各 社 競 作 ﹃ 毒 草 ﹄ に 見 る 大 正 六 年 の 日 本 映 画 界

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はじめに  菊池幽芳原作の﹃毒草﹄は︑大正五年七月一四日から大正六年二月一〇日まで﹃大阪毎日新聞﹄﹃東京日日新聞﹄に連載された大衆小説であり︑連載終了翌日には︑大阪・浪花座︑楽天地︑八千代座などにおいて旧劇︑連鎖劇として︑また市内朝日座では日活製作の映画 が上映され人気を博した︒そして︑この勢いに乗じるべく東京においても翌三月︑各社競作による﹃毒草﹄が同時公開されたものである︒大正六年当時︑新聞連載小説を原作とした映画と演劇が同時に公開されるのは︑その人気の相乗効果を狙う手法として既に一般化していた︒しかし︑﹃毒草﹄のように︑日活︑天活︑小林商会という当時の日本映画界を牽引していた製作三会社に︑連鎖劇︑新派劇︑旧派劇︑さらに喜劇までを巻き込んでの競作が︑日を違えず同日に公開されるという現象は映画︑演劇史上類を 見ないことであったと言える︒

  各社競作の﹃毒草﹄は︑同じ原作を元に製作されたものであったが︑日活においては︑人気女形スター・立花貞二郎を主演とした日活向島独自の新派劇として︑小林商会においては︑井上正夫による革新的な映画と連鎖劇として︑また大阪小坂製作の天活作品は︑楽天地で上演された連鎖劇を映画へと引き写したものとして上映・上演され︑いずれも各社︑各劇場の個性を反映する作品となった︒ここに見られる個性は︑日本映画の草創期から継承された慣習の結果とも言えるものであったが︑﹃毒草﹄の公開された大正六年から七年にかけ日本映画界は大きく変動︑映画革新の道へと向かう︒大正六年を最後に︑日本映画はようやくその創業期から脱する試みを開始するのである︒

  本稿の目的は︑各社競作﹃毒草﹄の考察を通じて︑連鎖劇の流行と井上正夫の活躍が映画を革新へと導き始めた大正六

各 社 競 作 ﹃ 毒 草 ﹄ に 見 る 大 正 六 年 の 日 本 映 画 界

          ︱ ︱ 連 鎖 劇 の 流 行 と 日 活 向 島 撮 影 所 ︱ ︱

谷   口   紀   枝

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年における日本映画界の動向を確認し︑その渦中にあった国内各製作会社と日活向島の作品傾向を比較することで︑向島撮影所の固有性を再考︑独自の方向から映画革新へと向かう日活向島の道筋を検証するものである︒

一、各社競作『毒草』

  大正六年の日本映画界において最も特徴的な出来事の一つに連鎖劇の流行が上げられる︒連鎖劇とは演劇の実演と映画の上映とを交互に行う公演で︑日露戦争時︑真砂座において伊井蓉峰一座が始めたのがその発端といわれる ︒これは演劇の間に︑戦争の実写映像を挿入させたものであったが︑明治後半には︑吉沢商店により映画の合間に実演を挟む形態のものが﹁実物応用活動写真﹂と呼ばれ興行された︒﹁連鎖劇﹂という名称は︑大正に入り︑大阪で山崎長之輔一座による演劇の合間に映像を見せる公演が人気を博し定着したものである︒大阪における連鎖劇は主に︑旧福宝堂出身で小林喜三郎と共に天活を創業した山川吉太郎が設立した東洋商会︑旧エム・パテーの従業員により運営された敷島商会で製作された︒東京における連鎖劇は︑大阪での人気に目を付けた小林により持ち込まれ︑その派手な興行により流行したものである︒小林は︑福宝堂時代に﹃ジゴマ﹄の大成功で知られた興行者であった︒

  大正元年︑国内映画製作四会社の合併により日活が創設さ れ︑新たな風が吹いたかに見えた日本映画界であったが︑小林のように社風に合わず新会社を設立するものが続出し︑小映画会社が林立する事態を生んだ︒元より日活発足後も︑旧吉沢系従業員は向島撮影所において︑旧横田系は京都において従来通りの映画製作を継続しており︑新会社を創業したのは主に最後まで合併を渋った旧福宝堂系の社員達だった︒経済的破綻から規模を縮小させることを余儀なくされたエム・パテーを除く︑吉沢︑横田︑福宝堂の旧三社は︑日活発足後もその製作︑配給︑興行において旧慣習を保持し続け︑その旧習は各劇場にも痕跡を残していたのである︒

  ここではまず︑﹃毒草﹄の上映・上演された劇場の由縁と上映された作品の傾向を確認し︑各社競作映画・演劇・連鎖劇﹃毒草﹄がどのような特徴を持つものであったかを検証する

オペラ館【映画】日活向島 監督小口忠  脚本桝本清  撮影藤原幸三郎  長五巻  お品立花貞二郎  吉蔵大村正雄  お源五月操  お仙二島竹松  土手の福横山運平  紫山水島亮太郎

  浅草オペラ館は︑娘都踊りで知られた日本館を改築して︑明治四二年五月に開館︑当初はM・パテー商会製作の映画を上映していたが︑明治四三年一月より吉沢商店の専属館と

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なった︒後に人気を博す連鎖劇は︑明治四二年頃には︑﹁実物応用活動写真﹂として吉沢商店により︑巻野憲二一座等の出演で上演されたが︑その後連鎖劇へとは発達しなかった︒オペラ館においては当初︑余興を兼ねた実演興行も行われていたが︑日活向島撮影所の製作体制が整うに従い映画のみの興行となり︑連鎖劇流行時も映画のみが上映され続けた︒

︒うろあでるれ ととこうい反︑たしずに針まがそとのげあてしら由なき大理 時長社活日れ当はそ︑み務を経め質た営な実方の之永田横助 類と作製の劇種二︑演と行興を必劇嵩用費はが鎖るすと要連 て一︒るいあべ述︒﹂っのつと作品を作るにたたり︑映画あ 儲かるという確信の持てない限り新しい仕事をしない人で で極的やあり︑消やくりげて行というや方だったが︑後者は あ代時︑り極で的積は者先にんん事拡じ広手をく仕どどてん 田田の会商一横と謙浦之永横助比の︑﹁てし較前を方業商法 談に考参をて三栄中田はてし商み吉た主店沢河︑中田︒いは もさ作製は度一ていおなれそかったのか︑の理由につい活に   ﹃日全草﹄公開当時︑流行の盛ぜ期にあった連鎖劇がな毒

  また活劇色の強い連鎖劇は︑大正三年一〇月の﹃カチューシャ﹄成功以降︑徐々に活劇映画の生産を減じる傾向にあった日活において製作意欲を刺激するものではなかったということも考えられる︒連鎖劇において指摘されることに︑演劇と映画の切り替え時に物語や演技が寸断されるということが ある︒暗転の中︑シーツが上がり実演に戻る際︑またその逆において︑手際が悪いと物語の連続性が中断され︑また役者が不慣れである場合︑実演と映画内の演技に矛盾が生じるとするものである ︒日活向島が︑既に映画専門の俳優を有し︑活劇色を脱しつつ小説を原作とした文芸作品を多く製作していた当時︑物語を中断する可能性のある連鎖劇は︑必要とされなかったであろうとも考えられるのである︒

  オペラ館は︑旧吉沢系の製作陣による日活東京派の新派映画の封切館として知られていた︒旧四社時代の慣習は︑各劇場にも大きく影響しており︑例えば日活京都派の作品は︑旧横田商会系の富士館や千代田館で封切られ︑オペラ館に掛かることはなく︑また京都派同様に旧劇映画を生産した旧福宝堂系の天活作品は大勝館と決まっており︑富士館や千代田館で上映される事もなかった︒浅草においては︑各館がそれぞれに由縁のある製作会社の作品を上映し︑次第に劇場別に映画のジャンルが形成され︑各館それぞれが別個の客層を保持していた︒オペラ館は︑主に新派悲劇を好む女性客を中心に集客しており︑向島撮影所においてはこれら女性客の需要に応じた新派映画が製作され続けていたのである︒

三友館【映画】小林商会  前編・後編本郷座【連鎖劇】  小林商会  全四五場  内七場実演 監督井上正夫  脚本栗島狭衣  撮影永井

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信一  説明西村楽天  長五巻お源井上正夫  吉蔵栗島狭衣  お品木下吉之助  お仙葛城文子  紫山梅島昇  土手の福藤村秀夫   浅草三友館は︑明治四〇年︑勧工場開進館跡地に映画常設館として建てられた︒文字通り電気館主︑新井与四郎が友人三名に薦めて開館したもので︑設立当初は吉沢商店の河浦謙一が渡米土産に持ち帰ったキネオラマ映写機を使用し︑パノラマとキネマの中間のようなキネオラマを上映し︑﹁キネオラマの三友館﹂と呼ばれた︒日活設立後は主に日活東京派の作品が上映されたが︑大正五年九月に天活の手に渡り︑更に小林商会設立後は︑小林作品の封切館となった︒井上正夫製作の映画﹃毒草﹄は︑このような経緯を経て三友館で封切られたものである︒

  一方︑設立明治五年とも言われる歴史を持つ本郷座は︑当初歌舞伎芝居を中心に上演されたが︑明治三六年四月︑藤沢浅二郎一派により﹃不如帰﹄︑七月に高田実一派の﹃己が罪﹄が人気を博して以降︑本郷座時代と呼ばれる新派演劇全盛の一時期を画した︒その後︑松竹歌舞伎や︑新派演劇︑又奇術や浪花節なども掛けられたが︑大正五年に入り︑小林喜三郎が天活小林興行部として活動を開始後︑松竹との賃貸契約が結ばれ︑みくに座から移って来た井上正夫の連鎖劇で人気を復活させた︒   本郷座で発行された大正六年六月のパンフレットには︑﹁小林式独自の営業方法と連鎖劇の特徴﹂として︑﹁一日掛かりのお芝居を短時間約五時間内に御覧に入れ︑幕間の冗な時間を活動写真で御退屈を防ぎ︑狂言は十日ごとに差替え︑開場と閉場時間︑第一回は正午開場五時十分頃︑第二回は五時開場十時三十分頃︑閉場し︑﹃ヒル﹄﹃ヨル﹄の区別なく第一回の途中より御入場になりましても第二回の御覧になった処迄自由に御覧に成る事が出来ます︑従来の平土間を椅子席と改め下足のままで御見物が出来る様になって居ります ﹂との説明があり︑本郷座が小林の手で映画館の興行方法を取り入れた劇場に改変されたことが確認できる︒

  三友館と本郷座の﹃毒草﹄は︑共に井上の製作・主演によるものだが︑大正六年四月発行の﹃キネマ・レコード﹄に﹁三友と本郷とでも筋がやや異なっていた﹂﹁撮影から云っても本郷のフィルムの方が勝っていた ﹂等の記載があることから︑三友館の作品と本郷座の映画部分が異なっていたことが伺える︒井上は︑みくに座時代には映画が主の連鎖劇を製作していたが︑本郷座に移って以降は︑演劇の合間に映像が数場挿入される演劇が主の連鎖劇を上演した︒同年一月︑既に西洋的な映画手法を取り入れた﹃大尉の娘﹄を製作し︑兼ねてより映画と演劇における演技法の違いを理解していた井上により︑三友館と本郷座の﹃毒草﹄が︑映画と連鎖劇それぞれの効果を活かす別個の作品として製作されたとも考えられ

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るものである︒ 大勝館【映画】天活小坂監督川口吉太郎  脚本川口吉太郎  撮影藤野泰  長六巻お品桜井武雄  吉蔵熊谷武雄  お源村田正雄  お仙花園薫  土手の福靖郎  紫山村田一

  浅草大勝館は︑明治四一年七月︑第一共盛館を改築し映画常設館として開業した︒当初は︑M・パテー商会の専属館であったが︑四社合併後は日活の専属館に︑更に大正三年三月天活が創業されて以降︑六月からは天活の旧劇作品を上映した︒天活は︑東京・日暮里製作所においては︑封切館である大勝館の意向に添った旧劇映画を︑沢村四郎五郎などを中心として製作し︑大阪・鶴橋より移転した小坂村の撮影所においては︑天活直営の劇場に出演する一座の公演を映画へと引き写した新派作品を生産していた︒これは︑日活が自らの創作意思により映画を産出していたのと対をなす製作方針であると言える︒日暮里作品の専門館とされた大勝館であったが︑大正五年一一月の小林商会設立後は小坂作品も上映されるようになった︒

  大正六年二月一〇日付の﹃大阪毎日新聞﹄の広告に︑村田正雄主演﹁毒草劇  全二〇場  内実演五場﹂とある︒小林が 去った後も天活小坂が一貫して製作方針を変えていなかったことから︑大勝館の﹃毒草﹄は︑従来どおり大阪・楽天地において村田一座により上演された連鎖劇の映画部分に実演場面の映像を加えたものが東京に持ち込まれたと考えられる︒

みくに座【連鎖劇】一五場お源小堀誠  吉蔵高部幸次郎  お品花浦咲子  お仙市川菊子  紫山桂壽郎   浅草みくに座は︑元は吉沢商店主河浦謙一が開業したルナパーク敷地内にあった余興場が焼失後︑大正二年に再建されたもので︑新派劇や女歌舞伎などが上演されていた︒大正四年一月︑中野信近︑柴田善太郎の連鎖劇が話題となって以降は︑連鎖小屋として知られるようになり︑同八月より天活と契約した井上正夫が浅草入りし話題となった︒

  劇場としての認可を受けていなかったみくに座の連鎖劇は︑本郷座公演等と違い︑実演の場面は二場までと制限されていた︒井上の自伝に︑︵みくに座は︶﹁寄席と同種類の演技場の許可で芝居をやっていたので︑本式に大道具を飾ることも︑鬘を被ることも許されておらず︑背景は全部一枚布の書割りだけ ﹂であったと記されている︒撮影に関しては︑﹁座員は全部で十六人ばかりで︑第一回の出し物は連鎖劇と実演で︑初日前に︑銚子へロケーションをした﹂﹁二の替りからは準備期間がなかったので︑毎朝五時頃に起きて撮影に出掛

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け︑開演の午前十時までに小屋へ戻った ﹂とある︒小堀誠は井上と共に当初よりみくに座公演に加わっており︑この座員の一人であった︒劇場より下位とされたみくに座であるが︑その建物は二〇二六人をも収容する﹁大﹂芝居小屋であり︑井上の連鎖劇は連日大入りを記録した︒これは当時の連鎖劇の人気の高さを示すものであるといえる︒

  みくに座の﹃毒草﹄は︑初日の﹃東京日日新聞﹄に﹁最も面白き場面のみ選定し︑一五場にて完結せしめ﹂とある︒公演の詳細は不明だが︑大正四年のみくに座評に﹁小堀になると︑流石撮影の経験豊富な優だけに︑馴れたものだ﹂とあり︑また背景の書割りについては︑﹁沼井の伎倆で︑アノ本式にやれない舞台にあれだけの重味を添えたは敬服

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﹂等と賞されていることから︑大正六年の﹃毒草﹄も座員の努力により限られた条件を補うべく工夫の凝らされた作品として提供されたとも考えられる︒

  中央劇場【連鎖劇】お源中野信近  吉蔵佐川素経  お品静田健  お仙松下彦太郎  福福島稔︵毎日新聞には島田小次郎との表記あり︶紫山岩崎孝

  大正六年六月の中央劇場公演のパンフレットに︑﹁当劇場は柳盛座時代より古き歴史あり連鎖劇の第一歩として小林商会の経営により中央劇場と改称し従来の悪習を打破して文明 的娯楽場と仕候︑老劇場に於いては新派連鎖劇を主とし旧劇を客とし尚特選の泰西活動写真をも相加へ廉価に短時間にて種々の娯楽を供する本旨に有之候

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﹂とある︒中央劇場も小林により小芝居小屋を映画館方式に改装された劇場であった︒

  中央劇場の﹃毒草﹄は︑みくに座︑本郷座と活動の場を転じてきた中野信近と静田健の新競演で連鎖劇として上演された︒

常磐座【新派劇】六場

お 源 水 野 好 美   お 手 の 福 佐 藤 歳 三   吉 蔵 武 田 正 憲   お 品 浅 野 須 磨 子   お 仙 菊 子   紫 山 敷 島 美 佐 男

  明治一九年一〇月︑座主根岸浜吉により開場された常盤座は︑浅草において唯一正式な認可を得た劇場で︑旧派の芝居が掛かっていたが︑明治三一年より水野好美一座の新派劇が上演され︑明治後期には福宝堂系の映画も上映された︒常盤座は連鎖劇場としても知られたが︑当時の新聞広告には常盤座の﹃毒草﹄は新派劇と紹介されている︒

演伎座【旧劇】六場お源市川新十郎  吉蔵市川新之助  お品尾上柳之丞  お仙尾上幸次郎  紫山市川高麗之助  土手の福市川金五郎 

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  赤坂の演伎座は︑明治二二年開場︑座名を変えつつ︑歌舞伎や伊井蓉峰一座などの新派公演︑井上正夫出演の演劇など︑庶民的な芝居が上演されていた劇場である︒当時の﹃都新聞﹄の紹介に﹁旧劇の舞台にて鍛練せる芸風を新派の﹃毒草﹄に応用演出仕候﹂とあるように︑新派演劇を歌舞伎芝居に改変した公演であった︒

金龍館【喜劇】二場お源曾我廼家五九郎  吉蔵虎之助  お品紫嬢  お仙芳江  紫山喜楽   金龍館は︑明治四四年︑根岸興行部の根岸浜吉が︑系列の常盤座横に開業したもので︑元は東京勧業博覧会で建てられた観覧車を移設した跡地であった︒金龍館を有名にしたのは同一一月︑小林喜三郎が営業部長を務めた福宝堂により輸入された﹃ジゴマ﹄が封切られ大ヒットとなったことである︒以来金龍館は日活の発足まで福宝堂の専属館となった︒大正六年の﹃毒草﹄は︑﹃都新聞﹄に﹁劇をお手前の喜劇に脚色し大に笑はす中にも劇の真髄を掴み滑稽と悲哀とを︑一座特有の芸風に供し申候﹂と紹介されおり︑悲劇を喜劇に改変した異色の作品であった︒

観音劇場【旧劇】六場出演市川新之助  新十郎  団升  高麗之助  勝五郎  金五郎  他数十名出演

  大正六年︑天活系の映画を上映したキリン館跡地に建てられた観音劇場は︑根岸興行部より曾我廼家五九郎にその運営が任されていた︒﹃毒草﹄は新派悲劇として︑歌舞伎役者により演じられたもので︑旧劇︑所作事などと共に公演された︒   大正六年︑三月一一日付﹃東京日日新聞﹄︑一一日︑一五日付﹃都新聞﹄の広告欄に︑オペラ館封切りの日活向島﹃毒草﹄は︑﹁お品の巻・お仙の巻﹂との掲載があり︑本郷座の連鎖劇は︑﹁井上・木下・小林直営﹂︑三友館の欄には﹁前編・後編全部完成﹂︑大勝館における天活小坂版には︑﹁村田正雄主演﹂と付されている︒これらから︑日活向島の映画は︑スター俳優︑立花貞二郎演じるお品と︑同じく女形俳優二島竹松によるお仙を中心とした作品であり︑また本郷座における連鎖劇が︑お源に扮した井上正夫を主役にした井上劇であること︑そして同じ出演者による三友館公開の映画版が︑本郷座とはやや内容を変え映画として完成された作品であり︑また小坂の村田一座による﹃毒草﹄は︑楽天地で演じられた村田のお源が主役の連鎖劇をそのまま引き写した映画作品であることが確認できる︒

  東京︑特に映画の封切館の集中した浅草の上映・上演館は︑その系列が日活発足以前の旧四社と深い関係を持ち︑更に各館の作品性にもその影響が及んでいた︒同じ原作を元

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に︑同日公開された﹃毒草﹄であるが︑その内容は︑各製作会社︑劇場︑出演者の由縁と背景を表象するものとなっていたのである︒そして中でも︑小林商会設立者である小林喜三郎の大胆な経営改革と手広い興行は異彩を放っていた︒大正九年一月号の﹃演芸画報﹄に掲載された関根黙庵による﹁劇場構造の変遷﹂に次のような記載がある︒﹁明治四四年開場の帝国劇場︑歌舞伎座改築後︑劇場は必要上から椅子席を造り出すようになったのであるが︑それは彼の連鎖劇と称するものの勃興から劇界の気運が劇場を大小の二種に

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︑しかも明らかに分別してしまったのに原因していることは云うまでもない︒

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﹂小林喜三郎により齎された連鎖劇の流行は僅かの期間に過ぎなかったが︑その影響は劇場構造の変化にも及んでいたのである

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  大正六年﹃毒草﹄の上映・上演館の比較により確認できることは︑日本映画界が︑日活発足後も依然として四社競争の草創期より継承された旧態依然とした慣習を維持する形で製作を続けていた痕跡︑そしてそこに現れた﹁映画界の﹃ジゴマ﹄﹂との異名を持つ小林喜三郎と連鎖劇の流行が劇界を改変しつつあったこと︑また﹁演劇界の異端児﹂とされた井上正夫が映画界へ参入し︑西洋的な撮影法により従来の慣習を廃するような革新的な作品を製作︑日本映画界へ未曾有の影響を及ぼさんとしている状況である︒井上正夫の映画は日本映画を啓発する作用があった︒この後︑日活においては革新 映画が製作され︑天活からは純映画劇が生まれる︒日本映画界はようやく大きな改変の時を迎えていくのである︒

  ここまで︑製作会社と劇場別に各社競作の﹃毒草﹄を検証してきた︒では︑その具体的な内容はどのようなものであったか︑次章においては︑日活向島︑小林商会製作の映画・連鎖劇﹃毒草﹄を中心に考察していく︒

二、日活向島・小林商会製作『毒草』

二―一  小説『毒草』   菊池幽芳原作の﹃毒草﹄は︑お品と叔母お留が︑田淵吉蔵の運営による造園︑翠紅園にやって来るところから始まる︒お品は︑結核を煩い身弱である為︑園芸好きを生かした田舎の仕事が良かろうという叔母の配慮によるものである︒翠紅園には不具の身である田園詩人の島田紫山が出入りしており︑同じく身体に障害を持つ吉蔵の妹お仙に読み書きなどを教えていた︒

  お源はお品の父親が重蔵と聞き驚く︒お源は︑その情念の凄まじさに怖じ気づき自分を捨てた重蔵のことを長年恨んで復讐を誓っていたのである︒しかし︑重蔵もその妻も既に他界したと聞き︑お源は復讐の矛先をお品に向ける︒そんな事情を知らぬお品と吉蔵の仲は︑吉蔵が悪漢千太の襲撃からお品を救ったことをきっかけに急速に深まっていた︒

  土手の福と呼ばれる浮浪者風情の男も造園に出入りしてい

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た︒福は︑毎夜三本杉にお源が現れ藁人形で呪詛を繰り返していると伝える︒お源は︑結婚を望む吉蔵とお品の仲を裂こうと︑縁切り地蔵の石粉入り饅頭をお品に与え︑更に丑の刻参りなどをしていたが︑吉蔵に咎められ嘘の懺悔をして吉蔵を偽る︒

  ある日︑お品と吉蔵は篠竹取りに出かけ︑隣村で火災の発生したことを聞く︒吉蔵は消火作業に向かい︑お品が一人翠紅園へ戻ったところ︑お源に納屋の施錠を言いつけられる︒納屋で︑お源はお品に除草機を振り下ろしお品を絶命させる︒その様子はお仙に目撃されていた︒

  お源は︑吉蔵の作業着と靴を身につけお品の遺体を担ぎ森へと向かい︑池の畔を抜け︑隣村の牧場に建つ堀立小屋に遺体を隠す︒

  遺体は翌日発見され︑続いて納屋で血液の付着した吉蔵の作業着と靴も見付かったことで︑吉蔵はそれが母お源の仕業だと知りつつ警察に拘引される︒吉蔵の死刑執行日が決まり︑お源は気苦労から脳溢血を発症し入院する︒真相を知るお仙は苦悶の末︑紫山に相談︑山田検事の元に相談に赴く︒一度は面会を断わられるも︑検事の娘雪子の懇意により面会が叶う︒臨終の中︑お源は懺悔の書を縫いこんだ自らの襟元を示す︒真相が判明し山田検事の計らいで吉蔵は無罪放免となり︑臨終を迎えたお源との対面が叶う︒お源没後︑吉蔵は翠紅園を売却︑お仙を紫山に任せ︑単身米国へと旅立つ︒   菊池幽芳の﹃毒草﹄は︑一︑お品の巻︒二︑疑獄の巻︑三︑お仙の巻︑と三部による構成となっており︑お品の可憐で純真な︑お源の怨念渦巻く︑またお仙の果無い心中を巡りながら展開していく︒当時の﹃演芸画報﹄掲載﹁浪花座公演﹂の概要︑各映画雑誌に掲載された﹁あらすじ﹂から︑二月の大阪と三月の東京で上映・上演された﹃毒草﹄が︑共に原作通りに展開していることが確認できる︒各社共通している点は︑小説において中盤の事件である﹁お品殺害﹂の場面が佳境の山場として描かれていることである︒小説においては︑殺害後の警察︑検事による取り調べ︑お仙の心境の変化︑事件解決に向けての行動に多く紙面が裂いてあるのに対し︑映画︑演劇ともお品の死後は余り長く描かれず結論に到っている︒お品を主役に据えた日活作品では︑お品の死後を長く描く必要がなく︑また他社においては︑後半の︑徐々に事件の真相が明かされていくお仙を中心とした読み物としての展開より︑怨恨︑恋愛︑殺人など前半の劇的な場面を中心とした視覚的な展開が重視されたものと思われる︒

  各社競作の﹃毒草﹄は︑原作に基づきほぼ同じナラティヴを持っていた︒ではその相違点はどこにあったのか︑﹃キネマ・レコード﹄大正六年四月号︑﹃活動写真雑誌﹄﹃活動画報﹄﹃活動之世界﹄大正六年五月号に掲載された比較合評を参考に検証してみたい︒

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二―二  日活向島『毒草』

  日活向島の﹃毒草﹄が他社と明らかに相違しているのは︑主人公がお源ではなくお品であるという点である︒当時のオペラ館評には﹁立花のお品が︑総ての人々を引摺って行き︑︵中略︶︵俳優の︶粒が揃っている︒︵中略︶それ丈舞台上の強みがあり︑気分の深さもあった

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﹂﹁立花一派のがしんみりしていた︒それは劇の中心はお品であり︑そのように立花のお品が嵌り役でもあり︑割合に卒がないからであった

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﹂﹁立花のお品は殊の外柔らかい輪郭を見せて吉蔵に対する愛情も現れていた

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﹂﹁お品は立花の痩形でスラリとした工合が原作の其人に近かった

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﹂等とあり︑日活の﹃毒草﹄が︑都会育ちの洗練された美しさと︑病弱故の儚さを併せ持つお品を主人公に据え︑立花貞二郎の女形としての魅力を見せる演出がなされた作品であることが理解できる︒お品の可憐さ︑美しさを強調することで︑お品の悲劇的な運命を︑より美的に︑刹那的に描こうという意志が感じられるのである︒

  日活の女形を活かす演出は︑五月操演じるお源にも現れている︒五月のお源は︑﹁井上のは老けすぎて而も凄味が勝って色気に乏しく︑村田のお源︵は︶あり来たりの新派の婆さん

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﹂であるのに対し︑﹁少々若作りにすぎた憾みはあったけれど︑色気の残ったいらいらしい気分の︑可愛がれば嘗るように可愛がるし︑憎むとどこまでも憎むと云った女がよく出ていました

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﹂と評されている︒それは逆に﹁凄味と武骨が欲 しい

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﹂との批判にも繋がるのだが︑凄みより︑感情の粘着性を強調し︑また武骨さより︑女性の柔らかな点を描き色気を漂わせることで︑女形特有の﹁性﹂と﹁美﹂を際立たすという日活独特の演出法であるとも考えられるのである︒

  女形を活かす演出方法は︑日活向島の作品が﹁ユックリ撮ってあるので情味は充分ある

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﹂等と評されることでも確認できる︒大正六年当時︑生フィルムはまだ高級品であり︑日活の京都撮影所などにおいてはネガ節約のため︑通常一秒一六コマで廻すところを八コマ位まで落として撮影していた︒﹁ユックリ﹂とは︑旧劇などにおいて︑映写画面における人物の動きが不自然に速くなっていたのに比し︑向島の作品においては一秒一四コマ程度で撮影していたので比較的落ち着いた印象を与えたことを意味するのであろう

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︒また当時の向島映画は︑カメラを一カ所に据えての固定撮影が主で︑一つの場面が二〜三分と長尺であった︒俳優の﹁コクのある芝居をたっぷりと見せる

︶24

﹂ことが映画の魅力の一つであったと思われるのである︒﹁ユックリ﹂撮ることは︑女形の動きをより柔軟に美しく見せ︑物語の﹁情味﹂を濃厚に表現する効果を高めたと考えられる︒

  女性を主人公に据えた家庭小説に題材を求め︑スター俳優立花貞二郎に主演させることで︑日活向島の作品は女性を中心に人気を博した︒女性を女性そのものとして写実的に描くのではなく︑女性性を表象した女形の﹁型﹂をより効果的に

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﹁ユックリ﹂と見せることで︑物語における﹁情﹂の世界を︑より耽美的に︑またしっとりと見せた︒そして︑劇場においてはこの映像に活動弁士による過剰なまでの感情が込められた語りが加わることで︑更に朦々たる世界が展開されたのであろうと考えられるのである

︶25

  日活向島の﹃毒草﹄については︑﹁筋は小林興行部と大体同じであったが︑その原作に対する観念及び劇的取り扱い方には大なる差異があった

︶26

﹂との評もあった︒小林商会の作品に比べ日活作品は﹁撮影は依然として旧式な舞台的表現を固守し﹂と否定的に見られつつも﹁とは云え〝哀調〟や〝納屋〟の場の如き光線の取り方︑逆光線の利用を見れば︑まだまだ棄て難い所なきにしもあらずで

︶27

﹂との記載や﹁池の畔の場で︑日活が逆光線を用いた撮影術は見上げたものだ︒実に立派なもので素的に美しかった

︶28

﹂︑﹁翠紅園の温室の花園らしい温かみと︑建物の明味は観客に郊外のなつかしみを興えて居る

︶29

﹂等の評価もあることから︑日活の重視するところが︑小林作品の特色である﹁劇的﹂なことよりむしろ︑画面を美的に描写し︑漂うような﹁情感﹂を強調するところにあったことが認識できるものである︒

  嘗ては︑日活向島でも活劇映画が撮られていた︒仏映画﹃ジゴマ﹄の大当たりによる活劇流行の影響を受けたものと思われ︑大正三年六月には﹃怪力お町﹄︑七月には﹃海底の女﹄﹃空中の女﹄等が立花貞二郎︑関根達発等を主演に公開され︑ また大正五年製作の﹃うき世﹄では︑新派劇の一部に活劇色の強い﹁危難﹂の場面が挿入されている︒これは︑米国より輸入された﹃名金﹄﹃マスターキー﹄等︑連続活劇映画の影響であろうと思われる︒経営困難に陥り︑一時は活劇映画にも頼った日活向島であったが︑大正三年一〇月の﹃カチューシャ﹄の大ヒット以降は︑次第に活劇作品を減らし︑文学作品が盛んに作られるようになっていく︒大正四年発表の﹃瀧の白糸﹄︑露︑仏文学の翻案である﹃士官の娘﹄﹃椿姫﹄等は︑日活が作品性の方向を転換させている動向の現れと言えるものである︒日活向島はこの後︑より物語を重視し﹁劇的﹂よりも﹁情感﹂の部分を活かした作品へとその傾向を変化させていくのである︒

  ﹃忠案考店商沢吉︑は口毒小たし督監を﹄草部

︶30

入社前︑本郷座の座付作家佐藤紅緑の弟子であった︒また︑脚本を担当した桝本清も︑考案部入社前は新劇運動に関わり︑戯曲の執筆︑外国作品の翻訳︑演出などを手掛け︑大正三年には佐藤紅緑作﹃谷底﹄の監督も勤めた︒吉沢商店においてはこのように︑文学肌の製作者により小説を原作とした作品を作るという基盤があり︑そこには文芸部長を務めた佐藤紅緑の大きな存在があった︒佐藤紅緑の新派演劇の脚本家としての経験と︑社会問題を背景に義理人情などを描いた小説は︑吉沢商店考案部の製作方向を決定する上で多大に影響し︑それはそのまま日活向島へと引継がれたと考えられる︒

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  このように︑日活向島の作風には旧吉沢商店から継承された文学的な傾向が強く現れていた︒日活の︑文芸作品を﹁情感﹂を主軸に描くという作風は︑﹃ジゴマ﹄で世に出︑﹁劇的﹂な場面で観客に視覚的な刺激を与える活劇色の濃い映画を多く排出した旧福宝堂系の従業員による製作傾向との大いなる相違点であると思われる︒

二―三  小林商会『毒草』

  小林と提携した井上正夫はみくに座時代︑大正四年一二月の﹃小夜嵐﹄︑大正五年二月の﹃龍巻﹄等︑飛行機や自動車を使った活劇場面を取り入れた連鎖劇を多く製作した︒大正五年四月の﹃花時雨﹄評に﹁全ての撮影上に﹃名金﹄の影響甚だ多い︒これは非常に慶賀すべき事だ

︶31

﹂とある︒井上が当時流行したアメリカの活劇映画を手本に連鎖劇の映画部分を撮影したことが伺えるものである︒新劇運動にも参加し進歩的な考えの持ち主であった井上は︑外国映画に見られる俳優の演技法︑また日本映画と大きく相違する輸入映画の撮影術も研究しており︑この知識は︑﹃毒草﹄︑又同年一月に発表された︑独映画﹃憲兵モエビウス﹄の翻案作﹃大尉の娘﹄の製作において生かされている︒﹃大尉の娘﹄で井上が実践したカット・バックや移動撮影︑二重露光︑大写し等の技法は︑演劇の引き写しの手法が一般的であった当時の日本映画界において大いに画期的な試みであった︒   三友館の﹃毒草﹄評には︑お留の営む﹁寿司屋の場面を見せ﹂︑終盤の﹁お仙が山田検事を訪ねた憂慮心痛の場面を加え﹂ることで物語の最初から最後までを描き﹁筋に連続を保たせていること﹂︑お源の怨讐と凄みを表す﹁お萩餅の場面を差し加え﹂たこと︑また﹁時計を出して見る度に時計が大写しになって︑時間が次第に切迫して来る感を見物に懐かせ

︶32

﹂る等︑﹁大写しが善所に善用され﹂その大写しの効果で﹁感情を丁寧に現し﹂ていること︑そして﹁室内を写す場面に︑背景となる障子や襖︑床の間等が何れもレンズに対して斜めに配置され﹂﹁四角な座敷を絵画的に表し

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﹂ていること︑その他では﹁背景が残らず実景であった

︶34

﹂こと等があげられている︒

  これらの評から︑三友館の﹃毒草﹄が︑実演が主の本郷座の連鎖劇とは違う手法で製作されていたことが分かる︒井上は︑物語や演技が中断されない映画の連続性を利用し︑物語の最初から最後までを描くことで︑﹃毒草﹄をより原作に近い長編作品とした︒そして︑﹁お仙の心痛﹂や﹁お萩餅﹂の場面など他社にはない︑各自の性格を描写する場面を加え︑大写しを﹁善用﹂することで︑それぞれの個性を明らかにし︑感情をより鮮明に表現して見せた︒一方で︑﹁時計の大写し﹂は︑迫る死刑執行までの時間に焦眉を告げ︑心理的に作用する効果を強めた︒また︑場面を斜めに撮影することで遠近法を活用︑画面に奥行を持たせた︒このように﹃毒草﹄は﹃大

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尉の娘﹄と同様に映画的手法が効果的に使用された革新的な作品であった︒では井上は︑本郷座の映画場面をどのように描いたのであろうか︒

  大正六年の本郷座パンフレットに︑﹁小林の連鎖劇の特徴﹂として﹁斯う云う所は活動写真で無くては真に迫らないとよく申します︒水中の活躍︑汽車と自動車の追掛け︑自転車︑人力其他大道具で充分顕す事の出来ない所を活動写真で応用す此処に初めて連鎖劇の特徴が顕われるのであります

︶35

︒﹂とある︒当時の連鎖劇における映画場面は︑大体このような︑追跡や危難などの活劇場面︑また舞台においては使用不可能な水を利用した場面︑自然を背景とした場面などに限られていたことは︑山長の連鎖劇にも確認できる

︶36

︒実際︑連鎖劇の殆どはこの常套手段の域を出ることなく製作され続けていたのである︒

  井上も原作にない探偵を登場させた活劇場面を挿入し︑お源が凶器を池に投げ入れる水面の大写しなどを撮影した︒しかし井上の連鎖劇で特筆すべき点は︑三友館にはない﹁藁人形やカレンダーの大写し﹂﹁獄中の吉蔵の幻影

︶37

﹂など︑活劇ではない場面を挟み込み︑物語に新たに意味付けをしていることである︒﹁藁人形の大写し﹂は︑お源の怨恨の感情に迫力を持たせ︑﹁カレンダーの大写し﹂は︑吉蔵の死刑執行までの時間を明確にして切迫感を強め︑また﹁吉蔵の幻影﹂は︑お源を自白へと導く心理作用を強調する効果を与えたものと 思われる︒井上正夫による連鎖劇﹃毒草﹄は︑視覚的に楽しめる劇的な場面に加え︑心理面を刺激する映像が効果的に使用された︑連鎖劇としても新たな試みであったと考えられるのである︒

まとめ  日活向島と小林商会の﹃毒草﹄を比較検証して見えてきたことは︑小林商会による井上正夫の﹃毒草﹄は︑新たに女優を起用し︑西洋的な映画撮影法を取り入れることで︑それまでの日本映画とは一線を画す作品となっており︑その映画の独自性を活かした試みは︑連鎖劇にも応用されていたこと︑又同時期の日活向島においては︑女形を使い︑旧来と変わらず演劇引き写しと言われる手法が採用されていたことである︒

  では日活向島には全く成長の形跡がなかったのか︑違うと思われる︒日活向島作品には︑輸入映画の影響を多分に受けた小林商会とは違う方向への発達が確認される︒それは︑近代小説でありながら︑義理や人情といった人間模様を中心に描く近世文学の特色を色濃く残した︑明治・大正期の文芸世界を艶やかに表現するという日活向島の︑言わば日本という﹁地方﹂の内側へ向かった成熟であった︒向島撮影所においては︑物語を円熟化させ︑情を絡めて審美的に描写するという独自の追求があったと思われる︒それは︑立花貞二郎に代

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表される女形の﹁美﹂であり︑また画面に描き出された﹁情感﹂の表現であると考えられるのである︒

  大正六年三月の﹃毒草﹄公開当時︑全盛を極めた連鎖劇は︑六月に発布された警視庁﹁活動写真興行取締規則﹂の影響により急激に衰退︑小林商会も消滅し︑井上正夫も演劇界へと去る︒しかし小林と井上の残した波紋は︑その後の映画革新運動へと引き継がれていく︒

  日活においては︑同四月に新劇界から田中栄三が入社︑早逝した立花に代わり日活入りした楽天地の東猛夫︑精美団の藤野秀夫︑山崎長之輔一座の衣笠貞之助︑名優山本嘉一などと共に︑日活固有の美学を継承した︑向島撮影所独自の革新映画が製作される︒

  一方では︑五月に天活に入社した帰山教正により映画芸術協会が設立され︑純映画劇運動は一層の高まりを見せていく︒そして︑大正八年には映画界に復帰した小林により天活が買収され国活が設立︑九年には松竹キネマ︑大活が発足︑アメリカニズムの輸入と相まって︑日本映画は大胆に刷新されていくのである︒

︵1︶大正六年当時︑映画は﹁活動写真﹂と呼ばれていたが︑本稿に おいては﹁映画﹂という表記で統一することとする︒︵2︶井上正夫は自伝﹃化け損ねた狸﹄において︑明治三七年三月の真砂座において︑伊井蓉峰一座の﹁征露の皇軍﹂という演劇の合間に映画を見せる公演に参加した経験を語っている︒︵3︶各館︑各劇場の由縁︑遍歴については主に︑東京都台東区編﹃台東区史・社会文化編﹄︑台東区教育委員会編﹃浅草六区興行と街の移り変わり﹄︑円城寺清臣著﹃東京の劇場﹄︑田中純一郎著﹃日本映画発達史﹄︑明治篇︑大正篇﹃演劇画報﹄︑そして﹃キネマ・レコード﹄に掲載された﹁内地製映画﹂欄を元に筆者がまとめた大正二年︱大正六年間における映画製作会社と封切館の変遷ノートを参考に検証した︒また︑各館に関する︻︼内の作品ジャンル︑出演俳優については主に︑大正六年三月一一日発行の﹃東京日日新聞﹄朝刊掲載広告︑﹃東京朝日新聞﹄朝刊掲載広告︑同日と三月一五日発行﹃都新聞﹄掲載広告︑三月一九日︑二二日掲載﹃毒草﹄劇観覧に関する記事︑同四月発行﹃キネマ・レコード﹄﹁内地製映画﹂批評︑五月発行﹃活動写真雑誌﹄﹁毒草合評﹂︑同五月発行﹃活動画報﹄﹁毒草各館及各劇場の上演役割一覧﹂︑同五月発行﹃活動之世界﹄﹁毒草劇批判﹂︑権田保之助著﹁活動写真に関する調査及び観察﹂における﹁東京市内に於ける活動写真館の分布﹂表︵大正六年二月現在︶︑﹁浅草六区に於ける活動写真館﹂の詳細報告︑﹁特色に依って分類せる浅草六区所在活動写真館﹂表︵大正六年二月現在︶︵﹃権田保之助著作集﹄第一巻︶︑等により収集した情報を元に検証し記載したものである︒︵4︶﹁映画史覚えかき﹂﹃シナリオ﹄昭和二二年九月号一五頁︒︵5︶例えば︑大正五年五月発行の﹃キネマ・レコード﹄﹁内地製映画﹂における﹃花時雨﹄評に︑映画から実演に戻った際俳優

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の配置が悪いこと︑﹁イタの時と顔の作りを区別﹂していないので留意してほしいとその演技術の違いに関する指摘がある︒︵国書刊行会﹃キネマ・レコード﹄二二一頁︶また︑大正六年四月発行の﹃活動画報﹄﹁芝居本意か写真本意か﹂において︑﹁シーツをあげる闇間に舞台装置の電気のつく迄﹂の連想をうまく起こさないと︑映画において達成された絵画のような﹁芸術性﹂と︑舞台装置を背景とした実演における﹁現実性﹂との矛盾が起きるとの指摘がある︒︵九四︱九八頁︶︒︵6︶早稲田大学坪内博士記念演劇博物館所蔵本郷座パンフレットより︒︵7︶﹃キネマ・レコード﹄大正六年四月号﹃Kinema-record =キネマ・レコードⅡ︱1﹄国書刊行会︑二〇二頁︒︵8︶井上正夫﹃化け損ねた狸﹄一六八︱一六九頁︒︵9︶井上正夫  前掲書︑一六三頁︒︵

︵ 10︶活一︒頁八一一号月〇年動﹃正大﹄誌雑真写四

︵ よ︒り 11︶学央稲田大トッレフンパ場劇中坪蔵所早物博劇演念記士博内館

︒﹂︶遷変の 二類運気るす場分のまに種高がっ著た構場劇﹁造庵根関︒︵黙 場す駕凌を︑劇大りよに存る界在劇劇と・大を小︑てっないき 下等と相認識されていたが︑演次大及普の劇衆ぐと増の場劇加 とり取のそ劇行興の鎖連締﹁りまはり﹂︶場劇大よ場劇小に般一 著洋田横︒︵たっあで点違相のなさる防火材れ規がその大定き 百準基を坪は二坪建て場しと分劇用使類築建場に︑おてれさり 治年〇三﹄︶改明表年伎舞に規正劇さ劇小と場︑大で則たはれ ・場劇小劇場区大︑れさの認別が公された伊原敏郎著﹃歌︒︵ 12︶東に京においては︑明治二三年﹁布劇場取り締まり規則﹂が発 ︵

︵ 一︒頁二三一︱一三 13︶の月根黙庵著﹁劇場構造号一変年九正大﹄関画芸演﹂﹃遷報

︵ 庵態となってく︒︵関根黙い著の﹁︒﹂︶遷変造構場劇 席殆子椅がどはのそ後のことへ︑改見変形の場る劇に在現れさ を場構造の変革場促進させ︑劇は劇れを︒るせさ速加そい勢の とり芝居劇場易小︑なに屋小たで公演されり大衆演劇の流行簡 14︶よを林喜三郎が桟敷︑土間席椅は子席に改めたことで︑観劇小

︵ 15︶活月︒頁七一一号五動﹃六正大﹄報画年

︵ 16︶掲書︑大正六年前月号一一七頁︒五

︵ 17︶活五︒頁四七号月年動﹃正大﹄界世之六

︵ 18︶活五︒頁九六一号月年動﹃正大﹄誌雑真写六

︵ 19︶掲書︑大正六年前月号一六五頁︒五

︵ 20︶掲書︑大正六年前月号一六五頁︒五

︵ 21︶掲書︑大正六年前月号一六六頁︒五

︵ 22︶掲書︑大正五年前月号一四五頁︒二

︵ 頁︒ 23︶三昭中栄九三︑月五年〇三和﹄﹁オ田ナシ﹃﹂︑代時島向活日リ

︵ 24︶中昭︒頁五三︑月一年〇三和︑栄田掲前﹂︑代時島向活日﹁三書

︶︒頁一三︑月三︑頁五三 ﹁島向活日︵著三栄中田代時﹂︑﹃和︑一年〇三月昭オリナシ﹄ 成のもれさ業果結の作練あでたっもた︒あでのるる伺がことえ ﹁深﹂味情らるれ見には画さの︑︑脚熟陣優俳の督監︑家作本 意技量について感嘆の︒を述べている向島映するを演てせわ技 当て時︑りおとし想回映﹂うの画回優合がフィルム俳転速度に メでラが廻カ多のいが居芝始り二めはるまてい続し分や分と三 れりおて埋らめで詞台大︑﹁ヂ抵コクのあるックリとした部が 25︶全の中栄三は︑大正六年当時脚ど本の形式は︑シナリオの殆田

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︵ 国レコードⅡ︱1﹄書マ刊行会︑二〇二頁︒・ 26︶rd ecoa-remKin﹄キネマ・レコード六大正﹃年四月号﹃ネキ=

︵ Ⅱ︒頁二〇二︑会行刊書国﹄1︱ 27︶rd ecoema-rKin・月掲書︑大正六年四号レ﹃=キネ前ドーコマ

︵ 28︶活五︒頁一六一号月年動﹃正大﹄誌雑真写六

︵ 29︶掲一︒頁二六一︱六書前号月五年六一

︵ ︒たっ行を 籍書筋︑し清在どなの本桝きが募優集どな養の成俳や画映属専 小︑はに考部案た︒忠口中︑大熊暗潮︑川慶二︑迎えを紅藤緑 同考時に文芸部の役割を持つ部案築を設置し︑部長として佐︑ 30︶建一沢商店を設立した河浦謙はを明治四一年︑目黒撮影所吉

︵ 国レコードⅠ︱3﹄書マ刊行会︑二二一頁︒・ 31︶rd ecoa-remKin﹄キネマ・レコード五大正﹃年四月号﹃ネキ=

︵ 32︶活五︒頁二六一号月年動﹃正大﹄誌雑真写六

︵ 33︶活月︒頁三七︱二七号五動﹃六正大﹄界世之年

︵ 国レコードⅡ︱1﹄書マ刊行会︑二〇二頁︒・ 34︶rd ecoa-remKin﹄キネマ・レコード六大正﹃年四月号﹃ネキ=

︵ り︒ 35︶大本稲田よトッレフンパ座郷蔵学所早物博劇演念記士博内坪館

す悪を逸︑◎令嬢早苗行商︑◎の漢の逃走︑大◎列車進行中の )に拐おいては︑◎早苗誘馬⁝木堂の追跡︑◎馬車と⁝蛇幕長 (︑六機◎梅吉を空中へ大正六年︑月悲五新﹄恋きし﹃演公座富 梅◎︑追の吉吉◎︑落墜の琴お跡の身代り︑◎静子の飛行◎梅 )(難︑︑王﹄五幕では︒◎勢琴の危お◎︑の岸海◎加跡の井酒追 地︑近附岸海︑築◎讐復の形大正六演年女の空﹃公座富新月五 ()連分部鎖夜の幕五﹄︑は︑◎尾形の危難◎山中の谷底尾︑◎ 36︶山大について例をあげると︑正か五年七月新富座公演﹃みじ長 ︵ ての劇場面につい同様の向傾詳細︒るいてれさ告報が 蔵池所庫文田か︱劇鎖連輔付番もら︑鎖の長山連ていおに﹂︱ とで認確がでこるある面場きた︒また︑横田洋著﹁山崎長之し 背用面景活劇色の強い場使︑自然をと海を水どな岸︑面場たし ︑りりあと︶鎖よ付番居芝蔵所連部劇分にど殆のが映るけお像 大墜稲早︵落線に路堂本◎田︑学坪内博士記念演劇博物館格闘

︒国レコードⅡ︱1﹄書マ刊行会︑二〇二頁・ 37︶ecoa-remKinrd ﹄キネマ・レコード六大正年四月号﹃ネキ﹃=

主要参考文献飯島正﹃日本映画史上巻﹄白水社︑一九五五年︒井上正夫﹃化け損ねた狸﹄砥部町︵愛媛県︶井上正夫生誕百年祭実行委員会︑一九八〇年︒岩本憲児編﹃日本映画の誕生﹄森話社︑二〇一一年︒円城寺清臣﹃東京の劇場﹄国立劇場調査養成部芸能調査室︑一九七八年︒大笹吉雄﹃日本現代演劇史.明治・大正篇﹄白水社︑一九八五年︒岡部龍編﹃日本映画史素稿.八﹄フィルムライブラリー協会︑一九七三年︒キネマ旬報編﹃日本映画史実写から成長︱混迷の時代まで﹄一九七六年︒黒沢清他編﹃日本映画は生きている﹄岩波書店︑二〇一〇年︒柴田勝﹃実演と映画・連鎖劇の記録﹄出版柴田勝︑一九八二年︒高木健夫﹃新聞小説史稿.第1巻﹄三友社︑一九六四年︒田中純一郎﹃日本映画発達史.1﹄中央公論社︑一九八六年︒

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東京都台東区編集﹃台東区史.社会文化編﹄東京都台東区︑一九六六年︒日活株式会社編集﹃日活四十年史﹄日活︑一九五二年︒日活株式会社編集﹃日活五十年史﹄日活︑一九六二年︒文京ふるさと歴史館編﹃本郷座の時代﹄文京区教育委員会︑一九九六年︒﹃菊池幽芳全集.第7巻﹄日本図書センター︑一九九七年︒﹃キネマ・レコード﹄国書刊行会︑一九九九年︱二〇〇〇年︒﹃権田保之助著作集第1巻︱第4巻﹄学術出版会︑二〇一〇年︒﹃日本映画初期資料集成﹄三一書房︑一九九〇年︱一九九一年︒﹃アート・リサーチ﹄立命館大学アート・リサーチセンター︑﹁KYOTO映像フェスタ﹁京都映画草創期﹂調査報告﹂vol.四︑﹁連鎖劇における映画場面の批評をめぐって﹂vol.一〇︑二〇〇四︑二〇一〇年︒岩本憲児︵一九九〇︶﹁連鎖劇からキノドラマへ﹂﹃演劇学﹄早稲田大学文学部演劇研究室︑三一号︑一九九〇年︒田中栄三︵一九五五︶﹃シナリオ=Scenario﹄泉書房︑一︱六月号︑一九九五年︒冬樹薫︵二〇〇二︶﹁小林喜三郎と天活全盛時代﹂﹁小林商会と井上正夫の軌跡﹂﹃映画論叢﹄樹花舎︑二月号︑七月号︑二〇〇二年︒横田洋︵二〇〇六︶﹁山崎長之輔の連鎖劇﹂﹃演劇学論集﹄日本演劇学会︑四四号︑二〇〇六年︒横田洋︵二〇〇八︶﹁連鎖劇の興行とその取り締まり﹂﹃フィロカリア﹄大阪大学文学部美学科︑第二五号︑二〇〇八年︒早稲田大学坪内博士記念演劇博物館  デジタル・アーカイブ・コレクション  近世芝居番付データベース︒

表 さ れ る 女 形 の ﹁ 美 ﹂ で あ り ︑ ま た 画 面 に 描 き 出 さ れ た ﹁ 情感﹂の表現であると考えられるのである︒

表 さ

れ る 女 形 の ﹁ 美 ﹂ で あ り ︑ ま た 画 面 に 描 き 出 さ れ た ﹁ 情感﹂の表現であると考えられるのである︒ p.14

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