にして、情報産業を中心に、先端技術産業における産業政策の分析に赴

(、)

き、その政策を吉向く評価される。しかし、われわれからふると、その分析枠組をさらに拡張し、そのうちにこれを相対化しなければ、なお現実のダイナミズムを十分にはとらえられないのではないか、また産業政策の評価を十全に行うこともできないのではないかと懸念される。われわれも、ごく簡単にではあるが、通産省の情報産業政策の推移を辿り、そののち以上の点を検討することにしたい。

第一表は、主として通産省の情報産業に対する産業政策の展開の大筋を整理したものである。紙幅も限られ、すでに秀れた分析もあるので、ここでは、どのような経緯で、どのような政策が形成されていったか、とくに政策のイデオロギー的背景に注意しながら辿っていくことにしよう。ほぼ一○年ごとに、大きな節が承られるようなの

(u)

で、そのように区切ってゑていこう。㈹第1期・保護育成の初期段階二九五五’六四)情報産業は、先端技術産業として、高度の研究・技術の蓄積ないし学習が必要であるばかりか(世界初の電算機FNIACがつくられたのは一九四六年だから、日本のぱあい、ほぼ一○年遅れてスタートした)、技術開発のテ 二わが国情報産業政策の展開過程

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06

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7わが国情報産業政策の展開過程と特質

ンポが速いので、キャッチ・アップは、特別のむずかしさをもっていた。しかも、当初IBMが世界市場の九割(PCS市場)を支配し、技術力、資本などあらゆる点で隔絶的遅れがはっきりしているなかで、電算機の開発、国産化政策のイニシャティブはどこから現われたのだろうか。日本の電算機の開発研究は、一九五二年頃から東大、通産省電気試験所(現電子技術総合研究所)、電々公社通信研究所など国立の研究機関を中心に進められてきたが、一九五五年四月、当時電算機の開発に当っていたこれらの諸機関、メーカーの研究者、技術者およびユーザーの専門家などを集めて、電波技術振興協会に「電算機調査委

(、)

員会」がつくられた。そこで電算機の国産化を促進するという目標が立てられた、という。まず、周辺装置を輸入して、その性能、構造、材質をメーカー各社に分担して調査(一九五五’五六)することから始まり、一九五七年からMARKⅣ(わが国初のトランジスタ式電算機)の完成を真近にひかえた電気試験所の指導の下で、東芝、日立、日電、富士通、沖、北辰、ソニー、の七社によって、トランジスタ式電算機を分担試作することになった。それに先立って、同委員会ではこれに補助金の交付を求めるという意見が大勢を占め、その中心メンバーであった和田弘電気試験所電子部長(当時)が、電子部の研究予算の獲得の意図もあって、「電子工業振興臨時措置法」の制定を提唱

(田)

したという。本省の電気通信課長、重工業局長と各レベルの担当者を強引に説得し、法案の原案作成から電気機械

工業審議会の根廻し、自民党代議士への働きかけ、さらに国会の委員会での答弁までかつて出て、これの制定にこぎつけた、という。『半導体三○年史』の著者はつぎのようにいう「その後の日本のエレクトロニクス振興政策の方向を決めた電振法の成立が、受益業界の提唱によるものではなく、業界よりも認識が進んでいた公的機関の研究者の個人的熱意(とくに強引さ?)に負ったものであることは興味深い。傘下の研究機関の研究者の熱意が発端であ

ったとしても、このとき電振法を官の主導によって制定したということは、その後から現在に至るまでのエレク

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当時、『本省の法学士』たちの多くを支配していた政策イデオロギーは、まさに小宮教授が「第一世代」(注5参照)と特徴づけたものであった。そうであれば、研究者から「エレクトロニクスはいまは鉄鋼業などに比べればネ

(応)

グリジ鯵フル・スモールだが、いまに鉄鋼業並永になる」と口説かれれば、彼等の胸のうちの経済ナショナリズムの火はたちまち燃えあがったのである(因みに、研究者は往々にして、その社会的結果を顧ることなく研究至上主義に陥りやすく、この両者のシナーシズムが普通の生活者の常識では思いもよらぬビヒモスやリバイァサンを呼び出すこともある)。「電振法」は、同法に基づいて設置される「電子工業審議会」に諮って、試験研究促進機種二号機種)、工業化助成機種(一一号機種)、生産合理化(合理化カルテルを含む)機種(三号機種)を政令で指定し、その機種ごとに「振興計画」を策定して、一号機種に補助金を、一一号機種に財投資金を、三号機種に財投資金の他、特別償却の恩典を与えようとするものであった。電算機は、はじめ一号機種、やがて全号に指定された。それぞれ

の助成額は必ずしも多くはない。しかし、このような措置は「不確実性」を小さくし、都銀などの融資を呼び込むなど、シナーシズムにイーーシャル・キックを与えるものとして見かけよりも大きな効果をもったことは確かであろう。通産省にその担当課として「電子工業課」が設置され、電算機国産化のリーダー・シップをとることになり、「電子工業審議会」は、各種振興策の公的権威づけ機関、情報交換機関として機能するようになる。その他、産業調査会にオートメーション部会が設けられ、そもそもの生永の親であった「電算機委員会」は「電子工業振興協会」に発展し、制約が少なく、通産省がかなり自由にできる競輪事業の収益から得られた機械振興資金を以って、

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電算機さらに情報産業の立ち上りのための影の仕掛人として活躍したのである。

ニーロる、ト

ニクス産業に対する『本省の法学士』たちの熱狂的な官主導型保護育成策の原点になっているようにもみえ

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9わが国情報産業政策の展開過程と特質

こうして、一九六○年、「電算機国産化五ケ年計画」を公表して、国産化政策は本格的に始動した。最も強力な武器は、いうまでもなく対外的競争からの保護である。関税を協定税率の一五%から二五%にアップしたが、つぎ

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のようなきめ細かな非関税障壁がより重要である。①製品の輸入については、電子工業課が輸入申請者からヒアリングを行い、国産機で対抗可能と判断できるものについては、⑪官公庁、国産メーカーの属する企業集団の会社には輸入を遠慮してもらい、⑪一般のユーザーには、㈹国産機を充分検討してもらった上で、③輸入を必要とする充分な理由があり、い今後の国産機の育成に協力を約してもらい、その上で一部の輸入を認めた。②資本の導入は、むろん認める姿勢になかったが、国産機を開発するばあい、IBMが握っている基本特許が必要で、その公開を条件に(そのさい、通産省が間に入って交渉力を高めた)、日本IBMの国内生産を認めた。しかし、その時期を可能なかぎり遅らせ、しかも、部品や周辺装置の輸入に対する許認可権などをつかって、そのシェァーを規制した。もっとも、技術導入については、逆に、早急に技術力を向上させるために、外国メーカーと

の技術提携を指導した(IBMは特許を公開してもノウ・ハウを公開しなかった)。

こうした障壁をめぐらせたなかで、さきの電振法による諸助成措置を構じたのであるが、さらにつぎのようなイ

ーーシャル・キックも注目すべきであろう。〔日本電算機株式会社(JECC)設立(一九六一)〕これは、IBMのレンタル制に対抗するために、国産メーカー七社が共同出資で設立し、低利の財投資金を受けることができるようにしたものである。〔FONTAC開発(’九六二’六四)〕通産省はIBMに対抗するために、IBM以外の外国メーカーとの技術提携を指導したが、他方で自主開発路線も捨てなかった。「鉱工業研究組合法」□九六一年)に基づいて「電算

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たしかに、この時期は、重厚長大の重化学工業と民生用エレクトロニクスの興隆に特色づけられるときで、いわばFA化やOA化がなされる基盤そのものを創りつつあったとぎであった。しかも第二世代の電算機は、なお巨大でコスト..〈フォーマンスもはるかに悪かったことも加わって、電算機の市場はなお十分な広がりをもてなかった。その未成熟な市場で、歴大な軍事技術開発費とアメリカおよび世界の広大な市場をバックに先行するアメリカ資本に対抗することはきわめて難しかった。

しかし、中型や大型の電算機(その市場はほとんど官公需に限られた)では歯がたたなかったが、IBMのPCSに対抗し得るような超小型で安価な、いわば「国民車」的な電算機においては、前記の強力な保護政策に助けら 機技術研究組合」をつくり(IBM七○七○対抗の主計算機を富士通、補助計算機を日電、沖が分担)、補助金を与えて共同開発にあたらせた。こうして、第1期の後半に入ると、電算機国産化のための政策が体系的に創出されたといってよい。しかし、この第1期においては、通産省のイーーシャル・キックは空回りすることが多かった。当時、電子工業課、課長補佐であった平松守彦氏はつぎのように述懐している、「日本のコンピューター産業を何とかして離陸させなければならないと、私たちは懸命にメーカーやユーザーたちの尻を叩いてまわったのですが、ユーザーはもちろん、メーカーもまるでやる気を示さない。私はいまでもはっきり覚えていますよ。ソニーの井深大さんが『平松さん、あんた熱心にコンピュターの旗振りをされるけれど、やめた方がいいよ。アメリカにまかせた方がいい。あんなもの、日本ではとても無理だ』と懇々と諭された。私たちとしては国産コンピューターに対して、メーカーにもユーザーにも税金やいろんな面で思い切った特典を与えたのですが、はじめのうちは、まさに笛吹けど踊らずで

(岨)

したね」

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uわが国情報産業政策の展開過程と特質

そのための施策として、ソフトウェアの研究開発の推進、販売資金の確保、輸入依存度をIBMの国内生産も輸入として扱って五○%まで落とす、TIの進出不許可(’九六四年進出申請)といったことの他、重点機種を決め

(皿)

て一九七○年をメドとする長期の開発計画を構想した。一九六五年四月、ほぼ以上の内容を盛った電子工業審議会

(、)

ろ。

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れて、しばしばヒット商pmqD生糸出したのである。さらに重要なことは当時、急速に世界の覇者への成長過程にあった民生用エレクトロニクスが電算機の死命を制する半導体の生産と技術開発に広大な裾野を提供しつつあったことである。しかし、そのメリットが発揮されて、通産省のイニシャル・キックがシナーシズムを生み出すにはいましばらくの時を要したのである。

口第Ⅱ期・保護育成の本格化段階C九六五’七五)資本自由化も含めた全面的な開放体制への移行を真近にひかえた一九六四年、二つの衝撃的な出来事が起こった。一つはIBMが第一一一世代(ICを使用した三六○シリーズ)を発表したことで、ようやく追いつく見通しを得つつあったとき再び大きくひき離され、先端技術産業としてのこの産業の技術開発のテンポが容易ならぬことを痛感させられたことである。二つは、フランス最大の電算機企業、マシン・ブルがGEに買収されたことで米系多国籍企業の世界支配に抗することが、これまた容易ならぬことを痛感させられたことである。

通産省は、これらの出来事を深刻に受けとめざるを得なかった。省内でも一部にこれらの出来事をきっかけに、軍需を背景とした米国と比べ技術開発力や資金的裏付けの面でわが国は太刀打ちできる見込承がなく、電算機の育成には問題が多すぎるとの消極論も強まっていたが、技術の先導性、高付加価値率、外貨流出防止などの利点を重く承る重工業局を中心とする積極論が大勢を占め、本格的に育成策を強化していくことを改めて決意したのであ

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中間答申「電算機工業の国際競争力強化のための施策」が出され、その後の情報産業政策はこれに沿うかたちで精力的に展開されていくことになった。

しかも、このとききわめて好便なことに、通産省のこの試承を鼓吹するようなイデオロギーがブーム化に向っていたのである。マ〈ループの『知識産業』(一九六二)以来、アメリカで始まった「脱工業社会論」「情報(化)社会論」などの「未来学ブーム」が訪れてきつつあったのである。その情況について、「舞台まわしをつとめた人たち」(YTV情報産業技術グループ編、前掲、所収)はつぎのように紹介している。まず梅棹忠夫「情報産業論」(『放送朝日』一九六三年一月)がいち早く「農業の時代↓工業の時代↓情報産業の時代」という図式で「情報産業」を提起して注目を浴びた。これを直ちに再録して反応を示したのは、ビジネス界に新たに登場しつつあった企画・調査スタッフ族を愛読者層にもつ『中央公論・経営問題』であった。同誌は以後、

(理)

情報産業の布教の媒体として重要な役割を果たした。布教者には、南沢宜郎氏等EDP三羽ガラス、香山健一教授、そして小林宏治日電社長など多彩な顔ぶれを挙げるが、舞台まわしの演出者としての中核的役割を果たしていった

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のは「科学技術と経済の会」に陣どる七人のサムライであったという。同会は以後続灸と生まれるシンク・タンクの皮切りで、とくにその「未来部会」は学際的なタレントを集め、研究会活動やシンポジウムなどを通じて、強力な経済技術政策をテコに社会を革新的に「善循環」の方向に牽引していくというオブチミスティックな社会工学的

なテクノクラート思想を精力的に広めた、という。

それは通産官僚にも伝播し、その政策イデオロギーを重厚長大指向の経済ナショナリズムからこの軽薄短小指向の情報化社会論に徐々に変えさせていくことになった。もともと「発展指向型国家」の官僚として社会工学的テクノクラートである通産官僚がこのようなイデオロギーに共鳴するのは自然である。しかし、同時にこのとき、通産

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13わが国情報産業政策の展開過程と特質

官僚は、従来の彼等のイデオロギーを根底からくつがえされ、新たな救世主をこの「情報化社会論」に見出す他ないようにさせる大きな激しい衝撃を加えられつつあったのである。それは他でもない。従来の輸出・産業第一主義、就中重厚長大の公害たれ流し的成長第一主義は、生活・社会・自然環境の著しい破壊、汚染、さらに内なる人間的自然、アイデンティティの喪失をもたらし、それに対する激しい批判が市民・住民運動として噴き上がり、マスコミも同調して広範な国民的世論ともなる勢いを示していたのである。かくて「通産省は公害問題などを契機に生産拡大中心の産業政策は再検討すべき段階にきたとゑて、『未来学』を現実の政策運営に生かし、政治、生活、文化などとも関連づけた視野の広い『新産業政策』を確立する考えを示し、その手始めに省内の若手エコノミストを集

(皿)

め『産業未来学研究グループ』を組織し『二○年後の産業と人間』と題する長期展望図を作成することになった」この「産業政策の再検討」は一九六九年に新たに省内から集められた若手事務官を中心に組織された「政策研究会」によって約一年間にわたって全面的におこなわれた。「七○年代の通商産業政策」(産業構造審議会、中間答申、七一年五月)はそれが結実したものである。これは通産政策史上、かなり画期的な答申だといってよい。総論は格調高く調う、「今まで、われわれははるかな『坂の上の雲』を糸つめて細くけわしいひとすじの道をわき目もふらず

にのぼってきた。その努力の上に、日本経済は今、ひとつの峠に立って広い世界を承はるかすに至っている。……

、、、、今や国民の基礎的な欲望が充足される結果、たんなる『もの』ではなく、『より美しいもの』さらには、きれいな

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、水、澄んだ空気、住ゑよい都市、心づかいの行きとどいた国士、あるいは生活の安定感、仕事の充実感を求めて、

国民の欲望はまさに百花撹乱のおもむきを呈している。したがって産業は『もの』と公害とを同時併産してもよいというような単細胞的思考行動様式を離脱し、知恵の限りをつくして、この多彩な欲求に対応することが要求され

るに至っている。・・・…この答申の視界は必ずしも既成の通商産業省のかき根のうちに止まっていない。七○年代に

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広い展望をもち、共る(傍点は引用者)」ここに、われわれ

者、消費者、地域住 ここに、われわれは水、空気、都市、国士、生活の安定感、仕事の充実感などを汚染、破壊、剥奪された労働者、消費者、地域住民等が怒りを以って展開した諸之の社会運動が通産官僚に与えたインパクトの大きさをつぶさにゑることができよう。こうした反省のなかから、従来からの所得弾力性基準、生産性上昇率基準に、新たに過密・環境基準と勤労内容基準の二つを加えて戦略的に振興すべき産業として打ち出されてきたのが「知識集約型産業」であり、その最有力な柱として位置づけられたのが「情報産業」に他ならない。以上のように、第Ⅱ期に入って政策イデオロギーの再編を余儀なくされながら、むしろそれゆえに、通産官僚は、エレクトロニクス研究者、技術者、EDPスペシャリスト、未来学者・評論家、そして彼らによってリードされるシンク・タンク、諸審議会、諸振興協会等のつくり出すシナーシズムの中に自らを置きながら、さらにそれを増幅しつつ、情報産業の保護育成に「熱狂的」に邇進したのである。以下にその概略をゑておこう。

⑪対外障壁は依然として高く保ち続けた。電算機のハードウェア、ソフトウェア、半導体および周辺装置の自由化は、他の工業製品がつぎつぎに自由化されていくなかで、見送り続けた。たしかに、IBMの三六○シリーズの国内生産が一九六六年から始められるが、それは国産品と承なさず、部品、周辺装置などの輸入規制を通じて、輸入品と併わせてそのシェァーを一定の範囲に規制することも試ゑた。

②このような障壁のなかでの育成策として、「電振法」は一九六四年すでに延長が決められていたが、一九七一年に再び失効期限が迫ったとぎ、機械工業と電子工業の一体化をうたう「機雷法」(特定電子工業及び特定機械工 、、、、、、、、、、、、、、、おいては、通産省の承ならず、政府各省、地方自治体、企業、労働者、消費者、地域住民等国民各層が、それぞれ

、、、、、、、、、、広い展望をjもち、共通の立場をつくり、多角的連関、多元的均衡の新しいシステムを形成してゆくことが期待され

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15わが国情報産業政策の展開過程と特質

業振興臨時措置法)として再延長された。JECCへの財投も飛躍的に拡大して国産機の普及を図っていったことはいうまでもない。さらに注目すべきことは、FoNTAC開発の先例にならって、しかしはるかに規模を拡大させて、つぎつぎに官民一体の共同開発プロジェクトを推進したことである。〔超高性能電算機開発(一九六六’七二)〕一九六六年、国民経済上、緊急かつきわめて重要な技術であって、民間企業が単独では負担しきれないものを産業技術審議会の選定するところにしたがって、国が費用を負担して官民一体で開発することをねらった「大型工業技術開発制度(通称大型プロジェクト制度)」を発足させたが、これは、その第一弾として行われたものである。IBM三六○シリーズを超えるものの開発が目標とされ、電気試験所の協力を得て、富士通、日立、日電が本体、東芝、三菱、沖が周辺・入力装置を分担して開発にあたった。〔。〈ターン情報処理システム開発(一九七一’八○)〕これは右のプロジェクトを引き継いで、IBM三七○シリーズを越える第四世代の高性能電算機の開発を目指して一九七一年から一○年計画で始められた。〔電算機新機種開発促進補助金(一九七二’七六)〕以上のような大型プロジェクト制度によるものに加えて、七○年代の初め、厳しくなる日米貿易摩擦の中で、いよいよ七○年代半ばまでには自由化しなければならないことがはっきりしたとぎ、IBM三七○シリーズに対抗し得る新機種を緊急に開発することを狙って本補助金制度がつくられた。電算機本体、周辺装置、IC、ソフトウェアそれぞれの開発のための四極の補助金総計六八六億円(補助率五○%)という巨額の補助金が注ぎ込まれた。そのさい、この補助金をテコに国産メーカーを三つのグループ(富士通l日立、日電l東芝、三菱l沖)に集約することが行政指導された。結果的には必ずしもそうはならなかったが、通産省はさらに各グループ内での、またグループ間の特化をも構想していたようである。〔情報処理振興協会等に関する法律C九七○己通産省が改めて本格的に電算機の国産化を決意したとき、先に

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糸たように、ソフトウェアの開発が新たな課題として意識され始めたことは注目される。ハードウェアはプログラムがなければ動かない。機械が人間や社会の中に埋め込まれ、一定の機能を発揮するのには、必要とされる多種の機能に見合うだけ多種類の扱い易い、安価なプログラムが供給されねばならない。そうでない限り、電算機の普及は狭い限界にぶつかる。逆に、電算機の普及が進めば進むほど多様なソフトウェアが豊富に供給されるという好循環が生まれる。

通産省は、第Ⅱ期に入ると、この好循環を始動させるべく、前述した情報化社会の仕掛人たちとともに、トップ・マネジメントに、新スタッフ族に、そして自民党代議士に精力的に働きかけていった。それはMISブームと呼ばれるブーム現象さえ呼び起こし、嗅覚の発達した自民党代議士も情報産業促進議員連則に群がり始めた。こうしたシナーシズムの中で、それをさらに噸幅するべく制定されたのが本法である。

これは①電算機利用高度化計画の策定、②プログラム調査簿の作成と公表、③情報処理技術者試験の実施、④情報処理振興事業協会(IPA)の設立を規定しているが、とくに④が重要である。同協会は、政府と民間の共同出資と毎年の補助金によって、プログラムの委託開発およびその普及、情報処理に関する調査、情報処理振興金融措置融資制度に伴う債務保証を当初の事業として出発した。時を同じくして、電を公社も公衆データ通信サービスDRESS(販売在庫管理サービらを、翌一九七一年、DEMOS(科学技術計算サービス)を開始し、通信回線の第一次開放も行われる。こうして一九七○年が「情報化元年」を画するとされる。

しかし、通信回線の開放も、なお厳しい許可制の下での部分的なものにとどまり、「演出者」たちによって仕掛けられた異常なまでに高められたMISブームも実態が伴なわず、オイル・ショックを蒙るまでもなく自ら瓦解するなど、ここでもまた、「笛吹いても踊らず」の感が強かった。一九七○年代は、オプティミスティックな情報化

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17わが国情報産業政策の展開過程と特質

社会の到来とは全く逆に、第二次世界大戦後の相対的に安定的な世界治経済秩序が音をたてて崩れ始めたときで、

ニクソン・ショック(IMF・ドル体制の崩壊)、続いてかのオイル・ショックに襲われ、原材料、とくに資源・エネルギーの対外依存度のきわめて高かった日本経済は「狂乱インフレ」とそれに続く「トリレン三に翻弄され、油上の楼閣は一挙に崩れたかの感があった。国家と企業の存亡の危機とふた「憂国の士」たる通産官僚は、資源・エネルギーの確保を至上命令とする資源ナショナリズムに走る。それとともに「七○年代の通産政策」がみせていた労働者、消費者、地域住民への譲歩の余裕を失う。しかし、このような厳しい情勢の中でも、あるいは、むしろそうであるからこそ、自由化対雛として一段と強化された保護育成策は、少しの後退しなく貫徹され、少くともハードウェアについては、ついに「笛吹き」の期待に応えて踊り始めたといってよい。一九七四年中に、国産一一一グループは、それぞれIBM三七○シリーズ対抗機の開発に成功し、一九七四年IC、一九七五年電算機、一九七六年ソフトウェアが自由化されたときも、ほとんど負の

影響を受けることはなかったのである。

口ポスト自由化段階二九七五I)これからのリーディング産業とⅡした情報産業の中心機器をなす電算機の全面自由化をともかくも無事に乗り切ったものの、七○年代後半の世界は通産官僚の画く情報化社会の夢が実現の緒についたなどと楽観できる状況からほど遠かった。全体的情況についても、石油危機後全世界を覆ったスタグフレーションはますます深刻化し、国際

貿易、通貨秩序は混乱に陥ったままであった。その中で、日本経済のアキレス腱たる資源・エネルギー、就中、石油の安定的確保は、省をあげてのハッスル振りにもかかわらず、展望を見い出すことは難しかった。また、IBMとの対抗戦においても、IBMが第四世代のFSシリーズを近く発表するとの報が伝わり、三七○シリーズ対抗機

(18)

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を開発して間もない業界と通産省をあわてさせた。すぐさま、行政指導によって従来の三グループを二グループ(富士通l日立l三菱、日電l東芝、沖は端末機器を主力にしたメーカーとする)へとさらに集約するとともに、「次世代電算機用超LSI開発補助金」(一九七六’七九、二九一億円、補助率五○%)をテコに、通産省電子技術総合研究所、電電公社通信研究所の協力も得て、五社による「超LSI技術研究組合」をつくり、戦略的基本素

子たる超LSIの官民一体の共同開発プロジェクトを発足させた。次世代用OSを中心とするソフトウェアおよび周辺装置の開発のためにも、同じように、巨額の補助金をテコに、二つの研究組合をつくらせて共同開発を推進した。情報処理振興事業協会にも一九七六年から「ソフトウェア生産技術開発計画補助金」を与え、また、「機電法」が一九七八年に失効したときにも、今度はソフトウェアと一体的に振興を図ることを意図して「機情法」(特定機械・情報産業振興臨時措置法)へと引き継いだ。このように通産省は危機的状況を背景に、かえって精力的に施策

を展開した。

ところが、日本経済は、先進諸国が軒並糸深刻なスタグフレーションに苦しみ続けているなかで、一九七七’七

八年頃には、一部を除いて多くの経済指標において、相対的には著しい好転を示し、つづく第二次石油危機も比較的軽く乗り切ってしまった。また、情報産業についてゑても、少くともハードウェアについては、その後の推移は順調すぎるくらい順調であった。ICは一九七九年、電算機(関連機器を含む)は一九八一年、それぞれ出超に転

じ、国内市場では、富士通がつづいて日電が日本IBMの売上高を抜き去ってしまった。とくにICにおいては、MoSDRAMのような量産品においては、日本企業の独壇場になってしまったかの感がある。このような予想外ともいえる良好な成果は、業界、財界、そして通産省、さらには国民一般に日本経済に対する自信を生糸出さず

にはおかなかった。

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19わが国情報産業政策の展開過程と特質

「IBMと提携も、ASEAN通信衛星計画、〃純血〃一転、外資と共存へ、新たな摩擦防ぐ、通産省」の見出しのもと、「もはや国内でも海外でも、単に日本企業だけの利益を考えていくのでは通用しなくなった。……内外の企業の交流を活発にして、より高度の発展を考える時代だ(同省首脳)」(『日本経済新聞』一九七九・八・二○)

そのすぐ後に、「八○年代の通商産業政策のあり方いかん」との諮問が産業構造審議会になされ、翌年三月、同答申「八○年代の通産政策ビジョとを得る。これには、なお石油危機の衝撃が生々しく残っており、新たな国民経済目標として、①経済大国の国際的貢献、②「資源小国」の制約の克服、③「活力」と「ゆとり」の両立、の三 ある。 しかし、そのような日本経済の良好な成果、情報機器産業の順調すぎる推移こそが、同じく予想外に厳しい事態を生糸出すことになったのである。日本経済の良好な成果がまさに、インフレと失業、累積債務に苦しむ広範な諸国への大量の輸出に支えられることが多かったゆえに、対欧、対米、対アジアなどグローバルな摩擦を惹ぎ起してしまった。そのなかでも日米摩擦は、繊維から始まった日本の攻勢が、鉄鋼、電気機器、自動車と基幹産業に及び、いまやアメリカが絶対の自信をもち、かつ軍事的にも是非とも優位を確保しなければならない情報産業の一角にまで及んできたのだから、アメリカにとっても深刻であるが、そのような攻勢をかげている日本経済の成長自体がそのアメリカの隔絶した軍事力と経済力によって支えられてきた国際政治経済秩序のなかではじめて可能であっただけに、日本にとってもきわめて深刻な事態となったのである。この二つの予想を上回る事態に直面するなかで、通産省の政策イデオロギーに一定の変化が生まれてきたようで第一次石油危機の乘晦ような報道が承られる。 次石油危機の乗り切りがはっきりし、同時に、日米先端技術摩擦が始まって間しない一九七九年夏、つぎの

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つが掲げられるが、②が「最重要課題として積極的な取り組み」を要するものとされ、「経済安全保障」という鍵概念が提起される。具体的には、㈹石油・資源供給の多角化、備蓄、代替エネルギー開発、省エネルギーと、何「わが独自のバーゲーーング.、ハワーとして、頭脳資源を活用し、創造的な自主技術の開発を推進する」という「技術立国」のスローガンが掲げられ、いまた、①の「経済大国の国際的貢献」もこの概念の下で、「経済安全保障の糧ともなり、国益につながる」と把握しなおされる。内容としては、政治、外交、文化の各分野を含めた総合的視点が必要とされるとしながらも、経済的手段を中心とするとし、途上国への経済協力の積極化とともに、「関税を必要に応じて撤廃するぐらいの決意をもって自由貿易体制の維持と国際分業や国際間の産業協力を推進すること」

以後、基本的には、この『ビジョン』に沿って進められたといってよいが、力点の置かれ方やニュアンスに微妙

な変化も出てくる。すなわち、石油危機の緊迫性が後退するにつれ、一時の、アメリカの意向との多少の衝突も覚悟しながらすすめられた資源ナショナリズムの色彩が徐戈に薄くなるとともに、他方で、日米摩擦が険悪になるにつれ、アメリカの要求に譲歩するかたちで、自由化・開放化が急速に進められたのである。○「データ通信開放、通産、原則自由に転換」(『日本経済新聞』’九八一・六二七)I以後VAN事業の許可制、外資規制を主張する郵政省との間で新らたに生まれてきた情報産業に対する権限争いをからめた激しい「V

、、、AN戦争」が戦われた。六○年四月、事実上全面自由化に近いかたちで結末する。

○「先端技術で日米協力強化、政府助成プロジェクト、米系企業に開放、近く作業グループ、通産省提案」(『同』 が掲げられた。

一九八一一・三・一一一○)

○「先端技術の貿易拡大へ、日米作業部会が共同提言」(『同』一九八一一・一○・一一一一)

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、わが国情報産業政策の展開過程と特質

一九七七’七八年頃から半導体、電電公社調達資財について、アメリカ業界、議会、政府は、①日本の市場は、系列関係、取引慣行など産業組織のあり方そのもの、あるいは諸規格や輸入手続きなどが非関税障壁となっていて、アメリカ企業に対して開放されていない。②日本政府は、戦略産業を意図的に選んで、強力な助成策を構じてきたが、それがアメリカ産業を脅かす基礎になっているなど、市場メカニズムを極度に重視する立場から、日本の産業組織および産業政策を真向うから不公正なものとして批判し始めた。それに対して、日本側は、①自由化以降、日本の市場は十分に開らかれており、残存輸入障壁は存在しない。②研究開発、投資面での政府助成は、日本の承たらず各国とも行なっているもので、むしろアメリカの方がはるかに手厚い。政府による業界再編成、カルテル指

(妬)

示は、半導体に関するかぎり、過去、現在とも一切ない、などの反論を加』えていた。このような問題の抜本的な解決を探り出そうとして、通産省とUSTRの間で設置されたのが先端技術作業部会で、七月から開始されていた。その共同提言は、後掲の概要にみられるとうりであるが、つぎの点で注目される。①市場への参入の機会は実質的に同等になるように開放すると、日本市場の開放を約していること、②先端技術産業は、世界経済の再活性化、人類の生活の質的向上をもたらし得るものと認識し、それを促進する国家の政策の重要性を確認しあうとともに、それをアメリカ企業にも開放するとしたことである。

日米相互の理解を増進させ、先端技術産業なかんづく半導体、スーパーコンピュータ、光ファイバーの分野における当面の問題の検討から作業を開始した。 日米先端技術産業作業部会提言の概要(抄)一九八二年一○月(一九八三年二月政府承認)

(22)

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ここには、もはや、つい今し方まで通産省を衝き動かしていた明治以来の強烈なナショナリズムは影をひそめ、世界経済の再活性化のためにアメリカ企業へ門戸を開きながら先端技術開発のプロジェクトを推進していく、「世 ○共同研究開発、技術交流等によって、先端技術産業の発展が図られるような方途を共に探究。○政府助成R&Dプロジェクトの外資系国内企業への開放。 (目的と手段)○先端技術産業は、経済のフロンティアを拡大し、世界経済の再活性化をもたらすとともに、人類の生活の質的向上をもたら○民間部門の投資及び研究の環境を整備するための政府の重要な役割を認識するとともに、先端技術産業に関係する政府の行為によりもたらされる恐れのある貿易、投資及び技術移転に関するゆが糸を最小化する責任を認識する。○市場ルールの遵守及び反競争的行為の除去(自由な貿易、投資、技術移転)○十分な貿易及び投資の機会を相互に保証○貿易の阻害要因又は障壁が存在する場合には、これを軽減、撤廃するよう努力○両国市場の参入の機会は実質的に同等であることを保証。民間部門と政府の前向きの行動により、機会の拡大は参入の拡大につながることが期待され得る。○政府又は民間による先端技術製品若しくはサービスの調達又は技術移転を直接的にも間接的にも阻害せず。○企業に便益を与えるような施策の外資系国内企業への開放三、具体的措置(略) 本部会は、ここ、原

しうる。

(国際協力) これまでの議論に基づき、日米両国政府機関に以下の提言を行う。

(出所)日本電子工業会『ICガイドブック』

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23わが国情報産業政策の展開過程と特質

(妬)

界経済活性化指向型国家」となったかの観がある。通産省の姿勢のこのようなドラマチックな転換は、日本企業の多国籍化とともに、さぎに指摘したような日本企業ないし日本経済の活力に満ちた発展力に対する自信に支えられている。しかし、また、日米摩擦の深刻化を前にして、アメリカに代って自由世界の盟主たり得ず、自らの得たものを保守するためには、アメリカの要請に応えていくしかない日本が一歩々々譲歩を重ねていった結果でもある。

その後、「経済大国の国際的貢献」の内容は、さらに変化したようである。○「武器輸出三原則を修正、米武器技術供与で政府見解、紛争時含め無条件、『同盟のあかし』」(『日本経済新聞』一九八三・一・一四、一九八一年六月以来の懸案で通産省は難色を示していた)さて、以上が「世界経済活性化指向型国家」の対外的特徴だとすれば、その国内的特徴は、世界経済活性化の手始めとして、また前提条件を整えるものとして、国内経済の活性化政策を精力的に推進し始めたことであろう。

産業構造審議会情報部会答申「豊かなる情報化社会への道標」C九八一・六)は、まず、「国民に活力とゆとりある社会を保障する唯一の道は情報化である」と認識し、「これまでの情報化は、産業分野とくに製造業を中心に経済効率の追求を主軸に展開してきた。しかし、これからの情報化の波は社会へ、また佃を人の家庭生活へおよび、多彩な便益が提供され、人間の活動分野に新しいフロンティアが關らかれていく」という。かくて、通産省は、一方で、前述のIBM・FS対抗機の開発助成に続けて、次世代産業基盤技術研究開発制度(超格子素子以下の長期プロジェクト)、第五世代電算機開発機構、基盤技術研究促進センター等情報産業のための基盤技術の研究開発を促進する制度や機構を続々と創設していく。他方で、その先端技術を生かして、また生かせるように経済社会を組糸替えて、「情報化を点から面」へ広げてゆく「第二次情報化革命」を促進するために、テクノポリス構想、ニューメディア・コミュニティ構想を精力的に推進している。通産省の承ならず、情報化時代を迎えて勢いに乗る郵政

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以上、ごく簡単に情報産業に対する通産省の産業政策の推移を辿ってきたが、はじめに指摘したように、今井教授によって、それは「第二世代」とも「第三世代」とも異なる、むしろそれを止揚したような新たな分析枠組の下

(”)

で高く評価されている。その要点は、われわれの整理によれば、つぎのようにい膳えよう。保護育成政策は、世界的独占を狙うIBMに対する対抗力の形成という観点から、また技術開発政策は、その学習過程の大きさからも、また不確性の大きさといったことからも、個々の企業の負担能力を越え、しかも社会的利

、、、益を生糸出すとすれば、政府の介入は、一応は正当化される可能性がある。しかし、問題は政府の介入の仕方にあり、なんでもよいというものではない(集権的指令型経済には問題があると考えるわれわれも十分同調し得る)。「市場と組織の相互浸透」ないし「市場の二ポリューションを導く誘導的政策」という、市場のダイナミズムを生かし、それを誘導するような仕方でなされねばないが、日本の情報産業政策のぱあい、その多くはまさにそうであったと評されるのである。例えば、市場の中に、時間と対象を限定し、競争制限をもたらさないかたちで組織を導入することができた成功例として「超LSI技術研究組合」(一九七六’七九)を挙げ、開発テーマのうち二○%にあたる基礎的・共通部分は五社および電子技術総合研究所からの出向者からなる共同研究所で行なわれ、残りの八○%については、実質的には五社がそれぞれ目社に持ち帰えって研究が行なわれ、開発された各種の要素技術を 省も、通産省に張り合ってテレトピァ構想に熱をあげる。その他建設省、国土庁、そして各自治体も競ってこのシナーシズムの中に身を投じようとしている。一九八五年四月の通信回線開放、電電公社の民営化(NTT)がそれにはずゑをつけるイーーシャル・キックであったことは、いうまでもあるまい。

三産業政策の評価と分析枠組についての若干の検討

(25)

25わが国情報産業政策の展開過程と特質

第1図超LSI技術研究組合におけ

伽反映させ、了承をうるとともに、それに基づいて必要と考えられる技術開

轤て詳細な展望作業やシナリオづくりを行う。それらの結果を審議会報告に

煩て対象として選ばれた産業および関連産業の企業に属する専門家を動員し

。 もつ学識者の意見をも参照しつつ、基本的な方向づけを行う。それに伴っ ィブと経済的インパクトにかんして将来の展望を示しうる『強い知識』を テンシャルの高い分野を戦略的に選び出す、どの分野をどういう内容で選択するかに関しては技術のパースペクテ また「誘導的性格」について、つぎのように述べられる、「まず、技術開発の面からみて、イノベーションのポ を示される。 それぞれの戦略によって取り入れ、製品としては差別化された独自のものを開発したとして第1図のような理念図

基礎的・共通的部分

(研究所)

イブと経済的インパクトにかんして将来の展望を示しうる『強い知識』を

もつ学識者の意見をも参照しつつ、基本的な方向づけを行う。それに伴っ。

煩て対象として選ばれた産業および関連産業の企業に属する専門家を動員し

糖て詳細な展望作業やシナリオづくりを行う。それらの結果を審議会報告に 』側反映させ、了承をうるとともに、それに基づいて必要と考えられる技術開 鵬発に対して「呼び水」的役割をもつ助成を行い、その産業における研究開

崎発集約度を高める方向を誘導する。研究開発集約度が一周まれば、その過程

立で技術開発のポテンシャルはさらに増大し、民間企業の期待を変え、さら 鍬に研究開発投資を誘発することになり、かくて産業発展のそれ自身のダィ (出) 一利ナミズムが形成される」 網とくに、テクノポリス構想に代表されるような最近のニューメディア政 今策は、公共的な要素と市場的な要素を地域に密着したかたちで分散的シス

師テム化しつつ、以上のようなエポリューショナリな過程にイニシャル・キ

くツクを与え、先端技術を生かす経済社会の新たな仕組承を創っていくもの

(26)

26

としてきわめて高く評価される。

いま、価値判断を控え、事実認識という点からふれば、われわれもまた、対IBM対抗力の形成や情報産業の今日的展開について、産業政策が大いに貢献したこと、またその政策が市場機構(われわれにいわせれば、それを表層とする資本蓄積機構)のダイナミズムに相互浸透的に(たとえ通産省が当初、より統制的な構想をもっていたと

しても、関係者に根回わしをするうちに市場と親和的になる例は枚挙に暇がない)、また、きわめて誘導的に行なわれたことにも十分同意することができる。むしろ、前節は、あげて情報産業のエボリューショナリな展開をシナーシスムの増幅のうちに誘導しようとする通産省の精力的なイニシャル・キックのあとを辿ったものであった。ただ、われわれは、イーーシャル・キックがどのようにして、どのような方向に蹴られたのか、ということに注意を集

中した。従来の業績を補完する意味もあるが、それだけではない。今井教授が「日本の産業政策が意図するとしな

(四)

いにかかわらず、成長産業育成という結果になったことは決して非難きるべきことでない」「日本の産業発展は、

(釦)

基本的には市場機構に基づくものであったが、産業政策はそれを加速する方向に作用した」といわれるとき、あたかも市場が自立的に産業発展の方向を決めるという前提が置かかれているのではないかと懸念されるからである。たしかに、市場(資本)は世界を自らの欲する方向に創り変えていこうとする自立(律)的傾向をもつ(われわれなりにいえば、それを明らかにするのが「経済学原理論」であり、それなりに意味をもsoしかし、例えば今日

の情報産業や原子力産業の出現は第二次世界大戦や冷戦体制という政治的契機を無くしては考えられないことは誰

にも明白であって改めて論証するまでもないであろう。そうだとすれば、われわれは、通産官僚の政策イデオロギーも含めて、どのような方向にイニシャル・キックが蹴られたか、またその方向はいかなる構造によって選択され

てくるのかを問題にしなければなるまい。そして、もし、イニシャル・キックが市場と親和的に蹴られることが多

(27)

27わが国情報産業政策の展開過程と特質

かつたとすれば、それをもたらしたダイナミズムを求めて、より大きな分析枠組の中に相対化しなければならない。勿論、それは容易なことではなく、相対化は限りがなくなる恐れもある。前節のフォローもその第一着手に他ならないが、政策展開の全体像を追うのに急すぎた。ここで、それを補足する意味で、流れの中の適当な点を選んで、もう一歩だけ立ち入ってふることにしたい。点として選んだのは、専ら便宜の上から「電振法」とその後継法およ

び「情報処理振興事業協会等に関する法律」形成の一駒である。H「電振法」成立の経緯については前節で少し触れたが、じつは必ずしもスムーズに運んだわけではない。通産省が各方面と接衝を重ねて最終案を省議決定した後も、自民党、関係業界、政府内部にl権限争いを底流にからませてl電子技術は原子力と並んで今後の産業の発達を左右する重要な問題であり、技術の振興が基礎になければならず、またその応用分野が広いので大局的見地から政党、政府関係当局、学界、業界が一体となってつくりあげるべきだという批判が承られた。結局、基礎的かつ広い立場からの電子技術振興と「電振法」との二本立てということになり、通産省はすぐにまとまりそうしない一般的な方は科学技術庁に委ね、きわめて具体的な「電振

(皿)

法」をいち早くつくったのである。省庁間の権限争いにおける好戦性、その立法がきわめて具体的限定的な対象とプレッシャー・グループをもち、機動的なことは通産省の政策形成における一貫した特徴である。「電振法案」は、かくて参議院先議で、議会に提出されたが、そこで問題になったのは、主として中小企業への配慮の必要性ということであった。電子工業の振興は与野党が一致して望むところであり、中小企業振興について

(犯)

の自民・社会辻〈同提案の付帯決議をつけて、きわめてスムースに可決成立した。ロ一九六四年の同法延長についても、衆議院、商工委員会で、共産党の議員が電子工業振興に基本的に賛成であるとしながらも、これからの産業として振興される電子工業における労務管理の厳しさを(日電を例にあげて)

(28)

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口さて、一九七○年の「情報処理振興事業協会法」のぱあいはどうか。たしかに若干、異なってくる。「七○年代の通産政策」を模索させるに至ったところの、公害問題をはじめとするさまざまな問題の進展を背景に、また現実に進行してきたコンピューター化がもたらす問題を背景に議会の商工委員会での議論も活発になってくる。野党は勿論与党議員のなかからも情報化社会の暗い面、例えば人間疎外やテクノクラートとその他の人ミとくに中高年令者層や急激な情報化に応じて生じてきた失業者の問題、またプライバシー侵害の問題も指摘されるに至った。社会党推薦の参考人として全電通の役員もつぎのような意見を述べる.情報化に向けての八三原則Vlすなわち①平和利用、国民生活に関連する問題の解決のためのシステムが優先されるべきだ、②情報処理システムのあり方、運営については、民主的な機構をもって計画、管理、運営していかねばならない、③プライバシーの保護など基本的人権を保障し、人間疎外に対処するため、あらかじめ十分な配慮が必要であるlに沿って、情報基本法をまず制定し、国全体としてコンピューターによる情報公害をひきおこさないような体制をつくりあげた上で、国および民間の総力を上げてソフトウェアの開発に力を注ぐべきだ。こういう体制をつくり上ずることがいわゆる日本とアメリカのコンピューター・ギャップというものを解消する唯一の道である。現在は企業サイドのアプローチの承が

共産党議員からも、オートメーション、情報化は社会主義社会でも十分いかされねばならないとした上で、国民生活の向上のためには、公害問題、予防衛生、防災、交通事故、都市計画などの解決のためのプログラム開発が優先されるべきである。そのためには民主的運営が必要で、日本学術会議のような機関にはかったり、そのような学

(弘)

先行している。 延長される。

(調)

問題にするが、他の政党は皆Iただし、中小企業に配慮を要請したがら’より多くの振興を求め、スムースに

(29)

29わが国情報産業政策の展開過程と特質

円翌一九七一年電振法の再☆延長法としての「機電法」のさいも、「情報処理振興事業協会法」のときと同様、さまざまな問題が提起されるが、電算機の全面自由化の時期が迫まるのを前にして、やはり、つぎのような四党共

同提案による付帯決議をつげて全会一致で可決する。

(弱)

識者に審議会に入ってjもらわねばならない、などの意見が出された。

しかし、それ等の意見は、目、社、公、民四党共同提案の、つぎのような付帯決議に吸収され、若干の字句の修正(「目的」として「国民経済の発展」のつぎに「国民生活の向上」を加える。審議会の委員について、「専門的な

知識をもつ者」を「学識経験者」に代える)程度で、通産省の原案が、ほぼそのまま全会一致で可決成立する。

③審議会における公正な審議を企る。 ②中堅・中小の体質強化 付帯決議①資本自由化の進展に対応して技術開発力を一層促進、外資対策は遺憾なきを企る ①情報基本法を早急に制定する②情報の民主的かつ平和的利用、国民に対する公開及び基本的人権の保障に留意する③標準化、情報技術者の養成④行政機関における電算機の統合利用、共同利用を極力推進⑤中小企業における電算機利用、プログラムの開発の推進 付帯決議

(30)

30

第2図政策課題選別フィルター理念図

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以上のような立法過程のほんの一コマをみただけでも容易に窺えるように、現実にはさまざまな問題、政策課題が噴出しているが、じつはその多くは幾層ものフィルターにかけられて怖

い落とされ、特定の問題、

課題のみが選び出されてく

るのである。

〔フィルター①〕ほとんどの法律案は政府提出であ

り、議員提出は稀である。

右記の法案はすべて政府提川であり、「電振法」の成

立過程などから窺えるよう

に、イニシャティブがどこ

から出てこようと、「法案」

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