九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
列国議会同盟(IPU)と帝国日本
伊東, かおり
http://hdl.handle.net/2324/2235991
出版情報:九州大学, 2018, 博士(文学), 課程博士 バージョン:
権利関係:やむを得ない事由により本文ファイル非公開 (3)
(様式3)
氏 名 :伊東 かおり
論 文 名 :列国議会同盟( IPU )と帝国日本 区 分 :甲
論 文 内 容 の 要 旨
本論文は、帝国議会と主権国国会議員の国際組織である列国議会同盟(IPU)の関係史を実 証的に検討し、近年活発化する議員外交を日本近現代史の中に位置づけてその意義を問う。
第1章では、1908年の衆議院の単独加盟(貴族院は1928年加盟)の経緯を追う。特に、院 内の国民主義的対外硬派議員の動向に注目し、従来の政府や官僚中心の外交のあり方を批判し、
議員が独自の外交ルートを形成する意図が加盟の背景にあることを明らかにする。IPU総会に 派遣された議員は、視察などで得た情報を、帝国議会で「体験」の優位性をもって政府の外交 政策への追及に利用した。またIPU総会では、米国議員との間で排日問題を協議する目的で、
日米部会を設立した。反面、IPUが目指した理想主義的な平和実現への取り組みは、海峡運河 中立問題などをめぐり、日本議員団のナショナリズムと鋭く対立する事態となる。
第2章は、海峡運河中立問題などで対日関係の不安を抱いたランゲIPU事務局長が、IPUを 経済面で支援していたカーネギー財団の日本通信員宮岡恒次郎に依頼し、宮岡を仲介役にIPU と帝国議会の間に形成された「非公式」(non-official way)ルートの形成を検討する。そして、
気迫となったIPUと帝国議会の関係の維持・再構築に努めた、宮岡の行動を明らかにする。宮 岡は、衆議院を国際的な人材に乏しいと睨み、国際経験の豊富な議員を有する貴族院の方が、
貴族的サロン的雰囲気を多分に含むIPUとの関係に適切であると考え、自身の人脈を使い貴族 院の加盟を促した。宮岡が理想とした議員外交の姿は、外交の民主化やデモクラシーの潮流の 中でイメージとして語られる「議員外交」や「国民外交」とは一線を画すものであり、同時に 日本議員団がはらむ矛盾を的確についたものである。
第3章は、戦間期における帝国議会の議員外交の様態について論じる。帝国議会は大戦中、
貴族院を中心にIPUとは別の国会議員の組織である万国議員商事会に加盟する。連合国間の経 済関係構築や、大戦後の国際情勢を見据えて院内の議論を深めることが、加盟の動機であった。
やがて、1930年代に入ると、両院がIPU・商事会の双方に代表団を派遣するようになったが、
このうち衆議院からは、議員経験の浅い若手議員が派遣される傾向にあり、IPUや商事会議は
国際問題を討議するだけでなく、議員が国際経験や国際感覚を得る機会となっていく。一方、
大戦後は東欧や南米からの加盟が増加し、西欧・北米の議員が中心のサロン的組織だったIPU も、多様な地域の代表が国際問題を研究・討議するグローバルな機構へと変化する。IPUの組 織的変化は、日本の議員にも少なからず影響を与えることになる。
第4章では、戦間期にIPUに最も深く関与した議員、中村嘉寿を取り上げ、中村が「国際派」
議員として取り組んだ諸活動とその背景について検討する。米国での排日論の高まりと日本移 民の不遇を危惧した中村は、IPU総会で自ら演壇に立って日本の平和的・協調的立場を主張す るとともに、会議を通して各国政治家との人脈を広げていき、自らの「国民外交」遂行に用い た。また中村は特に南米への移民に関心を持ち、商事会議でブラジル議員と親しくなったこと をきっかけに移民奨励に積極的に取り組んだ。これらの活動により中村は「国際派」議員の名 声を獲得していくが、強固な地盤を築くのに苦労し、選挙では厳しい戦いを迫られることが多 かった。中村の選挙戦では、北米の鹿児島県人会が中村の支援広告を打つという、地元の選挙 運動にかかわる出移民の政治行動が確認される。その一方で、「国際派」の看板が、選挙で食い 合う状態も見られた。国際主義やグローバリズムの広がりとともに、議員にとって移民などの 国際問題は、自身の選挙基盤とも密接に関係するものだったのである。
第5章では、国際協調体制の動揺期におけるIPUと日本議員について考察する。日本の聯盟 離脱は、直後にIPUでの委任統治問題をめぐる緊張を引き起こした。日本議員は関係各省と対 策を講じて総会に臨み、決議案撤回を画策する一方、前年にイタリア議員団が脱退を表明して いたにも関わらず、早い段階でIPUに留まることを確認していた。危機の時代において、帝国 議会はIPUとの関係を失わなかったのである。他方、国際関係が緊迫し「議会主義の危機」が 懸念される中で、日本代表団は日本の「議会主義」を強調し、日本に対する国際世論の「誤解」
を解こうと努めた。こうした試みは1940年東京総会誘致に結実する。結果は不成功に終わる が、「議会主義」は日本議員にとって、反枢軸国の代表団に対し、共通の政治体制の枠組みから 日本への印象を改善させ、理解を得るための思想的枠組みとなったのである。