第1回アジア競技大会(1951 年)への日本の参加経緯
Events leading to Japan’s participation in the First Asian Games in 1951
田 原 淳 子*,池 田 延 行*,波多野 圭 吾**
Junko TAHARA*,Nobuyuki IKEDA* and Keigo HATANO**
Ⅰ.研究の目的
第二次世界大戦における敗戦によって、日本の 競技連盟(NF)の多くは国際競技連盟(IF)か ら除名された。その後、組織的にアメリカ本国と の交流を積極的に行なった水泳やレスリングなど の競技を皮切りに、NFは徐々にIFへの再加盟を 果たしていった(田原ほか、2016)。こうした経 緯を経て、日本が戦後初めて参加した国際競技大 会は、1951 年にインドのニュ ーデリーで開催さ れた第 1 回アジア競技大会(以下、「第 1 回アジ ア大会」と略す)である。この大会は、1948 年 第 14回オリンピック競技大会(以下、「ロンドン オリンピック」と略す)では果たせなかったオリ ンピック出場への願いを 1952 年ヘルシンキオリ ンピックへとつないだ重要な大会である。
当時、日本はアメリカの管理下に置かれ、アメ リカの日本に対する民主化と非軍事化の方針のも とで多方面にわたり大きな変革がなされていた。
この時代に、日本はどのようにして国際大会への 復帰を果たし得たのだろうか。それがスポーツ界 のみのネットワークで成し得たとは考えにくい。
そこで、本研究では、日本国内におけるスポー ツと政治の関係、第二次世界大戦前後の国際関係 に着目しながら、日本が第 1 回アジア大会に参加
する経緯を明らかにすることを目的とした。これ により、日本が戦後初の国際競技大会出場を実現 した際の国内外における道筋を明らかにすること ができる。この大会はまた、日本がその後、国際 競技大会に参加し、開催を準備していく上での基 盤になった大会であると見ることができよう。本 研究は、これまでの日本のスポーツ史研究があま り究明してこなかった戦後のスポーツと政治の関 係の原点を照射する意義をもつと考えられる。
Ⅱ.研究の方法
本研究が対象とした期間は、日本が第1回アジ ア大会についての通知を受け取った 1950 年 2 月 25 日から大会開催日(1951 年 3 月 4 日) までと した。主たる史料は、日本体育協会編(1951) 『第 一回アジア競技大會報告書』日本体育協会発行を 用いた。同報告書に掲載された関係者の報告文お よび実行委員会議事録(全 19 回)から、特に以 下の内容について整理し、検討を行った。
1) 日本体育協会と総司令部民間情報教育局
(C. I. E.)とのやりとり
2)日本体育協会と政治関係者とのやりとり 3) 日本体育協会と第 1 回アジア大会関係者と
のやりとり
* 国士舘大学体育学部(Faculty of Physical Education, Kokushikan University)
** 国士舘大学体育学部附属体育研究所
(Institute of Health, Physical Education and Sport Science, School of Physical Education, Kokushikan University)
AND SPORT SCIENCE VOL.35, 51-55, 2016
報告書(体育研究所プロジェクト研究)
4)第二次世界大戦の影響による日本の参加に 否定的な国との関係
5)その他の特記すべき事項
上記の事柄について年表にまとめ、論点を整理 し、考察を行った。
Ⅲ.結果と今後の課題
本研究の結果、以下のことが明らかになった。
1)アジア大会の開催経緯と第1回アジア大会の 概況
アジア大会に先立って第二次世界大戦以前に開 催されていたアジア地域の総合競技大会は、日本 も参加していた極東選手権大会(1913〜1934 年)
である。戦後にアジア大会が開催される直接的な 契機になったのは、第二次世界大戦後初の開催と なったロンドンオリンピックであった。このとき にアジアから参加した 6 カ国(インド、フィリピ ン、朝鮮、中華民国(現在のチャイニーズタイペ イ)、セイロン(現在のスリランカ)、ビルマ(現 在のミャンマー))の代表が集まり、4 年に一度、
アジアの総合競技大会を開催することで合意した のである。翌 1949 年 12 月にアジア大会設立総会 がインドのニューデリーで行われ、同大会を主催 する組織としてアジア競技連盟(AGF) が設立 され、「アジア競技大会憲章」が定められた。こ のときに中心的な役割を果たしたのはインドの国 際オリンピック委員会(IOC)委員ソンディであ った(日本オリンピック委員会)。
第 1 回アジア大会は、1951 年 3 月 4 日から 11 日まで、インドのニューデリーで開催された。参 加国は、11カ国(アフガニスタン、イラン、イン ド、インドネシア、日本、ビルマ、ネパール、フィ リピン、シンガポール、セイロン、タイ)、出場 選手総数は計489名であった(Olympic Council of Asia)。アジア競技大会では、主競技を陸上競 技と水泳及び芸術競技(建築、絵画、彫刻)とし、
その他の競技については、組織委員会の承認をも
って実施されることになっていた。第 1 回アジア 大会の実施競技は、7 競技(陸上競技、水泳、蹴 球、バスケットボール、自転車、ウエイトリフティ ング、芸術競技)であった(日本体育協会、p.7)。
2)日本の大会参加について
実施された 7 競技のうち、日本が参加したのは 5 競技(陸上競技、蹴球、バスケットボール、自 転車、ウエイトリフティング)であった。水泳に ついては、大会時期は日本ではオフシーズンで参 加選手が十分な練習をしたトップコンディション ではないことが他の参加国に対して非礼であると の見解を同連盟が示したことから、また芸術競技 については日本に統括する団体がないことから参 加を取りやめた。
大会への出場選手については、参加が決定した 競技のNFにおいて選考がなされた。
渡航申請者のうち、北沢清(自転車監督)は教 職パージ
注)のために、 また、 鈴木義博(陸上)
及び松永一夫(蹴球)は第二次世界大戦において 憲兵将校(士官)であったためパスポートが交付 されず、渡航することができなかった。蹴球では 松永に代り、和田津苗が参加した(日本体育協会、
p.22、49)。
日本の参加者数については、出典により人数に 齟齬が見られた。日本リンピック委員会によれば、
合計84名で、その内訳は役員19名、男子選手58名、
女子選手 7 名であったと記載されている(日本オ リンピック委員会)。一方、日本体育協会による 大会報告書によれば、派遣団は二陣に分かれて渡 航し、 合計人数は 88 名、報道関係者を除くと 79 名になる。 第一陣は浅野圴一団長引率のもとに 44名(蹴球 15、バスケットボール 12、自転車 5、
ウエイトリフティング 2、本部 5、報道 5)が 2 月 25 日から同月 27 日に、第二陣は松沢一鶴団長 の引率により 44 名(陸上 34、 蹴球 1、 本部 5、
報道 4) が 2 月 28 日から 3 月 1 日に、 それぞれ
羽田空港を出発し、途中、沖縄、バンコックを経
由してニュ ーデリーに到着したと記されている
(日本体育協会、p.22)。一方、総司令部が渡航を 許可した人数は 77 名との記載もあり(日本体育 協会、p.22)、参加人数については、さらに慎重 に精査する必要がある。
3)第二次世界大戦の影響から日本の参加に否定 的な国との関係
フィリピンは、第二次世界大戦前までは、日本 とともに極東競技大会の主導権を握った国家であ ったが、同戦争により対日感情が悪化していた。
そのため、日本が第 1 回アジア大会に参加する意 向であることがアジア諸国に伝わると、フィリピ ン体協代表のヴァルガスから日本の参加に賛成で きない旨の意見表明がなされた(日本体育協会、
p.19)。
一方、国際陸上競技連盟総会に出席したフィリ ピンのイラナンは、大会準備の遅れからインドで 第 1 回アジア大会を開催するのは困難であると述 べた。これを聞いた日本側は、もし会場がフィリ ピンに移された場合には、当地の反日感情から日 本選手の身の安全が保証できないとして、日本の 参加は難しくなるとの見方を示した(浅野、p.6)。
また、第 1 回アジア大会への渡航には、当初、
フィリピン航空を二機チャーターする予定であっ たが、時局の関係から困難になり、他社と折衝を 始めなければならないといった支障が生じた(日 本体育協会、p.26)
4)アジア競技大会における日本の立場
アジア大会の創設が話し合われた1948年ロンド ンオリンピックの際の会議には、日本は参加して いなかったものの、アジア競技大会に日本は好意 的に受け入れられたと見ることができる。1950年 7 月31日にニューデリーで開催されたAGF第 2 回 評議員会において、日本の参加が条件付で承認さ れた。その条件とは、IOC の方針に従い、NF が IF に復帰した競技のみをアジア大会においても 参加可能な競技としたことである(松沢、p.15)。
この時点で、日本は AGF の正会員には承認され
ていなかった。日本が正会員に承認されたのは、
1951年 3 月 3 日に第 1 回アジア大会に合わせて開 催された第 3 回評議員会においてであった。前述 の松沢によれば、閉会間際に議長のパテアラ候よ り提案され、「満場破れるような賛成拍手のうちに 可決され」たと記されている(松沢、p.16)。同年 3 月 10 日に開催された評議員会の第 3 セッショ ンでは、役員(会長・副会長)に続く実行委員の 選出において、日本はセイロンの推薦演説を受け、
投票の結果、最高点で選出された(他の実行委員 は、インドネシア、インド、アフガニスタン)。
5)スポーツ国会議員連盟の関与
第 1 回アジア大会への派遣にあたり、スポーツ 国会議員連盟が果たした役割は大きい。特にGHQ や政府と体協との橋渡しを行い、体協側からもそ れを期待されていたと言える。
フィリピンが日本のアジア大会参加に不賛成で あるとの情報が入ると、体協はスポーツ国会議員 連盟の協力を得て、打開策を検討した。これを受 けて、同議員連盟の代議士(川崎秀二、河野謙三、
渡辺良夫)は、1950年 3 月 3 日、C. I. E. 局長ニ ュージェント中佐を訪問し、日本の参加について 協力を依頼し、併せてフィリピンへの対応につい ても懇請した。
国会においては、 川崎代議士が同年 3 月 9 日の 第 8 回予算委員会で吉田茂内閣総理大臣に日本の 第 1 回アジア大会参加について政府の協力支援を 求め、理解を得た。川崎らは、大会への派遣促進 の決議案を作成して各派の賛成を得て、第 9 回国 会に提案した。スポーツ国会議員連盟は、12月 7 日衆議院本会議において第 1回アジア大会選手団 派遣についての支持決議案を上程し、可決させた のである。(日本体育協会、p.22-24)
渡航の前には、スポーツ国会議員連盟招待歓送
会が、1951 年 2 月 22 日に衆議院第二会館で開催
された(日本体育協会、p.32)。 派遣団には、 ス
ポーツ国会議員連盟からの強い要望により、小西
英雄(自民党)が参加し、ホッケー見学員として
広堅太郎が同行した(日本体育協会、p.22)。
以上のように、体協とスポーツ国会議員連盟と の結びつきは極めて強固であった。
6)派遣費をめぐるスポーツと政治の構造 選手団の派遣費は全体予算が当時の 2,600 万円 という厖大な金額になったため、体協は予算総額 の約半額を国庫補助による方針を定め、文部省を 通じてその獲得に努めた。残額については、出場 選手選出の所属団体、各都道府県体育協会、及び 一般寄附金の三本立とした(日本体育協会、p.21)。
国庫補助の獲得のためには、政府や行政側の理解 と協力を得ることが不可欠である。そこには、ス ポーツが政治に頼らざるをえない構造が存在し、
スポーツ国会議員連盟がその橋渡し役として活躍 する仕組みが出来上がっていたと考えられる。
1951年 2 月21日、体協において第 1 回アジア大 会日本選手団の結団式が行われた。そこでは、秩 父宮御下賜旗授受、三笠宮殿下御言葉に続き、以 下の 6 名が祝辞を述べた(日本体育協会、pp.32- 33)。①C・I・E ニュージエント中佐、②E・S・
S マーカット少将、③内閣総理大臣、④文部大臣、
⑤国会スポーツ議員連盟会長、⑥スポーツ振興会 議議長。これらが日本選手団の第 1 回アジア大会 派遣に重要な役割を果たした組織の顔ぶれである といえよう。
以上の結果から、今後の課題として浮かび上が ったのは以下のことである。本研究の主たる史料 とした日本体育協会編『第一回アジア競技大會報 告書』は、優れて詳細な報告書であるが、日本か らの視点で描かれていることが多かった。例えば、
日本が参加しなかった芸術競技や他国の参加者数 などの記載がないなど、大会の全貌を知る上では
課題が見られた。今後は、こうした欠落部分を埋 める情報を他の国や組織、外国メディアなどの史 料から収集し、第 1 回アジア競技大会の全貌をよ り広く俯瞰して、その意義を明らかにしていきた い。
本研究の一部は、平成28年度国士舘大学体育学 部附属体育研究所の研究助成により実施された。
注及び引用・参考文献
注) 教職パージ:教員レッド・パージとも言う.1949(昭 和24)年,共産主義の拡張を警戒するGHQの影響 のもと,全国各地で共産主義者やその同調者の教員 が罷免・解雇された(函館市史デジタル版).
・ 浅野圴一(1951) 第一回アジア競技大会について.
第一回アジア競技大會報告書, 日本体育協会,pp.5- 10.
・ 函館市史デジタル版,北海道及び函館の教員レッド・
パージ.http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/
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(2017年 3 月17日閲覧)
・ 川崎秀二編(発行年記載なし)スポーツ議連二十五 年史.スポーツ振興国会議員懇談会.
・ 松沢一鶴(1951)アジア競技連盟評議員会の報告.
第一回アジア競技大會報告書,日本体育協会,pp.12- 18.
・ 日本オリンピック委員会,アジア競技大会,日本の 参加状況(夏季)http://www.joc.or.jp/games/asia/
sanka/summer_asia1.html (2017年3月17日閲覧)
・ 日本オリンピック委員会 , アジア大会物知り事典.
http://www.joc.or.jp/games/asia/history/ (2017 年 3 月17日閲覧)
・ 日本体育協会編(1951)第一回アジア競技大會報告 書.日本体育協会.
・ Olympic Council of Asia, 1st Asian Games. http://
www.ocasia.org/game/GameParticular.aspx?
CTueswu3duaJ2ChZBk5tvA==(2017年 3 月17日閲 覧)
・ 田原淳子・千葉洋平(2015)日本の競技団体におけ
るスポーツ国際交流史 ─第二次世界大戦前後のオ
リンピック競技大会競技を中心に─.国士舘大学体
育研究所報,Vol.34:65-68.
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