橋本コレクションの来舶画人関係資料
その他のタイトル Materials in the Hashimoto Collection Related to Certain Visiting Chinese Painters in the Yedo Period
著者 山岡 泰造
雑誌名 関西大学東西学術研究所紀要
巻 11
ページ 43‑77
発行年 1979‑03‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/16071
レクションの来舶画人関係資料
日本絵画史の展開は︑中国からの影響なくしては考えられぬが︑
大きく分けて次の三段階になると思われる︒一︑六朝・隋・唐の絵
画を唐絵として受けとって︑それを主として題材の上から︑次いで技法的にも日本化して、倭絵をつくり上げた奈良•平安時代。二、
宋・元の絵画を主として禅宗の移入とともに受け入れ︑それを宗教
的・文学的に︑あるいは装飾的に理解した時代︒特に室町時代中期
以降には︑馬遠・夏珪・牧硲・李竜眠といった特定の画家の名前を
あげて︑その筆様を模するという点に特色がある︒三︑明・清の絵
画を受け入れた江戸時代︒明画は室町時代から盛んに学ばれている
が︑それは主として宋・元画への志向を内に秘めての受容であり︑
いわば宋・元画の代りという意味あいがつよかった︒従って明画の
もつ新様式への積極的な評価はみられない︒雪舟は明の南宗画・文
人画の大宗たる沈石田と略同時代であるが︑この新典の文人画系統
への理解は︑室町・桃山時代を通じて全く見られない︒江戸時代に
なってはじめて儒学の興隆と表裏して明・清の文人画が本格的にと
り入れられた︒そしてこの第三段階で注目すべきは︑来舶の中国人
橋本
コレ
ショ
ンの
来舶
画人
関係
資料
橋本コ
四
から直接画技を修得することが行われた点である︒室町時代以前に
おいては︑中国人画家の来日は殆んどなかったと推測され︑室町時
代にただ一人の名が挙げられるにすぎない︒雪舟は入明して︑師と
する画家二人を挙げているが︑果して直接習ったかどうかは明かで
ない︒その点︑江戸時代には中国人画家から直接学ぶことができ︑
そのため日本人画家の長崎行きが陸続として行われたのである︒そ
のような来舶中国人画家のうちには︑著名な画家や職業画家もいる
にはいたが︑大半が中国の画史に載らぬ無名画家︑あるいは素人画
家であった︒彼らが中国画壇でどのような位置を占めるか︑どのよ
うな系統に属するか︑いかなる地方の様式を伝えたものか︑いかな
る時代様式を示すかといったことが問題となるが︑それらについて
は勿論諸先学の研究が行われている︒又︑来舶を伝えられる画人で
作品の知られていないものも多く︑これらの作品の発掘も重要であ
る︒更に又︑未だ世に知られていない︑画史にも著録されていない
来舶画人が大勢いることが予想され︑かれらについては遺品の上か
らその素性を探る必要があるのである︒橋本コレクションはこうい
山 岡 泰
造
まず︑若千の文献から来舶画人の記事を抜粋し︑次いでニ︱︱一の展
覧会のカタログを紹介し︑最後に橋本コレクションの作品を年代順
に排
列す
る︒
﹁古画備考﹂巻四十九所引︑﹁元明清害画人名録﹂︵安永六年17777︑
彰百
川﹁
元明
画人
考﹂
︵︵
宝暦
元年
17
51
))
を高芙蓉・姫眼堂・烏羽石
隠が補訂したもの︶所収の来舶諸子のうちの画人︵傍線は害画人の
指示なきもの︶
伊海︑呉郡人︑書画︒潅乗衡︑浙江人︒方済︑山水人物花升︒梅
宗盛︑山水︒董敬亭︒董済川︒陳斬︑花鳥︒張黙斎︑浙江人︒李用
雲︑晏竹︒林弘堪︑固人︒陸紹棟︒注鵬︑行書画︒高鉤︑花舟湖毛︒
高乾︑花舟鍬毛︒高乗花鳥︒宋岳︑菩渓人︑書画︒黄竜︑新安人︒
黄宜︑新安人︒黄道謙︑古囮人︒黄正宗︒楊人竜︑古曲人︒呉禎︑
興化人︒呉雁門︑平江人︒顧升︒鄭廷鑑︑浙西人︒鄭培︑菩渓人︑
花鳥︑行書︒鄭連城︑三山人︒鄭箪山︒丁書品︒丁守訓︑浙西人︒
邸庭元︑古閥人︒許自宏︑画︒興季粛︑福建人︒金坤︑雲問人︑行
書︑花鳥︒襲紫興︑温陵人︒沈猷︑呉興人︒沈錘︑花舟例毛︒沈陵︑
浙水人︒沈兆元︑西湖人︒沈陶︑三呉人︒徐嘉齢︑西渓人︒除樹三︑
花舟鋭毛︒朱綬︑宙画︒朱弐穀︑行害︑人物︒諸葛晋︑南陽人︑人
物山水花鳥︒費瀾︑山水人物︒費孟恭︑苫渓人︒石弘猷︑竜邑人︒ ったさまざまなケースの興味深い例を提示するものである︒石長︑副中人︒膵茂国︒稗翠︑棺城人︒︵福建・浙江出身二十一︱
‑ i
四、江蘇六、河南・河北・山西・安徽•四川七、)
﹁絵事瑯言﹂︵桑山玉洲︑寛政十一年1799
以前
︶・
⁝・
・近
世熊
斐カ
南頻ヲ学ヒ大雅堂力逸格ヲ為シタルモ怪ムヘキコトニ非ス︑是モ時
ヲ得テ後世二行レハ党二本朝ノ画則卜成ヘシ⁝・:近世長崎二来遊セ
シ伊学九ナト舶来清人中ノ逸格ナルヘシ︑本朝ニテハ大雅堂一人ナ
リ︑長崎二来レル清人ノ中ニテ賞スヘキ者ハ伊早九ヵ山水︑李用雲
ヵ墨竹ナルヘシ︑其余ハ董可亭力墨蘭︑諸葛晋ヵ児女ナト頗ル雅趣
アリ︑南頻ハ舶米ノ第一ノ画品ナレトモ北宗ナリ︑又民間二蔵スル
所多ク既作或ハ代筆ニテ真蹟至テ得難シ︑高鉤・鄭培・費瀾・方済
ノ輩風致亦乏カラス⁝⁝
﹁洪園文集﹂︵皆川洪園
17
34
,
1807︑校刊美術史料第120,121,122
12
3,
214
却 呼
︶ 芸 四
︒ 両 回 七 グ 汝 5国四甲i紐仇中大辛箇寧諏占口萌茎羽向四︑函g土^如密右I年g孟四澁佃3
伽︑
紀事︒湛安喜生得小幅五百羅漠事︑羊皿余嘗振京師浪華江戸書画︑因
勧平生所識諸書画家︑毎歳春秋期日各拙其所為書画︑集会子東山︑
命日新書画展観︑自壬子︵寛政四年1792)至去歳戊午︵寛政十年
1798)凡十四会︑毎会所集︑或至三四百幅︑其所風靡至有海外諸邦
民亦寄人︑其所為︑以列之其会中︑喩亦盛突︑是以京師諸画家︑遂
又競出新奇•…..、題首。題孟涵九画幅首、賛。朝倉大夫屏風耕蚕図
贅井序︑⁝古河朝倉大夫家︑蔵清人朱弐穀所画耕蚕図︑写其一一一時勤
敏之態⁝⁝
﹁崎陽画家略伝﹂︵覆浦画工伝︑文化元年1813追加︶逸然門人秀
四四
鄭培
︑
石派略譜︑逸然門人若芝派略譜︑南頻流略譜︑費漢源流︑大鵬流墨
﹁長崎画人伝﹂︵渡辺秀実︑天保元年1830)釈性融︑字逸然︑浙
江仁和人︑正保二年1645︑寛文八年1668歿︒崎陽興福寺︒陳元興︑
元禄十六年1703歿五十六オ︒釈正鰈︑字大鵬︑享保七年1722︒
︵補
︶
楊雅︑字伯頌︑号君山︑小字利藤太︑職肝訳司︑学清人骰漠源︑能
画山水人物︑寛政九年丁巳十二月歿︑時年七十歳︒
﹁屠赤瑣々録﹂︵田能村竹田︑天保元年1830)逸然︒江大来︒費
晴湖︑安永六年1777未だ中国にあり︒普定︑寛永十六年1639︒
逸然
︑
正保元年1644︒道者︑慶安四年1651︒
隠元
︑承
応一
二年
1654゜
百拙
︑
正保三年1646︒喝浪︑元禄七年16940
竹 ︑
﹁画乗要略﹂︵白井華陽︑天保二年1831)
巻︱
︱‑
︒心
越︵
寛永
中︶
︑
木惹︑大鵬︑竺庵︑逸然︑沈南頻︵呉興人︑来寓長崎一︳一年︶︑伊平
九︵呉興人︶︑方西園︑李用雲︵墨竹︶︑野漢源︑宋紫岩︑諸葛白岩︑
﹁続長崎画人伝﹂︵荒木千州︑嘉永四年1851︑
﹃画
論大
観﹄
中所
収︶
陳清斎︑寛文中1661,1673゜沈鈴︑享保十六年1731︒高鉤︑南頻弟
子︑同時渡来︒高乾︑同上︒鄭培︑南頻弟子︑享保中1736︒
費瀾
︑
者渓人︑享保十九年1734︒宋紫岩︑宝暦八年1758︒諸葛晋︑南陽人︑
延享五年1748︒梅宗盛︒伊海︑享保五年1720︒陳斬︒翁志︒李用実︒
高乗鉤︒狂永︒汗鵬︒金坤︒許自宏︒徐樹三︒朱綬︒方済︑安永元
年1772︒張秋谷︑天明中
17
81
,
1789︒孟涵九︑文化中1804,1818︒江
橋本コレションの来舶画人関係資料
四五
大来︑文化中︒陸雲鵠︑文政二年1819︒陳知︑天保三年1832゜華毘
田︑
天保
十一
二年
1842︒顔亮生︑弘化三年1846︒
﹁古画備考﹂長崎画系︵朝岡興禎︑安政一二年1856
以前
︶千
洲門
人︑
逸然︑陳元興︑大鵬︑沈南頻︑伊学九︑費漢源︑江稼圃︑
﹁古画備考﹂巻二五︑名画十三︑長崎︑来舶人︒孟涵九︒方西園
︵安
永甲
午
1774漂着房州︑官令遣還本園︶︒伊学九︵享保十一年
1726始て来︑延享中1744,1748にいたり︑廿余年往来す︒宝暦九年
1759長崎にきたる︶︒沈南頻︵呉典人︒享保十六年1731来
る︶
︒骰
漢
源︵楊伯頌すなわち利藤太に教う︒楊伯頌は寛政九年1797七十オで
歿す︶︒江泰交︵杭州臨安人︒文化元年1804始て来︒同六年1809ま
で渡
海仕
る︶
︒
来舶人︒伊学九︑山水︒方西園︑石梱小禽︒徐樹三︑怪石倫身︒
費漠源︑帰去来図︒鄭培︑草花︒稼圃︑墨梅︒沈南頻︑一鷺功名図︒
孟涵九︑書画︒朱柳橋︑書画︒右仁杉李院扇譜゜
鄭培︒善花鳥︒梅宗盛︑山水︑陳斬︑花鳥︒李用雲︑墨竹︒注鵬︑
杭人︑書画︒高乾︑花舟例毛︒高鉤︑花舟銅毛︒高乗鉤︑花島︒宋
岳︑者渓人︑書画︒許自宏︑画︒金坤︑雲問人︑花鳥︒朱弐穀︑人
物︒諸葛晋︑南陽人︑人物山水花烏゜
﹁長
崎古
今学
芸書
画博
覧﹂
︵西
琴石
︑明
治十
一ー
一年
1880)
0
近時流寓清国諸家︑画︑潟鏡如︑画︑王冶梅︑〇書画雑技︑逸然︵正保元
年1644)
百拙
︵正
保一
二年
1646)陳玄典︵元禄十六年歿1703
五十
六︶
心越︵延宝五年1677)︑伊学九︵享保五年1720)︑大鵬︵享保七年
張秋穀五 離合山水二幅鄭
培一
︱‑
︑費
漢
1722)︑竺庵︵享保八年'1723)︑汎南茄︵享保十六年1731)︑費漠源
︵戚千里等二交ル︶︑方西園︵安永九年1780)︑費睛湖︵寛政問1789
1801)︑張秋谷︑江稼圃︵文政五年1822)
︑胡
兆新
︵稼
圃と
同時
︶︑
孟涵九︵書家︶︑陳逸舟︑顔亮生︵画梅︶︑王克三︵文久三年1863)︑
徐雨亭︵克三と同時︶
﹁長崎派写生南宗名画選﹂︵恩賜京都博物館編︑
﹁長
崎派
美術
展﹂
即非二︑雪機定然一
源二︑方西園三︑費晴湖二(1788
を含
む︶
︑
昭和十四年︶沈
南頻六︵1733,1736,1751,1753を含む︶︑高鉤一︑鄭培二︵うち一は
双幅︶︑伊学九二︵うち一は離合山水三幅対︶︑費漢源一︵双幅︶︑
諸葛晋一︑李用雲一︑孟涵九一︑方西園一︑張秋谷二︑張秋殻一二︑
陳逸舟二(1847
︑江
稼圃
一二
(1809,1817を含む︶︑王克三二︵うち一
は徐雨亭と合冊︶︑徐雨亭二︑逸然二︑即非三︑大鵬二︑
楊道
貞一
︑ 苗 爵 一
︑ 苗 道 生 一
︑ 逸 然 三
︵ う ち 一 は 三 幅 対
︶
︑ 江 泰 采
一︑察輝一︑韓苺純一︵三幅対︶︑沈南頻三
(1
74
5,
1756
を含
む︶
︑
鄭培二(1749を含む︶︑費漠源二(1756と画冊︶︑張秋殻一︑方西園
四(1771を含む︶︑伊学九二︑李用雲一︑呉雲賓一︑江稼圃二︑陳
逸舟一︑王克三二︑徐雨亭一︑
﹁長
崎派
美術
展﹂
︵本
問美
術館
︑昭
和五
十二
年︶
逸然
三︑
木庵
一︳
一︑
︵三
幅対
︶︑
高泉
二
(1664
を含
む︶
︑柏
巌性
節一
︑
陳賢一︵1670)︑心越三︑大鵬二︑
を含む︶︑沈南頻六(1738,1750,1758,1760
を含
む︶
︑
伊学九四(1745︑
張秋
谷二
︑
︵神奈川県立近代美術館一九六六年︶陳賢二︑ ︵うち一は七十三オ作︶︑程赤城一︑江稼圃五(1805I
︱ ︱ 点
︑
19101
点︶
︑陳
逸舟
一︱
‑︵
1827,1844,1849)︑王克一二二︑徐雨亭二︵うち一は
1863)︑渇鏡如二︵うち一は1878)
︑胡
鉄梅
二︒
橋本コレクション来舶画人リスト︑
e
陳元抒︑故山西湖図︑絹本星画淡彩︑軸︑12.2X 20.1元料
︑﹁
符﹂白文方印︒字義都︑士昇︵升︶︑号差項子︑虎峨道人︑頑壺逸
史︑玄香斎︑既白山人︑升庵︑菊秀軒︑等々︑杭県人︑1587,1671︑
陳元賛については小松原濤氏の詳細な研究がある︒
︵﹁
陳元
賛の
研
究﹂︑雄山閣︑昭
4 7 )
︑それによると︑宋の陳簡齢の裔で︑科挙の落
第生
と推
定さ
れ︑
少林
寺山
門に
入っ
て拳
法と
作陶
を体
得し
︑一
︱‑
+︱
︱︱
オのとき︵元和三年1619)商客に委身して︑ぶらりと日本を訪れた︒
半貿易・半観光の短期旅行であったと推定される︒長崎に上陸し︑
病気の為やむなく逗留するうち︑明の使節単翔鳳の一行に従って上
洛し︵元和七年1621)︑板倉重宗・金地院崇伝・林羅山・石川丈山
らを知り︑当時の政界・学界の動向を見聞し︑滞在の決意をかため
寛永二年1625江戸に入り︑翌年伊達正宗・将軍家光に謁した︒その
間元和七ー九年︑毛利藩の客分となり︑﹁長門国誌序﹂を狩々居に
て脱稿している︒江戸に上って間もなく︑曹洞宗虎嶽山国昌寺の建
立を援け︑その朱印船貿易に関り︑詩儒︑唐音学︑書道の各方面で
名声をたかめた︒寛永十五年1638五十ニオで尾州藩主徳川義直に六
四六
十石で仕えるようになるまで︑長崎・京・尾張・江戸の間を往来し
ていたと思われる︒時あたかも島原天草の乱を経て鎖国令が発せら
れ︑故国の明も崇禎十七年1644京師が陥落し︑その余喘も永明五十
六年1662には絶えた︒慶安二年1650敬公歿するや二代の光友に仕え︑
日本人を妻とし一子を儲け︑門人への授業や陶家墨客との交遊に日
を過した︒万治二年以降︑僧元政と契合し︑生平唱和するところを
集めて寛文三年1663﹁元元唱和集﹂を刊行し︑詩壇に衝撃を与えた︒
藩祖廟建立に際しては儒教的構想による設計をなし︑応夢山定光寺
の霊廟を残した︒元費の宗族は長崎にも居り︑隠元1592,1673
の招
請に積極的で︑万治元年1658隠元が将軍家綱に謁して江戸を発足す
る際︑その歓送の人々の中に元賛も居た︒又︑独立1596︑1672
の母
も陳氏の一党だという︒帰化医頴川入徳は朱舜水の寓居提供者で︑
独立と舜水は承応二年1653入徳の家で会っているが︑この入徳も陳
氏であった︒舜水は寛文五年1665水戸藩の招聘をうけて江戸に向っ
たが︑この頃元餐と会ったことがその文集からわかる︒又︑元賛と
木庵
16
11
,
1684や即非らの明僧との交渉も推定されうる︒元賛は長
崎の興福寺︵南京寺1629)︑福済寺︵流州寺1628)︑崇福寺︵福州寺
1629)の三福寺創建よりも前︑わが漢画の祖と称される逸然の来朝
1644よりずっと早く︑即ち黄壁画風が盛んになる以前に来朝した画
人である︒ただ︑元賛はもともと科挙を目指しており︑その来朝も
三十一ニオと比較的若年で︑その問本国で本格的に画業を修めたかど
うかは疑わしい︒遺品は極めて少く︑山水画はこの一点しか知られ
橋本
コレ
ショ
ソの
来舶
画人
関係
狩料
ある
︒
四七
ていない︒諸種の記録が画竹をつたえるところから文人余戯の画で
あろうか︒又︑いわゆる元賛焼の陶器に絵付をしたかも知れない︒
この故山西湖図をみると軽妙な筆致で動きのある構図をつくり︑
清朝文人画及びそれを受けた来舶画人の画にままみられる型にはま
ったところがない︒近景と遠景の対比の卓抜さなどは明末の画風で
一体︑明末万暦から清初康熙にかけて︑即ち十六世紀の中ば
すぎから十七世紀の後半にかけては︑中同絵画史上︑最も多彩な展
開を示した時期である︒画院の流れをくむ浙派と呉派文人画の対立
という大きな枠はあったにせよ︑実際はインディヴィデュアリスト
達の空想力が百花斉放した時代であった︒そして地方毎にそれぞれ
独自の様式が確立した︒松江派・雲問派・華亭派・金陵派・安徽派•江西派などと称される画派がそれであり、又、・創作的傾向のつよ
いものと倣古的なものと相交るなど︑極めて豊饒な時代であった︒
ところがこの時期の明清画は直接的にはまったく受け入れられてい
ない︒江戸中期をすぎて明清画がさかんに輸入されるようになって
漸く熱心に収集され臨模されるようになったのである︒従って︑雪
舟による古いクイプの浙派の移入後︑伊学九や沈南頻による清朝絵
画の受容まで︑その間を繋ぐものはやや特殊な黄業系の明画であり︑
明末清初の中国の活気あふれる画壇の空気は全く伝えられていない
といってよい︒それを綾かに感じさせるのがこの陳元聾の山水画で
あって︑橋本氏はその清新な画風から元賛の故郷杭州の風光を写し
たものとみて湖山西湖と命名されたのであろう︒しかも比較的若い
R
来の黄業文化の流れに居る画家と推測される︒ らない︒本図の筆墨・様式・捺印形式などを併せ考えると︑清初渡 山福済寺の謂であろう︒又同寺号の寺院は福建にも他地方にも見当 ともに来舶人の誇示とも考えられる︒款識の分紫山房は長崎の分紫木庵︑垂柳翡翠図︑紙本淡彩︑軸︑27.5
x
25,3︑賛
︑這
様長
尖嘴
︑
唐に圃山に改められた︒款署の唐は︑﹁名家詳伝﹂にみる唐居士と ◎ 頃の作品ではなかろうか︒元行は敢新の詩派公安派︵性霊派︶を信奉し︑哀宏道1568,1610の詩風すなわち古文辞派に対して自由な心
情の吐露を旨とした︒この画にもそのような気分がみえるように思
う︒なお︑この画の旧蔵者は不蔵奄1761,1842で︑江戸下谷の洞喪
寺の住職︑のち遠州浜松に寓居し︑次で三河岡崎に移り︑廿余年間︑
遠一二地方に宗編派の茶道をひろめて︑天保十三年に歿した︒
察簡︑芦葉達磨図︑紙本墨画︑軸︑112.7X36.8
︑賛︑一葦渡
江︑九年面壁︑升甘露門︑庶期生得︑唐岡山察簡写分紫山房︑﹁察簡﹂
朱文方印︑﹁隆周﹂白文方印︑﹁香雪斎﹂引首朱文方印︒察筒につい
ては︑﹁支那書画名家詳伝﹂︵近藤元粋編︑1909)清人部巻十九に︑
字隆周︑号唐居士︑魏雪斎︑山水人物花鳥を善くす︑とあるも出典
不明で︑作品に拠ったものかとも思われる︒﹁拮印大正印譜補正﹂
巻二︵寛政十二年1800︑木村孔恭跛︑享和二年1802初刻︶模土明人
部に︑察簡︑字隆周︑﹁察簡之印﹂朱文︑﹁隆周氏﹂朱文を載せるが︑
明人に編入した根拠は不明である︒固山は福州府志等によれば︑固
侯県の西南隅にあって城内眺望の美は第一といわれ︑旧名は烏石山︑ 釣魚不用鈎︑柳梢飽後宿︑解更上灘頭︑木庵組︑﹁木庵﹂朱文方印︑﹁釈氏戒瑠﹂白文方印︑﹁方外学士﹂引首白文方印︑﹁木庵﹂朱文円印︵画中︶木庵
16
11
,
1684︑名性瑠︑俗姓呉︑福建泉州人︑順治七
年1650隠元に嗣法︑明暦元年1655渡来︑寛文四年1664
黄業
山第
二世
︑
延宝八年1680紫雲院に退休︒特に珍らしいものではないが︑素人画
ながら筆墨の蹂径に拘束されぬ奔放さと形態の奇嬌さに︑福建の地
方様式と明末の逸格の画風につながる気分をみることができよう︒
⑲即非︑竹石図︑絹本墨画︑軸︑
88
.
7 X
33
. 5︑賛︑多福一叢竹︑移
来絹上縁︑即非筆︑﹁如一之印﹂朱文方印︑﹁如一之印﹂同印︑問章
﹁雪画﹂朱文方印︒即非1616,1671︑名如一︑号雪峯︑俗姓林︑福
州人︑順治八年1651隠元に嗣法︑明暦三年1657渡来︑寛文三年1663
登槃して本師を省親︑帰国せんとするも豊前小倉の小笠原忠真の請
で広寿山福疑寺を開き︑崇福寺に退隠して寛文十一年歿︒即非の画
もそう珍らしくはないが︑竹石の画は松石図と共に誕生や住山の賀
に画かれることが多く︑業僧とその外護者や信者の問で交わされる
もので︑いわば仲問うちの画であった︒従って福州土着の画法・様
式をよく伝えていると思われる︒黄漿山万福寺には福建甫田の画家
趙殉が隠元の八十の賀のために描き︑崇福寺の道俊が着替した松石
図があるし︑居士陳浩は自分の近侍する隠元の七十の賀のために自
ら松石図を描いた︒この竹石図もその賛からみて何か祝賀的な意味
をこめて描かれているかとも思われる︒又この画はかなり囮習を示
している︒桑山玉洲の﹁玉洲画趣﹂︵寛政二年1790)
によ
れば
︑﹁
本
四八
R
し候にも︑林良などが如き豪放なる郷体のみを佳妙と致申候唐土u 朝の人は兎角用筆の疎放なるを相好候事御座候︒依て唐土の画を評の賞鑑家にて妙品と致候は︑皆渾厚清雅の体にて御座候﹂とある︒
林良は広東人であるが郷体ということは福建にも当嵌る︒我国は気
質的にもこの郷体を受け入れ易かった︒しかし玉洲以後の文人画家
はその教養ゆえに榔体を斥けるのである︒黄業画の郷体は︑中国人
同志の仲間内の性格がつよかったことや︑反面狩野探幽らによって
創められた江戸狩野画風に通じる点もあることなどによって︑特に
反撥も受けず又特に流行もしなかった︒黄業画風の特異性が意識的
に活用されるのは池大雅や伊藤若沖らの江戸中期以後である︒初期
槃僧の我が画壇に対する功献は自作の画であるよりもむしろ彼らの
舶載した明画にあるといわれる所以である︒
察輝︑王維詩意山水図︑絹本水墨︑軸︑
37
.
5 X
22
. 5︑賛︑山中
一夜雨︑樹抄百重泉︑庚戌1670夏月写察輝︑﹁察輝﹂朱文方印︑﹁蘊
光氏﹂白文方印︑間章﹁米家船﹂朱文印︑晋江︵泉州︶人︑黄槃隠元
六十初度寿詩の書画巻に察輝の山水図がある︒︵黄業山万福寺︶楊
明瑕の題字︑張潜夫の寿詩があるが︑潜夫は泉州府晋江県の人︑崇
禎十三年1640の進士である︒この図の款識は︑辛卯1651子月写祝隠
和尚初度晋江察輝︑﹁蘊光﹂白文方印︑﹁察輝之印﹂白文方印︑問章
﹁米家船﹂朱文印︒画史には明人山水を善くすと伝えるが︑来舶し
たかどうかは明かでない︒
高泉︑普賢菩薩像︑絹本淡彩︑軸︑88.6
x
23.5︑賛︑尊者編吉R
橋本コレションの来舶画人関係資料
@
四九
白玉其質乗白象王i座々編入以大誓願如海含容令一切衆入此海中︑壬
寅年1662十月聖制日︑黄業高泉激敬拝手讃︑﹁性激之印﹂白文方印︑
﹁高泉氏﹂朱文方印︑高泉︑字性激︑号雲外︑曇華道人︑俗姓林︑
泉州府福清県人︑順治十八年1661二十八オで福建の黄業山で慧門に
嗣法︑その年隠元に招かれて来日︑後水尾天皇の帰依を受けた︒元
禄五年1692黄槃第五世を襲い︑同八年江戸に下り将軍綱吉に謁しそ
の年歿す︒これ又︑特に論ずべき点はないが︑一見江戸狩野風であ
る ︒
心越︑牡丹図︑紙本墨画︑軸︑102.6
x
41
. 6
︑款
署︑
東果
越杜
多︑
﹁心越﹂朱文方印︑﹁方外士人﹂朱文方印︒菊図︑紙本墨画︑軸︑
42.6
x
52.1、華g識、玉暉〖金風香更清、東呆越、「心越」朱文方印、「西湖一人﹂白文方印︑﹁臥滸泉石﹂問章白文印︒福禄寿三星図︑絹本
墨画
淡彩
︑軸
︑
95.2X 95.2︑瑞島棲遅不記春︑乾坤任運楽吾身︑喜
来永福添等算︑大遂倶箔雨露新︑樵雲心越写︑﹁越道人﹂朱文方印︑
﹁?
﹂白
文方
印︒
心越︑名興儲︑字兆隠︑号東泉︑樵雲︑浙江金華人︑延宝一一一年
1675来日︑長崎の曹洞宗興福寺に住す︒明末の争乱を避けたとも︑
興福寺の澄一和尚に招かれたとも︑徳川光囲が招請したとも伝える︒
水戸侯の帰依を得て寿昌山祇園寺を開いた︒隠元は他界していたが︑
その一流からの風当りは強かった︒著に﹁東泉集﹂一巻があり︑風
外和尚は画法を心越より受けている︒牡丹図︑菊図は禅僧余戯の画
であるが︑三星図は本格的な技法を示す珍らしい遣品である︒その
謝時中︑夷斉山居図︑絹本墨画淡彩︑軸︑124.4
x
46.7︑ 応 索
於長崎府甲寅1674年冬戯写夷斉山居□江謝時中︑﹁一味禅﹂白文
方印︑﹁?﹂白文方印︒市河米庵の﹁小山林堂書画文房図録﹂
永元年1848刊行︶巻丙に明謝時中︑蘭石図︑絹本一尺六寸︑
の図版が掲載されている︒これは東京国立博物館に収蔵されている
ものと寸法の差はあるが同一のものであろう︒︵﹁日本現在支那名画
日録﹂原田尾山︑昭和十三年︑所収︑一尺五寸︑一尺八寸五分とあ
り︶米庵は謝時中の画を数幅みたことがあるといい︑筆力勁秀で人
R
独湛︑芦葉達磨図︑絹本淡彩︑軸︑
91
.
8
x
33.8︑独湛性螢敬写︑﹁黄業四代﹂白文方印︒一葦航海︑万里漂洋︑是此妙法︑都度衆生︑
天間独立拝題︑﹁易﹂朱文方印︑﹁独立﹂白文方印︒独湛1628,1706
名性螢︑俗姓陳︑興化︵福建︶人︑承応一︳一年1654︑隠元に従って来
舶︑一六六四年嗣法︑遠州金指に初山宝林寺を開創し隠元を開山に
奉じ自ら第一代となった︒住山十八年︑上州に国満寺を開き二山と
称し開山となった︒天和一二年に黄槃四代を継ぎ︑元禄五年1692塔頭
獅子林に退休した︒禅浄兼修を実践し︑念仏独瀧と称された︒独瀧
の墨戯︑ことにその仏画は妙手で︑梁僧中第一に挙げられる︒本図
は独立の賛から芦葉達磨としたが︑実際は出山釈迦像であろう︒又︑
独湛が黄業四代を嗣いだ時︑独立は既に歿しており︑この点この図
の着賛に疑問がある︒
R
二尺 ︵ 嘉
でき
る︒
のち長崎に帰 力強く桔屈する描線や表情のどぎつさに浙派の人物画の残影を見る思
いが
する
︒
物山水を巧みとし︑特に謝時臣との類似をいい︑蘭石図については
清人の習は絶無だとして︑謝時臣の兄弟ではないかという︒又︑寛
政五年1793︑讃岐の長町竹石らが暢春楼で中国書画の展覧会を催
し︑本土から浦上玉堂らが数点を携えて参加した︒目録の凡例を青
山雲隣が書いているが︑宋元書画は疑わしいものが多いので︑尤な
るもの一︑二を挙げて余は悉く収録しなかった︒と断っている︒清
人は康熙御筆・伊海・費漢源ら数人のみで︑方済・費睛湖らは現存
しているので目次に入れなかったという︒この展覧会目次中に﹁謝
時中老子出関図絹本巨幅﹂とあり︑温故堂所蔵となっている︒浅野
梅堂の手記に絹本の白梅小禽図を慶応二年に観たことが記されてい
る︒又︑安西雲煙の手控中にも謝時中の東方朔の一軸のあったこと
を記す︒某家に謝時中の逹磨図と人物図の計三幅が現存し︑そのう
ち一幅に林道栄の題賛がある︒道栄︑名は応采︵来︶︑字款雲︑詩
文・書に一家をなし︑玄岱と雁行し崎陽の二墨妙と称された︒彼は
中国語が達者だったというから或は通詞をしていたかとも推測され
る︒寛永十一年1634生れ︑元禄十六年1703に歿す︒万治年間1658
̀
1660に江戸に出て薙髪して道栄︑又官梅と号した︒
っている︒従って夷斉山居図の甲寅は延宝二年1674と決めることが
米庵が謝時臣の兄弟の画風と見た如く︑この画には浙派の山水人
物画を思わせるものがある︒浙派とは呉派文人画に対するもので︑
董其昌あたりからその呼び名があらわれる︒成化・弘治頃から文人
五〇
画家と職業画家︵宮廷画院を中心とする︶の画壇勢力が交替し︑嘉
靖に入ると文人画風が確立すると共に︑呉派が画壇において絶対的
優位を獲得した︒董其昌の南宗北宗の論︑文人画の命名はそのあら
われであるが︑呉派の勢力が次第に強くなるとその淳秀幽濃の画風
を称揚し︑浙派については奇蛸躁硬の疵ありとするようになった︒
︵沈
顆
1586,1661﹁画塵﹂︶董其昌自身には称南貶北の論はないが︑
董を受けつぐ徒が北宗は邪派なりとして浙派末流に追打ちをかけた︒
例えば屠隆1542
̀
1605は︑士大夫の画は画工の院気を除き邪学を絶無ならしめる士気の画であるという︒︵﹁画箋﹂︶この邪学即ち北宗
の画系は沈願によれば戴文進・呉偉・張路を頭とするものであり︑
層隆は明末の収蔵家項元沖の﹁蕉窓九録﹂を引用して︑鄭填仙︑張
復陽︑鍾欽礼︑蒋一︳一松︑張平山︑江海雲らについて邪学の徒であり︑
狂態を退ましうするといっている︒﹁蕉窓九録﹂は偽託の書とされ
るが︑鈴木敬氏によれば︑偽託であるにせよ尚南貶北論を項墨林の
所説としたところに明末の評画者流の意図を推察するに足るといっ
ている︒︵﹁明代絵画史研究・浙派﹂昭和四十三年︶古いところでは
何良俊が南宗北宗とか浙派と言わずに所謂浙派末流の画家達をとり
あげて非難している︵﹁四友斎叢説﹂︶し︑唐志契1579ー1651も先の
鄭顕仙以下の画家達を邪学と称している︒︵﹁絵事微言﹂︶唐岱1673
̀
1752は米庵が謝時中の兄かと推定した謝時臣について︑これを戴進
・呉偉の系列に入れ山水中の正派に非ずといっている︒︵﹁絵事発微﹂︶
謝時臣1487,1567は呉県の画家だが徐心は戴・呉に学ぶとし︵﹁明画
橋本コレションの来舶画人関係資料
五
録﹂
︶︑
韓昂
は沈
周の
意を
得る
とい
い︵
﹁図
絵宝
鑑続
編﹂
︶︑
米沢
嘉圃
氏
は南北両宗の中間にあってかなりの振幅をもつといわれる︒謝時臣
と謝時中の年代が異ることは明かであり︑しかも張庚によって浙派
の殿将とされる藍瑛1585,1664
より
更に
遅れ
る︒
︵﹁
国朝
画徴
録﹂
︶橋
本末吉氏は浙派系の画風及び画人は藍瑛以後も皆無とは言えぬとさ
れ︑来舶画人にこの風を持つ画のあることを珍重される︒この夷斉
山居図はいわば通俗的な職業画家向きの題材を扱っており︑構図法
は右下から左上にかけて斜めに配された岩の線をはさんで二人の人
物を対峙させ︑その岩の線が画面の左端に突きあたるところから︑
それとほぼ直角に土波の線が右上に延び画面の一番奥を限っている︒
それに平行して茅屋の屋根の線が走り︑それとほぽ直角に松が画面
右手前から左上に向って伸び︑その頂は左下に向ってほぽ直角に折
れ曲る︒そして同じ形を幹の途中から分岐した枝がもう一度繰返し
ている︒つまり斜めの線をほぼ直角に複雑に交叉させて構図をとっ
ており︑その画面は燥がしく平板であり︑全体として左下から右上
への対角線で画面を左右に分けて︑右側におもく︑所謂辺角の景を
とっている︒用墨は枯燥で濃く︑描線は渋滞し人物の衣文の線は桔
屈する︒岩には濃墨で斧勢披を入れているが︑運筆が重く塗りつぶ
したように見える︒随所に素地を塗り残して︑明暗の対比を強調し︑
岩頭の輪廓線と披との間がめだつ︒松や岩︑茅屋や人物の形は古様
である︒これらは確かに浙派にみられる特色であり︑それも謝時臣
というよりも︑弘治画院の画家で十五世紀末から十六世紀の初頭に
〶 かけて活躍した王詞あたりの画風に近い︒つまり謝時臣より古い画風の名残りを感じ取ることができる︒
室町時代の水墨画は応仁の乱以後︑雪舟をはじめ競って浙派画風
をとり入れた︒その画風のもつ筆墨の力強さ︑構図の明快さが︑新
しい動向に適合したからであろう︒しかし一口に浙派といってもそ
の内容は非常に複雑であって︑鈴木敬氏は大きく四つのケースに分
類しておられる︒王誇は浙江の出身で︑馬遠・夏珪派つまり南宋院
体画風を受けついだ一派に属し︑今の馬遠と称されたという︒王誇
の画風は浙派の中では比較的我国の画人たちにとっては受け入れや
すい方に属するであろう︒謝時中の画風にもこの様な面が感じとら
れ︑しかも黄業関係を除いて来舶画人としては早い例であり︑我国
の伝統的な趣好が窺えて興味深い︒ただし某家所蔵の一二幅はいづれ
もこの夷斉山居図とは画風が異なり︑謝時中はさまざまな画風を描
き分ける職業画家であったと推測される︒因みに︑谷文屎が文化五
年1808に出版した﹁歴朝名公款譜﹂の清人款法の冊に謝時中の落款•印章を二組のせている。その一っは夷斉山居図と阿じ甲寅の年記
があるが︑画題その他は不明である︒
沈南頻︑雪梅群兎図︑絹本設色︑軸︑165.0
x
80.0︑歳抄南頭沈鈴写︑﹁沈錘之印﹂白文方印︑﹁南頻﹂朱文方印︒老松双
鶴図︑紙本設色︑軸︑169.3
x
90.3︑擬北宋人筆意南頻沈鈴︑﹁沈鈴之印﹂白文方印︑﹁南頻﹂朱文方印︒享保十六年1731長崎に来り︑同
十八年1733九月帰国︒この両図は周知の名品であり︑沈鈴の甚準作
丙申
1716 である︒清代の花鳥画は︑憚南田にはじまる没骨花舟の常州派が有名で︑やや遅れて西洋画風をとり入れた郎世寧がある︒沈鈴は郎世寧と同時代である︒中国の花鳥画は古来︑彩色華麗な黄氏体︑水墨縦逸な徐氏体と区別されてきたが︑明の花烏両は呂紀・林良に代表される画院系と陳淳・徐渭らの文人花舟画がある︒沈鈴は明以来の画院花鳥画の伝統を引く職業画家で︑明・清のさまざまな画風を折衷したり使い分けている︒技巧は確かであるが中国では特に際立つ画家ではなかった︒橋本コレクションの中にも類似の画風をもつものが幾つかある︒例えば孫杖の牡丹図︑藍磁の玉堂貨貴図1679︑虞
玩の菊花小禽図1681︑馬茎の紫授白頭図1714などで︑いずれもやや
古く沈鈴とは同等以上の技侮を示している︒孫杖は銭塘人︑筆晟道
勁︑設色濃随とされ︑古風で軽描淡染の現代風とは異るとされ︑勾
勒及び飛白の墨竹も有名であった︒︵明画録︑図絵宝鑑続篠︶藍滴
は浙派の殿将とされる藍瑛の子ですこぶる旧法ありとされ︵国朝画
徴録︶︑虞玩は江都人で︑花舟俄毛は鈎染工整で賦色研雅︑古人の
遺法ありとされる︵国朝画徴続録︶︒馬茎は元駁の孫女︑常熟人で家
法の写生の花草をよくした︵国朝画徴続録︶︒又︑﹁玉台画史﹂所引
﹁呉徳旋初月楼続聞見録﹂には︑馬元取の女とし︑武進の憚南田の女
憚泳︵﹁朝画徴続録﹂では南田曾孫︶の没骨風花升と並べて︑その勾
染の花舟画を江南人は双絶と称したという︒沈鈴は呉興人︑鈎勒描
と鮮麗な賦彩を特色とする古風な画家の方に属する︒因に惰人方蒸
の﹁山静居画論﹂は写生家の手本として黄笙・徐熙.趙昌の一二人を
五
~
挙げるが︑設色花舟画には墨花の法を用うべきであるといい︑この
点からすれば唐宋の院体より︑元明の花升画が優れるという︒そし
て沈周・陳淳・徐消の卓越をいい︑憚南田は徐熙の心印を得たもの
として称揚している︒又︑周之畏・陸治・陳括・陳洪綬らを高く評
価している︒もって乾隆期の花鳥画に対する一視点を窺うことがで
きる
日 ︒
本で
の評
価は
︑
例えば玉洲の﹁絵事榔言﹂によれば︑﹁南頻ハ
舶来ノ第一ノ画品ナレトモ北宗ナリ︑又民間二蔵スル所多ク製作或
ハ代筆ニテ直蹟至テ得難シ﹂という︒来舶後半世紀でこの有様であ
るから余程流行したものであろう︒南頻自身の名声も来舶後我国に
おける活躍によって確立したもので︑その遣品も来舶以後の年記を
有するものが多く︑雪梅群兎図のようにそれ以前のものは稀である︒
我国には現在も尚数多くの画蹟を存するが︑数量の多さ出来不出来
の差などから︑南頻工房作といったものを想定すべきだとの説が一
般で
ある
︒
高乾︑春王雙喜図︑絹本設色︑額︑39.0X 67.7
︑含
山高
乾写
︑
﹁高乾之印﹂白文方印︑﹁其昌氏﹂朱文方印︒贅︑別紙︑紙本︑額︑
薔薇花開衣黄裳︑桑燕飛来緑葉傍︑試看此中幽景好︑朝ミ雙喜報春
玉︑予謳寓於海上之長崎日︑以筆墨破間︒乃有長門雅客︑不以予画
為拙︑属意千予︑因写春王雙図︑聯博高明賞鑑︑石門高乾拝稿︑
﹁高乾之印﹂白文方印︑﹁其昌﹂朱文方印︒高乾︑字其昌︑号蔀庵︑
含山︑石門︵浙江︶人︑沈南頻の門人で同時に来日した︒中国には
橋本
コレ
ショ
ンの
来舶
画人
関係
資料
五
その伝を見ないがすぐれた画技の持主で︑南頻帰国後も滞在した可
能性
がつ
よい
︒
鄭培︑柘梱小禽図︑紙本設色︑軸︑
97
.
3 X
38
. 5︑鄭培写︑﹁鄭
培﹂白文方印︑﹁山如﹂朱文方印︒鄭培︑字山如︑号古亭︑背渓人︑
享保年間に来日して沈南頻に学んだという︒南頻ほどの気宇はない
が︑南頻風を忠実にうけ継ぐ職業画家であろう︒中国にはその伝が
なく︑我国に比較的多くの遺品があり︑あるいは南頻帰国後も滞在
していたかと思われる︒
R伊海︑山水図︑紙本墨画︑軸︑126.4
x
28.3︑不知山市処︑只見一閑亭︑呉舶学九画︑﹁学九﹂朱文方印︑﹁人外之
1
﹂白
文方
印︒
安西雲煙の﹁近世名家画談﹂第二編︵天保十五年1844)に藤井貞幹
﹁好
古目
録﹂
︵寛
政八
年
1796)を引いて︑伊海の父が貿易商であっ
たこと︑故に名は海︑号は竿九となったこと︑享保十一年1726二
十
八番船ではじめて長崎に来り︑延享中1744,1748に至るまで二十余年
間往来したことを記し︑ほかの来舶画人に比して卓越すると批評し︑
雲水伊人︑浮鳩と款署のあるもののあること︑清水某氏の筆記に扇
工とあることを記している︒﹁元明清杏画人名録﹂︵彰百川・高芙蓉
•木村孔恭・鳥羽石隠編、安永六年1777)には字竿九、号宰野、濯
川︑世堂︑呉郡人という︒﹁続長崎画人伝﹂︵荒木千州︑嘉永四年
1851)には享保五年1720の
来日
を伝
える
︒﹁
画諏
鶏肋
﹂︵
中山
高陽
︑
安永四年1775)には﹁山水は伊学九の画格高く︑蒲散の趣有り︑偶
詩を題せるも雅致有り︑伊は落第の士にてもありしや︑其の余商舶 @
テ貴客ヲ興応スルニハ如何アルベキ云々﹂という︒
ずれも坂崎坦編﹁日本画論大観﹂上による︶
伊学九の画は橋本コレクションの山水図のような疎率簡略なもの
が多く︑本格的な描法・構成をとるものは稀で︑清初四王の様式を
受けると評せらるるものの︑それに価する画は伊勢松阪の長谷川家
の離合山水図のみといってよい︒この画は同じ松阪の豪商田丸屋中
川家から来たもので︑この中川家には京の青木家から韓天寿が設子
として入った︒天寿は大雅の弟子青木夙夜の兄で︑大雅や高芙蓉の
︵以
上の
諸本
い
徒︑何も雅画は見えず云々﹂とある︒﹁絵事螂言﹂︵桑山玉洲︑寛政
十一年1799)には︑﹁長崎に来れる清人の中にて賞すべき者は伊学
九が山水︑李用雲が墨竹なるべし云々﹂とある︒﹁山中人饒舌﹂︵田
能村竹田︑文化十年1813)には﹁伊李九海山水︑李随安用雲墨竹︑
清商中最表々者云﹂とある︒﹁槃礁腟話﹂︵森島長志︑天保十年1830
頃︶には︑﹁近世ハ文運モ盛二世人何時トナク南宗文画ナド云ヒテ︑
自然二学九ノ画ナドモ世二尊バレ︑其ノ価モ踊貴シテ容易二所蔵モ
為シ難キャウニハ成リ行ケリ︒介石翁ナドモ学九ノ本邦二至ルハ南
宗画家ノ手代ヲ差越セシャウナルモノニシテ唐贋ナドノ類ヒニハ非
ズ︑画ヲ学プ者ハ側目セズッテ李九二法ルベキナリト面談ノ節教訓
致サレキ︑然モアル事ナリ︒併シ其ハ画ヲ学プ上ニテ専ラ言ハル︑
事ニテ︑時習ヲ一洗シ俗気ヲ避ヶクル所ヲ賞スルナリ︑書斎ナドノ
玩ニハ随分可ナルベシ︒然レドモ元来舶来ノ人ハ元船頭ニテ︑此方
ニ往来ヲ事トシテ活計スル卑シキモノドモナレバ︑客館ナドニ掲ゲ 友人である︒﹁池大雅家譜﹂によれば寛保元年1741大雅十九オのと
き十五オの天寿と交誼をもったことが記されて居り︑又﹁此節清人
伊学九帰唐年也﹂とある︒田中久和氏によれば︑明和四年1767
に天
寿は大阪の客舎で伊学九の山水図十三図を縮慕し︑さらに翌年大雅
の山水図を写し︑天寿の歿後享和三年1803に﹁韓大年縮畢伊学九大
雅山水画譜﹂乾坤二冊が刊行されたという︒︵﹁韓天寿における﹃帰
居﹄について﹂国華九九七号︶﹁屠赤瑣瑣録﹂︵竹田︑文政十二年
18
29
)
には伊学九の画風について︑童北苑に黄子久を合し雲林の趣
をもって作るとある︒要するに最も普通の南宗画で大雅をはじめ我
費瀾︑柳塘漁携図︑絹本淡彩︑軸︑135.0
x
51.1︑漢源費瀾時戊午1738夏日﹁若水﹂白文方印︑﹁費瀾﹂朱文方印︑費瀾︑字漢源︑
号若水︑者渓人︑猟正十一年1734長崎に来る︒寒葉斎建部綾足は三
十六オのとき︵宝暦四年1754)奥平候から長崎にて画修行を命ぜら
れ︑清人費漢源について学んだことが彼の紀行文﹁紀行三千里﹂に
出ている︒漠源の来舶以来二十年経っているが︑来舶の時期そのも
のについてなお考うべきであろう︒﹁紀行三千里﹂は青森図書館の
伝自筆本﹁涼袋旅日記﹂上中下三冊のうち下冊に収められているも
秋の
風︑
のである︒︵綾足会︑昭和三十八年刊行︶﹁長崎︑入船やみな唐土の
ふたたびながさきの津にくだりては︵前回は寛延三年ー宝
暦元年1750,1751)︑夢にかへりたる人のごとく︑はやたいめすまじ
き人の命なりけりといひきこゆるに︑我もおもはざりき︑かず/\
⑮ が文人画家にもかなり尊崇されたことが推測される︒
五四
ち舶賣費漢源の将来するところ云々﹂とあり︑友人の建部凌岱から ど(宝暦四年七月—宝暦六年二月1754,1756)、雅事はなかるべし。 いひいでミ︑其としもくれつ︒年はふたつあまり此浦にかさねたれ
清人費漢源此津にわたりてあり︒かれは山水にたくみなりしかば︑
我レ門人となりて筆意をったふ︒漠源詩を賦して自画なん添て贈る︒
清人多く来りてあれど︑みだりに出ることをゆるさず︒花の時のみ ゆるされて︑そこの寺院に遊ぶ︒われもゆきてともに唐土人に立交
おかしき興なるべし︒酔ことに通詞はいらず花の友︒﹂な
お凌岱の初めの長崎行の際には態斐・元徳︵玄徳︶に画を学んでい
るが︑紀行文﹁浦づたい﹂︑﹁花がたみ﹂には漢源のことは出てこな
い︒漠源は通商人でたびたび中日間を往来していたのかも知れない︒
天明七年1787︑江戸の画家鈴木芙蓉によって編
f l J
された﹁費漢源
山水画式﹂三冊があり︑その序には﹁余家山水画式一本を蔵す︒乃
もらったものであった︒凌岱が歿した安永三年1774には芙蓉はまだ
二十八オの若冠であったから友人といえるかどうか疑問であるが︑
芙蓉は自説の性好別オの論すなわち画はまず嗜好あって師を求むも のだといって我友建孟春と書画を論じたらしい︒その結果遂に凌岱 永年秘蔵の本巻をまき上げ︑十襲珍重していたが︑弟子の杜雄飛が しきりに刊行をすすめるので遂に事ここに至ったという︒費漠源は
元文年間1736,1740に長崎に来て非常に画名が高くその画も沢山あ
ったが︑この刊本は決して漢源の家事の法によって編まれた訳では なくて︑ただ拳謄して伝えるだけだという︒これには序引もないが
橋本
コレ
ショ
ンの
来舶
画人
関係
資料
りた
る︒
五五
体裁を失するので﹁費氏画式﹂と名づけたといい︑山水のみで花舟 人物のないのを惜しみ︑原本には条理に差誤があるので︑宗党でか
つ師たる沢元橙︵旭山︶についてこれを質し共に校訂したという︒
これによると凌岱二度目の長崎行の際︑横源から授かったものかも
知れない︒又刊本には乾隆五十七年1792の費晴湖の序文があり︑そ
れによると漢源は晴湖一族の従祖で
1
々浙江の者渓に住み︑晴湖は直接その指授を受けたことはないがその庭訓を習聞したという︒人
柄は質直︑気質は右碑落で︑客遊官遊してその足跡は喪宇に遍くかっ
て渡航してこの長崎に僑居していたという︒性は山水を愛し丹青に 耽り尤も人物画に巧みで︑気が向けば描くけれども強いてすること はなかった︒だから家郷の笥簑にはわずかに十の一存するのみであ り︑機会のあるごとに購入してきたが︑次第に遇目することが少<
なってきた︒ところが今度長崎にきて芙蓉の模写した山水画式三巻 をみるにつけ︑計らずも族老の手沢が遠く扶桑にあることを知った という︒睛湖の叙述からみると漢源は舶貿のようでもあり︑職業画 家とは言えないような気もするが︑この柳塘漁携図は甚だ巧みな筆 致で江南風景を描出し︑来舶画家のうちでは腕の立つ方である︒当 時清朝の画壇は四王の正統的文人画風をつぐ張宗蒼や董邦達が活躍 し︑また一方で形式化した文人画や宮廷画に対して︑華納や黄慎ら いわゆる楊州八怪の逸格画風が流行していた︒その間にあって費漢 源の技柄は新鮮さはないがかなりのところまで行くと思われる︒山 水画式はおそらく宋の韓拙の﹁山水純全集﹂あたりを追うものでと
@ の日時は略宝暦頃と推定できる︒
﹁ 閑
R
李用雲に墨竹を学んだという︒
凌 岱 が 漠 源 に つ い た の は 宝 暦 五 年
⑮ とした園習を示している︒ と近い︒この柳塘漁拐図にに﹁芥子園画伝﹂の醜刻も寛政元年1748 画橋梁法︑画舟揖法︑画人物法などは懇切で便利であったろう︒因 りたてて言う程の内容は持っていない︒ただ第三冊の画亭謝寺観法︑
限っていえば我が化政期の文人画の気分に近いとは橋本氏の意見で
ある
︒
白文
方印
︑
李用雲︑竹図︑紙本墨画︑軸︑90.0
x
37
. 0︑随安﹁李用雲印﹂
﹁大
騰﹂
朱文
方印
︑
﹁山中人饒舌﹂は伊海の山水と李用
雲の墨竹を清商中最も代表的なものとし︑建部凌岱は牝瀾に山水を
1755であり︑竹田は﹁山中人饒舌﹂の巻頭に十余年前に録する所と
いう︒文化十年から洲れば寛政・享和の末年にあたる︒もって来舶
大鵬︑蝦図︑絹本墨画︑軸︑99.7
x
36.4︑墨仙
筆︑
﹁正
鱗﹂
朱文
円印︑﹁大鵬﹂白文方印︑﹁閑中日月長﹂白文方印︒墨竹図︑絹本墨
画︑
軸︑
104.0 X
43
: 0
︑支那咲翁︑﹁正鮨﹂朱文円印︑﹁大鵬﹂白文方
印︒風竹図︑紙本墨画︑軸︑124.0
x
56.0︑生来本是凌雲気︑未許礁郎作釣竿︑支那咲翁︑﹁大鵬之印﹂朱文方印︑﹁釈氏正鱚﹂白文方
印︑﹁閑中日月長﹂白文方印︒雪竹図︑絹本墨画︑軸︑109.5
x
34.3支那咲翁鵬筆︑﹁大鵬之印﹂朱文方印︑﹁釈氏正鮨﹂白文方印︑
中日月長﹂白文方印︒雪竹図︑絹本墨画︑軸︑
11
3.
5
x
34.7︑支那
咲翁鵬華︑﹁正縦﹂朱文円印︑﹁大鵬﹂白文方印︒雪竹石図︑絹本墨
画︑
軸︑
108.0
x
32.3︑咲翁鵬筆︑﹁正銀﹂朱文円印︑﹁大鵬﹂白文方@
印︑﹁閑中日月長﹂白文方印︒蘇鉄図︑紙本嬰画︑104.0
x
47.1︑支﹁釈
氏正
鮨﹂
朱文
方印
︑
那咲翁鵬筆︑﹁大鵬之印﹂白文方印︑
日月長﹂白文方印︒大鵬︑字正蜆︑号咲翁︑墨仙︑俗姓王︑泉州府
晋江県人︑康熙六十一年1722来日︑全厳に嗣法︑延享二年1745黄槃
第十五代をつぎ︑寛延元年1748保寿庵に退席︑宝暦八年1758第十八
代に再住︑明和二年1765
退席
す︒
.二
十ニ
オで
来
H
し五十余年︑その間竹の荒々しい筆致︑浪品の川い方︑圭角的な岩の表現などに歴然
王古山︑渓亭閑話図︑統本淡彩︑98.5
x
28.8︑乾隆辛己1761春二月
T古於崎山客館︑王古山﹁王古山印﹂白文方印︑﹁美玉氏﹂朱文方
印︑題識により来舶人であるが︑画史等に見えない︒来舶時は宝暦
十一年︑蕪村四十六オ︑大雅三十九オである︒この比蕪村は丹後か
ら都へ帰って春星落款を川い沌体を追求しており︑大雅も漸く自己
の画風を確立しつつあった︒本図にはこれらの我国南画と照く程共
通した惑覚を示している︒日本の画かと
I I J
心える程軽淡でありかつ代
緒と藍の色彩が美しい︒筆法はやや祖放で満幅に動きが感じられ︑
中国では伊学九や江稼圃にみられる乾隆様式よりやや古いものの伝
統をひくものと考えられる︒
西園
方済
︑
方済︑松厩図︑絹本設色︑軸︑108.1x 30.1
︑西
園方
済︑
﹁方
斎﹂
白文方印︑﹁巨斎﹂朱文方印︒窟士山襄景図︒絹本水墨︑軸︑
58
.7 X
85.9︑西園方済写︑﹁方済﹂白文方印︑﹁巨斎﹂朱文方印︒梧桐跛図
絹本設色︑軸︑97.0
x
40.5︑ 秋 亭 余 秘 合 作
︑
﹁ 方 斎
﹂ 白
五六
﹁閑
中
文方印︑﹁巨斎﹂朱文方印︑﹁余秘氏﹂白文方印︑﹁秋亭﹂朱文方印︒
方済︑字巨斎︑号西園︑安永九年1780安房国に漂着︑海上を長崎に
送還されたという︒又安永元年1772の来日で清商との伝もあるが︑
画風からみて職業画家であろう︒余秘は字維嶽︑号秋亭︑呉県人︑
写真花弁を能くした︒花舟は尤も雅静の致ありと称せられ︑徐煕不
伝の秘を得たりともいわれた︒︵﹁国朝画識﹂︑﹁歴代画史彙伝﹂︶乾
隆後半の作家と思われるが来舶人かどうか明かでない︒唯︑余秘の
款署に﹁秋亭余秘□印文﹁内廷供奉﹂朱文がある︒浅野梅堂の
﹁漱芳閣書画記﹂に水墨花鳥図があり︑嘉慶己卯1819の記年があ
る︒方済の富士山図については﹁古画備考﹂巻二十五の方西園の項
に収める﹁理斎帰路日記﹂に次のようにいう︒
船一艘戻州へ漂着せし事あり︒その比に来商せる唐人は︑猶長崎へ
いたる者︑かの漂着せし唐人は︑初て日本の富士を見て︑甚だよろ
こびしといふ︒彼船に乗渡りし方西園といへる者︑画を善くせり︒
よりてまのあたり︑富士を写して︑国に帰れるに︑人々競て富士の
図を乞り︒依て今に方西園が富士は人々珍重するなり云々﹂︒続い
て次の様に記している︒理斎は中国へ漂流した人で︑彼地で方西園
の富士が賞翫されるのをまのあたりにみた︒我国でも中国の名山勝
跡の図は大層よろこばれる︒谷文晶が模写した﹁漂客奇賞図﹂とい
うものがあるが︑これは方西圏が房州から崎陽へ護送される途中の
真景図であり︑山水画の手本としてよいだろう︒近来京都画師原在
中のかいた富士山の写真図には宝永山がかかれてあったが︑これは
橋本
コレ
ショ
ンの
来舶
画人
関係
資料
﹁安永の比にや︑唐
五七
後者に 東海道の西方より見てかいたものであり︑東海道の東方︑江戸より箱根あたりでみると宝永山はみえず︑富士山は東方より望むところを写すべきである︒山水四君子図などはあまりに画きすぎると却って品格がなくなる云々︒谷文晶の﹁漂客奇賞図﹂には跛文があり次
﹁清人方済︑字巨川︑号西園︑安永甲午漂着房州︑
官令遣還本国︑海路至長崎︑僅三千里︑西園乃写其間勝境数十名︑
此巻是也︑予嘗覧其画︑頗多任意︑排置非規矩之守︑此巻緻密精巧︑
小心所成︑大異干尋常所有者︑予故愛而幕刻︑顔日漂客奇賞図︑寛
政二年1790
庚戌
一︱
一月
=一
日︑
文晶
識﹂
理斎というものの話はできすぎており︑文晶の﹁漂客奇賞図﹂に
なっ
た︒
も疑問があるが︑方済が富士を描いたことは遺品に徴して明らかと
﹁漂客奇賞図﹂は全部で二十景あり︑富士山図はどういう
訳か周州上関と長州下関の間に挿入されている︒そしてこの図上に
は方西園の題識があり次のようにいう︒﹁余申夏遊崎︑問富士︑一
山雲峰高聟︑自冬狙夏︑積雪長存︑清輝天碧︑弯榮青翠︑心襄景仰︑
不意午冬復再遊崎之︑興風軽揖失︑涼至安房︑廻悼之間︑遥見霊岳
盤址干中天︑層密廻重於愴海︑始信人之不謬︑因図其概︑以訊大方︑
庚子︵安永九年1780)秋日西園方済題﹂文晟は安永三年の漂着とい
い︑方済は申夏つまり明和元年1764の米日をいう︒渡辺秀実の﹁長
崎画人伝﹂では安永元年来日となっている︒﹁漂客奇賞図﹂の富士
の山形は単峯であり︑﹁富士山真景図﹂の方は三峯である︒
は神社や鳥居が描かれ︑しかも社殿は中国の道院風の楼閣になって の
よう
にい
う︒
おり︑富士を拝する人物も点々と描かれた旅人たちも二本差しに描
いてある︒おそらく長崎に落ちついてからか︑帰国してからか胸中
の景を基にして出来上ったものであろうが︑富士だけが特立し自然
・写実を超えたものを感じさせる︒
方済の本質については森島長志の﹁槃禰腔話﹂︵天保元年1830
頃 ︶
に次のように記されている︒﹁往年江戸ノ司馬江漠ノ西遊旅談︵西
遊旅諏︑五冊︑寛政六年1794夏︑江戸春波楼刊︑駿河国久能山東照
宮図が問題となり絶版︑成瀬不二雄氏﹃司馬江漢﹄昭和五十二年︑
集英社による︶トカ言ヘル草子ヲ見クリシニ︑程赤城卜云ヘル者浙
江ノ乍浦卜云フ所ノ人ニテ十五年以前ョリ長崎二来ル︒又方西園ト
云フ者ハ画ヲ好ミ八九年以前︵江漢の西遊︑長崎旅行は天明八年か
ら寛政元年にかけてである︶ョリ渡海ス︵安永九年1780の来日を指
すか︶︑福建ノ人ナリ︒﹂又その身分及び師承については︑﹁交易ニ
疎ク好ミテ画ヲナス︑多クハ水墨ニシテ著色ナシ︑其ノ師ナリト云
フ周西山名ハ選︑此ノ一人ハ北京ノ産ニシテ遊歴ニテ南京二留レリ︑
頃日崎港二至ル︑此ノ者一人ハ文雅ノ者ニテ能ク書画ヲナス︑百日
ヲ過ギズシテ帰帆ス︑官ヲ避ケテ来ル者力﹂とあり︑方済の本貫を
示した作品は未見︒呉県の人余秘との合作からみて︑呉県人の可能
性もある︒結局方済の来日は明和元年︑安永元年︑同一一一年︑同九年
ごろに恒ると考えられる︒我国に遣品は比較的多い︒︵谷文批﹁涼
客奇賞図﹂は東京芸大本と京都書陣文華堂本とあるが︑偽托のおそ
れがあるとは橋本説である︒又︑理斎帰路日記に云う文章は﹁近世 名家画談﹂安西雲煙︑天保十五年1844ーに方西園富嶽を写せし事と
して図入りで載せられている︒︶
R張嵐︑幽庭竹鞄図︑紙本墨画︑軸︑
11
5.
0
x
48.0︑捉知政之余情︑幽庭竹豹者慰聴朝之少暇︑乾隆丙午1786
春一
一月
=一
日︑
古杭張秋谷写於崎陽客舎︑﹁張昆﹂朱文方印︒
色張宰︑梅図︑紙本墨画︑軸︑138.0
x
35.0︑空庭一樹影横斜︑玉疫香寒領歳華︑解道広乎心似鉄︑古米先已賦梅花︑西冷釣徒張宰︑
﹁張幸﹂白文方印︑﹁西冷釣徒﹂白文方印︒張嵐︑字秋谷︑張幸︑
字秋殻︑号西冷釣徒︑杭県人︒両者は画風から見ると別人だが︑同
一人として中年に疏球・日本に遊び︑帰国後専ら画学を研究︑山水
を雲林に蘭竹を梅道人に倣い︑晩年花舟を憚南田から入手︑墨梅は
奨石山農の法を得たともいう︒名号の差異については若年・壮年に
昆・秋谷︑晩年に宰・秋穀になったというが︑中国に於ては小名の
画家ゆえ︑決め手となるような資料がない︒同一人説を唱える一人
﹁歴
代画
史彙
伝﹂
に戸田禎祐氏がある︒
に関する一考察ー﹂︶それによるとまず乾隆・嘉慶の画人をのせる
﹁墨香居画識﹂︑道光七年1827の﹁画林新詠﹂︑道光二十年1840の
は張宰・秋殻をのせ︑咸豊二年1852の﹁墨林今 ︵国華八九一号﹁張幸と張毘ー来舶清人画家
話﹂になってはじめて張嵐は張幸の初名であるとし︑しかも前者を
参酌して述べている︒ところが秋谷の方は呉鎖・陳淳風の草草たる
水墨花竹であり︑秋穀は憚南田風の濃彩細密な花舟画を作る︒画風
の上から別人説を唱えたのは浅野梅堂である︒
︵﹁
漱芳
閣書
画銘
心
五八
間室茶燻者
R
どう説明するにしても同一人の手に成ると考え難い︒ 三 録﹂︶青木南湖の﹁西滸自得﹂によれば秋谷は天明八年︵乾隆五十 年1788)に帰国している︒南湖は帰国寸前の秋谷にあい︑同席
した費晴湖と師弟関係を結んだ︒ところが秋穀の生年は乾隆九年
1744で︑記年のある作品は嘉慶年間のものばかりといってよい︒梅
堂が別人説をとったのは秋谷・秋穀の年代が重なると考えたからだ
が︑実際は秋谷画は天明年間に分布し︑秋穀画はそれ以後というこ
とになる︒画風の変化については︑秋谷が貿易商かそれに近い仕事
に従事していたこと︑日本での中国画人や中国画への関心の深さ︑
特に沈鈴の名声の高さをまのあたりにしたことなどから︑殆んど商
業政策といってもよいような考えで︑水墨花舟画から濃彩花舟へと
画風を変化させたのではないかという︒沈鈴も帰国後多くの作品を
日本に送りつづけたし︑張宰の弟子顧洛の作品が日本で珍重された
が︑これは張宰の対日ルートにのって輸出されたのではないかとい
う︒梅堂の別人説に対しては︑秋谷画へのきびしすぎる批判の眼
︵来舶画人一般に対しても︶が生じる一方︑中国画としての秋穀画
への過大な賛辞があって︑梅堂にはどうしても同一人には映らなか
ったのではないかといい︑いずれにしても梅堂の中国に対するコン
プレックスの表れだと考える︒筆者のみるところ︑画風については
費晴湖︑佑友仁山水図︑絹本淡彩︑軸︑89.0
x
36.3︑佑米
友仁
︑
於崎陽山館清遊閣︑時丙辰1796夏仲︑苔渓費晴湖︑﹁費肇陽印﹂朱
文方印︑﹁字得天号晴湖﹂白文方印︒渓江独釣図︑紙本水墨︑軸︑
橋本
コレ
ショ
ンの
来舶
画人
関係
資料
天 る ︒
五九
3'
8.
5
x
58.5︑海
呼山
微ヰ
﹄而
隠見
︑江
山厳
属而
蛸卓
︑渓
山窃
究而
幽深
︑
塞山童頼而堆阜︑費晴湖︑﹁睛湖﹂白文方印︒西湖諷影図︑絹本淡
彩︑
軸︑
97.5
x
23.9︑一
葉扁
舟両
一一
︳客
︑載
為煙
雨過
西湖
︑古
越費
暗
湖井題︑﹁得天氏﹂朱文方印︑﹁姓湖﹂朱文方印︒先に挙げた﹁費漢
源山水画式﹂の序文は乾隆五十九年1792に長崎で書かれたが︑佑米
友人山水図は寛政八年1796の作︑佑米友仁に関しては﹁屠赤瑣々
録﹂︵竹田︑天保元年1830)
巻一
一一
に次
の如
く記
す︒
﹁嘗
て費
晴湖
の画
を見る︒題して云︑余幼時即有山水之癖︑毎遇名家墨蹟︑逢為臨拳︑
猶嗜好米画︑而未見真蹟為恨︑途丁酉歳1777︑余舅父任平陽太守︑
随往任所︑舅父亦性癖山水︑所蔵唐宋元明歴代名家甚富︑余因得朝
夕飽観︑梢裕胸中茅塞︑弦以董北苑米襄陽筆法合之︑耕霞使者費晴
湖︑此等の題辞を見れば米の真蹟を見しと思われる︒﹂戸田禎祐氏
は松平楽翁の﹁甲子夜話﹂を引いて純然たる貿易商であったことを指摘して居る。(寛政一―-•四年1791,1792)春木南湖の「西源日簿」
により天明八年1788には張秋谷と共に長崎にあった︒従って乾隆後
半の人で特定の師受はなく素人に近い画家であることが依測され
R江泰交︑緑蔭読書図︑紙本水墨︑軸︑93.6
x
26.5︑乙丑︵嘉慶十年1805)夏日︑稼圃︑﹁江大来印﹂白文方印︑﹁稼圃﹂朱文方印︒
米法山水図︑紙本墨画︑軸︑179.5
x
86.5︑ 瀧 墨 作 嵐 気 太 華 連 花 湿 稔 路 知 逢 人 椴 椴 秋 濤 急 石 涼 響 浅 瀬 姻 曲 弄 空 明 崖 彩 翠 簡 聞 鶏 鳴 莫 疑 漢 湘 雨 飛 口 罷 浮 樹 匹 心 攪 化 暗 溜 太 古 趣 破 此 瑕