京 都
︵史 跡 大 覚 寺 御 所 跡 ︶
所在 地 一 爪都 市 右京 L区 峨 大 沢 町 調査 期間 一九 八八 年︵昭 63︶ 月七 ぞ 八月 掘発 機 関
∩ 大覚 寺 調査 担 当者 本中 真
︵奈 良 国 立文 化財 研 所究
︶・ 磯野 浩光
全爪 都府 教育 庁︶ 仲︒ 隆 裕
︵京 都 市文 化観 光 局︶ 5 遺跡
の種 類 官殿 跡
︒寺 院 跡 6 遺跡
の年 代 八 世 紀i 中世 7 遺跡 及び 木簡 出 土遺 構 概の 要 大 覚寺 は︑ 京 都 盆地 西北 部 の風 光 娼明 な崚 野峨 に位 置す る︒ 平安 京 遷 都
︵七 九四 年︶ 後
︑ 皇 族
・貴 族 は
︑ し ば し ば 嵯 峨 野 周 辺 に 遊 猟 し
︑ 山 荘 な ど を 営 ん で い た︒ 特 に こ の地 を 好 ん だ L 峨 天 皇 は
︑ 山 荘 を 離 官
・蛙 峨 院 と し
︑ た び た び 文 人 ら と と も に
︑ こ の離 官 で
︑ 賦 詩
︒奏 楽 な ど を 催 し た こ と が
︑ 史 料 に 散 見 し
て いる
︒ こ のL 峨 院 は 一時 退転 す るが 九︑ 世紀 後 半 に大 覚 寺 とな っ た も ので あ る︒ 現在
の大 覚寺 境内 の大 沢池 や︑ 藤 原 公任 の 滝﹁ の音 は 絶 えて 久 くし な り ぬれ ど 名 そこ 流 れ て な ほ聞 こえ けれ
﹂ 翁拾 遺集 巻﹄ 八第
︶ の歌 有で 名 名な 古 曽滝 跡 は︑ こ のL 峨 院 の遺 跡 の 一部 と考 えら れて おり
︑ 平安 時代 初 期 の数 少 な い現 存 す る庭 遺園 構 とし て︑ 現 境内 を含 め て︑ 国 の史 跡 大︵ 寺覚 御所 跡︶ と名 勝
︵大 沢池 附名 古曽 滝跡
︶に 指 定 さ てれ いる
︒ 大覚 寺 はで 名︑ 古曽 滝跡 から 大沢 池 北岸
一帯 の環 境整 備 を計 画 し︑ 復 原整 備 のた め の基 礎 資料 を得 る ため に︑ 一 九 八 四年 度 から 国庫 補 助 を得 て毎 年 掘発 調査 を継 続 し てお り︑ 一 九 八八 年 度 の第 次五 調査 に至 り初 め て木 簡 出が 上し た︒ 第 一次 i第 四次 調 査 では
︑ 名古 曽 滝跡 南側 で︑ 礫 敷 の護 岸 に適 宜 景石 を配 たし 平安 時 代 から 中 世 に至 る遣 り 水 の痕 跡
︵長 さ約
〇四 已 を検 出し た︒ ま たそ の南 東 はで
︑ 大 量 の平 安時 代 の遺 物
︵瓦 類︑ 釉緑 陶器 など を︶ 含 大む 溝 と ︑
こ の大 溝 の大 沢池
のへ 注 ぎ 口な をど 検 出 した
︒ こ の大 溝 の注 ぎ 口は
︑ 平安 時代 に少 くな と も三 回改 修 され て お り︑ 護 岸 や景 石 の様 子 から L峨 廃 の造 り 水を 踏 襲 した も ので あ る 能可 性 は極 め て高 い︒ 第 五次 調査 は︑ 上記 の大 溝 の大 沢池
への 注ぎ
の口 上流
︵北 部︶ 分を 検 出し たも ので あ る︒ 過年 度 の成 果 と合 わ るせ と︑ こ の大 溝 は緩 や か に蛇 行 す るも ので 注︑ ぎ 口か ら 上流
へ長 さ 五〇 m弱 検が 出 され た
4321
嵯 さ 峨♂
院冴 跡
(京都西北部)
こと とな る︒ こ の大 溝 の注 ぎ 口で は︑ 修 景 たし 痕 跡 が認 め ら るれ も の の︑ 上流 の大 半 は素 掘り の溝 で︑ のこ 時 期 の庭 園 にお け る遺 水 の 工法 に新 し い知 見 を 加 たえ
︒ また こ の大 溝 から は︑ 遺物 が大 量 に出 上し てお り︑ 現 在整 理作 業 中 であ るが 主︑ 遺な 物 は︑ 木 簡 二 一点
・ 墨書 土器 十 数点
のほ か︑ 緑 釉陶 器
・土 類器
・瓦 類
・木 製 品 など コン テ ナ約 四〇 箱 分 であ る︒ 木 簡 は全 て大 溝 の黒 色粕 土層 から 出上 し︑ 伴 出 土器 の年 代 から 九 世 紀前 半 のも のと 考 えら るれ が︑ 残念 な がら て全 折 損
・腐 食 が著 し く︑ 赤外 線 カ メラ で かろ う じ て判 読 でき る状 態 のも ので あ る︒ 8 木 筒 の釈 文
・内 容
① 薬 用 所
︵υ 大 こ 溢 Φ留
︹飯
≧
② 御 厩 請
□
︵ e 入 じ
溢 Φ 黎
③
□ 廣 国
︵ O 溢 蓑
﹃ o 解
④ 等 料
︵SじxOじ×︺Φ曽
0 右
□ 明 3︵ 溢 賀 μ o留
⑦
・□ 衆 料
□
︒□ 回 弐
□
□
︵こ 入 じ 赴 Φ留
⑪ は︑ 薬 関係 の官 司 に係 わ る木 筒 であ る 可能 性 高が く︑
② は︑ 嵯 峨 院 の家 政 機関 と関 係 あが るか も しれ な い︒ そ のほ か︑ 墨 書 器土 の 中 には
﹁供 御﹂ の文 字 を記 し たも の
︵杯 の破 片︶ や︑
﹁□
文
□
□□
□
︹供と
/右 件 請供
/国
□ 束□ 口
/口
□ 口﹂
︒﹁□
申請
□
/回 事
/国
□□
□
﹂ な 文ど 書 を習 書 し もた の
︵土師 器皿 破の
︶片 など 出が 上し て いる
︒ のこ よう に︑ 木簡 や 墨書 器土 の出 上 によ り︑ 前 述 の大 溝 九が 世紀 前 半 の嵯 峨院
の庭 園遺 構
︵遺り
︶水 を踏 襲 した も ので あ る可 能 性が ま す ます 高く な たっ
︒ な お︑ 木 衝
・墨 書 土器 の判 読 に際 し ては 奈︑ 良 目立 化文 財 研究 所 の多 大 の御 功力 を得 た︒ 9 関係 文献 大覚 寺
﹃史 跡大 覚 寺 御所 跡 発 掘 調査 概 報﹄ 全 九八 六年
︵磯 ︶ 野浩 光︶ 1988年 出上 の木 簡
(5)
□ 子 嶋 回
□
︹廣
≧ 小
□
□
︵いΦ︶×︵中滓︶×や 〇∞ド
︹納
︺ヵ
□
□
□
□ 物